前回のエントリーの続きです。
韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の1日目(2017年5月20日(土))です。
史跡11号の「旧光州赤十字病院」から徒歩数分で「5.18民主広場」に到着。
旧全羅南道(チョルラナムド)庁舎(全南道庁。現・アジア文化殿堂。写真2枚目の奥にある白い建物)の正面に広がるこの広場は、1980年5月当時の抗争期間において反・全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)、反・新軍部(全斗煥をはじめとする軍上層部の非公式グループ。1979年の「12.12クーデター」で実権を掌握し、全斗煥の大統領就任後は「第5共和国」軍事政権の要職を担当)を掲げた市民決起大会が何度も開催された現場です。
5.18当時には写真のように演台代わりの噴水台を囲んで数多くの市民がここに集結し、暴虐の限りを尽くした戒厳軍、そして実質的な最高権力者であった保安司令官の全斗煥打倒を誓った現場です。そうした経緯からこの噴水広場は「5.18民主広場」と名付けられ、5.18民主化運動の史跡5-2号に登録されています。
またここを起点とするメインストリート「錦南路」(クムナムノ)では5月18日から21日にかけて戒厳軍の無差別暴力が展開され、さらに21日には広場のすぐそばで戒厳軍による集団発砲が発生、そして最終日の27日には全南道庁での市民軍による最終抗戦と、いずれも数多くの死傷者を出すなど、民衆抗争の最前線にあった場所でもあります。
そんな5.18民主広場の一角にそびえ立ち、戒厳軍の蛮行と市民たちの抗戦、流血を見つめてきた歴史の証人というべき存在がこちらの時計塔です(こちらの写真2枚に限り2016年8月撮影)。こちらの時計塔は5.18以後、一時は同市西区の農城広場(ノンソンクァンジャン)へ移されましたが、2013年に再び5.18民主広場へ戻され、現在は「5.18時計塔」と呼ばれています。
この時計塔は毎日午後5時18分になると、5.18を、そして光州精神を最も象徴する歌である「ニムのための行進曲」(こちらのエントリーにて紹介)のチャイムが流れます。それがどうしても聴きたくて、この時刻に間に合うよう急いでやって来たというわけです。
youtu.be午後5時18分、チャイムの動画を撮ってきました。
途中から歌声が聞こえるのは、たまたまそばにいた20人ほどの団体がこのメロディにあわせて歌い出したからです。かくいう私も気づいたら口ずさんでいました。
5.18の史跡や関連施設などを巡る518番バス(こちらのエントリーにて紹介)で行く場合は、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停にて下車、すぐです。
5.18時計塔(5.18시계탑:光州広域市 東区 錦南路1街 12-7)
5.18民主広場を挟むようにして全南道庁と向かい合うのが、こちらの建物「尚武館」(サンムグァン)です。
元々は柔道場などに使用されていた施設でしたが、5.18当時は戒厳軍に殺害された市民たちの遺体安置所となり、行方不明となった親族を探しに多数の人々がここを訪問、幾多もの涙が流された場所です。その当時の凄惨極まりない様子は、自身もまた小学生の頃に5.18を体験した小説家、韓江(한강:ハン・ガン、1970-)氏の小説『少年が来る』でも詳細に描写されています。そうした経緯から、こちらの建物は5.18の史跡5-3号に指定されています。
前回来たときは閉鎖されており、5.18の史跡を示す丸い碑石にもカバーがかけられていましたが、5.18民主化運動37周年を記念して開催された展示企画の一環で旧全南道庁とともに開放され、碑石もその姿を見せていました。
尚武館の内部。犠牲者たちの無数の棺が並べられた場所です。
そのことを示す案内パネルと、ろうそく(を模したLEDランプ)が立てられていました。
尚武館へは、518番バスは国立5.18民主墓地方面行き、尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停にて下車、徒歩約2分です。
尚武館(상무관:光州広域市 東区 文化殿堂路 381 (錦南路1街 12-1)。史跡5-3号)
尚武館を出て、全南道庁周辺の史跡巡りをスタートします。
尚武館や5.18民主広場、旧全南道庁を含む「国立アジア文化殿堂」敷地内にある「プラザブリッジ」。この日はフリーマーケットが開催されていました。
プラザブリッジを渡って少し歩くと、道路沿いの歩道に写真の碑石が現れます(こちらの写真に限り2016年8月撮影)。こちらは「緑豆書店旧跡」といい、1980年の5.18民主化運動当時は「緑豆書店」(ノクトゥソジョム)という名の古書店がこの場所にありました。
書店の店主であった金相允(김상윤:キム・サンユン)氏は、かつて「民青学連事件」で収監された経験のある民主運動家であり、その後1977年に緑豆書店を開業。軍事政権下では公然と販売することの難しかった民主化関連の書籍を扱っていたことから、民主化を願う学生や青年たちが出入りし、ときには討論が繰り広げられる場所となりました。
そうした来客の中には、労働問題に身を投じる決意で1978年にソウルから戻ってきた尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士(こちらのエントリーにて紹介)の姿もありました。トゥルブル夜学(こちらのエントリーにて紹介)の講学(講師)となったことで民主化運動への関心を強めた尹祥源烈士は金相允氏との親交を深め、いつしか金相允氏から書店の共同経営の誘いを受けるほど親密な関係となりました。
そうした中で迎えた5.18。前日・17日深夜に拘束された金相允氏に代わって妻の鄭賢愛(정현애:チョン・ヒョネ)氏が店を守る中、緑豆書店は尹祥源烈士たち光州の民主人士と全国の学生・民主化運動家とをつなぐ状況室としての役割を果たします。戒厳軍の電話回線切断により市外通話ができなくなってからは、戒厳軍を威嚇するための火炎瓶や、集団射撃により殺害された人々を悼むための喪章などを製作する場となりました。
ちなみに店名にある「緑豆」とは、1894年に発生した東学農民戦争(甲午農民戦争、東学党の乱)で東学軍を率いて日本軍と戦い、その翌年に処刑された全琫準(전봉준:チョン・ボンジュン、1854-1895)将軍のニックネームにちなんで付けられたものです。身長が約152cmと当時の男性の中でも小柄だったことからこの名がついたとされ、現在も「緑豆将軍」の愛称で韓国の人々に敬愛されています。
東学農民戦争の史跡や関連施設を巡る旅は、いつかしなければなりません。
518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、徒歩約2分です。
緑豆書店旧跡(녹두서점 옛터:光州広域市 東区 霽峰路134 (壮洞 55-13)。史跡8号)
緑豆書店旧跡の道路向かいから200mほど離れた場所に、また例の碑石があります(写真1枚目に限り2016年8月撮影)。こちらは「光州MBC旧跡」といい、1980年当時は国営放送局のひとつである文化放送(MBC)の光州放送局があった場所です。
5.18当時、同じく国営放送局であるKBSとともに全斗煥たち新軍部寄りの報道に徹し、戒厳軍の蛮行に対する光州市民の抵抗を暴動かのごとく報道し続けたMBCに市民の怒りが爆発。市民による乱入を経た後、抗争3日目・5月20日の午後9時過ぎにはついに放火され、一夜にして全焼。こうした経緯からその跡地は5.18民主化運動の史跡7号に指定されています。
他の史跡とは異なり、こちらの碑石は「瑞元門の提灯」というアート作品と一体になっているのが特徴的です。
518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、目の前です。
光州MBC旧跡(광주MBC 옛터:光州広域市 東区 霽峰路 145 (弓洞18-1)。史跡7号)
緑豆書店旧跡からおよそ3分ほど歩くと、こちらの建物が見えてまいります。こちらは5.18民主化運動の史跡でこそありませんが、大きなかかわりのある場所です。
この2階に入居しているのは「ミンドゥレ(민들레:タンポポ)小劇場」といい、劇団「トバギ」(토박이:「生え抜き」の意)の本拠地です。
朴暁善(박효선:パク・ヒョソン、1954-1998)烈士(写真は5.18自由公園「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフ)。今回の光州の旅における一連のエントリーでも度々登場する、尹祥源烈士など「トゥルブル(野火)7烈士」(こちらのエントリーにて紹介)の一人に列せられた人物ですが、朴暁善烈士にはもうひとつ「劇作家」としての顔があります。
朴暁善烈士は1979年、ここ光州にて複数の劇仲間とともに劇団「クァンデ」を旗上げしました。5.18直前の1980年4月には劇団創立からわずか1年にして、当時の社会問題をテーマにした劇『テジブリマダンクッ』の共同演出で高い評価を得ています。尹祥源烈士たちトゥルブル夜学と関わったのも、文化担当特別講学(講師)として参加したのがきっかけでした。
こうした縁もあり、朴暁善烈士は5.18においてクァンデの仲間たちとともに民衆抗争に飛び込みます。メディアに代わり光州市民の目となり耳となった『闘士会報』の制作に携わったほか、全南道庁前の噴水広場(現・5.18民主広場)で全7回開催された市民決起大会ではクァンデの劇団員とともに主管を担当、そして抗争指導部の発足後には広報部長を務めます。
その後20ヵ月に及ぶ手配生活と3ヵ月の獄中生活を経た後、1984年2月に立ち上げたのが現在も活動を続ける「トバギ」です。朴暁善烈士は拷問の後遺症に苦しみつつも「トバギ」の劇作家として活動を続け、1987年の「6月民主抗争」(こちらのエントリーにて紹介)を経た翌88年には5.18民主化運動を描いた演劇『クミの五月』(금희의 오월)を上演、高い評価を受けます。
朴暁善烈士は1998年9月、肝臓がんのため死去。その後も「トバギ」の劇団員たちは烈士の遺志を引き継ぎ、現在に至るまでここミンドゥレ小劇場を舞台に、5.18民主化運動を題材とした作品を中心に演劇活動を続けています。
この日(5月20日)、同劇場にて公演されていた劇『チョンシルホンシル』(청실홍실:「青い糸と赤い糸」の意)のポスター。こちらも5.18をテーマにした作品で、よく見ると「原作:朴暁善」のクレジットがあります。
韓国の演劇には若干の興味がありつつも、ヒアリング能力の問題でずっと二の足を踏んでいましたが、「トバギ」の演劇は近いうちに観るつもりです。
ミンドゥレ小劇場(민들레소극장:光州広域市 東区 東渓川路 111 (東明洞200-12))
ミンドゥレ小劇場から今度は南へ下って12分ほど歩いた場所に、写真の教会があります。
こちらの教会は「南洞聖堂」といい、抗争5日目、前日の戒厳軍の一時撤退による「解放光州」1日目の1980年5月22日、地元の名士12名が集まって収拾対策を協議した場所です。こうした経緯から、南洞聖堂は史跡25号に指定されています。
また1982年には、40日間あまりにも渡る獄中での断食闘争の末に亡くなった、元・全南大学生会長の朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)烈士の遺体を安置した場所でもあります。
碑石の近くには、5.18当時の写真がいくつか展示されていました。
南洞聖堂へは、518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「東区庁」(동구청)バス停にて下車、徒歩約5分で到着します。
南洞聖堂(남동성당:光州広域市 東区 霽峰路 67 (南洞 55)。史跡25号)
南洞聖堂から東へ向かって9分程度歩くと、遠くからでも目立つ写真1枚目の巨大なオブジェが見えてきます。こちらは「朝鮮大学校」の正門で、その向かって右側奥の脚の根元付近に5.18の史跡を示すあの碑石が建っています。
1980年5月。学生運動家たちを中心とした全国各地での民主化デモが拡大する中、当時の保安司令官であった全斗煥をはじめとする「新軍部」のメンバーは政権掌握を期して17日の午後9時、憲法に定められた国会通過手続きを経ることなく、同日の24時(翌18日午前0時)をもって非常戒厳の全国拡大措置を決定。地図上での新たな対象地域は済州島のみでしたが、「全国」拡大はすなわち戒厳司令部への権限集中を意味するものでした。またその対象には深夜の通行禁止だけではなく、政党・政治活動の禁止、大学休校令、集会・デモの禁止なども含まれていました。これを受け新軍部は17日深夜に全国の大学への戒厳軍投入を命令。
さらに非常戒厳の全国拡大に先立ち新軍部は、金大中(김대중:キム・デジュン、1924-2009。後の大統領)氏や金鍾泌(김종필:キム・ジョンピル、1926-)氏など政治家や在野人士、各大学の学生会長や学生運動家たちを相次ぎ拘束します。5月17日深夜から翌18日未明にかけて発生したこれら一連の動きを、韓国では「5.17クーデター」「5.17内乱」などと呼びます。
こうして全国の大学に投入された戒厳軍が光州にてまず進駐したのが全南大学校であり、この朝鮮大学校でした。進駐後まもなく、戒厳軍兵士たちによる学生たちへの暴行が始まります。これこそが5.18民主化運動における一連の戒厳軍による暴虐、そして市民たちの10日間に及ぶ抗争の発端となりました。
以後、5月21日に戒厳軍が光州市中心部から戦略的撤退をするまで朝鮮大学校は戒厳軍の拠点のひとつとなり、数多くの同大生たちが筆舌尽くしがたい暴力を受けて拘束され、あるいは殺害され極秘裏に埋められています。こうした経緯から、朝鮮大学校は史跡12号に指定されています。
518番バスは朝鮮大学校のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「東区庁」(동구청)バス停から徒歩10分程度(約690m)で碑石のある正門に到着できるようです。
朝鮮大学校(조선대학교:光州広域市 東区 畢門大路 303 (瑞石洞 421)。史跡12号)
日が落ちて、いよいよあたりが暗くなってまいりました。
この日のうちに訪れておきたい5.18の史跡は残り2か所。夕闇に追われるかのように足を速めるのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。
次回は久々に料理が紹介できそうです。
【付記】
本年(2017年)5月の光州訪問後、新たに次の2か所が5.18民主化運動の史跡に指定されたとのことです。
●史跡28号(2017年8月15日指定)
全日ビルディング(전일빌딩:光州広域市 東区 錦南路 245 ((錦南路1街 1-1))
1965年築。5.18当時を含め、かつてここは「全南日報社」という新聞社(現存する同名新聞社とは別)が入居しており、この名前がついています。本エントリーにて紹介した「5.18時計塔」動画の後方に見える白いビルがまさにこの建物です。
錦南路沿い、抗争4日目(5月21日)の戒厳軍による集団発砲現場の真横に位置することから外壁の弾痕は以前から知られていましたが、最近になって10階フロア内の弾痕がその角度から空中発射されたものである可能性が濃厚となり、複数目撃談があるヘリコプターからの無差別射撃を裏づけるものとして注目が高まっています。10階フロアは弾痕を含め原型保存のうえ、近日中に公開される予定とのことです。
●史跡29号(2017年9月10日指定)
故洪南淳弁護士家屋(고 홍남순 변호사 가옥:光州広域市 東区 霽峰路 153 (弓洞15-1))
5.18当時は市民収拾委員となり、戒厳軍の市内進入を防ぐため衣服を脱いで地面に寝そべる「死の行進」など犠牲者抑制のために尽くした洪南淳(홍남순:ホン・ナムスン、1912-2006)弁護士の旧宅です。抗争終了後には内乱首魁容疑との濡れ衣を着せられて無期懲役の判決を受け、1年7ヵ月の獄中生活を余儀なくされました。釈放後も光州拘束協会長、5.18光州民衆革命記念事業および慰霊塔建立推進委員長などを務めるなど、5.18の真相究明と被害者の名誉回復のために生涯を捧げた人物です。
前回の指定(2013年の「トゥルブル夜学旧跡」史跡27号)から4年の空白を経て立て続けに2件の追加登録がなされたのは、何より37年を経た現在もなお真相究明や犠牲者・被害者たちの名誉回復に関わる人々の努力の賜物でありますが、5.18民主化運動を舞台に描き、本年8月の公開からわずか1ヵ月あまりで歴代興行ランキングトップ10に入る大ヒットとなったソン・ガンホさん主演の映画『택시운전사』(タクシー運転手)の影響も少なくないとみています。今後も注目してゆきたいと思います。