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群山の旅[201801_02] - 日本の収奪の痕跡を歩く①-群山線臨陂駅と沃溝農民抗日抗争、そして嶋谷金庫

前回のエントリーの続きです。 

本年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の2日目、20181月20日(土)です。

 

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午前7時、夜明け前の寒い中をバスに乗り込みます。

 

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まずやって来たのは、同じ群山市内とはいえ市街地から遠く離れた臨陂面(イムピミョン。面は日本の「●●郡●●村」に相当)にあるKorail韓国鉄道公社)長項線の休止駅、臨陂(イムピ)駅。1936年頃に建てられた木造駅舎(写真)を見学するためです。
臨陂駅は日帝強占期の1924年開業。当時の臨陂面は群山市ではなく、その前身のひとつである沃溝(オック)郡に属していました。写真の駅舎は2代目で、現存する駅舎では隣の益山(イクサン)市内にある全羅線(チョルラソン)の旧春浦(チュンポ)駅舎の次に古いものとされています。当時の農村地域における小型駅舎の典型的様式をほぼ原型のまま留める物件だとして、国家指定登録文化財第208号にも指定されています。

 

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総延長約154kmの長項線のうち、臨陂駅を含む益山(イクサン)駅~群山駅の約20kmの区間は、かつて群山線(クンサンソン)と呼ばれていました。
群山線は1912年、当時は群山港近くにあった旧群山駅と、湖南線(ホナムソン)に接続する裡里(イリ)駅(現・益山駅)とを結ぶ湖南線の支線として開業。全長約23.1kmのこの路線は、朝鮮最大の穀倉地帯であった湖南平野一帯で収穫した米を群山港を介して日本へ搬出するために建設されたものであり、まさしく収奪の手段たるインフラでした。
開業当初は配置簡易駅(駅長がおらず、隣接する駅の管理下にある駅)であった同駅は、利用者増により1936年には普通駅(駅長がいる駅)に昇格、これと前後して現存する2代目駅舎が建てられています。しかしその後は徐々に利用客が減少し、1995年には再び配置簡易駅に格下げされ、2005年には貨物取扱が中止、そして2006年には無配置簡易駅無人駅)に格下げ。そうした中で2008年には群山市が北側で面する大河、錦江(クムガン)を渡る橋梁の完成により長項線と連結、群山線は同線に編入されます。このとき舒川(ソチョン)~益山間に新設されたセマウル号が停車するようになったため、臨陂駅はKorail史上初のセマウル号が停車する無人駅として注目を浴びたといいます。しかしこの列車はわずか4ヵ月で廃止され、同時に臨陂駅の旅客取扱も停止。その後今日に至るまで実質的な廃駅となっています。

 

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まだ午前7時台ということもあり駅舎の玄関は閉じられていましたが、日中は開放されているそうです。写真は窓ガラス越しに撮った駅舎内。

 

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駅舎の内外には、ブロンズ色をした等身大の再現人形がいくつも立てられています。これらは群山出身の小説家、蔡萬植(채만식:チェ・マンシク、1902-1950)氏の短編小説『レディメイド人生(레디메이드 인생)』などの作品世界を題材にしたものです。
蔡萬植氏は1902年、現在の群山市臨陂面生まれ。日本の早稲田大学付属第一早稲田高等学院に在学したこともありますが、関東大震災の影響により学業半ばで朝鮮への帰郷を余儀なくされ、まもなく退学抜いとなっています。
その後は短期間の新聞記者生活を経て小説家デビュー。当初の社会告発的な作風からまもなく風刺的な作風に転向、前述した『レディメイド人生』などで風刺作家としての地位を確固たるものとします。
蔡萬植氏は1940年代以降、その著作などで日本の戦争進行に積極加担したため「親日反民族行為者」と認定されています。1948年には自身のそうした過去と向き合い、それらを告白した自伝的短編小説『民族の罪人(민족의 죄인)』を発表。本作により蔡萬植氏は韓国で初めて親日行為を自ら認めた作家とされ、その点については評価する向きもあるとのことです。
生涯で200本もの作品を執筆した蔡萬植氏は1950年6月11日、肺結核により死去。朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)勃発のわずか2週間前でした。

 

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国家指定登録文化財の指定対象は臨陂駅舎本体のほか、その向かって右側にある別棟のトイレ(写真)も含まれます。韓国でも珍しい登録文化財のトイレ。トイレ建物そのものが文化財に指定されている事例では、全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の仙岩寺(ソナムサ)にある「順天仙岩寺厠間」(全羅南道文化財資料第214号)などがありますが、こうした近代的なトイレ、それも独立した建物が文化財に指定されているものはあまり類例がないようです。
現在は使用が禁止されており、ここで用を足さないようにとの注意書きが内部のいたるところに貼られています(しかし臭いは現役のトイレのそれでしたが……)

 

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トイレの前にあった「午砲台(オポデ)」。本来はその名の通り、正午を知らせるための空砲である「午砲」を撃つ施設をいいますが、ここでは空砲ではなくスピーカーからサイレンを流していたようです。

 

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臨陂駅は休止駅ですが、構内を走る長項線の線路は現役であり、たまに列車が通過します。
なお現在、同駅を含む長項線の大野(テヤ)~益山間は複線電化工事が進められており、遠くにはそれらしき高架線も見えました。完成時には臨陂駅舎も移設されるとのことです。

前述したように臨陂駅は休止駅であり、どの列車も停車しないため、アクセスは必然的に市内バスのみとなります。
Korail「群山」駅からは直通のバスがないので、まず長項線下り(益山方面)のムグンファ号に乗車し隣の「大野(テヤ)」駅で下車(約9分:約260円)、徒歩約6分(約370m)の「大野ターミナルサゴリ(대야터미널사거리)」バス停から<21><22><23>番市内バスのいずれかに乗車、約12分で到着する「臨陂駅(임피역)」バス停から徒歩約2分(約150m)。ただし大野駅に停車するムグンファ号は下りが1日5本、上りは1日4本しかありません。なおタクシーであれば群山駅から約19分、13,200ウォン(約1,320円)前後で到達できるようです(交通条件によって異なる)。
群山高速バスターミナル」または隣接する「群山市外バスターミナル」からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<21><22><23>番市内バスのいずれかに乗車、約36分で到着する「臨陂駅(임피역)」バス停から徒歩約2分(約150m)
以上のいずれも2018年12月時点の情報です。

群山旧臨陂駅(군산 구 임피역:全羅北道 群山市 臨陂面 書院石谷路 37 (戌山里 226-1)。国家指定登録文化財第208号)

 

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臨陂駅前には「時失里」(시실리:シシリ。「時間を失った里」の意)と名付けられた広場があり、ここにも蔡萬植氏の作品世界を再現した人形が随所に設置されています。その名前の通り、まるで時間が止まってしまったかのように物語の中の日常を切り取られ、広場のあちこちで静止する人形たち。異空間に放り込まれたような感覚です。
とはいえ季節は真冬。全身に霜が降りてしまった人形さんたち、ちょっと寒そう。

 

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駅前広場には、かつてのセマウル号の客車が。
「汽車展示館」と名付けられた2両の客車内には、案内板によると「群山線と日帝の収奪」「小説『濁流』・『セキルロ』」(いずれも蔡萬植氏の作品。セキルロとは「3つの道へ」の意)などの展示スペースが設けられているとのこと。ただし早朝でしたので入ることはできませんでした。

 

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そんな駅前広場の一角に、「沃溝農民抗日抗争」と記された写真の石碑がありました。
「沃溝二葉社農場小作争議」とも呼ばれるこの抗争は、1927年11月に群山市(当時は沃溝郡)臨陂面一帯にて発生した、日本人大地主に対する朝鮮人小作農たちの抗争をいいます。
当時この一帯の農地は、日本人大地主が経営する「二葉社農場」が所有し、朝鮮人小作農たちは多額の小作料の納付を強いられていました。これは群山(沃溝)のみならず、当時は朝鮮全土で同じような図式が展開されていました。
大日本帝国の植民地統治機関である朝鮮総督府は朝鮮全土の農産物を効率的に収奪するため、「土地調査事業」と称して朝鮮人の土地を安値で買い叩き、あるいは文字通り奪い取って、それら土地を日本人入植者に払い下げます。そして大地主となった日本人たちは、元々それらの土地で耕作していた朝鮮人から多額の小作料を得て富を蓄積し、経済力と権力をますます強めてゆきました。二葉社農場もまた、そうした日本人大地主により当時の朝鮮に点在していた典型的な植民地型農業経営会社のひとつです。

 

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沃溝農民抗日抗争の発端は、その3ヵ月前の1927年8月9日にさかのぼります。
この日、瑞穂(ソス。近隣の地名)青年会による農民啓発目的の講演会の内容が不穏だという理由で講師3人が警察に連行され、これに怒った農民数百名が駐在所を取り囲み、3人の釈放を要求して万歳運動を繰り広げる事件が発生しています。
地域農民たちの不満が日々高まる中、二葉社農場は同年11月、朝鮮人小作農たちに対し収穫の75%という法外な小作料引き上げを通告します。当時の小作料は全国平均で48%、群山を含む全羅北道地域では42%~46%でした【参考記事】。これらの数字でさえもあまりに過酷であるというのに、75%という数字がいかに人の道に反するものであったかが理解できるかと思います。

 

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小作農たちの組織であった瑞穂農民組合はこれに激しく反発、小作料を45%に引き下げるべく二葉社農場との交渉を模索しますが、農場側はこれを黙殺したため、ついに小作料の不納による小作争議に突入します。
そして11月25日、組合幹部の張台成(장태성:チャン・テソン、1909-1987)氏が交渉委員として二葉社農場へ出向いたところ、農場側の通報により駆けつけた群山警察署員により脅迫の疑いで拘束される事件が発生。これに激怒した組合員500名あまりがその日の夜に臨陂駅駐在所を襲撃し、拘留中の張台成氏を救出します。
群山警察署は消防署や近隣の警察署に応援を要請してこれを鎮圧。最終的に組合員80名以上が逮捕され、懲役6ヵ月の張台成氏を含む34名が実刑判決を受け収監されています。
この一連の抗日抗争を記憶し、抗争をした小作農たちを称えるために建てられたのが、こちらの石碑です。

 

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臨陂駅前からは再びバスに乗り、今度は群山市開井面(ケジョンミョン)の「鉢山(パルサン)」というバス停で下車。そこから7分ほど歩くと、鉢山初等学校(日本の小学校に相当。写真)の正門前に到着します。

 

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鉢山初等学校の正門前にあった、次の目的地を示す案内板(上段)。300mとあります。

 

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正門前を右折し、学校の敷地を回り込むようにして校舎の裏手へ進むと、そこには日本の蔵のような形をした写真の建物があります。
1920年頃築のこちらの建物は「群山鉢山里旧日本人農場倉庫」といい、かつて当地に入植していた日本人農場主、嶋谷八十八(しまたに・やそや)が金庫として用いるために建てたことから「嶋谷金庫」とも呼ばれているものです。
日本で酒造業などにより財を成した嶋谷は朝鮮へ渡り、群山に入植。1909年には486町歩(約145万坪)もの農場を所有する大地主となります。
一方で朝鮮の文化財に強い関心を抱いていた嶋谷は、莫大な財産を元手に書画や陶磁器など朝鮮の古美術品を収集していました。現金や重要書類に加え、そうしたコレクションを保管するのに並の金庫では到底間に合わないため、代わりに建てたものがこちらの建物です。

 

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当時では珍しい鉄筋コンクリート製で、出入口には米国から取り寄せた鍵付きの分厚い鉄の扉を設置。窓にも鉄格子がはめられています。加えて当時は建物の周囲に鉄柵と鉄門があったそうです。これほどまでに頑丈な造りのため、朝鮮戦争当時には群山に駐留した人民軍が地域の右翼人士を監禁するために用いたといいます。

 

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建物は開放されており、私が訪問した午前8時台の時点では自由に入ることができました。
出入口は2階と通じています。この階では農場の重要書類や現金などを保管していたそうです。

 

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急角度の木製階段を登った先にある3階。古美術品コレクションはこの階で保管されていたとのことです。

 

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f:id:gashin_shoutan:20180930190842j:plain2階の床には大きな穴が空いており、ここからさらに急角度の木製階段を下ると半地下室の1階です。薄暗くかつコンクリートむき出しの殺風景なこの階では、布地や食料品などを保管していたといいます。

 

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嶋谷金庫から歩いて1分ほど、鉢山初等学校の校舎のちょうど裏側には、いくつもの石塔や石像が立つ空間があります。

 

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これらもまた嶋谷八十八が収集したコレクションであり、言うまでもなく本来は別の場所にあったものです。

 

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これら石塔の中には、文化財的価値が極めて高いものも存在します。写真は順に「群山鉢山里五層石塔」(군산 발산리 오층석탑:宝物第276号)「群山鉢山里石灯」(군산 발산리 석등:宝物第234号)「鉢山里六角浮屠」(발산리육각부도:全羅北道文化財資料第185号)。中でも宝物は文化財の序列でいうと国宝の次、日本でいえば「重要文化財」に相当します。

嶋谷八十八は土地に対する執着が強かったといい、光復(日本の敗戦による解放)後に他の日本人が去った後も自分の農場を守るために帰国を拒否、ついには米軍政庁に帰化を申請するほどでしたが、結局は米軍政庁による強制的措置によりカバン2つだけを提げて帰国したといいます【参考記事】。
収奪を通じて得た富による我欲のための文化財収集、さらには本来あるべき場所からの移動をも厭わなかった嶋谷ですが、それでも朝鮮の文化財を日本に持ち出さなかった点だけでいえば、まだ良心的であったと言えるのかもしれません。
現在の大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の領域からは、古くは高麗・朝鮮時代の倭寇により、また近年では植民地支配下の収奪の一環で無数の文化財が日本に持ち出され、その総数は数万点にのぼると推計されています。中でも日帝強占期におけるそれらは、日本人たちが朝鮮での人的・物的収奪を通じて得た資金を元手に安く買い叩き、あるいは不法に取得したものであり、まさしく二重の収奪の産物というべきものです。

 

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群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)、および嶋谷が収集した石塔・石像群は開放されており、誰でも24時間(たぶん)無料で立ち入ることができます。
Korail「群山」駅からは直通のバスがなく、また前述した長項線「大野」駅経由だと逆戻りになるので、割り切ってタクシーを利用することをおすすめします(バス乗り継ぎは不確定要素が大きいですよね……)。行き先は「鉢山初等学校(パルサン・チョドゥンハッキョ)」を指定するとよいでしょう。約9分、6,800ウォン(約680円)前後で到達できるようです(交通条件によって異なる)
「群山高速バスターミナル」または隣接する「群山市外バスターミナル」からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<21><22><23><24><25><27><28><31><32><33><36><37>番市内バスのいずれかに乗車、約20分で到着する「鉢山(발산)」バス停から徒歩約10分(約640m)
以上のいずれも2018年12月時点の情報です。

群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)(군산 발산리 구 일본인 농장 창고 (시마타니금고):全羅北道 群山市 開井面 パルメキル 43 (鉢山里 45-1)。国家指定登録文化財第182号)

 

鉢山バス停からは三たび市内バスに乗り、今度は群山中心部へ戻ります。
続きは次回のエントリーにて。

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