今回からは、2019年11月30日(土)から同12月3日(火)にかけて訪問した全羅南道(チョルラナムド)莞島(ワンド)郡などの旅をお届けいたします。
莞島郡は、全羅南道南部の南海(ナメ。朝鮮海峡など韓国が南岸で接している海の総称)沿いにある郡部で、人口は5万人弱。その領域のすべてが島で構成されています。うち郡庁所在地の莞島邑(ワントウプ。ウプは日本の「町」に相当する地方自治体)のある莞島などいくつかの島は、陸地(ユクチ、韓国では本土をこう呼ぶ)と橋で結ばれています。
今回の旅で莞島郡を目的地に選んだのは、それら島々の中でどうしても優先的に訪れたい2つの島があったからです。
2019年11月30日 (土)、成田空港からは「いつも」のようにジンエアーのLJ202便に搭乗し、約2時間40分で仁川国際空港に到着。まずは空港鉄道と湖南線(ホナムソン) KTXを乗り継いで光州松汀(クァンジュソンジョン)駅を目指すことにします。仁川国際空港から莞島へ直行する高速バスはなく、莞島を含む全羅南道全体の交通のハブとなっている光州(クァンジュ)広域市のバスターミナル「U-SQUARE」へ移動するのが最も近道だからです。
当初はソウル駅を16時35分に発つ列車に乗車する予定でしたが、想定よりも早く入国手続きが終わったおかげで1本前の龍山(ヨンサン)駅16時10分発の列車(写真)に間に合うようになったため、予約変更します。これで光州松汀着は当初予定より1時間も早まることになりました。
光州松汀駅には2時間04分で到着。ただ厄介なことに、同駅で接続する光州都市鉄道1号線(地下鉄)はU-SQUARE近辺を通りません。両者を結ぶ市内バスの路線はあるものの最速でも30分近くを要するため、今回はやむなくタクシーを利用します。
U-SQUAREに到着。しかし、直近の莞島行き市外バスはすでに満席との表示が、やむなくその次の19時25分発の便のチケットを確保します。痛恨のタイムロス。とはいえ当初に乗車を予定していた便ですので、全体を通してみると想定所要時間に変更はありません。
そして確保した19時25分発の便(写真)も、発車20分前時点で満席に。むしろKTXを1本早く変更したからこそ、この便のチケットが取れたのかもしれません。光州~莞島間のバスは人気が高い、ということは覚えておきたいと思います。
U-SQUAREを出て1時間半ほどで、莞島郡と北側で接する海南(ヘナム)郡の中心地、海南邑の海南総合バスターミナルに停車。ここで3分の2ほどの乗客が下車します。満員だったせいで窓が曇っていて外がよく見えませんでしたが、こちらの海南、結構な規模の街のようです。
海南郡は人口約68,000人と莞島郡よりも多く、海南邑だけでも人口約25,000人。こちらの需要が大きいため、行きのチケットの人気が高いのでしょう。
そしてU-SQUAREから2時間ちょっとで、終点の莞島共用バスターミナルに到着。時刻はすでに21時30分。次の日は朝が早いので、この夜は食事だけして終わりになりそうです。
それにしても、到着時点でバスターミナルが施錠されていたのは今回が初めて。夜分遅くとはいえちょっとびっくり。
ホテルの窓から眺めた莞島の港の風景。写真右上の小さな島は珠島(주도:チュド)といい、島全体を覆う常緑樹林が天然記念物に指定されています。
ホテルに荷物を置き外に出ると、遠くの山上には光る莞島タワーの姿が。
食堂を探したところ、すぐ近くの「莞島ヘムルタン」というお店がまだ営業していました。
前述した理由で1人前のメニュー、ヘムルテンジャントゥッペギを注文。
ヘムルは「海鮮」、テンジャンは韓国式の味噌、トゥッペギは日本の韓国料理店でもよく出て来る1人分の黒い土鍋の意。大体どんな料理か想像できるかと思います。
そしてやって来た、ヘムルテンジャントゥッペギ。
ヒオウギガイと思しき貝にハマグリが殻ごとごろごろと入った海鮮スープと麦飯のセット。海鮮ダシがしっかり出たスープは麦飯を投入し一滴残らずいただきます。うんまい。おかずにはコドゥンオ(サバ)焼きのサービスまで。お腹から幸せいっぱいです。
こちらのお店「莞島ヘムルタン」は2021年現在も営業中のようで、営業時間は午前11時~午後10時。定休日はないようですが名節(旧正月・秋夕)はお休みかもしれません。「완도해물탕」で検索すると(同じ屋号のお店が莞島邑内に別にあるので注意)、ボリューミーかつおいしそうなヘムルチム(해물찜:シーフードを辛めのヤンニョムソースで蒸し煮した料理)が出てきます。次はこちらも食べてみたい。
それにしても午後10時閉店ということは、あの日は閉店間際にもかかわらず私を温かく迎えてくださったのですね……ただただ感謝。
莞島ヘムルタン(완도해물탕:全羅南道 莞島郡 莞島色 張保皐大路 256-1 (郡内里 1307))
そうして莞島での初めての夜は更けてゆくのでした。
明けて、2019年12月1日 (日)の朝。
この日だけで2つの、それも互いに離れた離島を訪問する予定のため、夜明け前から行動を開始します。荷物はホテルの方が昼まで預かってくださることに。
この日最初の目的地は、莞島郡の南西部にある離島、所安島(소안도:ソアンド)にある展示施設です。
莞島邑の中心部近くには、多くの郡内の離島や済州島(チェジュド)行きのフェリーが発着する「莞島旅客船ターミナル」がありますが、所安島行きのフェリーはそこからは発着せず、莞島邑の中心部から少し離れた花興浦(ファフンポ)港からのみ乗船できます。
そのためまず徒歩で向かったのは、昨夜に降り立った莞島共用バスターミナル。花興浦港でフェリーと接続する、莞島農協の運営による専用のシャトルバスが運行されているからです。今回は花興浦港を午前7時ちょうどに発つ所安島行きの始発便に乗りたいがため、こんな早起きとなってしまいました。
とはいえあまりにも到着が早すぎたため、時刻はまだ午前5時台。バスターミナル周辺の飲食店はどこも開いておらず、また所安島でも食事できる保証はないことから、バスターミナルそばのセブン-イレブンで朝食をとることに。
購入したのは写真の「マシンヌンウドン」。生麺タイプの日本式カップうどんです。「マシンヌン」とは「おいしい」の意で、ラベルには日本語で「うまい」の文字も。普通においしかったです。
そして午前6時40分、莞島農協のシャトルバスが発車。運賃はなんと片道500ウォン(約50円:当時。2021年11月現在は片道1,000ウォン(約100円)に値上げ)という破格の安さですが、T-moneyなどの交通系カードは一切使えず現金決済のみです。
バスの発車時刻はフェリーが花興浦港を発つ時刻の原則30分前。しかし、何故かこの便だけが20分前発車です。地図で見ると往路だけでもある程度の距離があるのに、それから乗船券を購入していたらあっという間に20分経過しそうな気がします。果たして待ってくれるのでしょうか……。
そんな私の心配をよそにバスは10分ほどで花興浦港ターミナルに到着。それからチケット購入、乗船までの時間を含めても20分に満たず、私の乗るフェリー「大韓号」は無事出航とあいなりました。
花興浦港を発って40分弱で写真の白い吊り橋をくぐり、まもなく港に接岸します。
こちらは所安島ではなく、最初の寄港地である蘆花島(노화도:ノファド)の東泉(トンチョン)港という港です。
蘆花島は、所安島などとともに所安群島を構成する離島であり、陸地からだと船でしかアクセスできませんが、「甫吉大橋(ポギルデキョ)」(先ほどくぐった吊り橋とは別)を通じて南側の甫吉島(보길도:ポギルド)と連結しており、車両を含め相互に往来することができます。
蘆花島と甫吉島はともにアワビの養殖で知られ、莞島をアワビの産地として全国にその名をとどろかせる原動力となっているほか、島民の所得も総じて高いのだといいます。最近たまに日本のスーパーで見かける韓国産の活きアワビは、蘆花島や甫吉島など莞島郡から出荷されたものだと思われます。
また、甫吉島は朝鮮時代の文人、尹善道(윤선도:ユン・ソンド、1587-1671、号は孤山(고산:コサン))が済州島へ行く途中、嵐を避けるためにたまたま立ち寄ったところその景観に魅了され、その後通算13年も過ごした島でもあり、その居宅跡や庭園を含む一帯は「甫吉島尹善道園林」として韓国の名勝第34号に指定されています。こちらもいつか訪問してみたいものです。
ちなみに先ほどの吊り橋は、蘆花島と隣接する小島、鳩島(구도:クド)を連結するもので、将来の蘆花島と所安島間の架橋計画の一部をなすものだそうです(鳩島~所安島間は未着工)。
花興浦港からおよそ50分、東泉港を出て約10分で、この日最初の目的地である所安島の所安港に到着。
所安島は全域が莞島郡所安面(面(ミョン)は日本の「村」に相当する地方自治体)に属する島で、面積は23.16平方km、人口は約2,500人です。地図にあるように中央やや北寄りがくびれた形をしており、これはかつて2つの島だったものが砂洲で連結されたものだとされています。
所安島は朝鮮時代、済州牧使(チェジュモクサ。当時の地方行政単位であった牧 (モク)に派遣された官職)が本土と任地の済州島との間を船で往来する際、嵐に遭ったときに途中で立ち寄った場所「候風處(フプンチョ)」として利用されていました。特に所安島と済州島の間は外洋(朝鮮海峡)であり普段から波が荒く、命からがら所安島に到着した随行員たちがその度に安堵したことに「所安島」の名が由来するという説があるといいます。
所安港には、「抗日의땅 解放의섬 소안도」(抗日の地 解放の島 所安島)と刻まれた写真の石碑が建てられています。
その碑文にある通り、所安島は日帝強占期の朝鮮でも有数の抗日運動が激しかった地域として知られています。所安島だけで89人もの独立運動家を生み、うち20人が韓国政府から建国勲章を受け国家有功者として認定されている、まさしく「抗日の島」の名にふさわしい場所です。
所安島は、咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在は朝鮮民主主義共和国領)の北青(プクチョン)、慶尚南道(キョンサンナムド)の東莱(トンネ。現在は釜山広域市の一部)とともに抗日運動が最も激しかった地域とされ、「抗日運動3大聖地」と並び称されています。実際、1920年代には当時6,000人あまりとされる当時の所安島の人口のうち、およそ800人が日本により「不逞鮮人」とされました。
「不逞」とは「勝手気ままに振る舞うこと」の意です。ちょうど同じ時期、1923年9月1日に発生した関東大震災の直後に約6,000人もの朝鮮人たちが無実の罪で虐殺された際、その行為を正当化するためのヘイトワードとして喧伝されたことをご存じの方も少なくないことでしょう。
所安港には1台のバスがフェリーの客を待ち構えていました。所安島にはバス路線があり、その沿線上に目的地があることを事前に調べていた私はすかさず乗り込みますが、どうも車内の様子が変です。私以外はみな登山やトレッキングと思しき格好をした乗客ばかり。どうやらこちらのバス、同じフェリーに乗り合わせた団体の貸し切りだったようです。それでも親切なことに部外者の私をそのまま乗せていただき、無事に駕鶴里(カハンニ)にある目的地最寄りのバス停で下車することができました。ちなみに料金は1,000ウォンで、こちらも交通系カードは使用できないようです。
ここ駕鶴里、ちょうど島のくびれたあたりに位置するのが、目的地である「所安抗日運動記念館」です。
記念館の開館時刻である午前9時までは1時間近くあります。記念館一帯は抗日運動記念公園として開放されていることから、しばらくは辺りを散策することにします。
記念館の正面には、「所安抗日運動紀念塔」と揮毫のある真っ白な塔が海に向かって建てられています。
その左右には独立運動家の島民と思しき像や石碑なども。
それでも時間が余ってしまったので、写真のバス停で雨宿りしつつしばらく開館を待っていたところ、1台の乗用車が駐車場に停まります。一人の男性が降りてきて記念館の玄関へ向かい始めたため、その方に話しかけることに。
その方は所安抗日運動記念館の館長であり、また記念館を運営する所安抗日運動記念事業会の会長でもある方で、館内に入った後は親切なことに展示物を自ら解説してくださるとのご提案が。もちろんお願いすることにしました。
まずは所安島の歴史に関する十数分程度の映像コンテンツを視聴し、玄関ホールへ戻ります。ここには朝鮮全土での「3.1運動」発生地点をプロットした朝鮮半島の巨大な地図が掲げられていました。
続いて展示室へ。
展示室の天井には、独立運動の過程で用いられた複数デザインの太極旗が吊るされています。そのいずれも現在の韓国国旗である太極旗(写真右手前)とはやや異なるデザインです。
高さ5mはあろうかというこちらのジオラマは、1909年に発生した「唐寺島灯台襲撃事件」を再現したものです。
唐寺島(당사도:タンサド)は所安島の南西に浮かぶ小島で、事件当時は者只島(자지도:チャジド)、さらにその前は港門島(항문도:ハンムンド)と呼ばれていました。
日本が武力にものを言わせて大韓帝国を保護国化して4年が経過していた1909年1月、日本は唐寺島に灯台を設置します(写真:『所安面誌』より引用)。これは朝鮮人の便益のためではなく、あくまで日本商船の安全航行を目的としたものでした。
それから2ヵ月も経たない同年2月24日、李準化(이준화:イ・ジュナ)氏ら所安島住民5名は唐寺島に上陸して灯台に突入、日本人職員4名を殺害し灯台施設を破壊します。これが「唐寺島灯台襲撃事件」と呼ばれるものです。写真左側は後に日本人によって唐寺島に建てられた日本人職員の遭難記念碑、右側は1997年に建てられた抗日戦蹟碑です(『所安面誌』より引用)。
この事件には背景がありました。
灯台襲撃事件から遡ること15年前の1894年の「東学農民戦争」(東学農民革命、甲午農民戦争)のとき、東学接主(東学教徒の地域リーダー)の一人である羅成大(나성대:ナ・ソンデ)氏が東学軍を率いて所安島を訪れ、軍事訓練を実施したことがありました。このとき東学軍に合流したのがまさに灯台襲撃事件参加者の李準化氏ら東学教徒の島民たちであり、島民たちは食糧支援などにより東学軍を支援しています。しかし東学軍は日本軍と朝鮮の官軍に敗れ、所安島にいた東学軍も密告により駆けつけた官軍と衝突。仲間たちの犠牲を経つつも李準化氏は東学軍とともに島を脱出します。
1909年に韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根(안중근:アン・ジュングン、1879-1910)義士への態度などその最たるものですが、ほとんどの日本人は日帝強占期当時の朝鮮人による日本人殺害事件を語る度に顔をしかめ、その実行者をテロリスト呼ばわりし、そしてそれらを義挙と評価する韓国人を「異常」視したがる傾向にあります。いまこのエントリーを読んでいる貴方もその一人かもしれません。
殺人という行為が重大な罪であることは言うまでもありませんが、当時の朝鮮人たちがそれを実行したことにはやむにやまれぬ背景があることを決して見逃してはなりません。日本はこの当時すでに東学農民戦争で万単位もの朝鮮人を殺害し、武力を背景に韓国の国権を奪うという加害を繰り返してきたわけです。そしてそれは後の「3.1運動」という非暴力デモに対する虐殺にも連なります。もしそれらを理解したうえで彼らをテロリストだと断罪して罵り、それを評価する取り組みを「異常」視したがるのであれば、貴方はそうした虐殺や侵略に共感しているか、もしくは朝鮮人をそもそも対等な人間とみなしていないのかもしれません。
前述したように所安島は89人もの独立運動家を輩出、うち20人が国家有功者として認定されています。展示室内には、それら国家有功者の略歴を添えたレリーフがずらりと並んでいます。
所安島での抗日運動を語る際に決して欠かすことのできない代表的人物として、島出身の宋乃浩(송내호:ソン・ネホ、1895-1928)氏が挙げられます。写真は展示室入口から見て最も手前(向かって左)側に位置している、宋乃浩氏のレリーフ。
宋乃浩氏は1913年、金景天(김경천:キム・ギョンチョン)氏らとともに朝鮮人向けの教育機関である私立中和学院を設立し、その教師となります。この中和学院を発展させたものが後述する私立所安学校であり、一貫して多くの独立運動家たちを輩出する源となりました。
その後1919年3月15日、宋乃浩氏はソウルのタプコル公園から始まった「3.1運動」のわずか半月後に、ここ莞島郡にて独立万歳運動を主導しています。これは所安島よりもずっとソウルに近い、あの柳寛順(유관순:ユ・グァンスン、1902-1920)烈士らが主導した忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)での「アウネ万歳運動」(4月1日)より半月も早いものでした。
1920年秋には満州で結成された武装闘争団体「大韓独立団」全羅支団の責任者となりますがこれが発覚して逮捕、1年半の収監を経て1922年末には抗日秘密結社「守議為親契」の結成を主導します。その後も「莞島ペダル青年会」への入会、「所安島労農連合大成会」「サルジャ会」「一心団」など複数の抗日組織を結成あるいは参加しつつ、その間には再び収監されることもありました。
さらに1927年には、左右合作の抗日独立運動団体として知られる「新幹会」の創立発起人35人の一人として参加、本部常務幹事に選出されます。しかし翌1928年秋には三たび逮捕されて懲役10ヵ月を宣告され、木浦(モッポ)刑務所での服役中に肺結核の悪化による保釈を経て、同年12月20日にソウルのセブランス病院にて33年の短い生涯を終えています。短いながらも祖国を愛し、その独立のために持てるすべてを捧げたと言っても過言ではない生涯でした。
展示室の順路の終わり近く、写真のパネルにある五線譜付きの歌詞は「離別歌」(이별가:イビョルガ)といい、私立所安学校の教育方針に感銘を受け、東亜日報の地方部長の職を辞してまで後進たちの教育に身を投じた李時琓(이시완:イ・シワン)氏が作詞作曲したものです。
前述したように、私立所安学校は宋乃浩氏らが設立した中和学院がその前身であり、所安面民の寄付をもとに1923年に開校したものです。当時、所安島にはすでに日本が設立した公立学校もありましたが、その教育方針から遠くは本土や済州島からも入学希望者が来るほどでした。同校が語られる際、必ず「私立」の語が冒頭に添えられるのはこうした経緯があるためです。
かねてから所安学校を快く思っていなかった日本は1927年、祝日に日の丸を掲揚しなかったことなどを理由に、同校を強制的に閉鎖させます。これに伴い所安島を去ることを余儀なくされた李時琓氏の辛く悲しい心情を歌にしたものが、この「離別歌」だとされています。
会長様がこのパネルを案内された直後、突然この「離別歌」を一緒に歌おうと持ち掛けます。メロディも分からない私はただあわてるばかりでしたが、幸い歌詞は読めるので、会長様のリードで一緒に歌うこととなりました。展示施設の館内で歌ったのは人生で初めてのことです。
いったん記念館を出て向かったのは、所安抗日運動記念塔を挟んだ向かい側にある私立所安学校の木造校舎。記念館の開館とあわせて2003年に復元された建物です。
校舎の玄関前には、写真の鐘が吊るされています。
これは当時の私立所安学校にて用いられていたものだそうで、訪問者はこの鐘を鳴らして記念写真を撮るのが習わしになっているそうです。私も会長様に撮っていただきました。
鍵のかかっていた校舎の内部にも入れてもらえました。現在は「私立所安学校チャグン図書館」(チャグンは「小さな」の意)などに用いられており、月曜日と公休日以外は開放されているそうです。
こちらの施設「所安抗日運動記念館」の開館時間は午前9時~午後6時、毎週月曜日休館。入場料は無料です。
島内には私がこの日の朝に乗った「所安旅客(소안여객)」のマウルバスが定時運行しているようですが、2021年現在の時刻表が見つからないうえ、最終便を除けば所安港ではなく約25分ほど歩いた榧子里(ピジャリ)始発のようですので(2019年時点)、所安港から歩いて約40分(約2.6km)で到達できる記念館まで直接向かった方が早いかもしれません。
所安抗日運動記念館(소안항일운동기념관:全羅南道 莞島郡 所安面 所安路 263 (駕鶴里 259))
帰りがけ、なんと会長様が所安港まで車を手配してくださることに。しかもその途中で宋乃浩氏の墓所にも寄っていただけるとのこと。ただただ感謝です。まもなく女性の方が運転する乗用車が到着、同乗することとなりました。
まず停車したのは、島の中心地でもある榧子里に立つ写真の石塔。色と少し小さめのサイズを除けば、記念館の前にあった所安抗日運動紀念塔と全く同じ形です。
それもそのはずで、こちらの方がオリジナルの所安抗日運動紀念塔であり、島民の寄付により1990年に建立されたものなのです。その後、2003年に国の予算で所安抗日運動記念館が建設されることになった際、すでになじみのあるこの塔を移すことはせず、新たに同じデザインの塔を記念館前に建てたとのこと。
コンクリート製と思われる白一色の記念館前の塔とは異なり、こちらは所安島の海岸で採取したという黒と白の天然石を積んで造られています。うち黒い石は日帝の弾圧を、また白い石はかつて「白衣民族」と呼ばれた韓国人(朝鮮人)の純潔さを、そして3つに分かれた塔の形は日本に対する強烈な抵抗をそれぞれ象徴しているとのことです。
再び車に乗り込み、到着したのは所安港からも近い、梨月里(イウォルリ)のなだらかな傾斜のある山中。
こちらに、宋乃浩氏を含む宋氏一族の墓所があります。
写真1枚目は宋乃浩氏の墓石。その向かって右隣には、兄と同じく独立運動に身を投じ、その兄と同じ年に亡くなった宋乃浩氏の弟、宋琪浩(송기호:ソン・ギホ、1899-1928)氏の墓石もありました。
会長様と二人で、黙祷を捧げます。
宋乃浩氏の墓所から所安港へと向かう途中の海岸べりの道沿いには、韓国の国旗、太極旗が数メートルおきに何本も立ち、翻っていました。
所安島はこうした道路沿いのほか、民家でも24時間365日ずっと太極旗を掲げており、「太極旗の島」と呼ばれることもあります。抗日の島らしい風景だと思います。
太極旗を掲揚すべき日については、大韓民国国旗法により所定の国慶日・記念日のほか、指定した日などが規定されていますが、このほか「地方自治団体が条例または地方議会の議決で定める日」というものがあるため、莞島郡に働きかけて所安島では24時間いつでも太極旗を掲揚できるような条例を定めたとのことです。そしてその立役者となったのが、まさにご一緒している会長様だったことを後になって知りました。
そうして現在、ここ所安島では道路沿いや各家屋など、実に1,500本もの太極旗が昼夜を問わずはためいています。
その後は所安港で車を降り、所安島の再訪を近いつつ会長様と別れ、お二人の車を見送ります。
親切かつ外国人の私にもわかりやすい丁寧な解説のおかげで、所安島の抗日の歴史により理解が深まるとともに、ますます史実を知りたいと思うようになりました。「離別歌」を一緒に歌ったことは忘れられない思い出です。会長様、本当にありがとうございました。
そういえばこの日、次の目的地があるため所安島訪問が泊りがけでないと話したとき、会長様が少し残念そうにされていたのが印象に残っています。この日はわずか4時間ほどの滞在でしたが、次こそは必ずや泊りがけで所安島を訪問するとともに、灯台襲撃事件の現場である唐寺島も訪問するつもりです。
そして所安港を正午に発つ「万歳号」で、花興浦港へと戻るのでした。
花興浦港と所安島を結ぶフェリーは3隻体制で、この日の朝に乗った「大韓号」と「民国号」、そして写真の「万歳号」の名前が付けられています。「抗日の地、解放の島」への交通手段にふさわしい船名だと私は思います。
それでは、次回のエントリーへ続きます。
【2021.12.04 付記】
所安抗日運動記念館のダウムカフェで、この日お世話になった会長様が本年11月17日に急逝したという訃報を知りました。
会長様は昨年3月に所安抗日運動記念事業会の会長職を他の方に譲られた後も、私のときと同様に記念館の訪問者に対し手厚い案内をされていたそうです。またご自身のFacebookアカウントでは、亡くなる2日前まで所安島に関する投稿を精力的になされていました。
私が所安島を訪問した2019年当時は、安倍政権が韓国政府に対し三権分立を無視した徴用工裁判の判決への介入を迫り、拒否されるや「ホワイト国」除外という筋違いの経済報復による韓国への敵対政策が進行されていた時期であり、現在へと至る挙国一致の韓国(人)憎悪が醸成されていた時節でした。会長様もそのことはご存じであったに違いないでしょう。にもかかわらず、その日本からやって来た私を歓待してくださったことについてはただただ感謝の意とともに、この国で私が無力であることの罪悪感を抱くばかりでした。
会長様。あの日、直々に記念館の展示物を案内され記念写真を撮っていただいたこと、記念館で「離別歌」を一緒に歌ったこと、そして港へ送っていただく途中で宋乃浩氏の墓所を一緒に訪れ黙祷した思い出は生涯忘れないつもりです。本当にありがとうございました。
私は史実の記憶継承という会長様の遺志をこの国で引き継ぐとともに、それを否定しようとする者たちに残る生涯抗ってゆくことを誓います。