前回のエントリーの続きです。
昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)などを巡る旅、明けて2日目(2017年10月28日(土))の朝です。
まだ夜が明ける前の午前5時過ぎ、都市鉄道(地下鉄)1号線「農城(ノンソン)」駅近くのホテルを出発。向かったのは同ホテルから歩いて行ける距離にある光州総合バスターミナル「U-Square」(유스퀘어)。
上空から見るとドーナツを半分に切った形をしているこちらの建物は高速バスと市外バスの両方のターミナルを兼ねており、ここからは全羅南道内の各市郡はもちろん、ソウルや釜山など道外の各都市、遠くははるか江原道(カンウォンド)の江陵(カンヌン)や束草(ソクチョ)、太白(テベク)まで全国津々浦々に路線網が張り巡らされています。これらの中でもソウル・セントラルシティターミナル行きの便は1日なんと138便、午前4時から深夜0時45分まで平均10分足らずの間隔で出発するという市内バスもびっくりの路線です。
このような路線網を持つのは光州が大都市だからだけではなく、同市に拠点を構える路線バス大手、錦湖(クモ)高速の存在が大きいでしょう。
U-Square、コインロッカーも充実しています。
購入したのは全羅南道の南岸沿い、一部は多島海海上国立公園にも面している高興(コフン)郡のうち、道陽邑(トヤンウプ。邑(ウプ)は日本の「町」に相当する地方自治体)の「鹿洞(ノクトン)バス共用停留場」行きのチケット。料金は15,000ウォン(約1,580円:当時)。
ところで鹿洞といえば、本ブログでも以前に紹介したことのある光州都市鉄道(地下鉄)1号線の東側の終点「鹿洞」駅を思い出す方もいらっしゃるでしょうが、こちらは光州市内であり全く別の場所です(バスは同駅の近くを通過しますが)。
U-Squareを午前6時15分に発つ写真の市外バスに乗り、鹿洞バス共用停留場を目指します。
バスはU-Squareを出ると、南光州(ナムグァンジュ)停留場⇒所台駅(ソテヨク)停留場⇒和順(ファスン)市外バス共用停留場⇒曲川(コクチョン)停留場⇒筏橋(ポルギョ)バス共用ターミナル⇒過駅(クァヨク)バスターミナル⇒高興(コフン)共用バス停留場⇒鹿洞バス共用停留場の順に停車します。これら停留場名に頻繁に出てくる「共用(コンヨン)」とは、韓国では明確に区分されている高速バスと市外バスの「共用」という意味。これら都市間を結ぶバスのうち、高速バスは起点・終点近くや乗換のためのバス停に停車することはできますが、あちこちの停留所に立ち寄って乗客を乗降させられるのは市外バスに限られています。私が乗車したのはまさしく市外バス。
U-Squareを出て1時間20分ほどで、宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)の筏橋バス共用ターミナルに到着。沿線では光州、和順に次いで大きな街であり、何人かがここで乗り降りします。この日の宿泊地はここ筏橋であるため、当日中に再び戻ることになります。
筏橋を出て少し南下すると車窓に現れる山、尖山(첨산:チョムサン、314m)。それはもう見事なとんがり山です。筏橋を舞台とした大河小説『太白山脈』にも登場します。
写真は順に過駅バスターミナル、高興共用バス停留場。高興では私以外の全乗客が下車して、とうとう貸切状態かと思ったら、出発間際に10名以上の高校生くらいの集団が乗ってきました。光州を発ってから乗客数が最多の状態に。と思ったらバス停でもなんでもないところで停車し、全員降車。どうやら運転手さんが気を利かせて、目的地(学校?)近くで降ろしてくれたようです。いいなあこういうの。
そして、終点の鹿洞バス共用停留場に到着。光州からおよそ2時間半の旅でした。
鹿洞バス共用停留場の市外バス時刻表。ソウル行きのバスが5便、釜山行きが3便もあります。
鹿洞バス共用停留場の内部はこんな感じ。残念ながらコインロッカーはありません。
キャリーバッグを引きつつ、徒歩で鹿洞港方面へ向かいます。
鹿洞とは高興半島の西端近くに位置する港街で、同半島全体を行政区域とする高興郡内でも2番目の人口を誇る道陽邑の中心地です。
市街地にある漁港(旧港)では海産資源に富んだ近隣の多島海海域で獲れた魚介類が水揚げされ、活発に取引されています。また漁港から少し離れた鹿洞新港旅客船ターミナルからは多島海に浮かぶ島々へ、そして遠く巨文島(コムンド)や済州島(チェジュド)へ向かうフェリーが就航しています。この日の目的地である2つの島も、21世紀に入り架橋されるまでは漁港側の埠頭から渡船が出ていました。
しばらく歩くと右手に現れる在来市場、「鹿洞伝統市場」。
「鹿洞伝統市場」、立ち寄らずにはいられません。大好きな韓国の市場の雰囲気です。こちらの市場は末尾3と8の日が五日市の日で、この日(10月28日)がまさにその当日。店頭には旬の柿をはじめとする果物や野菜が山のように積まれていたほか、やたらとタマネギの苗が売られていたのが印象的でした。
さて、この日の目的地である2つの島へは、自転車を借りて自力で向かう計画を立てていました。それというのもこれら目的地は橋で結ばれているとはいえ離島であり、鹿洞からのバスの便数が限られていたためです。鹿洞にはレンタサイクル業者があるとの情報を事前につかんでいましたが、場所は分からなかったため、市場近くの鹿洞派出所へ。
派出所にいた3名の警官の方にレンタサイクルの場所を尋ねると、異口同音に「鹿洞にレンタサイクルはない」との答え。当初計画ではレンタサイクルのお店に荷物を預かってもらうつもりでしたので、自転車・荷物ともにここで大きくあてが外れてしまったことになります。
仕方ないので、せめて荷物だけでも派出所で預かってもらおうとお願いしたところ、荷物預かりを引き受けるのみならず、なんとそのうち一人の方の自転車(私有物)を無料で貸していただけることに。提案に驚きつつも、お言葉に甘えることにしました。大感謝。
派出所からパトカーに乗せてもらい、その方のご自宅へ。そこでこの日の相棒となる写真の赤い自転車にまたがり、島めぐりがスタート。愛用のトートバッグをリュックのように背負い、自転車を漕ぎ出します。
はやる気持ちを抑えつつ、まずは大事な腹ごしらえから。まだ慣れない自転車で向かったのは、事前に調べておいた写真のお店「誠実(ソンシル)サンジャンオタン・クイ専門」。
店名のサンジャンオタン・クイとは「活きチャンオのスープ・焼き」の意。チャンオ(장어:長魚)とはウナギまたはアナゴ、あるいはこれら細長い魚の総称のことですが、ここでは鹿洞港の名物のひとつでもあるアナゴ(正確には붕장어:プンジャンオ)を指します。ちなみに韓国では「アナゴ」という日本名でも普通に通じますし、実際にこちらのお店のメニュー表にもわざわざ「아나고(アナゴ)」とカッコ書きされています。
注文したのはメニュー表最上段のチャンオタン、12,000ウォン(約1,250円:当時)。
そしてやって来たチャンオタン。
ぱくり。淡白ながらも濃厚な味のチャンオの身も、スープもうんまい。見た目通り辛いスープですが、ご飯を入れるとマイルドに。アナゴをこうした辛いスープで食べたのは初めてですが、相性の良さに感心してしまいます。
それとチャンオタンと一緒に出てきたパンチャン(おかず)のうち、写真の茄子を炒めたものが、絶妙な加減のニンニク風味で猛烈にうんまかったです。ご飯と一緒に食べると幸せになるやつだ。思わずご飯と一緒におかわりしてしまいました。
こちらのお店「誠実サンジャンオタン・クイ専門」の営業時間は午前9時~午後10時、年中無休。鹿洞バス共用停留場からだと徒歩約16分(約1km)で到達できます。
誠実サンジャンオタン・クイ専門(성실산장어탕·구이전문:全羅南道 高興部 道陽邑 飛鳳路 177 (鳳岩里 2786))
鹿洞港の対岸に広がるのは小鹿島(ソロクト)。遠くには2008年6月に開通した、小鹿島へ渡る道路橋「小鹿大橋(ソロクテキョ)」が見えます。これから自転車でこの橋を渡ります。
小鹿大橋への登り道の手前にあった、セマウル号の廃客車。事務所として活用されていました。
小鹿大橋を渡ります。写真2枚目は小鹿大橋の橋上から眺めた鹿洞港の風景。
小鹿大橋を渡って小鹿島に上陸。しばらく走ると、またもや大きな橋が現れます。こちらは「居金大橋(コグムデキョ)」といい、小鹿島とさらにその南にある居金島(コグムド)との間に架けられた1,116mの斜張橋を含む総延長2,028mもの長大橋で、2011年12月に開通しました。小鹿大橋・居金大橋ともに一応歩道らしきスペースはあるのですが、車道と段差がないうえ、すぐそばを乗用車やトラックが猛スピードで駆け抜けてゆくのでちょっと怖いです(後述するように居金大橋には人道が別にあります)。
居金島に上陸。小鹿島までは道陽邑ですが、ここからは錦山面(クムサンミョン。面(ミョン)は日本の「村」に相当する地方自治体)に入ります。右手にはかつて鹿洞港からの渡船が着いた錦津(クムジン)船着場が見えます。
居金島は面積約63.57平方km、韓国では10番目に大きな島で、人口は約4,700人(2017年時点)。島全体が高興部錦山面に属しています。
朝鮮時代前期の15世紀、当時は折爾島(チョリド)と呼ばれたこの島には軍馬を育てるための牧場城(モクチャンソン)が設置されていました。またこの島には大規模な金脈があるとされ(採掘はされていない)、朝鮮時代中期の文献には「巨億金島」(コオックムド)の名で記録があり、これが居金島の名の由来となったとされます。島内には金蔵(クムジャン)や益金(イックム)、古羅金(コラグム)など「金」(금:クム)が付いた地名、あるいは錦山や錦津港のように「金」と発音が同じ「錦」の付いた地名が点在しており、金脈との関係を指摘する説もあるようです。
写真1枚目は、居金大橋を渡ってすぐの場所にある巨大なモニュメント。
このモニュメントのそばには広い駐車場に加え飲食店や売店などがある「道の駅」みたいな休憩施設(写真1枚目左に少し写っている建物)があります。
この休憩施設の中には、写真2枚目のレンタサイクル店、そして何台ものレンタサイクルが。私が調べた鹿洞のレンタサイクルとは、実はこちらのことだったのかもしれません。鹿洞にはタクシーが結構いますので、ここまでタクシーで移動して自転車を借りるという手もありそうです(返却後の鹿洞への移動に難儀しそうですが)。
居金島内をしばらく走り、面事務所(日本の村役場に相当)のある錦山の街に到着。写真は「錦山教会」。
ここ錦山地域に建つ写真1枚目の建物は「金一記念体育館」といい、日本では「大木金太郎(おおき・きんたろう)」のリングネームで知られる同島出身のプロレスラー、「頭突き王」金一(김일:キム・イル、1929-2006)氏を記念したスポーツ施設です。その正面には金一氏の石像も。
私もまたそうですが、本ブログをお読みいただいている皆様の中にも、現役当時の「大木金太郎」選手の勇姿をご記憶の方が少なくないことでしょう。
玄関を入った突き当たりには、その名の通り広い体育館が。金一氏の写真が掲げられています。
体育館の玄関ホールの左には、太極旗を背にし、いまにも得意の頭突きを浴びせようとする現役時代の金一選手の勇姿が。この日最初の目的地である「金一遺品展示室」の入口です。
金一氏は1929年、全羅南道高興郡錦山面於田里(オジョルリ)、現在の金一記念体育館一帯を含む平地(ピョンジ)マウルにて生まれました。
身の丈185cmもの体躯を活かし、朝鮮戦争前後にはシルム(씨름:日本では「韓国相撲」とも呼ばれる格闘技)の選手として活躍。
その後1956年には、国交樹立前にもかかわらずその名声が韓国にまで届くほど人気絶頂だった力道山(りきどうざん、1924-1963)に弟子入りしようと日本へ密航しますが、到着後に逮捕され収監。翌年になってようやく憧れの力道山と面会し、その第1期門下生となります。収監を解かれたのも、獄中からの手紙を受け取った力道山が政治家に働きかけ、その保証人となったからでした。
入門翌年の1958年、師匠が命名した「大木金太郎」のリングネームでデビュー。相手の頭をつかみ、片脚を上げ全体重をかけて頭突き(ヘッドバット)をする独特のスタイルが人気を博し、遅れてデビューしたジャイアント馬場・アントニオ猪木の両選手とともに、力道山率いる日本プロレスで「若手三羽烏」と並び称されるようになります。
この頭突きはデビュー当時、日本での「朝鮮人は石頭」というステレオタイプの偏見から師匠の力道山が着想し、得意技とするため鍛えさせたことに始まったといいます。当時は隠していましたが、力道山もまた咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在は朝鮮民主主義人民共和国)出身のコリアンでした。
1963年12月には師匠の力道山が暴漢に刺され、その傷がもとで急逝。折しも金一選手は米国での武者修行中で、葬儀への参列はおろか、保証人である力道山を失ったことで日本への再入国すらままならない状況となりました。その後1965年には韓国へ帰国、活躍の場を日本から移し、得意の頭突きを武器に「パッチギ(頭突き)王」の名をほしいままにします。またこの時期には数々のチャンピオンタイトルを獲得し、ついに1967年にはWWA第23代世界ヘビー級チャンピオンにまで登りつめ、韓国の英雄的存在となります。一方で国交樹立により再び入国可能となった日本でも引き続き古巣である日本プロレスの興行に参加しますが、馬場・猪木の2大スターの退団などにより日本プロレスは衰退、1973年に崩壊した後には彼らの率いる新団体への参戦と離反を繰り返すようになります。
そうした中で持病の悪化などにより1970年代後半あたりから試合の頻度は次第に低下、1980年代半ばには実質的な引退状態となってしまいます。この時期には現役時代の人脈を基に韓国でプロモーターとして活動しますが、韓国でのプロレス人気の凋落に加え手がけた事業はことごとく失敗。さらには長年にわたる頭突きの後遺症などによる疾患に苛まれ、徐々に活動の幅を狭めてゆきます。
日本での療養を経て1994年に帰国、入院。闘病生活の中でも1995年には東京ドームでのプロレスオールスター興行にて引退式が催され、金一選手は6万人ものプロレスファンに見送られました。また韓国でも2001年、かつて幾度となく熱戦を繰り広げたソウル・奨忠(チャンチュン)体育館で引退式が挙行されています。
そして2006年10月26日、慢性腎不全と心血管異常に伴う心臓発作により死去。77歳でした。
「金一遺品展示室」にある金一氏の略歴。
現役当時、ソウル・貞洞(チョンドン)に金一選手専用の体育館を贈るほど熱烈なファンであった朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領から「何か願いはあるか」と尋ねられた際、「故郷の居金島に電気が引かれることです」と答えたことから、同島には他の離島に先んじて電気が通されたという逸話も残されています。
「金一遺品展示室」の室内。
現役時代、リングヘの入場時に着用したガウン。
ガウンの脇腹から腰にかけて虎と竹、また背中にはキセルとサッカッ(삿갓:竹などで編んだ笠)がそれぞれ刺繍で描かれています。
別のガウンとリングシューズ、そしてWWA世界ヘビー級チャンピオンのベルト(レプリカ)。1978年、当時のチャンピオンだったアブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher、1941-)選手を破り獲得したとあります。
金一氏のパスポート。日本を含め海外遠征が多かったからか、出入国印やビザとみられるスタンプがいくつも押印されています。
金一選手は、居金島の人々にとっては島の生んだ英雄として、そして韓国の人々にとって「永遠のチャンピオン」として記憶され、今日も敬愛されています。
ご紹介した「金一遺品展示室」を含む「金一記念体育館」の開館時間は午前10時~午後5時、月曜休館。入場無料。前述した「鹿洞バス共用停留場」からだと最寄りのバス停である「錦山」まで直行するバスが4系統、合計で1日19便ほどあるようです(所要時間は40分前後)。
金一記念体育館(金一遺品展示室)(김일기념체육관(김일유품전시실):全羅南道 高興郡 錦山面 居金中央キル 40 (於田里 1413-1)
体育館のそばには「雲岩金一先生功績碑」、そして金一氏とその妻である朴今礼(パク・クムネ)氏の墓石が。
功績碑と隣接して建つ「金一先生生家」。その割には新しく感じられます。再建されたものか、あるいは晩年に暮らしていた家なのかもしれません。
金一記念体育館を出て、もと来た道を引き返します。
その道すがらの斜面では、居金島の名産のひとつであるフギョムソ(흑염소:黒ヤギ)さんたちが放牧されていました。
再び居金大橋を渡って、小鹿島方面へ戻ります。
実はこの居金大橋、車道の下に歩行者や自転車専用の人道が設置されており、こうした2層式の橋は韓国初とのこと。行きがけにこちらを通らなかったのは、小鹿島側の道路に誘導案内がなかったこともあって、その存在を忘れていたためです(お恥ずかしいです……)。今度はもちろんこちらの人道を利用。脇を駆け抜ける自動車を心配することなく安心して走れますし、小鹿島や周囲の無人島(瀬)も落ち着いて眺められます。
小鹿島側の突き当たりには、居金大橋建設時の写真パネル展示も。
そして小鹿島に再上陸。いよいよ、この日最大の目的地を探訪することになります。
それでは、次回のエントリーヘ続きます。