前回のエントリーの続きです。
1980年5月20日夕方の民主技師による車両デモのスタート地となった「無等競技場正門」を出て、そばを流れる光州川(クァンジュチョン)を渡り、20分ほど歩いて次の目的地である光川洞(クァンチョンドン)の教会「光川洞聖堂」へ。
現在は写真1枚目の聖堂が建つ敷地内には、かつて天主教(カトリック)教義室と呼ばれていた建物の出入口部分が保存されています。こちらの教義室こそが、5.18民主化運動において抗争指導部の中心的役割を果たした尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士たちトゥルブル夜学の本拠地であり、また抗争当時は光州市民の目となり耳となった『闘士会報』が制作された場所として5.18の史跡第27号に指定されている「トゥルブル夜学旧跡」です。
解体される前の旧天主教教義室、かつてのトゥルブル夜学の学舎。
トゥルブル夜学とは1978年、貧困のため高等教育を受けられないまま労働者とならざるを得なかった若者たちへの教育を目的として、朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)烈士たち有志により創立された私学です。この当時、韓国では義務教育が初等学校(小学校に相当)までであったこともあり、こうした夜学の需要がありました。
また当時の軍事独裁政権の下、労働運動や民主化運動に携わる人々による啓蒙の場という隠れた役割もありました。朴琪順烈士もその例外ではなく、1978年の全南(チョンナム)大学校における「民主教育指標事件」(同大教授11人が軍事政権の「国民教育憲章」を批判、「私たちの教育指標」宣言を発表したことで拘束、解職された事件)に関連して無期停学となった後、光州初の女性「偽装労働者」(労働環境の実態の潜入調査のため労働者となった人々の通称)となるなど労働問題に携わってきた人物であったからこそ、必然的行動であったのかもしれません。
夜学の名称「トゥルブル」(들불)とは「野火」の意で、1894年の東学農民戦争を題材とした劉賢鍾(유현종:ユ・ヒョンジョン、1940-)氏の小説『トゥルブル』から着想し、野火のように広がった東学農民戦争を称えようとの意図から朴琪順烈士が提案したものだとされています。
このとき朴琪順・尹祥源の両烈士と同じ1期の講学(講師)には、朴琪順烈士と同じく全南大学校を無期停学となった後にトゥルブル夜学の創立に携わり、夜学では講学としての活動にとどまらず学堂歌を作詞・作曲、5.18後は拷問の後遺症に苦しみつつも青年運動に携わり、死後に「トゥルブル7烈士」に列された申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)烈士がいました。
1978年12月、朴琪順烈士が練炭ガス中毒により非業の死を遂げた後も、尹祥源烈士や申栄日烈士たち講学はその遺志を継いで夜学の発展に努め、そして運命の5.18を迎えることになります。
トゥルブル夜学旧跡のある光川洞聖堂(写真は聖堂の正門)は、518番バス(こちらのエントリーにて紹介)が少し離れた場所を走っています。国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「現代自動車」(현대자동차)バス停で下車、徒歩約13分前後。光川洞聖堂の敷地にあるので夜間は観覧できないかもしれません。
トゥルブル夜学旧跡(들불야학 옛터:光州広域市 西区 竹峰大路119番ギル 28-13 (光川洞 589-4)。史跡第27号)
トゥルブル夜学旧跡のある光川洞聖堂と路地を隔てて隣接する場所に、黄土色の古びた3階建てアパート3棟が「П」の字型に建つ団地があります。
こちらの団地は「光川市民アパート」といい、朝鮮戦争の避難民や貧困者などが暮らした、「板子村」(판자존:パンジャチョン。板子チッと呼ばれたバラックの集落)を整理した跡地に光州市初のアパートとして1970年に建てられたものです。
尹祥源烈士もトゥルブル夜学の講学となった直後から、5.18民主化運動の年の1月までここに入居していました。その当時の住民のほとんどは、劣悪な労働環境かつ低賃金下で働く近隣の光川工業団地の労働者たちでした。
光川市民アパートに移った尹祥源烈士は、アパートの先住者であり住人たちの生活環境向上のための活動に奔走していた金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)と、生まれてすぐ親に捨てられ、苦難の生活を経て金永哲烈士と義兄弟となり同居していた朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956-1980)の両烈士と出会うことになります。写真はその金永哲・朴勇準両烈士の部屋があったアパートA棟(가棟)の玄関。
こうして朴琪順烈士や尹祥源烈士たちトゥルブル夜学メンバー、および金永哲烈士たち光川市民アパート住民は縁を結ぶこととなり、後に金永哲、朴勇準の両烈士は2期講学として夜学に合流、またアパートの尹祥源烈士の部屋は夜学の講学と学講(生徒)たちのたまり場となり、その狭い部屋に20人前後が集い、夜を徹しての議論がなされたこともあったといいます。
写真はその尹祥源烈士の部屋があった、アパートB棟(나棟)です。
その後、金永哲烈士と朴勇準烈士は民衆抗争においてそれぞれ抗争指導部の企画室長、『闘士会報』の専門筆耕(清書)士として活動しますが、朴勇準烈士は全南道庁での最終抗戦で尹祥源烈士とともに死亡。また尹祥源烈士の最期を目の当たりにし、逮捕後に義兄弟の朴勇準烈士の死を知った金永哲烈士は監禁された営倉で自らの頭をコンクリート壁に打ち付ける自殺未遂を図り、そのとき受けた脳障害や拷問の後遺症により18年に渡って苦しみつつ、1998年にその生涯を終えました。こうした経緯もあり金永哲烈士と朴勇準烈士は、死後は尹祥源烈士たちとともに「トゥルブル7烈士」に列されています。
この光川市民アパートは、再開発計画に基づき2019年までの解体が決定しており、この姿を見られるのもあとわずかとなっています。烈士たちがここに暮らしたことを示すものは何ひとつありませんが、往時の面影をしのぶことはできます。なお、こちらのアパートには現在も多くの住民が生活されています。どうかご訪問の際には、お静かに観覧いただくようお願いいたします。
光川市民アパート(광천시민아파트:光州広域市 西区 竹峰大路119番ギル 22-9 (光川洞 650-7))
光川市民アパートからは最寄りの「光川派出所」バス停まで歩き、<봉선(鳳仙)37>バスに乗車、15分ほどで到着する「良洞市場駅(北)」にて下車します。
その名の示す通り、ここは光州の数ある在来市場の中でも最大級とされる「良洞市場」(ヤンドンシジャン)、および地下鉄1号線「良洞市場」駅(2番出口。写真左下)の最寄りのバス停です。
バス停からおよそ100m、「景烈路」(경열로:キョンニョルロ)と呼ばれる道路沿いの屋根付きの歩道に、ここが史跡19号であることを示す碑石があります(日よけのシートで隠れていましたのでちょっとだけめくらせてもらいました……)。
5.18当時、ここ良洞市場で商売を営む人々は市民軍の兵士たちに対し、チュモッパツ(주먹밥:おにぎり)をはじめとする飲食物や生活必需品、そして黒い布を無償で提供しました。黒い布は戒厳軍の犠牲となった市民を悼むための喪章となり、その余りは全南道庁屋上の太極旗(韓国国旗)に弔旗として添えられたといいます。
こうした助け合い、分かち合いの精神をここ光州では「大同(テドン)精神」と呼び、良洞市場のみならず東区の大仁市場(テインシジャン)など他の在来市場でも発揮され、市民軍にとって大きな手助けとなりました。そうした経緯から現在、チュモッパツは大同精神を最も象徴する食べ物として位置づけられています。写真は前回のエントリーでも紹介した版画家の洪成潭(홍성담:ホン・ソンダム、1955-)氏の作品のうち、そうした「大同精神」の世界を表現した版画「大同世上」(대동세상:テドンセサン)です(地下鉄1号線「文化殿堂」駅構内「文化殿堂駅5.18記念広報館」にて2016年8月撮影)。
518番バスは良洞市場のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きとともに「光州一高」(광주일고)バス停から徒歩10分前後(約700m)で到着できるようです。また前述のように地下鉄1号線「良洞市場」駅と直結していますので(1番出口を出て道路を渡ればすぐ)、数ある史跡の中でも特に行きやすい場所のひとつです。
良洞市場(양동시장:光州広域市 西区 川辺左路 243 (良洞 441)。史跡19号)
せっかく良洞市場へやって来たので、ちょこっとだけ内部を探索してみます。大好きな韓国在来市場だというのもありますが、光州の5.18史跡巡りで最も参考にしている「5.18記念財団」のガイドブック『광주의 오월을 걷자』(光州の五月を歩こう)によると、ここ良洞市場には5.18のときチュモッパツを握り市民軍の兵士たちに無料でふるまったハルモニ(年配の女性)の店「ソルナムトック専門店」が健在だとの情報があったからです。
一方で実はこの日(5月20日)、どうしてももう1か所だけある時刻までに行きたい場所がありました。こちらは前回のエントリーにて紹介した「民主技師の日大行進」のように一日限りでこそないですが、今後のスケジュールを考えるとこの日のうちに見ておきたかったものです。そうした制約もあって結局、時間までに件のお店を見つけることができませんでした(この日は昼食の時間がなかったのでトック食べたかった……)。
また、ここ良洞市場の一角にはトンタッ(통닭:韓国風フライドチキン)の2大名店である「元祖良洞トンタッ」と「スイルトンタッ」が向かい合って位置しています。秘かに楽しみにしていたのですが、行ってみるとどちらのお店も長蛇の列が形成されており、並んでいたら予定の時刻までには到底間に合いそうにありません。そんなわけでトンタッはあきらめ、歩みを進めます(この日は昼食の時間が…以下略)。
ここからしばらくは、光州川沿いの史跡巡りとなります。
川沿いに南へ歩くと、木々の間に幅広い階段のある丘が右手に現れます。
この丘の一帯は「光州公園」といい、かつて聖居山(성거산:ソンゴサン)とも呼ばれたこの丘の頂上には日帝強占期に「光州神社」が設置され、光復後はその跡地が公園広場として活用されています。
こちらの公園広場は、抗争4日目の1980年5月21日午後1時過ぎに市内の錦南路(クムナムノ)にて発生した戒厳軍の集団発砲を受け、これに対抗するため軍倉庫や警察署から奪った銃器で武装し始めた市民たちを「市民軍」として組織化するための編成の場所となり、予備役の軍人や兵役経験者などが教官となっての射撃訓練などが実施されました。このため光州公園広場は「市民軍編成地」として5.18民主化運動の史跡20号に指定されており、公園広場へ登る階段の途中に、ここが史跡であることを示すあの碑石があります。
頂上部の光州公園広場。まさに市民軍編成地の現場です。
5.18民主化運動を描いた2007年の映画『光州5・18』(原題『화려한 휴가』:華麗なる休暇)においても、アン・ソンギさん演じる予備役軍人のパク・フンスがここで市民軍の兵士たちを前に演説するシーンが登場します(映画で後方に映っていた塔は2015年に写真のものに建て替えられたようです)。
このほか当時には、公園内にある市民会館が市民軍の治安担当本部として使用されました。また全南道庁での最終抗戦があった5月27日には、ここでも市民軍と戒厳軍との衝突が展開されています。
518番バスは光州公園広場のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「錦南路4街駅」(금남로4가역)バス停から徒歩12分前後(約750m)で到着できるようです。
光州公園広場-市民軍編成地(광주공원 광장-시민군편성지:光州広域市 南区 中央路107番ギル 15 (亀洞21-1)。史跡20号)
光州に沿って、さらに進みます。
光州公園広場の階段前にある橋(光州橋)を1番目とすると、4番目の「瑞石橋」(ソソッキョ)を渡った先の角に、またあの碑石が現れます。
こちらは5.18当時「光州赤十字病院」があった場所であり、現在は「旧光州赤十字病院」として史跡11号に指定されています。
この光州赤十字病院は、5.18当時は基督病院や全南大病院(いずれも後日紹介予定)とともに、戒厳軍により負傷させられた市民や市民軍兵士たちを献身的に治療した場所です。また、銃創者急増に伴う血液不足との情報が流れるや市民たちが献血の列をなしたといい、その中には小学生の子どもの姿もあったといいます。
518番バスはこのそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停から徒歩10分弱(約600m)で到着できます。
旧光州赤十字病院(구 광주적십자병원:光州広域市 東区 川辺右路415 (不老洞 174)。史跡11号)
ふと時計を見ると、時刻はすでに午後5時を回っています。予定の時刻まであと十数分。
とはいえ目的地は目と鼻の先です。さらに歩みを進めるのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。
【付記】
今回のエントリーにも登場したトゥルブル7烈士の一人、金永哲烈士(写真は「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフ)がご存命のときに綴った、光川市民アパートでの活動、5.18民主化運動を含む自身の回顧録などを収めた書籍『김영철 열사 유고모음 못 다 이룬 공동체의 꿈』(金永哲烈士遺稿集 見果てぬ共同体の夢)が、5.18記念財団のサイト内にて全文無料公開されています。中には1980年5月27日早朝の全南道庁における最終抗戦、尹祥源烈士の最期にも言及した貴重な証言も含まれます。韓国語のみですが、テキストコピーもできるので機械翻訳でお読みいただけるかと思います。今回の旅の各エントリーでも参考文献のひとつとさせていただきました。ぜひご一読のほど。