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主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

高興の旅[201710_03] - 患者たちへの差別と人権蹂躙の歴史を記憶する「ハンセン病の島」小鹿島を歩く(前編)

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)高興(コフン)郡などを巡る旅、2日目(2017年10月28日(土))です。

 

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自転車で居金大橋(コグムデキョ)を渡り、小鹿島(ソロクト)に再上陸。
小鹿島は、全羅南道高興郡道陽邑(トヤンウプ。邑(ウプ)は日本の「町」に相当する地方自治体)に属する面積約4.42平方kmの小さな島です。その名の由来としては、島の形が小鹿に似ているとして付けられたという説、また対岸の高興半島にある鹿洞(ノクトン)港一帯がかつては「鹿島(ロクト)」という島で、これと比べて小さな島だとしてその名が付いたという説などがあります。
対面する鹿洞港との距離はおよそ500m。長らく渡船でしか往来できない島となっていましたが、前回のエントリーでも紹介した「小鹿大橋(ソロクテキョ)」が2008年に開通してからは乗用車やバス、そしてこの日の私のように自転車でも入島できるようになりました。

 

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この小鹿島はいまから102年前の1916年、当時の朝鮮を支配していた日本の朝鮮総督府により隔離施設「小鹿島慈恵医院」が設置されてから今日の「国立小鹿島病院」に至るまで、一貫して「ハンセン病の島」としての歴史を抱いています。

小鹿島の旅レポに先立ち、日帝強占期における小鹿島の歴史についてある程度説明しておく必要があると思いますので、まずは触れておきたいと思います。
※以降、本エントリーでは歴史的用語を説明する場合に限り、ハンセン病の旧称であり主に差別的文脈で用いられてきた「癩(らい)」の語を用いることをご了承願います。

 

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朝鮮半島の南岸、多島海に浮かぶこの小島にハンセン病診療所としての「小鹿島慈恵医院」が設立されたのは1916年、朝鮮総督府令第7号に基づくものでした(写真は次回エントリーにて紹介予定の「小鹿島資料館」の展示パネル)
この当時、朝鮮には外国人キリスト教宣教師が設立した小規模のハンセン病診療所はありましたが、公的機関によるものは初めてでした。しかしその設置の意図は患者の救済よりもむしろ、差別により流浪の身に置かれあるいは患者同士で集落を形成していたハンセン病患者たちを一か所に隔離し、欧米列強に比肩しうる大規模隔離施設を保有することに重点が置かれていました。この当時のハンセン病への対処は、個々の患者への治療よりも患者の隔離による制圧が主流であったためです。
小鹿島が選定されたのは、同島が朝鮮半島の南端近くに位置し温暖な気候であるうえ、島という患者の隔離に適した地理的条件であり、しかも陸地(鹿洞港)から近く物資を運びやすいためとされています。

 

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小鹿島慈恵医院の初代院長には蟻川亨(ありかわ・とおる)軍医が任命されました。翌年(1917年)5月17日の開庁式を経て医院の業務が本格化しますが、蟻川院長は朝鮮人ハンセン病患者に対し献立や食事作法、和装の入院服や神棚への拝礼など日本の生活様式を強制します。さらには家族との面会を厳しく制限し、規則を犯した患者には鞭打ちなどの体罰を課したため、患者からの評判はすこぶる悪いものでした。蟻川院長のこうした強圧的な態度は、ちょうどこの時期、1910年の「日韓併合」から1919年の「3.1運動」までにおける朝鮮総督府の基本統治姿勢を反映したものでした(写真は次回エントリーにて紹介予定の「ハンセン病博物館」にあった開院当時の写真の展示パネル)

依願免職した蟻川院長に代わり1921年に赴任した花井善吉(はない・ぜんきち)2代院長は、患者たちの生活様式を朝鮮式に改めたうえ、食事については日本式かつ院内1か所のみでの提供をやめ、患者の口に合った食事を病舎ごとに作り提供するようにします。また家族との通信や面会を自由にし、さらには神棚への拝礼義務を廃止してキリスト教を含む信仰の自由を認めるなど患者たちの便宜を図ったことから、歴代の日本人院(園)長5人の中ではただ一人患者たちに慕われました。

 

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花井院長は1929年、小鹿島にて病死。写真はその死後、患者たちが自発的な募金で建てた「花井院長彰徳碑」です(写真は次回エントリーにて紹介予定の「ハンセン病博物館」の展示パネル。碑は現存します)。患者たちは光復(日本の敗戦による解放)後、李承晩(이승만:イ・スンマン)初代大統領政権下で全国各地に残る日本人の顕彰碑が破却された際にも、この彰徳碑を地中に埋めて守ったといいます。
このように花井院長は患者たちに慕われた稀有の日本人とはいえ、他方で慈恵医院の拡張のため島内の測量を強行、古くからの小鹿島の住民に立ち退きを迫るなど日帝植民地支配の尖兵たる役割を果たしたことは、決して見逃してはなりません。「3.1運動」以後のちょうどこの時期、朝鮮人たちの懐柔に方針転換しつつも支配体制のさらなる確立を図った朝鮮総督府の統治姿勢の一面がここに表われているといえます。

花井院長の死後に赴任してきた矢澤俊一郎(やざわ・しゅんいちろう)3代院長は、歴代の日本人院(園)長5人の中では唯一の民間出身の医師でしたが、あまり業務には熱心ではなく、趣味の狩猟に勤しむことが多かったといいます。

 

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職員との不和もあって依願免職した矢澤院長に代わって1933年に赴任したのが、朝鮮総督府の技師であった周防正季(すほう・まさすえ、1885-1942)4代院長です。
その前年の1932年に設立され、自身が理事を務めた「財団法人朝鮮癩予防協会」の支援により全島の土地買収が完了したことから、周防院長はやはり同協会の支援による慈恵医院の拡張を画策。その後、3段階にわたる拡張工事を実行しています。

 

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周防院長は経費節減を期して、これら拡張工事に患者たちを低賃金で動員しました。まずは島内にレンガ工場を建て、患者たち自ら生産したレンガ(写真)を建築材料とする手法を導入。当初は自分たちの生活の場を自身の手で作る喜びにあふれていた患者たちですが、1936年に始まった第2次拡張工事では作業がより過酷化するようになります。また1937年の日中戦争開戦以降は食糧配給も徐々に減らされたことから、患者たちの不満は深まるばかりとなり、赴任当初は評判のよかった周防院長への反感もまた増大の一途となります。規則に反した患者は法令「朝鮮癩予防令」の下に暴力的に監禁され、男性の場合は懲罰として精管切除による「断種」手術を施されるようになったのもこの時期からでした。
そうした中、道立から国立へ移管された直後の1934年10月には、それまでの小鹿島慈恵医院から「小鹿島更生園」と改称され、周防院長は「園長」、そして患者たちも「園生」と呼ばれるようになります。

 

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1939年からの第3次拡張工事では、その前年から園生の動員が強制化されたこともあってその過酷さがより激化し、日本人職員、とりわけ嗜虐的であった看護主任の佐藤三代治による理不尽かつ度重なる横暴によって園生たちは日々虐げられていました。この時期には毎日のように園生の死亡者が発生したほか島外への脱走者も続出し、中には対岸までたどり着けず波に飲まれてしまう悲しい事例もありました。

 

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そしてとうとう1942年6月20日、「報恩感謝日」の拝礼において、園生による周防園長の刺殺事件が発生します。実行した李春相(이춘상:イ・チュンサン)園生は取調べに際し、佐藤ら日本人看守による虐待から6千名の園生を救うには周防園長を殺害する他になかったと供述しますが、日本の司法に顧みられることはありませんでした。李春相園生はほどなく差別に満ちた判決文により死刑判決を受け、翌年には処刑されています。
さらに、後任として同年8月に赴任した西亀(にしき)三圭5代園長は佐藤の更迭以外に目立った改善はせず、むしろ皇民化政策を妨げるものとしてキリスト教の弾圧を強化します。

そして1945年8月の光復(日本の敗戦による解放)を迎え、西亀園長ら日本人職員は小鹿島を去ります。

日帝強占期の「朝鮮癩予防令」に基づくハンセン病患者の差別的隔離政策は、3年間の米軍政を経た1948年の大韓民国発足後もしばらく続き、朝鮮戦争休戦の翌年である1954年に廃止されます。以後、韓国においてハンセン病は一般の伝染病と同等の位置づけとなり、患者の在家治療も可能となりました。日本の「らい予防法」廃止よリ41年も前のことです。

 

小鹿島地図
前置きが長くなりましたが、小鹿島の旅レポに戻ります。
画像は小鹿島の地図と主要スポット。以下、本エントリーではこの図を「上図」と呼びます。

 

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居金大橋の人道(歩行者・自転車専用道)を抜けて細い坂道を下った先には国立小鹿島病院の駐車場があり、島内で唯一のバス停(写真1枚目:上図①)もここにあります。「中央公園」(次回エントリーにて紹介予定)へと続く観覧順路となる木製デッキの散策路(写真2枚目)もここから始まります。

 

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この駐車場の北側には売店があり、そのすぐ西側の一帯は「愁嘆場」(スタンジャン:上図②)と呼ばれています。
日帝強占期当時、小鹿島は患者たちの居住地域である西側の「病舎地帯」と、職員および「未感児」(ハンセン病に罹患していない患者の子)の居住地域である東側の「職員地帯」とに分断されていました。この場所はその境界線上にあり、患者と「未感児」たちが多くとも月に一度、それも距離を取らされたうえで面会できる唯一の場所であり、我が子を抱くことすらかなわない患者たち、そして親から引き離された子どもたちの嘆き悲しむ声に絶えず包まれていたことから、この名が付けられています。

 

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愁嘆場からは海沿いに木製のデッキの散策路が続いており、ところどころに小鹿島の歴史や施設を紹介する案内板が建てられています。デッキ上は自転車に乗っての通行は禁止ですので、自転車を押して歩きます。

 

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全長600mほどのデッキの終点付近には「哀恨(エハン)の追慕碑」(上図③)という石碑があります。
1945年8月の敗戦により日本人職員は小鹿島を退去しますが、これと並行して小鹿島更生園では残された朝鮮人職員の間で主導権争いが発生します。この争いに敗れた側の職員が「勝った側の職員が食料と医薬品を持って島外に逃げる」とのデマを流したため、危機感を抱いた園生(ハンセン病患者)たちが武器代わりの農機具を手に職員地帯へ押しかけると、職員がこれに発砲。園生のうち数名が射殺されました。
さらに8月22日、交渉との名目で呼び出した園生の代表たちが約束の場所に現れるや、武装した職員とその支援に来た高興の治安維持隊員たちはその全員を捕縛し、射殺。その後も代表格の園生を連行しては射殺し、最後にはその死体に松根油をかけて火をつけるという凶行を働いています。この一連の虐殺により、84名もの園生たちが命を奪われました。
虐殺から56年を経た2001年には、このとき殺害された園生たちの遺骨が発掘されています。その犠牲者を追悼し、事件を記憶するためその翌年に建立されたのが、こちらの碑です。

 

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「哀恨の追慕碑」と道路を挟んだ反対側には、国立小鹿島病院の本館が(上図④)。
その向かって左側には、小鹿島の歴史を描いた壁画の道があります。観光客にとってはデッキに続く順路となります。

壁画の道を抜けると、レンガ造りの古びた建物2棟が現れます。
患者たちが生産したレンガを用い、患者たち自身で建てたこれらの建物こそが、日帝強占期の小鹿島におけるハンセン病患者への差別、弾圧の歴史を如実に示すものです。

 

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「監禁室」(上図⑤)。
1935年築。2棟の建物を渡り廊下でつないだHの字型のこちらの建物は、同年に発令された「朝鮮癩予防令」第6条および同令施行規則第8条に基づき設置された施設で、ハンセン病患者のうち規則に反した者をここに監禁し、減食や断食、体罰などの人権蹂躙を行なった場所です。さらに男性の場合、監禁を解かれる際には隣接する「検屍室」などに連行され、問答無用で「断種」手術(精管切除)が施されました。
この建物は「旧小鹿島更生園監禁室」として国家指定登録文化財第67号に指定されています。

 

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監禁室の内部。経年劣化を考慮しても極めて劣悪な環境であったことが分かります。

 

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ハンセン病博物館」に展示されていた監禁室の見取り図。

 

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「検屍室」(上図⑥)。
1935年築。死亡した患者の遺体は本人の意思にかかわらずこの建物で解剖され、簡単な葬儀を経て荼毘に付されたうえで「万霊堂」と呼ばれた島内の納骨堂に納められました。当時、患者たちは自らの置かれた状況を「三度死ぬ」と表現したといいます。第一にハンセン病の発病、第二にこの建物での解剖、そして第三に火葬です。
またこの施設では、女性患者への堕胎、男性患者への断種手術も行なわれていました。
周防園長時代の1936年、小鹿島更生園ではそれまで禁止していたハンセン病患者同士の夫婦の同居を認めましたが、夫の断種手術をその必須条件としました。ハンセン病は遺伝せず、また出産時を含め子への伝染の可能性も著しく低いことは当時から明らかでしたが、当時の日本では患者たちが寿命を迎えることでのハンセン病「根絶」を期して、このような人権蹂躙政策が取られていました。
さらに、その後は院内規則に反した男性患者への懲罰として断種がなされるようになってゆきます。
この建物は「旧小鹿島更生園検屍室」として国家指定登録文化財第66号に指定されています。

 

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検屍室の内部。室内中央に残る台は当時の解剖台とされています。

 

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先ほど訪問した監禁室の渡り廊下に、強制的に断種手術を受けさせられた「李東」(이동:イ・ドン)という患者による詩「断種台」のパネルが掲げられていました。

 

단종대
이동 (李東)

그 옛날 나의 사춘기에 꿈꾸던
사랑의 꿈은 깨어지고
여기 나의 25세 젊음을
파멸해 가는 수술대 위에서
내 청춘을 통곡하며 누워 있노라
장래 손자를 보겠다던 어머니의 모습
내 수술대 위에서 가물거린다.
정관을 차단하는 차가운 메스가
내 국부에 닿을 때

모래알처럼 번성하라던
신의 섭리를 역행하는 메스를 보고
지하의 히포크라테스는
오늘도 통곡한다.

断種台
李東

その昔
私の思春期に夢見た
愛の夢は砕かれて
ここに私の25歳の若さを
破滅してゆく手術台の上で
私の青春を慟哭し横たう
将来
孫に会いたかったという母の姿
私の手術台の上でぼんやり浮かぶ。
精管を遮断する
冷たいメスが私の局部に触れるとき

砂粒のように繁栄したという
神の摂理に逆らうメスを見て
地下のヒポクラテス
今日も慟哭する。

 (日本語訳は拙訳ですので足らない部分もあるかとは思いますがご容赦願います)

パネルの右下には、「彼(注:周防園長)の命に逆らった罰で監禁室に閉じ込められて解放され断種手術を受けた患者の詩」とあります。看護主任の佐藤三代治による「松の木2株を移動しろ」との命令を忘れた、たったそれだけの理由でわが子と出会う機会を永遠に奪われました。

 

2017年10月の小鹿島探訪の旅は、もう少し続きます。
続きは次回のエントリーにて。

 

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