今回からは、本年(2017年)5月20日(土)から同月23日(火)にかけての光州(クァンジュ)広域市の旅をお届けします。
今回の旅は、かねてから強い関心がある、1980年にここ光州で発生した「5.18民主化運動」(光州事件)の史跡や資料館などを巡る旅の2回目です。
当時の保安司令官であり、軍事政権において実質的に大統領以上の権力を握っていた全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)による5月18日午前0時の全国非常戒厳拡大を根拠に、同日未明より光州市内の全南(チョンナム)大学校などへ進駐した戒厳軍による筆舌尽くしがたい暴虐、そしてこれに対する光州市民たちの10日間にわたる一連の抗争の開始日を取って、韓国では「5.18民主化運動」あるいは「5.18民衆抗争」などと呼ばれています。
本ブログ最初のエントリーシリーズがまさに昨年(2016年)8月の光州の訪問記でしたので、個人的にとても縁の深い場所だと思っています。
今回の旅では「5.18民主化運動」というテーマのもと、過去にないほどさまざまな人々との出会いがあり、そしてお世話になりました。この場を借りて、心からお礼申し上げます。またそうした方々のお力添えもあり、限られた時間の中をほぼすべての目的地に足を運ぶ機会が得られました。そうした意味で、過去20回あまりの韓国の旅の集大成となったといえるかもしれません。
前置きが長くなりましたが、本題に入りたいと思います。
光州へは今回もKTXで。前回訪問以降にソウル駅発の湖南線KTXが設定されたので便利になりました。
KTXが到着する光州松汀(ソンジョン)駅から地下鉄1号線に乗り、ホテルから近い尚武(サンム)駅で下車。チェックイン時刻にはまだ早いので、駅構内のコインロッカーに荷物を預けます。光州地下鉄の駅は私が知る限り、東端の終点である鹿洞(ノクトン)駅を除くどこにもコインロッカーがあるので助かります。
尚武駅からタクシーに乗車、北へ向かって約20分ほどで到着したのが、こちらの「尹祥源生家」です。
尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士とは、5.18民主化運動において市民軍を統制する抗争指導部のスポークスマンを務め、抗争の最終日、5月27日早朝の全羅南道(チョルラナムド)庁舎での攻防戦にて戒厳軍の銃弾に倒れた人であり、「五月のために生まれた人物」とも呼ばれています。
その生まれ育った実家が、まさにこちらの場所です。
生家を紹介する前に、まずは尹祥源烈士についてひと通り触れておきたいと思います。
尹祥源烈士は1950年8月19日、全羅南道光山(クァンサン)郡(現在の光州広域市光山区)の林谷面(イムゴンミョン)生まれ。幼年期は本名である開源(ケウォン)を名乗っていました。写真は林谷初等学校(小学校に相当)3年生のときの集合写真で、青い星が当時の開源少年です。
その後、光州広域市(当時は全羅南道光州市)内の北星(プクソン)中学校とサレシオ高等学校を経て、1971年に全南大政治外交学科に入学。その在学中、労働問題に強い関心を抱くようになります。折りしも入学前年の1970年11月、ソウル・平和市場(ピョンファンジャン)の一労働者だった全泰壱(전태일:チョン・テイル、1948-1970)烈士が労働環境改善を訴え焚身(焼身)し死亡する事件が発生し、韓国社会での労働問題に対する関心が高まりつつあった中でした。
大学卒業後は銀行に就職し、ソウル・奉天洞(ポンチョンドン)の店舗に勤務しますが、労働問題への思いは強く、わずか半年で退職し光州へ戻ります。
光州では光川洞(クァンチョンドン)の低所得者向け団地「光川市民アパート」(写真)に居を構え、身分を装って近隣の光川工業団地の期間工として勤務します。これは労働環境の実態を調査するため労働者となり潜入する「偽装労働者」活動のためでした。
烈士はこの潜入活動を通じて光川工業団地の全企業の労働環境を調査、その劣悪さを告発した『光川工団労働者実態調査報告書』をまとめ上げ、労働環境改善を求めて公的機関への提出を試みますが、結果的には顧みられることはありませんでした。
こうした労働運動の中で尹祥源烈士は、光川市民アパートに隣接する教会「光川洞聖堂」(写真。当時の建物は出入口のみ現存)を拠点とする「トゥルブル夜学」(들불야학:トゥルブルとは「野火」の意)の創立者の一人である朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)、同じ光川市民アパートに暮らし住民の生活環境向上のため奔走していた金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)の両烈士と出会い、合流します。
そして自らもまた講学となり、浅い学歴のまま労働者とならざるを得なかった若者たちへの教育、労働問題や民主化への啓蒙を行ないました。
しかし、それからまもなく悲劇が発生します。
1978年12月26日、朴琪順烈士が突如この世を去ったのです。当時の韓国で暖を取る手段として一般的だった練炭によるガス中毒。わずか20年の短すぎる、しかしトゥルブル夜学の創立の主導に加え光州で女性初の偽装労働者となるなど、労働者の権利向上のために尽くした生涯でした。
深い親交があった尹祥源烈士は悲しみに暮れる中、その遺志を継ぎトゥルブル夜学の発展に一層注力します。
こうした活動と前後して尹祥源烈士には、さまざまな出会いがありました。その中には、全南大の学生会長であり類まれな演説の才能を持ち、前述した報告書の作成時にも大きな手助けとなった朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)、字の上手さから後述する『闘士会報』制作時には筆耕(清書)士として活躍した朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956~1980)、全南大での学生運動を経てトゥルブル夜学に創立当初から合流し講学となった申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)、そして後に5.18でも大きな役割を果たした劇団「クァンデ」の創立者で、文化担当特別講学として夜学にも関わった朴暁善(박효선:パク・ヒョソン、1954-1998)の4烈士も含まれます。
尹祥源烈士とこれら4名、および前述の朴琪順、金永哲の両烈士を加えた全7名はいずれもトゥルブル夜学の講学経験者であり、うち5.18前に亡くなった朴琪順烈士は夜学創立者として、また5.18を迎えた6名のうち尹祥源・朴勇準の両烈士は全南道庁での最終抗戦で死亡、朴寛賢烈士は抗争期間後に逮捕され獄死、残る3名も抗争直後に収監され、解放後も拷問の後遺症に苦しみつつ亡くなったことから、これら7名は「トゥルブル7烈士」と総称されています。
写真は、トゥルブル7烈士を称えるために光州市内の「5.18自由公園」(次回エントリーで紹介予定)に建てられた「トゥルブル夜学7烈士記念碑」です。
朴琪順烈士の死からおよそ1年と5ヵ月後の1980年5月18日、尹祥源烈士たちトゥルブル夜学のメンバーはついにその日を迎えます。
光州市内の大学キャンパスに進駐した戒厳軍の兵士が無抵抗の学生や市民たちに組織的暴力をふるい始めると、まもなく尹祥源烈士たちは全南道庁からほど近い、民主運動家たちの集いと議論の場であった古書店「緑豆書店」(ノクトゥソジョム。写真はその跡地を記す碑石。「緑豆」とは1894年の東学農民戦争で東学軍を率いて処刑された全琫準(チョン・ボンジュン)将軍の愛称)を状況室とし、全国の学生運動家・民主化運動家たちと連絡を取り合いますが、やがて電話回線も切断されてしまいます。
軍事政権の統制下にあった放送局は戒厳軍の蛮行を一貫して市民の暴動だと歪曲、また新聞も戒厳軍の光州封鎖により市内への搬入が停止しつつあった中、尹祥源烈士たちは市民の情報源となるべく、戒厳軍の動向や市民集会の予定などを記した広報紙の発行を決定します。
まず19日には手書きかつ手作業のガリ版刷りによるビラ『光州市民民主闘争会報』を、続いて21日にはほぼ同じ体裁の『闘士会報』(투사회보:トゥサフェボ)を制作し光州市内に配布。この『闘士会報』(第8号からは『民主市民会報』に改題)は10号まで制作され、うち戒厳軍に押収された第10号を除く全9号がそれぞれ数千~数万部ほど市内に配布、実質的に途絶えたメディアに代わって光州市民の目と耳となりました。
写真は同市内錦南路(クムナムノ)の「光州広域市5・18民主化運動記録館」(こちらのエントリーにて紹介)にある、当時の『闘士会報』制作作業の再現展示です。
一方、光州市内で暴虐の限りを尽くした戒厳軍が21日に全南道庁から(戦略的に)撤退して以降、光州市内は一時的に市民たちによる自治都市となりました。
徐々に静けさを取り戻すかのように見えましたが、現実には自然発生的に形成された市民軍の統制、および今後の対応方針を決定すべき機関が存在せず、近日中に想定される戒厳軍の来襲への対策はほとんど整っていない状態でした。さらに、そうした中で地元の名士たちにより発足した収拾委員会の意見の大勢は、市民軍の武装を解除し、戒厳司令部へ返納することで譲歩を引き出そうという根拠に乏しい楽観的なものでした。
尹祥源烈士たちトゥルブル夜学のメンバーはこれに激しく反発、殺害された市民のため、戒厳軍との徹底抗戦を主張します。市民軍のリーダー格の人物の支持などもあって尹祥源烈士は徐々にその地位と発言力を固め、ついに25日にはトゥルブル夜学のメンバーを核とする抗争指導部が発足し、市民軍の組織化が完了します。夜学の代表であった尹祥源烈士はあえてその代表とはならず、抗争状況を外信記者たちに説明するスポークスマンを買って出ました。
明けて26日、戒厳司令部は同日24時を武器返納の期限とし、応じない場合は翌27日の光州市内侵攻、武カでの道庁奪取を発表。これに対し抗争指導部は当初の方針通り道庁を死守すべく徹底抗戦を決断します。
そして翌27日午前4時。ついに戒厳軍が全南道庁を包囲、最終抗戦が始まりました。
他の市民軍メンバー同様に銃を取り戦った尹祥源烈士は午前5時過ぎ、立てこもっていた道庁民願室(現在は(旧)会議室と呼称)2階にて戒厳軍の銃弾を腹部に受け、まもなく絶命。29歳の短い人生を終えました。戒厳軍による道庁鎮圧後に発見された遺体は、身元確認ができないほど上半身がひどく焼けただれていたとのことです。
写真は生家訪問の翌日に訪れた道庁旧会議室の2階、尹祥源烈士がこの場で亡くなったことを示すパネルです。
この最終抗戦では尹祥源烈士や朴勇準烈士を含む十数名の市民軍メンバーが死亡、その中には投降後の殺害事例も報告されています。それらの遺体はあろうことか清掃車に乗せられて、郊外の望月洞(マンウォルドン)の市民墓地に埋められました。生き残った人々も全員が拘束、収監され、その多くが解放後も後遺症に苦しむほど過酷極まりない拷問を受けています。
こうして10日間の民衆抗争は戒厳軍の暴力鎮圧により幕を閉じ、軍事政権下ではその真相はおろか抗争に言及することさえも制限されましたが、その後の「6月民主抗争」(こちらのエントリーにて紹介)に代表される韓国市民たちの抗争により同年には大統領直選制を、また1993年には初の文民大統領を得て、そして抗争から16年後の1996年には戒厳軍による一連の暴虐の最高責任者たる全斗煥と、その片腕であった盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)元大統領を被告席へ追いやることに成功しています。
こうして長年タブーとされてきた5.18民主化運動は、一転して広く知られ記憶されるところとなり、1997年には尹祥源烈士をはじめ5.18の犠牲者が埋葬された望月洞の市民墓地の隣に「国立5.18民主墓地」が造成されます。写真はその後こちらの国立墓地に改葬された尹祥源烈士と、死後に「霊魂結婚式」(後述します)を挙げた朴琪順烈士の墓石です。
それでは、尹祥源生家に戻ります。
敷地内にあるこちらの碑は、尹祥源烈士と、死後にその妻となったトゥルブル夜学創始者の朴琪順烈士を称える碑です。菊の花で飾られているのは、後で聞いたところたまたまこの日に烈士の祭祀(チェサ)が予定されていたためとのことでした。
5.18民主化運動、そして尹祥源烈士の死から1年半を経た1982年2月20日、有志たちによって尹祥源烈士と朴琪順烈士の「霊魂結婚式」が挙行され、両烈士は夫婦となりました。「霊魂結婚式」とは一方または双方が亡くなった独身の男女の結婚式のことであり、その後は通常の結婚と同じく、その家族(遺族)は親類関係として縁を結ぶことになります。韓国では全国的に行なわれているとのことです。
碑の隣にある、「ニムのための行進曲」(님을 위한 행진곡 / 임을 위한 행진곡)を説明したパネル。
「ニムのための行進曲」とは、両烈士の「霊魂結婚式」に捧げるため、有志たちにより作られた歌です。「ニム」とは「君、あなた」の意。
歌詞は次の通りです。
※訳詞は、『光州 五月の記憶 尹祥源・評伝』(林洛平著・高橋邦輔訳/社会評論社/2010年)より引用。
사랑도 명예도 이름도 남김없이
한 평생 나가자던 뜨거운 맹세
동지는 간 데 없고 깃발만 나부껴
새 날이 올 때 까지 흔들리지 말자
세월은 흘러가도 산천은 안다
깨어나서 외치는 뜨거운 함성
앞서서 나가니 산 자여 따르라
앞서서 나가니 산 자여 따르라
愛も名誉も名も残さずに
生涯貫く熱い誓い
同志は逝って旗翻る
新しい日まで揺らぐまい
歳月の流れは山河が知る
目覚めて叫ぶ熱い喊声
先に行くから生者よ続け
先に行くから生者よ続け
1979年のYMCA偽装結婚式事件で逮捕され、5.18民主化運動当時は西大門刑務所(ソウル拘置所)に収監されていた白基玩(백기완:ペク・キワン、1932-)氏が同年12月に獄中で執筆した長編詩『メッピナリ』(묏비나리)の一節を借用、小説家の黃晳暎(황석영:ファン・ソギョン、1943-)氏が歌詞として整えたものに、音楽家の金鍾律(김종률:キム・ジョンニュル、1958-)氏が曲を付けたものです。
軍事政権下では禁止歌であり、その後全斗煥などの訴追により一度は市民権を得て、5.18民主墓地で開催される犠牲者慰霊のための記念式での公式斉唱歌となったものの、李明博・朴槿恵の両保守政権下では除外されてしまいます。しかし、今年(2017年)就任した文在寅大統領によって、9年ぶりに公式斉唱歌として復活しました。その報道をご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
この歌は現在、5.18民主化運動を、そして光州精神を象徴する歌として位置づけられており、実際この旅でもいたるところでこの歌を耳にする機会がありました。
尹祥源烈士が幼年期を過ごした生家はその後火災で全焼してしまったため、現在はご遺族が暮らす住宅の向かいに、当時の生家を再現した建物が建っています。正面に掲げられた「海波斎」(해파재:ヘパジェ)とは、烈士の号(正確には「海坡」)から付けられたものです。こちらは自由に入室できます。
室内には烈士の机が再現されるとともに、その生涯を説明したパネル、遺品などが展示されています。
「トゥルブルとともに民衆の中へ…」と題されたパネル展示。写真1枚目左下の女性が、トゥルブル夜学の創立者であり、死後に霊魂結婚式によって尹祥源烈士の妻となった朴琪順烈士です。
尹祥源烈士たちが制作し、戒厳軍の封鎖により孤立した光州において市民たちの目や耳となった『闘士会報』。当時の実物と思われます。この情報によって一体どれだけの人々が救われたのでしょう。
尹祥源烈士の像。
トゥルブル夜学の機関誌とみられる冊子の創刊号。
烈士の肉筆による日記帳も展示されていました。
海波斎の正面には、生前に尹祥源烈士が好きだったメシル茶(梅ジュース)のポットが。誰でも自由に飲むことができます。おいしかったです。
生家を見学している間、一人の男性が私に話しかけてきました。話を聞くと、男性はなんと尹祥源烈士の弟さんであるとのこと。現在は光州ではなく別の離れた街に暮らしており、烈士の祭祀のためたまたま帰省していたそうです。私が日本から来たことなどを拙い韓国語で伝えると、ここを訪問した日本人は2人目(1人目は前述した評伝の訳者の方)だとたいそう喜んでくださり、祭祀用のソンピョンをふるまってくださったのみならず、なんと光州松汀駅まで車で送っていただくことに。光州についてわずか3時間足らずで経験した出会いでした。
ソンピョン、おいしかったです。ありがとうございました。
1980年5月26日、全南道庁での最終抗戦の前夜。抗戦メンバーとなった大学生以上の男性たちともに道庁に残り、抗戦に加わろうとした女性や高校生以下の生徒たちに対し、尹祥源烈士はこう語り、帰宅させたといいます。
너희들은 이 모든 과정을 지켜보았다. 이제 너희들은 집으로 돌아가라.
우리들이 지금까지 한 항쟁을 잊지 말고, 후세에도 이어가길 바란다.
오늘 우리는 패배할 것이다. 그러나 내일의 역사는 우리를 승리자로 만들 것이다.
君たちは、このすべての過程を見届けた。もう君たちは家へ帰りなさい。
我々がいままでしてきた抗争を忘れず、後世にも継承するように望む。
今日、我々は敗北するだろう。しかし、明日の歴史は我々を勝利者にするだろう。
尹祥源烈士、貴方がそう語ったように、37年の年月を経て貴方は勝利者となりました。
あの日、貴方は自分たちが未来の勝利者となることを心から信じていたのですか?
だからこそ、死ぬと分かっている戦いに臨むことができたのですか?
尹祥源生家は光州広域市光山区の北部、市街地からかなり離れた場所にあります。KTX光州松汀駅からの場合、「光州松汀駅」バス停から<송정(松汀)33>バスに乗り「黒石サゴリ(西)」バス停で下車、同バス停(道路向かい側)で<임곡(林谷)89>バスに乗り換えて、生家近くの「チョンドン(光山区)」バス停にて下車すれば生家はすぐそばですが、本数が少ないうえ、<임곡89>については時間もはっきりしないため、タクシーでの来訪をおすすめします。私の場合、地下鉄1号線「尚武」駅から16,400ウォン(約1,600円)ほどでした。
尹祥源生家(윤상원생가:光州広域市 光山区 チョンドンキル 46(新龍洞 570-1))
それでは、次回へ続きます。
【2017/09/30追記】
尹祥源烈士を含む1980年5月27日早朝の全南道庁での死亡者について「約150名」と記載していたのを「十数名」に修正いたしました。