かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

光州の旅[201705_10] - 近代建築から「ペンギン村」まで見どころの宝庫、楊林洞(ヤンニムドン)を歩く

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅の3日目(2017年5月22日(月))です。

羅州(ナジュ)から帰ってきて、光州松汀(ソンジョン)駅から再び都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、着いたのは南光州(ナムグァンジュ)駅。ここから一昨日(20日)の夕方と同様、徒歩で南区(ナムグ)の楊林洞(ヤンニムドン)を目指します。

  

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楊林洞は、かつてこの一帯に楊(ヤナギ)の木が数多く生えていたことからその名がついたとされています。また19世紀末から20世紀初頭にかけてここ光州で布教活動をした宣教師の拠点となった地域であり、それら宣教師が建てた建築が現在も複数保存されていることから「楊林洞歴史文化マウル」あるいは「楊林洞近代文化遺跡」などと呼ばれています。
これら以外にも伝統韓屋や各種文化財、美術館などが点在し、そして近年では縁のある音楽家を記念する街路、さらには他に類を見ない異色の街づくりがなされている楊林洞。そうした情報を見聞きして、以前からずっと行ってみたい、ついにはその思いが高じて「仮に韓国へ転居するならばいちばん住んでみたい街」とまで思うほどでしたが、今回ようやく念願の訪問がかなうことになりました。

 

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楊林洞へ向かう途中にあった「南光州プルンギル公園」。
国鉄(現・Korail)慶全(キョンジョン)線のルート変更に伴い2000年に廃止された南光州駅の跡地を公園に転用したもので、ここからKorail光州駅までの線路跡を全長4.5kmにも及ぶ散策路に整備した「廃線プルンギル」(푸른길:「青い道」の意)の起点です。
こうした廃線跡を散策路に転用した例としてはソウルの「京義線スッキル」(경의선 숲길:スッキルとは「森の道」の意)、釜山の「海雲台東海南部線廃線敷地」(해운대 동해 남부선 폐선 부지)などがあり、また別の活用例としては江原道(カンウォンド)旌善(チョンソン)郡などにある、廃線のレール上を2~4人乗りの足漕ぎ4輪車で走る「レールバイク」が挙げられます。韓国の人々は鉄道廃線の再利用に長けているな、とつくづく思います。

 

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当時のホームと思しき場所には、廃車となったムグンファ号の客車が。集会室などに使用されているようです。

南光州プルンギル公園(남광주푸른길공원:光州広域市 東区 霽峰路 7(鶴洞 55))

 

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公園と隣接する光州川(クァンジュチョン)にかかる南光橋(ナムグァンギョ)の北側には、かつての慶全線の鉄橋がそのまま残されていました。さらにその上には、鉄橋の橋脚を転用した歩道橋が。

光州川を渡ると、いよいよ楊林洞です。

 

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大通りである台南大路(テナムデロ)沿いにしばらく歩くと、大きな漢字、それも簡体字が書かれたこちらの道が見えてまいります。
ここから始まる全長233mの道路は「鄭律成通り展示館」といい、ここ楊林洞に生家の残る音楽家、鄭律成(정율성 / 정률성:チョン・ユルソン/チョン・リュルソン、1914-1976)氏を記念して、その生家そばの街路全体を展示館としたものです。

 

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鄭律成氏は1914年、現在の光州広域市東区不老洞(プルロドン)生まれ、1917年に和順(ファスン)郡綾州(ヌンジュ)へ転居、翌年には再び光州へ戻り、1928年に楊林洞の崇一小学校を卒業。1933年、抗日運動のため兄とともに中国南京へ渡り義烈団の朝鮮革命幹部学校に入学、その一方でピアノやバイオリン、声楽などを学びます。1936年に「五月の歌」で音楽家としてデビュ一、延安(イェンアン)の魯迅芸術学校に在学中の1938年から翌年にかけて代表作「延安頌」「延水謡」「八路軍大合唱」などを発表します。
光復後はいったん平壌へ渡ったものの、米軍政支配下となった全羅南道への帰郷はかなわず、1950年には再び中国に呼び戻されます。その後は中央楽団の専門作曲家として活動し、後に中国国籍を取得。しかし文化大革命を批判したために活動停止を余儀なくされ、不遇の晩年を送ることになります。
鄭律成氏の生涯作曲数は実に360曲以上、中でも「八路軍大合唱」を構成する「八路軍行進曲」は、1988年に中国人民解放軍軍歌として正式認定されたこともあり、中国では絶大な知名度を誇るそうです。

 

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中国から贈られた鄭律成像。あふれる才能がみごとに表現されています。上半身だけなのにこんな勇ましいポーズの像は見たことがありません。

鄭律成通り展示館(정율성 거리전시관:光州広域市 南区 鄭律成路 (楊林洞 507)一帯。リンクは入口にある鄭律成像の位置)

 

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鄭律成通り展示館を北へ向かって通り抜け、その先で左に折れると、写真の「楊林教会」が現れます。
実はここ楊林洞には3つの「楊林教会」がありますが、大韓イエス教長老会に属するこちらの教会は最も創立が古く、1904年に米国の宣教師ユージン・ベル(Eugene Bell、1868-1925。韓国名:裵裕祉(ペ・ユジ))氏が自身の私宅で礼拝を捧げたものが発祥とされます。現在の建物は1954年築。

 

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この楊林教会と隣接する建物が、写真の「オーウェン紀念閣」です。
ここ光州にて宣教師として活動、殉教したクレメント・C・オーウェン(Clement C. Owen、1867-1909。韓国名:呉元(オ・ウォン))を記念するため1914年に建てられた建物で、当時の儒教的慣習に基づいて出入口が男女別になっている点が特徴です。
ちなみに2017年10月現在、ここオーウェン紀念閣では南区観光局などが主催する音楽歌劇(入場無料!)が毎月第3週土曜日に上演されています。

オーウェン紀念閣(오웬기념각:光州広域市 南区 白瑞路70番ギル 6 (楊林洞 67-1)。光州広域市有形文化財第26号)

 

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オーウェン紀念閣から西へ向かって歩くと、写真の門が見えてまいります。
こちらはスピア女子中学校・高等学校といい、前述したユージン・ベル宣教師が1908年に創立したスピア女学校がその前身です。日帝強占期の1937年には神社参拝の拒否により廃校処分となったものの、1945年の光復(日本の敗戦による解放)後まもなく再開。1951年の教育法改正により中・高併設となって現在に至ります。こうした歴史もあり、校内には築100年前後になる文化財的価値の高い西洋建築が複数残されています。
詰所にいた管理人さんに見学の許可をいただいたうえで、門を入ります。立派な門ですが実は裏門だそうで、正門は別に存在します。

 

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門のすぐそばの高台にある「カーティスメモリアルホール」。
1925年に亡くなった創立者ユージン・ベル(裵裕祉)宣教師を追悼するため同年に建てられたもので、別名を「裵裕祉記念礼拝堂」といい、宣教師とその家族の礼拝堂に利用された建物です。
円形窓と尖頭アーチ形状の窓が特徴的なこちらの建物は、「光州旧スピア女学校カーティスメモリアルホール」として国指定登録文化財第159号になっています。

光州旧スピア女学校カーティスメモリアルホール(광주 구 수피아여학교 커티스 메모리얼 홀:光州広域市 南区 白瑞路13 (楊林洞 238-1)。国指定登録文化財第159号)

 

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裏門を入った正面にある「光州3・1万歳運動記念像」。
1919年3月1日、ソウル・タプコル公園での独立宣言朗読より始まった史上最大の抗日独立運動「3.1運動」。たちまち朝鮮全土に拡大したこの運動にはスピア女学校の全校生徒も参加、教師2人と生徒21人が投獄されました。これを記念して1995年に建てられたのがこちらの像です。

光州3・1万歳運動記念像(광주 3‧1만세운동기념동상:光州広域市 南区 白瑞路 13 (楊林洞 246))

 

光州3・1万歳運動記念像を撮っていると、門の詰所にいた管理人さんが近づいてきて、次の場所まで案内してくださるとのこと。感謝しつつ後に続きます。

 

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管理人さんが案内してくださったのが、学校でも奥側の高台の上にある「スピアホール」。
若くしてこの世を去ったジェニー・スピア(Jennie Speer)氏を記念するため、その姉が5,000ドルを献金して1911年に竣工した3階建ての建物で、この竣工とあわせて校名が「スピア女学校」となりました。当時一般的であった赤レンガではなく灰色のレンガが用いられているのが特徴です。「光州旧スピア女学校スピアホール」として国指定登録文化財第158号になっています。あいにくこの日は補修工事のため覆いがかけられていました。

光州旧スピア女学校スピアホール(광주 구 수피아여학교 수피아 홀:光州広域市 南区 白瑞路 13 (楊林洞 251)。国指定登録文化財第158号)

 

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スピアホールのそばには「スピア女学校3・1運動万歳示威準備地」との案内板が。示威とはデモのこと。

ここで管理人さんはお仕事のため別の場所へ。ご案内いただきありがとうございました。あとひとつ残る校内の近代建築へ向かいます。

 

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「ウィンスブロウホール」。
宣教師の妻であったウィンスブロウ氏の寄付金5万ドルをもとに、スウィンハート宣教師により1927年築。玄関の上の三角形の屋根を支えるトスカーナ式の円柱は、同時期の西洋建築では珍しいものだそうです。「光州旧スピア女学校ウィンスブロウホール」として国指定登録文化財第370号になっています。

光州旧スピア女学校ウィンスブロウホール(광주 구 수피아여학교 윈스브로우 홀:光州広域市 南区 白瑞路 13 (楊林洞 242)。国指定登録文化財第370号)

 

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スピア女子中・高等学校の裏門を出て西へ少し進み、左に折れて坂道を登った突き当たり、学校と隣接する丘の中腹に、やや低めの1本の木が立っています。
この木はホランカシナムといい、和名はヤバネヒイラギモチ(学名:Ilex cornuta)。高さは6メートル程度ですが樹齢は400年にもなるといい、ホランカシナムとしては相当大きいものだそうです。元々は2本の木だったものが成長につれ合体し、1本の木のようになったと推定されています。このように珍しいものであるため、「楊林洞ホランカシナム」として光州広域市指定記念物第17号に指定されています。

 

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ホランカシナムは同じモチノキ属であるセイヨウヒイラギと同様、晩秋から初冬にかけて熟するその赤い実が十字架にかけられたキリストの血を象徴するとして、クリスマスの飾り付けに用いられたりします。かつてここ楊林洞に居を構えた宣教師たちも、この木の葉や実を用いた飾りでクリスマスを迎えたのかもしれません。

楊林洞ホランカシナム(양림동호랑가시나무:光州広域市 南区 済衆路47番ギル 20 (楊林洞 230-1)。光州広域市指定記念物第17号)

 

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ホランカシナムの近くから撮った楊林洞の風景。向かって左側には先ほど立ち寄った楊林教会(大韓イエス教長老会楊林教会)が、中央やや右寄りには別の楊林教会(韓国基督教長老会光州楊林教会)の尖塔が見えます。

 

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ホランカシナムのある一帯はちょっとした林になっています。写真はそこに置かれていた、茶兄・金顕承詩人(後述します)の肖像が刻まれたベンチ。

 

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ホランカシナムの立つ林の間の道を登ったところにある「ウイルソン宣教師私宅」。
1905年、ノーラン(J. W. Noran)宣教師によりここ楊林洞に開業した医療施設、光州済衆(チェジュン)院。その二代目院長として1908年に赴任してきた、ロバート・M・ウイルソン(Robert M. Willson。韓国名:禹一善(ウ・イルソン)または禹越淳(ウ・ウォルスン))宣教師の私宅として1920年代に建てられたものです。
ウイルソン宣教師は貧困者や孤児、そしてハンセン病患者の救済に尽力した人物で、1912年には宣教師の献金や英国からの支援などにより本格的なハンセン病診療を開始。後に済衆院から改称した済衆病院の病棟を西洋建築で建て替えるなど、その発展に功績を残しました。しかし当時はハンセン病患者への偏見が根強く近隣住民の反発が大きかったうえ、1926年に下された朝鮮総督府からの強制移転命令を受け、同じ全羅南道の麗水(ヨス)に移転先となる愛養院(エヤンウォン)を設立、ハンセン病患者たちとともに光州を去りました。
その後、済衆病院は朝鮮初の結核専用病棟を設置しつつも1940年には日本により強制閉鎖、光復後の再開を経て今日の光州基督病院(こちらのエントリーにて紹介)へと至ります。
ウイルソン宣教師私宅のすぐ脇には、ユージン・ベル宣教師やオーウェン宣教師たちが眠る宣教師墓地への階段がありました。次回訪問時には登ってみようと思います。

ウイルソン宣教師私宅(우일선 선교사 사택:光州広域市 南区 済衆路47番ギル 20(楊林洞 226-25)。光州広域市指定記念物第15号)

  

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ウイルソン宣教師私宅の近くにあった建物。外壁などがよく似ていますが、これらは文化財ではなく近年建てられた住宅です。景観の調和を図っているようです。

 

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ウイルソン宣教師私宅の北側一帯の丘の上には、1955年に開校した湖南(ホナム)神学大学校が建っています。

 

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この湖南神学大学校のキャンパスに、写真1枚目の碑が建っています。
「茶兄金顕承詩碑」というこちらの碑は、「茶兄」(다형:タヒョン)の号を持つ詩人・金顕承(김현승:キム・ヒョンスン、1913-1975)氏を記念し、その詩「가을의 기도」(秋の祈り)を刻んだものです。
金顕承詩人は平壌生まれですが、楊林教会の牧師として赴任した父とともに光州へやって来ました。当時は宣教師の私宅街であった湖南神学大キャンパス一帯の思索が好きだった縁で、ここに詩碑が設置されています。

湖南神学大学校 茶兄金顕承詩碑(호남신학대학교 다형김현승시비:光州広域市 南区 済衆路 77 (楊林洞 226-5))

 

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湖南神学大キャンパスから坂道を下ると、写真の建物があります。
こちらは「茶兄茶房」(タヒョンタバン)といい、コーヒーをこよなく愛するあまり金顕承詩人自らつけた号「茶兄」を冠して2012年にオープンした無人カフェです。

 

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店内には、宣教師たちが移り住み始めた20世紀初頭ごろの楊林洞の写真が所狭しと(天井にまで!)並べられています。壁際には金顕承詩人の等身大パネルも。

 

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料金箱に1,000ウォン(約100円)以上の任意のお金を料金箱に入れることで、誰でも自由にお湯を沸かしてインスタントコーヒーなどを飲むことができます。そんなわけで私もほっとひと息。

 

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実はこちらの茶兄茶房、5年間続いたプロジェクトの終了に伴い、この日の9日後(5月31日)をもってクローズすることが決定しており、「グッバイ茶兄茶房」で始まるその旨の案内が張られていました。壁面や金顕承詩人のパネルに貼られた付箋紙は、訪問者が愛惜のメッセージを残したものです。
住民の方々にとっては歓談の場所として、また私のような旅行者にとってはマイルストーン&休憩所として、そしてすべての人々にとって楊林洞の歴史を振り返ることのできる展示施設として、長らく愛されてきた茶兄茶房。幸い建物は残されているようですので、できれば光州広域市が支援するなどして再びドアを開くことを願うばかりです。

茶兄茶房(다형다방:光州広域市 南区 済衆路47番ギル 2 (楊林洞 105-28))

 

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茶兄茶房のすぐ近くにある「素心堂曺亜羅記念館」。女性の地位向上のために生涯を捧げ光州YWCA名誉会長などの要職を歴任した「光州の母」であり、5.18民主化運動の際には市民収拾委員を務め、後に6ヵ月もの獄中生活を強いられた曺亜羅(조아라:チョ・アラ、1912-2003)氏を記念する施設です。次回は立ち寄ってみたいと思います。

 

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楊林洞の東端、光州川に近い住宅街の一角に、「ペンギンマウル」と呼ばれるエリアがあります。「マウル」とは村、集落という意味がありますので、日本でいうならば「ペンギン村」といったところでしょうか。

 

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「ペンギンマウル」の名にふさわしく、ペンギンさんが描かれた壁画がいたるところにあります。「ペンギン創作所」というお店も。なごみます。

 

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しかし、こちらのマウルの真骨頂は、写真1枚目にある無数の掛時計をはじめ、壁面や空き地を埋め尽くす無数のがらくたにあります。
楊林洞の住宅地の片隅にあるこの地域は、2013年頃から住民たちにより掛時計やその他がらくたで飾られるようになり、韓国のあちこちで見かける壁画村とは一線を画した異色の街づくりがなされるようになりました。それがいつしか話題となり、いまでは楊林洞の観光スポットのひとつに数えられるまでになっています。

 

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このマウル一帯の住民はご年配の方が多く、その歩く姿がよちよち歩きのペンギンを彷彿とさせるとして自ら名付けたものだそうです。自宅のがらくたを持ち寄ってペンギンマウルを手作りしたのも、そうしたご老人の方々が中心だとのこと。

 

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「ペンギン酒幕」と書かれたお店。壁面にはマッコリ用と思しきやかんとアルマイトの鍋がたくさん掛けられています。夕方あたり、こういうところでマッコリを飲みつつぼんやりしてみたいですね。

 

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こちらのペンギンさんの看板には「楊林洞歴史文化マウル 定期ツアー集合場所」とあります。どれも気になりますが中でも水・土曜日19:30スタートの「夜間ツアー」とか楽しそうですね。いずれも事前予約が必要です。

ペンギンマウル(펭귄마을:光州広域市 南区 川辺左路446番ギル 7 (楊林洞 24-93))

 

予約していたKTXは15時発、時刻はまもなく13時。名残惜しいですが、この後予定していた昼食や買物を考慮するとそろそろ楊林洞を発つべき時間です。
今回の楊林洞での散策時間は3時間弱。駆け足気味とはいえこの日だけで10か所あまりのスポットを巡りましたが、これら以外にも光州広域市民俗資料第1号の「李章雨(イ・ジャンウ)家屋」や同第2号の「崔昇孝(チェ・スンヒョ)家屋」のような伝統韓屋、また「楊林美術館」や展望台のある「社稷(サジク)公園」など巡るべきみどころはまだまだたくさん控えています。
わずかな滞在時間とはいえ、宣教師たちの遺した近代建築など数々の文化財とと緑が調和した静かなたたずまいは居心地のよいものであり、実際に訪れてみて「韓国でいちばん住んでみたい街」との思いをさらに強くしました。
必ずやまたここ楊林洞を訪問し、じっくり時間をかけて巡ることといたします。

楊林洞へのアクセスですが、都市鉄道(地下鉄)1号線は通っていないので私のように南光州駅から歩くのが手っ取り早いです。南光州駅2番出口から先に紹介した「鄭律成通り展示館」の入口まで徒歩約9分(約590m)。ちなみに来年(2018年)着工予定という都市鉄道2号線は楊林洞付近に駅(213番)が設置され、南光州駅と尚武(サンム)駅で1号線と接続する予定ですが、開業は2022年以降とまだまだ気の長い話です。


それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

羅州の旅[201705_09] - 1000年の古都で100年の伝統のコムタンを味わう

前回のエントリーの続きです。

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韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅、明けて3日目(2017年5月22日(月))です。

前日をもって「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の全史跡とほぼすべての関連施設を巡ってしまったので、この日は光州および周辺地域の観光スポットとグルメ巡りに徹することにしました。

 

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そんなわけでまずは都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、KTXの停車駅であるKorail光州松汀(ソンジョン)駅へ。この駅の2階、跨線橋の手前にある写真2枚目のコインロッカーに荷物を預けます。光州松汀駅はこちらに加え地下鉄の駅構内にもコインロッカーがあるので、荷物を置いておくには便利です。
光州松汀訳からは木浦(モクポ)駅行きのムグンファ号に乗車、一時的とはいえ2日ぶりに光州広域市を離れます。

 

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およそ11分ほどで、この日最初の目的地である全羅南道(チョルラナムド)羅州(ナジュ)市の「羅州」駅に到着。初めての訪問です。

羅州平野に位置する羅州の歴史は三韓時代にさかのぼることができ、馬韓を構成する54か国のうち不彌(プルミ)国があったとされています。下って高麗時代の西暦1000年ごろ、ここ羅州には全羅北道(チョルラブット)の全州(チョンジュ)などと同じく、全国を分割した地方行政単位「牧」(モク)が設置されます。「全羅道」の名前はこの全州と羅州の頭文字から命名されたものです。この羅州牧の地位はその後形を変えつつも、朝鮮時代末期の1895年まで900年も存続することになります。
1895年の甲午改革により羅州には観察府が置かれましたが、その翌年には13道制施行とあわせて光州へ移転、そのまま光州が道庁所在地となったために南道の代表都市の地位から陥落することなりました。朝鮮戦争以後は隣接する光州の発展と反比例するように長らく衰退が続き、約30年前の1986年には17万人近くいた人口が一時は9万人を割り込みましたが、2010年代に市内に誕生した光州全南共同革新都市、通称「ピッカラム革新都市」の発展に伴い近年は再び人口増に転じ、2015年には10万人台を回復しています。

 

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市内を貫流する栄山江(ヨンサンガン)には栄山浦(ヨンサンポ)という港があり、かつては西海(黄海)で捕れたホンオ(ガンギエイ)の水揚げで栄えましたがその後衰退、1970年代には河川工事に伴い港としての機能が消滅。それでも栄山浦は現在もなおホンオの街として広く知られ、多くのホンオ専門料理店が並んでいます。
このほか羅州は日帝強占期に始まった梨の生産でも有名であり、同じく梨の生産地であり羅州市とほぼ同緯度上に位置する鳥取県倉吉市姉妹都市縁組を締結しています。写真は羅州駅近くにあった、市の標語らしきものが書かれた塔で、てっぺんには名産の梨を持ったキャラクターが立っています。

とはいえ、韓国を知る日本人にとって羅州といえば真っ先に思い浮かべるのはあの料理ではないでしょうか。かくいう私も今回いちばんの訪問目的はそれですが、せっかく来たのでまずは徒歩で回れる範囲のスポットを訪問することにしました。羅州駅を出て市街地方面へ進みます。

 

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羅州駅を出て少し歩いたところにあったミニストップ。韓国のコンビニで最も店舗数が多いのはCUの12,000店弱(2017年7月末時点。以下同じ)で、続いて僅差でGS25。ミニストップセブン-イレブン(9,000店弱)に大きく水をあけられての業界4位(2,400店強。CUやGS25の約1/5)のはずですが、光州広域市やここ羅州市ではあちこちでよく見かけます。そういえば昨年(2016年)10月に行った同じ全羅南道の宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)では、中心部にあるコンビニの3件中2件がミニストップでした。

 

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羅州駅から市中心部へ向かって2kmほど歩くと、写真の立派な門が見えてまいります。
ロータリーの中心に建つこちらの門は「南顧門」(ナムゴムン)といい、かつて羅州の街を楕円形に取り囲んでいた羅州邑城(읍성:ウプソン。都市や集落を城壁で囲んだもの)の南門で、東漸門(トンジョムムン)、西城門(ソソンムン)、北望門(プンマンムン)とともに東西南北に配置されていた門のひとつです。
羅州邑城は、元々は高麗時代に倭寇から羅州牧を防衛するために築かれた土城で、これを1404年に石垣積みに改築、さらに1457年には拡張されています。また1592年の壬辰倭乱豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)以後には大規模な補修工事が加えられ、その後大韓帝国時代まで維持されてきたものの、日帝強占期の1920年前後には南顧門を含むほぼすべての城壁が破壊されます。光復後も都市化による毀損が進む中、1980年代頃には復元作業がスタートし、1993年には写真の南顧門が、また2006年には東漸門が復元されました。
現在こちらの南門址は、現在もわずかに残る城壁の遺構とともに「羅州邑城」として国の史跡第337号に指定され、復元された南顧門は羅州のランドマーク的存在となっています。

南顧門(羅州邑城南門)(남고문(나주읍성 남문):全羅南道 羅州市 南内洞 2-20。史跡第337号)

 

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南顧門の正面の歩道脇には、「南顧門広場」と題された写真の小さな碑がひっそりと建っていました。1980年、5.18民主化運動当時は広場だったここ南顧門は5月21日(抗争4日目)から市民軍の拠点となり、集まったデモ隊や車両などにキムパッやチュモッパッ(おにぎり)、飲料水などを無料提供するとともに、戒厳軍の進入を防ぐため市民軍が昼夜警戒任務に当たったとあります。

5.18の抗争期間中には光州市民による車両デモ隊がここ羅州を含む近隣の郡部に出動し、暴虐の限りを尽くす戒厳軍への対抗のための協カを呼びかけました。これを聞いた地域住民は食糧や消耗品を惜しまず提供し、また各地域の警察署や軍倉庫からの銃器奪取にも協力しています。中でも産炭地であった和順(ファスン)では戒厳軍の蛮行に激怒した炭鉱労働者が発破用のダイナマイトを進んで提供、市民軍の拠点となった全南道庁に運ばれました。戒厳軍が侵攻してきた場合に道庁もろとも爆破する計画もありましたが、最終的に使用されることはありませんでした。

このように街中、それも光州市内ですらない場所を意図せず歩いていても、5.18民主化運動に深い縁のある場所に遭遇するということ。5.18が光州やその周辺地域に生きる人々に与えた爪痕の深さを改めて思い知らされます。

 

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南顧門を過ぎ、さらに東へ向かって突き当たりを右へ曲がると、写真の建物が現れます。こちらは2001年に現位置へ移転するまで使用されていた、国鉄(現・Korail)湖南(ホナム)線の旧羅州駅舎です。1913年開業、正確な築年は不明ですが遅くとも1923年までにはこの駅舎が存在していました。

1929年10月30日、ここ羅州駅で光州中学校(現在の高校に相当。日本人学校)の男子生徒が光州女子高等普通学校(朝鮮人学校)の女子生徒の髪を引っ張る嫌がらせをし、これに抗議した光州高等普通学校(光州高普。朝鮮人学校)の男子生徒との間で口論となります。このときは日本の警察官によって制止させられたものの、その後も光州高普と光州中学の両校生徒の小競り合いが連日で発生し、そして11月3日にはついに両校生徒のグループ同士による乱闘が発生します。その後いったん学校に戻った光州高普生はまもなくデモ隊を形成、これに合流した光州農業学校の生徒とともに「植民地奴隷教育撤廃」等のスローガンを掲げ光州市内を行進したところ(1次デモ)、うち40名がその翌日以降に警察により拘束されてしまいます。これに抗議した同月12日の2次デモもまた光州高普・光州農業合わせて250名もの検束者を出し、デモに呼応した光州女子高等普通学校や光州高等師範学校の生徒を含め、無期停学処分あるいは退学処分者が続出しました。
これら学生たちの抗日運動は同年末には京城(現・ソウル)に飛び火し、そして翌1930年には朝鮮全土に拡大、1919年の「3.1運動」以来とされる規模にまで発展。現在ではこれら一連の学生運動を総称して「学生独立運動」、その発端となった羅州および光州における運動を「光州学生独立運動」あるいは「光州学生抗日運動」などと呼びます。
こうした背景には従前の独立運動弾圧への抵抗に加え、朝鮮人への高等教育制限や日本人教師による差別など日本の植民地主義的教育政策に対する朝鮮人学生や独立運動家たちの鬱積した怒りを挙げることができます。また羅州特有の要因として、前述した栄山浦がその当時は羅州平野一帯で収穫された米を日本へ運ぶための港であり、まさしく植民地支配の収奪の現場であったことも挙げられるでしょう。

 

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こちらの旧羅州駅舎は、その文化財的価値に加え、以上に述べた通り一連の学生独立運動の「震源地」であることから、「光州学生独立運動震源地羅州駅舎」として全羅南道記念物第183号に指定されています。

 

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こちらの旧駅舎、日中は内部が開放されますが、このときは午前8時台ということもありまだ閉まっていました。写真は窓から撮った旧駅舎の内部。駅員の再現人形が設置されています。2001年の移転直前まで使用されていた時刻表や料金表もそのままです。

光州学生独立運動震源地羅州駅舎(광주학생독립운동진원지나주역사:全羅南道 羅州市 竹林ギル 20 (竹林洞 60-172)。全羅南道記念物第183号)

 

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1919年の「3.1運動」、1926年の「6.10万歳運動」と並んで日帝強占期の3大独立運動のひとつに数えられる1929年の学生独立運動。その全容を学ぶことのできる「羅州学生独立運動記念館」が、旧羅州駅舎のすぐ北側に隣接して建っています。ただし、この日(5月22日)は月曜日であったため休館。いずれ改めて訪問することを誓います。

 

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旧羅州駅から南顧門へと戻る道の途中。なんでもない路地ですが、こんな風景に惹かれます。

 

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再び南顧門に戻り、今度は北へ向かいます。
その途中にある錦城橋(クムソンギョ)から眺めた栄山江の支流、羅州川(ナジュチョン)。情感あふれる風景です。

 

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錦城橋を渡ってさらに北へ進むと、高麗・朝鮮時代を通じてここ羅州の客舎(官吏や外国使節などをもてなす宿舎)であった「錦城館」(금성관:クムソングァン)の正門、「望華楼」(망화루:マンファル)が見えてまいります。

 

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そしてその望華楼の向かいにあるのが、写真のお店「羅州コ厶タンハヤンチッ」。ハヤンチッとは「白い家」の意。1910年創業、店名にもある羅州いちばんの名物料理「羅州コムタン」の草分けとして広く全国に知られるお店であり、私にとっては今回の羅州訪問の最大の目的です。

 

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店内に入るやいなや、ぐつぐつ煮え立つ大きな釜が出迎えるとともに食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐり、にわかにテンションが上がります。
注文したのは当然、看板メニューの羅州コムタン。

 

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そしてやって来たコムタン、スープが澄んでいます。日本でコムタンといえば白濁したスープの印象が強いですが、これぞ羅州コムタンの特徴です。
スープを口に含むとたちまち、牛肉ダシ独特のうまみがじわっと舌を包み込みます。ああ、これは超うんまい。100年の伝統は伊達ではありません。

 

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コムタンと一緒に出てきた、牛皮らしきものを煮込んだパンチャン(おかず)もおいしかったです。来てよかった。

 

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こちらのお店「羅州コムタンハヤンチッ」の営業時間は午前8時~午後9時、年中無休。羅州駅からはバスであれば「羅州駅」(나주역)バス停から160番バス(配車間隔約20分)に乗車し、約13分で到着する「中央路」(중앙로)バス停で下車、徒歩約4分。タクシーであれば同駅から約7分、料金は4,200ウォン(約420円)前後のようです(交通状況によって変化)。はっきり言って、このお店のコムタンを食べるだけであっても羅州を訪問する価値は十分にあります。

羅州コムタンハヤンチッ(나주곰탕 하얀집:全羅南道 羅州市 錦城館ギル 6-1 (中央洞 48-17))

 

せっかく来たのでもう少しゆっくりしたいところですが、この日は光州にも行きたい場所があったため、コムタンを食べたところで羅州を発つことに。とはいえ前述したように「羅州学生独立運動記念館」はいずれ必ず再訪するつもりですし、ホンオ通りと往時の町並みが同居する栄山浦(実は羅州駅からだと南顧門よりも近い)も訪れたい場所です。日帝強占期の収奪の歴史と向き合うためにも。それらについては次回の羅州訪問時に預けたいと思います。

今度はタクシーで羅州駅へ移動、最初にやって来たKTX-山川で羅州を後にします。
来たときのムグンファ号は2,600ウォン(約260円)でしたが、KTXだと3倍以上の8,400ウォンもするので要注意です(しかも所要時間は変わらないという)。

光州松汀駅からは再び都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、次の目的地へと向かうのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

光州の旅[201705_08] - 5.18民主化運動の出発点「全南大学校」、そして全史跡踏破へ

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の2日目(2017年5月21日(日))です。

 

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5.18の史跡15号「光木間市民虐殺地(真月洞、松岩洞)」を示す碑石と隣接するバス停からは次の目的地行きの便が出ていないため、600mほど離れた「東成高」バス停まで歩き、そこから急行<수완(水莞)03>バスに乗車。25分ほどで到着する「全南大サゴリ(東)」バス停(サゴリとは交差点の意)で下車し、550mほど歩いた場所にあるのが写真の「全南(チョンナム)大学校」正門です(この写真に限り2016年8月撮影)


抗争1日目、1980年5月18日未明。
保安司令官の全斗煥をはじめとする新軍部の策謀により同日午前0時をもって適用された非常戒厳措置の全国拡大を受け、市内の朝鮮(チョソン)大学校とともに戒厳軍が最初に進駐してきた場所が、まさにこの全南大です。全国の中でも特に反政府デモが激しかった光州における市民鎮圧の拠点とすること、また前日夜の全国拡大決定と前後して始また学生運動家や学生会委員などを拘束するためでした。
進駐してきた戒厳軍は図書館に進入し、徹夜勉強中の学生たちを「鎮圧棒」で無差別に殴打します。これが以後10日間にわたる抗争期間での最初の暴力でした。
夜が明けて午前10時、この事件を受けた全南大の学生による抗争期間中最初のデモが正門で展開されますが、数と力で勝る戒厳軍にたちまち制圧され、難を逃れた学生たちは錦南路(クムナムノ)へ移動。ここから戒厳軍の暴虐は光州市内の各所へと展開してゆきました。
このように全南大はまさしく5.18民主化運動の出発点であり、その意味からトップナンバーの史跡1号に指定されています。

 

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その史跡であることを示す例の丸い碑石は、正門の向かって右側に建っています。1号だけあってか、他の史跡のふた回りはあろうかという大きなものであるのが特徴です。この場所は昨年(2016年)8月にも訪問しましたが、同年末の「5.18民主公園」(後述します)の整備とあわせて若干移動していました。

光州市内の5.18史跡や関連施設を結ぶように走る518番バスこちらのエントリーにて紹介)は、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南大」(전남대)バス停で下車、碑石までは徒歩約5分(約330m)です。
全南大学校正門(전남대학교 정문:光州広域市 北区 龍鳳路 77 (龍鳳洞 300)。史跡1号)

この正門のそばで、待ち合わせしていた方と面会します。その方はここ全南大にて教授を務められている方で、今回の旅での一連のツイートをご覧になり、親切にもキャンパスの案内をご提案いただいたものです。
全南大には、キャンパス内に点在する民主化運動関連の碑や造形物などを結んだ1周およそ1.4kmの散策コース、通称「全南大民主ギル」(전남대 민주길:ギルとは「道」の意)があり、今回の旅で最も参考にしている「5.18記念財団」のガイドブック『光州の五月を歩こう』(광주의 오월을 걷자)でもマップ・写真入りで紹介されています。今回は先生と一緒に、時計回りにコースをたどることにしました。

 

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「5.18民主公園」。
5.18抗争期間中には在学生・OBともにデモ隊や市民軍へ積極参加するなど、韓国の民主化運動史において大きな役割を果たしてきた全南大のアイデンティティを称えるため、光州広域市と同窓会の支援により昨年(2016年)12月、正門の西側一帯に造成された公園です。中央にある造形物は民主・人権・平和の3弁の花びらで構成された花が咲く瞬間を形象化したパク・ジョンヨン氏の作品「ピオナダ」(피어나다:「咲き始める」の意)です。

 

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「朴寛賢烈士革命精神継承碑」。
法科大学(韓国でいう「大学」とは日本の学部に相当し、これらの集合体である「大学校」と明確に区分されています)の建物前にあるこちらの碑は5.18当時の全南大総学生会長であり、その後収監中に40日間もの断食闘争の果てに亡くなった朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)烈士を称えその精神を受け継ぐためのものです。

 

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「トゥルブル7烈士」の一人でもある朴寛賢烈士(写真は5.18自由公園「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフについては補足が必要かと思いますので、少しだけ「全南大民主ギル」からそれたいと思います。
朴寛賢烈士の名は、ドラマ『第5共和国』の登場人物としてご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。この訪問の4日前(5月17日)、5.18犠牲者追悼式典での文在寅(문재인:ムン・ジェイン、1953-)大統領の演説でもその名が挙げられています。
全羅南道(チョルラナムド)霊光(ヨングァン)郡生まれ。全南大法科大学に入学後、光川工業団地の劣悪な労働環境を告発した『光川工団労働者実態調査報告書』の編纂への協力が縁で、全南大の先輩でもある尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士と知り合います。その調査力に加え、卓越した演説力などの才能を見出した尹祥源烈士によりスカウトされた朴寛賢烈士は、英語担当講学(講師)としてトゥルブル夜学に合流。その後も尹祥源烈士は全南大総学生会長に立候補した朴寛賢烈士にスーツと靴を貸すなど、両烈士の友情と信頼はより深まってゆきました。
1980年、朴寛賢烈士は全南大総学生会長に選出。そして抗争開始2日前の5月16日に全南道庁前で挙行されたデモ「民族民主大聖会」ではその主管に加え名演説を披露し、光州を代表する学生運動家としての地位を固めてゆきます。しかし翌17日深夜、非常戒厳措置の全国拡大決定と前後して全国の大学の学生会長や学生運動家などが続々と予備検束されたとの情報が入り、朴寛賢烈士は悩んだ末、先輩たちの勧めもあって潜伏を決意。翌18日朝には夜学のある光川洞(クァンチョンドン)の尹祥源烈士を訪れてその旨を伝え、まもなく光州を脱出します。これが両烈士にとって今生の別れとなりました。
抗争期間中は全羅南道麗水(ヨス)市の突山島(トルサンド)に身を隠しますが、その後潜伏先のソウルにて逮捕。苛烈な拷問の果てに、内乱重要任務従事の罪で懲役5年の判決を下されます。
獄中ではトゥルブル夜学の講学仲間であり、同じく死後「トゥルブル7烈士」に列せられた申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)烈士とともに、待遇改善と5.18の真相究明を求めた断食闘争を繰り返します。そして3度目の断食闘争の40日を経過した1982年10月12日、急性心筋梗塞と急性肺水腫の併発によりついに帰らぬ人となりました。辛うじて一命を取りとめた申栄日烈士は、朴寛賢烈士の死を知るやその名を叫び慟哭したといいます。
こうした経緯から朴寛賢烈士は「トゥルブル7烈士」に列せられ、そして5.18当時の学生運動の象徴的存在として記憶され続けています。

 

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「尹祥源烈士公園」。
社会科学大学の建物の前にある小公園は、政治外交学科の卒業生である尹祥源烈士を記念する公園であり、その中には尹祥源烈士の胸像、そして最終抗戦直前・5月27日の早朝、全南道庁での烈士による最後の演説文が刻まれた碑があります。

여러분!

우리는 저들과 맞서 끝까지 싸워야 합니다. 그냥 도청을 비워주게 되면 우리가 싸워온 그동안의 투쟁은 헛수고가 되고, 수없이 죽어간 영령들과 역사 앞에 죄인이 됩니다.

죽음을 두려워 말고 투쟁에 임합시다. 우리가 비록 저들의 총탄에 죽는다고 할지라도 그것이 우리가 영원히 사는 길입니다.

이 나라의 민주주의를 위해 끝가지 뭉쳐 싸워야 합니다. 그리하여 우리 모두가 불의에 대항하여 끝까지 싸웠다는 자랑스러운 기록을 남깁시다.

이 새벽을 넘기면 기필코 아침이 옵니다. 

みなさん!

我々は彼らに立ち向かい最後まで戦わねばなりません。そのまま道庁を明け渡せば、我々が戦ってきたこれまでの闘争は無駄となり、無数の死んだ英霊たちと歴史の前に罪人となります。

死を恐れず闘争に臨みましょう。我々がたとえ彼らの銃弾で死ぬとしても、それは我々が永遠に生きる道です。

この国の民主主義のため、最後まで団結して戦わねばなりません。そして我々すべてが不義に対抗し、最後まで戦った誇らしい記録を残しましょう。

この夜明けを過ぎれば、必ず朝がやって来ます。

 尹祥源烈士については、下記のエントリーでも紹介しております。あわせてお読みいただけますと辛いです。

 

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こちらは民主化運動関連の造形物ではありませんが、「人文大学1号館」という建物です。チョン・オクチン(정옥진)氏の設計により1955年築。全南大でも創立期から残る数少ない建物で、「光州全南大学校人文大学1号館」として国指定登録文化財第96号にもなっています。

 

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「教育指標事件記念碑」。
人文大学1号館の道路を挟んだ向かい側にある、積まれた書物を象ったこちらの碑は、1978年6月の同大における「民主教育指標事件」を記念して2007年に建てられたものです。この「民主教育指標事件」とは、小説家であり後の5.18では市民収拾委員も務めた宋基淑(송기숙:ソン・ギスク、1935-)氏など全南大の教授11名が、当時の朴正煕軍事政権による「国民教育憲章」を連名で批判、「私たちの教育指標宣言」を発表したことにより拘束、解職された事件をいいます。また当時の全南大生であり、死後には「トゥルブル7烈士」にも列せられた申栄日、朴琪順(박기순:パク・キスン:1958-1978)の両烈士もこの事件に関連して無期停学処分となり、同じ年にトゥルブル夜学(こちらのエントリーにて紹介)を創立しています。

 

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「師範大1号館光州民衆抗争図壁画」。
師範大学(教育学部)1号館という建物の壁面いっぱいに描かれたこちらの壁画は、5.18民主化運動10周年を記念して、芸術大学や美術教育科の学生を含む全南大の絵画愛好者たちが中心となって制作したものです。

 

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「ポンジ5.18広場」。
全南大中央図書館前にある広場で、「ポンジ」とは池のこと。真ん丸の池を「5」(韓国語で「オー」と発音。アルファベットの「O」とかけている?)、その外周の1本の道を「1」、そこから放射状に伸びる8本の道を「8」にそれぞれ見立て、合わせて「518」を表現しています。

 

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「造形芸術作品『君のための行進』」。
全南大の金大吉(김대길:キム・デギル)教授による造形作品で、ポンジのほぼ中央に建っています。民主化の発展を導いた全南大学校の4つの構成員の誇りを高めることを目的に制作され、大学の構成員である「学生」「教授」「教職員」「市民」を象徴する4つの形状がひとつの方向へと向かってゆく様を表現しています。

 

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「朴勝熙烈士焚身址」。
1991年4月29日、「姜慶大他殺事件」の真相解明、そして他の学生が呼応することを求めてポンジの前で焚身(焼身)した全南大食品栄養学科の朴勝熙(박승희:パク・スンヒ、1971-1991)烈士を称え記憶するため、その現場に設置された碑です。「姜慶大他殺事件」とはその3日前(4月26日)にソウルの明知(ミョンジ)大学校にて発生した、同大生の姜慶大(강경대:カン・ギョンデ、1972-1991)烈士に対する、当時その白いヘルメットから「白骨団」(백골단:ペッコルダン)と呼ばれ恐れられた警察機動隊の暴力鎮圧による殺害事件を指します。

 

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「5.18記念館」。
5.18民主化運動にて大きな役割を果たした全南大の教授や在学生、そしてOBたち。これらの活躍の背景には1960年代から一貫して民主主義を希求してきた同大の校風がありました。こちらの施設は5.18関連を中心に、そうした全南大の民主化運動史に関する資料を集め展示されているとのことです。今回は訪問した時間が遅かったため残念ながら閉館していましたが、いずれ必ずや訪問し、本ブログにて紹介したいと思います。

これで「全南大民主ギル」は終わりですが、先生のご厚意により、私がまだ訪れていない5.18の史跡や関連施設へ連れて行ってくださることとなりました。感謝しつつも先生の車に乗り込みます。

 

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最初に到着したのは西区(ソグ)にある「5.18記念公園」。
かつて「尚武台」(韓国陸軍の軍事教育施設。後述します)が置かれていた土地を、光州市民に対する補償支援の意味で政府が無償譲渡したもので、現在は20万平米あまりもの広大な市民公園が造成されています。5.18関連のスポットとしてはチェックしていたものの、情報が少ないうえにスケジュールの都合もあり訪れていなかった場所です。
写真2枚目は公園の敷地内に建つ「5.18記念文化センター」。「5.18記念財団」の事務局もこちらの建物に入居しているそうです。

 

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「5.18記念文化センター」1階には、抗争期間2日目・5月19日午後の錦南路(クムナムノ)・観光ホテル前一帯における戒厳軍の無差別暴力の様子を再現した精巧なジオラマが展示されていました。

 

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こちらは前回も紹介した、抗争期間4日目・5月21日の正午ごろ、道庁前の錦南路で戒厳軍と対峙する市民デモ隊の姿。やはり精巧に再現されています。

 

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5.18記念公園は全体的に小高い丘になっており、階段を登った先の頂上に公園広場があります。

 

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こちらの公園広場には、傷ついた仲間を2人で支え合う市民軍兵士の姿を造形化した巨大な像が。あの日を切り取ったかのような姿に、ただただ圧倒されます。

 

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像の地下には入れるようになっており、その坂道を下ると写真の半円形の空間が現れます。こちらは「追慕昇華空間」といい、中央には息絶えた子どもを抱き天を仰ぐ女性の像、その正面には5.18を象徴する絵画、そして背面の曲線を描く壁面には5.18の犠牲者の名前が刻まれています。

 

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こちらの「5.18記念公園」は、518番バスであれば国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「5.18記念文化センター」(5.18기념문화센터)バス停にて下車、目の前です。

5.18記念公園(5.18기념공원:光州広域市 西区 尚武民主路 61 (双村洞 1268))

 

ここからは再び先生の車に乗り、残り3か所となった未踏の5.18史跡を巡ることに。
いずれも「5.18記念公園」と同じ西区、それも地下鉄が直下を走る尚武大路(サンムデロ)周辺にあるので長距離移動はありませんが、日が沈みいよいよ闇が迫ってきたのであまり余裕はありません。

 

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「505保安部隊旧跡」。
全南地域軍の情報機関であり、5.18当時は戒厳軍による鎮圧作戦とその隠蔽操作の実質的な指揮本部であった「505保安部隊」の本拠地が置かれていた場所です。
ここの地下室では、逮捕された民主人士や学生運動指導者、市民軍に対し激しい拷問、殴打が加えられました。中でも女性に対してはこれらに加え、あろうことか性的な暴行までも加えられたといいます。こうした経緯から5.18民主化運動の史跡26号に指定されています。

 

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正門が施錠されており、内部への立ち入りはできません。写真は門の上に腕を伸ばして撮影したものです。
本施設は事実上放置されており、ほぼ5.18当時の原形をとどめる一方、経年劣化に加え侵入者のいたずら、2009年に発生した火災などにより徐々に崩壊が進行しているようです。一日も早く保全されることを願うばかりです。 

518番バスは「505保安部隊旧跡」の近くを通りません。都市鉄道(地下鉄)1号線「双村」(サンチョン)駅から2番出口を出て尚武大路沿いに西へ進み、ガソリンスタンドを左に曲がって少し進んだ場所にあります。全体で徒歩約6分(約400m)

505保安部隊旧跡(505보안부대 옛터:光州広域市 西区 尚武大路956番ギル 16 (双村洞 1011)。史跡26号)

 

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次の史跡は、「505保安部隊旧跡」から道のりでも1kmに満たない至近距離にあります。
「国軍光州病院」。その名の通り軍の付属病院で、戒厳軍により尚武台営倉や505保安部隊などへ連行され、取調べ中の拷問や殴打により負傷した市民が厳重な監視の下に治療を受けさせられた場所です。しかしそうした中でも心ある医療スタッフたちは、患者たちが再び取調べの場へ戻されることを防ごうとその傷の状態を深刻に偽って報告、患者たちを守ったといいます。こうした経緯から5.18民主化運動の史跡23号に指定されています。
国軍病院は2007年に全羅南道咸平(ハムピョン)郡へ移転。しかし施設はほぼそのまま残されています。

 

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地下鉄も走る尚武大路沿いの碑石から100mあまり入ると、かつての病院本館が。敷地内は立入禁止なので、フェンスの外から撮影します。

 

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近くの林の中を探索されていた先生が、当時の病院の付帯施設と思われる教会を発見。廃墟となって闇の中に建つ教会、さすがに怖いです。なんだか別の企画みたいになってきました。そそくさと後にします。 

518番バスは「国軍光州病院」の近くを通りません。都市鉄道(地下鉄)1号線「花亭」(ファジョン)駅から2番出口を出て尚武大路沿いに西へ進み、徒歩約3分(約190m)の場所に碑石があります。前述の「505保安部隊旧跡」からだと徒歩約14分(約910m)。以上のように完全に廃墟と化しており、夜間の訪問はちょっと怖いので日中のご訪問をおすすめします。

国軍光州病院(국군광주병원:光州広域市 西区 尚武大路 1026 (花亭洞 324-20)。史跡23号)

 

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そしていよいよ最後の目的地へ。こちらの史跡は先の「国軍光州病院」とはうって変わって、商業ビルに囲まれた華やかな街中にありました。
「尚武台旧跡」。
尚武台(サンムデ)とは韓国陸軍の軍事教育施設の総称であり、朝鮮戦争(1950-1953)の休戦前の1952年、それまで別々の機関であった各種軍事学校を統合し、「武を崇める学びの場」との意味で李承晩(이승만:イ・スンマン、1875-1965)初代大統領が「尚武台」と命名したことにより正式発足しました。5.18を経た1994年には全羅南道長城(チャンソン)郡へ移転、その跡地は市庁(市役所)や商業施設などが建ち並ぶ現在の光州の新都心「尚武地区」となり、また一部には前述の通り「5.18記念公園」が造成されています。

5.18当時は戒厳司令部の全羅南道全羅北道戒厳分署がここ尚武台に設置され、抗争期間中には市民収拾委員が戒厳軍首脳部との交渉のため数回訪れています。また抗争後には3千名もの市民がこの敷地内にあった営倉(法を犯した兵士の収監施設)にて自白強要のための苛烈な拷問を受け、軍事法廷ではこれらの自白をもとに死刑を含む判決が下されました(後の特赦により死刑執行事例はなし)。これら営倉や軍事法廷などの建物は、尚武台移転後の再開発に伴い近隣の場所に移設され、現在は「5.18自由公園」として公開されています(こちらのエントリーにて紹介)。こうした経緯から、「尚武台旧跡」として5.18民主化運動の史跡17号に指定されています。

 

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当時の正門の位置、現在は「尚武中央路」(サンムジュンアンノ)という道路の中央分離帯となっている場所には、尚武台の命名者・李承晩大統領の揮毫による「尚武臺」碑が残されています。
5.18の史跡を示す例の丸い碑石は最近までこの正面に建っていましたが、中央分離帯という接近しづらい場所であるため移転されることになり、この日(5月21日)の時点では無くなっていました。

518番バスは、国立5.18民主墓地方面行きは「尚武双龍錦湖アパート」(상무쌍용금호아파트)バス停で下車し徒歩約7分(約490m)、尚武地区方面行きは「農協雲泉支店」(농협운천지점)バス停で下車し徒歩約7分(約440m)。都市鉄道(地下鉄)1号線「尚武」駅からは6番出口を出て徒歩約6分(約430m)です。

尚武台旧跡(상무대 옛터:光州広域市 西区 治平洞1248。史跡17号)

 

昨年8月に初めて5.18旧墓地(史跡24号)を訪れてから9ヵ月弱。この尚武台旧跡をもって、ようやく5.18民主化運動の史跡全30か所(当時)を踏破することができました。
これらの場所は、37年前のあの10日間における戒厳軍の暴虐、あるいは市民たちの抗争に関する何らかの重要な出来事があった現場であるからこそ、5.18の史跡に認定されているものです。そうした現場を実際に訪れ、当時の犠牲者や抗争に携わった光州市民たちに思いを馳せる機会を幸運にして得られたことは、5.18を学び継承してゆくにあたり大きな財産となりうると考えています。

ここまで私を連れて行ってくださった先生と固い握手を交わして、その車を見送ります。先生、お忙しい中を本当にありがとうございました。

 

その後、用事をこなしていたら時刻はあっという間に午後10時過ぎ。夕食用にチェックしてきたお店はほぼすべて閉店またはラストオーダーの時刻を過ぎています。あわてて市内の飲食店を検索していると、チェックしていた光州名物・オリタンの名店「ヨンミオリタン」の支店がホテルから徒歩10分程度の距離にあることを発見。しかも光州駅近くの本店の営業時間が午後10時までなのに対し、こちらは午前1時まで。早速向かいます。

 

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お店に到着。注文したのはもちろん看板メニューのオリタン。オリタンとは、滋養強壮効果があるとして韓国の人が鶏肉同様に好むオリ(鴨肉)を煮込んだスープのこと。前回訪問時(2016年8月)も別の店で食べ、とても気に入っている料理です。メニューにはハンマリ(1羽)もありますが、前回の経験からパンマリ(半羽)でもなかなかの量と分かっているので今回もこちらを注文。

 

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そしてやって来たオリタン。辛みのないどろっとしたオレンジ色のスープ、山盛りのミナリ(セリ)を自分で適時継ぎ足す点、そして酢コチュジャンにトゥルケ(すりエゴマ)を混ぜたヤンニョムをつけて食べるというすべてが他の韓国料理に類を見ないポイントです。

 

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韓国のオリは日本の鴨肉のような歯ごたえがなく鶏肉のそれに近いですが、味にはより深いコクがあります。そのうえスープとヤンニョムの相性が絶妙。うんまい。今回は完食しましたがミナリを残す前提であればハンマリでもよかったかもしれません。

こちらのお店「ヨンミオリタ光州尚武店」の営業時間は正午~午前1時。定休日は不明ですが、日曜日(この日)は営業していました。都市鉄道(地下鉄)1号線「尚武」駅5番出口からは徒歩15分(約1km)ほどで到達できます。

ヨンミオリタン光州尚武店(영미오리탕 광주상무점:光州広域市 西区 尚武中央路104番ギル 10 (治平洞 1211-11))

 

5.18民主化運動の史跡や関連施設を巡る旅はこれでいったんひと区切りですが、今年(2017年)5月の光州の旅はあと少しだけ続きます。
それでは次回のエントリーへ。

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