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主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

ソウルの旅[201704_03] - 拷問のために最適化された建物と「朴鍾哲記念展示室」

前回のエントリーの続きです。

 

gashin-shoutan.hatenablog.com

仁川駅から首都圏電鉄1号線(ソウル地下鉄1号線、Korail京仁線)でおよそ1時間あまり、着いたのはKTXも発着するソウル駅のひとつ手前、南営(ナミョン)駅。ソウル駅と龍山(ヨンサン)駅という2大ターミナルに挟まれた地味な駅ですが、ここに今回のソウルの旅最初の目的地があります。
1時間ちょっと前の仁川はうす曇り、近代建築巡りではときおり晴れ間も覗いていましたが、ここ南営は強い雨。傘を差しつつ駅を東側に出て1号線沿いに南(龍山駅方向)へ3分程度歩くと、こちらの建物が見えてまいります。

 

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警察庁人権保護センター」と呼ばれるこの建物の4階に、ソウルでの今回最初の目的地「朴鍾哲記念展示室」があります。

 

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朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士とは、いまをさかのぼること30年あまり前の1987年1月14日に警察の拷問によって死に至らしめられた、当時21歳、ソウル大学校人文大学言語学科の3年だった人物です。
1987年1月13日の深夜、ソウル市内の下宿にて治安本部対共分室の捜査官6人により拘束。指名手配中となっていた大学の先輩の行方を聞き出すべく「南営洞対共分室」(남영동대공분실:ナミョンドン・テゴンブンシル)へ連行され、捜査員による電気や水などを用いた激しい拷問を受けた結果、死に至らしめられるという事件(朴鍾哲拷問致死事件)の犠牲となりました。

事件発覚後、当時の治安本部長が会見にて「机を『タッ』(탁:強く叩いたときの擬音語)と叩くと『オッ』(억:驚いたり倒れたりするときに出す声)と声を上げて倒れた」という到底納得できない釈明をしたうえ、遺体の解剖で拷問と思しき痕跡がいくつも見受けられたにもかかわらず家族の許可も得ぬまま火葬に付し、さらには拷問に携わった捜査員のうちわずか2名の処分だけで幕引きを図ろうとしたことなどから、この事件をきっかけに市民たちの権力への不信は急速に高まります。

 

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朴鍾哲烈士の死、そして同年4月13日の全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)大統領による「護憲措置」(大統領間接選挙を定めた現行憲法の維持)談話は、学生をはじめとする市民たちにより同年(1987年)6月10日に本格始動する全国的な反政府デモ「6月民主抗争」(6월 민주항쟁)の火種となり、ついに6月29日、盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)次期大統領候補から大統領直接選挙制への改憲実施を含めた時局収拾案(6.29宣言)を引き出させ、勝利を勝ち取ることとなります。

 

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朴鍾哲烈士の人生と壮絶な死、そして6月民主抗争を「記憶」するため、加害者である警察が反省の意をこめて自らの所有施設、それも後述するように重要な意味を持つ建物の中に設けたこちらの展示室には、朴鍾哲烈士の遺品と6月民主抗争を解説するパネルを中心に展示されています。

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朴鍾哲烈士の略歴。1965年4月1日に釜山市西区峨嵋洞(アミドン)で生まれ、釜山恵光高等学校を卒業してソウル大学校に入学、人文大学(学部に相当)言語学科では同学科の学生会長を務めていました。労学連帯闘争に参加していた最中の1986年4月に清渓(チョンゲ)被覆労働組合の合法化要求デモで拘束され、同年7月には懲役10ヵ月、執行猶予2年の判決を受けています。ちなみにこの清渓被覆労働組合とは、劣悪な労働環境の改善を訴え1970年11月13日にソウル東大門の平和市場(ピョンファンジャン)にて焚身(焼身)した労働者、全泰壱(전태일:チョン・ティル、1948-1970)烈士の死をきっかけに設立されたものです。

 

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数ある展示物の中でも特に印象的なギター。朴鍾哲烈士が生前に愛用したものです。よく見ると無電源のクラシックギターエレキギターに改造したものだと分かります。

 

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朴鍾哲烈士が生前身に着けていた腕時計と死亡検案書、葬儀の際の喪章。

朴鍾哲記念展示室はここ「警察庁人権保護センター」4階の一角だけですが、ひとつ上の5階を訪れることで、この施設の見学は完成します。そのため、階段で階上へ登ります。

 

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5階。薄暗い廊下に緑色の鉄の扉が並ぶ、一転して殺風景なフロアです。
ここまでお読みいただいてお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、この「警察庁人権保護センター」の建物こそがかつて「南営洞対共分室」と呼ばれ市民たちに恐れられた施設であり、朴鍾哲烈士が殺害されたその場所です。その意味で「朴鍾哲記念展示室」の設置にふさわしい場所だと言えるでしょう。
そしてこの5階には、「調査」の名目で民主化運動の人士たちに拷問を加え自白を強要した現場である「調査室」が、現在もほぼそのままの姿で残されています。

その名に「対共」とあるように、本来この「南営洞対共分室」は朝鮮民主主義人民共和国の間諜(スパイ)や「パルゲンイ」(빨갱이:「アカ」)を取り締まるための施設でしたが、朴正煕(빅정희:パク・チョンヒ、1917-1979)・全斗煥の両大統領による軍事政権下では、民主化運動に携わる人々など反政府人士とされた人々を拘束・収容し、真偽にかかわらず政権側に好都合な自白を得ることを目的に拷問を加えるための場所として主に用いられました。

 

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朴鍾哲烈士のほか、新千年民主党やヨルリンウリ党民主党などの要職を歴任し、盧武鉉(노무현:ノ・ムヒョン、1946-2009)政権では保健福祉部長官を務めた金槿泰(김근태:キム・グンテ、1947-2011)氏もまた、1985年9月にここで23日間もの過酷な拷問を受けて自白を強要され(金槿泰民青連前議長拷問事件)、その後1987年まで服役させられています。写真はここ「警察庁人権保護センター」1階にあるパネル。

 

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廊下の両側に並ぶ薄暗いかつての調査室の中でただひとつ、煌々と電灯がともる部屋があります。
それがこの9号室。5階の9号室なので「509号室」とも呼ばれます。この部屋こそがまさしく、1987年1月14日に朴鍾哲烈士が拷問によって死に至らしめられた調査室そのものです。
9号室の内部は、朴鍾哲烈士が殺害された当時のまま保存されています。出入口にはアクリル製のパネルが一面に張られており、内部に立ち入ることはできません。
黙祷して、撮影を開始します。

 

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調査室の奥には浴槽があります。調査対象者の便宜のためではありません。水を張ったこの浴槽に無理やり顔を浸けて自白を強要する「水拷問」(水責め)の道具として設置されたものです。朴鍾哲烈士もこの水拷問によって命を落としました。

 

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調査室の壁面は、学校の音楽室でもよく見るような穴の空いた吸音壁となっています。もちろん、拷問を受ける調査対象者の悲鳴やうめき声が外部に漏れないようにするためです。

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この「南営洞対共分室」、現「警察庁人権保護センター」の建物は、拷問のために最適化されたと言っても過言ではないほど特殊な設計が随所に施されています。
この9号室もそうですが、5階の調査室の窓は調査対象者が脱出できないよう、すべて極端に狭く作られています。外観からもその異様さが見て取れるでしょう。

 

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写真は別の部屋で撮影したもの。狭さが実感できるよう、韓国の交通カード(日本のと同サイズ)を添えています。

 

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したがって部屋に入る光も制限され、点灯しない限り昼でも薄暗い状態となります。

 

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調査室の室内灯のスイッチはすべて部屋の外、出入口の横に設けられています。監禁された調査対象者は部屋の点消灯すらままならない状態だったわけです。

 

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廊下の天井はやや高めに作られています。拷問の主体である警察官の足音を響かせて恐怖感を与えるためとされています。

 

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廊下の両側に並ぶ各調査室の出入口は、互い違いに設置されています。そのため各調査室のドアを開けた先には、必ず正面に壁面のみが見えることとなります。これは別の部屋へ移動させられる調査対象者同士が偶然鉢合わせとなった際に合図を取り合うことを抑止するほか、調査対象者に不安を与える効果があるとされています。

 

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各調査室のドアは金属製で、緑色に塗られています。これは他フロアへ続く階段のドアも同じで、これらを含めすべてのドアが等間隔に配置されています。一見してどこが脱出口となるかを分かりにくくするためです。ドアスコープは一般的な住宅玄関のそれとは逆に、部屋の外側から内側に向けてのみ見えるようになっています。

 

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この建物の1階、正面玄関と反対側には勝手口のような扉があります。拘束された人々は人目を避けて、ここから建物内部へ連行されました。扉を入ったすぐ横には、調査室のある5階へ直行するらせん階段が設けられており、外観にもその輪郭が表われています。調査対象者が目隠しをされた状態でこの階段を引きずり登らされることにより、どのフロアに連れて来られたかの感覚を失うことを期したものです。

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1976年に5階建てのビルとして竣工し、1983年には6・7階が増築され現在の姿となったこの建物を設計したのは、韓国を代表する建築家のひとりである金寿根(김수근:キム・スグン、1931-1986)氏。
同氏の設計による建物は、有名どころではソウル蚕室洞(チャムシルドン)の「ソウルオリンピック主競技場」(1977年)や同苑西洞(ウォンソドン)の「空間(コンガン)社屋」(1971年)などがあり、1970年の大阪万博のパビリオンである韓国館も手がけています。鍾路(チョンノ)から退渓路(テゲロ)にかけてソウル旧市街を南北に貫く全長約1kmもの長大建築物「世運商街」(세운상가:セウンサンガ、1968年)も同氏の設計によるものです。
これらの優れた作品を残し世界的にも著名な建築家が時の権力に迎合し、これほどまで拷問のために最適化された建物を設計、形にしたという事実。国家権力による市民への拷問、殺害という許されざる過去とはまた異なる次元での戦慄を感じます。


警察庁人権保護センター(旧南営洞対共分室)4階にある「朴鍾哲記念展示室」、および5階の旧調査室の開放時間帯は午前9時~午後6時、土日は休館ですので注意が必要です。入場無料。最も近い首都圏電鉄(ソウル地下鉄)1号線の「南営」(ナミョン)駅からだと徒歩3分程度で着きますが、同4号線「淑大入口」(スッテイック)駅からでも徒歩8分程度で到着できます。
朴鍾哲記念展示室(警察庁人権保護センター)(박종철 기념 전시실(경찰청 인권보호센터):ソウル特別市 龍山区 漢江大路71ギル 37 (葛月洞 98-8))

1987年1月に国家権力により殺害され、その死が同年6月の民主抗争の火種となった朴鍾哲烈士。その生涯を記憶する施設を訪れたからには、どうしてももう1か所行かなければならない場所があります。
その場所へ行くために、南営駅前のバス停より7016番バスに乗車するのでした。

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