かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

光州の旅[201705_07] - 5.18の最終抗戦地を舞台とした特別展示、3つの虐殺現場を歩く

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の2日目(2017年5月21日(日))です。

 

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5.18旧墓地から乗ってきた518番バスこちらのエントリーにて紹介)を降りて、次の目的地へ向かいます。
この日開催されていた「光州市民の日」の会場として、5.18当時から光州のメインストリートである錦南路(クムナムノ)一帯は歩行者天国となり、イベントステージと数多くのテントが設営されていました。本来であれば518番バスは錦南路を含め道庁の脇をひと回りするように走るのですが、以上の理由からこの日は迂回コースとなり、少し遠いバス停での下車となりました。
歩行者天国を歩く人々の中を縫うように抜け、たどりついたのは旧全羅南道(チョルラナムド)庁舎(全南道庁。現・国立アジア文化殿堂)の正面一帯、前日にも訪れた「5.18民主広場」。錦南路が始まる地点でもあります。広場に立つ「5.18時計塔」(こちらのエントリーにて紹介)は12時55分を指しています。どうにか予定の時刻に間に合いました。

 

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5.18当時、道庁前の噴水広場(現・5.18民主広場)を含む錦南路一帯はかねてより市民たちの集会の場であったこともあり、抗争2日目の5月19日以降は戒厳軍の蛮行に怒った10万名以上もの市民たちが連日押し寄せて抗議のデモ隊を形成し、全南道庁を拠点としていた戒厳軍兵士と対峙していました。さらにこの日からちょうど37年前の5月21日午前には、前日夜に国鉄光州駅前広場で戒厳軍に殺害された市民2名の遺体がリヤカーでここ錦南路に運ばれてきたことで、市民たちの怒りはますます白熱します。
写真は錦南路の「光州広域市5・18民主化運動記録館」(こちらのエントリーにて紹介)にあった、遺体を運んだリヤカー(おそらく現物ではない)の展示です。

 

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こちらの写真は同市内の「5.18記念文化センター」(次回エントリーにて紹介予定)にあった、5月21日正午ごろの道庁前を再現したジオラマです。錦南路のあちこちに止まっている黒焦げのバスは、前日(20日)夕方の民主技師たちによる車両デモ(こちらのエントリーにて紹介)に用いられたもの。

 

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そして21日午後1時。スピーカーから大韓民国国歌である「愛国歌」(애국가:エグッカ)が流れる中、この直前に起きたデモ隊の装甲車突進を契機に、戒厳軍がデモ隊へ向けて集団発砲を開始。
戒厳軍の凶弾により、次々と錦南路の路上に倒れゆく人々。これらを助けようと果敢に駆け寄った人もまた、近隣のビル屋上からの正照準射撃の餌食となりました。
この集団発砲によるデモ隊側の死者は54名、負傷者は500名あまり。その惨劇の様子は、5.18民主化運動を描いた2007年の映画『光州5・18』(原題『화려한 휴가』:華麗なる休暇)でも身震いするほどありありと再現されています。
写真は前述の「光州広域市5・18民主化運動記録館」にあった、この集団発砲の直後、市民たちの靴が散乱した錦南路の路上を再現した展示です。

 

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5.18における戒厳軍の一連の暴虐を象徴する5月21日午後1時の道庁前での集団発砲。ちょうど37年前の同じ時刻に発生したその現場に、どうしても立ちたかったのです。
あの日、悲鳴を上げて逃げまどう人々の靴が散乱し、血痕があちこちに染み付き、そして老若男女を問わず銃撃の犠牲となった人々が横たわった錦南路の路上。犠牲となった方々の無念、遺された方々の悲しみは、想像にあまりあります。
任務遂行のためであれば、非武装の市民であろうと躊躇なく照準を向け銃弾を放つ。守るべきものは市民ではなく国家権力、これこそが軍隊の本質です。

 

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旧全南道庁本館。
1930年竣工。日帝強占期である当時の建築では珍しい、朝鮮人建築家の金舜河(김순하:キム・スナ、1901-1966)氏の設計によるもので、国指定登録文化財第16号にもなっており、現在は「国立アジア文化殿堂」を構成する「民主平和交流院」の4館となっています。
37年前の5月、抗争期間最初の4日間においては国家権力の象徴かつ戒厳軍の暴虐の拠点であり光州市民のデモの目標地として、続く5日間の「解放光州」においては屋上に掲げられた弔旗の下に市民たちによる自治の拠点として、そして最終日には多くの血が流された最終抗戦地として、5.18を最も象徴する建物です。これらの理由から、5.18民主化運動の史跡5-1号に指定されています。

 

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昨年(2016年)8月の訪問時には閉ざされていたその道庁本館の扉が、この日は開放されていました。
この道庁本館を含め「民主平和交流院」を構成する複数建物の内部に設置された、5.18民主化運動を題材とする映像・造形コンテンツ展示『十日間のナビテ』(열흘간의 나비떼:ナビテとは「蝶の時」の意)の公開が、37年前の抗争期間を含む5月12日~6月11日の1ヵ月間に渡り開催されていたためです。これら建物群が一般公開されるのは、2015年11月の「国立アジア文化殿堂」開館以来初めてのことです(理由は後述します)。

 

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道庁本館の正面玄関を入り、同建物を通り抜けた先の「民主平和交流院」1館(旧全南地方警察庁本館)が一連の展示のスタート地点です。

 

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外壁は補強を除きできる限りそのままに、内部に展示コンテンツが設置されています。写真3枚目は「光州」という地名の由来について。

 

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1979年10月26日の朴正煕大統領暗殺事件や同年12月12日の全斗煥ら新軍部による「12.12クーデター」など、「5.18前夜」に関する映像コンテンツ。

 

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周囲360度に映像が映し出される空間。写真1枚目は抗争開始の2日前、道庁前噴水広場(現・5.18民主広場)での総勢2万名もの学生・市民による反政府デモ「民族民主大聖会」で掲げられた、燃えさかるフェップル(횃불:トーチ)のイメージ映像です。当時の韓国のデモではこうしたフェップルが掲げられ、それ自体が反権力の象徴となっていました。その系譜は今日の韓国での市民デモにおけるチョップル(촛불:ろうそく)へと連なります。
この日の時点ではまだ警察も市民に協力的であり、まさかその2日後にはあのような惨劇が繰り広げられるとは市民の誰も予想だにしていませんでした。

 

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抗争期間最初の4日間、市民の有志たちは戒厳軍への抵抗のため、道庁前噴水広場でのデモ参加をさかんに呼びかけました。写真はそうした行動を象徴する拡声器。

 

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f:id:gashin_shoutan:20170922115708j:plain1980年5月20日夕方、民主技師たちにより挙行された200台ものバス・タクシーによる車両デモをモチーフとした造形作品。この車両デモは戒厳軍と対峙しつつもなす術のなかった光州市民たちを大いに勇気づけ、後の武装市民による組織的抵抗を触発したとされています。

 

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5月21日午後1時、道庁前の錦南路における戒厳軍の集団発砲を題材とした造形作品。無数の人々が光へ向かって歩いています。

 

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1館を抜けて、2館(旧全南地方警察庁民願室)へ。
戒厳軍の一時撤退後、5月22日から26日にかけての市民たちによる自治下の「解放光州」をテーマとした空間展示がありました。壁面の開設の見出しは「歓喜:22日-26日」とあります。天井からぶら下がるのは無数の靴。道路を模した床といい、前日・21日の錦南路での集団発砲をイメージしているのかもしれません。
『十日間のナビテ』のコンテンツ展示はここまでで終了。

 

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2館を抜けて、今度は3館の「旧全南道庁会議室」へ。ここからは5.18の現場たる建物自体の展示となります。
こちらの会議室もまた、道庁本館と同じく金舜河氏の設計によるものです。印象的な正面のガラス窓は1932年の竣工当時からあるもので、もちろん当時の設計図にも描かれています。初めて見たときはあまりの斬新さに、後から増築したのではと疑ったほどです。
1980年の5.18民主化運動当時は「民願室」とも呼ばれていたこちらの建物もまた、5月27日早朝の最終抗戦の舞台となり、多くの市民軍兵士が殺害された現場です。

 

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2階は舞台と客席のある大きなホール。その一角に立てられたパネルには、抗争指導部のスポークスマンであった尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士の姿が。
この部屋こそが、最終抗戦において尹祥源烈士が亡くなったまさにその現場であり、パネルはそのことを示すものです。

 

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1980年5月27日午前5時過ぎ、この部屋に立てこもっていた尹祥源烈士は、抗争指導部の企画室長であり同じトゥルブル(野火)夜学の仲間であった金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)烈士たちの目前で戒厳軍の銃弾を腹部に受け、まもなく死亡。尹祥源烈士や『闘士会報』の専門筆耕士であった朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956-1980)烈士ほか最終抗戦で亡くなった人々の遺体は、あろうことか清掃車に載せられて郊外の望月洞(マンウォルドン)の市民墓地(5.18旧墓地)へ運ばれてゆきました。また金永哲烈士たち生き残った人々にも、拷問による自白の強要、そして収監という地獄が待ち構えていました。
尹祥源烈士については、下記のエントリーにて紹介しております。あわせてお読みいただけますと幸いです。

 

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再び4館の旧全南道庁本館へ。今度は建物内を散策します。37年前の抗争期間、尹祥源烈士をはじめ抗争指導部メンバーや地元の名士たちによる収拾委員、そして幾多もの無名の市民が、その主張こそ違えど、たったひとつの目標へと向かってこの建物内を行き来していた姿に思いを馳せます。

 

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道庁本館の各部屋にも展示コンテンツがありましたが、これらは部屋の入口が締め切られており、近づくことはできませんでした。写真1枚目は、5.18において亡くなった人々と思しき名前の刻まれた造形物。

この道庁本館や会議室を含む「民主平和交流院」は、2015年11月の国立アジア文化殿堂オープンから1年半あまり非公開の状態が続いていました。そのオープンに際し、道庁本館の外壁などに残っていた弾痕を埋めたり、本館内にあった当時の市民軍状況室と放送室を一方的に撤去したことなどに対する、5.18被害者や犠牲者遺族など市民団体からの抗議がその主な理由です。両者間の協議が長らく平行線をたどる中、今年に入って抗争期間を含むこの1ヵ月間に限り公開することでどうにか合意に達し、今回の開放へと至ったものです。
この訪問の4日前(2017年5月17日)、文在寅(문재인:ムン・ジェイン、1953-)大統領は5.18犧牲者追悼式典での演説において「全南道庁復元問題は光州市と協議し協力する」と言及。これを機にできる限り市民団体側の要望に沿った形での解決、そして一連の展示の無期限公開へと至ることを願うばかりです。 

旧全羅南道庁(구 전라남도청:光州広域市 東区 文化殿堂路38 (光山洞 13)。史跡5-1号)

 

ふと時計を見ると、時刻は午後2時50分。
週末は約10分おきとただでさえ本数の少ない光州の都市鉄道(地下鉄)1号線、さらにそのうち1時間に1本しか来ない電車の発車時刻が迫っています。あわてて道庁本館前の階段を降りて「文化殿堂」駅へ。なんとか間に合った電車に飛び乗ります。

 

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光州都市鉄道(地下鉄)1号線の電車はこんな感じ。後に乗ることになる大田(テジョン)の都市鉄道1号線の電車もこれとよく似ていました(ラインカラーもともに緑)。

 

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着いたのは西側の終点である、鹿洞(ノクトン)駅。
隣接する龍山車両基地の見返りに設けられた駅だそうで、ほとんどの電車はこのひとつ手前の所台(ソテ)駅止まりとなっており、発着する電車は1時間に1本程度しかありません。そのためか1日あたりの利用者数は100人にも満たないようです。少し手前からは単線となりホームも1本のみ、さらに駅直前にはまさかの踏切(車両基地の構内道路なので一般通行不可)まであるという色々な意味ですさまじい駅です。
タクシーの運転手さんに「ここからいちばん近い光州の地下鉄の駅まで」と指示したら(最も近い鹿洞駅ではなく)ひとつ先の所台駅まで連れて行かれた、というエピソードをある方から聞きましたが、運転手さんの判断は間違いではなかったと思います。

 

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地下鉄の駅とは思えないちっちゃな駅舎。どうやら遠隔監視による無人駅のようです。なんと自動改札がたったの3台。他の駅にはあるコインロッカーもなし。とはいえ日本語を含む多国語表記はしっかりと。

さて、いいかげんお腹がすいてきました。思えばこの日は朝にコンビニの三角キムパッ(おにぎり)2個を食べただけ。チェックしてきた光州市内の人気飲食店の大半はこの日(日曜日)が定休日。今後のスケジュールを考えると営業中の店へ足を運ぶ余裕はありません。

 

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そんな中、またに渡りに船という感じで目前に現れたのがこちらのお店。見ると今回の旅での「食べるリスト」に入れていた光州名物料理のひとつ「エホバクチゲ」の名も。吸い込まれるように入った私でした。

 

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そしてやって来たエホバクチゲ。その名の通りチゲの上にどっさり乗ったエホバク(ズッキーニ)がスープの辛さを適度にマイルドにしてくれます。うんまい。適当に選んで入った店なのに料理が当たりだと、うれしくなりますね。
こちらのお店「鹿洞スップルカルビ」は営業時間も定休日も不明ですが(控えてきませんでした……すみません)、日曜日のランチタイム、それも飲食店がほぼ皆無の鹿洞駅付近で営業しているという貴重な存在です。

鹿洞スップルカルビ(녹동숯불갈비:光州広域市 東区 鹿洞ギル 80 (月南洞 335))

 

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腹ごしらえが済んだところで、再び次の目的地を目指します
駅を出て15分ほど南方向へ歩くと、片側4車線もの大通り「南門路」(ナムムルロ)沿いに、こちらの「주남마을」(周南(チュナム)マウル。マウルとは村、集落の意)と書かれた大きな石碑が迎えます。

 

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そこから30mほど先には、5.18の史跡であることを示す例の丸い碑石が。
この一帯は「周南マウル」と呼ばれる集落であり、抗争4日目の1980年5月21日に全南道庁から一時撤退した戒厳軍が市外へ通じる道路を封鎖して光州を孤立させるために一時駐留した場所です。その2日後の23日には、隣接する和順(ファスン)郡へ行くため付近を通過しようとしたミニバス(マイクロバス)に対し戒厳軍の兵士が銃撃を加え、乗車していた全18名中15名がまもなく死亡。さらに負傷者2名を山中へ連行して銃殺、埋めるという凶行を働きました。その遺体は後に近隣住民の申告により発掘されています。生存者はわずか1名のみ。こうした経緯から当地は「周南マウル隣近市民虐殺地」として5.18民主化運動の史跡14号に指定されています。
518番バスはこの近くを通りませんが、前述したように都市鉄道(地下鉄)1号線「鹿洞」駅から徒歩約15分(約970m)で到達できます。

周南マウル隣近市民虐殺地(주남마을 인근 시민 학살지:光州広域市 東区 月南洞 157。史跡14号)

 

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碑石のそばには、ここから700m先に「5.18慰霊碑」があるのと案内板が。
いま初めて知ったばかりですが、これをスルーすることはできません。訪れることにしました。

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壁画のある小さな集落を抜けると、すぐにのどかな山道が。37年前の惨劇がとても想像できない風景です。当時、戒厳軍はこのあたりを駐屯地としていたそうです。

 

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最初の案内板から10分程度歩くと、その慰霊碑がありました。
「周南マウル5.18慰霊碑」。事件発生30周年の2010年。虐殺された17名の慰霊のため、山中で殺害された2名が埋められた場所に建立されたもので、2つの碑石はこの両名を意味するとのこと。
碑を囲むようにたくさんのソッテ(솟대:上端に鳥の像がついた長い木の棒。民俗信仰で新年の豊作祈願や村の守護神の象徴とされる)が立っています。

周南マウル5.18慰霊碑(주남마을 5.18위령비:光州広域市 東区 月南洞 山 49)

 

次の目的地も市街地からは離れた場所にあるものの、直線距離では周南マウルからさほど遠くないので、タクシーで移動します。

 

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やって来たのは、羅州(ナジュ)や木浦(モクポ)方面へ抜ける片側3車線の大通り「西門大路」(ソムンデロ)沿いにある「松岩三益アパート」バス停(羅州方面側)。このすぐそばに、5.18の史跡を示す例の碑石が建っています。こちらは「光木間市民虐殺地(真月洞、松岩洞)」といい、先ほどの周南マウルと同じく5.18の抗争期間中に発生した住民虐殺事件を記憶する場として、史跡15号に登録されているものです。
「光木間」とは地名ではなく「光州と木浦の間」の意。正面を走る西門大路は京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市からソウルや光州、羅州を経て全羅南道木浦市へと至る国道1号線の一部でもあり、5.18当時も光州と木浦を結ぶメインルートでした。
抗争7日目の5月24日午後1時半ごろ、駐屯地の周南マウルから光州飛行場へ移動中の11空輸部隊(戒厳軍を構成する1部隊)が、前述の碑石からも近い真月洞(チノルドン)を通過中に発見した数名の武装市民に対し射撃。このとき近隣の貯水池で水浴びしていた中学生1名、学校近くで遊んでいた小学生1名に銃弾が命中し、ともに死亡しました。
さらに午後2時過ぎ、同部隊が真月洞の隣の松岩洞(ソンアムドン)、現在の碑石付近まで進んだ際、付近に潜伏していた同じ戒厳軍の歩兵学校教導隊がこれを市民軍と誤認、奇襲を仕掛けます。同じように市民軍の攻撃と誤認した11空輸部隊はこれに応戦、双方に死者が発生しました。うち9名もの死者を出しつつもまもなく同士討ちであることを知った11空輸部隊は、まもなく無関係の近隣住民3名を捕らえ銃殺するなど八つ当たりとしか言いようのない報復を働いています。これら一連の出来事は「松岩洞虐殺事件」と呼ばれています。

 

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518番バスはこの近くを通りませんが、都市鉄道(地下鉄)1号線「南光州」駅そばの「南光州駅」(남광주역)バス停からであれば、<진월(真月)17>番バスに乗って約19分で碑石のある「松荷三益アパート」(송하삼익아파트)バス停に到着します。
光木間市民虐殺地(真月洞、松岩洞)(광목간 시민 학살지(진월동,송암동):光州広域市 南区 松荷洞 538。史跡15号)

 

以上、周南マウルと光木間の両史跡についてはともに「市民虐殺地」と紹介しましたが、5.18の史跡を示す碑石の写真のハングル表記と異なることにお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
本来、両史跡の名称は碑石にもあるように「市民」(시민)の箇所が「良民」(양민:善良な市民の意)となっていますが、近年はこれを「市民」と読み替えつつあります。これは「良民かどうかを問わず虐殺の犠牲者は悼むべきであり、事件を記憶し継承しなければならない」との考えに基づくもので、「5.18記念財団」のガイドブック『光州の五月を歩こう』(광주의 오월을 걷자)でもすでに「市民」の表記を採用しています。私もこの考えに賛同するため、本エントリーにて碑石とは異なる「市民」の表記を用いております。

 

これで未踏の5.18史跡は残り3か所。次の目的地はそれら未踏の史跡でこそありませんが、5.18民主化運動において重要な意味を持つ場所であり、またそこでもある方との約束をしていました。

それでは、次回のエントリーへ続きます。
今回(2017年5月)の光州5.18民主化運動の史跡・関連施設巡りのエントリーは次回が最終回となる予定です。

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