かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

ブログの更新を再開しました。

こんばんは、ぽこぽこです。

本ブログの前回更新は一昨年(2021年)12月31日でしたか、ちょうど2年ぶりのエントリーですね。
この2年間、個人的には立て続けによくないことばかりが続き、恥ずかしながら本ブログを更新する気力さえも失っていましたが、どうにかようやく2年ぶりに更新へとこぎ着けることができました。
悪いことばかりの2年だとは言っても、その中で唯一よかったことは昨年末より約2年10ヵ月のブランクを経て再び自由に韓国の旅ができるようになったことです。では、昨年末から本年にかけての韓旅をダイジェスト版で紹介したいと思います。

 

●2022年12月:全羅南道順天市江原道太白市江原道束草市江原道春川市ソウル特別市

 


2022年12月2日早朝、仁川国際空港に到着。2020年2月19日以来、実に1,018日ぶりに韓国の地を踏むことができました。
長引くコロナ禍の中、一度はあきらめた韓旅の再開です。

 


まず真っ先に向かったのは、どうしても再開後最初の旅で訪問したかった全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市でした。約3年ぶりの訪問です。
以前に読破した大河小説『太白山脈』の舞台のひとつであり、また同小説でも扱われていることなどから強い関心のある1948年10月の「麗水・順天事件」(麗順事件)の現場でもある順天市。昨年にユネスコ世界自然遺産にも登載された順天湾干潟を含む順天湾湿地や、朝鮮時代の村のたたずまいを今日に残す楽安邑城民俗村(ナガンウプソン・ミンソクチョン)に代表される観光名所を多く抱えるほか、これまで本ブログでも紹介してきたようにいくつもの名店、そしてうんまい料理の数々があります。
この旅以降も足繁く通い続けた結果、順天はこの1年間で(さらには過去5年間でも)国内外を通じて最も多く訪問した旅先となってしまいました。

 


初日の夕方は、順天市内の夕陽の名所「臥温海辺(ワオン・ヘビョン)」へ。ちょうど4年前、2019年の大晦日に同年最後の日没を見に行って以来の訪問です。この日も幸いなことに順天湾の向こうに沈む夕陽を眺めることができました。
この臥温海辺には食品や雑貨などを販売するお店「臥温シュポ(スーパー)」があり、こちらのお店では屋外の木製テーブルなどで、オムク(オデンの練り物を串に刺した食べ物)などと一緒にお店の売り物の缶ビールなどを飲みつつ、日没を鑑賞することができます。日が落ちて急激に冷え込む中、熱々のオムクで温まることができました(店内にも席があるのでご安心ください)

 


順天での1日目の夕食は、在来市場アレッチャンの場内にある酒場「61号ミョンテジョン」にて。順天の地マッコリを中心に何種類ものマッコリを好きに選んで飲めるうえ、順天湾産のチルゲヤマトオサガニを揚げた「チルルッケ」(写真2枚目、チルルッケはチルゲの順天方言)や屋号にもなっている「ミョンテジョン」スケトウダラのチヂミ)など料理もうんまいので、順天を訪問する度に必ず立ち寄っています。
順天訪問が3年ぶりということは、こちらのお店の料理を味わうのも3年ぶり。もう目尻が下がりっぱなしです。

 


旅の2日目(12月3日)は、個人的にお気に入りの場所でもある「順天湾国家庭園」を訪問。本年4月から10月まで開催された「2023順天湾国際庭園博覧会」の準備のため、この当時は園内のあちこちで工事が進行されていました。

ところで私は、コロナ禍直前の2020年2月の韓旅以降、国内外を問わずずっと旅行を断っていました。もちろ最大の理由は、意図せずとも感染拡大に加担しないためです。旅好きの私には正直つらい毎日でした。
その後、2021年後半頃から国内では行動制限が収まってきてもなお、私は旅行断ちを続けていました。依然として韓国を含む海外渡航が不可であったためでもありますが、私は次の最初の旅先は韓国、それも順天だと決めていたので、その日が来るまで待ち続けていたわけです。その千日あまりもの間、韓旅の夢をいったい何度見たことか。
そうしてやっと巡って来たこの機会。ひたすら感無量だったとしか言いようがありません。旅の初日である前日(2日)はただ喜びの感情ばかり先走っていましたが、2日目のこの日、この順天湾国家庭園にて人のいないところでマスクを外して少し歩いたとき、様々な記憶が胸中を去来し、思わず感極まってしまった思い出があります。あの日の思いはきっと終生忘れないでしょう。

 


この旅の個人的なテーマは「2020年の韓旅のやり直し」。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、2月で早々と中断せざるを得なかった2020年の韓旅の目的地をその訪問順になぞって行くことで、これから再び始まるべき旅の景気づけとすることが目的です。
同年の幕開けを迎えた順天市から続いて向かったのは、はるか遠く離れた江原道(カンウォンド。当時)の太白(テベク)市。光州(クァンジュ)広域市のバスターミナル「ユー・スクエア」から太白行き市外バスがあるのでこちらを利用しましたが、ただでさえ6時間以上もかかるうえ、順天から光州までは高速バスよりも遅いKORAIL慶全線キョンジョンソン)ムグンファ号を利用したため、移動にほぼ半日を費やしてしまいました。

 


太白市の訪問はこのときが通算4回目。人口はいまでこそ約4万人と韓国で最も人口の少ない市ですが、1980年代末までの石炭産業の活況期には最大13万人もの人口を誇った一大産炭都市でした。市内には鉱夫たちがナイトライフを楽しんだ歓楽街を当時のたたずまいのまま残した「鉄岩炭鉱歴史村」や、かつての炭鉱社宅の壁を鉱夫たちの壁画で彩った「上長洞壁画マウル」など往年の繁栄を記録するスポットが点在するほか、スープベースの「太白タッカルビ」をはじめその当時に生まれた独特の食文化があります。こうした理由もあって、数年おきに好んで訪問している街です。

 


太白には「○○実費食堂(シルビシクタン)」という名前の、練炭の炎で牛肉を焼いて食べるスタイルの焼肉店が複数存在します。今夏訪れたのはそれらの中でも名店のとして知られる「太白実費食堂」で、この旅で利用した民泊のご主人に連れて行っていただきました。
それにしても、炭火で焼いて食べる牛肉、なんであんなにうんまいのでしょうね。

 


太白で2泊した後は、まずKORAIL太白線のムグンファ号で東海(トンへ)駅へ移動。続いて同東海線のヌリロ号に乗り、「世界一海岸に近い駅」としてギネス世界記録にも認定されている正東津(チョンドンジン)駅を通って江陵(カンヌン)駅へ。東海・江陵ともに訪問は今回が初めてでしたが、このときは乗り換えただけですので訪問先には加えておりません。特に江陵には前々から気になっている食堂があるので、いずれ必ず訪問したいと思います。

 


江陵から市外バスに乗車して約2時間で到着したのが、2020年2月の旅で訪問した同道束草(ソクチョ)市。太白を発ってからここまで約5時間、うち乗車時間だけでも約4時間。江原道の広さを改めて思い知らされます。

 


束草では、どうしても再訪したい場所がありました。
こちらのエントリーで訪問記を紹介した酒場「番地オンヌン酒幕」、その跡地です。
コロナ禍明けの再訪、ご主人との再会を誓っていたこちらのお店は、2021年の旧正月頃にご主人が亡くなったことで、永遠にそのドアを閉じることとなりました。
ご主人が自ら醸したあのうんまいマッコリは、もう再び口にすることはできません。なにより、初訪問の私を歓待してくださったご主人と再びお目にかかれない、お話できないことが悲しくて寂しい。

 


主がいなくなって久しい店舗建物の玄関に、お花を残して。

 


束草で1泊し、市外バスで次に訪れたのは同道春川(チュンチョン)市。前回・2020年2月の旅でも同じように束草から移動してきた場所でした。大好きな春川タッカルビの本場であるうえ、2014年に初めての韓国地方旅で訪問した場所でもあり、いろいろと思い出深い街です。
春川ではスケジュールの都合によりほぼ食事ばかりとなってしまいましたが、到着した夜には情感あふれる酒場「マッカルナヌンチッ」にて手造りマッコリと手ずから焼いて食べるトゥブグイ(豆腐焼き)など料理の数々を、また翌日の昼食には春川訪問の旅に訪れている「元祖スップルタップルコギチッ」にて春川タッカルビの原型とされる炭火直火焼きのタップルコギを味わってまいりました。

 


KORAIL京春線キョンチュンソン)の列車「itx-青春(チョンチュン)」に乗って、この旅最後の目的地ソウルへ。
当日は12月8日。クリスマス目前ということで、明洞の新世界百貨店とロッテヤングプラザの壁面にはクリスマスを題材としたアニメーションの上映が。中でも後者のそれはかわいらしい男の子のお人形さんが主人公で、心なごみました。

 


ソウルの宿はもちろん鍾路3街(チョンノサムガ)にて。酒場をはじめ無数の飲食店が立地し、夜には屋台も立ち並ぶこの一帯はさながら「食のテーマパーク」の様相です。

 


そしてこの日訪問したのは「ヘンボッカンチッ」。以前にこちらこちらのエントリーでも紹介した、全国各地の銘品マッコリが良心的な価格で味わえる酒場です。
「幸福な店」を意味する屋号の通り、心もお腹も幸せな時間を過ごしてまいりました。

こうして私の韓旅史上最長となる7泊8日の旅により、コロナ禍以降(「明け」ではない、ここ重要)の新しい韓国の旅が幕を開けました。

 

●2023年3月:全羅南道順天市全羅南道光陽市慶尚南道河東郡釜山広域市

 


本年最初の旅もまた、全羅南道順天市からスタート。
とはいえこの旅の主目的地というわけではなく、その拠点たる宿泊地としての訪問です。これ以降の本年、「順天を拠点に近隣市郡を巡る日帰り旅」という新たな旅のスタイルが確立されることになります。

 


時期は3月、まさに梅の花のシーズンです。
そんなわけでまずは順天市の梅の名所のひとつであり、そのことが地名の由来にもなっている「梅谷洞(メゴットン)」を訪問。
こちらの梅の花は紅色が中心で、街の随所にある壁画と調和した姿を、そしてそのかぐわしい香りを楽しむことができました。

 


翌日からは2日連続で、この旅の主目的地であり、今回が初訪問となる同道の光陽(クァンヤン)市へ。
まず訪れたのは同市内にある「尹東柱遺稿保存鄭炳昱家屋」。1930年代後半から40年代初頭にかけて活動し、日本留学中に治安維持法違反の容疑で特高警察に逮捕され、その服役中に福岡刑務所にて獄死した尹東柱(윤동주:ユン・ドンジュ、1917-1943)詩人。その詩人が日本へ発つ前、友人の鄭炳昱(정병욱:チョン・ビョンウク、1922-1982。後のソウル大教授)氏に託した自筆の詩が密かに保管されていたのが、こちらの家屋です。
なお、このとき鄭柄昱氏の母によって床下に隠され守り抜かれた尹東柱詩人の詩の数々は、後に詩集『空と風と星と詩』として世に送り出されることとなります。

 


その翌日はまず早朝から順天駅にて慶全線ムグンファ号に乗車し、慶尚南道キョンサンナムド)河東(ハドン)郡の中心駅、河東駅で下車。河東郡も今回が初めての訪問です。

 


河東の名物といえば、光陽市との間を流れる蟾津江(ソムジンガン)で採れる貝、チェチョッシジミです。そんなわけで河東での朝食は「韓多沙蟾津江チェチョッ」にて、蟾津江産のシジミをふんだんに用いた「チェチョックッシジミスープ)」。見た目以上に濃厚なシジミのだしが効いてうんまかったです。

 


河東からはバスに乗り、この日のメインである「光陽梅花祭り」会場へ。光陽市は韓国で最も早く梅の花が咲くことで知られ、梅の実やその加工品は同市の名産品であり、そうした縁で市のキャラクターまで梅の実をモチーフにしているほどです。
その中でも「光陽梅花祭り」が開かれる同市多鴨面(タアムミョン)、その名もずばり「梅花(メファ)マウル」一帯は蟾津江に面した山の斜面が一面の梅栽培地であり、毎年この時期になると赤・白・ピンクの梅の花で美しく彩られると聞き、やってきたという次第です。ご覧の通りの壮観でした。

 


梅に並ぶ、いや知名度ではそれ以上とされる光陽市のグルメといえば、なんといっても 「光陽プルコギ」でしょう。そんなわけでこの日の夜は、ある現地の方と光陽市内の 「朝鮮屋チョソンオク)」にて初の光陽プルコギを味わうことに。
日本で広く認識されている、薄くて長い味付け牛肉によるプルコギとは異なり、光陽プルコギは日本の焼肉のような短くてやや厚みのある味付け肉を銅の焼き網で炭火で焼いて食べます。めちゃくちゃうんまかったです。

 


旅の4日目は釜山へ移動し、4年ぶりに写真のひとと再会を果たしました。
この4年間、日本軍性奴隷制度やその被害者たちに対する日本の世論は何ひとつ好転することはありませんでした。私は、私たちはまたこの4年を無為に過ごすばかりか、無念のまま何人もの被害者の方々が他界されてゆくのを見過ごしてきたわけです。ただ心の中で詫びることしかできませんでした。

 


続いて訪問したのはこちらのエントリーでも紹介した、同市南区(ナムグ)の「国立日帝強制動員歴史館」。
このときの釜山訪問、当初はヒンヨウル文化マウルなどのある影島(ヨンド)を4年ぶりに訪れ観光する計画でした。しかし、この旅の直前の3月6日になされた、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領による徴用工裁判の原告たちへの「解決策」報道を目にし、出発2日前に急きょ予定を変更して同館を訪問することにしたものです。
尹大統領による徴用工被害者や司法判断をも無視した「解決策」は、まさしく日本の前にひれ伏して靴を舐める行為に他ならず、唾棄すべきものです。日本軍性奴隷制度の被害者を巡る、あの忌まわしい2015年末の日韓「合意」ですら、たとえ表向きとはいえ被害者たちに一定の歩み寄りがあったというのに、今回はそれすらないという。
そして、その対応をごく当然のごとく振る舞う岸田首相以下の日本政府関係者や報道、そしておそらくほぼすべての日本国民たち。私はそれに反対する立場とはいえ、何ら影響力を及ぼせない点でそれらと同じ、いや反対を主張しながら依然として無力である点ではそれらより許されざる存在だといえるかもしれなません。自責の念ばかりが募ります。

 

●2023年5月:光州広域市

 


1980年5月18日未明から10日間に渡り全羅南道光州市(当時)内にて発生した戒厳軍による市民の殺傷、そしてこれに果敢に立ち向かった光州市民たちの一連の抗争は「5.18民主化運動」あるいは「5.18民衆抗争」などと総称され、今日もその真相究明、記憶継承のための活動が続けられています。
本ブログ開設の契機にもなったほど、私にとって極めて強い関心があるこの事件と同じ「五月光州」を歩き、その現場や展示施設を訪れ、当時の市民たちに思いを馳せること。コロナ前には毎年5月を迎える度に訪問していた光州広域市の旅がようやく再開できるようになりました。
写真はこの旅で訪れた「国立5.18民主墓地」にある「5.18民衆抗争追慕塔」と、その脇にある当時の光州市民たちの分かち合いの姿を象った「大同世上群像」です。

 


大半の目的地が再訪問となったこの旅で初めての訪問となったのが、写真の「チョニルビルティング245」。
当時の新聞社「全南日報」の本社ビル(「チョニル」は社名の略称「全日」の韓国語読み)であったこのビルは、1980年5月21日の戒厳軍による集団発砲の現場である錦南路(クムナムノ)に面し、また抗争期間中の光州市民の集会場となった噴水広場を挟んだ先には同年5月27日の市民軍による最終抗戦が繰り広げられた旧全南道庁があるなど、5.18民主化運動のすべてを見届けたといっても過言ではない存在でした。

 


その後、老朽化に伴い長らく閉鎖状態であったこのビルは、近年になって最上階の10階や外壁などかに当時のヘリコプターによる機銃掃射の弾痕が見つかったことなどから一転して保存および公開の対象となり、内部を改装したうえで2020年5月より無料での一般公開が始まっています。建物内には当時の機銃掃射の弾痕がほぼ原形のまま保存されているほか、5.18民主化運動関連の各種パネル展示、機銃掃射事件を扱ったアニメーション上映などを観覧できます。

 


なお、施設名にある「245」とは、この建物の道路名住所「光州広域市東区錦南路245」 から来たもので、偶然にも建物内外で見つかった機銃掃射の弾痕の数と同じであったことから採用されたものだといいます。

 

●2023年6月:江原特別自治道春川市、江原特別自治高城郡ソウル特別市

 


従来の江原道から実に628年ぶりとなる改称を経て、本年6月11日付で発足した「江原特別自治道」。
そのわずか1週間後の同道訪問でまず最初に訪れたのは、記念すべき通算10回目の訪問となった春川市です。その目的は、個人的に2014年から6年連続で参加してきた、春川を代表する2大料理の祭典「春川マッククスタッカルビ祭り」への4年ぶり7回目の参加のため。以前の春川駅前から、三岳山湖水ケーブルカー(ロープウェイ)のりば近くの広場に会場が移ってきて以降では初訪問です。
まずはうんまいタッカルビに、当時発売されたばかりのハイト眞露のビール「ケリー(Kelly)」を添えて。会場で味わうとそのうまみが増すような気がします。

 


春川市での1泊後、続いて向かったのは韓国本土最北端の市郡である高城(コソン)郡にある小さな漁港、我也津(アヤジン)
独特な字面のその地名にどことなく惹かれて、コロナ前最後となった2020年2月の旅でふらりと訪れてみたところ、きれいな砂浜やその向こうに広がる東海、そして街全体の雰囲気がとても気に入ってしまい、いつか泊りがけでの再訪をしたいと考えていたからです。
季節は前回とは打って変わって、海水浴客もちらほらと見かける初夏。天気にも恵まれ、ちょっとしたバカンス気分を楽しんでまいりました。

 


我也津での宿は、見事なオーシャンビューが望めるペンションを利用。夜には灯台が点滅し一帯がライトアップされた風景があまりにも美しすぎて、眠るのも惜しいほどでした。

 


帰国前日にはソウルへ移動。真っ先に訪問したのは弘大入口(ホンデイック)駅近くにあるビヤホール「乙支OBベオ臥牛」(ウルチオービーベオワウ。ベオはクマ(Bear)のこと)
こちらのお店、ソウル未来遺産にも登録された乙支路3街(ウルチロサムガ)の路上ビヤガーデン街、通称「ノガリ横丁」の元祖であり、「百年の店」にも認定された人気店「乙支OBベオ」がその前身です。私も過去に2度ほど訪問し、ノガリスケトウダラの稚魚を干したもの)などをおつまみにうんまいOB生ビールを味わった思い出があります。
入居していた建物を手に入れたライバル店から退去を求められ、長年の法廷闘争の末にやむなく乙支路を去らねばならなかった同店が、新天地となる弘大入口に新たなお店を開業したと聞き、応援もかねて駆け付けた次第です。

 


先代のご主人が1980年に開業、店内に寝泊まりしつつおいしいサービングを追求したという生ビール。そしてビールと相性抜群の、ちぎっては独特の辛いヤンニョムジャンに付けて食べるノガリ。場所は変わってもこの味は変わりません。当日は私のほかにも多くのお客さんが舌鼓を打っていました。こちらの店が今後も繁盛し続けるとともに、いつか再びノガリ横丁にも戻れることを切に願っています。

 

これ以降も本年・2023年には下記3回の韓旅が続くのですが、思いがあふれて以上の4回分だけであまりにも長くなってしまいましたので、次回エントリーにて紹介することといたします。

●2023年7月:全羅南道順天市全羅南道麗水市釜山広域市

●2023年10月:全羅南道順天市全羅南道宝城郡

●2023年11~12月:光州広域市全羅南道莞島郡全羅南道順天市

 

 

■今後の反差別・反ヘイトへの対応方針について

 

本年はこうした韓旅やその旅レポツイートをする傍ら、いまやこの日本で絶対的優勢となった韓国ヘイトやコリアン差別に私のできる範囲で抵抗してきたつもりではありますが、あくまでそれはやった「つもり」にすぎないのであって、その意図にかかわらず差別者や歴史修正主義者らに揚げ足を取られ、かえってその正当性をアシストしてばかりだったのかもしれません。

上記で紹介した2023年6月の江原特別自治道などの旅では、春川行きの列車の始発駅であるソウルの龍山(ヨンサン)駅前にある徴用工像(写真)に関し、次のツイートをしました。

その結果、大量に寄せられたのは「日本人として詫びるとかふざけるな」「日本人をモデルにした像に詫びてくれてありがとう」(注:像の作者は日本人の写真をモデルにしたという説を全否定している)といったヘイターからのリプライと引用ツイートばかりでした。私はそれに抗う立場にありながら、結果として数の論理でこれらヘイターの韓国ヘイト拡散とその正当化に寄与してしまったというわけです。数の大小だけでいえば韓国ヘイトこそが「日本人みんなの総意」であり、その抵抗の直接的表現ですら意図せずとも差別やヘイトに与する危惧がある現実を改めて思い知らされる機会となりました。私はこの一件以来、直接的な差別やヘイトへの抵抗を極力控えるようにしました。

そしてその制約下、この絶対的形勢不利において自分を鼓舞するためのツイートですら、右派はもとより左派やリベラルとされるアカウントまでもその表現の一部を切り出しての非難を見かけるようになりました(しかも私への直接批判ではないところで)。韓国ヘイトに右も左もない、という日本の現実を改めて思い知らされた一年でした。

たとえ言葉は封じられようと、私にはまだこの身があります。この身が朽ちない限り、私は来たる新年も抗ってゆくことを誓います。

 

それでは、よいお年を。
みなさまにとっては、2024年がとって輝かしい一年となりますように。

 

2023年12月2日、全羅南道順天市、臥温海辺にて撮影。

今年もありがとうございました。

こんばんは、ぽこぽこです。

今日は2021年の大晦日。今年も長いこと休止期間があったとはいえ、9月からの再開後はある程度ハイペースでの更新ができ、なんとか投下エントリー数が昨年実績を超えることができました。
今年も拙ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。

 

本年・2021年はとうとう、年間を通じて韓国訪問が全くできなかった一年となりました。
そんな中、私がかつて韓旅で出会いお世話になった方のうち、2人もの方が亡くなったことを知りました。一人は昨年(2020年)2月に訪問した江原道(カンウォンド)束草(ソクチョ)市の酒場「番地オンヌン酒幕」のご主人であり、もう一人は一昨年(2019年)12月に訪問した全羅南道(チョルラナムド)莞島(ワンド)郡の所安島(ソアンド)、所安抗日運動記念事業会の会長様です。お二方ともにコロナ禍明けの再訪、再会を誓っていた方であったのに、その願いがかなうことはありませんでした。やりきれない。コロナ禍に伴う韓旅のできない期間が長引けば長引くほど、そうした離別がまた起きてしまうのではないかと危惧しています。
来年こそは……と言いたいところですが、オミクロン株の世界的な大流行、そしてこの日本にも迫りくる第6波のことを考えると、そんなものは甘い幻想以外の何物でもありません。再来年・2023年に開催予定の「順天湾国際庭園博覧会」までに間に合えばと思った時期もありましたが、どうやらそれも夢物語に終わりそうです。

 

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ところで、私は少し前からTwitterアカウントでの反差別に関するツイートを無期限休止しています。理由については固定ツイート以下に記しているので、ここで改めて述べることはしません。この件によって、日本政府による後付けかつ狙い打ちの差別政策により無償化の対象から不当に除外され、あろうことか司法までも追従したことで「日本人みんなの総意」となった朝鮮学校への憎悪や敵意、差別心の根強さ、そしてこれに抗うことのリスクを改めて思い知らされました。
私などは声を上げることをやめることでそのリスクから逃げることができます。しかし、朝鮮学校の生徒児童やその保護者、教職員などは「存在する」ただそれだけで24時間365日そのリスクに晒され続けているわけです。私などが反差別を唱えようと、この日本社会の構成員である以上は私もまた朝鮮学校への加害者に他ならないわけです。つまり、私自身の罪でもあります。私は朝鮮学校によるクラウドファンディングへの積極協力のみに留まらず、私の持てるすべてをもってこの差別政策への償いと抵抗を続けます。
写真は2017年に広島県広島市の「広島朝鮮初中高級学校」を訪問した際に譲っていただいた、朝鮮学校への差別反対の意思表示であるオレンジ色のリボンのピンバッジ。このバッジに誓って。

 

朝鮮学校の件のみならず、今年もまた韓国(人)や在日コリアンに対する日本人一般の憎悪や差別心の絶対的強さに打ちのめされる一年となりました。その最も象徴的な出来事となったのが、去る12月8日に発生した、在日コリアンの方々が多数暮らす京都府宇治市のウトロ地区への放火という恐れていたヘイトクライムです。
幸いにして死傷者は発生しなかったものの、容疑者の供述や行為からその殺意は明白です。この事件が大して報道されず、政府はもとよりほぼすべての政党も非難声明を出さなかった点だけをとっても、コリアンに対するヘイトクライムがこの日本社会で寸分たりとも問題視されていないことが読み取れると思います。そしてYahoo!ニュースのコメント欄などは、この許しがたいはずの行為に擁護あるいは共感し、より強くコリアンを踏みにじろうとするコメントで埋め尽くされました。「差別の告発は差別そのもの以上に非道徳である」という日本社会の共通観念の勝利です。これは反差別を唱える私たちの不作為の罪でもあります。私たちの完全敗北です。

 

先ほど、私は来年の韓旅が「甘い幻想」だと書きました。それでもコロナ禍はいつかは終わるでしょう。再び自由に海外を訪問できる日もいずれ訪れるものと思います。しかし、その頃には別の理由により、韓国の訪問はできない状況になっていると私は予測しています。もちろん個人的な理由などではなく、コロナ禍よりももっと深刻な理由で。そんな悲観的予測など外れることを願いつつも、いまは悲観的になってなりすぎることは決してないとさえ考えています。
それでも私は、まだもうちょっとだけ本ブログを更新し続けたいと思います。いつか誰かの、おそらくは次の世代の人々の道しるべとなることを願って。

 

それでは、よいお年を。
みなさまにとって2022年がとって輝かしい一年となりますように。

 

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2019年11月1日、フランス共和国オー=ラン県コルマール市にて撮影。

莞島の旅[201912_03] - あの名作映画の撮影地などを訪れる青山島(チョンサンド)横断徒歩の旅

前回のエントリーの続きです。

2019年11~12月の全羅南道(チョルラナムド)莞島(ワンド)郡の離島などを巡る旅の3日目、2019年12月2日 (月)です。

 

青山島全図
前日にフェリーで訪れた莞島郡の離島、青山島(청산도:チョンサンド)で前泊して迎えたこの日は、島内の観光地などを徒歩で巡る計画を立てていました。朝食のモンゲピビンパッを食べた「パダ食堂 (シクタン)」があり、フェリーの発着する道清港(青山島港)もある島一番の繁華街、道清里(トチョンニ)がそのスタート地点です。島の西端にあるここ道清里から、島を横断する路線バスのルートでもある道路、青山路(チョンサンロ)に沿って島の東側へ向かいつつ、主に3つの目的地を訪れる計画です。

 

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道清港の旅客船ターミナルの近くに、その「青山旅客」の路線バスが停車していました。前述した理由で、この日歩いたルートの大半が路線と重なっていため、このバスと何度もすれ違ったり追い抜かれたりする機会がありました。この路線バスは走行中やたらとクラクションを鳴らすのが特徴で、どうやらバス停に接近した際の合図のようです。おかげで、歩いている間にも大体どのあたりを走っているか分かるようになりました。

 

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今回はタイミングが合わず利用しませんでしたが、運賃は1,000ウォン(約100円:2021年12月現在。以下同じ)均一で、離島のバスには珍しく「T-money」などの交通系カードも利用できるとのこと。一日に9往復が走っており、道清港と島の反対側の新興(シヌン)マウルの間を約15分で結んでいます。写真はこの後に訪問した「新豊(シンプン)」バス停に貼られていた、青山旅客のバス時刻表。現在はこれと変わっているかもしれません。

 

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写真は「道清二里(トチョンイーリ)」の碑石。韓国ではマウル(「村、集落」の意)の入口となる道路沿いに、そのマウル名を刻んだ碑石が建っていることがよくあり、これを「マウル標識石」(마을표지석:マウルピョジソク)といいます。私はこのマウル標識石が好きで、旅先で見かける度に写真に収めています。後述するように、この日の旅では島内に点在するマウルの標識石を数多く目にする機会を得られました。可能な範囲で、その名の由来とあわせて紹介してまいります。以下、マウル名の由来は全羅南道庁『전남의 섬(全南の島)』サイトの情報を参考にしています。
道清二里とは行政里(ヘンジョンニ)の名称で、日本でいう大字に近い住所区分である法定里(ポッチョンニ)とは異なり、行政上の区域をいいます。法定里では単一の道清里ですが、行政里としては道清一里(トチョンイルリ)とここ道清二里に分かれています。
道清の名の由来は、かつては「仏目(プルモク)」と呼ばれていたところ、朝鮮時代ここに都捧庁(トボンチョン。国税米を収納して管理する官庁)が設置されたことで「都庁(トチョン)」と呼ばれるようになり、その後18世紀末19世紀初頭に都捧庁が廃止されたことから、同じ発音である「道清」に変わったものとされています。

 

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今回は訪れませんでしたが(当時知らなかった)、ここ道清里は「青山波市文化ゴリ」 (ゴリは「街、通り」の意)と名付けられた街づくりがなされています。波市(パシ)とは、かつて韓国の離島の漁港周辺や漁船上などで開催されていた臨時の市のことをいいます。
以前に訪れた黒山島(흑산도:フクサンド)欲知島(욕지도:ヨクチド)もそうでしたが、韓国の離島では季節ごとに旬の魚種を中心とした波市が催され、商人をはじめ数千人もの人々が出入りし、海上都市さながらの様相を呈していました。しかし1960年台以降の漁業資源の枯渇などにより次第に衰退し、現在では思い出の中に消えてしまっています。1930年代から始まったという青山島のコドゥンオ(サバ)波市は教科書にも載るほど有名なものだったといい、シーズンの毎年6~8月にはサバの大群が押し寄せる度に波市が開かれていたといいます。しかし青山島近海のサバは乱獲に伴い1960年台に枯渇、続いて生まれたサムチ(サワラ)波市も同じく資源枯渇に伴い1980年代半ばにその幕を閉じたとのことです。
写真は、後述する「青山鎮城」にあった「青山島波市」の案内パネル。

 

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道清港、「青山島スローキル」1コースの案内板。スローキル(キルは「道」の意)とは、国際スローシティ連盟により東アジア初の「スローシティ」に認定された青山島をゆっくり歩いて探訪できるよう、島内の歩道をウォーキングコースとして設定したもので、同連盟にも公式認定された世界初のものだそうです。現在、全11コースが設定されています。

 

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道清港から少し南東に進んだ場所に、写真の「循環バス」チケット売り場があります。

 

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循環バスはその名の通り、青山島内の主要観光地や集落を巡りつつ約35分で一周するバスで、通常は一日に7便が運行されています(多客期には増便あり)。道清港を出て再び道清港に戻ってくるまでの一周内であれば、何度でも乗り降りできるという便利なバスです。料金は大人5,000ウォン(約500円)。

 

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ただし、シーズンオフである12月~2月は運休。無人のチケット売り場にはその旨の張り紙が。残念ながら私が訪れたこの日(12月2日)は運休期間に入ってまもなくだったわけです。なお、この循環バスは本年(2021年)4月時点で新型コロナウイルスの影響により運休中であったとのことです(2021年12月現在の運行状況は不明)。

 

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循環バスのチケット売り場の近くにあった公衆トイレ。スローシティのシンボルでもあるカタツムリの形をしています。

 

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「青山島スローフードフォトゾーン」と書かれた造形物。こちらの愛らしいキャラクターもカタツムリの親子です。

 

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公衆トイレを過ぎたあたりから、木製デッキの歩道が湧き置かれた坂道が始まります。ここから右側に入る脇道には「道洛里(トランニ)」と刻まれたマウル標識石があり、実際この道を進むと道洛里の集落へ行けます。
道洛(トラク。トランニは末尾に「里(リ)」が着いたときの音韻変化)の名は先祖たちが定着して道を崇めるという意味で「道洛」と呼んだことに由来し、日帝強占期に隣の堂里(タンニ)と合わさって「堂洛里(タンナンニ)」に変わった後、1946年に集落単位に分かれて再び「道洛」となったとのことです。法定里では堂洛里に属します。この日の私の目的地はすべてバス通りでもある坂道の先にあるため、木製デッキを上がってゆきます。

 

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木製デッキを上る途中から見た道洛里の全景。道洛里には韓屋(ハノク)を用いた宿泊施設があり、それらの並んだ姿が風景と調和しています。

 

道清里・堂洛里・邑里一帯


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木製デッキを上りきると、今度は「堂里(タンニ)」のマウル標識石がありました。堂里の名は、現在の莞島郡内に清海鎮(チョンヘジン)を築き、新羅によって清海顔大使(テサ)に任じられた「海上王」張保皐(장보고:チャン・ボゴ、?-841または846)の指揮下にあった韓乃九(한내구:ハン・ネグ)将軍の遺功を追慕するため、その石墓の前で毎年正月5日に堂祭(タンジェ。村を守ってくれる神様に共同で行なう祭祀)を催したことに由来するそうです。法定里では堂洛里に属します。

 

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ここ堂里には、19世紀に築かれた「青山鎮城(チョンサンジンソン)」があります。鎮城とは軍事的要衝地に設置した行政区画である鎮を防御するため、主要施設などを石の城壁で囲んだ要塞をいいます。1871年に竣工した青山鎮城は、城壁の高さ約4.5m、外周1,100mの規模を誇り、東・西・南にそれぞれ城門が設置されていました。しかし1895年に青山鎮が廃止され、それ以降は崩壊が進行。一部を残してほぼ破壊されてしまった城壁を、2010年に復元工事が完成し元の姿を取り戻しています。

 

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青山島で訪れたかった場所のひとつが、この青山鎮城のあたり、もうひとつの大きなマウル標識石の手前で青山路を右に折れたところの先にあります。

 

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しばらく進むと、写真の風景が。

 

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この緩やかな坂道こそが、林権澤(임권택:イム・グォンテク、1934-) 監督による1993年の映画『風の丘を越えて/西便制』(原題:『서편제(ソピョンジェ)』。以下『西便制』と表記)の名場面を撮影した場所、「西便制撮影地」なのです。主人公の3人、パンソリ唱者の父ユボンと娘のソンファ、そして鼓手の息子ドンホが珍島アリランを歌い踊りながら坂道を下ってくるシーンは、まさにこの場所で撮影されたものです。

 

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公開当時、単館上映にもかかわらず100万人もの観客を動員したという『西便制』。私もこの旅の出発前日に観てきたばかりでした。「韓国映画史上最も美しいシーン」とまで言われ、私もまた魅了されたあのシーンの舞台を目の当たりにでき、ただただ感無量です。
なお、『西便制』は現在、YouTubeの「韓国古典映画 (Korean Classic Fiim)」チャンネルにて無料公開されており、不自然でない日本語字幕も表示できます。未見の方はぜひご覧いただくことをおすすめいたします。

 

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この坂道をさらに進むと、丘の斜面に写真の瀟洒な住宅がぽつんと建っています。

 

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こちらの家は、2006年にKBS2にて放映されたドラマ『春のワルツ』(原題:『봄의 왈츠』)の舞台となったもので、現在は「春のワルツ撮影地」と呼ばれています。この斜面一帯は春になると一面の菜の花畑となるそうで、遠くに見える海との調和がそれはもう美しいことこの上ないといいます。

 

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春のワルツ撮影地のあたりから見た道洛里の海。確かにすばらしい眺望です。

 

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もと来た道を戻ると、西便制撮影地の近くに「서편제쉼터·주막」(「西便制シムト・酒幕」。シムトは「休憩所」などの意)と書かれた看板があることに気が付きました。

 

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気になって矢印の方向に進んでみると、わら葺き屋根の韓屋、そして「青山島西便制酒幕」と書かれたメニュー表には「青山島伝統マッコリ ₩6,000」の表記が。調べてみると、どうやらこちらのお店オリジナルの手造りマッコリのようです。しかしまだ朝だからか、お店は閉まっていました。残念。次の訪問の機会にはぜひとも口にしたいものです。

 

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青山鎮城の入口に戻り、再び西へ向かって歩き出します。写真は青山鎮城の近くにあった「青山三賢碑閣」。莞島郡郷土遺跡第11号にも指定されています。

 

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写真は青山路沿いの脇道。情感漂う離島の路地です。

 

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脇道から青山路に戻ってまもなく、写真の「西便制セット場」と書かれた案内板を発見。明らかに先ほどの緩い坂道とは別の方向です。

 

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行ってみたところ、あったのは石垣に囲まれたわら葺き屋根の韓屋。この家だけ周囲の住宅と雰囲気が異なります。

 

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敷地に入ると、そこは『西便制』物語の序盤でユボンが幼い頃のソンファとドンホにパンソリの稽古をつけていた、あの縁側のある家でした。縁側には3人の再現人形も。

 

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こちらの家屋、下調べの際に見たどのサイトでも紹介されておらず、よって訪れるまで知らなかったのでびっくりです。後に調べたところ、こちらの家屋は「青山島堂洛里7番家屋」とも呼ばれているようです。
写真は、先ほどの「西便制撮影地」(坂道の方です)にあった案内パネル。左上の写真がこの家屋で撮影されたシーンです。

 

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f:id:gashin_shoutan:20211215205026j:plainまた青山路に戻り、東方向へ。上り坂が続き、少しずつ高度を上げてゆきます。写真は道すがらにあった壁画の数々、そして現役の牛小屋。

 

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しばらく歩くと、邑里(ウムニ)のマウル標識石が。
後述するようにここ邑里には支石墓があり、先史時代から居住者がいたと推定されるものの、本格的に村が形成されたのは17世紀からとされています。当地の住民たちは、新羅時代に村が設置されたことから「邑里」と呼ばれていると信じているとのことですが、新羅時代に住民がいたという考証はされていないようです。法定里では邑里に属します。

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この邑里にあるのが、写真の「支石墓公園」です。

 

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名前にもあるように、この公園には南方式と呼ばれるタイプの支石墓(ドルメン。韓国では「コインドル(고인돌)」とも呼ぶ)が3基あり、これらは「邑里支石墓」として全羅南道文化財資料第116号に指定されています。そのためか外周には柵が設けられ、中に入ることはできません。邑里には元々16基の支石墓があったそうですが、道路工事などで失われ、現在はこちらの3基のみが残っているそうです。
ところでこの支石墓、韓国国内に約3万基、うち全羅道だけで2万基が存在するといい、朝鮮民主主義人民共和国の約1万5千基と合わせると、全世界の支石墓総数の約40%を占めるのだそうです。

 

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支石墓公園には、もうひとつの文化財があります。それが写真の「邑里下馬碑」で、全羅南道文化財資料第108号に指定されています。
下馬碑(ハマビ)とは朝鮮時代に宗廟や宮殿の門の前に建てられた石碑で、身分を問わずこの石碑の前では馬を下り、自分の足で歩かなければなりませんでした。写真ではよく分かりませんが、こちらの下馬碑には菩薩像らしき像が刻まれていることから、民間信仰と仏教が結合した信仰対象であるとみられ、またその様式から高麗時代末期~朝鮮時代初期に建てられたものと推定されています。

 

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さらに東へ向かって坂道を上ってゆきます。さほど急ではないとはいえ、ずっと上り坂なので若干の疲労がたまります。そんな中、道の脇のお花畑に心癒されます。

 

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そうして歩いていると、ようやく峠を越えたようで、見晴らしのよい場所に出ました。目の前には曲線を描き下ってゆく青山路、そしてその先には島の東海岸が。ここからのルートは楽そうです。
とはいえ、その青山路の曲線がかなりの大回りで、これを歩いていたら下り坂とはいえ相当な時間を要しそうです。そこで意を決して、道なき道をショートカットすることに。途中が崖になっていたらどうしようかとも思いましたが幸いそんなものはなく、数分程度で再び青山路に合流。

 

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合流地点の少し先にあったのが、新豊(シンプン)バス停、そして新豊マウルのマウル標識石。
こちらは17世紀半ばに乱を避けてきた複数氏族が形成した村で、旧城山(クソンサン)の麓にあることから当初は「旧城(クソン)」と呼ばれていたところ、後に「新豊」に変えたものだそうです。法定里では復興里(プフンニ)に属します。

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ここ新豊マウルや周辺の集落一帯には、青山島特有の水田「クドゥルジャンノン(구들장논)」があります。

 

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クドゥルジャンとは、みなさんもよくご存じの韓国式の床暖房設備「オンドルの基礎となる石組みのことをいいます。ノンは「水田」の意。青山島は砂質の土が多く水はけが激しいため、そのままだと稲作には向いていません。そこでまずはクドゥルジャンのような石組みを地面に築き、その上に土を乗せて通水することで田んぼの保水性を高めたものが、このクドゥルジャンノンなのです。全体が棚田のようになっているのも、上の田んぼから落ちてきた水が無駄なく下の田んぼを潤すことを期したものです。
青山島ならではの灌漑施設というべきクドゥルジャンノンは、2013年に韓国の国家重要農業遺産第1号に指定され、翌2014年4月には世界重要農業遺産にも登載されています。このクドゥルジャンノンこそが、私が訪れたかった3つの目的地の2番目でした。

 

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陽旨(ヤンジ)マウルのマウル標識石。
マウルの名前は、移住先であった当地が暖かく日当たりのよい場所だったことに由来するそうです。法定里では陽中里に属します。

 

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さらに東へ向かって歩みを進めます。

 

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仲興里(チュンフンニ)のマウル標識石とバス停。
周囲を山や峠が囲んでいる真ん中に、広い野原を背景に位置していることに「仲興」の名が由来するそうです。法定里では陽中里に属します。 

 

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そしてついに、新興(シヌン)海水浴場に到着。
青山島の東岸、道清港とちょうど島の反対側に位置する海岸です。道清港からここまでおよそ2時間半、とうとう青山島を歩いて横断してしまいました。

 

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新興海水浴場には、島を横断する青山旅客の路線バスの終点「新興」バス停、そして新興里(シヌンニ)のマウル標識石があります。
元々は散在していた仏堂谷(プルダンゴク)、海衣里(ヘイリ)または海里(ヘリ)、桑山浦(サンサンポ)などの村を統合して「新海(シネ)」と呼んでいたものを、新たに繁栄することを念願する意味で「新興」に変えたものだそうです。法定里では新興里に属します。

 

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新興里からは進路を南に変え、しばらくして到着したのが東村(トンチョン)マウル。
青山五大山のひとつであり、島の最高峰でもある鷹峰山(ウンボンサン。メボン山とも呼ぶ。387m)の東側に位置していることにマウルの名が由来するそうです。法定里では東村里に属します。

 

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さらに南に向かい、到着したのは上西(サンソ)マウル。
17世紀に乱を避けてきた複数氏族がほぼ同時に入ってきて形成した村で、青山島で一番最初にある村という意味で「上洞(サンドン)」と呼ばれてきましたが、1960年代に元洞(ウォンドン)マウルと分離した際、めでたい村という意味で「祥瑞(サンソ)」とし、後に同じ発音で字画の少ない上西に変えたものだそうです。法定里では上洞里に属します。

 

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この上西マウルの家屋はその大半が丘の斜面に位置しており、それらの間を縫うように張り巡らされた路地の両側には、特徴的な石塀が築かれています。

 

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この石塀は、離島ならではの強い海風をしのぐため島内に豊富にある石を活用したもので、つなぎに土を使わず石だけで組み上げた「カンダム」と呼ばれるものです。これらの路地は「上西トルダムキル」(トルダムキルとは「石垣の道」の意)と呼ばれ、曲がりくねった石塀のある風景が独特の情感をもたらしており、「青山島祥瑞(上西)マウル旧タム牆(ジャン)」として国家登録文化財第279号にも指定されています。

 

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上西マウルでは現在、1970年代に進められた農村の近代化運動である「セマウル運動」を生き延びたこうした石塀の風景を残すべく、保全のための取り組みもなされているそうです。写真は「上西マウルトルダムキル」のデザインが施されたマンホール。

 

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こちらの上西マウル、これまで紹介してきた「西便制撮影地」や「クドゥルジャンノン」とともに、私にとって青山島でどうしても訪れたい場所のひとつでした。当初は前日の夕方に訪問する計画だったものの、悪天候のため断念し本日の最終目的地としたところです。

 

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石塀に絡みついたカボチャに実がなっています。情感漂う風景です。

そうしてすっかり夢中になって上西マウルを歩き回っているうちに、気づいたら時刻はすでに正午を回っていました。この日は道清港を午後1時に発つフェリーに乗船する予定を立てていました。すでに確保済みの莞島共用バスターミナル発の市外バスに間に合う最後の便だからです。次に上西に来る路線バスは道清港着が12:55であり、チケット購入の時間を考えると間に合わないリスクがあります。もちろん徒歩では到底間に合いません。
そこですかさず、この日の朝まで滞在していた「ヌリム民泊」のご主人に電話、迎えに来ていただくことに。まもなく私の荷物と一緒に例の2トントラックで颯爽と現れたご主人。そうして10分あまりで道清港に到着。ご主人と固い握手を交わし、下車します。
前日の道清港からのピックアップといい、その後の刺身屋さんへの送り迎えといい、そして今回の移動といい、ご主人のおかげで終始楽しい島旅となりました。ご主人、本当にありがとうございました。次に青山島を訪れたときも、必ずやヌリム民泊を利用します。

 

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今回の旅で利用したヌリム民泊は、「Airbnb」で探し出して予約しました。整った設備、目前には美しい池里海水浴場や松原、そして親切なご主人。期待以上のホスピタリティがありました。宿の設備やロケーションについては前回エントリーにて紹介しておりますので、こちらをご参照願います。青山島を訪問される際にはぜひご利用いただきたい宿です。

青山島ヌリム民泊(청산도 느림민박:全羅南道 莞島郡 青山面 池里2キル 66 (池里 886))

 

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ご主人のおかげでフェリー乗船まで余裕ができたので、土産物を探すことに。まあ自分用ですが……
旅客船ターミナルのふたつ隣、日本でいう「漁協」に相当する金融機関「水協」(수협:スヒョプ)の建物の一部は「莞島特産物販売場」になっており、青山島を含む莞島郡の名産品が数多く販売されています。目立つのはやはり莞島郡の特産物である海藻やアワビ関連の加工食品。中には海藻の粉末を練り込んだ乾麺なんてものもありました。

 

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そんな中で購入したもののひとつが、写真の「꼴뚜기젓갈(コルトゥギチョッカル)」。コルトゥギとは「ベイカ」(学名:Loligo beka)、あるいはそれと同じイイダコ大の小さなイカのことで、これをヤンニョムジャンに漬けてチョッカル(韓国風の塩辛)にしたものです。要冷蔵ですが保冷剤を持参していたうえ、賞味期限が1年と長いので買ってきてしまいました。写真は8ヵ月後に初めて開封したところ。実がぷりぷりしてうんまかったです。

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道清港の近くにあった「青山農協スローフード」と書かれた建物には「청보리 수제맥주(チョンボリスジェメッチュ)」と書かれた看板が。チョンボリとは直訳すると「青い麦」の意味で大麦の一種、そしてスジェメッチュ(手製麦酒)とは日本でいう「クラフトビール」のこと。なにこれ、知りませんでした。
そういえばチョンボリは青山島の数少ない農産物のひとつです。島の大麦で醸したオリジナルのクラフトビールなのでしょうか。クラフトビール好きの私としてはめちゃくちゃ気になります。しかし残念なことに、お店のものと思しきドアは閉ざされていました。青山島を再訪すべき理由がまたひとつ増えてしまいました。

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そうして予定通り、午後1時発のフェリーで青山島を発ちます。
さらば青山島。コロナ明けには必ずやまた訪問したい島のひとつです。

それでは、次回のエントリーへ続きます。
今回ご紹介した青山島、またこの直前に訪れた所安島(소안도:ソアンド)へのアクセスや旅のtipsは、次回のエントリーで紹介する予定です。

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