かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

ソウルの旅[201704_03] - 拷問のために最適化された建物と「朴鍾哲記念展示室」

前回のエントリーの続きです。

 

gashin-shoutan.hatenablog.com

仁川駅から首都圏電鉄1号線(ソウル地下鉄1号線、Korail京仁線)でおよそ1時間あまり、着いたのはKTXも発着するソウル駅のひとつ手前、南営(ナミョン)駅。ソウル駅と龍山(ヨンサン)駅という2大ターミナルに挟まれた地味な駅ですが、ここに今回のソウルの旅最初の目的地があります。
1時間ちょっと前の仁川はうす曇り、近代建築巡りではときおり晴れ間も覗いていましたが、ここ南営は強い雨。傘を差しつつ駅を東側に出て1号線沿いに南(龍山駅方向)へ3分程度歩くと、こちらの建物が見えてまいります。

 

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警察庁人権保護センター」と呼ばれるこの建物の4階に、ソウルでの今回最初の目的地「朴鍾哲記念展示室」があります。

 

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朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士とは、いまをさかのぼること30年あまり前の1987年1月14日に警察の拷問によって死に至らしめられた、当時21歳、ソウル大学校人文大学言語学科の3年だった人物です。
1987年1月13日の深夜、ソウル市内の下宿にて治安本部対共分室の捜査官6人により拘束。指名手配中となっていた大学の先輩の行方を聞き出すべく「南営洞対共分室」(남영동대공분실:ナミョンドン・テゴンブンシル)へ連行され、捜査員による電気や水などを用いた激しい拷問を受けた結果、死に至らしめられるという事件(朴鍾哲拷問致死事件)の犠牲となりました。

事件発覚後、当時の治安本部長が会見にて「机を『タッ』(탁:強く叩いたときの擬音語)と叩くと『オッ』(억:驚いたり倒れたりするときに出す声)と声を上げて倒れた」という到底納得できない釈明をしたうえ、遺体の解剖で拷問と思しき痕跡がいくつも見受けられたにもかかわらず家族の許可も得ぬまま火葬に付し、さらには拷問に携わった捜査員のうちわずか2名の処分だけで幕引きを図ろうとしたことなどから、この事件をきっかけに市民たちの権力への不信は急速に高まります。

 

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朴鍾哲烈士の死、そして同年4月13日の全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)大統領による「護憲措置」(大統領間接選挙を定めた現行憲法の維持)談話は、学生をはじめとする市民たちにより同年(1987年)6月10日に本格始動する全国的な反政府デモ「6月民主抗争」(6월 민주항쟁)の火種となり、ついに6月29日、盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)次期大統領候補から大統領直接選挙制への改憲実施を含めた時局収拾案(6.29宣言)を引き出させ、勝利を勝ち取ることとなります。

 

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朴鍾哲烈士の人生と壮絶な死、そして6月民主抗争を「記憶」するため、加害者である警察が反省の意をこめて自らの所有施設、それも後述するように重要な意味を持つ建物の中に設けたこちらの展示室には、朴鍾哲烈士の遺品と6月民主抗争を解説するパネルを中心に展示されています。

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朴鍾哲烈士の略歴。1965年4月1日に釜山市西区峨嵋洞(アミドン)で生まれ、釜山恵光高等学校を卒業してソウル大学校に入学、人文大学(学部に相当)言語学科では同学科の学生会長を務めていました。労学連帯闘争に参加していた最中の1986年4月に清渓(チョンゲ)被覆労働組合の合法化要求デモで拘束され、同年7月には懲役10ヵ月、執行猶予2年の判決を受けています。ちなみにこの清渓被覆労働組合とは、劣悪な労働環境の改善を訴え1970年11月13日にソウル東大門の平和市場(ピョンファンジャン)にて焚身(焼身)した労働者、全泰壱(전태일:チョン・ティル、1948-1970)烈士の死をきっかけに設立されたものです。

 

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数ある展示物の中でも特に印象的なギター。朴鍾哲烈士が生前に愛用したものです。よく見ると無電源のクラシックギターエレキギターに改造したものだと分かります。

 

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朴鍾哲烈士が生前身に着けていた腕時計と死亡検案書、葬儀の際の喪章。

朴鍾哲記念展示室はここ「警察庁人権保護センター」4階の一角だけですが、ひとつ上の5階を訪れることで、この施設の見学は完成します。そのため、階段で階上へ登ります。

 

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5階。薄暗い廊下に緑色の鉄の扉が並ぶ、一転して殺風景なフロアです。
ここまでお読みいただいてお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、この「警察庁人権保護センター」の建物こそがかつて「南営洞対共分室」と呼ばれ市民たちに恐れられた施設であり、朴鍾哲烈士が殺害されたその場所です。その意味で「朴鍾哲記念展示室」の設置にふさわしい場所だと言えるでしょう。
そしてこの5階には、「調査」の名目で民主化運動の人士たちに拷問を加え自白を強要した現場である「調査室」が、現在もほぼそのままの姿で残されています。

その名に「対共」とあるように、本来この「南営洞対共分室」は朝鮮民主主義人民共和国の間諜(スパイ)や「パルゲンイ」(빨갱이:「アカ」)を取り締まるための施設でしたが、朴正煕(빅정희:パク・チョンヒ、1917-1979)・全斗煥の両大統領による軍事政権下では、民主化運動に携わる人々など反政府人士とされた人々を拘束・収容し、真偽にかかわらず政権側に好都合な自白を得ることを目的に拷問を加えるための場所として主に用いられました。

 

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朴鍾哲烈士のほか、新千年民主党やヨルリンウリ党民主党などの要職を歴任し、盧武鉉(노무현:ノ・ムヒョン、1946-2009)政権では保健福祉部長官を務めた金槿泰(김근태:キム・グンテ、1947-2011)氏もまた、1985年9月にここで23日間もの過酷な拷問を受けて自白を強要され(金槿泰民青連前議長拷問事件)、その後1987年まで服役させられています。写真はここ「警察庁人権保護センター」1階にあるパネル。

 

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廊下の両側に並ぶ薄暗いかつての調査室の中でただひとつ、煌々と電灯がともる部屋があります。
それがこの9号室。5階の9号室なので「509号室」とも呼ばれます。この部屋こそがまさしく、1987年1月14日に朴鍾哲烈士が拷問によって死に至らしめられた調査室そのものです。
9号室の内部は、朴鍾哲烈士が殺害された当時のまま保存されています。出入口にはアクリル製のパネルが一面に張られており、内部に立ち入ることはできません。
黙祷して、撮影を開始します。

 

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調査室の奥には浴槽があります。調査対象者の便宜のためではありません。水を張ったこの浴槽に無理やり顔を浸けて自白を強要する「水拷問」(水責め)の道具として設置されたものです。朴鍾哲烈士もこの水拷問によって命を落としました。

 

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調査室の壁面は、学校の音楽室でもよく見るような穴の空いた吸音壁となっています。もちろん、拷問を受ける調査対象者の悲鳴やうめき声が外部に漏れないようにするためです。

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この「南営洞対共分室」、現「警察庁人権保護センター」の建物は、拷問のために最適化されたと言っても過言ではないほど特殊な設計が随所に施されています。
この9号室もそうですが、5階の調査室の窓は調査対象者が脱出できないよう、すべて極端に狭く作られています。外観からもその異様さが見て取れるでしょう。

 

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写真は別の部屋で撮影したもの。狭さが実感できるよう、韓国の交通カード(日本のと同サイズ)を添えています。

 

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したがって部屋に入る光も制限され、点灯しない限り昼でも薄暗い状態となります。

 

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調査室の室内灯のスイッチはすべて部屋の外、出入口の横に設けられています。監禁された調査対象者は部屋の点消灯すらままならない状態だったわけです。

 

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廊下の天井はやや高めに作られています。拷問の主体である警察官の足音を響かせて恐怖感を与えるためとされています。

 

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廊下の両側に並ぶ各調査室の出入口は、互い違いに設置されています。そのため各調査室のドアを開けた先には、必ず正面に壁面のみが見えることとなります。これは別の部屋へ移動させられる調査対象者同士が偶然鉢合わせとなった際に合図を取り合うことを抑止するほか、調査対象者に不安を与える効果があるとされています。

 

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各調査室のドアは金属製で、緑色に塗られています。これは他フロアへ続く階段のドアも同じで、これらを含めすべてのドアが等間隔に配置されています。一見してどこが脱出口となるかを分かりにくくするためです。ドアスコープは一般的な住宅玄関のそれとは逆に、部屋の外側から内側に向けてのみ見えるようになっています。

 

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この建物の1階、正面玄関と反対側には勝手口のような扉があります。拘束された人々は人目を避けて、ここから建物内部へ連行されました。扉を入ったすぐ横には、調査室のある5階へ直行するらせん階段が設けられており、外観にもその輪郭が表われています。調査対象者が目隠しをされた状態でこの階段を引きずり登らされることにより、どのフロアに連れて来られたかの感覚を失うことを期したものです。

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1976年に5階建てのビルとして竣工し、1983年には6・7階が増築され現在の姿となったこの建物を設計したのは、韓国を代表する建築家のひとりである金寿根(김수근:キム・スグン、1931-1986)氏。
同氏の設計による建物は、有名どころではソウル蚕室洞(チャムシルドン)の「ソウルオリンピック主競技場」(1977年)や同苑西洞(ウォンソドン)の「空間(コンガン)社屋」(1971年)などがあり、1970年の大阪万博のパビリオンである韓国館も手がけています。鍾路(チョンノ)から退渓路(テゲロ)にかけてソウル旧市街を南北に貫く全長約1kmもの長大建築物「世運商街」(세운상가:セウンサンガ、1968年)も同氏の設計によるものです。
これらの優れた作品を残し世界的にも著名な建築家が時の権力に迎合し、これほどまで拷問のために最適化された建物を設計、形にしたという事実。国家権力による市民への拷問、殺害という許されざる過去とはまた異なる次元での戦慄を感じます。


警察庁人権保護センター(旧南営洞対共分室)4階にある「朴鍾哲記念展示室」、および5階の旧調査室の開放時間帯は午前9時~午後6時、土日は休館ですので注意が必要です。入場無料。最も近い首都圏電鉄(ソウル地下鉄)1号線の「南営」(ナミョン)駅からだと徒歩3分程度で着きますが、同4号線「淑大入口」(スッテイック)駅からでも徒歩8分程度で到着できます。
朴鍾哲記念展示室(警察庁人権保護センター)(박종철 기념 전시실(경찰청 인권보호센터):ソウル特別市 龍山区 漢江大路71ギル 37 (葛月洞 98-8))

1987年1月に国家権力により殺害され、その死が同年6月の民主抗争の火種となった朴鍾哲烈士。その生涯を記憶する施設を訪れたからには、どうしてももう1か所行かなければならない場所があります。
その場所へ行くために、南営駅前のバス停より7016番バスに乗車するのでした。

仁川の旅[201704_02] - 仁川旧市街の近代建築めぐり、博物館&実食のチャジャン麺三昧

前回のエントリーの続きです。

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ミョンウォルチッのキムチチゲを食べてお腹が膨れたところで、いよいよ街歩きをスタートします。
前回のエントリーでも書いたように仁川駅や駅前のチャイナタウンの一帯は仁川の旧市街であり、朝鮮時代末期から日帝強占期、西暦でいえば1880年代から1930年代にかけて建てられた近代建築の宝庫となっています。したがって少し歩くだけでいくつもの近代建築をはしごすることができるわけです。
以下、各近代建築の名称は韓国文化財庁または仁川広域市文化財名表記に基づくものであり、説明は主に韓国文化財庁ホームページの記述を参考としております。

 

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「仁川旧大和組事務所」。
1880年代末~90年代初頭築。こちらは仁川の日本租界地で唯一、韓国でも珍しい町家(店舗併設の住宅)造りの3階建て和風建築で、開港期から日帝強占期にかけて仁川港で漕運業(荷役業)を営んでいた日本人系の荷役会社「大和組」の建物だったものです。現在は1階にてカフェ「Cafe pot-R」が営業中。国指定登録文化財第567号。

仁川旧大和組事務所(인천 구 대화조 사무소:仁川広域市 中区 新浦路27番ギル 96-2 (官洞1街 17))

 

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「旧)仁川日本第一銀行支店」。
1899年築。日本人建築家の新家孝正(にいのみ・たかまさ:1857-1922)の設計により、全体的に後期ルネサンス様式を模して造られた建物です。建設に際し、砂利や石灰などを除くほとんどの建材を日本から運んできたとのこと。第一銀行は現在のみずほ銀行仁川広域市有形文化財第7号。

旧)仁川日本第一銀行支店(구)인천일본제일은행지점:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 89 (中央洞1街 9-2))

 

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「旧)仁川日本第18銀行支店」。
1890年築。当初は第十八国立銀行(1896年に株式会社十八銀行へ改称)の支店として建てられ、1936年には同支店の廃止に伴い朝鮮殖産銀行へ譲渡。光復(日本の敗戦による解放)後は韓国興業銀行の仁川支店やカフェなどを経て、現在は「仁川開港場近代建築展示館」として使用されています。次に紹介する「旧)日本第58銀行支店」と隣接。ちなみに十八銀行は現存します。本店がある長崎の方にとってはおなじみでしょう。仁川広域市有形文化財第50号。

旧)仁川日本第18銀行支店(구)인천일본제18은행지점:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 77 (中洞2街24-1))

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「旧)日本第58銀行支店」。
大阪に本店があった第五十八銀行(現みずほ銀行)の支店として建てられ、1892年開店。2階のバルコニーとドーマー(屋根についた窓)が特徴的なルネッサンス様式の建物です。光復後には朝興銀行仁川支店や大韓赤十字社京畿道支社として使用された後、現在は仁川市中区飲食業組合が使用。「旧)仁川日本第18銀行支店」と隣接。仁川広域市有形文化財第19号。

旧)日本第58銀行支店(구)일본제58은행지점:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 69-1 (中央洞2街 19-1))

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「旧日本郵船株式会社仁川支店」。
1888年築。仁川港開港からその海運業を独占していた日本郵船の支店建物。韓国に現存する近代建築でも古い部類に入るものであり、宗教施設や公共施設でない民間所有の建物としては稀有の存在とのことです。国指定登録文化財第248号。

旧日本郵船株式会社仁川支店(구 일본우선주식회사 인천지점 :仁川広域市 中区 済物梁路218番ギル 3 (海岸洞1街1-5))

 

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「仁川郵逓局」。
1924年築。仁川郵便局の建物として、当時流行していた折衷様式を簡素化して建てられたものです。1949年に仁川郵逓局へ改称、朝鮮戦争(1950~53)時に屋根の一部が破壊されたものの、その後改修されています。いまなお郵逓局(郵便局)として使用されていますが、仁川郵逓局は別の場所へ移転し、現在は「仁川中洞郵逓局」という名称になっています。仁川広域市有形文化財第8号。

仁川郵逓局(인천우체국:仁川広域市 中区 済物梁路 183 (港洞641))

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「仁川税関旧倉庫と付属棟」。
仁川税関の関連施設として100年以上前に建てられた煉瓦造りの建物で、仁川開港と近代税関行政の歴史を証明する港湾遺産となっています。こちらの建物だけはフェンスの中にあり、近づくことはできませんでした。ここと隣接する、昨年(2016年)に開業したばかりのKorail水仁線の新浦(シンポ)駅の地上出口は、これら煉瓦造りの建物と調和したデザインとなっています。国指定登録文化財第569号。

仁川税関旧倉庫と付属棟(인천 세관 구 창고와 부속동:仁川広域市 中区 港洞7街 1-47)

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「旧仁川海運株式会社仁川支店」。
1932年築。堂々たる4階建ての建物で、この規模の近代建築はここ仁川でも他に類を見ないとのこと。現在は財団法人鮮光文化財団の建物として使用されています。こちらは訪問(2017年4月)時点で国、仁川広域市いずれの文化財にも指定されておらず、偶然通りがかって知ったものです。

旧仁川海運株式会社仁川支店(구 인천해운주식회사 인천지점:仁川広域市 中区新浦路15番ギル 4 (中央洞4街 2))

 

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「内洞聖公会聖堂」。
1956年築。見晴らしのよい内洞(ネドン)の丘の上に建っています。元々は1890年に故ヨハン神父によってこの場所に建てられたカトリック教会ですが、朝鮮戦争(1950~53)で焼失したため、創建当時の基礎を補強代わりに「H」形鋼を用い再建したものです。なのでこちらの物件に限っては、近代建築という表現は該当しないかもしれません。仁川広域市有形文化財第51号。

内洞聖公会聖堂(내동 성공회 성당:仁川広域市 中区 開港45番ギル 21-32 (内洞 3))

 

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「旧)済物浦倶楽部」。
1901年築。当初は外国人の社交場「済物浦(チェムルポ)倶楽部」として建てられた2階建ての煉瓦の建物で、その後は日本帝国在郷軍人会や米軍将校クラブ、市議会など実にさまざまな用途を経て、2007年から現行のストーリーテリング博物館として運営。名称表記は「クラブ」(클럽:クルロッ)ではなく、日本式の「倶楽部」(구락부:クラップ)となっているところに注目。仁川広域市有形文化財第17号。

旧)済物浦倶楽部(구)제물포구락부:仁川広域市 中区 自由公園南路 25 (松鶴洞1街 11-1))

 

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「旧仁川府庁舎」。
1933年築。当時の仁川府(じんせんふ)の庁舎として建設されたモダニズム様式の建物で、光復後の1949年には名称変更により仁川市庁舎となり、そして1985年に仁川直轄市庁(当時)が新庁舎へ移転してからは中区(チュング)庁舎として用いられ、現在へと至ります。当初は2階建てでしたが、1964年に3階を増築。国指定登録文化財第249号。

旧仁川府庁舎(구 인천부 청사:仁川広域市 中区 新浦路27番ギル 80 (官洞1街 91))

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この「旧仁川府庁舎」、現在の仁川広域市中区庁舎の前には、日帝強占期の新築当時にこの界隈を往来していたであろう、人力車と人夫の銅像が建てられています。人夫の胸には、「人間のカ」という謎の文字が。人力車だからこうなったのでしょうか。面白いです。

 

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「仁川善隣洞共和春」。
1908年ごろ築。仁川港へやって来た中国人が料理店を開くため、ここ善隣洞(ソルリンドン)に建てた中庭型の中国式建物です。建設に携わった人々の中にははるばる山東省から呼び寄せた職人もいたとのこと。当初は貿易商たちに寝食を提供する場所でしたが、中国料理の人気上昇ともに飲食スペースが拡大していったそうです。この建物で1983年まで営業していた中国料理店「共和春」(공화춘:コンファチュン)は、中国の炸醤麺朝鮮人向けにアレンジした人気料理「チャジャン麺(ミョン)」(짜장면)の元祖とされ、伝説の存在となっています。国指定登録文化財第246号。

仁川善隣洞共和春(인천 선린동 공화춘:仁川広域市 中区 チャイナタウン路 56-14 (善隣洞 38-1))

 

以上、今回私が徒歩で巡った近代建築は全11件、内洞聖公会聖堂を除いても10件ですが、その所要時間はわずか1時間10分ほど。建物の外見を見て回るだけならば、1時間強でこれだけ多くの近代建築をはしごできるわけです。平均7~8分おきに目前に現れる近代建築。まさしく近代建築の宝庫。仁川すげえ。

念のため補足しておきますが、以上で紹介したような近代建築のうち日本人により建てられたもの、あるいは朝鮮半島のあちこちに残る日本家屋などは、その意図や役割にかかわらず日本による支配、収奪の一部であったことを決して見落としてはなりません。
私がこれらの近代建築を訪問したいと願うのは、そうした支配、収奪を「記憶」するものであり、そして光復後に朝鮮半島の人々が活用してきたことに価値があるからと考えているからで、それゆえに郷愁をも感じ得るものです。あくまで自分自身に対してですが、そうした事実を踏まえることを差し置いて郷愁を感じることは許されないとさえ考えています。

 

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タイルの壁画も色鮮やかな「仁川善隣洞共和春」の玄関部。こちらの建物には、現在は「チャジャン麺博物館」が入居しています。チャジャン麺の元祖たる共和春跡の用途として、これ以上ふさわしいものもないでしょう。
順路はまず2階から。玄関を入ってすぐ、建物の中央にある階段を登ります。

 

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1970年代から最近までの、市販の即席チャジャン麺(袋麺)の展示。これだけ見ても、いかに韓国でチャジャン麺が愛されているかが分かります。

 

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こちらは近年増えてきた、カップタイプのチャジャン麺の展示。一部は内容物まで展示されています。右上のロシア語らしき商品が気になりますね。

 

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共和春と思しき中国料理店でチャジャン麺を食べる家族。男の子の表情がすごい!

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チャジャン麺などを配達した料理店の岡持(おかもち)。韓国では一般に「鉄カバン」(철가방)と呼ばれています。かつては木製だったとのこと。

 

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1階は往年の「共和春」の厨房を再現した空間。
壁面にはチャジャン麺のレシピも。チャジャンソースは韓国食材店で入手できますので、韓国語の分かる方はチャレンジしてみてもよいかもしれません。

 

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現役当時の「共和春」の看板も展示されています。

こちら「チャジャン麺博物館」の開館時間は09:00~18:00、入館料は大人1,000ウォン(約100円)。展示パネルの日本語表記はタイトルだけですが、展示物は分かりやすいものが多いので楽しめると思います。この日は金曜日でしたが、私の直前には小学校(韓国では「初等学校」と呼ぶ)の児童たちの団体が訪れたりと終始にぎやかでした。

チャジャン麺博物館(짜장면박물관:仁川広域市 中区 チャイナタウン路 56-14 (善隣洞 38-1)。国指定登録文化財第246号)

チャジャン麺博物館を観覧したからには、お腹はすっかりチャジャン麺モード。しかもこの日は4月14日Twitterでは誰も突っ込んでくれなくてさみしかったです……)

 

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そんなわけで向かったのは、チャジャン麺博物館からわずか徒歩1分の距離にある中国料理店「新勝飯店」(シンスンバンジョム)。
開店20分前には到着。というのもこちらのお店、数あるチャイナタウンのチャジャン麺屋の中でも頭ひとつ飛び抜けた人気を誇り、11時10分の開店と同時にたちまち行列が形成されるため、開店10分前の11時ちょうどから待機票(整理券)を発行すると聞いたからです。よく見ると自動ドアの左上に「4人以下」「5人以上」それぞれの待機標番号の表示板がありますね。
実際、開店直前になると私を含め30名前後もの列が。どんだけ人気店ですか。

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11時ちょうどから待機票順に入店可能ですが、10分になるまで注文は取りに来ません。もちろんすでに満席です。
今回注文したのは、こちらのお店で一番人気という「ユニチャジャン麺」(유니짜장면:肉末炸醤麺)。「ユニ」とは豚挽き肉を意味する中国語「肉泥」の山東方言に由来し、豚肉や野菜を細かく挽いてチャジャンソースに混ぜたものを指すとのこと。そのため通常のチャジャン麺よりもなめらかで香ばしい味とされています。
基本は8,000ウォン(約800円)ですが、今回は迷わずコッペギ(곱배기:大盛)9,000ウォンを注文。朝食からまだ3時間弱なのに近代建築巡りでお腹はすっかりペコペコです。

 

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そして出てきたユニチャジャン麺。好みで味を調節しながら自分で混ぜ混ぜして食べられるよう、一般的なチャジャン麺とは異なりソースと麺がセパレートになって出てきます。麺の上には目玉焼きも。

 

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混ぜ混ぜして実食。安いチャジャン麺にありがちな粉っぽさが全くなく、上品な味に仕上がっています。ほどよい甘さの中に軽やかなビター風味が。うんまい。往年の「共和春」のチャジャン麺もこんな味だったのでしょうか。
「新勝飯店」の営業時間は11:10~21:00(ラストオーダー20:30)。今回食べたユニチャジャン麺のほか、通常のチャジャン麺(普通5,000ウォン、コッペギ6,000ウォン)もあります。前述したように開店10分前(11:00)から、店内に入ってすぐ左側の発券機にて待機票を配布します。並ばずに食べたい方はこちらをお忘れなく(といっても待機票のために並ぶのですが.......)
新勝飯店(신승반점:仁川広域市 中区 チャイナタウン路44番ギル 31-3 (北城洞2街 11-32))

再びお腹も膨れたところで、次の目的地であるソウルへ移動。
荷物を回収し、地下鉄1号線の電車へと乗り込むのでした.....

仁川の旅[201704_01] - 桜咲く仁川2号線の旅、キムチチゲ一本勝負のこだわり定食屋さん

今回からは、本年(2017年)4月14日(金)から翌15日(土)にかけての仁川広域市およびソウル特別市の旅をお届けします。

 

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今回は久々に、羽田空港を深夜2時に出発するピーチで仁川へ。今回もまたほぼ満席状態です。

 

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午前4時台、仁川国際空港に到着。いつもならここでソウル駅へノンストップで直行する空港列車「A'REX」の始発に乗るところですが、今回はここ仁川広域市もまた目的地のひとつであるため、同じA'REXでも各駅停車である一般列車に乗車。

 

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黔岩(コマム)駅で下車し、昨年夏に開業したばかりの仁川地下鉄2号線(以下「仁川2号線」)に乗り換えます。この仁川2号線もまた、日本語表記をあちこちで見かけます。

 

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初めて乗る仁川2号線。電車は写真のような一見して軽電鉄(新交通システム)のような若干小さめのもので、それも2両編成を基本としています(そのため後述する目的地からの帰りは混雑していました)。

 

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釜山などの軽電鉄と同様に無人運転であるため、先頭部または最後部からの車窓も望むことができます。

 

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仁川の地下鉄特有のポイントとして、韓国国旗である太極旗が車内に貼られている点が挙げられます。同様に地下鉄があるソウル、釜山、大邱、光州では見たことがありません(大田は未乗のため不明)。仁川1号線では車端の通路上にありましたが、こちらの仁川2号線では1両に左右3か所ずつある扉のうちひとつの上部にありました。

 

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飛行機であまり眠れなかったためウトウトしていたら、終点の雲宴(ウニョン)駅に到着。
このあたりはまだ開発が進んでおらず、住宅よりも農地が目立つところで、駅前の道路はまだ整備中でした。

 

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ところどころ満開の桜が立つ早朝の小道を、目的地までのんびり歩きます。こういう旅もたまにはよいですね。

 

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雲宴駅から15分程度歩いたところにあるのがこちらの交差点「チヤコゲサムゴリ」(치야고개삼거리)。訳すると「チヤ峠三叉路」という意味です。
何の変哲もない交差点ですが、単に私の好きなキャラクターと同じ名前だったので、一度来てみたかったというわけです。
「지야」(チヤ/ジヤ)と表記する地名は光州広域市にもありますが(北区芝野洞)、韓国の公式版コミック単行本でのハングル表記である「치야」の名がついた地名は、私が調べた限り韓国でもここにしかないようです(余談ですが「千夜」をそのままハングル表記した「천야」(チョニャ)という地名は存在しないようです)

チヤコゲサムゴリ(치야고개삼거리:仁川広域市 南洞区 雲宴洞 山83-4)

 

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ここチヤコゲサムゴリ、実は先ほど下車した雲宴駅よりも、そのひとつ手前の仁川大公園(インチョンテゴンウォン)駅寄りに位置しています。その仁川大公園駅までの道は桜並木の緩やかな下り坂となっており、この日(4月14日)はちょうど満開となっていました。
ちょうどこのあたりは仁川2号線の電車が切り割り構造の雲宴駅から高架線へ移行するため姿を現す地点で、タイミングが合えば私のような下手っぴでもそれなりに絵になる写真を撮ることができます。

 

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仁川大公園駅から再び仁川2号線の電車に乗ります。こちらも日本語表記がふんだんですが、仁川市庁、ちょっと惜しい。
今度は黔岩駅よりも手前の朱安(チュアン)駅で下車、首都圏電鉄1号線(Korail京仁線。仁川1号線ではない)に乗り換えます。

 

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そしてやって来たのは終点の仁川駅。日本語表記も堂々たるものですね。この駅周辺は朝鮮時代末期・1883年の仁川港開港から日帝強占期にかけての仁川の旧市街であり、現在は韓国でも最大規模のチャイナタウンが広がっています。こうした点で仁川は横浜と実によく似ていると感じます。
首都圏にあることを除けば神戸とも似ていますね。ちなみに仁川広域市と神戸市は姉妹都市関係を締結しています。
写真はありませんが、ここ仁川駅にもボックス数は少ないとはいえコインロッカーが。仁川駅は今回下車した首都圏電鉄1号線の地上駅のほか、昨年(2016年)夏に開業したKorail水仁線(スインソン)の地下駅もありますが、こちらにコインロッカーがあるかどうかは不明です。

 

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韓国に来てまだ何も食べていなかったので、さっそく腹ごしらえに向かったのがこちらのお店「ミョンウォルチッ」。1966年創業、メニューは名物のキムチチゲがメインの「白飯」(백반:ペッパン。ここでは「定食」の意)一本というこだわりのお店です。

 

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キムチチゲはなんとおかわり自由。「드실 만큼만 가져가세요~」(召し上がる分だけお持ちください)との表記も。コンロの上でぐつぐつ煮込まれています。

 

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黒米のごはんとパンチャン(おかず)が揃ったところで、ぱくり。キムチチゲ、うんまい。やや酸味がありますがそれがまたよい。チゲの中の白菜キムチをわしわし食べ進めると、欲を言えば白米が欲しくなりますね。

 

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パンチャンも全体的に高レベルです。それらの中でも写真の豆腐の煮つけと、市販のものより凹凸に富んだ海苔は絶品でした。締めにはヌルンジ(ご飯のお焦げにお湯を注いだもの)まで。
こちらのお店「ミョンウォルチッ」、キムチチゲがおかわり自由の「白飯」は7,000ウォン(約700円)。営業時間は07:30~20:30。日曜定休。開店が早いので朝食に最適です。
ミョンウォルチッ(명월집:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 41 (中央洞3街 4-46))

ここからはいよいよ仁川旧市街の近代建築巡りとなるのですが、そちらは次回のエントリーにて……

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