かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

順天の旅[201908_03] - 曹渓山登山②曹渓山将軍峰登頂、山道を2時間弱歩かないと食べられない麦飯

前回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅の2日目、2019年8月30日(金)です。

 

曹渓山登山道地図
前回も紹介したようにこの日の予定は、順天市の実質的な最高峰であり、以前からどうしても登ってみたかった曹渓山(조계산:チョゲサン、884mまたは887m)の登山です。目指すはその最高点、将軍峰(장군봉:チャングンボン)。
韓国でも無数にある山の中でなぜ曹渓山に強いこだわりがあるのかというと、まずひとつは以前に全10巻を通読した趙廷来(조정래:チョウ・ジョンネ、1943-)氏の大河小説『太白山脈』(태백산맥:テベクサンメク)の作中にて、この曹渓山が登場人物のパルチザンたちの潜伏する山として度々登場したこと。事実、1948年10月の「麗水・順天事件」から朝鮮戦争(韓国戦争)休戦後の1950年代半ばまで、曹渓山からも近い智異山(지리산:チリサン、1,915m)を根城にパルチザンたちが活動していました。『太白山脈』は主舞台でもあり順天市とも隣接する全羅南道宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)で舞台巡りをするほどお気に入りの作品であり、その一舞台である曹渓山に登りたいという思いが長らくあったからです。

麗水・順天事件:1948年10月19日に全羅南道麗水(ヨス)市にて発生した、国防軍第14連隊の一部将兵による蜂起およびその鎮圧過程における一連の事件の総称。「麗順事件」ともいう。李承晩(이승만:イ・スンマン、1875-1965)初代大統領ほか親日派(日本による植民地支配への協力者。日本語の「親日」とは意味が異なることに注意)を主流とする韓国政府の単独樹立、そして当時進行していた「済州4.3事件」への鎮圧出動命令などに反発した同連隊の将兵2千名あまりが蜂起し、同市や隣の順天市をはじめ全羅南道東南部を掌握。蜂起軍は鎮圧軍(国防軍)により8日後に鎮圧されたが、その過程で1万人以上とされる市民が主に鎮圧軍側によって虐殺された。なお蜂起軍の一部は鎮圧直前に智異山方面へ逃走、その後山中に潜伏してパルチザンとなり反政府武装闘争を継続し、朝鮮戦争期には朝鮮人民軍の支援を受けつつ休戦後まで活動を続けた。

 

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またもうひとつは、この曹渓山を挟むように2つの古刹があること。西側には前回エントリーでも紹介した、かつて16人もの国師を輩出した「僧宝寺刹」として韓国の「三宝寺刹」のひとつに数えられる「松広寺」(송광사:ソングァンサ。写真1枚目)、また東側には「山寺、韓国の山地僧院」のひとつとしてユネスコ世界文化遺産にも登載された「仙岩寺」(선암사:ソナムサ。写真2枚目。次回エントリーにて紹介予定)がそれぞれ位置しており、曹渓山登山とあわせて両古刹の探訪ができるからです。そうした背景もあってか曹渓山は1979年に全羅南道の道立公園に指定されたほか、2009年には松広寺・仙岩寺とあわせて名勝第65号「曹渓山松広寺・仙岩寺一円」にも指定。さらに韓国の100大名山のひとつにも選定されています。

これまで私が韓国で登った山といえば、柳寛順(유관순/류관순:ユ・グァンスン/リュ・グァンスン、1902-1920)烈士の郷里でもある忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)市東南区(トンナムグ)並川面(ピョンチョンミョン)の梅峰山(매봉산:メボンサン、167m)、そして京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市八達区(パルダルグ)、水原華城(ファソン)の一部をなす八達山(팔달산:パルダルサン、146m)の2山のみ。いずれも200mにも満たない、丘と呼んだ方がよさそうな山ばかりです。
また登山といえば、小学生のときに遠足で登った500m級の山(それも頂上まで車道があるほどなだらかな山)が最後で、それっきりまともな登山など一度たりともしたことはありません。果たしてこんなど素人の初心者に、900m近い山が登頂できるのでしょうか……。

 

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松広寺から少し歩くと立派な竹林が。

 

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松広寺から10分ほどで、「ホンコル入口(イック)」(홍골입구。コルは「谷」の意)という最初の分岐点に到達。
ここを右に進めば、天然記念物第88号の「双香樹」(サンヒャンス。和名:リシリビャクシン)で知られる「天子庵」(천자암:チョンジャアム)へ行く道ですが、曹渓山将軍峰へ行くには大回りとなってしまうので今回はパスします。

 

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しばらくは、いくつかの橋を含むなだらかな坂を登ります。

 

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登山道沿いを清流が流れます。

 

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松広寺から40分ほどで、第2の分岐点である「トタリサムゴリ(토다리 삼거리)」に到着。
トタリはかつてここにあったという「土の橋」、サムゴリは「三叉路」の意で、ここからは「クルモッチェ(굴목재)」という峠や曹渓山2番目のピークである「ヨンサン峰」(연산봉:ヨンサンボン。851m)を経て将軍峰へ向かう遠回りのルート(右)と、「ピアコル(피아골)」と呼ばれる一帯を通過する短絡ルート(左)に分かれています。私はここで短絡ルートを選択。

 

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このピアコル越えが大変険しい道で、登山道はそれまでとは異なり、道というよりも大量の岩石が道状に積まれたルートになっています。干上がった沢を想像するとよいでしょう。雨の日などはこの道が沢と化すのかもしれません。たまに水が流れている現役の沢とクロスし、一瞬どちらへ進めばよいのか分からなくなりますが、そのときは遠くに続く道らしきものを見つけて針路を取ります。そうしていると案外迷わないので、慣れてくるとだんだん楽しくなってきました。

 

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『順天広場新聞』のこちらの記事によると、ここピアコルは1920年代の地図には「災害や戦乱などの災厄から隠れ住む深い谷」を意味する「避厄洞(ピエクトン)」と記されており、それが音韻変化によりピアコルになったと推定されるとのことです。それを裏付けるかのように、それから時代が下ったパルチザンの活動期、彼らはこのピアコルー帯に隠れ家を築いたといい、その跡が現在も残るそうです(今回は未訪問)。ただ同じ記事によると、一般に地図上でピアコルと記されている一帯は、避厄洞に由来するピアコルの位置とは若干異なる位置だとのこと。私が通ったこのピアコルがどちらなのかは分かりません。

 

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将軍峰への短絡ルートであるためか傾斜もきつく、途中で何回かの小休止を挟みつつの登山となりました。そんな小休止中、とあるポイントにて撮影。
本エントリーをお読みいただいている皆様の中には「まだ暑い盛りの8月末に登山なんて……」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。私も計画段階ではそう思っていましたが、この日の曹渓山は日なたこそ暑いものの登山道の大半を占める木陰は総じて涼しく、またこうした休憩中、汗びっしょりの身体に風が吹いてきたときなどは普段暑がりの私でさえむしろ寒いほどでした。登山には真夏でもウインドブレーカー等の装備が欠かせない、その意味を身をもって感じた瞬間です。

 

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トタリサムゴリから1寺間半ほどでピアコルの険しい山道を抜け、「ヨンサン峰サゴリ(연산봉 사거리)」に到着。松広寺からは約2時間10分。このあたりはすでに標高800mを超えているようです。
サゴリは「四叉路」の意で、右(ステンレス製の案内板では上向き矢印)が将軍峰、左(案内板では下向き矢印)がヨンサン峰、まっすぐ(案内板では右向き矢印)が仙岩寺方面への将軍峰を経由しない短絡ルート、そしていま通って来た松広寺方面のピアコル越えルートの四叉路となっています。もちろん将軍峰方面へ。

 

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ヨンサン峰サゴリから15分ほどで「チャンバッコルサムゴリ(장박골 삼거리)」に到着。この区間はヨンサン峰と将軍峰とを結ぶ馬蹄形の尾根づたいに進む縦走ルートで、さほど起伏のない比較的楽な道が続きます。

 

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遠くにはようやく将軍峰らしきピークが。しかし案内板にも「1.8km」とあるように、まだまだ先は長いです。
少しなだらかな道が続いた後、いよいよ将軍峰への最後の坂と思しき急階段が続きます。

 

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そして午後0時半、ついに将軍峰頂上に到達。松広寺を発ってからここまで約3時間10分を要しました。
初めての登山らしい登山、それも念願の曹渓山登頂。万感の思いが胸に迫ります。

 

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頂上石の裏面 。「昇州(スンジュ)郡」とは、かつて曹渓山を含む一帯にあった郡の名前です。1995年に順天市と合併したことにより消滅しています。

 

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曹渓山将軍峰の頂上広場。木々に覆われているため眺望はあまりよくありませんが、頂上石周辺の岩に登ると周囲の山々を見渡すことができます。

 

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こちらの写真中央にある山は「母后山」(모후산:モフサン、919m)。実はこの母后山も頂上を挟んだ東半分は順天市に属しており、曹渓山よりも30mあまり高いこの山こそが真の順天市最高峰です。
しかし母后山はその西半分が同じ全羅南道の和順(ファスン)郡に属し、メイン登山ルートもまた和順側であるためか、一般には和順郡の山だと認識されているようです(頂上の碑石にも和順郡とのみ刻まれている)。したがって山全体が順天市に属する山、あるいは順天市だと広く認識されている山としては曹渓山が最高峰だといえるでしょう。そしてなにより松広寺と仙岩寺という2大古刹をその両脇に従え、後述するように数多くの伝説を抱く曹渓山は順天の人々にとって「鎮山」(진산:チンサン。都や村を鎮護するとされる大きな山)というべき存在です。本エントリー冒頭で「順天市の実質的な最高峰」と書いたのは、これらの理由からです。

そして母后山の後方、写真右奥にある山は「無等山」(무등산:ムドゥンサン、1,187m)。光州(クァンジュ)広域市の最高峰であるとともに同市の「鎮山」であり、光州を最も象徴する山です。そうした存在であるため、同市内にて1980年に発生した「5.18民主化運動」(光州事件)の被害と抗争を記憶する文脈で無等山に言及した記録物も数多く存在しています。
無等山の山頂一帯は軍施設があるため普段は立入禁止ですが、年に2日だけの解放日(要予約)には登山客が詰めかけるとのこと。山頂付近にある韓国の天然記念物第465号「柱状節理」も壮観だと聞きます。私もいつかあの山を登ってみたいと強く思います。

 

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将軍峰の頂上で休息を取り、いよいよ仙岩寺へ向かっての下山を開始します。

 

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将軍峰頂上から10分ほど下った場所にある写真の大きな岩は「ペバウィ」(배바위:ぺは「船」、バウィは「岩」の意)といい、その名前の解釈からいくつかの伝説が伝わっているそうです。以下、案内文を拙訳したものです。

ペバウィ伝説
ペバウィには船岩と仙巌に区分される伝説がある。
第一にペバウィ(船岩)は、この岩に船をつないだという由来から出た名前である。
「はるか昔、世の中すべてが水に浸かる洪水が発生すると、人々はとても大きな船をこの岩につなぎ、耐えた末に助かった。」
実際にペバウィには船をつないだという大きな丸い鉄の輪っかが埋め込まれていたと伝わるが、その輪っかは船を結んでいた伝説の輪っかではなく、日帝強占期に脈を断つために日帝が埋め込んだ鉄柱の一種だという説もある。
二番目はペバウィ(仙巌)、すなわわち神仙バウィと関連する由来は「昔、神仙たちがこの岩の上で囲碁を打ったとして神仙バウィと呼んだ」という伝説と、「粛宗の代、護岩禅師が観世音菩薩に会おうとこの岩の上に登って百日祈祷を捧げて悟りを開いたことがあり、仙岩寺に円通殿を建て観世音菩薩を祀り、寺の名前を仙岩寺とした」という伝説がある。
また「善良な男やもめと孫が僧侶の教えに従ってペバウィの上で洪水を避けて助かった」という伝説が『松光郷誌』に記されている。

これらのうち最後の洪水に関する伝説は、こちらのページによると大体次のような話です。
昔々、曹渓山麓の村に貧しくも純真な男やもめ(妻に先立たれた夫)の老人と孫が暮らしていました。ある日、その老人からなけなしの施しを受けた僧が、「谷にある石仏の鼻から血が流れたら洪水が起きます。そのときは岩(ペバウィ)に登ってください」という言葉をお礼に残して去ります。それを聞いた老人は、石仏の様子を毎朝見に行くよう孫に命じました。そうして3年。朝早く石仏を見に行かせる行為を孫いじめだと解釈し老人を疎ましく思っていた村人たちは、ある日ついに老人を殴り、手に付いた血を石仏の鼻になすりつけます。その後いつものように出かけた孫の目前には、胸にまで血を流す石仏の姿が。報告を聞いた老人は僧の言葉に従って岩へ避難するよう働きかけたものの、村人たちは老人がいよいよおかしくなったと無視。仕方なく孫と岩に逃げたところたちまち村は洪水に襲われた、というものです。
このような「石仏(地蔵)の顔を赤く塗ったら洪水が起きた」という類の伝説は日本にもあるので、その類似性に驚いてしまいました。

 

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将軍峰頂上から20分あまりで写真の「チャグンクルモッチェ」に到着。ここには複数のベンチが置かれています。ここからも仙岩寺への短絡ルートがあります。

 

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将軍峰頂上から50分ほど下った地点には山中なのに公衆トイレがあり、さらに進むと視界が広がってきます。道の脇には次の目的地のものと思しき畑も。

 

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そしてついに目的のポリパッ(보리밥:麦飯)屋さん「曹渓山ポリパッチッ元祖チッ」の看板が。将軍峰頂上からここまでほぼ1時間。

 

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こちらのお店は1980年創業。徒歩、それも山越え以外にはアクセス手段の一切ない人里離れた山奥で、曹渓山の登山客のためにポリパッや自家菜園で採れた野菜、山菜を出してきました。そうしていつしか曹渓山登山に欠かせない名物となり、いまや地図や案内標識にまで当たり前に記載されるほどの存在となっています。現在のお店は数年前に移転したものだそうで、通ってきた道の少し手前(山)側にはそれらしき店舗跡がありました。ちなみにこちらのお店、元々の店名は「曹渓山ポリパッチッ」でしたが、その後すぐ近くに後述する「アレッチッ」ができたため、末尾に「元祖チッ」を付けたのだそうです。

 

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お店の敷地内には木製の客席のほか、大きな縁台がいくつも。この日は平日(金曜日)だったためか先客は2~3グループほどでしたが、週末になるとこれら縁台がいっぱいになるほど登山客で賑わうそうです。野趣を味わうため私も縁台に腰掛けます。

 

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お店の庭には水車が回っています。数年前に電気が入るまでは、こうした水車での自家発電に頼っていたとのことです。

 

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チャンドッテ(장독대:自家製醤油や味噌などの甕置き台)、薪で炊く大きな釜。とてもいい雰囲気の庭です。

 

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そして、お待ちかねのポリパッ。ポリパッそのものは黒米らしきものが入り、ほの赤く色づいています。スープはシレギクッ(시래기국:大根の葉と味噌のスープ)でしょうか。

 

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あらかじめ山菜などが並べられたボウル。こちらにポリパッを投入し、しっかり混ぜてピビンパッのようにして食べます。このように混ぜて食べるのが韓国のポリパッの一般的な食べ方です。

 

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しっかり混ぜ混ぜして、ぱくり。ああ、うんまい。いい感じの歯ごたえと香りのある大麦入りご飯と山菜などの具の調和がすばらしいです。ポリパッにこれだけたくさんのおかずがついて、7,000ウォン(約640円)で楽しめるという。

 

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後からやって来た「ヌルンジ(누룽지)。釜で炊いたご飯のおこげをお湯で溶き、その香ばしさを楽しむためのもので、他に味付けはありません。韓国の飲食店では食後の飲み物としてたまに出てきます。

 

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食べ終わった後、ジャガイモを茹でたものがサービスに出てきました。味付けはちょっと付けられた粗塩のみ。こういうシンプルなのがまたうんまいのです。

 

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こちらのお店「曹渓山ポリパッチッ元祖チッ」の営業時間は午前10時(週末は午前8時)~午後4時30分、名節(旧正月・秋夕)は休業。前述したように徒歩以外のアクセス手段は全くありません。同じ曹渓山麓でも松広寺よりは仙岩寺の方が近いため、最も近い公共交通機関は順天市内バスの「仙岩寺」バス停ですが、まずそこから徒歩で約20分の「仙岩寺三印塘(サミンダン)」まで歩き、さらに山越えの道をひたすら歩いてようやく到達できる場所にあります。私の場合はこの逆(ポリパッチッ→三印塘)の道のりを1時間40分ほど要しました。つまりバスを下車して山道を2時間弱は歩かないと口にできない味ですが、それだけの価値はあると思います。曹渓山登山とあわせてのご訪問を強くおすすめいたします。
あと、こちらのお店は松広寺~仙岩寺間の登山道で唯一の給水スポットです。キンキンに冷えたミネラルウォーターのボトルが1,000ウォン(約90円)で手に入りますので、その意味でも訪れていただきたい場所です。

曹渓山ポリパッチッ元祖チッ(조계산보리밥집 완조집:全羅南道 順天市 松光面 クルモッチェキル 247 (壮安里522))

 

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元祖チッの前から写真1枚目の坂を下ったところには、後からできた「曹渓山ポリパッアレッチッ」があります。アレッチッとは「下の店」の意。こちらも評判の高いお店だとのこと。私も参考にしている韓国SBSテレビの番組『ぺク・チョンウォンの3大天王』で2017年に紹介されたのはこちらのお店です。次にこの地を訪れる機会があるならば、こちらのポリパッも食べてみたいものです。

 

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先ほどの膳の中にもあった、ポリパッチッのケンニッ(깻잎:エゴマの葉)畑を横目に見つつ、元来た道を戻ります。ところで韓国料理に頻繁に用いられるエゴマと、日本のお刺身には必ずと言っていいほど付いてくる大葉(シソ)は、種のレベルで全く同じ植物なのです。みなさんご存じでしたか?

 

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「曹渓山ポリパッチッ元祖チッ」を出て、 いよいよ最終目的地の「仙岩寺 (선암사:ソナムサ)」へ向かいます。まずはいったん 「仙岩クルモッチェ」まで元来た道を戻り、 そこから仙岩寺方面(右)へ曲がります。

 

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ポリパッチッから仙岩寺までのルートは 「仙岩寺キル」(キルは「道」の意) と呼ばれます。 割と平坦だろうと勝手に思い込んでいましたが決してそんなことはなく、 山ひとつ越えるルートのために途中までは上り坂がえんえんと続きます。 将軍峰登頂で体力の相当数を使い果たし、もう峠は越えただろうと安心しきっていた中の山越え。正直、今回の登山で最もハードでした。ポリパッチッで冷たいミネラルウォーターを2本購入しておいたのは正解だったと思います。
写真はそんな登りの石段の中途にて休憩中に撮ったもの。地図によるとこのあたりはタンプン(단풍:丹楓。カエデ)の群落地だそうで、 きっと秋は紅葉が美しいことでしょう。

 

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仙岩寺へ向かう途中、ポリパッチッから50分ほど歩いた(途中15分ほどの休憩含む)場所にあったのが写真の「スッカマトー」 (숯가마터:「炭焼き窯跡」の意)の案内板。かって曹渓山の麓一帯には炭を作る窯が多くあったようで、検索すると石が円形に積まれた炭焼き窯跡らしきものが出てきます。

 

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峠を越え、道が下りになって来ました。登りよりも楽かと言えば必ずしもそうではなく、 石で積まれた階段の段差が大きいため着地時にダメージがあったり、また着地点の石が平坦でないため足の裏が痛かったりと良し悪しです。

 

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ポリパッチッから1時間あまりを経過し、 再び視界が開けてきました。 さらに進むと草刈り機を操作する人の姿も。ポリパッチッを出て初めて目にする人の姿です。このあたりは花園になっているようで、その手入れをされていたようです。

 

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先の花園のあたりに来ると道はかなり平坦に近くなっていましたが、それでもまだ仙岩寺は遠いです。

 

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花園からさらに30分近く歩いた午後4時50分、 ようやく仙岩寺前の売店 「先覚堂(ソンガクタン)」に到着。ポリパッチッから約1時間40分、 曹渓山将軍峰頂上からは約3時間40分、 松広寺からだと約7時間30分の道のりでした。
先覚堂にはスポーツドリンクを含む自動販売機が。250ml缶などあっという間に飲み干してしまいます。

 

さて、いよいよ念願の仙岩寺の踏査です。
続きは次回のエントリーにて。

順天の旅[201908_02] - 曹渓山登山の旅①韓国三宝寺刹のひとつに数えられる山寺「松広寺」の伽藍を歩く

前回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅、明けて2日目・2019年8月30日(金)の朝です。

 

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順天最大の在来市場、アレッチャン近くのホテルを午前5時40分頃に出発。この日は長距離を歩く予定があるので、いつもの旅よりもずいぶん早く行動を開始します。

 

全羅南道順天市全図
この日の予定は、順天を代表する2大古刹「松広寺(송광사:ソングァンサ)」と「仙岩寺(선암사:ソナムサ)」の徒歩による訪問。それも単に訪問するだけでなく、両古刹を懐に抱く山「曹渓山」(조계산:チョゲサン、884mまたは887m)の頂上を経由するというものです。総延長約13km、しかもその途中には山越えを含む長い徒歩の行程。なかなか過酷ですが、どうしてもチャレンジしたいものでした。このためにバックパックなどの装備を調達、しっかりと準備したうえで臨みます。

 

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アレッチャンのバス停を午前5時50分台に出る市内バス(路線バス)<111>番に乗って、約1時間15分で終点の松広寺駐車場に到着。

 

松広寺広域図

松広寺伽藍図
松広寺は韓国最大の仏教宗派でもある禅宗大韓仏教曹渓宗(チョゲジョン)に属する山寺です。それ自体が史跡第506号に指定されているほか、曹渓山や仙岩寺とあわせて名勝第65号「曹渓山松広寺・仙岩寺一円」にも指定されています。また松広寺はその長い歴史からもたらされた文化財の宝庫でもあり、その施設および収蔵物には国宝4点、宝物27点などが含まれます。
松広寺の歴史は、新羅末に慧璘大師(ヘリンデサ)が建てた小さな庵、吉祥寺(キルサンサ)がその起源とされ、高麗時代の12世紀末に普照国師(ポジョククサ)知訥(チヌル)が大規模な寺院に発展させ、あわせて寺名を修禅社(スセンサ)に改称したと記録されています。その後松広寺に改称された時期は不明ですが、「松広」の名は当時の曹渓山の呼び名であった「松広山」に由来するとされています。
16世紀末の豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略壬辰倭乱文禄の役)と丁酉再乱(慶長の役)のとき大部分が焼失、僧侶たちも他の寺に移ったため一時期は廃寺同然となりましたが17世紀に入って再興、その後1842年の大火ではほとんどの建物を焼失しつつも20世紀前半までに再建を繰り返し、光復(日本の敗戦による解放)時点では80棟あまりもの大寺院となりました。しかし朝鮮戦争中の1951年には戦火によりその多くが焼失、現在はその後再建された殿閣を含め50棟あまりからなる現在の姿をなしています。
高麗時代から朝鮮時代初期にかけて、普照国師を筆頭に16人もの国師(ククサ。新羅から朝鮮時代初期にかけて国が僧に授けた最高の位階)を輩出したことから僧宝寺刹とも呼ばれ、慶尚南道キョンサンナムド)梁山(ヤンサン)市の通度寺(통도사:トンドサ。仏宝寺刹)、慶尚南道陜川(ハプチョン)郡の海印寺(해인사:へインサ。法宝寺刹)とともに韓国の三宝寺刹をなしています。

 

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松広寺の駐車場近くには数件の飲食店が門前町をなしています。建物も立派な造りですね。さすがに午前7時台はまだ営業していませんでした。 

 

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飲食店近くには年季の入った門の旅館も。

 

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静かな朝の参道沿いには清流が流れます。

 

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こちらの門はチケット売り場を兼ねており、3,000ウォン(約270円:2019年8月現在。以下同じ)を支払って中に入ります。

 

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山深い松広寺の参道にも陽が射してきました。

 

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駐車場から20分あまり歩いて、最初に姿を現したのは「松広寺聖宝博物館(ソンボ・パンムルグァン)」。立派な建物です。その名の通り松広寺が収蔵する「聖宝」、すなわち古くから伝わる仏教関連文化財の数々を展示していると聞きます。
観覧したいところですが、開館時刻の午前9時まではまた少し時間がありますし、今後のスケジュールを考慮すると残念ですが立ち寄る時間はありません。次回訪問に預けたいと思います。

 

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さらに奥へ進むと、「下馬碑(ハマビ)」と書かれた石碑が。
これは朝鮮時代初期の1413年、当時の王であった太宗(태종:テジョン、1367-1422。在位1400-1418)の命によリソウルの宗廟(チョンミョ)などの門の前に置かれたものが最初とされ、「大小人員皆下馬」と記されている場合もあります。その文字にある通り、この碑のあるところでは王を含むあらゆる身分の人間が馬から下り、そこから先は自分の足で歩かねばなりません。
ここ松広寺の碑の手前にある解説文の下には「下馬碑の先は用務外の車両通行を禁止」とあります。現代では下馬碑ならぬ下車碑となっているわけですね。

 

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さらに奥へ進むと、写真の門が見えてまいります。
こちらは「一柱門(イルジュムン)」といい、寺院の正門にあたります。4本以上の柱に支えられた一般的な楼門とは異なり、横一列に立った2本の柱でのみ支えられているためこの名がついたといいます。というか屋根と柱のバランスがおかしい。よくもまあ自立できるものだと感心します。この後に訪れた仙岩寺もそうでしたが、こうした一柱門には寺院の名称やその立地(山名)が記された扁額が掲げられていることが一般的です。ここからはいよいよ松広寺の境内に入ります。

 

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一柱門を抜けてすぐ目の前に現れるのは「羽化閣(ウファガク)」。
境内を流れる小川に架けられた石橋「三清橋(サムチョンギョ)」の上に築かれた建物で、三清橋ともども全羅南道有形文化財第59号に指定されています。三清橋は1707年、羽化閣は1774年築。

 

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羽化閣の欄干は腰を掛けるのにちょうどよい高さとなっていますが、礼儀に反するかもしれないので座るのは遠慮しておきます。見下ろした清流が涼やかです。

 

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羽化閣を渡ってすぐの「天王門(チョンワンムン)」という2つめの門を入るといきなり、ものすごい形相の巨大な像が現れます。予備知識がなかったので正直かなりビビリました。

 

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これらは高麗時代に土で造られ、その後朝鮮時代の17世紀に補修された塑造の四天王像で、門の内側に通路を挟んで4体が置かれています。南方増長天(写真1枚目左)、西方広目天(写真1枚目右)、北方毘沙門天(写真2枚目左)、東方持国天(写真2枚目右)の4体により構成され、「順天松広寺塑造四天王像」として宝物(日本の重要文化財に相当)第1467号に指定されています。

 

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天王門を過ぎると、日本の寺院の本堂に相当する「大雄宝殿(テウンボジョン)」を含む広場が。大雄殿に向かって左側の「僧宝殿(ソンボジョン)」、右側の「地蔵殿(チジャンジョン)」が広場を取り囲むように建っています。

 

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大雄宝殿の栱包(공포:コンポ。ひさしの重さを支えるため柱頭に組み並べる木片)。韓国の寺院建築の栱包はただでさえ複雑で幾何学的なものが多いですが、こちらは2つの栱包が隣り合っているためより複雑な構成となっています。1988年に再建されたものとはいえ、こうしたものが造れることにただただ感心するばかりです。

 

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地蔵殿の少し手前(西側)には比較的小さめの木造建築2つが並んで建ち、いずれも宝物に指定されています。写真1枚目右側と2枚目が17世紀頃築の薬師殿(ヤクサジョン、宝物第302号)、1枚目左側と3枚目が1639年築の霊山殿(ヨンサンジョン、宝物第303号)。いずれも内部には仏像が安置されており、教徒の方が拝礼をされていました。

  

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大雄宝殿の隣にある凝香閣(ウンヒャンガク)の裏には写真1枚目の石段があり、これを登った先には全羅南道有形文化財第256号の「順天松広寺普照国師甘露塔」(写真2枚目右)があります。高麗時代の1213年建立。普照国師とは前述したように12世紀末に松広寺を発展させた普照国師知訥のことです。

 

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この甘露塔のある高台に登ると、松広寺の全体が一望できます。手前には下舎堂(ハサダン、宝物第263号。写真2枚目)の姿も。屋根上にある屋根付きの換気口は寮舎(僧たちが寄宿する建物)の特徴だそうです。

 

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左に目をやると、全羅南道有形文化財第254号の応真堂(ウンジンダン。奥に屋根と妻面だけ見えている建物。1623年築)があります。

 

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地上から見た下舎堂。現在も寮舎として使用されているようで、内部は関係者以外立入禁止です。

 

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大雄宝殿の裏手の奥、高台になっている場所に建つ国師殿(ククサジョン)。高麗時代末期の1369年築。かつて松広寺が輩出した16国師の真影(肖像画)を祀りその徳を称えるために建てられたもので、「順天松広寺国師殿」として国宝第56号に指定されています。文化財の宝庫というべき松広寺でも建物(不動産)の国宝はこちらが唯一。ただし国師殿は関係者以外立入禁止のエリアに含まれるため、こうして遠目に見るのがやっとであり、間近で目にすることはできませんでした。
国師殿の向こう(南側)には全羅南道有形文化財第97号に指定されている真影堂(チニョンダン)、またの名を楓岩影閣(プンアミョンガク)がありますが、同じく立入禁止エリアとなっているうえ、国師殿の影となっているためその姿はほとんど見えませんでした(奥の妻面だけ見えている建物がそれ)。

 

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先ほど紹介した霊山殿のすぐ隣にて撮影。正面の大きな建物は海清堂(ヘチョンダン)。この海清堂を含むここから先(南側。写真左端の通路)は関係者以外立入禁止エリアとなっており、この一帯に国師殿や真影堂(楓岩影堂)も含まれます。

 

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松広寺の厠間(측간:チュッカン)。要するにトイレです。韓国では一般に寺院のトイレを「解憂所」(해우소:ヘウソ)と呼びます。なんという美しい文字列なのでしょう。こちらは水洗でない旧式のトイレ、しかも便器はなく床に穴が開いているだけというものです(写真はこちら)。私が見た限り松広寺にはこの1か所しかトイレがありませんでした。

 

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松広寺(ソングァンサ)の入場時間は夏期が午前6時~午後7時、冬期が午前7時~午後6時。入場料は成人3,000ウォン(約270円)、学生2,000ウォン(約180円)。また内部にある「聖宝博物館」の入場時間は午前9時~午後6時(冬期は午後5時まで)、ただし午前11時~正午は昼休み。閉館30分前に入場締め切り。毎週月曜日と旧正月・秋夕の連休は休館、入館料無料(松広寺と共通)。
Korail「順天」駅からだと駅前の「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<111>番に乗車、約1時間20分で到着する終点「松広寺(송광사)」で下車、一柱門までは徒歩約19分(約1.2km)。順天総合バスターミナルからだと徒歩約4分(約230m)の「バスターミナル(버스터미널)」バス停より市内バス<111>番に乗車(約1時間15分)、以下同じ。このように順天の市街地からはかなり遠く、また市内バス<111>番もー日21便(40分~1時間おきに1便程度)しかないので、ある程度時間に余裕を持ったご訪問をおすすめいたします。市内バス<111>番の時刻表はこちら(韓国語「ナムウィキ」へのリンク。「4.2. 시간표の[시간표 펼치기・접기]の箇所をクリックすると時刻表の画像が開きます)

松広寺(송광사:全羅南道 順天市 松光面 松光寺アンキル 100 (新坪里 12)) [HP]

 

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こうして松広寺の伽藍めぐりに夢中になっていたら、時刻はもう9時20分。今後のスケジュールを考慮すると、そろそろ登山道に入らなければなりません。羽化閣がまたぐ川べりに建つ獅子楼(サジャルー)を左に見つつ、松広寺を出発します。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

本ブログ開設3周年を迎えて

こんにちは、ぽこぽこです。
諸事情により長らく更新を停止しておりまして、誠に申し訳ございません。
千夜誕であり、本ブログの誕生日でもある本日・9月19日から更新を再開します。

再開にあたってのテーマは、まずは直近の旅であり記憶も新しく、個人的に思い入れも強い全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の旅を選びました。当該エントリー冒頭でも書いたように前回エントリーである全羅南道木浦(モッポ)市の旅の続きは順天の次か、または並行して更新いたします。また、その前に書いて途中で止まっている全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市のシリーズは内容が若干古くなったため、追って本年8月の再訪分を織り交ぜつつ再開する予定です。

 

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2019年8月10日、映画『八月のクリスマス』撮影地「草原写真館」(全羅北道群山市)にて撮影。

 

本年に入ってからは現時点で計8回と、例年を上回るペースで韓国訪問の機会を得ることができました。
それぞれの旅で訪れた市郡は以下の通りです。

全羅南道木浦市と光州(クァンジュ)広域市が各3回とやたら多いのは、ともに1回ずつ主目的地として行ったことに加え、本年3月に開業したチェジュ航空の成田-務安(ムアン)線を利用した関係です(務安国際空港は両市からしかアクセス手段がないため)
これらの旅はその訪問地、また行く先々で出会った方々のいずれも思い出深いものです。そのすべてを紹介できるかどうかは分かりませんが、少しでも多く、その訪問スポットや出会い、おいしい料理の数々、そしてそのとき感じたことなどを自分の言葉で伝えられるよう励む所存です。

 

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写真は順に、ヒンヨウル文化マウルの映画『弁護人』撮影地(釜山広域市:2019年3月8日撮影)、臨津閣展望台から眺めた臨津(イムジン)江(京畿道坡州市:2019年4月27日撮影)、水原華城の龍淵越しに眺めた訪花隨柳亭(京畿道水原市:2019年6月17日撮影)、板橋(パンギョ)マウルの日本式家屋の街並み(忠清南道舒川郡:2019年8月10日撮影)。

現時点で韓旅の航空券予約は来春までにあと5往復分残っていますが、そのいずれも実現のめどは立っていません。これは私の個人的事情ではなく、主に利用しているジンエアーほか韓国の各航空会社が利用者数激減に伴いこの秋以降の日本線の減便・休航を発表しているからで、韓国の市民による相次ぐ日本訪問キャンセルがその主要因です。
この日本訪問キャンセルは、本年6月の韓国人元徴用工による日本企業を訴えた賠償請求の原告勝訴判決を受け、日本政府が韓国政府に司法判断への介入を迫り、拒否されるや今度は「ホワイト国」(輸出管理の優遇措置の適用対象国)からの除外という経済報復を強行したことに対し、本年夏から全国的に展開されている韓国市民の日本製品ボイコットの一環としてなされているものです。
そもそも個人請求権の不消滅は日本政府も過去に認めているものであり、また日本政府が求めた司法判断への介入は三権分立を無視する行為で、そのうえ「ホワイト国」除外については直接無関係の逆ギレというべき暴挙であって、こうした抗議行動は必然の帰結であるといえます。その責任はひとえに日本政府に、またそれを許容している私たち日本の市民にあります。
この状況を打破するには元凶たる安倍政権(自公政権)を退陣させる以外に道はなく、したがってそれは私たち日本の市民の責務ですが、他方である世論調査では徴用工裁判に従い日本企業が賠償すべきだと考える人がわずか1.2%しかいないという結果が出ています。民事訴訟というほとんどの市民に直接的利害のない事項ですら、韓国相手であればこのありさまです。どのような形であれ「韓国に頭を下げる」行為を忌避する人々がこれほどまで多いという事実に愕然としますが、数字を見るにどうやらこれが日本人「みんな」による「総意」の現実のようです。もしそうであるならば、私はその1.2%側として「みんな」の「総意」に抗うのみです。

前述した順天の旅先で出会った韓国の人々は、日本政府と市民とをはっきりと区分し、私のような日本からの訪問者を温かく迎えてくださいました。悪いのは(貴方のような日本人ではなく)安倍政権だとわざわざ話しかけてくださった方もいました。しかしそうした政府を過半数が支持するばかりか、従前から街頭ヘイトデモが警察による警護の中で許容され、デマをも厭わないTVのワイドショーをはじめメディアはこぞって韓国への憎悪扇動に明け暮れ、そして今日にも迫るヘイトクライムへの恐怖を口にする在日コリアンこそが集中砲火を受ける社会の一体どこが日本政府と違うというのでしょうか。
私たちは、これ以上韓国の方々の厚意に甘えてはいけません。

 

このように日韓の政治対立、いや正しくは日本側が一方的に官民一体で韓国憎悪を扇動する中、韓国を度々訪問しその人々や文化を知る方は「こんな時こそ」と韓国訪問をすすめます。その思い、焦燥感は十分すぎるほど理解できますが、「こんな時」を作り上げたのは私たちですので、それをいう資格はないと私は個人的に考えます。
私はこれまでと変わらず、今後も可能な限り韓国を訪問し、歴史とその記憶継承の取り組みを学び、食文化や観光名所などとあわせて本ブログやTwitterなどを通じて紹介してまいります。

最近は本ブログやツイートを韓旅の参考にした、というお言葉をときどき頂戴するようになりました。私にとってこれ以上の光栄はありません。引き続きご期待いただけますと幸いです。

 

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2019年8月30日、曹渓山将軍峰頂上(全羅南道順天市)にて撮影。

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