かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

莞島の旅[201912_01] - 「抗日の地、解放の島」所安島(ソアンド)訪問、そして思いがけない歓待

今回からは、2019年11月30日(土)から同12月3日(火)にかけて訪問した全羅南道(チョルラナムド)莞島(ワンド)郡などの旅をお届けいたします。

 

韓国全図と莞島郡の位置

莞島郡全図
莞島郡は、全羅南道南部の南海(ナメ。朝鮮海峡など韓国が南岸で接している海の総称)沿いにある郡部で、人口は5万人弱。その領域のすべてが島で構成されています。うち郡庁所在地の莞島邑(ワントウプ。ウプは日本の「町」に相当する地方自治体)のある莞島などいくつかの島は、陸地(ユクチ、韓国では本土をこう呼ぶ)と橋で結ばれています。
今回の旅で莞島郡を目的地に選んだのは、それら島々の中でどうしても優先的に訪れたい2つの島があったからです。

 

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2019年11月30日 (土)、成田空港からは「いつも」のようにジンエアーのLJ202便に搭乗し、約2時間40分で仁川国際空港に到着。まずは空港鉄道と湖南線(ホナムソン) KTXを乗り継いで光州松汀(クァンジュソンジョン)駅を目指すことにします。仁川国際空港から莞島へ直行する高速バスはなく、莞島を含む全羅南道全体の交通のハブとなっている光州(クァンジュ)広域市のバスターミナル「U-SQUARE」へ移動するのが最も近道だからです。

 

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当初はソウル駅を16時35分に発つ列車に乗車する予定でしたが、想定よりも早く入国手続きが終わったおかげで1本前の龍山(ヨンサン)駅16時10分発の列車(写真)に間に合うようになったため、予約変更します。これで光州松汀着は当初予定より1時間も早まることになりました。
光州松汀駅には2時間04分で到着。ただ厄介なことに、同駅で接続する光州都市鉄道1号線(地下鉄)はU-SQUARE近辺を通りません。両者を結ぶ市内バスの路線はあるものの最速でも30分近くを要するため、今回はやむなくタクシーを利用します。

 

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U-SQUAREに到着。しかし、直近の莞島行き市外バスはすでに満席との表示が、やむなくその次の19時25分発の便のチケットを確保します。痛恨のタイムロス。とはいえ当初に乗車を予定していた便ですので、全体を通してみると想定所要時間に変更はありません。

 

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そして確保した19時25分発の便(写真)も、発車20分前時点で満席に。むしろKTXを1本早く変更したからこそ、この便のチケットが取れたのかもしれません。光州~莞島間のバスは人気が高い、ということは覚えておきたいと思います。

U-SQUAREを出て1時間半ほどで、莞島郡と北側で接する海南(ヘナム)郡の中心地、海南邑の海南総合バスターミナルに停車。ここで3分の2ほどの乗客が下車します。満員だったせいで窓が曇っていて外がよく見えませんでしたが、こちらの海南、結構な規模の街のようです。
海南郡は人口約68,000人と莞島郡よりも多く、海南邑だけでも人口約25,000人。こちらの需要が大きいため、行きのチケットの人気が高いのでしょう。

 

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そしてU-SQUAREから2時間ちょっとで、終点の莞島共用バスターミナルに到着。時刻はすでに21時30分。次の日は朝が早いので、この夜は食事だけして終わりになりそうです。
それにしても、到着時点でバスターミナルが施錠されていたのは今回が初めて。夜分遅くとはいえちょっとびっくり。

 

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ホテルの窓から眺めた莞島の港の風景。写真右上の小さな島は珠島(주도:チュド)といい、島全体を覆う常緑樹林が天然記念物に指定されています。

 

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ホテルに荷物を置き外に出ると、遠くの山上には光る莞島タワーの姿が。

 

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食堂を探したところ、すぐ近くの「莞島ヘムルタン」というお店がまだ営業していました。
前述した理由で1人前のメニュー、ヘムルテンジャントゥッペギを注文。
ヘムルは「海鮮」、テンジャンは韓国式の味噌、トゥッペギは日本の韓国料理店でもよく出て来る1人分の黒い土鍋の意。大体どんな料理か想像できるかと思います。

 

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そしてやって来た、ヘムルテンジャントゥッペギ。
ヒオウギガイと思しき貝にハマグリが殻ごとごろごろと入った海鮮スープと麦飯のセット。海鮮ダシがしっかり出たスープは麦飯を投入し一滴残らずいただきます。うんまい。おかずにはコドゥンオ(サバ)焼きのサービスまで。お腹から幸せいっぱいです。

 

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こちらのお店「莞島ヘムルタン」は2021年現在も営業中のようで、営業時間は午前11時~午後10時。定休日はないようですが名節(旧正月・秋夕)はお休みかもしれません。「완도해물탕」で検索すると(同じ屋号のお店が莞島邑内に別にあるので注意)、ボリューミーかつおいしそうなヘムルチム(해물찜:シーフードを辛めのヤンニョムソースで蒸し煮した料理)が出てきます。次はこちらも食べてみたい。
それにしても午後10時閉店ということは、あの日は閉店間際にもかかわらず私を温かく迎えてくださったのですね……ただただ感謝。

莞島ヘムルタン(완도해물탕:全羅南道 莞島郡 莞島色 張保皐大路 256-1  (郡内里 1307))

 

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そうして莞島での初めての夜は更けてゆくのでした。

明けて、2019年12月1日 (日)の朝。
この日だけで2つの、それも互いに離れた離島を訪問する予定のため、夜明け前から行動を開始します。荷物はホテルの方が昼まで預かってくださることに。
この日最初の目的地は、莞島郡の南西部にある離島、所安島(소안도:ソアンド)にある展示施設です。
莞島邑の中心部近くには、多くの郡内の離島や済州島(チェジュド)行きのフェリーが発着する「莞島旅客船ターミナル」がありますが、所安島行きのフェリーはそこからは発着せず、莞島邑の中心部から少し離れた花興浦(ファフンポ)港からのみ乗船できます。

 

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そのためまず徒歩で向かったのは、昨夜に降り立った莞島共用バスターミナル。花興浦港でフェリーと接続する、莞島農協の運営による専用のシャトルバスが運行されているからです。今回は花興浦港を午前7時ちょうどに発つ所安島行きの始発便に乗りたいがため、こんな早起きとなってしまいました。

 

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とはいえあまりにも到着が早すぎたため、時刻はまだ午前5時台。バスターミナル周辺の飲食店はどこも開いておらず、また所安島でも食事できる保証はないことから、バスターミナルそばのセブン-イレブンで朝食をとることに。
購入したのは写真の「マシンヌンウドン」。生麺タイプの日本式カップうどんです。「マシンヌン」とは「おいしい」の意で、ラベルには日本語で「うまい」の文字も。普通においしかったです。

 

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そして午前6時40分、莞島農協のシャトルバスが発車。運賃はなんと片道500ウォン(約50円:当時。2021年11月現在は片道1,000ウォン(約100円)に値上げ)という破格の安さですが、T-moneyなどの交通系カードは一切使えず現金決済のみです。
バスの発車時刻はフェリーが花興浦港を発つ時刻の原則30分前。しかし、何故かこの便だけが20分前発車です。地図で見ると往路だけでもある程度の距離があるのに、それから乗船券を購入していたらあっという間に20分経過しそうな気がします。果たして待ってくれるのでしょうか……。

 

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そんな私の心配をよそにバスは10分ほどで花興浦港ターミナルに到着。それからチケット購入、乗船までの時間を含めても20分に満たず、私の乗るフェリー「大韓号」は無事出航とあいなりました。

 

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花興浦港を発って40分弱で写真の白い吊り橋をくぐり、まもなく港に接岸します。

 

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所安群島全図
こちらは所安島ではなく、最初の寄港地である蘆花島(노화도:ノファド)の東泉(トンチョン)港という港です。
蘆花島は、所安島などとともに所安群島を構成する離島であり、陸地からだと船でしかアクセスできませんが、「甫吉大橋(ポギルデキョ)」(先ほどくぐった吊り橋とは別)を通じて南側の甫吉島(보길도:ポギルド)と連結しており、車両を含め相互に往来することができます。
蘆花島と甫吉島はともにアワビの養殖で知られ、莞島をアワビの産地として全国にその名をとどろかせる原動力となっているほか、島民の所得も総じて高いのだといいます。最近たまに日本のスーパーで見かける韓国産の活きアワビは、蘆花島や甫吉島など莞島郡から出荷されたものだと思われます。
また、甫吉島は朝鮮時代の文人、尹善道(윤선도:ユン・ソンド、1587-1671、号は孤山(고산:コサン))が済州島へ行く途中、嵐を避けるためにたまたま立ち寄ったところその景観に魅了され、その後通算13年も過ごした島でもあり、その居宅跡や庭園を含む一帯は「甫吉島尹善道園林」として韓国の名勝第34号に指定されています。こちらもいつか訪問してみたいものです。
ちなみに先ほどの吊り橋は、蘆花島と隣接する小島、鳩島(구도:クド)を連結するもので、将来の蘆花島と所安島間の架橋計画の一部をなすものだそうです(鳩島~所安島間は未着工)

 

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花興浦港からおよそ50分、東泉港を出て約10分で、この日最初の目的地である所安島の所安港に到着。

 

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所安島は全域が莞島郡所安面(面(ミョン)は日本の「村」に相当する地方自治体)に属する島で、面積は23.16平方km、人口は約2,500人です。地図にあるように中央やや北寄りがくびれた形をしており、これはかつて2つの島だったものが砂洲で連結されたものだとされています。
所安島は朝鮮時代、済州牧使(チェジュモクサ。当時の地方行政単位であった牧 (モク)に派遣された官職)が本土と任地の済州島との間を船で往来する際、嵐に遭ったときに途中で立ち寄った場所「候風處(フプンチョ)」として利用されていました。特に所安島と済州島の間は外洋(朝鮮海峡)であり普段から波が荒く、命からがら所安島に到着した随行員たちがその度に安堵したことに「所安島」の名が由来するという説があるといいます。

 

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所安港には、「抗日의땅 解放의섬 소안도」(抗日の地 解放の島 所安島)と刻まれた写真の石碑が建てられています。
その碑文にある通り、所安島は日帝強占期の朝鮮でも有数の抗日運動が激しかった地域として知られています。所安島だけで89人もの独立運動家を生み、うち20人が韓国政府から建国勲章を受け国家有功者として認定されている、まさしく「抗日の島」の名にふさわしい場所です。
所安島は、咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在は朝鮮民主主義共和国領)の北青(プクチョン)慶尚南道キョンサンナムド)の東莱(トンネ。現在は釜山広域市の一部)とともに抗日運動が最も激しかった地域とされ、「抗日運動3大聖地」と並び称されています。実際、1920年代には当時6,000人あまりとされる当時の所安島の人口のうち、およそ800人が日本により「不逞鮮人」とされました。
「不逞」とは「勝手気ままに振る舞うこと」の意です。ちょうど同じ時期、1923年9月1日に発生した関東大震災の直後に約6,000人もの朝鮮人たちが無実の罪で虐殺された際、その行為を正当化するためのヘイトワードとして喧伝されたことをご存じの方も少なくないことでしょう。

 

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所安港には1台のバスがフェリーの客を待ち構えていました。所安島にはバス路線があり、その沿線上に目的地があることを事前に調べていた私はすかさず乗り込みますが、どうも車内の様子が変です。私以外はみな登山やトレッキングと思しき格好をした乗客ばかり。どうやらこちらのバス、同じフェリーに乗り合わせた団体の貸し切りだったようです。それでも親切なことに部外者の私をそのまま乗せていただき、無事に駕鶴里(カハンニ)にある目的地最寄りのバス停で下車することができました。ちなみに料金は1,000ウォンで、こちらも交通系カードは使用できないようです。

 

所安島中心部

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ここ駕鶴里、ちょうど島のくびれたあたりに位置するのが、目的地である「所安抗日運動記念館」です。
記念館の開館時刻である午前9時までは1時間近くあります。記念館一帯は抗日運動記念公園として開放されていることから、しばらくは辺りを散策することにします。

 

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記念館の正面には、「所安抗日運動紀念塔」と揮毫のある真っ白な塔が海に向かって建てられています。

 

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その左右には独立運動家の島民と思しき像や石碑なども。

 

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それでも時間が余ってしまったので、写真のバス停で雨宿りしつつしばらく開館を待っていたところ、1台の乗用車が駐車場に停まります。一人の男性が降りてきて記念館の玄関へ向かい始めたため、その方に話しかけることに。
その方は所安抗日運動記念館の館長であり、また記念館を運営する所安抗日運動記念事業会の会長でもある方で、館内に入った後は親切なことに展示物を自ら解説してくださるとのご提案が。もちろんお願いすることにしました。

 

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まずは所安島の歴史に関する十数分程度の映像コンテンツを視聴し、玄関ホールへ戻ります。ここには朝鮮全土での「3.1運動」発生地点をプロットした朝鮮半島の巨大な地図が掲げられていました。

 

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続いて展示室へ。

 

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展示室の天井には、独立運動の過程で用いられた複数デザインの太極旗が吊るされています。そのいずれも現在の韓国国旗である太極旗(写真右手前)とはやや異なるデザインです。

 

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高さ5mはあろうかというこちらのジオラマは、1909年に発生した「唐寺灯台襲撃事件」を再現したものです。
唐寺島(당사도:タンサド)は所安島の南西に浮かぶ小島で、事件当時は者只島(자지도:チャジド)、さらにその前は港門島(항문도:ハンムンド)と呼ばれていました。

 

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日本が武力にものを言わせて大韓帝国保護国化して4年が経過していた1909年1月、日本は唐寺島に灯台を設置します(写真:『所安面誌』より引用)。これは朝鮮人の便益のためではなく、あくまで日本商船の安全航行を目的としたものでした。

 

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それから2ヵ月も経たない同年2月24日、李準化(이준화:イ・ジュナ)氏ら所安島住民5名は唐寺島に上陸して灯台に突入、日本人職員4名を殺害し灯台施設を破壊します。これが「唐寺灯台襲撃事件」と呼ばれるものです。写真左側は後に日本人によって唐寺島に建てられた日本人職員の遭難記念碑、右側は1997年に建てられた抗日戦蹟碑です(『所安面誌』より引用)

 

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この事件には背景がありました。
灯台襲撃事件から遡ること15年前の1894年の「東学農民戦争」(東学農民革命、甲午農民戦争)のとき、東学接主(東学教徒の地域リーダー)の一人である羅成大(나성대:ナ・ソンデ)氏が東学軍を率いて所安島を訪れ、軍事訓練を実施したことがありました。このとき東学軍に合流したのがまさに灯台襲撃事件参加者の李準化氏ら東学教徒の島民たちであり、島民たちは食糧支援などにより東学軍を支援しています。しかし東学軍は日本軍と朝鮮の官軍に敗れ、所安島にいた東学軍も密告により駆けつけた官軍と衝突。仲間たちの犠牲を経つつも李準化氏は東学軍とともに島を脱出します。

1909年に韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根(안중근:アン・ジュングン、1879-1910)義士への態度などその最たるものですが、ほとんどの日本人は日帝強占期当時の朝鮮人による日本人殺害事件を語る度に顔をしかめ、その実行者をテロリスト呼ばわりし、そしてそれらを義挙と評価する韓国人を「異常」視したがる傾向にあります。いまこのエントリーを読んでいる貴方もその一人かもしれません。
殺人という行為が重大な罪であることは言うまでもありませんが、当時の朝鮮人たちがそれを実行したことにはやむにやまれぬ背景があることを決して見逃してはなりません。日本はこの当時すでに東学農民戦争で万単位もの朝鮮人を殺害し、武力を背景に韓国の国権を奪うという加害を繰り返してきたわけです。そしてそれは後の「3.1運動」という非暴力デモに対する虐殺にも連なります。もしそれらを理解したうえで彼らをテロリストだと断罪して罵り、それを評価する取り組みを「異常」視したがるのであれば、貴方はそうした虐殺や侵略に共感しているか、もしくは朝鮮人をそもそも対等な人間とみなしていないのかもしれません。

 

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前述したように所安島は89人もの独立運動家を輩出、うち20人が国家有功者として認定されています。展示室内には、それら国家有功者の略歴を添えたレリーフがずらりと並んでいます。

 

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所安島での抗日運動を語る際に決して欠かすことのできない代表的人物として、島出身の宋乃浩(송내호:ソン・ネホ、1895-1928)氏が挙げられます。写真は展示室入口から見て最も手前(向かって左)側に位置している、宋乃浩氏のレリーフ
宋乃浩氏は1913年、金景天(김경천:キム・ギョンチョン)氏らとともに朝鮮人向けの教育機関である私立中和学院を設立し、その教師となります。この中和学院を発展させたものが後述する私立所安学校であり、一貫して多くの独立運動家たちを輩出する源となりました。
その後1919年3月15日、宋乃浩氏はソウルのタプコル公園から始まった「3.1運動」のわずか半月後に、ここ莞島郡にて独立万歳運動を主導しています。これは所安島よりもずっとソウルに近い、あの柳寛順(유관순:ユ・グァンスン、1902-1920)烈士らが主導した忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)での「アウネ万歳運動」(4月1日)より半月も早いものでした。
1920年秋には満州で結成された武装闘争団体「大韓独立団」全羅支団の責任者となりますがこれが発覚して逮捕、1年半の収監を経て1922年末には抗日秘密結社「守議為親契」の結成を主導します。その後も「莞島ペダル青年会」への入会、「所安島労農連合大成会」「サルジャ会」「一心団」など複数の抗日組織を結成あるいは参加しつつ、その間には再び収監されることもありました。
さらに1927年には、左右合作の抗日独立運動団体として知られる「新幹会」の創立発起人35人の一人として参加、本部常務幹事に選出されます。しかし翌1928年秋には三たび逮捕されて懲役10ヵ月を宣告され、木浦(モッポ)刑務所での服役中に肺結核の悪化による保釈を経て、同年12月20日にソウルのセブランス病院にて33年の短い生涯を終えています。短いながらも祖国を愛し、その独立のために持てるすべてを捧げたと言っても過言ではない生涯でした。

 

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展示室の順路の終わり近く、写真のパネルにある五線譜付きの歌詞は「離別歌」(이별가:イビョルガ)といい、私立所安学校の教育方針に感銘を受け、東亜日報の地方部長の職を辞してまで後進たちの教育に身を投じた李時琓(이시완:イ・シワン)氏が作詞作曲したものです。
前述したように、私立所安学校は宋乃浩氏らが設立した中和学院がその前身であり、所安面民の寄付をもとに1923年に開校したものです。当時、所安島にはすでに日本が設立した公立学校もありましたが、その教育方針から遠くは本土や済州島からも入学希望者が来るほどでした。同校が語られる際、必ず「私立」の語が冒頭に添えられるのはこうした経緯があるためです。
かねてから所安学校を快く思っていなかった日本は1927年、祝日に日の丸を掲揚しなかったことなどを理由に、同校を強制的に閉鎖させます。これに伴い所安島を去ることを余儀なくされた李時琓氏の辛く悲しい心情を歌にしたものが、この「離別歌」だとされています。

会長様がこのパネルを案内された直後、突然この「離別歌」を一緒に歌おうと持ち掛けます。メロディも分からない私はただあわてるばかりでしたが、幸い歌詞は読めるので、会長様のリードで一緒に歌うこととなりました。展示施設の館内で歌ったのは人生で初めてのことです。

 

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いったん記念館を出て向かったのは、所安抗日運動記念塔を挟んだ向かい側にある私立所安学校の木造校舎。記念館の開館とあわせて2003年に復元された建物です。

 

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校舎の玄関前には、写真の鐘が吊るされています。
これは当時の私立所安学校にて用いられていたものだそうで、訪問者はこの鐘を鳴らして記念写真を撮るのが習わしになっているそうです。私も会長様に撮っていただきました。

 

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鍵のかかっていた校舎の内部にも入れてもらえました。現在は「私立所安学校チャグン図書館」(チャグンは「小さな」の意)などに用いられており、月曜日と公休日以外は開放されているそうです。

 

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こちらの施設「所安抗日運動記念館」の開館時間は午前9時~午後6時、毎週月曜日休館。入場料は無料です。
島内には私がこの日の朝に乗った「所安旅客(소안여객)」のマウルバスが定時運行しているようですが、2021年現在の時刻表が見つからないうえ、最終便を除けば所安港ではなく約25分ほど歩いた榧子里(ピジャリ)始発のようですので(2019年時点)所安港から歩いて約40分(約2.6km)で到達できる記念館まで直接向かった方が早いかもしれません。

所安抗日運動記念館(소안항일운동기념관:全羅南道 莞島郡 所安面 所安路 263 (駕鶴里 259))

 

帰りがけ、なんと会長様が所安港まで車を手配してくださることに。しかもその途中で宋乃浩氏の墓所にも寄っていただけるとのこと。ただただ感謝です。まもなく女性の方が運転する乗用車が到着、同乗することとなりました。

 

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まず停車したのは、島の中心地でもある榧子里に立つ写真の石塔。色と少し小さめのサイズを除けば、記念館の前にあった所安抗日運動紀念塔と全く同じ形です。
それもそのはずで、こちらの方がオリジナルの所安抗日運動紀念塔であり、島民の寄付により1990年に建立されたものなのです。その後、2003年に国の予算で所安抗日運動記念館が建設されることになった際、すでになじみのあるこの塔を移すことはせず、新たに同じデザインの塔を記念館前に建てたとのこと。

 

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コンクリート製と思われる白一色の記念館前の塔とは異なり、こちらは所安島の海岸で採取したという黒と白の天然石を積んで造られています。うち黒い石は日帝の弾圧を、また白い石はかつて「白衣民族」と呼ばれた韓国人(朝鮮人)の純潔さを、そして3つに分かれた塔の形は日本に対する強烈な抵抗をそれぞれ象徴しているとのことです。

 

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再び車に乗り込み、到着したのは所安港からも近い、梨月里(イウォルリ)のなだらかな傾斜のある山中。
こちらに、宋乃浩氏を含む宋氏一族の墓所があります。

 

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写真1枚目は宋乃浩氏の墓石。その向かって右隣には、兄と同じく独立運動に身を投じ、その兄と同じ年に亡くなった宋乃浩氏の弟、宋琪浩(송기호:ソン・ギホ、1899-1928)氏の墓石もありました。
会長様と二人で、黙祷を捧げます。

 

f:id:gashin_shoutan:20211113224806j:plain宋乃浩氏の墓所から所安港へと向かう途中の海岸べりの道沿いには、韓国の国旗、太極旗が数メートルおきに何本も立ち、翻っていました。

 

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所安島はこうした道路沿いのほか、民家でも24時間365日ずっと太極旗を掲げており、「太極旗の島」と呼ばれることもあります。抗日の島らしい風景だと思います。
太極旗を掲揚すべき日については、大韓民国国旗法により所定の国慶日・記念日のほか、指定した日などが規定されていますが、このほか「地方自治団体が条例または地方議会の議決で定める日」というものがあるため、莞島郡に働きかけて所安島では24時間いつでも太極旗を掲揚できるような条例を定めたとのことです。そしてその立役者となったのが、まさにご一緒している会長様だったことを後になって知りました。
そうして現在、ここ所安島では道路沿いや各家屋など、実に1,500本もの太極旗が昼夜を問わずはためいています。

 

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その後は所安港で車を降り、所安島の再訪を近いつつ会長様と別れ、お二人の車を見送ります。
親切かつ外国人の私にもわかりやすい丁寧な解説のおかげで、所安島の抗日の歴史により理解が深まるとともに、ますます史実を知りたいと思うようになりました。「離別歌」を一緒に歌ったことは忘れられない思い出です。会長様、本当にありがとうございました。
そういえばこの日、次の目的地があるため所安島訪問が泊りがけでないと話したとき、会長様が少し残念そうにされていたのが印象に残っています。この日はわずか4時間ほどの滞在でしたが、次こそは必ずや泊りがけで所安島を訪問するとともに、灯台襲撃事件の現場である唐寺島も訪問するつもりです。

 

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そして所安港を正午に発つ「万歳号」で、花興浦港へと戻るのでした。
花興浦港と所安島を結ぶフェリーは3隻体制で、この日の朝に乗った「大韓号」と「民国号」、そして写真の「万歳号」の名前が付けられています。「抗日の地、解放の島」への交通手段にふさわしい船名だと私は思います。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

【2021.12.04 付記】

所安抗日運動記念館のダウムカフェで、この日お世話になった会長様が本年11月17日に急逝したという訃報を知りました。
会長様は昨年3月に所安抗日運動記念事業会の会長職を他の方に譲られた後も、私のときと同様に記念館の訪問者に対し手厚い案内をされていたそうです。またご自身のFacebookアカウントでは、亡くなる2日前まで所安島に関する投稿を精力的になされていました。
私が所安島を訪問した2019年当時は、安倍政権が韓国政府に対し三権分立を無視した徴用工裁判の判決への介入を迫り、拒否されるや「ホワイト国」除外という筋違いの経済報復による韓国への敵対政策が進行されていた時期であり、現在へと至る挙国一致の韓国(人)憎悪が醸成されていた時節でした。会長様もそのことはご存じであったに違いないでしょう。にもかかわらず、その日本からやって来た私を歓待してくださったことについてはただただ感謝の意とともに、この国で私が無力であることの罪悪感を抱くばかりでした。

会長様。あの日、直々に記念館の展示物を案内され記念写真を撮っていただいたこと、記念館で「離別歌」を一緒に歌ったこと、そして港へ送っていただく途中で宋乃浩氏の墓所を一緒に訪れ黙祷した思い出は生涯忘れないつもりです。本当にありがとうございました。
私は史実の記憶継承という会長様の遺志をこの国で引き継ぐとともに、それを否定しようとする者たちに残る生涯抗ってゆくことを誓います。

仁川の旅[201910_01] - 仁川・富平、戦時中の朝鮮人強制徴用を記憶する「サムヌンマウル」の「三菱チュル社宅」

今回は、本エントリー公開日のちょうど2年前、2019年10月31日(木)に訪問した仁川広域市の旅をお届けいたします。
今回の仁川訪問は、この日から予定していたフランスの旅に先立ち、仁川国際空港での約9時間のトランジットの合間を利用したものです。もっと短い時間設定も可能でしたが、せっかく仁川国際空港を経由するのならばいったん韓国に入国し、少しだけでも韓旅を味わいたかったのというのが理由です。加えて仁川市内にはかねてからどうしても訪問したかった場所があり、今回はその念願を達成することとした次第です。

 

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まずは、午前2時に羽田空港を発つ大韓航空のKL720便に搭乗。ほぼ同じ時間帯に同じ区間を飛ぶピーチの深夜便は何度も利用したことがあるものの、こちらの利用は初めてです。
それにしても、離陸して少し後のウトウトしていた中、まさか深夜にもかかわらず機内食が配られるのにはびっくりしましたLCCのピーチでは当然に出ないので)。さすがはレガシーキャリア
仁川国際空港に到着し、午前5時過ぎに入国手続き完了。羽田で預けた荷物はそのままパリまで行くので身軽です。シャルル・ド・ゴール空港行きの便の出発は午後2時なので9時間近い時間がありますが、仁川市内での移動や目的地のひとつである展示施設の観覧時間を考えると、それほど余裕はありません。
私が空を飛んでいた間、沖縄では首里城が火災で全焼したというニュースが。仁川国際空港でそのことを知り、激しい衝撃を受けた記憶があります。

 

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まずは最初の目的地である、朝食目当てのお店へ移動。このお店は空港と同じ仁川広域市中区(チュング)、チャイナタウンなどもある仁川の原都心(ウォンドシム、旧来の市街地)にあるのですが、同区内にもかかわらず直行する鉄道がないため、移動はひと苦労です。
まずは空港鉄道の一般列車の始発に乗って黔岩(コマム)駅へ移動し、ここで仁川地下鉄2号線に乗り換えて朱安(チュアン)駅へ移動、さらに首都圏電鉄1号線(Korail京仁線 (キョンインソン))に乗り換えて終着の仁川駅で下車。この移動だけで約1時間20分を要します。一応は空港から原都心へ直行する市内バスもあるのですが、所要時間が10分程度しか縮まらないうえ、バスゆえに渋滞という不確定要素もあるため(しかもこの日は平日)、鉄道での移動を選択した次第です。とはいえ、これで貴重な時間の約8分の1を費やしてしまったという……

 

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Korail仁川駅には写真のようなコインロッカーがあります。前回の訪問時には撮り忘れたので紹介。駅の規模のわりに少ないですが……。

 

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仁川駅を出てからは徒歩で。駅前のチャイナタウン、また中区庁一帯の大韓帝国時代から日帝強占期に建てられた近代建築が立ち並ぶエリアを突っ切るルートです。写真は仁川駅前にあるチャイナタウンのゲート。

 

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思えばこのあたりは2017年4月に訪問して以来。文化財に指定されている大韓帝国末期から日帝強占期の近代建築の数々を横目に眺めつつ、歩みを進めます。写真は順に「仁川善隣洞共和春」(現・チャジャン麺博物館:国家登録文化財第246号)、「旧仁川府庁舎」(現・中区庁庁舎:国家登録文化財第249号)、「旧)仁川日本第18銀行支店」(現・仁川開港場近代建築展示館:仁川広域市有形文化財第50号)、そして「「旧)日本第58銀行支店」仁川広域市有形文化財第19号)

 

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その途中には前回の訪問時に利用した、1962年創業のキムチチゲー本勝負のお店「ミョンウォルチッ(명월집)」も。オープンは午前7時半なので、まだお店のドアは閉ざされています。少し待って再びあのうんまいキムチチゲを食べたい衝動に駆られますが、今回は目当てのお店優先ですので我慢して通過します。

 

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そうして約20分ほどで到着したのが、写真のお店「新浦家庭式白飯」(シンポ・ガジョンシク・ペッパン)。
新浦とはこの一帯の地名、白飯とは日本でいう「定食」に近いニュアンスの言葉で、その名の通り韓国の家庭で作るようなおかずの数々を、それもビュッフェ形式で好きなだけ食べられるという実にありがたい飲食店です。そのうえ午前6時から営業しているので、こんな早朝からでも直ちにご飯にありつけるというわけです。

 

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店内。十数種類ものおかずが入るケースが並んでいます。どれから食べようかワクワクしてしまいます。ビュッフェ、なんでこんなに楽しいんでしょうね。

 

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鶏卵フライ(ケランフライ:目玉焼き)コーナーも。こちらはお願いすると店員さんが焼いてくださいます。

 

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とりあえず、最初はこれだけ盛ってきました。じゅるり。
ぱくり。こちらのおかず、こんなにたくさんの種類があるのに、どれひとつハズレがないのです。総じてうんまい。これはリピート決定です。この後も1皿程度おかわりしてまいりました。

 

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こちらのお店「新浦家庭式白飯」の営業時間は午前6時~午後8時、日曜日も含め毎日営業しています(旧正月や秋夕の営業は不明)。Korail仁川駅からは徒歩約20分で到達できます。
私が注文した、おかず取り放題の韓定食ビュッフェ(한정식 부페)はなんと6,000ウォン(約570円:2021年10月現在)と、かなりリーズナブルです。地元の方の評判もよいようで、仁川原都心の訪問時にはおすすめのお店です。

新浦家庭式白飯(신포가정식백반:仁川広域市 中区 済物梁路166番キル 6 (新生洞 7-16))

 

新浦家庭式白飯を出て再び徒歩で仁川駅へ戻り、今度は首都圏電鉄1号線で約25分、この日最大の目的地である富平区(プピョング)の富平駅へ移動します。日本では市や特別区に相当する広域市の区の代表駅だけに、なかなか立派です(写真はないですが……)

 

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富平駅から徒歩約15分ほどで、写真の場所に到達します。

 

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閑静な住宅街の中に、古びた長屋が4棟ほど平行に並んでいるこの一帯は、俗に「三菱(サムヌン)マウル」(삼릉마을:マウルは「村、集落」の意)と呼ばれています。
「三菱」とは言うまでもなく、日帝強占期当時の日本有数の財閥であり、今日も一大企業グループを構成する、あの三菱のことです(サムヌンは「三菱」の韓国語読み)。
なぜ「三菱」なのかというと、これら長屋はかつての日帝強占期にここ富平にあった三菱製鋼の社宅であったからで、何世帯分もの部屋が一列に連なったその形態から一般に「三菱チュル社宅(サテク)」(미쓰비시 줄사택:チュルは「列」の意)と呼ばれています。

 

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このサムヌン、現在は地域一帯の通称となっており、チュル社宅近くの店舗などにも「삼릉」あるいは同じ発音の「삼능」を屋号にした店舗(写真)を複数見かけました。

 

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これらチュル社宅は、元々は当地に工場を持っていた弘中商工という会社の朝鮮人労働者向け社宅で、1938年頃に建てられたものです(写真は後述する「富平歴史博物館」の展示パネル)
ここ富平は、朝鮮総督府もあった朝鮮最大の都市、京城(ソウル)と一大港湾であった仁川港との中間地点に位置し、しかも両都市を結ぶ鉄道路線である京仁線の沿線という地理的好条件から、弘中商工のような第二次産業の工場が立地するようになったとされています。
1941年、すでに中国との戦争中であった日本陸軍は富平の立地条件に着目し、植民地地域では初となる造兵廠(ぞうへいしょう:弾薬などの軍需品を生産する公設工場) 、「仁川日本陸軍造兵廠第1製造所」を開設します。その翌年には弘中商工の工場が三菱製鋼に売却され、強制徴用者を含む朝鮮人労働者たちを使役しつつ操業を続けます。この頃、朝鮮人徴用工たちが疲労困憊した身体をなだめつつ暮らしていたのが、まさにこれらチュル社宅であったわけです。

 

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1945年8月の光復(日本の敗戦による解放)により三菱製鋼は撤退、残されたチュル社宅は朝鮮人たちの住宅として用いられます(写真は1946年当時の三菱チュル社宅(手前)と旧三菱製鋼工場(奥中央)の空撮、富平歴史博物館の展示パネルより)

 

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その後、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)や高度経済成長期を経つつ、市民たちは自分の居住空間を補修し、あるいは部分的に増築するようになります。ところどころ屋根の色や形が異なるのはそのためです(写真は2016年の三菱チュル社宅の空撮、富平歴史博物館の展示パネルより)。しかし補修スピードを上回る経年劣化に加え、周囲の近代的な住宅やアパートに比べると居室が狭いなど著しく居住性に劣ることから、住民たちは少しずつチュル社宅を離れるようになります。

 

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そうしてほぼ無人状態となった今日では、経年劣化に加え違法投棄されたゴミなどにより一部では崩壊や汚損が進むなどし、近隣住民にとっては「凶物」(흉물:ヒュンムル。「凶悪な人」の意。転じて老朽化等により危険な状態の建物を指す)とされる存在となります。その結果、以前は23棟あったというチュル社宅は次々と解体され、私が訪問した2019年秋の時点ではチュル社宅4棟(先の空撮写真の展示パネル手前側の4棟)と、当時の日本人向け社宅1棟(2世帯で分割使用。チュル社宅の北側に現存。この日は知らなかったため訪問せず)が残るばかりとなっていました(写真は日本人向け社宅1棟。写真引用元:『부평 미쓰비시 줄사택 및 2호사택 기록화 조사보고서(富平三菱チュル社宅および2戸社宅記録化調査報告書)』仁川広域市富平区、2021)
一方、前述した経緯からチュル社宅は貴重な歴史的資料ということができ、学界や市民団体などからは保存を希望する声が上がるようになります。富平区ではこれを受け、チュル社宅の保存による「三菱チュル住宅生活史博物館」事業を推進しましたが、住民たちの反対により頓挫します。
その後の計画変更により4棟のチュル住宅を翌2020年までに全撤去し、跡地を公営駐車場として活用する方針が決定。私が訪れた2019年秋の時点で、これらチュル住宅は早ければ翌年中にも思い出の中に消える運命にありました。

 

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チュル社宅を巡ることにします。
写真のあたりはきれいに整っていて、最近まで暮らしていた方がいたのかもしれません。

 

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チュル社宅、スレート葺きの屋根。

 

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チュル社宅に隣接する土地では建物の新築工事が。あの土地にも少し前まではチュル社宅が残っていました。

 

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前述したように、世帯ごとに屋根の補修具合が異なるのがよく分かります。
もうすでに主はいませんが、ひとつひとつの世帯には道路名住所(紺色の五角形の標識)が振られています。現存する三菱チュル社宅4棟は、10戸が連なった2棟と4戸が連なった2棟により構成されています。

 

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チュル社宅に挟まれた狭い路地を歩きます。

 

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先ほどの路地が玄関側なら、こちらは各戸の裏側に当たる路地。

 

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中には部分的に崩れ、文字通り「凶物」となっている場所もありました。

 

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チュル社宅に掲げられていた「建築概要」の看板。「사업명(事業名)」欄にある「새뜰마을(セットゥルマウル)」とはサムヌンマウルの別名です。

 

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昨年(2020年)10月、三菱チュル社宅は日帝強占期の強制徴用労働者の実像を示す近代文化遺産であり、文化財登録等による保存を検討してほしいとの旨の公文書を韓国文化財庁が仁川広域市と富平区に対し発出したことで、その保存に関する論議が再燃します。
当初計画通りの全撤去案、一部を保存して残りを駐車場とする部分保存案、そして駐車場用地を別に確保する全部保存案が比較検討された結果、本年(2021年)9月には一転して全部保存案でほぼ合意に達することとなります。全撤去を望んでいた住民たちが一転して保存に同意したのは、たとえ駐車場が遠くなってもチュル社宅が登録文化財に指定されれば文化財庁から費用支援が受けられチュル社宅の危険箇所の補修が期待できるためという要素も大きいようです。
保存すべきかどうかはあくまで韓国の人々が決めるべきことであり、私は口を出せる立場にはありません。ただ個人的には、この強制徴用という痛みの歴史の現場である三菱チュル社宅が今後も保存されるとともに、地域住民の方々にとっても最善の解決策がなされることを願うばかりです。

三菱チュル社宅(サムヌンマウル)(미쓰비시 줄사택(삼릉마을):仁川広域市 富平区 富栄路 21-127 (富平洞 760-286) 一帯)

 

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チュル社宅を出て北へ向かい、京仁線を越えて次に向かったのは「富平公園(プピョン・ゴンウォン)」。
この富平公園こそが、まさしく弘中商工を経て三菱製鋼により運営された工場の跡地なのです。

 

f:id:gashin_shoutan:20211014213453j:plain写真は富平歴史博物館の展示パネルで、1993年に旧三菱製鋼の工場建物を撮ったもの。このように現在の富平公園一帯には1990年代前半まで当時の建物が残っていたようですが、現在はすべて解体、撤去されています。

 

f:id:gashin_shoutan:20211014212704j:plainその富平公園の中には2組、計3体の像が建てられています。
どちらも戦時中、また戦後70年あまりを経て今日もなお日本人たちに蹂躙され続けている人々を象った像です。

 

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まずひとつは「仁川平和の少女像」。
日本軍性奴隷制度の被害者、いわゆる元「慰安婦」の方々の受けた被害を記憶し、その名誉と人権を回復するためのもので、みなさまもご存じの椅子に腰掛けた「平和の少女像」(キム・ソギョン(김서경)、キム・ウンソン(김운성)夫妻作)とは異なる作者、キム・チャンギ(김창기)氏の手になる立像です。

 

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そしてもうひとつは「仁川日帝強占期徴用労働者像『解放の予感』」。
その名の通り日帝強占期に徴用された朝鮮人労働者らしき男性、そしてその家族と思しき女性の2体により構成される像です。かつての徴用の現場たるここ富平公園は、こちらの像が立つ場として最もふさわしい場所だといえるでしょう。

富平公園(부평공원:仁川広域市 富平区 富平洞。リンク先は像のある場所)

 

次の目的地も富平区内にありますが、距離があるうえ時間の制約があるため、タクシーで移動します。

 

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到着したのは「富平歴史博物館」。
先史時代から現代に至るまでの富平の歴史を紹介するこちらの博物館は、日帝強占期における朝鮮人たちの暮らしに関する資料の展示にかなりのスペースを割いていると知り、今回訪問したものです。
コロナ明けにはどうしても訪問いただきたい展示施設であるため、展示物の詳細にはあえて触れないこととしますが、その中でもどうしても言及しておきたい展示物に限り紹介します。

 

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数ある博物館の展示物の中でも圧巻というべき存在は、日帝強占期当時の「三菱チュル住宅」を原寸大で再現し、その断面を示したた写真の建物です。

 

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1世帯のあまりもの狭さが見て取れるかと思います。玄関には男性を見送る妻らしき女性、外には何かの遊びにふけっているような子どもたちの再現人形が。男性は三菱製鋼の労働者でしょうか。

 

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この日、富平歴史博物館の1階では特別展示「ハロー・アスコムシティ、グッバイ・キャンプマーケット」が開催されていました。

 

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前述した日本陸軍造兵廠は光復後に米軍に接収され、その建物群は米軍基地「アスコムシティ」として用いられました。アスコム(ASCOM)とは「Army Support Command Korea」の略で、当初は「シティ」の名の通り都市レベルで大規模な施設であったといいます。その後1970年代前半、アスコムシティの機能が縮小された際に「キャンプマーケット」と改称され、さらに2002年にはキャンプマーケットの部隊が京畿道(キョンギド) 平沢(ピョンテク)市へ移転することが決定。その後は韓国内の米軍基地へ配給するパン工場として操業しつつ、2019年(私の訪問直後)には半分弱の敷地が韓国に返還されています。この特別展示はその返還を目前に控えたタイミングであることから開催されていたようです。

 

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特別展示の一角には、洋盤のレコードやドラムセットなど、韓国の大衆音楽に関する展示がありました。
まだアスコムシティと呼ばれていた頃、その周辺には米兵を主な客層とした40軒あまりものクラブが立地していたそうで、全国から富平に集結したミュージシャンたちがその舞台に立つべく毎晩しのぎを削っていたといいます。そうした中で流行音楽の多くが当地を介して全国に広まり、またそれらミュージシャンたちが後にスターダムにのし上がったことなどから、富平を含む仁川はいつしか「韓国の大衆音楽の産室」と呼ばれるようになり、私が訪問した2019年には「第1回アスコムブルース・フェスティバル」も開催されています(本年・2021年11月に「第3回アスコムブルース・フェスティバル」が開催予定)

富平区では現在、来年(2022年)春に予定されている全面返還後のキャンプマーケット敷地の利用を巡り、対立が生じているといいます。汚染された土壌を浄化しやすくするため旧造兵廠関連を含む全建物を解体し、その後に敷地を活用しようとする仁川広域市などの立場と、その歴史的価値から旧造兵廠関連の建物を保存すべきという立場との対立です。
個人的には日本の植民地支配と軍事的野望の象徴というべきこれら建物を残してほしいという思いはありますが、私は利害関係者ではなく、口出しできる立場にありません。支配した側の子孫であるという意味ではなおさらです。それはあくまで韓国の人々が決めるべきことなのです。
なお、かつての造兵廠関連の建物で現存するのは日本の相模造兵廠とここ富平造兵廠だけだといい、両者ともに米軍に接収されたため解体を免れたという共通点があります。その中で米軍撤退により一般市民が訪問できる可能性が生じているのは、いまのところ富平だけです。

 

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こちらの施設「富平歴史博物館」の開館時間は午前9時~午後6時(午後5時に入館締切)、月曜日(公休日の場合は翌日)と元日、名節(旧正月・秋夕)当日は休館。入場料はなんと無料です。私と同様、三菱チュル住宅や富平公園の像とあわせてのご訪問を強くおすすめいたします。

富平歴史博物館(부평역사박물관:仁川広域市 富平区 屈浦路151 (三山洞 451-1))

 

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富平歴史博物館を出てからは首都圏電鉄7号線と仁川地下鉄1号線、空港鉄道を乗り継ぎ再び仁川国際空港第2ターミナルへ。
そして午後2時発のシャルル・ド・ゴール空港行きKE901便(エアバスA380)に搭乗し、パリへと向かうのでした。

 

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仁川国際空港から約10時間半かけてシャルル・ド・ゴール空港に到着して以降は、私の大好きなこちらのアニメの舞台の題材となったアルザス地方の小都市コルマール(写真1-2枚目)、同地方の代表都市ストラスブール(写真3枚目:ストラスブール大聖堂、そして首都パリ(4枚目:エッフェル塔を訪問。うちパリでは在仏韓人が多く暮らしている15区を重点的に訪問してまいりました。いずれも思い出深い旅となったのですが、本ブログのメインテーマたる韓旅とは異なるうえ、その韓旅すら満足に紹介できていない状況のため、今回は簡単な紹介に留めておきたいと思います。とはいえいずれ余裕が生まれた際には、紹介できる機会もあるかもしれません。ご興味のある方は気長にお待ちいただけますと幸いです。

 

2019年10月の仁川広域市の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2019年11~12月の全羅南道(チョルラナムド)莞島(ワンド)郡などの旅をお送りする予定です。

順天の旅[201812_07] - 韓国南海沿いの旅最強の中継都市・順天、そして旅の締めはあの酒場とソルロンタン

前回のエントリーの続きです。

2018年11~12月の慶尚南道(キョンサンナムド)統営(トンヨン)市の離島などを巡る旅の3日目、2018年12月2日 (日)です。

 

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高速バスで統営総合バスターミナルを発ち、約2時間20分で到着したのは全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の順天総合バスターミナル。

 

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順天は、他の都市ではかなり離れていることの多いバスターミナルと鉄道駅が比較的近くにあるうえ、両者を結ぶ市内バスの便数もやたら多く(しかも順天駅前のバス停からだと全便がバスターミナルを通る)、加えてその中間に定宿を含むホテル街、そして大好きな酒場(後述します)を擁する在来市場があることから、韓国南部、南海(ナメ。朝鮮海峡など韓国が南岸で接している海の総称)沿いの旅の中継都市として好んで立ち寄っています。他に類を見ない順天という街の優位性がここにあります。
統営からより近い釜山を中継地点にすることも検討したのですが、釜山西部バスターミナルのある沙上(ササン)とKTX釜山駅は相当な距離があり、このロスタイムを考慮すると順天と大差ないことも今回の選択の理由のひとつです。

 

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ホテルに荷物を置き、まずはすぐ近くにある在来市場「アレッチャン」へ。
「下の市」を意味するアレッチャンでは、末尾が2または7の日に五日市(韓国では五日場(オーイルジャン)という)が開催されます。この日(12月2日)はまさに五日市の日。アレッチャンの五日市は韓国に無数にあるそれらの中でも最大級のひとつだといい、広い市場の敷地が露店でぎっしりと埋まるほか、場内に入りきれなかった露店が近隣の路上にまであふれるほどです。大好きな韓国の市場の雰囲気をしばし味わいます。

 

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続いて市内バスに乗り、市南西部の別良面(ピョルリャンミョン)へ移動。面(ミョン)とは日本でいう「村」に相当する地方自治体ですが、韓国では市に属するケースも多々あります。写真は別良面事務所(日本の「村役場」に相当)の建物。

 

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別良面事務所の真向かいにある飲食店。年配の女性が何故か体育座りをした写真入りのインパクトある看板、しかも屋号が「욕보할매집」(ヨッポハルメチッ。「悪口おばあさんの店」の意)とこれまたすごい。
こちらのお店、調べたところどうやらチュックミポックム(쭈꾸미볶음:イイダコ炒め)などで有名な店らしく、屋号で検索するとおいしそうな料理の数々、そして髪を真っ赤に染めたご主人(たぶん看板写真の女性)の登場する食レポがたくさん引っ掛かります。機会があれば訪れてみたいですが、「悪口おばあさん」はちょっと怖い気もします.....。

 

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別良面を訪れたのは、同面内にある2つの国家登録文化財を訪問したかったから。
ひとつめの文化財は、別良面事務所のある別良面の中心部から少し離れています。なので、徒歩でそこまで移動。単線非電化のKorail慶全線(キョンジョンソン)に沿って、あるいは踏切を渡ったりしつつ歩きます。

 

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そうして到着したのは、Korail元倉(ウォンチャン)駅。1933年築というその駅舎が国家登録文化財第128号に指定されています。
元倉駅は、慶全線の順天駅と筏橋(ポルギョ)駅の間にある休止駅です。1930年に南朝鮮鉄道光麗線(現・慶全線)とあわせて開業しましたが、その後の利用客減少に伴い2007年に旅客扱いを中止したため、現在はすべての列車が通過します。もっとも駅構内には線路が2本あることから単線である慶全線の列車交換の場として現在も使用されているとのことです。

 

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当時の駅務室エリアを含め、駅舎内には自由に立ち入ることができます。内部にあったはずの物品はすべて撤去されており、がらんどうになっています。

 

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かつての券売所のガラス板には、2002年韓日ワールドカップのステッカーが。当時はまだ旅客扱いをしていました。

 

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構内には作業用?の車両も。

 

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韓国には、この元倉駅のように国家登録文化財に指定された木造建築の駅舎が全国に12件存在します(2021年10月現在)。その中には蔚山(ウルサン)広域市蔚州(ウルジュ)郡、Korail東海南部線(トンヘナンブソン)の南倉(ナムチャン)駅(写真1枚目)のように現役の駅(ただし現在の駅舎は別途新築)もあれば、元倉駅のような休止駅もあり、そして全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市Korail長項線(チャンハンソン)の臨陂(イムピ)駅(写真2枚目)のような廃駅(2018年1月の訪問当時は休止駅)もあります。また、忠清南道(チュンチョンナムド) 保寧(ポリョン)市、Korail長項線の青所(チョンソ)駅(写真3枚目)のように、現役ながらも複線電鉄化により近日中の廃止が決定している駅も存在します。
個人的にはこうした韓国の木造駅舎に関心があり、これからも訪問してゆく予定です。

 

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元倉駅からは再び歩いて別良面事務所方面へ戻り、その途中にふたつめの文化財があります。
それが写真の建物「順天別良農協倉庫」で、国家登録文化財第224号に指定されています。現在はその名の通り別良農協の倉庫として用いられているこちらの建物は、日帝強占期に別良支所金融組合の倉庫として建てられたものです。当時、順天地域で生産された米を搬出に先立ち保管していた場所であり、すなわち収奪の現場のひとつです。
こうした一見何の変哲もない倉庫であっても、その歴史性をみて国の登録文化財として保存するところに、韓国の文化財保存への姿勢をうかがい知ることができます。

別良面事務所方面の先の国道2号線のバス停から88番バスに乗ります。余談ですがこの88番バスは順天中心部と別良面、そして宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウブ。邑は日本の町に相当する地方自治体)を結ぶもので、日に4往復しかないムグンファ号に代わり順天市と筏橋邑を結ぶ公共交通機関として働いています。

 

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順天総合バスターミナル前のバス停でバスを乗り換え、到着したのは順天市の原都心(ウォンドシム、旧来の市街地)。
かつてこの原都心一帯には、「順天府邑城」(순천부읍성:スンチョンブ・ウプソン)が存在していました。邑城とは倭寇などの侵入を防ぐため、客舎(객사:ケクサ。官衙では最上級の施設)など主要施設を含む市街地を城壁で囲んだものをいいます。朝鮮半島の随所に築かれていたこれら邑城も、日帝強占期に市街地拡大や道路拡幅などの名目でことごとく破壊されてしまい、現存するものはこちらのエントリーで紹介した「楽安邑城」(낙안입성:ナガン・ウプソン)などごくわずかです。
順天府邑城もその例に漏れず日帝強占期に破壊され、現在は跡形もありませんが、その城壁址は道路として、また法定洞(日本でいう「●●市●●町」に相当)の区画として残っています(地図)。また、そのうち西門(ソムン)址付近は一部が記念庭園となっており、記念庭園の建物は屋上が通路になっています。その一部には灯籠のようなものがつるされたスペースが。幻想的です(2018年10月撮影)。

 

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記念庭園そばの民家の屋上に立つ、ナゾの像。目がらんらんと輝いています。これは一体何者なのでしょうか。

 

奇しくもこの日、かつての順天府邑城跡、およびその北側にある「梅谷洞(メゴットン)」一帯では、「梅山洞(メサンドン) キョウリヤギ」(매산동 겨울이야기:キョウリヤギとは「冬物語」の意)というイベントが開催されていました。
梅山洞キョウリヤギとは、2016年に始まった「順天文化財タルビッイヤギ」(순천문화재달빛이야기:タルビッとは「月の光」の意)の一環で開催されていたもので、梅谷洞の中でも南端近くの梅山中学校一帯(ここを特に「梅山洞」とも呼ぶ)に点在する、20世紀初頭に海外宣教師により建てられた近代建築をはじめとする順天の歴史を紹介し、その夜の姿を巡ることを目的としたイベントです。
全羅南道での海外宣教師の活動拠点としては、こちらのエントリーでも紹介した光州(クァンジュ)広域市南区(ナムグ)の楊林洞(ヤンニムドン)が有名ですが、実は順天の梅谷洞もそれに続く宣教の拠点となった場所であり、楊林洞と同様に近代建築が今日も残っているのです。全羅道におけるキリスト教宣教活動は、米国南長老会という宗派がその主力となりました。米国南長老会の宣教師たちは全羅北道の群山に始まり、同道の全州(チョンジュ)、全羅南道木浦(モッポ)光州の順に宣教活動を進行、これらを経た1910年頃に新たな活動拠点として全羅南道東部の都市である順天に進出します。順天では他の都市と同様に近代的な建築様式による学校や病院を次々と建設し、地域住民への教育や医療活動に従事します。
この頃に並行して進められていた日本による植民地支配下での投資や開発が、あくまで進出した日本人たちの生活、または鉱産資源や農産物などの収奪のための便宜に徹底していたのに対し、米国南長老会の宣教師たちの活動はキリスト教布教が第一の目的であったとはいえ、地域住民すなわち朝鮮人たちにとっても便益を得られるものでした。
また、順天の梅山洞(梅谷洞)における宣教拠点の建設は、先行した4都市での経験に基づき計画的に進行されたことに加え、日本による開発に先立ち近代都市づくりがなされた点で特筆に値するものであるといえます。これらの建物の一部が現在にまで残り、文化財として保護されているのです。
その近代建築が建ち並ぶ梅山洞(梅谷洞)へ向かうべく、まずは順天府邑城の城壁址に沿って北へ向かいます。

 

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その途中、地面の御影石に順天府邑城の古地図が描かれた広場に、それを取り囲むかのごとく大量の焼き芋マシンが設置されていました。こんなに多くの焼き芋マシンを一度に見たのは人生で初めてです。よく見ると片隅には焼き栗のスペースが。少し離れた場所には長蛇の列が形成されていましたが、この焼き芋や焼き栗が目当てだったのでしょうか。

 

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広場近くでは順天の歴史に関する展示パネルが陳列されていました。2枚目は順天府邑城の客舎に関するもので、3枚目は「順天歌(スンチョンガ)」に関するものです。「順天歌」は順天市上沙面(サンサミョン)出身の李栄珉(이영민:イ・ヨンミン、1882-1964。号は碧笑(벽소:ピョクソ))氏が1930年頃に書いた、順天の山川や名勝、遺跡など40か所を紹介した歌唱歌詞のことで、後年に曲が付けられ、韓国の伝統芸能であるパンソリとして編曲されています。

 

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いよいよ梅山洞(梅谷洞)に到着。入り口に順天中央教会のあるこの「梅山キル」という道沿いに近代建築が立ち並んでいます。
梅山キルには写真のように光るオブジェがいくつも配置されており、幻想的な雰囲気を漂わせていました。

 

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梅山キルに入ってすぐに現れるのは、国家登録文化財第127号の「順天旧南長老教会ジョージ・ワッツ記念館」。
1925年頃築のこの建物は、米国南長老教会のジョン・F・プレストン(John Fairman Preston、1875-1975)宣教師により設立された教会指導者の養成施設であり、現在は2階が当時の財政後援者であった米国人、ジョージ・ワッツ(George Watts)氏の記念館となっているため、この名が付けられています。

 

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今度は大量の雪だるまが並べられたエリアが。

 

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ジョージ・ワッツ記念館から少し北へ進んだところにある「順天梅山中学校梅山館」。国家登録文化財第123号。
かつての米国南長老教会の教育施設「ワッツ記念男学校」であり、1930年にそれまでのレンガ造りの建物から改築されたものです。順天市内を流れる玉川(オクチョン) 地域一帯で生産された花崗岩を外壁に使用しているとのこと。現在は梅山中学校の施設として使用されています。

 

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梅山中学校の梅山キル沿いの外壁には光るウサギさんのオブジェが一列に並んでいます。

 

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梅山中学校梅山館からさらに北側、梅山女子高等学校の敷地内にあるこちらの建物は、国家登録文化財第126号の「順天旧宣教師プレストン家屋」です。
前述したプレストン宣教師の私宅として1913年頃に建てられたもので、花崗岩の外壁に韓式の瓦を乗せた韓洋折衷式の特徴ある建物です。また、建物の幅と高さがほぼ1:1というサイズバランスは、順天や光州の宣教師住宅建築の特徴のひとつだとのこと。そういえば以前に訪れた光州・楊林洞の「ウイルソン宣教師私宅」(1920年代築)も同じようなサイズ比になっていました。現在は梅山女子高等学校の語学堂として用いられているとのこと。

 

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梅山クンキルという道との交差点のあたりから、梅山キルを振り返って見たところ。緩やかな坂道であることが見て取れると思います。

ところで、この交差点から脇に入る道(写真とは反対側)の先に、国家登録文化財第124号の「旧順天宣教部外国人オリニ学校」 (1910年代築)と、全羅南道文化財資料第259号の「順天コイット宣教師家屋」(1913年築)という2棟の近代建築があるのですが、門が閉ざされており立ち入ることはできませんでした。

 

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梅山キルをさらに進むと、「順天市基督教歴史博物館」が現れます(写真は2018年10月撮影)。宣教の拠点たる梅谷洞はこの博物館にとって最もふさわしい立地だといえるでしょう。以前から気になっている施設ですが、月曜休館が一般的な韓国の博物館では珍しく日曜休館であり、この日は入館できませんでした(もっともこの時間だと他の曜日でも閉館していると思いますが)。

 

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博物館の敷地内には、20世紀半ばの宣教活動で使用された自動車「ランドローバー」が保存展示されていました。

 

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さて、順天府邑城に着いた頃はまだほの明るかった空はすっかり真っ暗に。そろそろ夕食の時間です。この日のディナーは日本を発つ前から決めていました。
そして再びアレッチャンへ。昼間の五日場の片付けもほぼ終わり、静寂を取り戻しつつある場内のテント広場へ。

 

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毎週金・土曜日には恒例の夜市場(ヤシジャン)で賑わうこのテント広場も、開催のない日曜日は閑散としています。

 

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そんな薄暗いテント広場の中で唯一、灯りがともる店舗が。
その名は「61号(ユクシビロ)ミョンテジョン」。本ブログやTwitterでは何回も紹介してきたので、順天という街とともにその名をご記憶の方もいらっしゃることでしょう。
実はこちら、同じ年の10月の順天と麗水の旅のときに初めて訪問し、料理のあまりのうまさ、そして何種類ものマッコリの在庫に感激し、どうしても再訪したかったお店なのです。この日の順天訪問の最大の目的と言っても過言ではありません。わずか1ヵ月とちょっとで念願かないました。
前回は夜市場の賑わいの中でしたが、打って変わって今回は独特の静けさの中での訪問です。

 

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まずやって来たのは、前回も注文した「チルルッケティギム(찔룩게튀김)」と「順天湾マッコリ」。
チルルッケとは、順天湾の干潟名産の小ガニ「チルゲ(칠게)」の全南方言です。和名は「ヤマトオサガニ」(学名:Macrophthalmus japonicus)。その名の通り日本にも棲息しているカニですが、日本ではほとんど食用にされずなじみのない一方、韓国ではこちらのティギム(揚げ物)をはじめ、カンジャンケジャンのようにカンジャン(韓国醤油)につけたもの、あるいはすりつぶしたものをチョッカル(韓国式の塩辛)にしたりして、主に全羅南道において広く食されています。

 

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ご主人の手により揚げられている真っ最中のチルルッケティギム。

 

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そういえば同じ年の10月にここアレッチャンの五日市を訪れた際にも、ずいぶん活きのいい大量のチルルッケがバケツに入って販売されていました。

 

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あつあつ揚げたてのチルルッケティギムを、1匹まるごと口に放り込みます。
ああ、うんまい。
小ガニなのにしっかり身が詰まっており、強いカニらしい風味がします。しかも同程度のサイズのサワガニよりもずっと殻が柔らかく、サクサクと気持ちよい歯ごたえです。前回の訪問でこの味にすっかり惚れこんでしまった私でした。そのうえマッコリとの相性も抜群で、結構な量なのにあっという間に一皿平らげてしまいます。
光陽(クァンヤン)プルコギで知られる東の光陽市、ハモにカンジャンケジャンなど海の幸や突山島(トルサンド) カッキムチ(カラシナのキムチ)で知られる南の麗水市、そしてコマク(ハイガイ)料理で知られる西の筏橋邑。順天市は三方を著名な料理を擁する自治体に囲まれながらも、特段そうした名物料理がないと揶揄されることもあります。しかし私はこのチルルッケティギムこそが、全国に誇るべき順天の名物料理のひとつだと思っています。

 

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続いて注文したのは、今回が初めての「クルジョン」。マッコリも2本目の「チングサイ」(친구사이:「友達同士」の意)に突入。
クルとはカキ(牡蠣)のこと。ジョンは日本でいうチヂミのことですが、その中でも食材の形を保ったものを指すともされています。それを証明するかのように、カキが一枚の大きな平たいチヂミに入っているのではなく、一粒一粒に衣が付けられ丁寧に焼かれています。旬のカキと衣のハーモニーがこれまたうんまい。
そういえば、この日の昼まで滞在していた統営は、韓国最大のカキの産地でもあります。その統営での旅の思い出を反芻しつつ、クルジョンに舌鼓を打つ私でした。

 

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そして締めは、屋号にもなっている「ミョンテジョン」。こちらは「麗水生マッコリ」がお供に。
ミョンテとは漢字で書くと「明太」、つまり明太子の親たるスケトウダラの身のチヂミです。たっぷりのスケトウダラ白身とジョンのガワが絶妙なバランスで焼かれていて、めちゃめちゃうんまいのです。
前回の訪問で初めて口にして、あまりのおいしさにまたも注文してしまいました。ミョンテジョンの屋号は伊達ではありません。
ちなみに屋号の前半の「61号」とは、アレッチャンにおけるテナントの通し番号をそのまま用いたものだそうです。
こちらのお店「61号ミョンテジョン」を含むアレッチャンへのアクセスについては、下記エントリーの序盤で、この次の訪問時(2019年2月)の食レポと一緒に紹介しております。こちらもあわせてお読みいただけますと幸いです。

 

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そうしてお腹も心も幸せいっぱいになり、夜も更けつつある順天の街を歩いてホテルへと戻るのでした。

 

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明けて、2018年12月3日 (月)の朝。順天はあいにくの雨天です。前回(同年10月)と同じ、午前7時42分発の全羅線KTXで順天駅を後にします。

3時間弱でソウル駅に到着。まずは地下のソウル駅都心ターミナルで搭乗手続きと出国審査をし、荷物を預けて身軽になった状態で地下鉄1号線の電車に乗り込みます。

 

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やって来たのは鍾路(チョンノ)の名店、里門(イムン)ソルロンタン。1904年創業、現存する韓国最古の飲食店としても知られる老舗です。

 

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1997年の人生初の韓国訪問からずっと通っているお店で、私にとっては最も長く、そして最も多く訪問した韓国の飲食店でもあります。惜しくも21世紀の再開発に伴い解体された、当時の木造2階建て韓屋(写真)の店舗をご記憶の方も少なからずいらっしゃることでしょう。

 

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注文したのはもちろん看板メニューのソルロンタン。鋳鉄釜で17時間かけて煮出した牛骨スープは白濁しつつも余分な脂分がなく、すっきりしています。塩気は全くないので卓上の塩を慎重に(ここ重要)投入し、まずはひと口。
おなじみの、舌を包み込むようなうまみ。ああ、うんまい。
おいしさと一緒に、ほっとする感覚、そして懐かしさを感じます。韓国ではさまざまな料理を口にしてきましたが、「どこか」ではなく懐かしいと思う味は、いまのところ里門ソルロンタンソルロンタンが唯一です。

 

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里門ソルロンタンでもうひとつ特筆すべき名物は、卓上に置かれている取り放題のキムチのうちペチュ(白菜)キムチ。白菜の葉っぱがほぼ丸ごと入っているので、ハサミで適宜食べやすい大きさに切って取り分けます。この白菜キムチがもう、うんまいのなんの。ソウルキムチらしい甘みの中にしっかりとした辛さが。個人的に、これまで食べて来たあらゆる白菜キムチの中で最も好きな味です。ご飯が何杯でもいけるやつだ。そのため毎回食べ過ぎて汗をかいてしまうほどですが……。

 

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「里門ソルロンタン」の営業時間は午前8時~午後9時、日曜のみ午前8時~午後8時。名節(旧正月・秋夕)は休業。首都圏電鉄(地下鉄)1号線「鍾閣」駅3-1番出口から徒歩約4分(約250m)です。誘導路入口にバルーンの看板(写真2枚目)が立っているのですぐ分かると思います。
なお、2021年10月現在でのソルロンタンの値段は10,000ウォン。このときの9,000ウォンより少し値上がりしています。思えば1997年の初訪問のときは確か6,000ウォンだったような。日本のように政府与党の政策により実質賃金が年々低下し続けている不健全な社会とは違うのだなということを改めて思い知らされます。

里門ソルロンタン(이문설농탕:ソウル特別市 鍾路区 郵征局路38-13 (堅志洞 88)) [HP]

 

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空港鉄道の発車時刻まではもう少し余裕があるので、もうひとつの目当ての店へ向かいます。その途中にある、ソウルYMCAビル。併設されているホテルを利用された方も数多いことでしょう。
その玄関の脇には「3.1独立運動紀念址」の石碑が。当時の民族運動の本拠地であり、3.1独立運動を準備した場所だと刻まれています。

 

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大通りの鍾路を渡った向こう側(南側)には、この少し前に開店したばかりのスイーツ店「ミルクホール1937種路店」があります。

 

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韓国の乳製品大手であり、国内牛乳市場シェアNo.1(29.1%、2020年)の「ソウル牛乳(ウユ)協同組合」の直営であるこちらのお店では、同社の製品を用いた各種スイーツやドリンク類を味わうことができます。

 

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注文したのはミントチョコシェイクと抹茶牛乳。どちらも期待を裏切らないおいしさ。うち抹茶牛乳はお店のロゴが入った懐かしの牛乳瓶で出され、瓶はお土産として持ち帰ることもできます。

ミルクホール1937 鍾路店(ソウル特別市 鍾路区 鍾路2街 71-5 (鍾路 86-1))

 

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そして仁川国際空港に移動し、いつものジンエアーLJ203便で日本へと帰るのでした。

2018年11~12月の慶尚南道統営市と全羅南道順天市の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回は、2019年10月の仁川広域市富平区(プピョング)の旅をお送りする予定です。

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