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ソウルの旅[201709_07] - 早朝の鍾路散歩(その②)甲申政変の舞台「郵征総局」、現存する韓国最古の飲食店のソルロンタンを味わう

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)9月の江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)市などを巡る旅の4日目(2017年9月4日(月))、ソウル特別市鍾路区(チョンノグ)の早朝散歩の続きです。

 

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「空間(コンガン)社屋」から栗谷路(ユルゴンノ)沿いに西へ向かって歩き、「安国洞(アングットン)サゴリ」を左折すると、まもなく写真の建物が見えてまいります。
こちらの単層(平屋)八作屋根(ひさしを四方に巡らせた屋根)の建物は「郵征総局(우정총국:ウジョンチョングク)」といい、朝鮮半島における近代郵便制度の発祥の地であるとともに、1884年に発生したクーデター「甲申政変」(갑신정변)の舞台でもあり、韓国の史跡第213号に登録されています。

 

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朝鮮時代末期の1884年1月、当時の国王・高宗(고종:コジョン、1852-1919。朝鮮第26代国王、後の大韓帝国初代皇帝)は近代郵便制度を導入すべく、郵征局(ウジョングク)の設置を命じます。これは日本や米国への視察を通じて朝鮮への近代郵便制度導入の必要性を痛感し、うち日本視察においては「日本郵便の父」前島密(まえじま・ひそか、1835-1919)からその知識と資料を直に伝授された朝鮮の官吏、洪英植(홍영식:ホン・ヨンシク、1856-1884)の建議によるものでした。このとき漢城(한성:ハンソン。ソウルの当時の名称)での業務の拠点たる郵征総局に指定されたのが、推定1600年頃築、典医監(薬草を栽培して宮中向けの医薬品を製造する機関)の付属建物として長らく用いられてきた写真の建物です。郵征局のトップである総弁に任命された洪英植は、海外視察で得た知識を基に開局へ向けて尽力します。

 

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一方このとき洪英植には、清(中国)との事大関係※解消を目指す急進開化派のグループ「開化党」の重鎮というもうひとつの顔がありました。
(※大国への依存性向に基づく外交関係。ただし朝鮮と中国との関係においては、歴史的な冊封体制を考慮する必要があります。)
当時の朝鮮はその属国化を目論む清の影響力が増大しており、清の軍隊が常時駐屯している状況にありました。これは、その2年前(1882年)に起きた「壬午軍乱」(高宗の父・興宣大院君が兵士の反乱に乗じて権力奪取を図ろうとし失敗した事件)の際、高宗の妃である閔妃(민비:ミンビ、1851-1895。死後、明成皇后と呼ばれる)の外戚を中心とし、当時政権を掌握していた「事大党」と呼ばれる守旧派(清との事大関係を維持したい保守派グループ)たちが事態収拾のため清に支援を求めた結果もたらされたものでした。こうした清との事大関係解消なくして朝鮮の開化はないと考えた洪英植たち開化党は、かねてよりクーデターによる政権転覆を模索していました。

そうした中の同年(1884年)8月、折りしも清は安南(べトナム)を巡り対立していたフランスと開戦(清仏戦争)、それまで漢城に3,000人いた清軍兵はその半分にまで減少していました。
さらに同年10月、開化党のリーダー格である金玉均(김옥균:キム・オッキュン、1851-1894)らは当時の日本公使であった竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう、1842-1917)と密談し、竹添はクーデターにおける兵力150名の支援と円借款を約束します。2年前の壬午軍乱では朝鮮に対し強硬であった日本が一転して支援に回ったのは、清仏戦争での敗北により弱体化しつつあった清の勢力を追いやり、代わって朝鮮における日本の影響力を強めようとの狙いによるものでした。
こうして機を得たうえに一定の兵力を確保した開化党はついに、同年の12月4日、洪英植も郵征局総弁として参席する郵征総局の落成式祝宴に乗じてクーデターを実行することを決定します。

 

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洪英植らの尽力により同年(1884年)11月18日には郵征総局と仁川の支局が業務を開始。朝鮮における近代郵便制度の始まりとなりました。
そして開局から16日後の12月4日。郵征総局にて開催された落成式祝宴にて洪英植は、金玉均や朴泳孝(박영효:パク・ヨンヒョ、1861-1939)、徐載弼(서재필:ソ・ジェピル、1864-1951)らとともにクーデターを決行します。郵征総局と隣接する建物から火の手が上がり、現存する郵征総局を除き周辺の建物はすべて焼失。また開化党はこの騒ぎに乗じて、当時の王宮であった景福宮キョンボックン)内へ兵士を突入させ、閔氏一族と事大党により占められていた当時の重臣の多くを殺害、政権を掌握しました。
この事件から始まる、開化党による3日間のクーデターを「甲申政変」と呼んでいます。

まもなく開化党は新政府を組織、洪英植は左議政(最高位である領議政に次ぐ官職)となりました。あわせて新政府は事大主義の解消や人民平等の実現など、その改革政治の指針である「革新政綱」を制定、高宗の決裁まで取り付けます。しかしクーデター2日目(12月5日)には事大党の救援要請を受けた清軍が介入、竹添進一郎率いる日本公使館の兵力も形成不利と見るや密約を反故にして早々と撤退するなどしたため、その翌日(12月6日)にはついに鎮圧され、新政府はわずか3日で瓦解。革新政綱が公布されることはありませんでした。
金玉均や朴泳孝、徐載弼などは仁川・済物浦(チェムルポ)港を経て日本に亡命しますが、洪英植は高宗を守るべく朴泳教(박영교:パク・ヨンギョ。朴泳孝の兄)などとその許に残り、やって来た清軍兵によって朴泳教ともども殺害されます(大逆罪で処刑されたとの説あり)

 

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この甲申政変により郵征総局はクーデター初日の12月4日より業務中断を余儀なくされ、その5日後には正式に閉鎖が決定。1895年に新しい郵政官庁である郵逓司が設置されるまでのおよそ10年間は、旧制である駅站制(역참제:ヨクチャムジェ。日本でいう「宿駅制度」に相当)が存続することとなりました。
その後、かつての郵征総局の建物は漢語学校などに使用され、また日帝強占期には京城中央編集局長官舎に用いられた後、光復(日本の敗戦による解放)後に私有財産となったものをソウル市が購入。さらに1956年、その解体直前に逓信部(日本の省に相当)が買い取り、郵票(우표:ユピョ。「切手」の意)の図案をデザインする「郵票図案室」として使用しました。その間の1970年には史跡第213号に指定されています。そして全面改修を経て1972年に「逓信記念館」として開館、現在へと至ります。

 

郵征総局には午前8時40分ごろ到着。逓信記念館の開館時刻である9時まで待っていましたが、玄関は依然閉じたまま。結局5分くらい遅れて管理人の方が登場し、ようやく入館することができました。

 

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逓信記念館の内部と天井。初代郵征局総弁の洪英植、そして朝鮮における草創期の近代郵便制度に関する史料が主に展示されています。

 

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郵征総局が設置され、甲申政変が起きた朝鮮時代末期の年表。

 

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朝鮮における近代郵便制度発足当時の郵便配達員の服装。

 

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額面の単位が「文(ムン)」であるため一般に「文位郵票」(문위우표:ムニウピョ)と呼ばれる、朝鮮最初の切手(おそらくレプリカ)。1884年、日本の大蔵省印刷局(現・国立印刷局)に委託して印刷されたものです。5文(手前右)と10文(手前左)は郵征総局の閉鎖に伴い、発行からわずか20日ほどで使用できなくなりました。写真奥は左から順に100文、50文、25文の高額切手で、これらは郵征総局の閉鎖までに到着せず、結果として未発行のまま終わりました。写真では分かりづらいですが、図案には額面のほか「ㄷᆡ죠션국우초」(「大朝鮮国郵鈔」。「大」にあたる「ㄷᆡ」は実際は1文字ですがフォントがないのでここでは分割しています)、および「COREAN POST」の表記も(英文表記は5文切手を除く)

 

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朝鮮における近代郵便業務の再開以降に発行された切手の数々。

 

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韓国(朝鮮)近代郵便制度の創始者、洪英植の胸像。
洪英植は甲申政変の失敗によりその死後は逆賊とされたため、他の開化党メンバーと同様にその親族もまた連座制により罪を問われました。その結果、父の洪淳穆(ホン・スンモク)をはじめ一族20人が集団自殺に追い込まれており、その中には当時わずか5歳だった洪英植の息子も含まれています。なお洪英植はその死の10年後(1894年)の甲午改革において、生き残った兄の洪万植(ホン・マンシク)とともに復権を果たしています。
洪英植はたいそう人柄がよく、交友関係が広いうえに接したほぼすべての人々から敬愛されていたといいます。在朝清軍の総督であった袁世凱(ユエン・シーカイ、1859-1916。後の中華民国初代大総統)とも面識があり、クーデター失敗後に洪英植が高宗の許に残った際、その関係を知る者たちは「まさか殺されはしまい」と思ったといいます。

 

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写真1枚目は1883年6月、米国へ派遣された報聘使(朝米修好通商条約に基づく来朝使節への答礼使節一行の集合写真。洪英植はこのとき報聘使副使として随行し、ニューヨークの郵便局などを視察しています。写真2枚目は同建物内に展示されている、洪英植による米国郵便制度視察の報告書「洪英植復命問答記」。

 

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1897年に高宗が発行した朝鮮の旅券(パスポート)。

 

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ソウル郵征総局「逓信記念館」の開館時間は平日午前9時~午後6時(冬季は午後5時)、土曜は午前9時~午後1時。うち午前11時50分~午後0時50分までの1時間は昼食休みとなります。元日と名節(旧正月および秋夕)は休館です。入場無料。
首都圏電鉄(地下鉄)3号線「安国(アングク)」駅6番出口からだと徒歩約4分(約270m)同1号線「鍾閣(チョンガク)」駅2番出口からだと徒歩約6分(約410m)で到着できます。

ソウル郵征総局(逓信記念館)(서울 우정총국(우정기념관):ソウル特別市 鍾路区 郵征局路59 (堅志洞 39-7)。史跡第213号)

 

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郵征総局前の広場の地面には、朝鮮時代から近年にかけて発行された切手を描いたタイルがいくつか貼られていました。写真1枚目は1895年、近代郵便制度の再開時に発行された普通切手「太極郵票」1銭(チョン)。写真2枚目は左上から順に、普通切手「大韓帝国郵票」2厘(リ)(1900年:左上)、記念切手「大韓赤十字社創立第10周年記念」(1959年:右上)、同「第1回集配員の日記念」(1968年:左下)、同「人間月着陸記念」(1969年:右下)。前述したように、郵征総局の建物は1956年の逓信部による購入から1972年の「逓信記念館」開館までの間に「郵票図案室」として用いられましたので、これら記念切手の中にはまさにこの場所でデザインされ世に送り出されたものがあるかもしれません。

 

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郵征総局と隣接して、韓国仏教でも最大級の宗派とされる曹渓宗(チョゲジョン)の総本山、曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿が。極彩色の荘厳な建物です。元々は全羅北道(チョルラブット)井邑(チョンウプ)にあった1922年築の建物を1938年に移築したもので、ソウル特別市有形文化財第127号にも登録されています。
写真にはありませんが、数百本ものミネラルウォーターのペットボトルが大雄殿の入口そばに積まれていたのが印象に残っています。参拝者のためでしょうか。

 

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郵征総局から徒歩で5分ほどの距離には、改築工事中の在韓国日本大使館が。
そしてその道路を挟んだ向かいに、韓国で最初に建立された「平和の少女像」があります。
こちらの像は2011年、「慰安婦」問題につきあらゆる誠意ある態度を頑として拒み続ける日本政府への抗議デモであり、その実行日から名付けられた「水曜集会」の開催1,000回目を記念して、日本大使館を見つめるこの位置に建てられたものです。

 

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像と対面したのは3ヵ月前の大邱(テグ)広域市以来、この年(2017年)では釜山、ソウル「戦争と女性人権博物館」、大邱に続いて4度目です。
このときも、またこの日以降に像と対面した釜山、全羅南道(チョルラナムド)・木浦(モクポ)、ソウル漢城大入口(ハンソンデイック)駅、そして全羅北道・群山(クンサン)でもそうでしたが、政府主導による日本社会での加害事実否認と被害者への侮辱行為、韓国(人)への憎悪感情は、その対面の機会ごとに着実に悪化する一方です。
そうした社会の構成員であり、またその状況を憂慮しつつも現実には寸分たりとも貢献できていない自身の無力さを心から詫びるとともに、それでも抗わねばならないことを誓うばかりです。

以前、どこかで「『平和の少女像』を直視できない」といった投稿を目にしたことがあります。以前にも書きましたが、像の眼差しは対面した者の心の奥底をも射抜くような鋭いものであり、私自身も気圧されることがあります。しかし、それで「直視できない」で完結してしまうことは、過去の被害と加害、そして現実から目をそらすことであり、それは結果として日本の歴史修正勢力に与することと同じです。私は直視し、抗います。

平和の少女像(평화의 소녀상:ソウル特別市 鍾路区 栗谷路2ギル 19 (寿松洞 85-7))

 

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平和の少女像から南下して左折し、しばらく歩くと左手に現れる「マクドナルド寛勲(クァヌン)店」。その手前の駐車場誘導路の奥に、この日の朝食目当てのお店「里門(イムン)ソルロンタン」があります。

 

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里門ソルロンタン大韓帝国時代の1904年創業、現存する韓国最古の飲食店としても知られています。2011年に当地へ移転するまで営業していた鍾路タワーそば、伝統を感じる2階建て韓屋(ハノク)の旧店舗(写真2枚目のパネル右上にある写真)をご記憶の方も少なくないことでしょう。旧店舗は再開発で惜しくも解体されましたが、唯一残された入口上の木の看板が往時の記憶を引き継いでいます。
1997年正月の初渡韓のとき、開いているかどうかの確認のため電話した私のたどたどしい韓国語にも親切に対応してくださったこと、そしてなによりソルロンタンの味が恋しくて、2014年からは年1回ペースで訪問しています。そのため私にとってはこれまで韓国で最も多く訪れた飲食店となってしまいました。
農林水産食品部(日本の農林水産省に相当)などが2012年に発表した、国内の伝統ある飲食店リスト『한국인이 사랑하는 오래된 한식당 100선(韓国人が愛する古い韓食堂100選)』ではこちらの店がその筆頭に挙げられるとともに、現存する韓国最古の飲食店として認定されています。

 

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表には「ソウル未来遺産」214号の認定プレートも。近年ではあのミシュランガイドのソウル版にも2017年と2018年の連続で掲載されています。

店内は座敷を含め約200席。この日は朝早くで空いてましたが、2014年春の昼食時間帯の訪問時にはほぼ満席状態となっていました。そのとき久々の訪問で勝手を忘れていた私に、相席の方が丁寧に指南してくださったのもよい思い出です。

 

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毛筆手書きのメニュー表。ハングルも日本語も達筆です。日本語が添えられているものとそうでないものの判別基準が気になりますね。ソルロンタンは、2011年11月の訪問時には7,000ウォンだったものが2015年8月には8,000ウォンになり、そしてその2年後の今回(2017年9月)は9,000ウォンと徐々に値上がりしています。ちなみに12,000ウォンの「特ソルロンタン」はスユクの量が違うそうです(何回も来ているのに頼んだことがない……)

 

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店名にもある看板メニュー「ソルロンタン」とは、牛肉と牛骨をじっくり煮込んで白濁したスープに素麺(ソミョン)やご飯、スユク(茹でた薄切りの牛肉)などを入れた料理です。安価かつ手軽に食べられるファストフードとしてソウルの人々の人気を集め、日帝強占期の1920年代にはここ鍾路や清渓川(チョンゲチョン)、南大門(ナムデムン)界隈を中心にソルロンタン屋がひしめきあっていたといい、こうした経緯からソウルの郷土料理として挙げられたりもします。
ソルロンタンの由来については諸説あり、「先農壇」(선농단:ソンノンダン。朝鮮の人々に農業を伝授したとされる穀物の神「先農」を祀る祭壇)での祭祀(チェサ)において供物の牛肉を煮込んで食べたものが由来だという説、あるいは元(モンゴル)の兵士たちが戦場で食べた牛肉スープ「シュルル」(または「シュル」)が転じてソルロンタンになったという説などが挙げられています。またその表記も一般的な「설렁탕」のほか「설농탕」などがあり(いずれも発音のカナ表記は「ソルロンタン」)、後者についてはその白いスープが雪のようだとして「雪濃湯」の漢字が当てられることがあります。里門ソルロンタンでは創業当初から「설농탕」の表記を採用しているとのこと。
 

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そして運ばれてきたソルロンタン。大きな鋳鉄釜で17時間も煮込まれるというスープは余分な脂も落ち、真っ白ですっきりしています。この時点では塩味は全くないので、卓上の塩を慎重に(ここ重要)注ぎ、ちょうどいい塩梅となったところでネギを乗せて、ひと口。
ああ、うんまい。
スープは淡白でありながら、牛骨・牛肉ならではの力強いコクとうまみが感じられます。ほっとする味。韓国ではたまに懐かしい味に遭遇することがありますが、メニューそのものが懐かしい味となっているのは、いまのところこのソルロンタンが唯一です。

 

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こちらのお店のもうひとつの楽しみは、各席に置かれた食べ放題のぺチュ(白菜)キムチとカットゥギ(大根キムチ)。うちペチュキムチは葉が丸ごと入っているのでハサミで適宜切って食べます。このペチュキムチが辛さの中に甘みがあって、またうんまいのです。これだけでご飯が何杯も進みそう。これらキムチは好みに応じて、ソルロンタンに投入してもよいでしょう。

 

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「里門ソルロンタン」の営業時間は午前8時~午後9時、日曜のみ午前8時~午後8時。名節(旧正月・秋夕)は休業。首都圏電鉄(地下鉄)1号線「鍾閣」駅3-1番出口から徒歩約4分(約250m)です。
コンビニ「GS25」のビルとマクドナルド寛勲(クァヌン)店のビルの間、駐車場誘導路を入った奥という若干分かりづらい場所にありますが、誘導路入口にバルーンの看板(写真)が立っているのですぐ分かると思います。

里門ソルロンタン(이문설농탕:ソウル特別市 鍾路区 郵征局路38-13 (堅志洞 88)) [HP]

 

その後はいつものようにソウル駅そばのロッテマートでマッコリなどの土産物を購入し、来たときと同じジンエアーの便で帰国するのでした。

 

2017年9月の大田・春川・加平・ソウルの旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2017年10月の光州(クァンジュ)広域市・全羅南道の旅をお送りします。

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