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釜山の旅[201711_02] - 絶品のテジクッパと不遇の画家を記念した「李仲燮通り」、釜山・東区の「釜山鎮」を歩く

前々回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、明けて2日目(2017年11月18日(土))の朝です。

 

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この日最初に向かったのは東区(トング)、前夜に利用した都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一(ポミル)」駅からひとつ南側にある「佐川(チュァチュン)」駅。
5番出口を出て北西方面へ向かうと、写真の建物「鄭公壇(チョンゴンダン)」が現れます。

 

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壬辰倭乱(「文禄・慶長の役」。豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)が始まった1592年の4月。当時の釜山僉節制使(チョムジョルジェサ。朝鮮時代の武官の官職名)であった鄭撥(정발:チョン・バル、1553-1592)は、朝鮮国の関門ともいうべき釜山を守るため、当時この一帯にあった釜山鎮城(プサンジンソン)を拠点に郡民を率いて日本の先鋒部隊と果敢に戦いますが(釜山鎮の戦い)、その最中に被弾して戦死します。
こうして亡くなった鄭撥とその幕僚、そして郡民たちを追悼するため、1766年に当時の釜山僉節制使であった李光国(이광국:イ・グァングク、?-1779)により釜山鎮城の南門の位置に建てられたのが、この鄭公壇です。
その後は釜山鎮城の陥落日である旧暦4月14日に代々の釜山僉節制使が祭祀を執り行ない、1895年の甲午改革以降は「享祀契(ヒャンサゲ)」と呼ばれる地元有志の団体に受け継がれてきましたが、1942年には民族魂を覚醒させるものとして日本により祭壇は閉鎖され遺品なども没収、享祀契も解散に追い込まれます。そして光復(日本の敗戦による解放)後まもなく享祀契は復活し、現在は鄭公壇保存会が管理と旧暦4月14日の祭祀を実施しているとのことです。

 

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鄭公壇の内部。鄭撥のものをはじめ、いくつもの碑が立ち並んでいます。

鄭公壇(정공단:釜山広域市 東区 鄭公壇路 23 (佐川洞 473))

 

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鄭公壇から路地を挟んだすぐ隣の建物のガレージ上には、写真の石碑が建っています。

 

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こちらは「梅見施紀念碑」といい、ここ釜山でハンセン病患者たちの治療に尽くしたオーストラリア人宣教師のジェームス・N・マッケンジー(James Noble Mackenzie、1865-1956)、韓国名「梅見施(매견시:メ・ギョンシ)」牧師の活動20周年を記念して1930年に建てられ、その後失われた石碑を2001年に復元したものです。

 

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梅見施牧師(写真)が初めて釜山を訪れた1910年当時、ここ釜山では米国人のアーウイン(Charles H. Irvin、1862-1933)、韓国名「魚乙彬(어을빈:オ・ウルビン)」宣教師が現在の南区(ナムグ)戡蛮洞(カンマンドン)にハンセン病の治療施設「相愛園(サンエウォン)」を創設、患者たちの治療に励んでいました。1912年に相愛国の2代園長となった梅見施牧師はハンセン病患者の救済に献身し、その後4,000人以上もの患者たちの治療に携わっています。こうした活動により就任当時は54人だった収容患者数は、牧師が園長職を退いた1937年には600人あまりに増加、その周囲には収容しきれないハンセン病患者たちの村が自然形成されたほどだったといいます。また梅見施牧師は先進治療方法の導入にも積極的で、当時はハンセン病の特効薬とされた大風子油(だいふうしゆ)の注射などにより、患者の死亡率を25%から2%に低減することに成功しています。
梅見施牧師は1938年にオーストラリアヘ帰国、1940年にはビクトリア長老教会の総会長となり、当時の「白豪主義」やアジア人差別を批判するなどの活動をしています。
そして1956年、梅見施牧師はメルボルンにて他界。その遺志は、2人の娘によって受け継がれました。

 

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梅見施牧師の死去4年前、朝鮮戦争さなかの1952年。長女の梅恵蘭(매혜란:メ・ヘラン、1913-2009)、次女の梅恵英(매혜영:メ・へヨン、1915-2005)の両氏は、かつて父が暮らした釜山を訪れます。両氏をはじめとするオーストラリア長老教韓国宣教会は、まもなく釜山に「日新(イルシン)婦人病院」を設立、初代病院長には梅恵蘭氏が就任しました。
その後「日新基督病院」に名を改めたこの病院は、今日もここ釜山・佐川洞にてキリスト教の教えに基づく医療を実践しています。写真は「梅見施紀念碑」のすぐ近くにある病院本棟で、紀念碑もまたその敷地内に位置しています。

 

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日新基督病院から坂道を登った先にある「釜山鎮日新女学校」。
1895年にオーストラリア長老教宣教会のベル・メンジース(Belle Menzies)宣教師らによって設立された、釜山で初めての女性のための近代教育機関「日新女学校」の校舎として1905年に竣工した近代建築であり、釜山広域市の記念物第55号に指定されています。

 

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日新女学校校舎のそばには、「釜山鎮日新女学校3.1運動万歳示威地」を示す案内板が。
1919年3月1日のソウルでの「独立宣言」朗読を皮切りに朝鮮全土で展開された、万歳示威(デモ)などによる抗日独立運動「3.1運動」。ここ釜山で最初となる万歳デモの地が、まさにこの日新女学校なのです。
「独立宣言」朗読から10日後の3月11日夜。日新女学校の教師と生徒たちがこの付近に集結し、前日に手作りした50本の太極旗を手に街を練り歩き、約2時間の万歳デモを挙行。しかし彼らは日本警察によりまもなく逮捕され、主導した2人の教師は懲役1年6ヵ月、また生徒11人も同6ヵ月の刑を受けています。

 

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こちらの建物「釜山鎮日新女学校」は、月~金曜日の午前9時~午後5時に内部が解放されているようです(この日は土曜日だったので閉館)。都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川」駅からは徒歩約2分(約140m)で到達できます。

釜山鎮日新女学校(부산진일신여학교:釜山広域市 東区 鄭公壇路17番キル 17 (佐川洞 768-1)。釜山広域市記念物第55号)



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日新女学校の真向かいに建つ「釜山鎮教会」。
日新女学校の創始者でもあるメンジース宣教師らオーストラリア長老教宣教会によリ1891年に設立されたこちらの教会は、その前年に米国北長老教のウィリアム・ベアード(William M.Baird、1862-1931)、韓国名「裵偉良(배위량:ぺ・ウィリャン)」宣教師やその妻たちが当地にて礼拝を捧げたものがその起源とされ、嶺南(ヨンナム。釜山を含む慶尚道地域の総称)では最初の教会とのことです(現建物は1955年築)。

 

さて、思えばこの日はまだ朝食も食べていませんでした。時計を見ると午前9時半。これから歩いて行けばちょうど目的のお店の開店時間です。
お昼には長蛇の列が形成されるほどの人気店というそのお店、開店早々の空いているであろう時間を狙って向かうことにします。

 

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やって来たのは昨夜も訪問した凡一洞(ポミルドン)、釜山の名物料理「テジクッパ」(돼지국밥:テジ(豚肉)のクッパ)の名店として知られる1956年創業のお店「ハルメクッパ」。実はこちらのお店、前回(2017年2月)の釜山の旅でも訪問したのですが、あいにく定休日(日曜日)だったためありつけなかったもので、今回はそのリベンジを兼ねての再訪となります。お店の前には早くもうまそうな匂いが漂います。

 

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店内に入ります。オープン時刻の午前10時からまだ10分くらいしか経過していないのに、ほぼ満席です。もちろん、注文したのは看板メニューの(テジ)クッパ、5,500ウォン(約580円:当時)。安いのもまた魅力です。

 

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そしてやって来たクッパ。スユク(수육:豚肉などを茹でたもの)がごろごろ入っています。豚のダシが効いたコク深い味。かなりうんまい。こりゃあ人気店なわけです。底にはご飯が入っていますので、これを後回しにして食べると最後の一滴までコクのあるスープを無駄なく堪能できます。

 

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こちらのお店「ハルメクッパ」営業時間は午前10時~午後8時、日曜日定休。都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一」駅からだと前回のエントリーでも紹介した跨線橋、通称「クルムタリ」(写真)経由で約7分(約440m)で到達できます。開店早々、私が食べている間にもひっきりなしに来客が入ってくるほどの人気店であり、前述した通りランチタイムには毎度のように列が形成されるとか。しかしそれだけ苦労してでも食べたい味です。

ハルメクッパ(할매국밥:釜山広域市 東区 中央大路533番キル 4 (凡一洞 28-5))

 

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ハルメクッパの店舗付近から始まる道路は、かつてこのあたりに居住したこともある西洋画家、李仲燮(이중섭:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏の名を冠した「李仲燮通り」(이중섭거리)と呼ばれています。

 

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李仲燮氏は1916年4月10日、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する平安南道(ピョンアンナムド)平原(ピョンウォン)郡で大地主の次男として誕生。中学卒業後に進学した五山(オサン)高等普通学校では、米エール大学で美術を学びパリでの活動経験もある西洋画家、任用璉(임용련:イム・ヨンニョン、1901-?)氏に師事。このとき西洋芸術に触れたことと民族意識に目覚めたことが、後の作風の基礎となったとされています。

 

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1935年には日本へ渡り、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学しますが、1年後には日本文化学院に移ります。これは文化学院が文部省の干渉を受けない前衛的な雰囲気であったためとされています。このときフォーヴィスム(野獣派)の作風で頭角を現した李仲燮氏は自由美術家協会に加入、1943年の第7回協会展では最高賞である太陽賞を受賞します。
同年に李仲燮氏は作品出展のため元山(ウォンサン。現在は朝鮮民主主義人民共和国)へ戻りますが、戦況悪化に伴い現地に留まります。その李仲燮氏を追いかけてひとり関釜連絡船に乗り、機雷の敷設された玄海灘を渡り会いにきた文化学院の後輩の日本人女性と1945年5月に元山で結婚。最初の子を生後まもなく亡くした後に2人の男児に恵まれますが、まもなく朝鮮戦争(韓国戦争)が開戦、越南(38度線を南へ下ること)を余儀なくされます。

 

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越南後は釜山に続き済州島西帰浦(ソギポ)、慶尚南道キョンサンナムド)の統営(トンヨン)と晋州(チンジュ)、大邱(テグ)などを転々としつつ絵画を描き続けますが、画材が買えずにタバコの箱の銀紙をキャンバス代わりとするほどの貧困のため、1952年7月頃にはやむなく妻と子を日本へ送り出します。翌年7月には友人を介して得た外航船員証で当時国交のなかった日本へ渡り、1週間の滞在中に愛する妻と子との1年ぶりの再会を果たしますが、それが今生の別れとなりました。
1955年1月にはソウルの美都波(ミドパ)ギャラリーで最初の個展を開催。しかし男児の裸を描いた銀紙絵がポルノだという理由で撤去され、そのうえせっかく売れた絵の代金を踏み倒されるなど惨憺たる結果に。貧困下での港湾労働など激務に伴う疲労蓄積に加え、酒量増などに伴う肝臓疾患、さらには心身衰弱に伴う精神疾患発症などが加わり、1956年9月6日にソウル赤十字病院にて死去。その3日後に友人が訪問するまで、誰も遺体の引き取り手のいなかった孤独な死でした。

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通り沿いに飾られていた李仲燮氏の絵画のレプリカ。
李仲燮氏は韓国で最も人気の高い画家の一人であり、その作品がオークションに出品された際には日本円で億単位の値段が付くことも珍しくないそうです。

 

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通りをしばらく進むと現れる階段。一定の場所から見ると李仲燮氏の顔が浮かび上がってきます。

 

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階段の横には李仲燮氏の作品を描いたタイルがいくつも埋め込まれています。その中には李仲燮氏が愛する妻と子に送った手紙に描いたものも。メッセージが日本語で書かれています。
写真2枚目文中の「南徳(ナムドク)」とは日本人の妻の韓国名で、「南からやって来た徳の多い女性」との意味で李仲燮氏自ら名付けたものだそうです。3枚目の「やすかたくん」とは年長の男児の名前。

 

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階段を登った先にある「李仲燮展望台」。李仲燮氏も眺めたであろう、釜山らしい斜面に張り付いた住宅の風景が一望できます。

 

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李仲燮展望台から少し下ったところには、氏の数ある作品の中でも特に知名度の高い数点のタイル画を含む壁画広場がありました。

 

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「黄牛(황소)」(1953年作)。
李仲燮氏の作品の中でも特に知られ、かつ評価が高いのが牛を描いた作品群であり、これらの大半は1952年から翌年にかけての統営在住時に描かれたものです。

 

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「旅立つ家族(길 떠나는 가족)」(1954年作)。
妻と二人の子を乗せた牛車、そしてそれを曳く作者自身の姿を描いた作品です。先に紹介した「やすかたくん」宛ての手紙の絵と同じ構図です。

 

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「鶏と家族(닭과 가족)」(1956年作)。
李仲燮氏自身もそうであったように、南北分断に伴う離散家族の悲哀を代弁するかのように描かれた、氏の最晩年の作品です。 

 

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李仲燮通りから少し歩いて、次にやって来たのは「釜山鎮市場(プサンジン・シジャン)」。
朝鮮時代の五日市「釜山場」に由来するこちらの市場は、1913年9月に常設市場として開設されました。1970年に竣工した4階建ての市場ビルには、2016年現在で1,350店もの店舗が入居しているとのこと。それらのうち半数近い600店が礼服や反物、進上物など「婚需」(혼수:ホンス。婚姻関連用品)の専門店であり、ソウルの東大門市場(トンデムン・シジャン)、大邱の西門市場(ソムン・シジャン)とともに全国3大婚需専門市場と呼ばれているそうです。

 

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釜山鎮市場の内部。

 

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こちらは「幣帛」(폐백:ペベク。新婦が婚礼の後に新郎の両親と対面する儀式で用いる飲食物の進上物)を専門に扱うお店です。

  

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地下1階、釜山鎮市場で働く人々の胃袋を預かる飲食店コーナー。客席の椅子が金色だったのにはちょっとびっくり。そういえば先の写真にもあるように市場ビルの玄関も金色の装飾で彩られていました。婚礼関連のお店が多いということで好んで用いられているのかもしれません。

 

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釜山鎮市場ビルの横の通りもまた飲食店街。その中のある店でぐつぐつ煮込まれていたクッパと思しき大鍋には、直前まで入っていたであろうビニール袋の形がくっきりと残る巨大なソンジ(선지:牛の血を固めたもの)が。こんなの初めてみました。

この飲食店街を南へ進み、次の目的地へと歩くのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。 

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