かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

光州の旅[201705_05] - 5.18の負傷者を手厚く看護した2病院、往年の駅前市場の雰囲気漂う夜市場

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の1日目(2017年5月20日(土))です。

 

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朝鮮大学校正門から歩いておよそ13分の場所にあるのが、こちらの施設「全南大学校病院」です。
同じく5.18史跡に指定されている光州赤十字病院(こちらのエントリーにて紹介)や光州基督病院(後述します)と同じく、5.18当時には戒厳軍の蛮行により負傷した市民、また市民軍が発足してからは銃創を負った武装市民たちが担ぎ込まれ、全南大の医学生を含む医療スタッフによる献身的な看護がなされた場所です。特に抗争4日目、5月21日の錦南路(クムナムノ)での戒厳軍による集団発砲により銃創患者が急増し血液不足が報じられるや、他の2病院と同様に市民たちによる自発的な献血の列が長蛇をなした場所でもあります。
他の2病院と大きく異なる点として、5月21日には市民たちが近隣の郡部の軍倉庫から奪ってきたLMG(軽機関銃)がここ全南大学校病院の屋上に据えられ、このとき戒厳軍が立てこもっていた全南道庁に対し銃撃が加えられた点が挙げられます。これらの経緯から、こちらは5.18の史跡9号に指定されています。
5.18の史跡や関連施設などを巡る518番バスこちらのエントリーにて紹介)は全南大学校病院のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「文化殿堂駅」(문화전당역)バス停から徒歩10分前後(約670m)で到着できるようです。
全南大学校病院(전남대학교병원:光州広域市 東区 霽峰路 42 (鶴洞 8)。史跡9号)

 

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全南大学校病院の道路を挟んだ向かい側には、「5・18ナクチ専門店」(5·18낙지전문점)というお店が。ナクチとはテナガダコのこと。こちらのお店のご主人がまさに5.18民主化運動の体験者であり、当時負傷した経験などから「5・18」の名前をつけたとのことです。その名の通りナクチ料理全般、中でもヨンポタン(연포탕:生きたナクチを丸ごと煮込むスープ)が名物だそうで、この日も来客でにぎわっていました。

 

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「5.18ナクチ専門店」から少し南東へ進むと、在来市場「南光州市場」(ナムグァンジュシジャン)があります。
この南光州市場は1960年初頭、当時すぐ近くにあった国鉄慶全(キョンジョン)線の南光州駅の駅前市場として発足。南海(ナメ)に沿って走る慶全線沿線の海産物をはじめ、南道の山の幸と海の幸が集まるマーケットとして列車本数の増加とともに発展してきたものの、慶全線のルート変更に伴い2000年に南光州駅が廃止されてからは衰退の一途へ。
これを打破しようと、釜山の「富平カントン市場」(こちらのエントリーにて紹介)が火付け役となり全国各地の在来市場も後を追う「夜市場」(ヤンジャン)を、それも往年の駅前市場を彷彿とさせるテイストを加えたうえで昨年(2016年)11月にスタートしたのが、ちょうどこの日開催中だった「南光州夜汽車夜市場」です。

 

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「夜汽車夜巿場」の名にふさわしく、市場の入口には電飾で飾られた蒸気機関車が、そして市場のメイン通りの中央には鉄道車両を模した飲食屋台が一列に並び、まさに夜汽車のようです。
大好きな在来市場、それも夜市場とあればゆっくり見物して屋台のグルメも味わいたいところですが、いよいよ夕闇が迫る中、本日中に行っておきたい場所があとひとつ。しかもその後には食事の予定もあります。うずうずする気持ちを抑えつつ、次の目的地へと向かうのでした。
南光州夜汽車夜市場は、毎週金・土曜日限定で午後6:30~午後11:00開催。市場は地下鉄1号線「南光州」駅3番出口を出てすぐの場所にあります。いつかゆっくり巡ってみたいものです。 

南光州夜汽車夜市場(남광주밤기차야시장:光州広域市 東区 楊林路 117 (鶴洞 74-24))

 

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再び光州川(クァンジュチョン)を渡って、南区(ナムグ)に入ります。
光州川にかかるハッカン橋、空にはきれいな夕焼けが。どうか明日もいい天気でありますように。

 

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南光州市場から15分近く歩いて、ようやくこの日最後の目的地、南区楊林洞(ヤンニムドン)に到着。この時点で午後8時を回っており、辺りはすっかり暗くなっていました。
写真1枚目の大きな建物は「光州基督病院」といい、前述した全南大病院や光州赤十字病院と同じく、5.18当時には負傷した市民や市民軍の兵士たちを昼夜を問わず看護し、また世代を問わず市民たちによる自発的な献血の列が形成されるなど「大同(テドン)精神」が発揮された場所です。そして現在も全南大病院と並び、光州市民の医療と看護を担っています。そうした経緯から「光州基督病院」として5.18の史跡10号に指定され、写真2枚目右手の碑石も建てられています。

 

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当日はあまりにも暗く、ちゃんと写真が撮れているか確信がなかったので、この翌々日(5月22日)に楊林洞巡りをした際にもこちらを再訪しました。写真はそのとき撮影したものです。
518番バス
は光州基督病院を含む楊林洞一帯を通りません。

光州基督病院(광주기독병원:光州広域市 南区 楊林路 37 (楊林洞 264)。史跡10号)

 

余談ですが、この光州基督病院がある楊林洞は、19世紀末から20世紀初頭にかけて光州を拠点としたキリスト教宣教師たちが建てた近代建築群など数々の文化財が多数立地し、光州でも特に魅カにあふれたエリアとなっています。旅の3日目、5月22日に訪問したこれら楊林洞のスポットについては追って紹介する予定です。ご期待ください。

今回の旅1日目となるこの日の5.18関連スポット巡りはこれで終了。
この日巡った5.18の史跡は、全30か所(当時)のうち13か所(再訪含む)。未踏の史跡は5か所を残すばかりとなりました。
さてこの日はある方との会食のお約束があり、その場所である西区の尚武(サンム)地区へ移動します。

 

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待ち合わせのため訪れたのは、地下鉄1号線「尚武」駅そばにある「ウォンドゥマッ」。注文を受けてから出てくるまで約20分かかるという「タットリタン」(닭도리탕:鶏と野菜の煮込み)が絶品とのことで、今回お会いする方におすすめいただいたお店です。

 

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そしてお約束していた方と面会し、ともに趣味とする韓国の旅の話が弾む中、お待ちかねのタットリタン登場。タットリタンといえば以前に食べたものがそうであったように猛烈な辛さを想像していたのですが、こちらはほどよい辛さに抑えられていました。色からもわかるように濃いめの味付けが実によくビールに合います。そして肝心の鶏肉も脂が抜け落ちない絶妙な加減で柔らかく煮込まれています。鶏肉も、ヤンニョムが染みたジャガイモもうんまい。

 

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同じくおすすめいただいたケランチム(계란찜:韓国風茶碗蒸し)。こちらもおいしかったです。

 

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こちらのお店「ウォンドゥマッ」の営業時間は午前10時30分~午前2時、日曜休。地下鉄1号線「尚武」駅5番出口を出てからはわずか徒歩2分の距離にあります。こちらの食レポも参考になりますのでぜひ見てみてください。
タットリタン、おいしかったです。楽しい夜をありがとうございました。

ウォンドゥマッ(원두막:光州広域市 西区 尚武中央路 6-28 (治平洞 264-3))

 

こうして光州の旅1日目は終了。翌日も続く5.18の旅のためゆっくり休むのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

光州の旅[201705_04] - 毎日午後5時18分にあの音楽が流れる時計塔、全南道庁周辺の史跡巡り

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com 

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の1日目(2017年5月20日(土))です。

 

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史跡11号の「旧光州赤十字病院」から徒歩数分で「5.18民主広場」に到着。
全羅南道(チョルラナムド)庁舎(全南道庁。現・アジア文化殿堂。写真2枚目の奥にある白い建物)の正面に広がるこの広場は、1980年5月当時の抗争期間において反・全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)、反・新軍部全斗煥をはじめとする軍上層部の非公式グループ。1979年の「12.12クーデター」で実権を掌握し、全斗煥の大統領就任後は「第5共和国」軍事政権の要職を担当)を掲げた市民決起大会が何度も開催された現場です。

 

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5.18当時には写真のように演台代わりの噴水台を囲んで数多くの市民がここに集結し、暴虐の限りを尽くした戒厳軍、そして実質的な最高権力者であった保安司令官の全斗煥打倒を誓った現場です。そうした経緯からこの噴水広場は「5.18民主広場」と名付けられ、5.18民主化運動の史跡5-2号に登録されています。
またここを起点とするメインストリート「錦南路」(クムナムノ)では5月18日から21日にかけて戒厳軍の無差別暴力が展開され、さらに21日には広場のすぐそばで戒厳軍による集団発砲が発生、そして最終日の27日には全南道庁での市民軍による最終抗戦と、いずれも数多くの死傷者を出すなど、民衆抗争の最前線にあった場所でもあります。 

 

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そんな5.18民主広場の一角にそびえ立ち、戒厳軍の蛮行と市民たちの抗戦、流血を見つめてきた歴史の証人というべき存在がこちらの時計塔です(こちらの写真2枚に限り2016年8月撮影)。こちらの時計塔は5.18以後、一時は同市西区の農城広場(ノンソンクァンジャン)へ移されましたが、2013年に再び5.18民主広場へ戻され、現在は「5.18時計塔」と呼ばれています。
この時計塔は毎日午後5時18分になると、5.18を、そして光州精神を最も象徴する歌である「ニムのための行進曲」(こちらのエントリーにて紹介)のチャイムが流れます。それがどうしても聴きたくて、この時刻に間に合うよう急いでやって来たというわけです。 

 

youtu.be午後5時18分、チャイムの動画を撮ってきました。
途中から歌声が聞こえるのは、たまたまそばにいた20人ほどの団体がこのメロディにあわせて歌い出したからです。かくいう私も気づいたら口ずさんでいました。
5.18の史跡や関連施設などを巡る518番バスこちらのエントリーにて紹介)で行く場合は、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停にて下車、すぐです。 

5.18時計塔(5.18시계탑:光州広域市 東区 錦南路1街 12-7)

 

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5.18民主広場を挟むようにして全南道庁と向かい合うのが、こちらの建物「尚武館」(サンムグァン)です。
元々は柔道場などに使用されていた施設でしたが、5.18当時は戒厳軍に殺害された市民たちの遺体安置所となり、行方不明となった親族を探しに多数の人々がここを訪問、幾多もの涙が流された場所です。その当時の凄惨極まりない様子は、自身もまた小学生の頃に5.18を体験した小説家、韓江(한강:ハン・ガン、1970-)氏の小説『少年が来る』でも詳細に描写されています。そうした経緯から、こちらの建物は5.18の史跡5-3号に指定されています。
前回来たときは閉鎖されており、5.18の史跡を示す丸い碑石にもカバーがかけられていましたが、5.18民主化運動37周年を記念して開催された展示企画の一環で旧全南道庁とともに開放され、碑石もその姿を見せていました。

 

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尚武館の内部。犠牲者たちの無数の棺が並べられた場所です。
そのことを示す案内パネルと、ろうそく(を模したLEDランプ)が立てられていました。
尚武館へは、518番バスは国立5.18民主墓地方面行き、尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停にて下車、徒歩約2分です。

尚武館(상무관:光州広域市 東区 文化殿堂路 381 (錦南路1街 12-1)。史跡5-3号)

 

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尚武館を出て、全南道庁周辺の史跡巡りをスタートします。
尚武館や5.18民主広場、旧全南道庁を含む「国立アジア文化殿堂」敷地内にある「プラザブリッジ」。この日はフリーマーケットが開催されていました。

 

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プラザブリッジを渡って少し歩くと、道路沿いの歩道に写真の碑石が現れます(こちらの写真に限り2016年8月撮影)。こちらは「緑豆書店旧跡」といい、1980年の5.18民主化運動当時は「緑豆書店」(ノクトゥソジョム)という名の古書店がこの場所にありました。
書店の店主であった金相允(김상윤:キム・サンユン)氏は、かつて「民青学連事件」で収監された経験のある民主運動家であり、その後1977年に緑豆書店を開業。軍事政権下では公然と販売することの難しかった民主化関連の書籍を扱っていたことから、民主化を願う学生や青年たちが出入りし、ときには討論が繰り広げられる場所となりました。
そうした来客の中には、労働問題に身を投じる決意で1978年にソウルから戻ってきた尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士(こちらのエントリーにて紹介)の姿もありました。トゥルブル夜学(こちらのエントリーにて紹介)の講学(講師)となったことで民主化運動への関心を強めた尹祥源烈士は金相允氏との親交を深め、いつしか金相允氏から書店の共同経営の誘いを受けるほど親密な関係となりました。
そうした中で迎えた5.18。前日・17日深夜に拘束された金相允氏に代わって妻の鄭賢愛(정현애:チョン・ヒョネ)氏が店を守る中、緑豆書店は尹祥源烈士たち光州の民主人士と全国の学生・民主化運動家とをつなぐ状況室としての役割を果たします。戒厳軍の電話回線切断により市外通話ができなくなってからは、戒厳軍を威嚇するための火炎瓶や、集団射撃により殺害された人々を悼むための喪章などを製作する場となりました。

 

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ちなみに店名にある「緑豆」とは、1894年に発生した東学農民戦争(甲午農民戦争東学党の乱)で東学軍を率いて日本軍と戦い、その翌年に処刑された全琫準(전봉준:チョン・ボンジュン、1854-1895)将軍のニックネームにちなんで付けられたものです。身長が約152cmと当時の男性の中でも小柄だったことからこの名がついたとされ、現在も「緑豆将軍」の愛称で韓国の人々に敬愛されています。
東学農民戦争の史跡や関連施設を巡る旅は、いつかしなければなりません。
518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、徒歩約2分です。 

緑豆書店旧跡(녹두서점 옛터:光州広域市 東区 霽峰路134 (壮洞 55-13)。史跡8号)

 

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緑豆書店旧跡の道路向かいから200mほど離れた場所に、また例の碑石があります(写真1枚目に限り2016年8月撮影)。こちらは「光州MBC旧跡」といい、1980年当時は国営放送局のひとつである文化放送MBC)の光州放送局があった場所です。
5.18当時、同じく国営放送局であるKBSとともに全斗煥たち新軍部寄りの報道に徹し、戒厳軍の蛮行に対する光州市民の抵抗を暴動かのごとく報道し続けたMBCに市民の怒りが爆発。市民による乱入を経た後、抗争3日目・5月20日の午後9時過ぎにはついに放火され、一夜にして全焼。こうした経緯からその跡地は5.18民主化運動の史跡7号に指定されています。
他の史跡とは異なり、こちらの碑石は「瑞元門の提灯」というアート作品と一体になっているのが特徴的です。
518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、目の前です。 

光州MBC旧跡(광주MBC 옛터:光州広域市 東区 霽峰路 145 (弓洞18-1)。史跡7号)

 

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緑豆書店旧跡からおよそ3分ほど歩くと、こちらの建物が見えてまいります。こちらは5.18民主化運動の史跡でこそありませんが、大きなかかわりのある場所です。

 

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この2階に入居しているのは「ミンドゥレ(민들레:タンポポ)小劇場」といい、劇団「トバギ」(토박이:「生え抜き」の意)の本拠地です。

 

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朴暁善(박효선:パク・ヒョソン、1954-1998)烈士(写真は5.18自由公園「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフ。今回の光州の旅における一連のエントリーでも度々登場する、尹祥源烈士など「トゥルブル(野火)7烈士」(こちらのエントリーにて紹介)の一人に列せられた人物ですが、朴暁善烈士にはもうひとつ「劇作家」としての顔があります。

朴暁善烈士は1979年、ここ光州にて複数の劇仲間とともに劇団「クァンデ」を旗上げしました。5.18直前の1980年4月には劇団創立からわずか1年にして、当時の社会問題をテーマにした劇『テジブリマダンクッ』の共同演出で高い評価を得ています。尹祥源烈士たちトゥルブル夜学と関わったのも、文化担当特別講学(講師)として参加したのがきっかけでした。
こうした縁もあり、朴暁善烈士は5.18においてクァンデの仲間たちとともに民衆抗争に飛び込みます。メディアに代わり光州市民の目となり耳となった『闘士会報』の制作に携わったほか、全南道庁前の噴水広場(現・5.18民主広場)で全7回開催された市民決起大会ではクァンデの劇団員とともに主管を担当、そして抗争指導部の発足後には広報部長を務めます。
その後20ヵ月に及ぶ手配生活と3ヵ月の獄中生活を経た後、1984年2月に立ち上げたのが現在も活動を続ける「トバギ」です。朴暁善烈士は拷問の後遺症に苦しみつつも「トバギ」の劇作家として活動を続け、1987年の「6月民主抗争」(こちらのエントリーにて紹介)を経た翌88年には5.18民主化運動を描いた演劇『クミの五月』(금희의 오월)を上演、高い評価を受けます。
朴暁善烈士は1998年9月、肝臓がんのため死去。その後も「トバギ」の劇団員たちは烈士の遺志を引き継ぎ、現在に至るまでここミンドゥレ小劇場を舞台に、5.18民主化運動を題材とした作品を中心に演劇活動を続けています。

 

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この日(5月20日)、同劇場にて公演されていた劇『チョンシルホンシル』(청실홍실:「青い糸と赤い糸」の意)のポスター。こちらも5.18をテーマにした作品で、よく見ると「原作:朴暁善」のクレジットがあります。
韓国の演劇には若干の興味がありつつも、ヒアリング能力の問題でずっと二の足を踏んでいましたが、「トバギ」の演劇は近いうちに観るつもりです。

ミンドゥレ小劇場(민들레소극장:光州広域市 東区 東渓川路 111 (東明洞200-12))

 

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ミンドゥレ小劇場から今度は南へ下って12分ほど歩いた場所に、写真の教会があります。
こちらの教会は「南洞聖堂」といい、抗争5日目、前日の戒厳軍の一時撤退による「解放光州」1日目の1980年5月22日、地元の名士12名が集まって収拾対策を協議した場所です。こうした経緯から、南洞聖堂は史跡25号に指定されています。
また1982年には、40日間あまりにも渡る獄中での断食闘争の末に亡くなった、元・全南大学生会長の朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)烈士の遺体を安置した場所でもあります。

 

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碑石の近くには、5.18当時の写真がいくつか展示されていました。
南洞聖堂へは、518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「東区庁」(동구청)バス停にて下車、徒歩約5分で到着します。

南洞聖堂(남동성당:光州広域市 東区 霽峰路 67 (南洞 55)。史跡25号)

 

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南洞聖堂から東へ向かって9分程度歩くと、遠くからでも目立つ写真1枚目の巨大なオブジェが見えてきます。こちらは「朝鮮大学校」の正門で、その向かって右側奥の脚の根元付近に5.18の史跡を示すあの碑石が建っています。

1980年5月。学生運動家たちを中心とした全国各地での民主化デモが拡大する中、当時の保安司令官であった全斗煥をはじめとする「新軍部」のメンバーは政権掌握を期して17日の午後9時、憲法に定められた国会通過手続きを経ることなく、同日の24時(翌18日午前0時)をもって非常戒厳の全国拡大措置を決定。地図上での新たな対象地域は済州島のみでしたが、「全国」拡大はすなわち戒厳司令部への権限集中を意味するものでした。またその対象には深夜の通行禁止だけではなく、政党・政治活動の禁止、大学休校令、集会・デモの禁止なども含まれていました。これを受け新軍部は17日深夜に全国の大学への戒厳軍投入を命令。
さらに非常戒厳の全国拡大に先立ち新軍部は、金大中(김대중:キム・デジュン、1924-2009。後の大統領)氏や金鍾泌(김종필:キム・ジョンピル、1926-)氏など政治家や在野人士、各大学の学生会長や学生運動家たちを相次ぎ拘束します。5月17日深夜から翌18日未明にかけて発生したこれら一連の動きを、韓国では「5.17クーデター」「5.17内乱」などと呼びます。

 

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こうして全国の大学に投入された戒厳軍が光州にてまず進駐したのが全南大学校であり、この朝鮮大学校でした。進駐後まもなく、戒厳軍兵士たちによる学生たちへの暴行が始まります。これこそが5.18民主化運動における一連の戒厳軍による暴虐、そして市民たちの10日間に及ぶ抗争の発端となりました。
以後、5月21日に戒厳軍が光州市中心部から戦略的撤退をするまで朝鮮大学校は戒厳軍の拠点のひとつとなり、数多くの同大生たちが筆舌尽くしがたい暴力を受けて拘束され、あるいは殺害され極秘裏に埋められています。こうした経緯から、朝鮮大学校は史跡12号に指定されています。
518番バス朝鮮大学校のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「東区庁」(동구청)バス停から徒歩10分程度(約690m)で碑石のある正門に到着できるようです。

朝鮮大学校(조선대학교:光州広域市 東区 畢門大路 303 (瑞石洞 421)。史跡12号)

 

日が落ちて、いよいよあたりが暗くなってまいりました。
この日のうちに訪れておきたい5.18の史跡は残り2か所。夕闇に追われるかのように足を速めるのでした。

 

それでは、次回のエントリーへ続きます。
次回は久々に料理が紹介できそうです。

 

【付記】
本年(2017年)5月の光州訪問後、新たに次の2か所が5.18民主化運動の史跡に指定されたとのことです。

●史跡28号(2017年8月15日指定)
全日ビルディング(전일빌딩:光州広域市 東区 錦南路 245 ((錦南路1街 1-1))

1965年築。5.18当時を含め、かつてここは「全南日報社」という新聞社(現存する同名新聞社とは別)が入居しており、この名前がついています。本エントリーにて紹介した「5.18時計塔」動画の後方に見える白いビルがまさにこの建物です。
錦南路沿い、抗争4日目(5月21日)の戒厳軍による集団発砲現場の真横に位置することから外壁の弾痕は以前から知られていましたが、最近になって10階フロア内の弾痕がその角度から空中発射されたものである可能性が濃厚となり、複数目撃談があるヘリコプターからの無差別射撃を裏づけるものとして注目が高まっています。10階フロアは弾痕を含め原型保存のうえ、近日中に公開される予定とのことです。

●史跡29号(2017年9月10日指定)
故洪南淳弁護士家屋(고 홍남순 변호사 가옥:光州広域市 東区 霽峰路 153 (弓洞15-1))
5.18当時は市民収拾委員となり、戒厳軍の市内進入を防ぐため衣服を脱いで地面に寝そべる「死の行進」など犠牲者抑制のために尽くした洪南淳(홍남순:ホン・ナムスン、1912-2006)弁護士の旧宅です。抗争終了後には内乱首魁容疑との濡れ衣を着せられて無期懲役の判決を受け、1年7ヵ月の獄中生活を余儀なくされました。釈放後も光州拘束協会長、5.18光州民衆革命記念事業および慰霊塔建立推進委員長などを務めるなど、5.18の真相究明と被害者の名誉回復のために生涯を捧げた人物です。

前回の指定(2013年の「トゥルブル夜学旧跡」史跡27号)から4年の空白を経て立て続けに2件の追加登録がなされたのは、何より37年を経た現在もなお真相究明や犠牲者・被害者たちの名誉回復に関わる人々の努力の賜物でありますが、5.18民主化運動を舞台に描き、本年8月の公開からわずか1ヵ月あまりで歴代興行ランキングトップ10に入る大ヒットとなったソン・ガンホさん主演の映画『택시운전사』(タクシー運転手)の影響も少なくないとみています。今後も注目してゆきたいと思います。

光州の旅[201705_03] - 5.18の烈士たちが行き交った聖堂とアパート、光州川沿いの史跡群

前回のエントリーの続きです。 

gashin-shoutan.hatenablog.com

1980年5月20日夕方の民主技師による車両デモのスタート地となった「無等競技場正門」を出て、そばを流れる光州川(クァンジュチョン)を渡り、20分ほど歩いて次の目的地である光川洞(クァンチョンドン)の教会「光川洞聖堂」へ。

  

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現在は写真1枚目の聖堂が建つ敷地内には、かつて天主教(カトリック)教義室と呼ばれていた建物の出入口部分が保存されています。こちらの教義室こそが、5.18民主化運動において抗争指導部の中心的役割を果たした尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士たちトゥルブル夜学の本拠地であり、また抗争当時は光州市民の目となり耳となった『闘士会報』が制作された場所として5.18の史跡第27号に指定されている「トゥルブル夜学旧跡」です。

 

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解体される前の旧天主教教義室、かつてのトゥルブル夜学の学舎。

トゥルブル夜学とは1978年、貧困のため高等教育を受けられないまま労働者とならざるを得なかった若者たちへの教育を目的として、朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)烈士たち有志により創立された私学です。この当時、韓国では義務教育が初等学校(小学校に相当)までであったこともあり、こうした夜学の需要がありました。
また当時の軍事独裁政権の下、労働運動や民主化運動に携わる人々による啓蒙の場という隠れた役割もありました。朴琪順烈士もその例外ではなく、1978年の全南(チョンナム)大学校における「民主教育指標事件」(同大教授11人が軍事政権の「国民教育憲章」を批判、「私たちの教育指標」宣言を発表したことで拘束、解職された事件)に関連して無期停学となった後、光州初の女性「偽装労働者」(労働環境の実態の潜入調査のため労働者となった人々の通称)となるなど労働問題に携わってきた人物であったからこそ、必然的行動であったのかもしれません。
夜学の名称「トゥルブル」(들불)とは「野火」の意で、1894年の東学農民戦争を題材とした劉賢鍾(유현종:ユ・ヒョンジョン、1940-)氏の小説『トゥルブル』から着想し、野火のように広がった東学農民戦争を称えようとの意図から朴琪順烈士が提案したものだとされています。

 

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このとき朴琪順・尹祥源の両烈士と同じ1期の講学(講師)には、朴琪順烈士と同じく全南大学校を無期停学となった後にトゥルブル夜学の創立に携わり、夜学では講学としての活動にとどまらず学堂歌を作詞・作曲、5.18後は拷問の後遺症に苦しみつつも青年運動に携わり、死後に「トゥルブル7烈士」に列された申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)烈士がいました。
1978年12月、朴琪順烈士が練炭ガス中毒により非業の死を遂げた後も、尹祥源烈士や申栄日烈士たち講学はその遺志を継いで夜学の発展に努め、そして運命の5.18を迎えることになります。

 

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トゥルブル夜学旧跡のある光川洞聖堂(写真は聖堂の正門)は、518番バス(こちらのエントリーにて紹介)が少し離れた場所を走っています。国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「現代自動車」(현대자동차)バス停で下車、徒歩約13分前後。光川洞聖堂の敷地にあるので夜間は観覧できないかもしれません。

トゥルブル夜学旧跡(들불야학 옛터:光州広域市 西区 竹峰大路119番ギル 28-13 (光川洞 589-4)。史跡第27号)

 

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トゥルブル夜学旧跡のある光川洞聖堂と路地を隔てて隣接する場所に、黄土色の古びた3階建てアパート3棟が「П」の字型に建つ団地があります。
こちらの団地は「光川市民アパート」といい、朝鮮戦争の避難民や貧困者などが暮らした、「板子村」(판자존:パンジャチョン。板子チッと呼ばれたバラックの集落)を整理した跡地に光州市初のアパートとして1970年に建てられたものです。
尹祥源烈士もトゥルブル夜学の講学となった直後から、5.18民主化運動の年の1月までここに入居していました。その当時の住民のほとんどは、劣悪な労働環境かつ低賃金下で働く近隣の光川工業団地の労働者たちでした。

 

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光川市民アパートに移った尹祥源烈士は、アパートの先住者であり住人たちの生活環境向上のための活動に奔走していた金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)と、生まれてすぐ親に捨てられ、苦難の生活を経て金永哲烈士と義兄弟となり同居していた朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956-1980)の両烈士と出会うことになります。写真はその金永哲・朴勇準両烈士の部屋があったアパートA棟(가棟)の玄関。

 

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こうして朴琪順烈士や尹祥源烈士たちトゥルブル夜学メンバー、および金永哲烈士たち光川市民アパート住民は縁を結ぶこととなり、後に金永哲、朴勇準の両烈士は2期講学として夜学に合流、またアパートの尹祥源烈士の部屋は夜学の講学と学講(生徒)たちのたまり場となり、その狭い部屋に20人前後が集い、夜を徹しての議論がなされたこともあったといいます。
写真はその尹祥源烈士の部屋があった、アパートB棟(나棟)です。

その後、金永哲烈士と朴勇準烈士は民衆抗争においてそれぞれ抗争指導部の企画室長、『闘士会報』の専門筆耕(清書)士として活動しますが、朴勇準烈士は全南道庁での最終抗戦で尹祥源烈士とともに死亡。また尹祥源烈士の最期を目の当たりにし、逮捕後に義兄弟の朴勇準烈士の死を知った金永哲烈士は監禁された営倉で自らの頭をコンクリート壁に打ち付ける自殺未遂を図り、そのとき受けた脳障害や拷問の後遺症により18年に渡って苦しみつつ、1998年にその生涯を終えました。こうした経緯もあり金永哲烈士と朴勇準烈士は、死後は尹祥源烈士たちとともに「トゥルブル7烈士」に列されています。

 

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この光川市民アパートは、再開発計画に基づき2019年までの解体が決定しており、この姿を見られるのもあとわずかとなっています。烈士たちがここに暮らしたことを示すものは何ひとつありませんが、往時の面影をしのぶことはできます。なお、こちらのアパートには現在も多くの住民が生活されています。どうかご訪問の際には、お静かに観覧いただくようお願いいたします。

光川市民アパート(광천시민아파트:光州広域市 西区 竹峰大路119番ギル 22-9 (光川洞 650-7))

 

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光川市民アパートからは最寄りの「光川派出所」バス停まで歩き、<봉선(鳳仙)37>バスに乗車、15分ほどで到着する「良洞市場駅(北)」にて下車します。
その名の示す通り、ここは光州の数ある在来市場の中でも最大級とされる「良洞市場」(ヤンドンシジャン)、および地下鉄1号線「良洞市場」駅(2番出口。写真左下)の最寄りのバス停です。

 

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バス停からおよそ100m、「景烈路」(경열로:キョンニョルロ)と呼ばれる道路沿いの屋根付きの歩道に、ここが史跡19号であることを示す碑石があります(日よけのシートで隠れていましたのでちょっとだけめくらせてもらいました……)
5.18当時、ここ良洞市場で商売を営む人々は市民軍の兵士たちに対し、チュモッパツ(주먹밥:おにぎり)をはじめとする飲食物や生活必需品、そして黒い布を無償で提供しました。黒い布は戒厳軍の犠牲となった市民を悼むための喪章となり、その余りは全南道庁屋上の太極旗(韓国国旗)に弔旗として添えられたといいます。

 

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こうした助け合い、分かち合いの精神をここ光州では「大同(テドン)精神」と呼び、良洞市場のみならず東区の大仁市場(テインシジャン)など他の在来市場でも発揮され、市民軍にとって大きな手助けとなりました。そうした経緯から現在、チュモッパツは大同精神を最も象徴する食べ物として位置づけられています。写真は前回のエントリーでも紹介した版画家の洪成潭(홍성담:ホン・ソンダム、1955-)氏の作品のうち、そうした「大同精神」の世界を表現した版画「大同世上」(대동세상:テドンセサン)です(地下鉄1号線「文化殿堂」駅構内「文化殿堂駅5.18記念広報館」にて2016年8月撮影)

518番バスは良洞市場のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きとともに「光州一高」(광주일고)バス停から徒歩10分前後(約700m)で到着できるようです。また前述のように地下鉄1号線「良洞市場」駅と直結していますので(1番出口を出て道路を渡ればすぐ)、数ある史跡の中でも特に行きやすい場所のひとつです。 

良洞市場(양동시장:光州広域市 西区 川辺左路 243 (良洞 441)。史跡19号)

 

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せっかく良洞市場へやって来たので、ちょこっとだけ内部を探索してみます。大好きな韓国在来市場だというのもありますが、光州の5.18史跡巡りで最も参考にしている「5.18記念財団」のガイドブック『광주의 오월을 걷자』(光州の五月を歩こう)によると、ここ良洞市場には5.18のときチュモッパツを握り市民軍の兵士たちに無料でふるまったハルモニ(年配の女性)の店「ソルナムトック専門店」が健在だとの情報があったからです。
一方で実はこの日(5月20日)、どうしてももう1か所だけある時刻までに行きたい場所がありました。こちらは前回のエントリーにて紹介した「民主技師の日大行進」のように一日限りでこそないですが、今後のスケジュールを考えるとこの日のうちに見ておきたかったものです。そうした制約もあって結局、時間までに件のお店を見つけることができませんでした(この日は昼食の時間がなかったのでトック食べたかった……)

また、ここ良洞市場の一角にはトンタッ(통닭:韓国風フライドチキン)の2大名店である「元祖良洞トンタッ」と「スイルトンタッ」が向かい合って位置しています。秘かに楽しみにしていたのですが、行ってみるとどちらのお店も長蛇の列が形成されており、並んでいたら予定の時刻までには到底間に合いそうにありません。そんなわけでトンタッはあきらめ、歩みを進めます(この日は昼食の時間が…以下略)

 

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ここからしばらくは、光州川沿いの史跡巡りとなります。
川沿いに南へ歩くと、木々の間に幅広い階段のある丘が右手に現れます。
この丘の一帯は「光州公園」といい、かつて聖居山(성거산:ソンゴサン)とも呼ばれたこの丘の頂上には日帝強占期に「光州神社」が設置され、光復後はその跡地が公園広場として活用されています。
こちらの公園広場は、抗争4日目の1980年5月21日午後1時過ぎに市内の錦南路(クムナムノ)にて発生した戒厳軍の集団発砲を受け、これに対抗するため軍倉庫や警察署から奪った銃器で武装し始めた市民たちを「市民軍」として組織化するための編成の場所となり、予備役の軍人や兵役経験者などが教官となっての射撃訓練などが実施されました。このため光州公園広場は「市民軍編成地」として5.18民主化運動の史跡20号に指定されており、公園広場へ登る階段の途中に、ここが史跡であることを示すあの碑石があります。

 

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頂上部の光州公園広場。まさに市民軍編成地の現場です。
5.18民主化運動を描いた2007年の映画『光州5・18』(原題『화려한 휴가』:華麗なる休暇)においても、アン・ソンギさん演じる予備役軍人のパク・フンスがここで市民軍の兵士たちを前に演説するシーンが登場します(映画で後方に映っていた塔は2015年に写真のものに建て替えられたようです)。
このほか当時には、公園内にある市民会館が市民軍の治安担当本部として使用されました。また全南道庁での最終抗戦があった5月27日には、ここでも市民軍と戒厳軍との衝突が展開されています。
518番バスは光州公園広場のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「錦南路4街駅」(금남로4가역)バス停から徒歩12分前後(約750m)で到着できるようです。

光州公園広場-市民軍編成地(광주공원 광장-시민군편성지:光州広域市 南区 中央路107番ギル 15 (亀洞21-1)。史跡20号)

 

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光州に沿って、さらに進みます。
光州公園広場の階段前にある橋(光州橋)を1番目とすると、4番目の「瑞石橋」(ソソッキョ)を渡った先の角に、またあの碑石が現れます。
こちらは5.18当時「光州赤十字病院」があった場所であり、現在は「旧光州赤十字病院」として史跡11号に指定されています。

 

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この光州赤十字病院は、5.18当時は基督病院や全南大病院(いずれも後日紹介予定)とともに、戒厳軍により負傷させられた市民や市民軍兵士たちを献身的に治療した場所です。また、銃創者急増に伴う血液不足との情報が流れるや市民たちが献血の列をなしたといい、その中には小学生の子どもの姿もあったといいます。
518番バスはこのそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停から徒歩10分弱(約600m)で到着できます。 

旧光州赤十字病院(구 광주적십자병원:光州広域市 東区 川辺右路415 (不老洞 174)。史跡11号)


ふと時計を見ると、時刻はすでに午後5時を回っています。予定の時刻まであと十数分。
とはいえ目的地は目と鼻の先です。さらに歩みを進めるのでした。

 

それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

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【付記】
今回のエントリーにも登場したトゥルブル7烈士の一人、金永哲烈士(写真は「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフがご存命のときに綴った、光川市民アパートでの活動、5.18民主化運動を含む自身の回顧録などを収めた書籍『김영철 열사 유고모음 못 다 이룬 공동체의 꿈』(金永哲烈士遺稿集 見果てぬ共同体の夢)が、5.18記念財団のサイト内にて全文無料公開されています。中には1980年5月27日早朝の全南道庁における最終抗戦、尹祥源烈士の最期にも言及した貴重な証言も含まれます。韓国語のみですが、テキストコピーもできるので機械翻訳でお読みいただけるかと思います。今回の旅の各エントリーでも参考文献のひとつとさせていただきました。ぜひご一読のほど。

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