かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

ソウルの旅[201704_04] - 直撃催涙弾に倒れた烈士と6月民主抗争を記憶する「李韓烈記念館」

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

「朴鍾哲記念展示室」近く、首都圏電鉄(ソウル地下鉄)1号線「南営」(ナミョン)駅前のバス停から7016番バスに乗車、30分ほどで同2号線「新村」(シンチョン)駅の近くにある「新村オゴリ.現代百貨店」バス停に到着。

 

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ここから約3分、およそ200mほど歩いた場所にあるのが、1987年に亡くなった李韓烈(이한열:イ・ハニョル/イ・ハンニョル、1966-1987)烈士を記憶する施設であり、次の目的地である「李韓烈記念館」です。

 

記念館の紹介に先立ち、烈士が亡くなった1987年の韓国の政治状況についてどうしても説明しておく必要があるため、簡単に触れておきたいと思います。
前回のエントリーでも触れたように、この年の1月14日には朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士がソウルの「南営洞対共分室」にて拷問により殺害され(朴鍾哲拷問致死事件)、その発覚により「第5共和国」と呼ばれた軍事独裁政権への不信が急速に高まる中、4月13日には全斗煥(전두환・チョン・ドゥファン、1931-)大統領が「護憲措置」(大統領間接選挙を定めた現行憲法の維持)談話を発表。大統領直選制移行への期待を裏切るこの談話は、民主化を待ち望む韓国の市民を大いに失望させました。

 

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さらに5月18日、この日開催された光州抗争7周年ミサにて、カトリック正義具現司祭団の金勝勲(김승훈:キム・スンフン、1939-2003)神父が警察による朴鍾哲拷問致死事件への縮小・隠蔽工作の事実を暴露。当時、永登浦矯導所(刑務所)に収監中だった民主活動家の李富栄(이부영:イ・ブヨン、1942-)氏が、拷問致死事件の実行犯として偶然にもそばの監房に収監された捜査官2名の悲痛な叫びを耳にし、矯導官(刑務官)を通じ聞き取りをしたところ実は他にも3名の実行犯がいたなどの事実が発覚。これを記したメモ紙が心ある矯導官を通じ外部にもたらされた結果、得られた真実でした。この暴露により軍事独裁政権に対する市民の怒りは一層白熱し、全国各地で反政府デモが頻発します。
写真は前回のエントリーにて紹介した「朴鍾哲記念展示室」の展示品のひとつ、李富栄氏により記されたメモ紙のレプリカです。このメモ紙が1987年における民主化運動の大きな起爆剤となったわけです。

そうした中で全国の在野指導者たちは、拷問致死事件の縮小・隠蔽工作に加え、6月10日に予定されていた与党・民主正義党(民正党)の全国大会と大統領候補指名大会、実質的には全斗煥大統領による盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)候補への権力移譲のための舞台を糾弾するため、これと同日に全国一斉での反政府デモ「6.10国民大会」(朴鍾哲君拷問致死操作、護憲撤廃国民大会)の開催を決定、水面下で準備を進行します。

 

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その「6.10国民大会」を翌日に控えた、1987年6月9日。
この日の午後、ソウル・新村の延世(ヨンセ)大学校キャンパスでは、同大生およそ1千名による「6.10出征のための延世人決意大会」デモが開催。その参加者の中に、同大経営学科2年、当時20歳の李韓烈烈士の姿がありました。
デモ隊は正門付近で、鎮圧のため催涙弾を発射する戦闘警察(デモ鎮圧を主な任務とし、警察とは別組織)との一団と衝突します。このとき戦闘警察は、本来ならば空中へ向けて発射すべき催涙弾を、あろうことかデモ隊へ向けて水平発射。不運にもそのうち1発が、李韓烈烈士の頭部を直撃しました(李韓烈催涙弾被撃事件)。

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催涙弾を受け頭から血を流してくずおれる李韓烈烈士と、それを必死に支えるデモ参加者の延世大生をとらえた一枚。この写真は日本を含む海外にも配信され、ニューヨーク・タイムズ紙の1面にも掲載されたといいます。

翌10日には当初予定通り「6.10国民大会」が全国各地で開催。またこの日には反軍事独裁政権の意思表示の合図として、午後6時になったら自動車を運転する者は停車してクラクションを鳴らし、そうでない者はその場で白いハンカチを振ろうという事前の取り決めの通り、夕方のソウルの街はクラクションの音と揺れる白いハンカチで一杯にあふれました。
こうして10日のデモは成功。これによりついに沸点に達した反政府抗争は、前日に発生した李韓烈催涙弾被撃事件の報に激怒した一般市民を巻き込んで、いよいよ全国的な抗争活動へと発展します。この日から20日間にわたって繰り広げられた、韓国市民による一連の反政府抗争を総称して「6月民主抗争」、または「6月抗争」と呼びます。

 

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左側の大きな写真は、1987年6月26日に全国37か所で同時多発的に開催された「国民平和大行進」デモのうち、釜山・門峴(ムニョン)の現場にて撮影されたもの。警官隊による催涙弾の発砲に激高し、静止を求め道路中央へ飛び出した男性を撮ったもので、「6月民主抗争」を最も象徴する写真となっています。1999年にAP通信が発表した20世紀の100大報道写真のひとつにも選定されています。

そして6月29日、盧泰愚次期大統領候補は大統領直接選挙制への改憲実施を含めた時局収拾案、いわゆる「6.29宣言」を発表。市民たちによる反政府抗争が、ついに念願の大統領直選制への移行を勝ち取ったわけです。

 

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一方、これら一連の反政府抗争の間も生死の境をさまよっていた李韓烈烈士は、勝利を見届けたかのようにその翌月の7月5日午前2時05分、入院先であった延世大隣のセブランス病院にて息を引き取りました。被弾当日、病院へ運ばれる際に口にした「明日、市庁へ行かなくちゃならないのに……」が烈士の最後の言葉となりました。入院中は国家権力による病床襲撃を防ぐため、また亡くなった後は証拠隠滅目的の火葬処理から遺体を守るため、延世大生たちが学部・学科別に当番を決め交替で身張りをしたそうです。

 

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死去から4日後の7月9日、李韓烈烈士の「民主国民葬」が挙行されました。母校の延世大をスタートし、本来ならば被弾翌日に行くはずだったソウル市庁前へ向かった葬列は実に100万名もの人々が見送り、また故郷の光州(クァンジュ)でも50万名の人々が集まるなど、この時点で建国以来最も多くの人数を動員した集会とされています。
このとき弔辞を引き受けたのは、自身も長らく民主化運動に携わり、刑執行停止によりこの前日に釈放されたばかりの文益煥(문익환:ムン・イクファン、1918-1994)牧師。全泰壱(전태일:チョン・テイル、1948-1970)烈士に始まり李韓烈烈士に至るまで、労働運動や民主化運動の最中に散っていった烈士たちの名を連呼したその弔辞は、韓国史に残る名演説として今日まで語り継がれています。

 

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李韓烈烈士の遺骨は、3歳から高校卒業まで暮らした光州の望月洞(マンウォルドン)5.18旧墓地に埋葬されました。写真は今年(2017年)5月の光州訪問の際に撮影した烈士の墓です。1980年、光州東成(トンソン)中学校2年生のとき同じ市内で発生した5.18民主化運動(光州事件)の真相を大学生になって知り、学生運動に身を投じることを決意したという烈士は、いまは5.18の犠牲者たちと同じ墓地で永遠の眠りについています。

 

前置きが長くなりましたが、こうして亡くなった李韓烈烈士の人生と催涙弾被撃事件、そしてこの事件により頂点に達し勝利をつかんだ「6月民主抗争」を記憶する場として、2005年に烈士の母が補償金を基に息子の母校・延世大と同じ新村に開館したのが、今回訪れた「李韓烈記念館」です。

 

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記念館の入口はビル脇の階段を登った3階にあります。
3階はイベントスペースとなっており、主に小・中・高校生を対象とした民主化運動史の教育の場として活用されています。この日も見学に訪れた高校生らしき団体へのガイダンスがなされていました。壁面には先ほど紹介した、1987年7月9日の葬列の写真が。

 

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館内の階段を登った4階は、李韓烈烈士の遺品やパネルなどが設置された展示室となっています。

 

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写真1枚目は1987年6月9日、李韓烈烈士が延世大の正門で催涙弾を被弾したまさにそのとき身に着けていたトレーナーとジーンズ、スニーカーです。トレーナーには血痕が残っています。右足側のみ残るスニーカーは年月を経てぼろぼろになっていた靴底を復元するプロジェクトが去る2015年に進行され、元の姿を取り戻しています。

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2015年夏、延世大工科大学(学部に相当)第1工学館の解体の際に学生会倉庫にて発見された、李韓烈烈士の血痕が残る同大化学工学科(화학공학과)の科旗。この旗を応急の止血に用いたという説もあるそうです。

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館内の階段の上に掛けられている烈士の肖像画。1987年当時の葬儀で遺影として用いられた肖像画をもとに2007年、新たに制作されたものです。

 

피로 얼룩진 땅, 차라리 내가 제물이 되어 최루탄 가스로 얼룩진 저 하늘 위로 날아오르 고 싶다.

血で染みついた地面。いっそ私が生贄になり催涙弾ガスで染みついたあの空の上へ舞い上がりたい。

 こちらの一文は記念館の展示物ではありませんが、李韓烈烈士が催涙弾を被弾した当日、所属するサークルの部室に書き残したメモの一節です。自らの運命を暗示していたかのようです。

「李韓烈記念館」の開館時間は午前10時~午後5時。前回紹介した南営の「朴鍾哲記念展示室」と同じく、こちらも土日は休館ですので注意が必要ですが、ホームページには掲示板または電話で予約すれば開館時間外でも訪問可能とありますので、ひょっとすると土日でも開けていただけるのかもしれません。
お時間に余裕のある方であれば、この日の私の旅と同様に、朴鍾哲・李韓烈両烈士の記念施設をセットにした平日のご訪問をおすすめします。その場合には両記念施設の最寄りのバス停をつなぐ7016番バスのご利用がおすすめです。「朴鍾哲記念展示室→李韓烈記念館」の順の場合は「南営駅」(남영역)バス停で乗車し「新村オゴリ・現代百貨店」(신촌오거리.현대백화점)で下車、逆の場合は「新村駅」(신촌역)バス停で乗車し「南営駅」で下車。所要時間はおよそ30分。平日だと4~10分ごとにやって来るのでほとんど待つ必要がありません。
前回紹介した「朴鍾哲記念展示室」、そして今回の「李韓烈記念館」。1987年の「6月民主抗争」、そして韓国の民主化運動史で決して外すことのできない両烈士を記憶する場であるこれらの施設は、ぜひとも訪問していただきたい場所です。

李韓烈記念館(이한열 기념관:ソウル特別市 麻浦区 新村路12ナギル 26 (老姑山洞 54-38)) [HP]

 

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李韓烈記念館を出て次に向かったのは、烈士の母校である延世大学校。地下鉄「新村」駅のある交差点(新村ロータリー)をまっすぐ北上したところに、写真の正門があります。1987年6月9日、李韓烈烈士が催涙弾の直撃を受けた、まさにその場所です。

 

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正門を入り、だだっ広いキャンパスのメインストリートをさらに北上すると、右手に盛り上がった緑地が見えてまいります。「韓烈ドンサン」(한열동산:「韓烈庭園」の意)と呼ばれるこの緑地には、写真の「李韓烈記念碑」が設置されています。
忠清南道(チュンチョンナムド)保寧(ポリョン)産の黒い石を素材とした高さ約1.4m、長さ約4.5mもの巨大な碑の正面には、「198769757922」という数字が刻まれています。李韓烈烈士が被弾した日付「198769」、命日の「75」、葬儀の日付「79」、そして数え年による享年「22」を意味するものです。

李韓烈記念碑(이한열 기념비:ソウル特別市 麻浦区 延世路 50 (新村洞 134) 延世大学校内)

 

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この「韓烈ドンサン」の脇には、別の碑が設置されています。
「故魯秀碩烈士追慕空間」と呼ばれるこの碑は、1996年3月29日にソウル・鍾路(チョンノ)でのデモにて警察の暴力鎮圧により亡くなった延世大学校法学科の学生、魯秀碩(노수석:ノ・スソク、1976-1996)烈士を追悼するためのものです。李韓烈烈士と同じ延世大の学生が同じようにデモの現場で国家権力による暴力を受け、同じように命を落とすという事件が、残念ながら李韓烈烈士の死から9年を経た後にも繰り返されてしまったわけです。

李韓烈烈士に関連する施設の訪問はこれで終わりですが、延世大にはもう1か所だけ訪問したい場所があるため、「李韓烈ドンサン」をさらに北上します。

 

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延世大正門から伸びるキャンパスのメインストリートの突き当たりには、延世大の前身である延禧(ヨニ)専門学校の創立期に建てられた3棟の近代建築が「П」の字形に配置されています
左から順にスティムソン館(1920年築、史跡第275号)、アンダーウッド館(1925年築、史跡第276号)、ちょっとしか写ってませんがアベンジェラー館(1924年築、史跡第277号)です。

 

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これら近代建築群の手前を左に曲がると、延世大最後の目的地である、写真の「尹東柱詩碑」があります。
尹東柱(윤동주:ユン・ドンジュ、1917-1945)詩人については、詩集『空と風と星と詩』などでご存じの方も多いことでしょう。前身である延禧専門学校を卒業後に日本へ渡り、立教大学を経て同志社大学に在学中の1943年に治安維持法違反の容疑で特高警察に逮捕され、懲役2年の判決を受け収監されていた福岡刑務所にて1945年に獄死。正確な死因は不明ですが、当時の九州帝国大学による海水を用いた代用血液研究の人体実験の犠牲となったという可能性も浮上しています。
この詩碑は寄付により1968年に建てられたもので、代表作のひとつであり遺作でもある「序詩」(서시:ソシ)を刻んだ石板がはめ込まれています。
詩碑の後方に見える建物「ピンスンホール」(핀슨홀)は、2013年に「尹東柱記念館」の名を冠せられています。

余談となりますが、尹東柱詩人と同じ小学校と中学校に通った幼馴染同士であり、深い親交があった友人の一人が、詩人の後輩でもある李韓烈烈士の葬儀で弔辞を述べた文益煥牧師です。歴史はつながっていることを改めて実感させられます。

尹東柱詩碑(윤동주 시비:ソウル特別市 麻浦区 延世路 50 (新村洞 134) 延世大学校内)

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延世大を出て、鍾路3街のホテルへチェックイン。あたりはすっかり暗くなってしまいました。いよいよお待ちかねの夕食です。
今回訪問したのは、地下鉄「鍾路3街」駅6番出口近くにある豚焼肉店「味カルメギサル専門」。昨年(2016年)8月以来の訪問です(上の2枚の写真も昨年8月のものです。この日は撮り忘れてしまいました……)。名物のカルメギサル(豚ハラミ)がおいしいうえ、周囲の路上には露天席も多数用意されているため、酒場らしい情感にあふれたお店となっています。
待たずに座れた前回に対し、今回は激混みですでに10組以上の行列が。なんでもこの日(4月14日)の1ヵ月ほど前に人気グルメ番組『水曜美食会』で紹介されたらしく、元々多かった来客がさらに急増した様子とのこと。それでも30分ほど待ってようやく順番が回ってきたら、今度はなんと予想外の「1人はNG」との答えが(前回はそんなことはなかったのに……)。一人でもたくさん食べられますよというアピールを繰り返して、どうにか屋内の奥の席に案内されました。

 

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露天席でなかったのは残念ですが、味に違いはありません。やって来たカルメギサルとカブリサル(豚トロの一種)を自分で焼いて、ぱくり。ああ、うんまい。ビール(Kloudあり!)はもちろん、ソジュとの相性もばっちりです。
こちらのお店では脇に水タンクのようなケースがついた特殊な焼き網を使用しており、日本の焼肉店でよく見るような席ごとの換気口がなくとも衣服に臭いがほとんどつきません。1月に行った隣の店「コチャンチッ」(こちらのエントリーにて紹介)でも同じものを使用していました。この網ほしい。
味にも雰囲気にも大変満足していますし、また行きたい気持ちは強いですが、前述の経緯もありますので次回はもう少し混雑が落ち着いてからにしようと思います。2人以上のグループならば断然おすすめのお店です。

味カルメギサル専門(미갈매기살전문:ソウル特別市 鍾路区 敦化門11カギル 7 (敦義洞 7-1))

こうして今回の旅の1日目は終了。次の日に備えて眠るのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

ソウルの旅[201704_03] - 拷問のために最適化された建物と「朴鍾哲記念展示室」

前回のエントリーの続きです。

 

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仁川駅から首都圏電鉄1号線(ソウル地下鉄1号線、Korail京仁線)でおよそ1時間あまり、着いたのはKTXも発着するソウル駅のひとつ手前、南営(ナミョン)駅。ソウル駅と龍山(ヨンサン)駅という2大ターミナルに挟まれた地味な駅ですが、ここに今回のソウルの旅最初の目的地があります。
1時間ちょっと前の仁川はうす曇り、近代建築巡りではときおり晴れ間も覗いていましたが、ここ南営は強い雨。傘を差しつつ駅を東側に出て1号線沿いに南(龍山駅方向)へ3分程度歩くと、こちらの建物が見えてまいります。

 

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警察庁人権保護センター」と呼ばれるこの建物の4階に、ソウルでの今回最初の目的地「朴鍾哲記念展示室」があります。

 

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朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士とは、いまをさかのぼること30年あまり前の1987年1月14日に警察の拷問によって死に至らしめられた、当時21歳、ソウル大学校人文大学言語学科の3年だった人物です。
1987年1月13日の深夜、ソウル市内の下宿にて治安本部対共分室の捜査官6人により拘束。指名手配中となっていた大学の先輩の行方を聞き出すべく「南営洞対共分室」(남영동대공분실:ナミョンドン・テゴンブンシル)へ連行され、捜査員による電気や水などを用いた激しい拷問を受けた結果、死に至らしめられるという事件(朴鍾哲拷問致死事件)の犠牲となりました。

事件発覚後、当時の治安本部長が会見にて「机を『タッ』(탁:強く叩いたときの擬音語)と叩くと『オッ』(억:驚いたり倒れたりするときに出す声)と声を上げて倒れた」という到底納得できない釈明をしたうえ、遺体の解剖で拷問と思しき痕跡がいくつも見受けられたにもかかわらず家族の許可も得ぬまま火葬に付し、さらには拷問に携わった捜査員のうちわずか2名の処分だけで幕引きを図ろうとしたことなどから、この事件をきっかけに市民たちの権力への不信は急速に高まります。

 

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朴鍾哲烈士の死、そして同年4月13日の全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)大統領による「護憲措置」(大統領間接選挙を定めた現行憲法の維持)談話は、学生をはじめとする市民たちにより同年(1987年)6月10日に本格始動する全国的な反政府デモ「6月民主抗争」(6월 민주항쟁)の火種となり、ついに6月29日、盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)次期大統領候補から大統領直接選挙制への改憲実施を含めた時局収拾案(6.29宣言)を引き出させ、勝利を勝ち取ることとなります。

 

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朴鍾哲烈士の人生と壮絶な死、そして6月民主抗争を「記憶」するため、加害者である警察が反省の意をこめて自らの所有施設、それも後述するように重要な意味を持つ建物の中に設けたこちらの展示室には、朴鍾哲烈士の遺品と6月民主抗争を解説するパネルを中心に展示されています。

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朴鍾哲烈士の略歴。1965年4月1日に釜山市西区峨嵋洞(アミドン)で生まれ、釜山恵光高等学校を卒業してソウル大学校に入学、人文大学(学部に相当)言語学科では同学科の学生会長を務めていました。労学連帯闘争に参加していた最中の1986年4月に清渓(チョンゲ)被覆労働組合の合法化要求デモで拘束され、同年7月には懲役10ヵ月、執行猶予2年の判決を受けています。ちなみにこの清渓被覆労働組合とは、劣悪な労働環境の改善を訴え1970年11月13日にソウル東大門の平和市場(ピョンファンジャン)にて焚身(焼身)した労働者、全泰壱(전태일:チョン・ティル、1948-1970)烈士の死をきっかけに設立されたものです。

 

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数ある展示物の中でも特に印象的なギター。朴鍾哲烈士が生前に愛用したものです。よく見ると無電源のクラシックギターエレキギターに改造したものだと分かります。

 

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朴鍾哲烈士が生前身に着けていた腕時計と死亡検案書、葬儀の際の喪章。

朴鍾哲記念展示室はここ「警察庁人権保護センター」4階の一角だけですが、ひとつ上の5階を訪れることで、この施設の見学は完成します。そのため、階段で階上へ登ります。

 

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5階。薄暗い廊下に緑色の鉄の扉が並ぶ、一転して殺風景なフロアです。
ここまでお読みいただいてお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、この「警察庁人権保護センター」の建物こそがかつて「南営洞対共分室」と呼ばれ市民たちに恐れられた施設であり、朴鍾哲烈士が殺害されたその場所です。その意味で「朴鍾哲記念展示室」の設置にふさわしい場所だと言えるでしょう。
そしてこの5階には、「調査」の名目で民主化運動の人士たちに拷問を加え自白を強要した現場である「調査室」が、現在もほぼそのままの姿で残されています。

その名に「対共」とあるように、本来この「南営洞対共分室」は朝鮮民主主義人民共和国の間諜(スパイ)や「パルゲンイ」(빨갱이:「アカ」)を取り締まるための施設でしたが、朴正煕(빅정희:パク・チョンヒ、1917-1979)・全斗煥の両大統領による軍事政権下では、民主化運動に携わる人々など反政府人士とされた人々を拘束・収容し、真偽にかかわらず政権側に好都合な自白を得ることを目的に拷問を加えるための場所として主に用いられました。

 

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朴鍾哲烈士のほか、新千年民主党やヨルリンウリ党民主党などの要職を歴任し、盧武鉉(노무현:ノ・ムヒョン、1946-2009)政権では保健福祉部長官を務めた金槿泰(김근태:キム・グンテ、1947-2011)氏もまた、1985年9月にここで23日間もの過酷な拷問を受けて自白を強要され(金槿泰民青連前議長拷問事件)、その後1987年まで服役させられています。写真はここ「警察庁人権保護センター」1階にあるパネル。

 

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廊下の両側に並ぶ薄暗いかつての調査室の中でただひとつ、煌々と電灯がともる部屋があります。
それがこの9号室。5階の9号室なので「509号室」とも呼ばれます。この部屋こそがまさしく、1987年1月14日に朴鍾哲烈士が拷問によって死に至らしめられた調査室そのものです。
9号室の内部は、朴鍾哲烈士が殺害された当時のまま保存されています。出入口にはアクリル製のパネルが一面に張られており、内部に立ち入ることはできません。
黙祷して、撮影を開始します。

 

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調査室の奥には浴槽があります。調査対象者の便宜のためではありません。水を張ったこの浴槽に無理やり顔を浸けて自白を強要する「水拷問」(水責め)の道具として設置されたものです。朴鍾哲烈士もこの水拷問によって命を落としました。

 

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調査室の壁面は、学校の音楽室でもよく見るような穴の空いた吸音壁となっています。もちろん、拷問を受ける調査対象者の悲鳴やうめき声が外部に漏れないようにするためです。

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この「南営洞対共分室」、現「警察庁人権保護センター」の建物は、拷問のために最適化されたと言っても過言ではないほど特殊な設計が随所に施されています。
この9号室もそうですが、5階の調査室の窓は調査対象者が脱出できないよう、すべて極端に狭く作られています。外観からもその異様さが見て取れるでしょう。

 

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写真は別の部屋で撮影したもの。狭さが実感できるよう、韓国の交通カード(日本のと同サイズ)を添えています。

 

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したがって部屋に入る光も制限され、点灯しない限り昼でも薄暗い状態となります。

 

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調査室の室内灯のスイッチはすべて部屋の外、出入口の横に設けられています。監禁された調査対象者は部屋の点消灯すらままならない状態だったわけです。

 

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廊下の天井はやや高めに作られています。拷問の主体である警察官の足音を響かせて恐怖感を与えるためとされています。

 

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廊下の両側に並ぶ各調査室の出入口は、互い違いに設置されています。そのため各調査室のドアを開けた先には、必ず正面に壁面のみが見えることとなります。これは別の部屋へ移動させられる調査対象者同士が偶然鉢合わせとなった際に合図を取り合うことを抑止するほか、調査対象者に不安を与える効果があるとされています。

 

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各調査室のドアは金属製で、緑色に塗られています。これは他フロアへ続く階段のドアも同じで、これらを含めすべてのドアが等間隔に配置されています。一見してどこが脱出口となるかを分かりにくくするためです。ドアスコープは一般的な住宅玄関のそれとは逆に、部屋の外側から内側に向けてのみ見えるようになっています。

 

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この建物の1階、正面玄関と反対側には勝手口のような扉があります。拘束された人々は人目を避けて、ここから建物内部へ連行されました。扉を入ったすぐ横には、調査室のある5階へ直行するらせん階段が設けられており、外観にもその輪郭が表われています。調査対象者が目隠しをされた状態でこの階段を引きずり登らされることにより、どのフロアに連れて来られたかの感覚を失うことを期したものです。

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1976年に5階建てのビルとして竣工し、1983年には6・7階が増築され現在の姿となったこの建物を設計したのは、韓国を代表する建築家のひとりである金寿根(김수근:キム・スグン、1931-1986)氏。
同氏の設計による建物は、有名どころではソウル蚕室洞(チャムシルドン)の「ソウルオリンピック主競技場」(1977年)や同苑西洞(ウォンソドン)の「空間(コンガン)社屋」(1971年)などがあり、1970年の大阪万博のパビリオンである韓国館も手がけています。鍾路(チョンノ)から退渓路(テゲロ)にかけてソウル旧市街を南北に貫く全長約1kmもの長大建築物「世運商街」(세운상가:セウンサンガ、1968年)も同氏の設計によるものです。
これらの優れた作品を残し世界的にも著名な建築家が時の権力に迎合し、これほどまで拷問のために最適化された建物を設計、形にしたという事実。国家権力による市民への拷問、殺害という許されざる過去とはまた異なる次元での戦慄を感じます。


警察庁人権保護センター(旧南営洞対共分室)4階にある「朴鍾哲記念展示室」、および5階の旧調査室の開放時間帯は午前9時~午後6時、土日は休館ですので注意が必要です。入場無料。最も近い首都圏電鉄(ソウル地下鉄)1号線の「南営」(ナミョン)駅からだと徒歩3分程度で着きますが、同4号線「淑大入口」(スッテイック)駅からでも徒歩8分程度で到着できます。
朴鍾哲記念展示室(警察庁人権保護センター)(박종철 기념 전시실(경찰청 인권보호센터):ソウル特別市 龍山区 漢江大路71ギル 37 (葛月洞 98-8))

1987年1月に国家権力により殺害され、その死が同年6月の民主抗争の火種となった朴鍾哲烈士。その生涯を記憶する施設を訪れたからには、どうしてももう1か所行かなければならない場所があります。
その場所へ行くために、南営駅前のバス停より7016番バスに乗車するのでした。

仁川の旅[201704_02] - 仁川旧市街の近代建築めぐり、博物館&実食のチャジャン麺三昧

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

ミョンウォルチッのキムチチゲを食べてお腹が膨れたところで、いよいよ街歩きをスタートします。
前回のエントリーでも書いたように仁川駅や駅前のチャイナタウンの一帯は仁川の旧市街であり、朝鮮時代末期から日帝強占期、西暦でいえば1880年代から1930年代にかけて建てられた近代建築の宝庫となっています。したがって少し歩くだけでいくつもの近代建築をはしごすることができるわけです。
以下、各近代建築の名称は韓国文化財庁または仁川広域市文化財名表記に基づくものであり、説明は主に韓国文化財庁ホームページの記述を参考としております。

 

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「仁川旧大和組事務所」。
1880年代末~90年代初頭築。こちらは仁川の日本租界地で唯一、韓国でも珍しい町家(店舗併設の住宅)造りの3階建て和風建築で、開港期から日帝強占期にかけて仁川港で漕運業(荷役業)を営んでいた日本人系の荷役会社「大和組」の建物だったものです。現在は1階にてカフェ「Cafe pot-R」が営業中。国指定登録文化財第567号。

仁川旧大和組事務所(인천 구 대화조 사무소:仁川広域市 中区 新浦路27番ギル 96-2 (官洞1街 17))

 

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「旧)仁川日本第一銀行支店」。
1899年築。日本人建築家の新家孝正(にいのみ・たかまさ:1857-1922)の設計により、全体的に後期ルネサンス様式を模して造られた建物です。建設に際し、砂利や石灰などを除くほとんどの建材を日本から運んできたとのこと。第一銀行は現在のみずほ銀行仁川広域市有形文化財第7号。

旧)仁川日本第一銀行支店(구)인천일본제일은행지점:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 89 (中央洞1街 9-2))

 

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「旧)仁川日本第18銀行支店」。
1890年築。当初は第十八国立銀行(1896年に株式会社十八銀行へ改称)の支店として建てられ、1936年には同支店の廃止に伴い朝鮮殖産銀行へ譲渡。光復(日本の敗戦による解放)後は韓国興業銀行の仁川支店やカフェなどを経て、現在は「仁川開港場近代建築展示館」として使用されています。次に紹介する「旧)日本第58銀行支店」と隣接。ちなみに十八銀行は現存します。本店がある長崎の方にとってはおなじみでしょう。仁川広域市有形文化財第50号。

旧)仁川日本第18銀行支店(구)인천일본제18은행지점:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 77 (中洞2街24-1))

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「旧)日本第58銀行支店」。
大阪に本店があった第五十八銀行(現みずほ銀行)の支店として建てられ、1892年開店。2階のバルコニーとドーマー(屋根についた窓)が特徴的なルネッサンス様式の建物です。光復後には朝興銀行仁川支店や大韓赤十字社京畿道支社として使用された後、現在は仁川市中区飲食業組合が使用。「旧)仁川日本第18銀行支店」と隣接。仁川広域市有形文化財第19号。

旧)日本第58銀行支店(구)일본제58은행지점:仁川広域市 中区 新浦路23番ギル 69-1 (中央洞2街 19-1))

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「旧日本郵船株式会社仁川支店」。
1888年築。仁川港開港からその海運業を独占していた日本郵船の支店建物。韓国に現存する近代建築でも古い部類に入るものであり、宗教施設や公共施設でない民間所有の建物としては稀有の存在とのことです。国指定登録文化財第248号。

旧日本郵船株式会社仁川支店(구 일본우선주식회사 인천지점 :仁川広域市 中区 済物梁路218番ギル 3 (海岸洞1街1-5))

 

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「仁川郵逓局」。
1924年築。仁川郵便局の建物として、当時流行していた折衷様式を簡素化して建てられたものです。1949年に仁川郵逓局へ改称、朝鮮戦争(1950~53)時に屋根の一部が破壊されたものの、その後改修されています。いまなお郵逓局(郵便局)として使用されていますが、仁川郵逓局は別の場所へ移転し、現在は「仁川中洞郵逓局」という名称になっています。仁川広域市有形文化財第8号。

仁川郵逓局(인천우체국:仁川広域市 中区 済物梁路 183 (港洞641))

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「仁川税関旧倉庫と付属棟」。
仁川税関の関連施設として100年以上前に建てられた煉瓦造りの建物で、仁川開港と近代税関行政の歴史を証明する港湾遺産となっています。こちらの建物だけはフェンスの中にあり、近づくことはできませんでした。ここと隣接する、昨年(2016年)に開業したばかりのKorail水仁線の新浦(シンポ)駅の地上出口は、これら煉瓦造りの建物と調和したデザインとなっています。国指定登録文化財第569号。

仁川税関旧倉庫と付属棟(인천 세관 구 창고와 부속동:仁川広域市 中区 港洞7街 1-47)

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「旧仁川海運株式会社仁川支店」。
1932年築。堂々たる4階建ての建物で、この規模の近代建築はここ仁川でも他に類を見ないとのこと。現在は財団法人鮮光文化財団の建物として使用されています。こちらは訪問(2017年4月)時点で国、仁川広域市いずれの文化財にも指定されておらず、偶然通りがかって知ったものです。

旧仁川海運株式会社仁川支店(구 인천해운주식회사 인천지점:仁川広域市 中区新浦路15番ギル 4 (中央洞4街 2))

 

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「内洞聖公会聖堂」。
1956年築。見晴らしのよい内洞(ネドン)の丘の上に建っています。元々は1890年に故ヨハン神父によってこの場所に建てられたカトリック教会ですが、朝鮮戦争(1950~53)で焼失したため、創建当時の基礎を補強代わりに「H」形鋼を用い再建したものです。なのでこちらの物件に限っては、近代建築という表現は該当しないかもしれません。仁川広域市有形文化財第51号。

内洞聖公会聖堂(내동 성공회 성당:仁川広域市 中区 開港45番ギル 21-32 (内洞 3))

 

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「旧)済物浦倶楽部」。
1901年築。当初は外国人の社交場「済物浦(チェムルポ)倶楽部」として建てられた2階建ての煉瓦の建物で、その後は日本帝国在郷軍人会や米軍将校クラブ、市議会など実にさまざまな用途を経て、2007年から現行のストーリーテリング博物館として運営。名称表記は「クラブ」(클럽:クルロッ)ではなく、日本式の「倶楽部」(구락부:クラップ)となっているところに注目。仁川広域市有形文化財第17号。

旧)済物浦倶楽部(구)제물포구락부:仁川広域市 中区 自由公園南路 25 (松鶴洞1街 11-1))

 

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「旧仁川府庁舎」。
1933年築。当時の仁川府(じんせんふ)の庁舎として建設されたモダニズム様式の建物で、光復後の1949年には名称変更により仁川市庁舎となり、そして1985年に仁川直轄市庁(当時)が新庁舎へ移転してからは中区(チュング)庁舎として用いられ、現在へと至ります。当初は2階建てでしたが、1964年に3階を増築。国指定登録文化財第249号。

旧仁川府庁舎(구 인천부 청사:仁川広域市 中区 新浦路27番ギル 80 (官洞1街 91))

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この「旧仁川府庁舎」、現在の仁川広域市中区庁舎の前には、日帝強占期の新築当時にこの界隈を往来していたであろう、人力車と人夫の銅像が建てられています。人夫の胸には、「人間のカ」という謎の文字が。人力車だからこうなったのでしょうか。面白いです。

 

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「仁川善隣洞共和春」。
1908年ごろ築。仁川港へやって来た中国人が料理店を開くため、ここ善隣洞(ソルリンドン)に建てた中庭型の中国式建物です。建設に携わった人々の中にははるばる山東省から呼び寄せた職人もいたとのこと。当初は貿易商たちに寝食を提供する場所でしたが、中国料理の人気上昇ともに飲食スペースが拡大していったそうです。この建物で1983年まで営業していた中国料理店「共和春」(공화춘:コンファチュン)は、中国の炸醤麺朝鮮人向けにアレンジした人気料理「チャジャン麺(ミョン)」(짜장면)の元祖とされ、伝説の存在となっています。国指定登録文化財第246号。

仁川善隣洞共和春(인천 선린동 공화춘:仁川広域市 中区 チャイナタウン路 56-14 (善隣洞 38-1))

 

以上、今回私が徒歩で巡った近代建築は全11件、内洞聖公会聖堂を除いても10件ですが、その所要時間はわずか1時間10分ほど。建物の外見を見て回るだけならば、1時間強でこれだけ多くの近代建築をはしごできるわけです。平均7~8分おきに目前に現れる近代建築。まさしく近代建築の宝庫。仁川すげえ。

念のため補足しておきますが、以上で紹介したような近代建築のうち日本人により建てられたもの、あるいは朝鮮半島のあちこちに残る日本家屋などは、その意図や役割にかかわらず日本による支配、収奪の一部であったことを決して見落としてはなりません。
私がこれらの近代建築を訪問したいと願うのは、そうした支配、収奪を「記憶」するものであり、そして光復後に朝鮮半島の人々が活用してきたことに価値があるからと考えているからで、それゆえに郷愁をも感じ得るものです。あくまで自分自身に対してですが、そうした事実を踏まえることを差し置いて郷愁を感じることは許されないとさえ考えています。

 

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タイルの壁画も色鮮やかな「仁川善隣洞共和春」の玄関部。こちらの建物には、現在は「チャジャン麺博物館」が入居しています。チャジャン麺の元祖たる共和春跡の用途として、これ以上ふさわしいものもないでしょう。
順路はまず2階から。玄関を入ってすぐ、建物の中央にある階段を登ります。

 

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1970年代から最近までの、市販の即席チャジャン麺(袋麺)の展示。これだけ見ても、いかに韓国でチャジャン麺が愛されているかが分かります。

 

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こちらは近年増えてきた、カップタイプのチャジャン麺の展示。一部は内容物まで展示されています。右上のロシア語らしき商品が気になりますね。

 

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共和春と思しき中国料理店でチャジャン麺を食べる家族。男の子の表情がすごい!

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チャジャン麺などを配達した料理店の岡持(おかもち)。韓国では一般に「鉄カバン」(철가방)と呼ばれています。かつては木製だったとのこと。

 

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1階は往年の「共和春」の厨房を再現した空間。
壁面にはチャジャン麺のレシピも。チャジャンソースは韓国食材店で入手できますので、韓国語の分かる方はチャレンジしてみてもよいかもしれません。

 

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現役当時の「共和春」の看板も展示されています。

こちら「チャジャン麺博物館」の開館時間は09:00~18:00、入館料は大人1,000ウォン(約100円)。展示パネルの日本語表記はタイトルだけですが、展示物は分かりやすいものが多いので楽しめると思います。この日は金曜日でしたが、私の直前には小学校(韓国では「初等学校」と呼ぶ)の児童たちの団体が訪れたりと終始にぎやかでした。

チャジャン麺博物館(짜장면박물관:仁川広域市 中区 チャイナタウン路 56-14 (善隣洞 38-1)。国指定登録文化財第246号)

チャジャン麺博物館を観覧したからには、お腹はすっかりチャジャン麺モード。しかもこの日は4月14日Twitterでは誰も突っ込んでくれなくてさみしかったです……)

 

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そんなわけで向かったのは、チャジャン麺博物館からわずか徒歩1分の距離にある中国料理店「新勝飯店」(シンスンバンジョム)。
開店20分前には到着。というのもこちらのお店、数あるチャイナタウンのチャジャン麺屋の中でも頭ひとつ飛び抜けた人気を誇り、11時10分の開店と同時にたちまち行列が形成されるため、開店10分前の11時ちょうどから待機票(整理券)を発行すると聞いたからです。よく見ると自動ドアの左上に「4人以下」「5人以上」それぞれの待機標番号の表示板がありますね。
実際、開店直前になると私を含め30名前後もの列が。どんだけ人気店ですか。

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11時ちょうどから待機票順に入店可能ですが、10分になるまで注文は取りに来ません。もちろんすでに満席です。
今回注文したのは、こちらのお店で一番人気という「ユニチャジャン麺」(유니짜장면:肉末炸醤麺)。「ユニ」とは豚挽き肉を意味する中国語「肉泥」の山東方言に由来し、豚肉や野菜を細かく挽いてチャジャンソースに混ぜたものを指すとのこと。そのため通常のチャジャン麺よりもなめらかで香ばしい味とされています。
基本は8,000ウォン(約800円)ですが、今回は迷わずコッペギ(곱배기:大盛)9,000ウォンを注文。朝食からまだ3時間弱なのに近代建築巡りでお腹はすっかりペコペコです。

 

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そして出てきたユニチャジャン麺。好みで味を調節しながら自分で混ぜ混ぜして食べられるよう、一般的なチャジャン麺とは異なりソースと麺がセパレートになって出てきます。麺の上には目玉焼きも。

 

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混ぜ混ぜして実食。安いチャジャン麺にありがちな粉っぽさが全くなく、上品な味に仕上がっています。ほどよい甘さの中に軽やかなビター風味が。うんまい。往年の「共和春」のチャジャン麺もこんな味だったのでしょうか。
「新勝飯店」の営業時間は11:10~21:00(ラストオーダー20:30)。今回食べたユニチャジャン麺のほか、通常のチャジャン麺(普通5,000ウォン、コッペギ6,000ウォン)もあります。前述したように開店10分前(11:00)から、店内に入ってすぐ左側の発券機にて待機票を配布します。並ばずに食べたい方はこちらをお忘れなく(といっても待機票のために並ぶのですが.......)
新勝飯店(신승반점:仁川広域市 中区 チャイナタウン路44番ギル 31-3 (北城洞2街 11-32))

再びお腹も膨れたところで、次の目的地であるソウルへ移動。
荷物を回収し、地下鉄1号線の電車へと乗り込むのでした.....

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