かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

群山の旅[201801_02] - 日本の収奪の痕跡を歩く①-群山線臨陂駅と沃溝農民抗日抗争、そして嶋谷金庫

前回のエントリーの続きです。 

本年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の2日目、20181月20日(土)です。

 

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午前7時、夜明け前の寒い中をバスに乗り込みます。

 

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まずやって来たのは、同じ群山市内とはいえ市街地から遠く離れた臨陂面(イムピミョン。面は日本の「●●郡●●村」に相当)にあるKorail韓国鉄道公社)長項線の休止駅、臨陂(イムピ)駅。1936年頃に建てられた木造駅舎(写真)を見学するためです。
臨陂駅は日帝強占期の1924年開業。当時の臨陂面は群山市ではなく、その前身のひとつである沃溝(オック)郡に属していました。写真の駅舎は2代目で、現存する駅舎では隣の益山(イクサン)市内にある全羅線(チョルラソン)の旧春浦(チュンポ)駅舎の次に古いものとされています。当時の農村地域における小型駅舎の典型的様式をほぼ原型のまま留める物件だとして、国家指定登録文化財第208号にも指定されています。

 

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総延長約154kmの長項線のうち、臨陂駅を含む益山(イクサン)駅~群山駅の約20kmの区間は、かつて群山線(クンサンソン)と呼ばれていました。
群山線は1912年、当時は群山港近くにあった旧群山駅と、湖南線(ホナムソン)に接続する裡里(イリ)駅(現・益山駅)とを結ぶ湖南線の支線として開業。全長約23.1kmのこの路線は、朝鮮最大の穀倉地帯であった湖南平野一帯で収穫した米を群山港を介して日本へ搬出するために建設されたものであり、まさしく収奪の手段たるインフラでした。
開業当初は配置簡易駅(駅長がおらず、隣接する駅の管理下にある駅)であった同駅は、利用者増により1936年には普通駅(駅長がいる駅)に昇格、これと前後して現存する2代目駅舎が建てられています。しかしその後は徐々に利用客が減少し、1995年には再び配置簡易駅に格下げされ、2005年には貨物取扱が中止、そして2006年には無配置簡易駅無人駅)に格下げ。そうした中で2008年には群山市が北側で面する大河、錦江(クムガン)を渡る橋梁の完成により長項線と連結、群山線は同線に編入されます。このとき舒川(ソチョン)~益山間に新設されたセマウル号が停車するようになったため、臨陂駅はKorail史上初のセマウル号が停車する無人駅として注目を浴びたといいます。しかしこの列車はわずか4ヵ月で廃止され、同時に臨陂駅の旅客取扱も停止。その後今日に至るまで実質的な廃駅となっています。

 

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まだ午前7時台ということもあり駅舎の玄関は閉じられていましたが、日中は開放されているそうです。写真は窓ガラス越しに撮った駅舎内。

 

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駅舎の内外には、ブロンズ色をした等身大の再現人形がいくつも立てられています。これらは群山出身の小説家、蔡萬植(채만식:チェ・マンシク、1902-1950)氏の短編小説『レディメイド人生(레디메이드 인생)』などの作品世界を題材にしたものです。
蔡萬植氏は1902年、現在の群山市臨陂面生まれ。日本の早稲田大学付属第一早稲田高等学院に在学したこともありますが、関東大震災の影響により学業半ばで朝鮮への帰郷を余儀なくされ、まもなく退学抜いとなっています。
その後は短期間の新聞記者生活を経て小説家デビュー。当初の社会告発的な作風からまもなく風刺的な作風に転向、前述した『レディメイド人生』などで風刺作家としての地位を確固たるものとします。
蔡萬植氏は1940年代以降、その著作などで日本の戦争進行に積極加担したため「親日反民族行為者」と認定されています。1948年には自身のそうした過去と向き合い、それらを告白した自伝的短編小説『民族の罪人(민족의 죄인)』を発表。本作により蔡萬植氏は韓国で初めて親日行為を自ら認めた作家とされ、その点については評価する向きもあるとのことです。
生涯で200本もの作品を執筆した蔡萬植氏は1950年6月11日、肺結核により死去。朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)勃発のわずか2週間前でした。

 

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国家指定登録文化財の指定対象は臨陂駅舎本体のほか、その向かって右側にある別棟のトイレ(写真)も含まれます。韓国でも珍しい登録文化財のトイレ。トイレ建物そのものが文化財に指定されている事例では、全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の仙岩寺(ソナムサ)にある「順天仙岩寺厠間」(全羅南道文化財資料第214号)などがありますが、こうした近代的なトイレ、それも独立した建物が文化財に指定されているものはあまり類例がないようです。
現在は使用が禁止されており、ここで用を足さないようにとの注意書きが内部のいたるところに貼られています(しかし臭いは現役のトイレのそれでしたが……)

 

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トイレの前にあった「午砲台(オポデ)」。本来はその名の通り、正午を知らせるための空砲である「午砲」を撃つ施設をいいますが、ここでは空砲ではなくスピーカーからサイレンを流していたようです。

 

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臨陂駅は休止駅ですが、構内を走る長項線の線路は現役であり、たまに列車が通過します。
なお現在、同駅を含む長項線の大野(テヤ)~益山間は複線電化工事が進められており、遠くにはそれらしき高架線も見えました。完成時には臨陂駅舎も移設されるとのことです。

前述したように臨陂駅は休止駅であり、どの列車も停車しないため、アクセスは必然的に市内バスのみとなります。
Korail「群山」駅からは直通のバスがないので、まず長項線下り(益山方面)のムグンファ号に乗車し隣の「大野(テヤ)」駅で下車(約9分:約260円)、徒歩約6分(約370m)の「大野ターミナルサゴリ(대야터미널사거리)」バス停から<21><22><23>番市内バスのいずれかに乗車、約12分で到着する「臨陂駅(임피역)」バス停から徒歩約2分(約150m)。ただし大野駅に停車するムグンファ号は下りが1日5本、上りは1日4本しかありません。なおタクシーであれば群山駅から約19分、13,200ウォン(約1,320円)前後で到達できるようです(交通条件によって異なる)。
群山高速バスターミナル」または隣接する「群山市外バスターミナル」からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<21><22><23>番市内バスのいずれかに乗車、約36分で到着する「臨陂駅(임피역)」バス停から徒歩約2分(約150m)
以上のいずれも2018年12月時点の情報です。

群山旧臨陂駅(군산 구 임피역:全羅北道 群山市 臨陂面 書院石谷路 37 (戌山里 226-1)。国家指定登録文化財第208号)

 

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臨陂駅前には「時失里」(시실리:シシリ。「時間を失った里」の意)と名付けられた広場があり、ここにも蔡萬植氏の作品世界を再現した人形が随所に設置されています。その名前の通り、まるで時間が止まってしまったかのように物語の中の日常を切り取られ、広場のあちこちで静止する人形たち。異空間に放り込まれたような感覚です。
とはいえ季節は真冬。全身に霜が降りてしまった人形さんたち、ちょっと寒そう。

 

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駅前広場には、かつてのセマウル号の客車が。
「汽車展示館」と名付けられた2両の客車内には、案内板によると「群山線と日帝の収奪」「小説『濁流』・『セキルロ』」(いずれも蔡萬植氏の作品。セキルロとは「3つの道へ」の意)などの展示スペースが設けられているとのこと。ただし早朝でしたので入ることはできませんでした。

 

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そんな駅前広場の一角に、「沃溝農民抗日抗争」と記された写真の石碑がありました。
「沃溝二葉社農場小作争議」とも呼ばれるこの抗争は、1927年11月に群山市(当時は沃溝郡)臨陂面一帯にて発生した、日本人大地主に対する朝鮮人小作農たちの抗争をいいます。
当時この一帯の農地は、日本人大地主が経営する「二葉社農場」が所有し、朝鮮人小作農たちは多額の小作料の納付を強いられていました。これは群山(沃溝)のみならず、当時は朝鮮全土で同じような図式が展開されていました。
大日本帝国の植民地統治機関である朝鮮総督府は朝鮮全土の農産物を効率的に収奪するため、「土地調査事業」と称して朝鮮人の土地を安値で買い叩き、あるいは文字通り奪い取って、それら土地を日本人入植者に払い下げます。そして大地主となった日本人たちは、元々それらの土地で耕作していた朝鮮人から多額の小作料を得て富を蓄積し、経済力と権力をますます強めてゆきました。二葉社農場もまた、そうした日本人大地主により当時の朝鮮に点在していた典型的な植民地型農業経営会社のひとつです。

 

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沃溝農民抗日抗争の発端は、その3ヵ月前の1927年8月9日にさかのぼります。
この日、瑞穂(ソス。近隣の地名)青年会による農民啓発目的の講演会の内容が不穏だという理由で講師3人が警察に連行され、これに怒った農民数百名が駐在所を取り囲み、3人の釈放を要求して万歳運動を繰り広げる事件が発生しています。
地域農民たちの不満が日々高まる中、二葉社農場は同年11月、朝鮮人小作農たちに対し収穫の75%という法外な小作料引き上げを通告します。当時の小作料は全国平均で48%、群山を含む全羅北道地域では42%~46%でした【参考記事】。これらの数字でさえもあまりに過酷であるというのに、75%という数字がいかに人の道に反するものであったかが理解できるかと思います。

 

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小作農たちの組織であった瑞穂農民組合はこれに激しく反発、小作料を45%に引き下げるべく二葉社農場との交渉を模索しますが、農場側はこれを黙殺したため、ついに小作料の不納による小作争議に突入します。
そして11月25日、組合幹部の張台成(장태성:チャン・テソン、1909-1987)氏が交渉委員として二葉社農場へ出向いたところ、農場側の通報により駆けつけた群山警察署員により脅迫の疑いで拘束される事件が発生。これに激怒した組合員500名あまりがその日の夜に臨陂駅駐在所を襲撃し、拘留中の張台成氏を救出します。
群山警察署は消防署や近隣の警察署に応援を要請してこれを鎮圧。最終的に組合員80名以上が逮捕され、懲役6ヵ月の張台成氏を含む34名が実刑判決を受け収監されています。
この一連の抗日抗争を記憶し、抗争をした小作農たちを称えるために建てられたのが、こちらの石碑です。

 

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臨陂駅前からは再びバスに乗り、今度は群山市開井面(ケジョンミョン)の「鉢山(パルサン)」というバス停で下車。そこから7分ほど歩くと、鉢山初等学校(日本の小学校に相当。写真)の正門前に到着します。

 

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鉢山初等学校の正門前にあった、次の目的地を示す案内板(上段)。300mとあります。

 

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正門前を右折し、学校の敷地を回り込むようにして校舎の裏手へ進むと、そこには日本の蔵のような形をした写真の建物があります。
1920年頃築のこちらの建物は「群山鉢山里旧日本人農場倉庫」といい、かつて当地に入植していた日本人農場主、嶋谷八十八(しまたに・やそや)が金庫として用いるために建てたことから「嶋谷金庫」とも呼ばれているものです。
日本で酒造業などにより財を成した嶋谷は朝鮮へ渡り、群山に入植。1909年には486町歩(約145万坪)もの農場を所有する大地主となります。
一方で朝鮮の文化財に強い関心を抱いていた嶋谷は、莫大な財産を元手に書画や陶磁器など朝鮮の古美術品を収集していました。現金や重要書類に加え、そうしたコレクションを保管するのに並の金庫では到底間に合わないため、代わりに建てたものがこちらの建物です。

 

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当時では珍しい鉄筋コンクリート製で、出入口には米国から取り寄せた鍵付きの分厚い鉄の扉を設置。窓にも鉄格子がはめられています。加えて当時は建物の周囲に鉄柵と鉄門があったそうです。これほどまでに頑丈な造りのため、朝鮮戦争当時には群山に駐留した人民軍が地域の右翼人士を監禁するために用いたといいます。

 

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建物は開放されており、私が訪問した午前8時台の時点では自由に入ることができました。
出入口は2階と通じています。この階では農場の重要書類や現金などを保管していたそうです。

 

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急角度の木製階段を登った先にある3階。古美術品コレクションはこの階で保管されていたとのことです。

 

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f:id:gashin_shoutan:20180930190842j:plain2階の床には大きな穴が空いており、ここからさらに急角度の木製階段を下ると半地下室の1階です。薄暗くかつコンクリートむき出しの殺風景なこの階では、布地や食料品などを保管していたといいます。

 

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嶋谷金庫から歩いて1分ほど、鉢山初等学校の校舎のちょうど裏側には、いくつもの石塔や石像が立つ空間があります。

 

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これらもまた嶋谷八十八が収集したコレクションであり、言うまでもなく本来は別の場所にあったものです。

 

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これら石塔の中には、文化財的価値が極めて高いものも存在します。写真は順に「群山鉢山里五層石塔」(군산 발산리 오층석탑:宝物第276号)「群山鉢山里石灯」(군산 발산리 석등:宝物第234号)「鉢山里六角浮屠」(발산리육각부도:全羅北道文化財資料第185号)。中でも宝物は文化財の序列でいうと国宝の次、日本でいえば「重要文化財」に相当します。

嶋谷八十八は土地に対する執着が強かったといい、光復(日本の敗戦による解放)後に他の日本人が去った後も自分の農場を守るために帰国を拒否、ついには米軍政庁に帰化を申請するほどでしたが、結局は米軍政庁による強制的措置によりカバン2つだけを提げて帰国したといいます【参考記事】。
収奪を通じて得た富による我欲のための文化財収集、さらには本来あるべき場所からの移動をも厭わなかった嶋谷ですが、それでも朝鮮の文化財を日本に持ち出さなかった点だけでいえば、まだ良心的であったと言えるのかもしれません。
現在の大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の領域からは、古くは高麗・朝鮮時代の倭寇により、また近年では植民地支配下の収奪の一環で無数の文化財が日本に持ち出され、その総数は数万点にのぼると推計されています。中でも日帝強占期におけるそれらは、日本人たちが朝鮮での人的・物的収奪を通じて得た資金を元手に安く買い叩き、あるいは不法に取得したものであり、まさしく二重の収奪の産物というべきものです。

 

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群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)、および嶋谷が収集した石塔・石像群は開放されており、誰でも24時間(たぶん)無料で立ち入ることができます。
Korail「群山」駅からは直通のバスがなく、また前述した長項線「大野」駅経由だと逆戻りになるので、割り切ってタクシーを利用することをおすすめします(バス乗り継ぎは不確定要素が大きいですよね……)。行き先は「鉢山初等学校(パルサン・チョドゥンハッキョ)」を指定するとよいでしょう。約9分、6,800ウォン(約680円)前後で到達できるようです(交通条件によって異なる)
「群山高速バスターミナル」または隣接する「群山市外バスターミナル」からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<21><22><23><24><25><27><28><31><32><33><36><37>番市内バスのいずれかに乗車、約20分で到着する「鉢山(발산)」バス停から徒歩約10分(約640m)
以上のいずれも2018年12月時点の情報です。

群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)(군산 발산리 구 일본인 농장 창고 (시마타니금고):全羅北道 群山市 開井面 パルメキル 43 (鉢山里 45-1)。国家指定登録文化財第182号)

 

鉢山バス停からは三たび市内バスに乗り、今度は群山中心部へ戻ります。
続きは次回のエントリーにて。

群山の旅[201801_01] - あの映画の撮影地でファンテ(スケトウダラ)尽くしの群山の夜

今回からは、本年(2018年)1月19日(金)から同月21日(月)にかけての全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市の旅をお届けします。

 

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群山市は韓国の西海岸、全羅北道の北西部に位置する人口約28万人の港湾都市です。
かつて鎮浦(ジンポ)と呼ばれていたこの街は、韓国有数の大河である錦江(クムガン)が西海(ソヘ。黄海)へと注ぐ河口に位置しているため、古くから港町として発展してきました。そうした地の利から、高麗時代には租税の穀物を都へ移送するまで一時保管する「鎮成倉(ジンソンチャン)」が設置され、これは朝鮮時代にも「群山倉(クンサンチャン)」と名を変えて受け継がれています。
このような理由から、鎮浦は高麗時代から幾度となく倭寇の襲撃を受けてきました。中でも高麗末期、1380年夏のそれは500隻あまりもの大軍によるものでしたが、このとき崔茂宣(촤무선:チェ・ムソン、1325-1395)が中国から導入した火砲を用いてこれを全滅させた戦いは「鎮浦大捷(ジンポ・テジョッ)」として今日まで語り継がれています。
一方、群山市西側の西海上に浮かぶ小島であり、現在は同市の一大観光地となっている仙遊島(ソニュド)はかつて「群山島」と呼ばれ、一帯には水軍の鎮(地方の軍事拠点)である「群山鎮(クンサンジン)」が設置されていました。これが朝鮮時代初期の15世紀初頭に鎮浦へ移転。その後、朝鮮時代中期の17世紀には再び仙遊島一帯に水軍鎮が設置されますが、従来の(鎮浦の)群山鎮と区別するため「古群山鎮(コグンサンジン)」と呼ばれるようになります。これが仙遊島を含む古群山群島の由来となっています。

 

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時代は下って1899年、「沃溝府(オックブ)」となったこの港町は時の大韓帝国皇帝、高宗(고종:コジョン、1852-1919)の勅令によりとして国外との貿易港である開港場に指定され、1910年には群山府(クンサンブ)に名称を変更しています。
これら開港場の設置は関税収入による財政の適正化に加え、海外貿易による国内経済の活性化を期したものでしたが、現実には日本をはじめとする海外資本の進出、とりわけ米の対外流出によりかえって国内経済の弱体化を招く結果となりました。
日韓併合」を経た日帝強占期には、朝鮮最大の穀倉地帯である全羅道一帯で生産された米を日本へ移送する港として、まさしく収奪の現場となりました。そのため群山港一帯の地名は、これら収奪米を一時的に収蔵する場所という意味の「蔵米洞(チャンミドン)」の名が現在も残っています。
群山に先んじて開港場となった仁川広域市中区(チュング)全羅南道(チョルラナムド)木浦(モッポ)市などと同じく、群山の旧市街である群山港周辺には開港期から日帝強占期にかけての近代建築や日本家屋が数多く残されています。これらは当時の支配と収奪を記憶し、後世に継承するために保全され、その一部は展示施設として開放されています。写真はそれらのうち1908年築の「旧群山税関本館」(史跡第545号)。同様の様式であるソウルの「旧ソウル駅舎」および「韓国銀行本館」ととともに、韓国における「西洋古典主義3大建築物」と並び称される建物です。

 

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そして私にとって群山といえば、大好きな1998年公開の韓国映画八月のクリスマス』(原題『8월의 크리스마스』)のメイン撮影地であり、どうしても訪れたかった街でした。写真はハン・ソッキュさん演じる主人公ジョンウォンの経営する「草原写真館」を同じ場所に再現した建物。店先にはジョンウォンの愛車のスクーターも置かれています。初めて映画を観てから20年近く、ようやくその念願がかなうこととなりました。こちらを含む撮影地巡りについては以後のエントリーにて詳しく紹介したいと思います。

 

前置きが長くなりましたが、それでは本題に入ります。

 

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今回はジンエアーの成田-仁川線を利用しての韓国入り。
ジンエアーは機内で軽食が提供されるとはいえ、さすがに物足りないうえ、目的地まではまだかなり時間があるので、まずは腹ごしらえから。

 

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訪れたのは、第1夕ーミナルの到着ロビーにある「第ー製麺所」(チェイルジェミョンソ)。第一製糖(チェイルジェダン)株式会社を核とするCJグループの全国チェーンで、その名の通り麺類を主に扱っています。日本人にとっては認識しやすい漢字表記の屋号。みなさまの中にもどこかで見かけた、あるいは実際に利用した方も少なくないことでしょう。
せっかく韓国に来たのに全国チェーン店の食事だなんて……とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、財閥グループ運営とはいえ栄枯盛衰の激しい韓国飲食業界で全国展開できるということは、つまりそれだけの味を持つということです。今回初めて同店を利用して以来、そのことを痛感しています。

 

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注文したのは「キムチマリククス(김치말이국수)」。麺にキムチを乗せ、トンチミ(동치미:大根の水キムチの汁)をかけて食べるククス(국수:麺料理の一般名称)のことで、こちらでは麺にソミョン(소면:日本でいうそうめん)が用いられています。
スープの氷も浮いて真冬にはちょっと涼しげすぎる見た目ですが、ターミナル内は暖房が効いているうえ私自身も暑がりなので、むしろちょうどよい感じです(もっともトンチミは越冬食材なのでキムチマリククスを真冬に食べるのは決して季節外れではないそうですが)
冷麺のような歯ごたえこそないものの、トンチミとキムチベースのスープにしっかりした酸味があっておいしかったです。そんなわけでこちらのお店、同年5月の光州の旅(後日紹介予定)でも帰国直前にまた利用したのでした。

 

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こちらのお店「第一製麺所仁川空港入国店」の営業時間は午前3時~午前0時、年中無休。「入国店」の店名からも分かるように、仁川国際空港第1ターミナル1階、ゲート「C」近くの到着ロビーに面しています。仁川国際空港から直接バスで地方へ向かわれる方、あるいは帰国直前にお腹が空いた方には最適のお店です。

第一製麺所 仁川空港入国店(제일제면소 인천공항입국점:仁川広域市 中区 空港路 272 (雲西洞 2840))

 

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仁川国際空港からは、この当時まだ空港鉄道に乗り入れていたKTX韓国高速鉄道)に乗車します。この前年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市・全羅南道(チョルラナムド)の旅で利用して以来です。ただ前回と異なるのは、仁川国際空港の第2ターミナルとあわせて開業した「仁川空港第2ターミナル」駅の誕生に伴い、駅名が「仁川空港」駅から「仁川空港第1ターミナル」駅に改称されたこと。
今回の旅は、本年(2018年)2月に開催された平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックパラリンピックの開催直前。そんなわけで駅のホームには、韓英2言語によるKTX京江線キョンガンソン)路線図&各競技会場への最寄り駅案内が。その京江線もこの前年(2017年)12月に開業したばかりです。

 

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私が乗車する木浦行き「KTX-山川(サンチョン)」が第1ターミナル駅のホームに入ります。前回(2017年10月)と全く同じ列車ですが、当時とは異なり第2ターミナル駅KTXの起点/終点となったため、前回のように早くから当駅で列車が待機することはなくなりました。
もっとも、これもわずかな期間の出来事であり、その後平昌冬季五輪への輸送を終えた2018年3月には空港鉄道への乗り入れが休止、そして同7月には乗り入れ廃止が正式決定したため、この日のような仁川空港からのKTX乗車は過去のものとなってしまいました。
元々利用客が少なかったことに加え(この日も前年10月も数えるほどでした)、その乗り入れが空港鉄道、とりわけ直通列車の増発に支障となっていたことが廃止理由のようです。特に後者を考えればやむを得ない判断ではありますが、せめてその代わりに龍山(ヨンサン)駅発着のKTX全列車のソウル駅延長、および幸信(へンシン)駅発着のKTX全列車のソウル駅停車を切にお願いしたいところです……。

 

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余談ですが、KTXを運行するKorail韓国鉄道公社)では空港鉄道乗り入れ休止の少し前から、地方のKTX乗客を対象に、光明(クァンミョン)駅での<6770>番リムジンバスヘの乗換による空港アクセスの普及に力を入れています。写真は本年(2018年)10月に全羅南道の順天(スンチョン)駅構内にて撮影した宣伝広告。とはいえ渋滞や少ない定員など、不確定要素の大きいバス輸送はちょっと不安がありますよね……。

 

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仁川国際空港から2時間20分ほどで、益山(イクサン)駅に到着。ここで乗り換えのために下車します。私にとっては初めての利用です。駅前にはきれいなイルミネーションが。

 

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全羅北道益山市の玄関口である同駅は、光州松汀(ソンジョン)駅や羅州(ナジュ)駅を経て木浦駅へ向かうKTX湖南線(ホナムソン)、および全州(チョンジュ)駅や順天駅を経て麗水(ヨス)エキスポ駅へ向かうKTX全羅線(チョルラソン)の分岐点であり、分割併合機能を持つ「KTX-山川」はこの駅で下り列車の湖南線方面と全羅線方面の車両が切り離されたり、反対に上り列車が併結されたりします。そうした事情もあって、湖南線と全羅線のKTX全列車がこの駅に停車します。
さらにKTXではありませんが、これから私が乗車する長項線(チャンハンソン)もここ益山駅から分岐するなど、まさしく交通の要衝と言うべき存在の駅です。
ちなみにこの益山駅、1995年までは裡里(イリ)駅と呼ばれていました。裡里とは益山市の旧市名であり、同年に旧益山郡と合併したことで現在の益山市が誕生しています。その裡里駅時代の1977年11月11日には同駅構内に停車中であった貨物列車のダイナマイトが爆発、死者59名に負傷者1300名以上という大惨事が発生しています(裡里駅爆発事故)。

 

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益山駅からは長項線のムグンファ号に乗車します。

 

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約23分で今回の目的地、群山駅に到着。
実は21kmほどしか離れていない両駅間にこれほど時間を要するのは、長項線が単線であり、途中駅で対向列車を待たなければならないから。単線区間は益山駅から130kmあまりも先の新昌(シンチャン)駅まで続くため、長項線では列車遅延もしばしばだといいます。

 

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群山駅舎。2008年築の立派な建物です。
元々は益山駅から分岐する群山線(クンサンソン)の終点であり、もっと市街地寄りにありましたが、群山市が北側で面する大河、錦江を渡る鉄橋の完成により2008年1月に対岸の忠清南道(チュンチョンナムド)舒川(ソチョン)郡の長項(チャンハン)駅止まりであった長項線と連結されたことに伴い移設されたものです。

こんなに立派な駅舎ですが、コインロッカーはありません。
念のため駅員さんに尋ねたところ、よろしければ駅務室で荷物を預かりましょうか、とのご回答が。まさかのご提案に感謝しつつも、この日は大した移動予定はなかったため、群山市内を巡る予定であった次の日にお願いすることに。

 

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駅前からタクシーに乗って市街地方面へ移動します。
まずやって来たのは、旧群山駅の跡地からも近い新栄洞(シニョンドン)。ここにある在来市場「新栄市場」の一角に、いい感じの酒場があると聞いたためです。ほとんどの店が閉店済みの新栄市場内を進みます。

 

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目的の酒場「ホンチッ(홍집)」。扉にはこうした情感あふれる酒場に特有の「주류일절(酒類一切)」の表記が。実はこの表記、字面の上では「酒類は一切ない」という意味となります。本来であれば「주류일체」(「酒類一切を扱う」の意)と表記すべきところですが、前者の表記が広まったため一般的になったのだそうです。
さてこちらのお店、結論から言えば今回は入店することができませんでした。午後8時閉店との情報を得ていましたが、正しくは午後7時なのだとか。無理にお願いすることはできないので、訪問は次回に預けることとし、気を取り直してまたタクシーで別のお店へ向かいます。

続いてやって来たのは羅雲洞(ナウンドン)、群山の名物料理であるコッケジャン(꽃게장:ワタリガニのカンジャン(醤油)漬け)の名店として知られる某店。いかにも賑わってそうな広い駐車場付きの立派な建物のお店です。しかし、稼ぎどきの金曜の夜なのに建物は真っ暗。どうやらごく最近になって店を畳んでしまったようです。
さて困りました。夕食候補にチェックした別のコッケジャンのお店はいずれも歩いて行ける距離にはありません。そのうえどうしたことか群山のコッケジャンのお店は総じて閉店時刻が早く(遅い店でも午後10時)、すでに8時半の現時点では移動したところでラストオーダーに間に合わない可能性があります。
そんなわけでコッケジャンはあきらめ、閉店時刻まで余裕のありそうな次の候補のお店へ。キャリーバッグを引きずって向かいます。 

 

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道すがらにあった謎のお店「モロミ」。日本文化へのリスペクトがすごいです。

 

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そうして20分あまり歩いてやって来たのが、写真のお店「ファンテカメクサラムドゥル群山本店」。屋号にもあるようにファンテ(황태:スケトウダラの寒干し)の専門店です。別に群山の特産品というわけではありませんが、ファンテ尽くしの料理がおいしそうだったので候補に加えていたものです。

 

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お通し。日本とは異なりもちろん無料です。

 

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注文したのは、ファンテモドゥムセットと半乾(パンゴン)ノガリ。モドゥムとは「盛り合わせ」、半乾とは「一夜干し」、そしてノガリ(노가리)とはスケトウダラの幼魚の干物のこと。ファンテモドゥムセットは身のみならず皮に骨までも付いてくるという、文字通りファンテのすべてが味わえる盛り合わせです。またノガリにはソウル・乙支路3街(ウルチロサムガ)の「乙支路ノガリコルモク」の露天ホーフと同じく、猛烈に辛いけどおいしいヤンニョム&マヨネーズのつけダレが付いてきます。どちらもうんまい。ビールが進みます。

 

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そしてこちらのお店、注文の度にサービスで出てくる写真のファンテケランマリ(ファンテと玉子のスープ)がまたうんまいのです。私の食べっぷりがいいのか、お店の方がサービスしてくださいます。気づいたら3杯目だったという。こう見えても実はかなり辛くて、最初は口にする度に咳き込んだほどですが、これがもう猛烈にうんまくて。
ああ、紆余曲折があったとはいえ、このお店に来て本当によかった。自分がいまあの憧れの『八月のクリスマス』の撮影地にいるということを含め、万感迫るものがあります。

 

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こちらのお店「ファンテカメクサラムドゥル」の営業時間は午後4時(週末は午後2時)~午前2時、第3日曜日定休。
Korail「群山」駅からであれば、「群山駅(군산역)」バス停から<1><2><3><4><7>番市内バスのいずれかに乗車、約31分で到着する「中央女高(중앙여고)」バス停から徒歩約6分(約380m)。または<11><12><13><15><16>番市内バスのいずれかに乗車、約41分で到着する「秀松現代アパート(수송현대아파트)」バス停から徒歩約5分(約310m)
また「群山高速バスターミナル」または「群山市外バスターミナル」(隣接しています)からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<11><12><13><15><16><17><18><19>番市内バスのいずれかに乗車、約6分で到着する「秀松初等学校(수송현대아파트)」バス停から徒歩約8分(約510m)。おすすめのお店です。

ファンテカメクサラムドゥル群山本店(황태가맥사람들 군산본점:全羅北道 群山市 築東アンキル 65  (秀松洞 444-7))

 

お腹もいっぱいになったところで、この日の宿へ移動。次の日の群山街歩きへ向けてゆっくりと休むのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

ソウルの旅[201712_06] - 二人の「少女像」とソウル最後のタルトンネ、朝鮮総督府と逆向きに建てられた「尋牛荘」

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)12月の全羅南道(チョルラナムド)新安(シナン)郡などを巡る旅の3日目(2017年12月3日(土))です。

 

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次の目的地へ向かうため、まずは首都圏電鉄(ソウルメトロ)4号線「漢城大入口(ハンソンディック)」駅で下車。
ここでマウルバスに乗り換えるためバス停へ向かったところ、そのすぐ裏手に「平和の少女像」が。よく見ると、あの少女の向かって右隣の椅子にもう一人、同じように拳を握りしめ鋭い視線で正面を見据える中国服の少女が腰掛けています。
こちらは「韓中平和の少女像(한중평화의소녀상)」といい、中国服の少女像の制作者である清華大学美術教授の潘毅群(パン・イーチュン)と映画制作者のLeo史詠(レオ・スユン)の両氏が、「平和の少女像」の制作者であるキム・ウンソンとキム・ソギョンの両氏に提案し、2015年10月28日に当地に建てられたものです。
「韓中平和の少女像」についてはその存在こそ認識していたものの、その場所が漢城大入口駅であることまでは存じておりませんでした。偶然の出会いにただ驚くばかりです。

 

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中国服の少女の隣には、他の「平和の少女像」と同様に空いた椅子が置かれています。これは、他のアジア諸国の犠牲者のための席だとのことです。

歴史修正による戦時性奴隷・性暴力加害の否定、そしてその被害者たちへの侮辱に立ち向かうための連帯。私は像建立の趣旨に強く共感するとはいえ、それらを許容ないし推進する社会の構成員であり、また被害者たちの支援者でもないため、「連帯」できる資格はないと自身では考えています。それでも像建立の趣旨には強く共感しますし、支持します。なんらかの支援をしなければとの思いが強く胸に迫ります。

韓中平和の少女像(한중평화의소녀상:ソウル特別市 城北区 東小門路3キル 11 (東小門洞1街 1-4))

  

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「韓中平和の少女像」前の「三仙橋・城北文化院(삼선교.성북문화원)」バス停から、マウルバスに乗車。

 

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緑色のマイクロバスのマウルバスはゆっくりと坂道を登り続け、先の「三仙橋・城北文化院」バス停からおよそ11分で「ヨングァン教会(용광교회)」というバス停に停車。そこから歩いて坂道を登ると、まもなく写真の場所に到着します。

 

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ソウル城北区(ソンブック)城北洞(ソンブクトン)、漢陽都城(ハニャントソン。写真2枚目奥の城壁。後述します)にほど近い丘の上を巡る楕円形の道路を中心としたこの一帯は「プッチョンマウル」といい、急斜面に小さな住宅が密集して張り付いた、俗に「タルトンネ(달동네)」と呼ばれる住宅街のひとつです。タルトンネとは直訳すると「月の街」の意。その多くが高いところに位置し、月がよく見えるとしてこの名が付いたとされています。

 

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急坂を登った先にあるため家賃が安く、あるいは傾斜があまりにも激しく先住者すらいなかった土地。そうした急斜面に自ら生活の場を求め、または国や自治体の政策により生活することを余儀なくされたのは、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)の戦火から文字通り体ひとつで逃れてきた避難民たちであり、そしてそれらを含め、1960年代以降の都市開発のために居住地を追われた低所得層の人々でした。過去に本ブログで紹介してきた釜山の「アンチャンマウル(ホレンイマウル)」や「碑石(ピソン)文化マウル」などは、釜山に殺到した避難民たちが急斜面を切り開いて形成したタルトンネです。

 

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現在のプッチョンマウル一帯は朝鮮時代から住民がいたようですが、光復(日本の敗戦による解放)後の都市人口急増に加え、前述した人々の流入により1960年代以降にその規模が拡大したといいます。かつてソウル市内に点在していたこれらタルトンネはそのほとんどが再開発によって消えゆく中、ここプッチョンマウルは取り残され、いつしか「ソウル最後のタルトンネ」とまで呼ばれる存在となりました。

 

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現在はその大半がお年寄りだというプッチョンマウルの住民たちは、ソウルでも稀有の存在となったタルトンネの雰囲気を残すこの街を活性化すべく、マウル内に案内板を設置し、また一部の家屋を壁画で彩り、さらには住民参加型のイベントを開催するようになります。とはいえタルトンネ再生の成功例である釜山の「甘川(カムチョン)文化マウル」などのようには行かず、現状では「知る人ぞ知る」水準にとどまっているようです。
写真1~2枚目はそれらの一環で開店した「プッチョンカフェ」であり、閉店してしまった現在もなおその壁面には住民たちの写真が飾られています。

 

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プッチョンカフェの裏手にあった「プッチョン理髪」 。情感漂うたたずまいです。

 

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情感あふれるプッチョンマウルの姿。すっかり葉が落ちた木の上にある黒っぽい塊は、日本にも分布するカチ(까치:カササギ。学名:Pica pica)の巣だと思われます。カササギ佐賀県などではカチガラスと呼び、佐賀県の県鳥にも指定されています。

 

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写真1~2枚目は家屋の壁や道路脇に描かれた壁画。「壁画マウル」と呼ばれる住宅地よりは少ないですが、ここプッチョンマウルにもいくつかの壁画が存在します。
写真3枚目は前述した「プッチョンカフェ」の近くにあった公衆トイレ。子どもたちの描いた絵で彩られています。

 

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プッチョンマウルにあった廃屋。

 

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プッチョンマウルにあった道路名住所の表示板。ソウルではこうした表示板での日本語表記は決して珍しくありません。

 

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ところでソウルの「プッチョンマウル」と聞くと、以前にこちらのエントリーでも紹介した韓屋(ハノク)が立ち並ぶ住宅街、「北村(プッチョン)韓屋マウル」(写真)を想像する方もいらっしゃるでしょう。カタカナ表記では同じですが、ハングルだと「북정」と表記する城北洞のタルトンネに対して北村は「북촌」と表記し、最後の「ン」の発音も異なります(日本人には区別しづらい音ですが)。また北村は地主など富裕層向けに計画的に造られた建売住宅地であり、プッチョンマウルとはその成り立ちから異なっています。

本年(2018年)7月19日付の聯合ニュースのこちらの記事によると、プッチョンマウルが2~4階建ての低層テラスハウス団地として再開発される予定だとあります。この記事の通りであれば、現在のプッチョンマウルの姿も近く思い出の中に消えることとなります。住民でなく支援者の立場でもない私はその賛否を問う立場にはありませんが、せめて一人でも多くの住民の方にとってプラスとなるよう形で結実することを切に祈っています。

 

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プッチョンマウルへは、前述したように首都圏電鉄(ソウルメトロ)4号線「漢城大入口(ハンソンディック)」駅で下車、6番出口を出てすぐの場所にある「三仙橋・城北文化院(삼선교.성북문화원 )」バス停より<성북(城北)03>マウルバス(写真1枚目)に乗って約12分で楕円形の道路内の最初のバス停である「ヤン氏カゲアプ(양씨가게앞)」バス停(写真の位置。写真2枚目)に到達できます。バスはプッチョンマウルの楕円形の道路を反時計回りに一周してから漢城大入口駅方面へ戻るので、好きな場所で下車するとよいでしょう。
住宅街であるプッチョンマウルは24時間いつでも訪問でき、また案内板や壁画などからも分かるように訪問者増、ひいては観光スポットとなることを期した場所ですが、お年寄りを中心とした住民の方々の生活空間でもあります。ご訪問に際してはどうかお静かに観覧いただくようお願いいたします。

プッチョンマウル(북정마을:ソウル特別市 城北区 城北路23キル (城北洞) 一帯)

 

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プッチョンマウルから北へ向かって徒歩2分ほどの場所に、写真の家屋が建っています。


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「尋牛荘(シムジャン)」と呼ばれるこちらの建物は、僧侶であり、文学者であり、そして1919年の「3.1運動」では民族代表33名の一人に名を連ねた独立運動家である韓龍雲(한용운:ハン・ヨンウン、1879-1944。号は萬海(만해:マネ)。写真1枚目左上の人物)氏が自宅として1933年に建てた韓屋で、亡くなるまでの11年間をここで過ごしました。「尋牛」の名は、仏教において悟りに至るまでの10の実行手順のひとつである「自己の本性である牛を探す」に由来するものです。現在は「萬海韓龍雲尋牛荘」としてソウル特別市記念物第7号に指定されています。

 

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韓龍雲氏は朝鮮時代末期の1879年8月29日、忠清南道(チュンチョンナムド)洪城(ホンソン)生まれ。まだ十代半ばだった1894年には「東学農民戦争」(甲午農民戦争東学党の乱)に蜂起軍兵士として参戦した経験もあります。その後1919年に朝鮮半島全土で巻き起こった抗日独立運動「3.1運動」では民族代表33名の一人に名を連ね、まもなく逮捕されて懲役3年の刑を宣告され服役。出獄後の1926年には抵抗文学の先駆けとなった詩集『ニムの沈黙』(님의 침묵:ニムは「君、あなた」の意)を発刊し、翌27年には抗日組織である新幹会(シンガネ)に加入、さらにその翌年には同会の京城(現ソウル)支会長となります。その後は仏教関連の論文や長編小説などの執筆を通じて独立思想の鼓吹に尽力する一方、神社参拝や「創氏改名」、朝鮮人学徒兵出征への反対など一貫した抗日活動を継続しますが、念願の光復を目にすることなく、その前年の1944年にここ尋牛荘にて持病の中風により亡くなっています。
写真はソウル・西大門区(ソデムング)の「西大門刑務所歴史館」(こちらのエントリーにて紹介)にあった、韓龍雲氏など西大門刑務所に収監された文学者による獄中生活関連の著作についての展示パネルです(左下の人物が韓龍雲氏)。

 

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尋牛荘の内部と展示パネル。靴を脱いで自由に上がることができます。

 

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こちらの建物の最も大きな特徴として、家屋としては珍しく北向きに建てられている点が挙げられます。韓龍雲氏がその建築に際し、尋牛荘から見て南側に位置する朝鮮総督府の庁舎建物が視界に入るのを嫌ったためとされています。

 

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朝鮮総督府庁舎は、ソウル五大古宮のひとつであり朝鮮時代末期には王も滞在した朝鮮王室の法宮(正宮)「景福宮キョンボックン)」の正門である光化門(クァンファムン)と、宮内の正殿である勤政殿(クンジョンジョン。国宝第223号)との間にかつて存在した1926年竣工の石造りの近代建築で、その名の通り日帝強占期に朝鮮全土を支配した大日本帝国の植民地統治機関、朝鮮総督府の本庁舎として用いられました。その後1995年からその翌年にかけて解体撤去されたため、忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)市の「独立記念館」にて展示されている一部部材を除いて、現在はその姿を見ることはできません。
朝鮮王室の法宮である景福宮の敷地内、しかもその正殿たる勤政殿の正面に立ち塞がるように建てられた旧朝鮮総督府庁舎は、その有り様からして日本による支配と収奪をこれ以上ないほどに象徴する建物であったといえるでしょう。

これまで本ブログでも紹介してきたように、韓国には日本人による近代建築がいくつも現存し、その多くが国や自治体の登録文化財指定による保全の対象となっています。その主用途にかかわらず植民地支配と収奪の一環で建てられたものだとはいえ、そうした過去を記憶し未来へ継承する観点、あるいは建物自体の建築的価値の観点からです。旧朝鮮総督府庁舎も例外ではなく、23年前の解体に際しては韓国国内でも反対の声が上がったとのことですが、論議の末、韓国の人々はこれを解体する道を選択しました。
個人的には、その立地からして記憶継承などの意義をも凌駕する邪悪さをはらんでいた旧朝鮮総督府庁舎は破壊する以外に道はなく、韓国の人々の判断は正しかったとの考えです。しかしそれは、あくまで韓国の人々が決めるべきことであり、もし仮に何らかの形での保存を選択していたとしても、その判断は尊重されるべきものです。

ひとつ確信をもって言えることは、私を含め支配と収奪のためにそれら建築物を建てた側の子孫に、そうした判断について口出しする資格は一切ない、ということ。もちろんそれは韓国のみならず朝鮮民主主義人民共和国についても、そして台湾(中華民国)についても寸分違いません。
私は旧朝鮮総督府庁舎の解体が始まった1995年頃には韓国の文化に関心を持ち、その紀行文などの書籍や同人誌を購読していましたが、解体と前後してそれらの中で、韓国の人々の判断に反発しあるいは侮蔑嘲笑する態度を少なからず目にしました。そして23年を経た今日も、SNSやブログなどでそうした態度と不意に遭遇することがあります。そのような感情を臆面なくあらわにするすべての日本人を、私は軽蔑します。

 

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「尋牛荘」の開放時間は午前9時~午後6時、年中無休。入場無料です。先ほど紹介した元「プッチョンカフェ」そばの「老人亭(노인정)」バス停(写真)からだと徒歩約2分(約160m)ほどで到達できます。プッチョンマウルとあわせてぜひともご訪問いただきたい場所です。

尋牛荘(심우장:ソウル特別市 城北区 城北路29キル 24 (城北洞 222-1)。ソウル特別市記念物第7号)

 

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プッチョンマウルへ戻ります。日が沈み、夕闇が迫ってまいりました。

 

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プッチョンマウルの裏路地。人はなぜ裏路地に惹かれるのか。

 

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プッチョンマウルのすぐそばには、朝鮮時代に築かれた「漢陽都城」(한양토성:ハニャントソン)の城壁が復元され、夜間にはライトアップされています。
漢陽都城は現在のソウル、当時は漢陽(ハニャン)と呼ばれていた都を外敵から守るため、周囲にそびえる北岳山(북악산:プガクサン)・駱山(낙산:ナクサン)・南山(남산:ナムサン)・仁王山(인왕산:イナンサン)の4つの山の稜線を結び、王宮や市街地を取り囲むように築かれていた城郭です。都城の東西南北には「大門」と呼ばれる門が設置されました。みなさまもよくご存じの南大門こと崇礼門(숭례문:スンニェムン。国宝第1号)東大門こと興仁之門(흥인지문:フンインジムン。宝物第1号)がまさしくそれにあたります。

 

さて、そろそろお腹がすいてきました。この年(2017年)最後となる韓国でのディナー、お店はもう決めています。地下鉄に乗りそのお店へと向かうのでした。

 

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そうして向かったのは首都圏電鉄(ソウルメトロ)6号線「麻浦区庁(マポグチョン)」駅近くのお店、「太白(テベク)クンムルタッカルビ」。
こちらのエントリーでも紹介したこのお店は、かつては同6号線「望遠(マンウォン)」駅からマウルバスに乗り換えて行く場所にありましたがその後移転し、現在の位置に店を構えています。
その名からも分かるように、いわゆる(チーズ)タッカルビとして日本でも広く知られる炒め料理の春川(チュンチョン)タッカルビとは全く異なる、スープベースの料理である江原道(カンウォンド)太白市の名物「太白タッカルビ」をソウルでも味わえる貴重なお店です。2014年春の初訪問以来、あまりにも大好きな味で今回が5回目の訪問となってしまいました。顔なじみとなった男性店員さんからは「よく見つけましたね」という歓待を受けます。

 

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これまで同様、タッカルビの「中」(3人分)を注文。25,000ウォン(約2,630円:2017年12月当時)と前回訪問時より2,000ウォンだけ値上がりしていましたが、韓国の物価上昇状況を考えると仕方がありません(韓国がおかしいのではなく日本の政府与党の政策に伴う実質賃金低下こそが異常なのですが)
いつもと同じく、太白タッカルビの特徴である広い鉄鍋に入った骨付きの鶏モモ肉を、店員さんが目の前でジョキジョキと切ってくださいます。

 

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まずはトック(떡:うるち米のお餅)から。やわっこくてうんまい。なんで韓国のトックはあんなにおいしそうなほのかな黄色をしていて、しかも実際においしいのでしょう。

 

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 待望の「マシッケトゥセヨ」(맛있게 드세요:「召し上がってください」の意)の号令一下、いよいよ鶏肉を含むタッカルビを食べ始めます。ああ、うんまい。ほどよい辛さとコクのあるスープ、そして骨付き鶏モモから出たダシが渾然一体となっています。何度食べての飽きのこない味。ビールが進みます。

 

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鶏肉をあらかた食べ、まずはウドンサリ(麺)を投入。麺はウドンのほかタンミョン(韓国春雨)やラミョン(即席ラーメン)が選べますが太白タッカルビにはウドンだと個人的に決めています。スープが麺にからんでうんまい。

 

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そして締めはうんまいスープを一滴たりとも無駄にしないよう、ご飯を投入してのポックンパ(볶음밥:チャーハン)。超うんまい。ポックンパを味わうまでがタッカルビです。

 

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かつては韓国を代表する産炭地のひとつであった江原道太白市。その名物料理を扱うお店らしく、店内には炭鉱夫のヘルメットや当時の写真などが飾られていました。

 

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こちらのお店「太白クンムルタッカルビ」の営業時間は午前11:00~午後11:00、毎月第4火曜日定休。
首都圏電鉄(ソウルメトロ)6号線「麻浦区庁(マポグチョン)」駅5番出口から徒歩約12分(約770m) 。6号線に加え同2号線も通る「合井」(ハプチョン)駅からであれば、同駅1番出口を出てすぐの「合井駅」(합정역)バス停より約6分おきにやって来る<마포(麻浦)16>マウルバスに乗って約15分の「弘益幼稚園」(홍익유치원)バス停にて下車、徒歩約2分(約130m)、または同駅6番出口を出てすぐの「合井駅」(합정역)バス停より5~15分おきにやって来る<7011>バスに乗って約12分の「望遠2洞住民センター」 (망원2동주민센터)バス停で下車、徒歩約2分(約150m)。全力でおすすめできるお店です。

太白クンムルタッカルビ(태백국물닭갈비:ソウル特別市 麻浦区 パンウルレ路 53 (望遠洞 436-12))

 

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お腹いっぱいになってお店を出た後、自分へのお土産を買うため、地下に「麻浦区庁」駅のある川の橋を渡ります。

 

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やって来たのは、首都圏電鉄(ソウルメトロ)6号線「麻浦区庁」駅と同「ワールドカップ競技場」駅の間にある、麻浦農水産物市場(マポノンサンムルシジャン)。
余談ですが、この麻浦農水産物市場の正面を通る道路は、韓国の国道1号線です。
国道1号線といえばこの2日前、こちらのエントリーにて紹介した全羅南道木浦市の街歩きで「国道1.2号線起点紀念碑」を見てきたばかり。
この国道1号線は、南は世宗(セジョン)特別自治市光州(クァンジュ)広域市などを経て木浦市へと至ります。また北は京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市の板門店(パンムンジョム)でいったん途切れていますが、その先は朝鮮民主主義人民共和国の開城(ケソン)特級市や平壌直轄市を経て、中国との国境沿いにある平安北道(ピョンアンプット)新義州(シニジュ)市にまで至っています。いずれ近いうちにこれら沿線の街の人々が相互に行き来できるようになるでしょうし、そうなることを祈っています。
そしてその妨害のため、日本政府はなりふり構わずありとあらゆる手段を行使することでしょう。その邪悪な野望を潰えさせるのは私たち日本社会の構成員の仕事であり、義務です。

 

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麻浦農水産物市場のうち海産物を扱う一帯の内部。大好きな韓国の市場の風景です。

 

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こちらの市場へやって来た最大の目的は、市場内にあるスーパー「多農(タノン)マート」を訪れるため。

 

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この「多農マート」のマッコリの品揃えが、それはもうすごいのです。京畿道(キョンギド)加平(カピョン)郡の醸造業者「ウリスル」の、私が大好きなチャッ(松の実)マッコリの松の実の割合をさらに高めた「プレミアム松の実マッコリ(프리미엄 잣 막걸리)」、また京畿道高陽(コヤン)市名産の「ペダリマッコリ」(배다리 막걸리:写真3枚目)をはじめ、大手マートではまず見ない銘柄を含め優に30種類以上が定番在庫として陳列されています。訪問されたある方がこのお店を評して「マッコリの宝庫」と書かれていましたが、実際に訪問してみて全く誇張ではないと知りました。写真3枚目は日本に持ち帰ったペダリマッコリ。うんまかったです。

多農マート(麻浦農水産物市場)(다농마트(마포농수산물시장):ソウル特別市 麻浦区 ワールドカップ路 235 (城山洞 533-1))

 

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宿のある鍾路3街(チョンノサムガ)へ戻ります。
鍾路3街のすぐそばはこちらのエントリーでも紹介した、1920~30年代に建てられた改良韓屋の立ち並ぶ「益善洞(イクソンドン)韓屋マウル」が広がっています。
写真は夜の益善洞韓屋マウルの裏路地、情感が漂います。人はなぜ裏路地に惹かれるのか。

 

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そんな益善洞で見つけたスイーツのお店、「望遠洞(マンウォンドン)ティラミス」。日本でも有名な店のようで、ここを見つけたのもたまたま直前に日本人の女性のグループが入って行く姿を見かけたから。

 

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一般的なティラミスやイチゴ、オレオなど5種類のティラミスの中から今回購入したのは緑茶ティラミス。おいしかったです。
こちらのお店「望遠洞ティラミス益善洞店」の営業時間は午前11時~午後11時、名節(ソルラル(旧正月)と秋夕(チュソク))の当日は休業とのこと。

望遠洞ティラミス益善洞店(ソウル特別市 鍾路区 楽園洞 鍾路区 水標路28キル 22 (楽園洞 120-2))

 

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そろそろアルコールも抜けつつあり物足りない心地で益善洞を歩いていた中、たまたま見つけたクラフトビールのお店「CRAFT ROO(クラフトルー)」。吸い込まれるように入店。
韓国では2002年のクラフトビール解禁以来、クラフトビール醸造する小規模のブルワリーが全国各地にオープンしています。改良韓屋をリノベーションしたこちらのお店ではそうした韓国のブルワリーの15種類ものクラフトビールが味わえるとのこと。

 

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うんまいクラフトビールを飲みつつ、窓の外の韓屋をぼんやり眺める。こういう楽しみ方ができるから鍾路3街での宿泊はやめられません。

CRAFT ROO(크래프트루:ソウル特別市 鍾路区 水標路28キル 17-7 (益善洞 166-57))

 

2017年12月の全羅南道およびソウル特別市の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2018年1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市の旅をお送りします。

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