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釜山の旅[201711_05] - 日帝時代の墓石で命をつないだ避難民の村「碑石文化マウル」、庶民生活の記録に生涯を捧げた写真家

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、明けて3日目(2017年11月19日(日))の朝です。

 

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この日最初に向かったのは、同市西区(ソグ)にある都市鉄道(地下鉄)1号線「土城(トソン)」駅。いまや釜山を代表する観光地のひとつである沙下区(サハグ)の「甘川(カムチョン)文化マウル」の最寄り駅ということで、バス停へ向かう6番出口の階段には同マウルの案内が。しかし、この日の目的地はこちらではありません。

 

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駅近くのバス停からはマイクロバスの「マウルバス」に乗車。細く曲がりくねった急坂をゆっくりと登ります。カーブでマウルバス同士が出会った場合には一方が停止して譲らなければならず、それ以外でもすれ違いするのがやっとという。マイクロバスでこれですから一般的なバスの運行はまず無理でしょう。俗に「山腹道路」と呼ばれるこうした狭い急坂は釜山の市街地の至るところにあり、マウルバスの路線はそれらを毛細血管のように巡っています。

 

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5分ほどで到着した「サンサン教会(碑石文化マウル)」バス停にて下車。このバス停の正面、斜面の上側にある場所には、写真の古びた家屋が建っています。
こちらの家屋は「墓地の上の家(묘지위 집)」と呼ばれ、日本式の墓の外柵(がいさく)を土台にして建てられたものです。そのことを証明するかのように、家屋の横には日本人と思しき名前と大正時代の日付が刻まれた墓石が置かれています。

 

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この「墓地の上の家」を含む西区峨嵋洞(アミドン)山(サン)19番地一帯、現在は「碑石(ピソン)文化マウル」と呼ばれる場所には、かつて日本人の共同墓地が広がっていました。
これらは朝鮮時代の「草梁倭館」(チョリャン・ウェグァン。倭館とは朝鮮における日本の使節や商人の外交・貿易施設のこと。草梁倭館は現在の釜山広域市中区にて1607年から釜山開港期の1876年まで存続)の関係者、および釜山開港から日帝強占期にかけて入植した日本人たちの墓地で、近隣の龍頭山(ヨンドゥサン)や伏兵山(ポクピョンサン)にあった墓地を1907年に移したものです。さらに1929年には火葬場が追加で建設されています(後に移転)。しかし、1945年の光復(日本の敗戦による開放)により日本人が退去した後は放置状態となっていました。
その後1950年には朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)が勃発し、戦線から最も遠い釜山には全国から避難民たちが殺到します。しかし平地はすでに先住者たちであふれていたため、「埋築地(メチュクチ)マウル」や「ソマンマウル」畜舎のような日本人の残した建物を転用した収容所に暮らすか、あるいは「アンチャンマウル(ホレンイマウル)」のように自ら急斜面を切り開いて住む場所を確保するしかありませんでした。
うち後者の一部が、峨嵋洞の急斜面の日本人共同墓地にたどり着きます。文字通り体ひとつで釜山にたどりついた彼らは、命をつなぐ住居の確保のためやむにやまれず日本人の墓を破壊、その墓石を材料に住居や石段などを造り、釜山での避難生活を始めます。そして休戦後も故郷への帰還がかなわなかった避難民たちはそのまま共同墓地の跡に定着、こうして形成されたのが今日の碑石文化マウル一帯の住宅地です。
お気づきかとは思いますが、マウル名にもある「碑石」(ピソク。マウル名では音韻変化により「ピソン」と発音)とは、墓石のことをを指します。

 

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碑石文化マウルの象徴的存在となっている「墓地の上の家」の脇から、人ひとり通るのがやっとの狭い路地に入ります。マウル内に縦横無尽に張り巡らされたこれらの路地沿いには、日本人墓地の墓石を再利用した物件があちこちに点在しており、その用途や配置場所などからいくつかの俗称で呼ばれています。
写真は「安心(アンシム)シムト碑石」(안심쉼터 비석:シムトとは「休憩所」の意)と呼ばれているもので、墓碑銘や家紋と思しき意匠が刻まれた墓石がいくつも組み合わされています。

 

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墓石。「明治四十二年五月廿七日歿」と読み取れます。

 

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上にあたる左側には「金滿家靈標」とあり、その下の右半分(写真では上側)には納骨された一族とみられる名前が刻まれています。

 

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こちらの石垣は「築台(チュクテ)碑石」(축대비석:築台とは「石垣」の意)と呼ばれているものです。

 

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右側を上に「明治二十三年八月」まで読み取れます。

 

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こちらはまた別の場所の「築台碑石」。
3文字目までは「妙法 賢」と遠目からでもはっきり読み取れます。4番目の字は「堂」でしょうか、それとも「光」でしょうか。

 

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「ノリト階段(ケダン)碑石」(놀이터계단비석:ノリトとは「遊び場」の意)。
墓石と思しき石材がいくつも積み重ねられており、石段の下から3段目には墓碑銘と思われる文字を読み取ることができます。

 

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こちらは「スドッカ碑石」(수돗가 비석:スドッカとは「水道が出るところ」の意)と呼ばれるものです。
ここでは石段の最下段に墓石が用いられており、「明治三拾五年九月九日 ●●三郎」との墓碑銘が読み取れます(●●の箇所は不明)。

碑石文化マウルについては日本語の旅行記でも複数紹介されており、中には「日本人の墓石を建築資材にし土足で踏みつけるなんてやっぱりあいつらは反日だ、理解できない」といった否定的な感情、さらには差別心をあらわにした感想も少なくありません。そうした感情論に流されそうになったときは、まずはこの碑石文化マウルの前身である日本人共同墓地が一体どこに存在し、誰のために作られたのか、そのことから考えてみましょう。
前述したように碑石文化マウルで資材とされた墓石の数々は、朝鮮戦争中から休戦直後にかけての極度の物資不足、かつ急斜面という劣悪な環境下で避難民たちが命をつなぐため、やむにやまれず再利用されたものです。しかし、仮に一部の(韓国人がみな「反日」であってほしい)日本人が喧伝するように植民地支配への恨みからわざと墓石を踏み石などに用いたとして、過去の行状を考えればそれは当然の帰結であり、日本人に非難する資格はないというのが私の考えです。

 

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碑石文化マウルには、いくつかの壁画も描かれていました。写真は避難民のきょうだいをイメージしたと思われる壁画。

 

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こちらの壁画、絵柄といい題材といい、とても好みです。

 

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碑石文化マウルの最上部にある「ハヌル展望台」(ハヌルは「空」の意)から眺めた峨嵋洞、そして釜山の旧市街である西区・中区の市街地の風景。これぞ釜山の旅の醍醐味です。

 

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碑石文化マウルへのアクセスは、都市鉄道(地下鉄)1号線「土城(トソン)」駅からだと徒歩約12分(約770m)と表示されますが、道中えんえんと急坂が続きますので、マウルバスのご利用をおすすめします。
同駅6番出口を出て徒歩約3分(約180m)の場所にある「釜山大学校病院」(부산대학교병원)バス停から、マウルバス<서구(西区)2>(約7分おき配車)または同<사하구(沙下区)1-1>(約15分おき配車)に乗車し、約4分で到着する4つめの「峨嵋洞公営駐車場」(아미동공영주차장)バス停で下車すると写真の場所「コルモクギャラリー」そばに、また約5分で到着する6つめの「サンサン教会(碑石文化マウル)」(산상교회(비석문화마을))バス停で下車すると冒頭に紹介した「墓地の上の家」の前に到着します。
ちなみに後者「サンサン教会(碑石文化マウル)」バス停から4つめ(「釜山大学校病院」からだと10番目)、<서구2>バスの場合は終点でもある「甘川初等学校.甘川文化マウル」(감정초등학교.감천문화마을)バス停が、その名の通り甘川文化マウルの玄関です。

碑石文化マウル(비석문화마을:釜山広域市 西区 峨嵋洞2街 227-7 一帯)

 

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先の「コルモクギャラリー」を東方向(「墓地の上の家」と反対側)へ向かって少し歩くと、写真の「峨嵋文化学習館」という施設があります。

 

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この脇の階段を下ると、釜山を拠点に活動していた写真家、崔敏植(최민식:チェ・ミンシク、1928-2013)氏による写真作品の展示空間「崔敏植ギャラリー」の玄関が現れます。
日本でも有名なあの俳優さんとハングル表記を含め同じ名前の方ですが、もちろん別人です(ちなみに漢字表記は異なります。俳優さんの方は「崔岷植」)。

 

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崔敏植氏は1928年、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する黄海道(ファンへド)の延白(ヨンベク)郡生まれ。第二次大戦中は平安南道(ピョンアンナムド)にあった三菱技能者養成所の技能工に従事。光復後はソウルへ移り日中はエ場などで労働し、夜間は強い関心のあった絵画の勉強のため夜学通いという生活を続けます。

 

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朝鮮戦争期の軍服務を経て再び工場労働に戻ったものの、美術への思いを捨てきれず、1955年には一念発起して日本へ密航。東京中央美術学院での在学当時、東京の古書店でたまたま手に取った米国人写真家のエドワード・スタイケン(Edward Steichen、1879-1973)氏の写真集『人間家族』(The Family of Man)を読んで深い感銘を受け、一転してドキュメンタリー写真家の道を志すようになります。

 

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2年間の課程修了後は釜山へ帰国。独学での写真の勉強と並行しつつ朝鮮戦争の傷跡の残る釜山の街に出て、この街で暮らす庶民たち、中でも社会から疎外され貧困にあえぐ人々を被写体に、写真家としての活動を始めます。これら作品への評価はまず海外から火が付き始め、1962年の台湾国際写真展入賞を皮切りにいくつもの賞を獲得します。写真は氏が残した無数の作品の中でも代表作のひとつに数えられる、子に乳を与える母の写真、そして窓べりで本を読む子どもの写真。

 

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一方、韓国国内でも写真賞受賞や個展の開催、また1968年の第1巻からその後全14巻が発刊された写真集『인간(人間)』シリーズなどの著作物により、60年代半ばから徐々にその知名度を高めてゆきます。しかしこの当時、開発独裁による韓国の近代化を急いでいた朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領は貧しい人々の写真ばかりを海外で展示する崔敏植氏を快く思わず、パスポートの発給拒絶などさまざまな手段で圧力を加えたため、海外での個展はいつも本人不在の状況だったとのことです。もっとも民主化以降は政府の姿勢も変化し、2001年には大韓民国玉冠文化勲章、2008年には国民褒章を授与されています。
最晩年まで写真家としての活動を続けた崔敏植氏は2013年、釜山の自宅にて死去。その死後も韓国第1世代のドキュメンタリー写真家として高く評価されており、また釜山の人々にとっては親しみのある存在となっています。

 

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「崔敏植ギャラリー」の開館時間は午前10時~午後6時、月曜休館。入場無料。ギャラリーが入居する「峨嵋文化学習館」へは、先ほど碑石文化マウルへのアクセスで紹介した「峨嵋洞公営駐車場」バス停から徒歩約2分(約170m)で到達できます。
今回紹介した作品は展示物のごく一部であり、ギャラリー内にはより多くの作品が展示されています。碑石文化マウルとあわせて、ぜひ訪れていただきたい場所です。

崔敏植ギャラリー(최민식갤러리:釜山広域市 西区 峨嵋路128番キル 20-1 (峨嵋洞2街 89-239)峨嵋文化学習館)

 

マウルバスで土城駅へ戻り、今度はタクシーに乗り換えます。

 

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1935年築の跳ね橋「影島大橋(ヨンドデキョ)」を渡り、やって来たのは影島区(ヨンドグ)にあるオムク(어묵:オデンの具などに用いる魚肉の練り物)の名店「サムジンオムク本店」。

 

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朝鮮戦争の休戦と同じ1953年創業のこちらのお店は釜山オムクの草分け的存在とされ、釜山広域市からは現存最古のオムク製造加工所に認定されています。そのため数あるオムク生産業者の中でもとりわけ知名度が高く、Korail釜山駅をはじめ全国各地に出店するほか、他企業とのコラボ製品も出しています。写真は2017年2月に金海国際空港セブン-イレブンにて購入した、サムジンオムク監修のおにぎり(2018年現在は販売されていません)

 

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まずは本店の2階にある「オムク体験歴史館」から。
こちらは釜山オムクと会社の歴史を紹介するスペースに加え、オムク作りを体験できる厨房スペースが併設されています。私が訪れたときはまだ開催されていませんでしたが、週末になると子どもたちを中心とした体験希望者で賑わうようです。

 

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階段の途中にあったイラスト。なごみます。

 

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続いて1階のサムジンオムク本店。いろんな種類のオムクが並べられています。

 

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購入したのは写真の詰め合わせパック。数種類のオムクが1kg分入って15,000ウォン(約1,575円:当時)。専用のスープも付いてきます。

 

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日本に帰ってから炊いたもの。スープの味は西日本風おでんのそれに近いですが韓国のオデンらしく若干の辛味があります。また買いたいと思うくらいおいしかったです。同じくお土産に買ってきた、韓国の民俗酒第1号でもある釜山の地マッコリ「金井山城(クムジョンサンソン)マッコリ」で一杯。

 

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こちらは詰め合わせパックと別に買ってきた「スサムオムク」(수삼어묵:生高麗人参のオムク)。高麗人参がまるまる1本入っているため、1個で4,500ウォン(約470円:当時)となかなかの値段です。はみ出た根っこがまるでオムクの尻尾のよう。おいしかったですが、オムクに包まれている部分は本当に生だったのでスープで煮込んだほうがよりおいしかったかも。

 

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こちらのお店「サムジンオムク本店」の営業時間は午前9時~午後8時(体験歴史館は午後6時まで)、名節(旧正月・秋夕)当日は休業です。最寄り駅である都市鉄道(地下鉄)1号線「南浦(ナムポ)」駅からだと、6番出口を出て徒歩約1分(約50m)の場所にある「影島大橋(南浦駅)」(영도대교(남포역))バス停から<82> <85>番バスのいずれか、またはその50mほど先にある「影島大橋」(영도대교)バス停から<8> <30> <88A> <113> <186> <190>番バスのいずれかに乗車。いずれの場合も約7分で到着する2つめの「影島郵逓局」(영도우체국)バス停で下車、徒歩約4分(約260m)で到達できます。6番出口からの徒歩でも約17分(約1.1km)。影島大橋の見物がてら歩いてみるのもよいでしょう。
なお、本店の真向かいには同店のオムクを用いた料理が食べられる「三真週家」(삼진주가:サムジンジュガ)が最近オープンしたそうで、次回訪問時には立ち寄ってみたいと思います。 

サムジンオムク本店(オムク体験歴史館)(삼진어묵본점 (어묵체험역사관):釜山広域市 影島区 太宗路99番キル 36 (蓬莱洞2街 40-2))

 

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サムジンオムク本店の近くに、在来市場「蓬莱市場(ポンネ・シジャン)」のアーケード入口があったので立ち寄ってみました。
島の最高峰「蓬莱山」(봉래산:ポンネサン、396m)にその名が由来するこちらの市場は、日帝強占期に自然形成された市場が1970年代に商店街として整えられたものだそうで、現在は約120店ほどが営業しているとのことです。

 

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アーケード通りの中央にはいくつかの露店が。写真2枚目はそのひとつにあった謎の黒い物体。これ、何だと思いますか?

 

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実はこれ、ウミウシの仲間の「アメフラシ」(写真2枚目)を乾燥させたものです。よく磯にいるブニュブニュした、触ると紫色の汁を放出するあの生き物です。韓国語では「クンソ(군소)」といいます。
アメフラシはその食餌である海藻の種類によって体内に毒素を持つことがあり、食べることのできる産地は限られています。そのため韓国でも決してポピュラーな食材ではありませんが、釜山を含む南海(ナメ。朝鮮半島南岸の海)沿岸では煮込んだりして食されているとのこと。日本でも房総半島や隠岐などでは食べる習慣があるようです。

 

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時計はすでに午前11時過ぎ。お腹がすいてきました。でも帰りの便は金海空港を午後3時半発ですので、あまり余裕はありません。
タクシーで向かったのは前回(2017年2月)の旅でも訪問した、地下鉄1号線「中央(チュンアン)」駅近くの「トゥンボチッ」。前回あまりにおいしかったことに加えて影島から距離的にも近く、残り時間を考慮すると(チェック済みのお店の中では)これ以上にない場所にあることから再訪したものです。

注文したのはもちろん、お店の名物「チュックミグイ」(쭈꾸미구이:イイダコ焼き)、12,000ウォン(約1,200円)。前回の経験からいきなり2人分を注文したところ、なんと1人分を食べ終わったところを見計らって次の皿を出してくださるとのこと。お心遣いがすごい。

 

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店先にある炭火コンロでじっくり網焼きされたチュックミグイさん。炭火特有の香りとパンチのある辛さのヤンニョムが絶妙なバランスで鼻腔をくすぐります。うんまい。前回同様、辛さに汗をかきつつ食べ進めます。

 

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チュックミグイに付いてくるコンビジ(콩비지:おからスープ)。これがまたうんまいのですよ。少し粗めのシチューのような舌触りもまた心地よいのです。そうしてあっという間に完食。

 

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こちらのお店「トゥンボチッ」の営業時間は午前11時~午後10時30分、毎月第4日曜日休業。都市鉄道(地下鉄)1号線「中央」駅1番出口からだと徒歩約2分(約130m)。大通りの「中央大路」(중앙대로:チュンアンデロ)に沿って「南浦」(ナムポ)駅方面へ進み、2番目の角を右折、続いてすぐの角を左に曲がって50mくらい進むと右手に現れます。個人的にかなりおすすめのお店です。

トゥンボチッ(뚱보집:釜山広域市 中区 中央大路41番キル 3 (中央洞1街 21-3))

 

2017年11月の釜山の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2017年12月の全羅南道(チョルラナムド)の旅をお送りします。

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