かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

新安の旅[201712_02] - 高速船で約2時間の離島「黒山島(フクサンド)」念願の初上陸、そして島内一周の旅

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)12月の全羅南道(チョルラナムド)を巡る旅、1日目(2017年12月1日(金))です。

 

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私が乗船した高速船(韓国では「快速船」と呼ぶ)「ニューゴールドスター」は、午後1時に木浦(モッポ)沿岸旅客船ターミナルを出航。写真はその船内。小さいですが売店も設置されています。

 

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客室全体が妙な緑色に染まっているのは、防眩のためか窓ガラスが緑色になっているため。

 

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木浦港を出てから50分ほどで、最初の寄港地である都草島(トチョド)の都草旅客船ターミナルに到着。
都草島は全羅南道新安(シナン)郡都草面(ミョン:日本でいう「村」に相当)に属する島で、新羅時代に寄港地であったこの島を訪れた唐(中国)の人が自国の首都の形に似ていると語ったこと、また一方で島内に雑草が繁茂していたことにその名が由来するとされています。
ちなみに写真があの妙な緑色に染まっていないのは、外のデッキから撮影したため。高速巡航中でない寄港の前後に限り、デッキが開放されていました。

 

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都草島を出航。写真は1996年に開通した「西南門大橋(ソナンムンデキョ)」。この橋で対面する都草島と結ばれているのは、島の形が猛禽類のような大きな鳥の飛ぶ姿に似ているとしてその名がついたとされる飛禽島(ピグムド。写真左側の陸地)です。
全島が新安郡飛禽面に属するこの飛禽島は、2016年のコンピュータ囲碁プログラム「AlphaGO」との対戦でその名を馳せた棋士李世ドル(이세돌:イ・セドル、1983-)九段の出身地としても知られ、島内には「李世ドルパドゥク記念館」(パドゥクとは「囲碁」の意)も所在しています。1日4往復ある高速船は都草旅客船ターミナルと飛禽島の水大(スデ)船着場のいずれかに交互に寄港します。

 

新安郡地図1

新安郡地図2
都草島や飛禽島を含む新安郡はその全域が島嶼で構成されており、これらの島と「陸地」(ユクチ。韓国では「本土」をこう呼ぶ)、あるいは先の西南門大橋のように島同士を結ぶ橋が続々と建設されています。この飛禽島からは東側に浮かぶ岩泰島(アムテド)との間に架橋計画があるほか、岩泰島とさらにその東側、新安郡庁の所在地である押海島(アッぺド)との間には、長さ世界第2位の斜長橋を含む全長約10.8kmもの長大橋「セ千年大橋」(セチョンニョンデキョ。セとは「新」の意)が建設中です(2018年12月開通予定)。押海島は架橋済みのため、これらがすべて完成すれば都草島も飛禽島も木浦から陸続きとなるわけです。

都草島と飛禽島の海峡を抜けると、穏やかな多島海の内海から一転して波が荒い外海の西海(黄海)へ。そのため、この区間で船酔いする人も多いようです。船が縦揺れする度に、客席からは歓声みたいな声が上がります。ただでさえ荒い外海、特に冬はその傾向が高まるため他の季節よりも欠航率が高いとのこと。今回の旅も12月ということで、乗船するまで気が気ではありませんでした。それにしてもこんな外海でもWi-Fiが普通に入るのですから全く恐れ入ります。

 

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木浦港を発ってから2時間あまり、ようやく目的地の島がその姿を現しました。

 

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定刻より25分遅れの午後3時15分、ついに目的地に上陸。
とうとうやって来ました。私にとってずっと憧れだった島、黒山島(흑산도:フクサンド)

 

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黒山島は西海海上に浮かぶ、面積19.7平方km、海岸線の長さ約41.8kmの島です。木浦港からの直線距離は約85km、近隣の小島を除けば最も近い飛禽島からでも40km近く離れており、絶海の孤島と言っても過言ではない場所です。島全域が「多島海海上国立公園」に属しています。
黒山島の名は、自生する樹木がほとんど常緑樹であるため年間を通じて島全体が黒(に近い濃緑色)に見えることに由来するとされています。島内の人口は約2,100人。紅島(ホンド)可居島(カゴド)など他の島を含めた新安郡黒山面全体だと約4,500人です(2016年現在)。
上の画像は、黒山島全体の地図です。以下、この地図を「上図」と呼びます。

 

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黒山島の歴史は先史時代にさかのぼります。島内では新石器時代のものとみられる貝塚が発見されており、また紀元3~4世紀に建造されたとみられる支石墓(ドルメン。韓国では「コインドル」と呼ぶ)が残されています。下って統一新羅時代の827年、豪族であり唐や日本との海上交通を支配した「海上王」張保皐(장보고:チャン・ボゴ、787-846)が莞島(ワンド)に清海鎮を設置して唐との交易を始めた際、一帯に出没する海賊から貿易船を守るための前哨基地として山城を築いたのが、黒山島に関する有史以降最初の記録です。この山城建設と前後して、黒山島に最初の住民が定着したとされています。その後朝鮮時代には流配(流刑)の地とされ、後述するように多くの人士がこの島での流刑生活を余儀なくされています。
日帝強占期と光復(日本の敗戦による解放)を経て、1960年代から70年代半ばには近海で獲れるホンオ(홍어:ガンギエイ)やチョギ(조기:キグチ)などの漁の盛況で発展を遂げます。当時、島最大の漁港がある曳里(イェリ。里は日本でいう「大字」に相当)では「波市(パシ)」と呼ばれた水産市場が各魚種の漁期ごとに開かれ、活気にあふれていました。最盛期には曳里港から隣接する鎮里(チルリ)まで船上を伝って歩けるほどだったといいます。
しかし、その後は漁業の不振などで衰退の一途をたどり、いつしか波市は思い出の中へ。とはいえ現在も島特産のホンオは最高級品としてその名を全国に知らしめており、また漁船の避難港となる台風シーズンには一時的に活気を取り戻すこともあるようです。

 

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高速船が着いた桟橋には、黒山島の北側に浮かぶ多物島(タムルド)への渡船が。この多物島をはじめ黒山島周辺にはいくつかの小島が点在しており、黒山港はこれら近隣の島々へのハブとなっています。

桟橋そばの黒山港旅客船ターミナルには、予約したホテルの方が出迎えにいらっしゃっていました。その手には私の名前が書かれた紙が。こうしたお出迎えは韓国では初めての経験です。なんだか照れますね。

 

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ホテルの車に乗り、5分ほどで到着したのは写真の「黒山ビーチホテル」(上図①)。鎮里の高台に建つ、島内唯一のホテルです。ネット予約不可、予約受付は電話のみというややハードル高めの施設ですが、私のつたない韓国語でも親切に受け入れてもらえました。ロビーにはKBS2の人気番組『1泊2日』ロケの記念パネルも。

 

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宿泊した黒山ビーチホテルの客室。程よく広くて清潔な部屋でした。

 

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最上階(5階)からの見事なオーシャンビューです。

 

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客室のバスルームにあった案内。「黒山島の水道水は鉄分含有量が多く多少濁ることがありますが、人体には何ら害を及ぼさないので安心してご使用ください」とあります。これまで見たことのない案内です。

 

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黒山島にはタクシーによる島内一周観光があります。これを呼んでもらうため再びロビーへ行ったところ、フロントの方(先ほど港まで迎えに来た方です)が気を利かせて、たまたま居合わせた宿泊客のご夫婦らしき男女と相乗りで利用することに。私にとっては一人あたりの料金が安くなるのでありがたいです。写真はそのとき乗車したタクシー。ドアには黒山島特産、ホンオさんの愛らしいキャラクターも。

 

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島内一周観光は、その名もずばり「黒山島一周道路」を反時計回りに巡ります。最初に訪れたのは「サンナリコゲ」(상나리고개:コゲは「峠」の意)を登った先にある「黒山島アガシ歌碑」(上図②)。李美子(이미자:イ・ミジャ、1941-)さんの1965年のヒット曲「黒山島アガシ」(흑산도 아가씨:アガシは「お嬢さん」の意)を記念して1997年に建てられたものです。手形は2012年に李美子さんが公演のため黒山島を訪れたとき追加されたもの。

 

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「黒山島アガシ歌碑」のそばには、前述した張保皐が9世紀に築いた山城「上羅山城」(サンナサンソン。別名「半月城(パノルソン)」)跡が残る「上羅山」(サンナサン、230m。上図③)があります。ご一緒した二人と一緒に、登山道と思しき坂道を少しだけ登ってみました。
上羅山の山頂には当時の烽燵台(ポンスデ。のろしを上げる台)と祭祀の遺跡が残っているそうですが、どこまで登ればよいのか分からないうえ、運転手さんをひとり残していたので途中で断念。写真2枚目はそのとき撮影した鎮里の街と曳里港。遠くには多物島(中央)と大屯島(テドゥンド。右側の防波堤の向こうの島)が見えます。

写真2枚目にわずかに写っていますが、「黒山島アガシ歌碑」のあるサンナリコゲには峠を上りきるまで12回も屈曲を繰り返す「ヨルトゥコゲッキル」(열두고갯길:「十二の峠の道」の意)と呼ばれるつづら折りの坂道があり、黒山島でも有数の名所となっています。

 

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黒山ビーチホテルからサンナリコゲのあたりまでは鎮里にあたりますが、峠を下った先からは島の西海岸にあたる「比里(ピリ)」に入ります。その海岸沿いに出てまもなく、写真の案内板が車窓に現れます。

 

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道路から見下ろした海岸にあるこちらの岩は「地図(チド)バウィ」(バウィは「岩」の意。上図④)といい、波の浸食作用で生じた穴が偶然にも朝鮮半島韓半島)の姿にそっくりだとして名付けられたものです。写真2枚目は穴を拡大したものですが、本当によく似ています。

 

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地図バウィの背後に写っていた島は長島(チャンド)。島の形が長いことからその名がついたとされるこの島には、約400種の植物に30種の蝶など多様な生物が生息し、ラムサール条約の登録湿地にもなっている「長島湿地」があります。写真2枚目は先ほどの上羅山への登山道で撮影した長島の全景。

 

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比里の海岸沿いの一周道路には数百mほど壁画が続く場所があり、よく見るとその上に柵に囲まれた歩道らしきものが張り出しています。
こちらは「ハヌル道路」(ハヌルとは「空」の意。上図⑤)といい、長島が眺められる西海岸沿いの崖に観光歩道として設けられたものです。写真からも分かるように、この一帯は黒山島の最高峰である門岩山(ムナムサン、400m)山頂から海辺まで続く断崖上であるため橋脚が立てられず、H型鋼を水平に打ち込むことで設置が実現できました。こうして生まれた橋脚のない橋が、あたかも空中に浮かんでいるかのようだとしてその名が付けられたとのことです。

 

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比里を過ぎると、島南部の「深里(シムニ)」に入ります。
この深里と、島南東部の「沙里(サリ)」との里境上にある峠「恨多嶺」(한다령:ハンダリョン)を登りきった場所には、写真の「黒山島一周道路完工碑」(上図⑥)が建てられています。
今回の一周観光のルートでもある黒山島一周道路は、1984年の着工から実に26年もの工事期間を経て、2010年3月にようやく全線開通を見ました。これを記念した碑に立つ天使の像は、黒山島と一周道路を守る守護神を象ったものです。碑の下にある数字「1004」は、新安郡を構成する多島海の島々の数を表わしています。

 

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恨多嶺からの景色。つづら折りの峠道「コブランコゲ」(꼬부랑고개。「曲がりくねった峠(道)」の意)が見下ろせます。先ほどのヨルトゥコゲッキルが12の屈曲ならば、こちらのコブランコゲは恨多嶺を挟んで15もの屈曲で構成されています。黒山島一周道路が26年もの難工事となった理由が伝わってくる光景です。遠くに見えるのは深里港の防波堤。

 

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恨多嶺を越えて、沙里の集落に到着。
前述したように、ここ黒山島は朝鮮時代には流刑の地とされ、罪を犯した人々が数多く送られてきました。それら流刑者の中でも特に知名度が高いのが、実学思想の集大成者とされる丁若鏞(정약용:チョン・ヤギョン、1762-1836。号は茶山(タサン))の次兄であった朝鮮時代後期の文人、丁若銓(정약전:チョン・ヤクチョン、1758-1816。号は巽菴(ソナム))です。

 

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若銓と若鏞の兄弟はともにカトリック教徒でしたが、若鏞を重用していた朝鮮の第22代国王、正祖(정조:チョンジョ、1752-1800)の死後まもなく激化したカトリック弾圧のため、若銓は全羅南道莞島(ワンド)郡の新智島(シンジド)に、また若鏞は現在の慶尚北道キョンサンブット)浦項(ポハン)市にそれぞれ流刑させられました。
さらに1801年、同じくカトリック教徒だった長兄の娘婿の黄嗣永(황사영:ファン・サヨン、1775-1801)が、カトリック弾圧への抵抗のためフランスの軍隊を引き入れての国家転覆を企図した罪で処刑されると、若銓・若鏞兄弟も事件との関連を問われ、若銓は絶海の黒山島、また若鏞は全羅南道の南端に近い康津(カンジン)と、一層過酷な場所へ流刑させられます。
丁若銓は黒山島にて書堂(日本の寺子屋に相当)を開き後学を育てつつ、1814年には島の近海に棲息する魚類や貝類、海藻類などの生態に習性、さらには調理法までも記録した『茲山魚譜(자산어보:チャサンオボ)』を執筆。この『茲山魚譜』は朝鮮初の海洋生物学専門書として、今日も高い評価を得ています。しかし生涯流刑を解かれることはなく、1816年に黒山島と同じ新安郡の牛耳島(우이도:ウイド)にて亡くなっています。なお若銓と若鏞は、それはもう仲睦まじい兄弟だったそうで、ともに流刑の身である互いの境遇を案じつつやり取りした手紙も今日まで残されています。

 

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「沙村書堂(サチョンソダン)」、またの名を「復性斎(ポクソンジェ)」と呼んだ丁若銓の書堂があったのがここ沙里であり、集落内には書堂が復元されているほか(一周道路からは外れているため今回は寄れませんでした)、一周道路沿いには案内板や碑石に加え公衆トイレが書堂建立当時の住宅のような藁葺き屋根風で仕上げられた「流配文化公園」(上図⑦)があります。写真3枚目は丁若銓の遺した五言律詩「漁火拈杜韻(オファニョムドゥウン)」を刻んだ碑石。
このほか、朝鮮時代末期から大韓帝国期にかけての政治家であった崔益鉉(최익현:チェ・イッキョン、1834-1907。号は勉庵(ミョナム))もまた、1876年の「江華島条約」に反対した罪で黒山島での2年間の流刑生活を余儀なくされました。黒山島では丁若銓と同様、鎮里に「一心堂(イルシムダン)」という書堂を建て、後学の養成に携わっています。

 

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沙里の観光スポットとしてはもうひとつ、路地沿いに並ぶ写真の石積みの塀(韓国では「タム牆(ジャン)」という)が挙げられます(写真中央の石垣)。これらは海風の強い島の環境に合わせて築かれたもので、「新安黒山島沙里マウル旧タム牆」として国家指定登録文化財第282号にもなっています。

 

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沙里にある小さな漁港には大小7つの岩が取り囲むように配置され、天然の防波堤を形成しており、これらの岩は兄弟に見立てて「七兄弟(チリョンジェ)バウィ」(上図⑧)と呼ばれています。

この七兄弟バウィには、ひとつの伝説があります。
昔、ここ沙里にある母親と7人の息子が暮らしていました。父親はすでに亡く、母は海女の仕事をして7人の息子たちを養っていました。ある年のこと、大きな台風が襲来したため母親が漁に出られないでいると、7人の息子は次々と海に入り、両手を広げて波を防いでくれたといいます。そして息子たちはそのまま石化してしまい、今日も沙里の港を守る七兄弟バウィになったということです。

 

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沙里からは東海岸沿いに北上し、ホテルヘ。約1時間半の島内一周の旅でした。このときの1人あたりの料金は15,000ウォン(約1,580円:当時)。かなりお得感があります。
写真は沙里からの帰り道、東海岸の沖に浮かぶ永山島(ヨンサンド)

 

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黒山ビーチホテルの宿泊には夕食と朝食が付きます。夕食の午後6時までもう少し時間があるので、ホテルのある鎮里の街をちょっとだけ散策することしました。
鎮里の名は朝鮮時代中期の1678年、この地に黒山鎮営(チニョン。地方に設置された軍事拠点)が設置されたことに由来します。日本でいう村役場に相当する面事務所もある黒山島の中心地ですが、旅客船が発着し飲食店や民宿も多い曳里に比べると閑散としている感があります。

 

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鎮里の船着場。曳里港(漁港)からは直線距離で700mあまり離れているこの一帯も、波市が盛んだった頃は漁船や仲買船などで埋め尽くされていたのかもしれません。

 

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旅客船が発着する黒山港、漁港である曳里港、そして鎮里の船着場。これらが面する湾は内栄山島(ネヨンサンド。写真左)と外栄山島(ウェヨンサンド。写真右)という2つの小島が取り囲むように位置し、これまた天然の防波堤を形成しています。
そんな湾の真ん中に、一隻のイカ釣り漁船と思しき船が停泊していました。そのまばゆい光がどことなく情感を漂わせています。水面に反射する漁火、もうすぐ黒山島に夜が訪れます。

いよいよお待ちかねの夕食ですが、構成上の都合により今回はここまでといたします。
次回のエントリーでは今回の続きのほか、高速船の予約方法を含む黒山島の旅のTipsも紹介する予定です。ご期待ください。

 

2021/11/22付記
『茲山魚譜』の作者である丁若銓(정약전:チョン・ヤクチョン)が1816年に亡くなった場所につき、公開当初の黒山島から同じ新安郡の牛耳島(우이도:ウイド)に修正いたしました。

木浦の旅[201712_01] - 木浦駅前の超うんまいピョヘジャンクッ、徒歩約1時間半の近代建築巡り

今回からは、昨年(2017年)12月1日(金)から同月4日(月)にかけての全羅南道(チョルラナムド)などの旅をお届けします。

 

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今回の往路はいつも以上に所要時間がかかるため、久々に深夜2時発のピーチの羽田-仁川便を利用(写真がピンぼけですみません……)。
経由地である全羅南道の木浦(モッポ)までは湖南線(ホナムソン)KTXを利用するため、空港鉄道の始発でソウル駅へ移動します。

 

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ソウル駅に到着。本来ならばそのまま列車を待つところですが、少し時間に余裕があったうえ、予約した列車がたまたま「幸信(ヘンシン)」駅始発であったため、Korail京義・中央線(キョンウィ・チュンアンソン)で同駅まで移動することにしました。
それにしても12月初旬の早朝のソウル、予想していたとはいえかなり寒いです。コーヒー飲みたい。

 

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ソウル駅、京義中央線ホーム。この路線はもともと京義線と中央線とに分かれていたものを2014年に地下線で連結し、現在は直通運転がなされていますが、京義線の本来の起点はここソウル駅であり、地下線開業後も細々と運行が続けられていました。
写真のホームはちょうどこの3日前(2017年11月28日)、KTX京江線キョンガンソン)乗り入れ工事に伴い、駅西側にあったものを東側の旧駅舎脇に移設したばかり。みなさまもよくご存じの日帝強占期に建てられた旧駅舎が、2004年のKTX開業に際しその役割を新駅舎にバトンタッチして以来、13年ぶりに駅舎として復活したわけです。
もっとも地下線の龍山(ヨンサン)駅だと日中の閑散時間帯でも1時間に4本は電車が走る地下線に対し、こちらはラッシュ時以外だと1時間に1本しかないという……。

 

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幸信駅に到着。何の変哲もない通勤駅です。

 

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しかし、構内には屋根付きの長い通路が伸びています。
実はこの幸信駅、KTX車両基地と隣接しており、住民への見返りのために同駅発着の列車が回送がてら設定されているというわけです。

 

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今回乗車するのは写真のKTX-山川(サンチョン)。当然ながら利用客も少なく、ほぼガラガラの状態で幸信駅を出発します。まあ次のソウル駅では乗客がどっと乗ってくるわけですが。

 

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幸信駅を発ったKTXは次のソウル駅までの間、並走する京義中央線の各停に追い抜かれるほどゆっくり走ります。その途中の新村(シンチョン)駅付近、車窓左手に現れるのが写真の延世(ヨンセ)大学校正門。1987年6月9日、同大生の李韓烈(이한열:イ・ハニョル/イ・ハンニョル、1966-1987)烈士が頭部に催涙弾の直撃を受けたまさにその現場です。

 

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忠清南道(チュンチョンナムド)清州(チョンジュ)市、「五松(オソン)」駅の少し手前にある「韓国鉄道公社五松高速鉄道施設事務所」には、待機中の高速試験車両「HEMU-430X」が。こちらは動力集中方式(プッシュプル方式)のKTXとは異なり、動力分散方式の電車です。
KTX-山川をも凌ぐ精悍な流線型の先頭車、上下2段の窓配置が特徴的な「スナックカー」も遠目ではありますが写真に収めることができました(写真は拡大したもの)。

 

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幸信駅を出て2時間半ほどで光州(クァンジュ)広域市の「光州松汀(ソンジョン)」駅に到着。向こうのホームには光州駅へ行くムグンファ号シャトル列車が。
この駅で下車せずに通り過ぎるのは今回が初めて。新鮮な気分です。

 

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幸信駅から2時間59分、ソウル駅からだと2時間36分で終点の木浦駅に到着。木浦へやって来たのは初めてです。日が昇ったからでしょうが、ソウルよりはずいぶん暖かかったです(でも東京よりは寒かったですが)。行き止まりの線路に面したホームの先には「湖南線終着駅」の石碑が。

KTX専用線は光州松汀駅までですので、そこから木浦駅まではこの年の5月に訪問した羅州(ナジュ)駅経由の在来線を通ってきました。
光州松汀駅から羅州駅の少し先までこの在来線と並行した後、現在は鉄道のない務安(ムアン)国際空港へ寄るため大きく迂回して木浦へと至るKTX専用線の建設が決定しており、まもなく着工予定です。現状よりも遠回りになるとはいえ最高時速300kmで走れるようになりますので、完成後にはもう少し時間短縮されるようです。

 

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木浦駅にはちゃんとコインロッカーもあります。
韓国の地方を旅するにあたって私が最初にする作業は、その訪問予定地の駅やバスターミナルなどにコインロッカーがあるかどうかの確認です。木浦くらい大きな街だとさすがにありますが、以前の全羅南道高興(コフン)郡の旅がそうであったように郡部だとコインロッカーがないことが普通です。今後も本ブログでは新たな地方を訪問する度に、その街のコインロッカーの情報を伝えてまいります。

 

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駅前広場には、見慣れた石碑が建っていました。
光州広域市内における「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡であることを示す、あの「光」の字を象った碑石と全く同じデザインのそれには、よく見ると「5.18民衆抗争 木浦史跡地1号」とあります。

 

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5.18民主化運動が発生した1980年5月18日以降、光州広域市(当時は全羅南道光州市)近隣の市郡では光州市民の抗争に呼応したデモが展開されました。それらの中でも特に激しかったのが、当時は光州に次ぐ全羅南道第2の都市だった木浦です。抗争4日目、錦南路(クムナムノ)での集団発砲があった5月21日には光州の市民軍が木浦に到着、光州での惨状を木浦市民に伝えたことにより、全羅南道の他市郡では最大規模となるデモが同月28日未明まで進行されました。期間中は数万人もの木浦市民がここ木浦駅広場に集結、何度かの決起大会やフェップル(トーチ)デモが開催されています。
この「木浦駅広場」をはじめ、木浦市内には5.18民主化運動の史跡が点在しています。いずれ必ず巡ることを決意します。

木浦駅広場(목포역광장:全羅南道 木浦市 連山路 98 (湖南洞 1-1)。5.18民衆抗争木浦史跡地1号)

 

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そういえばこの日はまだちゃんとした食事をとっていませんでした。まずは腹ごしらえから。やってきたのは事前にチェックしていた、木浦駅前の「海南(へナム)へジャンクッ」。

「へジャンクッ(해장국)」とは、二日酔いを和らげるため(これを韓国語で「解酲(ヘジャン)」という)、お酒を飲んだ直後またはその翌朝に食べるスープ料理一般をいいます。ご存じの方、あるいは実際にお世話になった方も多いことでしょう。
その具や味については、たぶん韓国で一番有名なヘジャンクッであるソウル・鍾路(チョンノ)の名店「清進屋(チョンジノク)」のそれのような、ソンジ(선지:牛の血を固めたもの)がたくさん入ったものを想像する方が多いかと思います。しかし実は前述したように「二日酔いを和らげるためのスープ」以上の定義はない一般名詞であるため、一口にヘジャンクッと言っても材料やスープの味は地域によって、さらにはお店によってまちまちです。

 

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こちらのお店の名物「テジピョヘジャンクッ」(돼지뼈해장국:テジは「豚」、ピョは「骨」の意)は、またの名を「ピョダギへジャンクッ」(뼈다귀해장국:ピョダギとは「個々の骨」の意)ともいい、カンジャン(醤油)あるいはテンジャン(味噌)ベースのスープに豚の背肉が背骨ごと入っている豪快な料理です。ちなみにこのピョダギへジャンクッにカムジャ(ジャガイモ)を投入したものが、日本でもお好きな方が多い「カムジャタン」です。もっともカムジャタンの名の語源にはスープに入っていた「カムジャピョ」と呼ばれる部位の骨に由来するいう説があり、その通りならばカムジャの有無にかかわらずカムジャタンと読んでもかまわないのかもしれません(語源の由来は諸説あります)。

 

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そしてやって来たテジピョヘジャンクッ。背骨のみならず大腿骨(たぶん)まで入っており、予想以上に豪快な盛り付けです。
ひと口。ああ、カンジャンベースのスープがうんまい。これは大好きな味。
柔らかく煮込まれた肉や腱を骨からこそぎ落としつつ食べ進めます。そのままかぶりついてもよいですが、スープに溶かしご飯を混ぜて食べると、これがもう猛烈にうんまい。ご飯との相性がこれほどまでに絶妙なスープはそうそうありません。あっという間に完食。

 

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こちらのお店「海南へジャンクッ」の営業時間は午前4時~午前0時、第1・第3日曜日休業。前述したようにKorail「木浦」駅のそば、まさに駅前にあり、徒歩約5分(約310m)で到達できます。
今回は12,000ウォンの「大」を頼んだつもりでしたが、伝票は普通サイズの9,000ウォンとなっていました。このボリュームで普通なのですから、大だと一体どれだけのものが出てくるのでしょう。こちらのお店は再訪するつもりなのでいまから楽しみです。

海南ヘジャンクッ(해남해장국:全羅南道 木浦市 三鶴路18番キル 2-2 (常楽洞1街 2-5))

 

木浦市の人口は約24万人。朝鮮半島の西南端、この一帯の中心都市である港町であり、近隣の多島海の島々とを結ぶフェリーの一大拠点となっています。
木浦の歴史は三国時代にまでさかのぼりますが、朝鮮時代末期の1897年の開港により急発展を遂げ、「日韓併合」直後の1910年10月には木浦府(市に相当)に改称。1932年には務安郡の一部を合併して人口約6万人となり、当時の朝鮮でも上位6位以内に入る都市であったそうです。こうした背景からここ木浦には、同じく朝鮮時代末期に開港された仁川港、また日本が収奪した米などを積みだした全羅北道(チョルラブット)の群山(クンサン)港などと同様に日本人あるいは朝鮮人資本の近代建築が市内中心部の随所に建てられ、かつ今日まで保存されています。
今回この木浦へ来たのは、ここからある島へ行く船に搭乗するため。したがって駅から少し離れた木浦沿岸旅客船ターミナルヘ移動しなければなりません。旅客船ターミナルへはタクシーで行けばすぐの距離ですが、この日は幸いにして出航まで少し余裕があったため、これら近代建築を巡りつつ旅客船ターミナルまで歩くことにしました。

 

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「旧湖南銀行木浦支店」。
1929年築。レンガの表面を赤い色のタイルで仕上げたこちらの建物は、実業家の玄俊縞(현준호:ヒョン・ジュンホ、1889-1950)氏が1920年に創業した湖南銀行の支店として建設されました。日帝強占期当時、朝鮮にあった銀行はほとんどが日本人資本である中、湖南銀行は朝鮮人資本の銀行として貴重な存在でしたが、1942年には朝鮮総督府の強要により東一(トンイル)銀行による吸収合併を受けています。近代金融建築としては木浦で唯一現存するものだそうです。国家指定登録文化財第29号。

旧湖南銀行木浦支店(木浦文化院)(구 호남은행 목포지점(목포문화원):全羅南道 木浦市 海岸路249番キル 34 (常楽洞1街 10-2)。国家指定登録文化財第29号)

 

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「旧木浦和信百貨店」。
1935年築。優美な曲線とアーチ型の窓が印象的なモダニズム建築のこちらの建物は、かつてソウル・鍾路に本店を構えていた「和信(ファシン)百貨店」の支店で、現在は「キム・ヨンジャアートホール」という看板が掲げられています。「旧朝鮮運輸木浦支店」として紹介されている事例も多く見られますが、今回訪れた近代建築の中では唯一文化財に指定されておらず、そのためか詳しい情報がほとんど見つかりませんでした。

旧木浦和信百貨店(旧朝鮮運輸木浦支店/キム・ヨンジャアートホール)(구 목포 화신백화점(구 조선운유목포지점 / 김영자 아트홀):全羅南道 木浦市 繁華路 75 (常楽洞1街 11-8))

 

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旧木浦和信百貨店(右端)の横から旧湖南銀行木浦支店の側を眺めた景色。この一帯はいまでこそ閑散としていますが、日帝強占期当時は「本町」と呼ばれ、前述のように百貨店も立地する一大繁華街だったそうです。2つの近代建築に挟まれて、日本家屋とみられる建物が残っています。

 

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「旧東本願寺木浦別院」。
1930年代築。日本式の木造の仏堂をコンクリートで再現した建物で、木浦では初の日本式寺院だとのことです。光復後の1957年から最近まで木浦中央教会として使用されていたそうで、仏閣の姿をした教会という韓国でも異色の施設だったようです。現在は「オゴリ文化センター」として使用されています。国家指定登録文化財第340号。

旧東本願寺木浦別院(オゴリ文化センター)(구 동본원사 목포별원 (오거리문화센터):全羅南道 木浦市 連山路75番キル 5 (務安洞 2-4)。国家指定登録文化財第340号)

 

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東本願寺木浦別院の近くには、木浦を代表するパン屋さん「コロムバン製菓」の本店があります。韓国5大ベーカリーに数えられることもあるというこちらのお店、立ち寄らないわけにはいきません。

 

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今回購入したのは、名物の「セウバゲット(새우바게트)」。セウとは「エビ」の意。写真では分かりづらいですが、パン生地にエビが練り込まれています。黄色いのはマスタードソース。1個4,500ウォン(約470円:当時)とパンにしてはなかなかの値段ですが、生地と酸味のあるマスタードソースが絶妙にマッチしてうんまかったです。

こちらのお店「コロムバン製菓」の営業時間は午前8時~午後10時、毎月第2火曜日休業。紹介したセウバゲット以外にも「クリームチーズバゲット(크림치즈바게트)」などが名物として知られています。次回の木浦訪問の際にもまた立ち寄りたいお店です。

コロムバン製菓(코롬방제과:全羅南道 木浦市 栄山路75番キル 7 (務安洞 1-3))

 

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「旧木浦日本領事館」。
1900年築。儒達山(ユダルサン)の麓に建つレンガ造り、ルネサンス様式のこちらの建物は、1907年まで在木浦日本領事館として使用され、「日韓併合」後の1914年からは木浦市の前身である木浦府の庁舎として使用されました。その後は木浦市庁舎、木浦市立図書館、木浦文化院を経て2014年からは「木浦近代歴史館」の1館として使用されており、領事館当時の大理石の暖炉などが現在も公開されているようです。史跡第289号。

 

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木浦近代歴史館には、1897年の木浦開港以降、日本の植民地支配と収奪に関する貴重な資料が数多く展示されていると聞きます。今回は時間の都合で入館しませんでしたが、次回はぜひ訪問したいと思います。

旧木浦日本領事館(木浦近代歴史館1館)(구 목포 일본영사관(목포근대역사관 1관):全羅南道 木浦市 栄山路29番キル 9-4 (大義洞2街 1-5)。史跡第289号)

 

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旧木浦日本領事館の下には、「平和の少女像」が静かにたたずんでいました。
前回、釜山で会ってからたった2週間。そのわずかな間にも日本では大阪市長により、あろうことか「慰安婦像」を理由とした米サンフランシスコ市との姉妹都市解消の判断がなされ、しかも広く世論の支持を得ている状況下にありました。こんなことが許されてよいのか。自らの非力さをただ詫びるしかありませんでした。

 

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「旧木浦府庁書庫」。
1932年築。旧木浦日本領事館の裏手にあるこちらの建物は、その名の通り旧木浦日本領事館が木浦府庁だった時期に書庫として建てられたもので、その建設には木浦刑務所の受刑者が動員されたとのことです。普段は内部に入れるようですが、この日はあいにく補修工事中のため立ち入ることはできず、周囲に組まれた足場のため外見も見づらい状況でした。

 

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旧木浦府庁書庫のすぐそばには、防空壕が口を開けていました。
こちらは第二次大戦中、日本軍が朝鮮半島への米軍侵攻に備えて建設したものです。調べた限りはっきりとはしませんでしたが、済州島(チェジュド)に無数にある防空壕と同じく、強制徴用された朝鮮人が多数動員されたものとみられます。こちらの防空壕は旧木浦府庁書庫とともに「旧木浦府庁書庫と防空壕」として、国家指定登録文化財第588号に指定されています。

 

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防空壕は無料開放されているため、少しだけ中に入ってみました。
内部には防空壕を掘る人々、そして監視役の日本の官憲とみられる再現人形が配置されています。
こちらも時間の都合で一部を撮影するだけにとどめましたが、次回訪問時には全通路を巡ることにします。

旧木浦府庁書庫と防空壕(구 목포부청 서고 및 방공호:全羅南道 木浦市 栄山路29番キル 9-4 (大義洞2街 1-5)。国家指定登録文化財第588号)

 

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かつてここ木浦は光州広域市ソウル特別市などを経て京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市へと(さらには朝鮮民主主義人民共和国平安北道(ピョンアンブット)新義州(シニジュ)市にまで)至る国道1号線、および全羅南道順天(スンチョン)市や慶尚南道キョンサンナムド)晋州(チンジュ)市などを経て釜山広域市へと至る国道2号線の起点であり、旧木浦日本領事館の下にはそのことを記念する「国道1.2号線起点紀念碑」が建てられていました。なお国道2号線については、その後の延長により現在は同じ全羅南道の新安(シナン)郡に起点が変更されています。

 

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「旧東洋拓殖株式会社木浦支店」。
1923年築。朝鮮総督府が「土地調査事業」を通じて安値で買い叩いたり文字通り奪ったりした土地の払い下げを受けて朝鮮最大の地主となり、朝鮮人小作農に貸し付けるなどして朝鮮の支配と収奪に積極加担した、悪名高き植民地経営企業「東洋拓殖株式会社」。その木浦支店として建てられたのが、こちらのルネサンス様式の建物です。
一時は老朽化に伴い解体が決定、撤去作業の着手にまで至ったそうですが、市民運動などにより一転して保存対象となり、現在は先に紹介した「木浦近代歴史館」の2館として使用されています。全羅南道記念物第174号。

旧東洋拓殖株式会社木浦支店(木浦近代歴史館2館)(구동양척식주식회사목포지점(목포근대역사관 2관):全羅南道 木浦市 繁華路 18 (中央洞2街 6)。全羅南道記念物第174号)

 

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そして目的地である「木浦沿岸旅客船ターミナル」に到着。木浦駅前の海南ヘジャンクッを出て、5つの近代建築に立ち寄って写真を撮ったりパンを買ったりしながらでもわずか1時間半に満たない行程でした。

 

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写真1枚目のチケット売場で乗船券を購入、2枚目の改札口からのりばの埠頭に進入します。実は事前に予約していたため、こんなにのんびり落ち着いた気分で街歩きができたわけです(当日でも空席はありましたが)。予約方法については次回のエントリーにて紹介します。

 

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精悍なデザインの高速船。午後1時発のこちらの高速船に乗船し、いよいよ目的の島へと向かいます。
続きは次回のエントリーにて。

釜山の旅[201711_05] - 日帝時代の墓石で命をつないだ避難民の村「碑石文化マウル」、庶民生活の記録に生涯を捧げた写真家

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、明けて3日目(2017年11月19日(日))の朝です。

 

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この日最初に向かったのは、同市西区(ソグ)にある都市鉄道(地下鉄)1号線「土城(トソン)」駅。いまや釜山を代表する観光地のひとつである沙下区(サハグ)の「甘川(カムチョン)文化マウル」の最寄り駅ということで、バス停へ向かう6番出口の階段には同マウルの案内が。しかし、この日の目的地はこちらではありません。

 

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駅近くのバス停からはマイクロバスの「マウルバス」に乗車。細く曲がりくねった急坂をゆっくりと登ります。カーブでマウルバス同士が出会った場合には一方が停止して譲らなければならず、それ以外でもすれ違いするのがやっとという。マイクロバスでこれですから一般的なバスの運行はまず無理でしょう。俗に「山腹道路」と呼ばれるこうした狭い急坂は釜山の市街地の至るところにあり、マウルバスの路線はそれらを毛細血管のように巡っています。

 

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5分ほどで到着した「サンサン教会(碑石文化マウル)」バス停にて下車。このバス停の正面、斜面の上側にある場所には、写真の古びた家屋が建っています。
こちらの家屋は「墓地の上の家(묘지위 집)」と呼ばれ、日本式の墓の外柵(がいさく)を土台にして建てられたものです。そのことを証明するかのように、家屋の横には日本人と思しき名前と大正時代の日付が刻まれた墓石が置かれています。

 

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この「墓地の上の家」を含む西区峨嵋洞(アミドン)山(サン)19番地一帯、現在は「碑石(ピソン)文化マウル」と呼ばれる場所には、かつて日本人の共同墓地が広がっていました。
これらは朝鮮時代の「草梁倭館」(チョリャン・ウェグァン。倭館とは朝鮮における日本の使節や商人の外交・貿易施設のこと。草梁倭館は現在の釜山広域市中区にて1607年から釜山開港期の1876年まで存続)の関係者、および釜山開港から日帝強占期にかけて入植した日本人たちの墓地で、近隣の龍頭山(ヨンドゥサン)や伏兵山(ポクピョンサン)にあった墓地を1907年に移したものです。さらに1929年には火葬場が追加で建設されています(後に移転)。しかし、1945年の光復(日本の敗戦による開放)により日本人が退去した後は放置状態となっていました。
その後1950年には朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)が勃発し、戦線から最も遠い釜山には全国から避難民たちが殺到します。しかし平地はすでに先住者たちであふれていたため、「埋築地(メチュクチ)マウル」や「ソマンマウル」畜舎のような日本人の残した建物を転用した収容所に暮らすか、あるいは「アンチャンマウル(ホレンイマウル)」のように自ら急斜面を切り開いて住む場所を確保するしかありませんでした。
うち後者の一部が、峨嵋洞の急斜面の日本人共同墓地にたどり着きます。文字通り体ひとつで釜山にたどりついた彼らは、命をつなぐ住居の確保のためやむにやまれず日本人の墓を破壊、その墓石を材料に住居や石段などを造り、釜山での避難生活を始めます。そして休戦後も故郷への帰還がかなわなかった避難民たちはそのまま共同墓地の跡に定着、こうして形成されたのが今日の碑石文化マウル一帯の住宅地です。
お気づきかとは思いますが、マウル名にもある「碑石」(ピソク。マウル名では音韻変化により「ピソン」と発音)とは、墓石のことをを指します。

 

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碑石文化マウルの象徴的存在となっている「墓地の上の家」の脇から、人ひとり通るのがやっとの狭い路地に入ります。マウル内に縦横無尽に張り巡らされたこれらの路地沿いには、日本人墓地の墓石を再利用した物件があちこちに点在しており、その用途や配置場所などからいくつかの俗称で呼ばれています。
写真は「安心(アンシム)シムト碑石」(안심쉼터 비석:シムトとは「休憩所」の意)と呼ばれているもので、墓碑銘や家紋と思しき意匠が刻まれた墓石がいくつも組み合わされています。

 

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墓石。「明治四十二年五月廿七日歿」と読み取れます。

 

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上にあたる左側には「金滿家靈標」とあり、その下の右半分(写真では上側)には納骨された一族とみられる名前が刻まれています。

 

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こちらの石垣は「築台(チュクテ)碑石」(축대비석:築台とは「石垣」の意)と呼ばれているものです。

 

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右側を上に「明治二十三年八月」まで読み取れます。

 

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こちらはまた別の場所の「築台碑石」。
3文字目までは「妙法 賢」と遠目からでもはっきり読み取れます。4番目の字は「堂」でしょうか、それとも「光」でしょうか。

 

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「ノリト階段(ケダン)碑石」(놀이터계단비석:ノリトとは「遊び場」の意)。
墓石と思しき石材がいくつも積み重ねられており、石段の下から3段目には墓碑銘と思われる文字を読み取ることができます。

 

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こちらは「スドッカ碑石」(수돗가 비석:スドッカとは「水道が出るところ」の意)と呼ばれるものです。
ここでは石段の最下段に墓石が用いられており、「明治三拾五年九月九日 ●●三郎」との墓碑銘が読み取れます(●●の箇所は不明)。

碑石文化マウルについては日本語の旅行記でも複数紹介されており、中には「日本人の墓石を建築資材にし土足で踏みつけるなんてやっぱりあいつらは反日だ、理解できない」といった否定的な感情、さらには差別心をあらわにした感想も少なくありません。そうした感情論に流されそうになったときは、まずはこの碑石文化マウルの前身である日本人共同墓地が一体どこに存在し、誰のために作られたのか、そのことから考えてみましょう。
前述したように碑石文化マウルで資材とされた墓石の数々は、朝鮮戦争中から休戦直後にかけての極度の物資不足、かつ急斜面という劣悪な環境下で避難民たちが命をつなぐため、やむにやまれず再利用されたものです。しかし、仮に一部の(韓国人がみな「反日」であってほしい)日本人が喧伝するように植民地支配への恨みからわざと墓石を踏み石などに用いたとして、過去の行状を考えればそれは当然の帰結であり、日本人に非難する資格はないというのが私の考えです。

 

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碑石文化マウルには、いくつかの壁画も描かれていました。写真は避難民のきょうだいをイメージしたと思われる壁画。

 

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こちらの壁画、絵柄といい題材といい、とても好みです。

 

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碑石文化マウルの最上部にある「ハヌル展望台」(ハヌルは「空」の意)から眺めた峨嵋洞、そして釜山の旧市街である西区・中区の市街地の風景。これぞ釜山の旅の醍醐味です。

 

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碑石文化マウルへのアクセスは、都市鉄道(地下鉄)1号線「土城(トソン)」駅からだと徒歩約12分(約770m)と表示されますが、道中えんえんと急坂が続きますので、マウルバスのご利用をおすすめします。
同駅6番出口を出て徒歩約3分(約180m)の場所にある「釜山大学校病院」(부산대학교병원)バス停から、マウルバス<서구(西区)2>(約7分おき配車)または同<사하구(沙下区)1-1>(約15分おき配車)に乗車し、約4分で到着する4つめの「峨嵋洞公営駐車場」(아미동공영주차장)バス停で下車すると写真の場所「コルモクギャラリー」そばに、また約5分で到着する6つめの「サンサン教会(碑石文化マウル)」(산상교회(비석문화마을))バス停で下車すると冒頭に紹介した「墓地の上の家」の前に到着します。
ちなみに後者「サンサン教会(碑石文化マウル)」バス停から4つめ(「釜山大学校病院」からだと10番目)、<서구2>バスの場合は終点でもある「甘川初等学校.甘川文化マウル」(감정초등학교.감천문화마을)バス停が、その名の通り甘川文化マウルの玄関です。

碑石文化マウル(비석문화마을:釜山広域市 西区 峨嵋洞2街 227-7 一帯)

 

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先の「コルモクギャラリー」を東方向(「墓地の上の家」と反対側)へ向かって少し歩くと、写真の「峨嵋文化学習館」という施設があります。

 

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この脇の階段を下ると、釜山を拠点に活動していた写真家、崔敏植(최민식:チェ・ミンシク、1928-2013)氏による写真作品の展示空間「崔敏植ギャラリー」の玄関が現れます。
日本でも有名なあの俳優さんとハングル表記を含め同じ名前の方ですが、もちろん別人です(ちなみに漢字表記は異なります。俳優さんの方は「崔岷植」)。

 

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崔敏植氏は1928年、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する黄海道(ファンへド)の延白(ヨンベク)郡生まれ。第二次大戦中は平安南道(ピョンアンナムド)にあった三菱技能者養成所の技能工に従事。光復後はソウルへ移り日中はエ場などで労働し、夜間は強い関心のあった絵画の勉強のため夜学通いという生活を続けます。

 

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朝鮮戦争期の軍服務を経て再び工場労働に戻ったものの、美術への思いを捨てきれず、1955年には一念発起して日本へ密航。東京中央美術学院での在学当時、東京の古書店でたまたま手に取った米国人写真家のエドワード・スタイケン(Edward Steichen、1879-1973)氏の写真集『人間家族』(The Family of Man)を読んで深い感銘を受け、一転してドキュメンタリー写真家の道を志すようになります。

 

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2年間の課程修了後は釜山へ帰国。独学での写真の勉強と並行しつつ朝鮮戦争の傷跡の残る釜山の街に出て、この街で暮らす庶民たち、中でも社会から疎外され貧困にあえぐ人々を被写体に、写真家としての活動を始めます。これら作品への評価はまず海外から火が付き始め、1962年の台湾国際写真展入賞を皮切りにいくつもの賞を獲得します。写真は氏が残した無数の作品の中でも代表作のひとつに数えられる、子に乳を与える母の写真、そして窓べりで本を読む子どもの写真。

 

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一方、韓国国内でも写真賞受賞や個展の開催、また1968年の第1巻からその後全14巻が発刊された写真集『인간(人間)』シリーズなどの著作物により、60年代半ばから徐々にその知名度を高めてゆきます。しかしこの当時、開発独裁による韓国の近代化を急いでいた朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領は貧しい人々の写真ばかりを海外で展示する崔敏植氏を快く思わず、パスポートの発給拒絶などさまざまな手段で圧力を加えたため、海外での個展はいつも本人不在の状況だったとのことです。もっとも民主化以降は政府の姿勢も変化し、2001年には大韓民国玉冠文化勲章、2008年には国民褒章を授与されています。
最晩年まで写真家としての活動を続けた崔敏植氏は2013年、釜山の自宅にて死去。その死後も韓国第1世代のドキュメンタリー写真家として高く評価されており、また釜山の人々にとっては親しみのある存在となっています。

 

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「崔敏植ギャラリー」の開館時間は午前10時~午後6時、月曜休館。入場無料。ギャラリーが入居する「峨嵋文化学習館」へは、先ほど碑石文化マウルへのアクセスで紹介した「峨嵋洞公営駐車場」バス停から徒歩約2分(約170m)で到達できます。
今回紹介した作品は展示物のごく一部であり、ギャラリー内にはより多くの作品が展示されています。碑石文化マウルとあわせて、ぜひ訪れていただきたい場所です。

崔敏植ギャラリー(최민식갤러리:釜山広域市 西区 峨嵋路128番キル 20-1 (峨嵋洞2街 89-239)峨嵋文化学習館)

 

マウルバスで土城駅へ戻り、今度はタクシーに乗り換えます。

 

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1935年築の跳ね橋「影島大橋(ヨンドデキョ)」を渡り、やって来たのは影島区(ヨンドグ)にあるオムク(어묵:オデンの具などに用いる魚肉の練り物)の名店「サムジンオムク本店」。

 

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朝鮮戦争の休戦と同じ1953年創業のこちらのお店は釜山オムクの草分け的存在とされ、釜山広域市からは現存最古のオムク製造加工所に認定されています。そのため数あるオムク生産業者の中でもとりわけ知名度が高く、Korail釜山駅をはじめ全国各地に出店するほか、他企業とのコラボ製品も出しています。写真は2017年2月に金海国際空港セブン-イレブンにて購入した、サムジンオムク監修のおにぎり(2018年現在は販売されていません)

 

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まずは本店の2階にある「オムク体験歴史館」から。
こちらは釜山オムクと会社の歴史を紹介するスペースに加え、オムク作りを体験できる厨房スペースが併設されています。私が訪れたときはまだ開催されていませんでしたが、週末になると子どもたちを中心とした体験希望者で賑わうようです。

 

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階段の途中にあったイラスト。なごみます。

 

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続いて1階のサムジンオムク本店。いろんな種類のオムクが並べられています。

 

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購入したのは写真の詰め合わせパック。数種類のオムクが1kg分入って15,000ウォン(約1,575円:当時)。専用のスープも付いてきます。

 

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日本に帰ってから炊いたもの。スープの味は西日本風おでんのそれに近いですが韓国のオデンらしく若干の辛味があります。また買いたいと思うくらいおいしかったです。同じくお土産に買ってきた、韓国の民俗酒第1号でもある釜山の地マッコリ「金井山城(クムジョンサンソン)マッコリ」で一杯。

 

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こちらは詰め合わせパックと別に買ってきた「スサムオムク」(수삼어묵:生高麗人参のオムク)。高麗人参がまるまる1本入っているため、1個で4,500ウォン(約470円:当時)となかなかの値段です。はみ出た根っこがまるでオムクの尻尾のよう。おいしかったですが、オムクに包まれている部分は本当に生だったのでスープで煮込んだほうがよりおいしかったかも。

 

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こちらのお店「サムジンオムク本店」の営業時間は午前9時~午後8時(体験歴史館は午後6時まで)、名節(旧正月・秋夕)当日は休業です。最寄り駅である都市鉄道(地下鉄)1号線「南浦(ナムポ)」駅からだと、6番出口を出て徒歩約1分(約50m)の場所にある「影島大橋(南浦駅)」(영도대교(남포역))バス停から<82> <85>番バスのいずれか、またはその50mほど先にある「影島大橋」(영도대교)バス停から<8> <30> <88A> <113> <186> <190>番バスのいずれかに乗車。いずれの場合も約7分で到着する2つめの「影島郵逓局」(영도우체국)バス停で下車、徒歩約4分(約260m)で到達できます。6番出口からの徒歩でも約17分(約1.1km)。影島大橋の見物がてら歩いてみるのもよいでしょう。
なお、本店の真向かいには同店のオムクを用いた料理が食べられる「三真週家」(삼진주가:サムジンジュガ)が最近オープンしたそうで、次回訪問時には立ち寄ってみたいと思います。 

サムジンオムク本店(オムク体験歴史館)(삼진어묵본점 (어묵체험역사관):釜山広域市 影島区 太宗路99番キル 36 (蓬莱洞2街 40-2))

 

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サムジンオムク本店の近くに、在来市場「蓬莱市場(ポンネ・シジャン)」のアーケード入口があったので立ち寄ってみました。
島の最高峰「蓬莱山」(봉래산:ポンネサン、396m)にその名が由来するこちらの市場は、日帝強占期に自然形成された市場が1970年代に商店街として整えられたものだそうで、現在は約120店ほどが営業しているとのことです。

 

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アーケード通りの中央にはいくつかの露店が。写真2枚目はそのひとつにあった謎の黒い物体。これ、何だと思いますか?

 

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実はこれ、ウミウシの仲間の「アメフラシ」(写真2枚目)を乾燥させたものです。よく磯にいるブニュブニュした、触ると紫色の汁を放出するあの生き物です。韓国語では「クンソ(군소)」といいます。
アメフラシはその食餌である海藻の種類によって体内に毒素を持つことがあり、食べることのできる産地は限られています。そのため韓国でも決してポピュラーな食材ではありませんが、釜山を含む南海(ナメ。朝鮮半島南岸の海)沿岸では煮込んだりして食されているとのこと。日本でも房総半島や隠岐などでは食べる習慣があるようです。

 

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時計はすでに午前11時過ぎ。お腹がすいてきました。でも帰りの便は金海空港を午後3時半発ですので、あまり余裕はありません。
タクシーで向かったのは前回(2017年2月)の旅でも訪問した、地下鉄1号線「中央(チュンアン)」駅近くの「トゥンボチッ」。前回あまりにおいしかったことに加えて影島から距離的にも近く、残り時間を考慮すると(チェック済みのお店の中では)これ以上にない場所にあることから再訪したものです。

注文したのはもちろん、お店の名物「チュックミグイ」(쭈꾸미구이:イイダコ焼き)、12,000ウォン(約1,200円)。前回の経験からいきなり2人分を注文したところ、なんと1人分を食べ終わったところを見計らって次の皿を出してくださるとのこと。お心遣いがすごい。

 

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店先にある炭火コンロでじっくり網焼きされたチュックミグイさん。炭火特有の香りとパンチのある辛さのヤンニョムが絶妙なバランスで鼻腔をくすぐります。うんまい。前回同様、辛さに汗をかきつつ食べ進めます。

 

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チュックミグイに付いてくるコンビジ(콩비지:おからスープ)。これがまたうんまいのですよ。少し粗めのシチューのような舌触りもまた心地よいのです。そうしてあっという間に完食。

 

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こちらのお店「トゥンボチッ」の営業時間は午前11時~午後10時30分、毎月第4日曜日休業。都市鉄道(地下鉄)1号線「中央」駅1番出口からだと徒歩約2分(約130m)。大通りの「中央大路」(중앙대로:チュンアンデロ)に沿って「南浦」(ナムポ)駅方面へ進み、2番目の角を右折、続いてすぐの角を左に曲がって50mくらい進むと右手に現れます。個人的にかなりおすすめのお店です。

トゥンボチッ(뚱보집:釜山広域市 中区 中央大路41番キル 3 (中央洞1街 21-3))

 

2017年11月の釜山の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2017年12月の全羅南道(チョルラナムド)の旅をお送りします。

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