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順天の旅[201908_07] - 目と舌で堪能する「楽安邑城民俗村」、100年前の3.1運動万歳デモの現場を歩く

前回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅の3日目、2019年8月31日(土)です。

 

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順天市楽安面(ナガンミョン。面は日本でいう「村」に相当する地方自治体)にある「楽安温泉(ナガン・オンチョン)」を出て、この日の主目的地である「楽安邑城民俗村」(낙안읍성민속촌:ナガンウプソン・ミンソクチョン)へ徒歩で向かいます。

 

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その少し手前、「楽安邑城」バス停のそばには写真の塔が建っています(この写真に限り2016年10月撮影)。

 

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こちらは「三・一独立運動紀念塔」といい、1919年4月13日、楽安の市の日に住民約150名の参加により挙行され、その後日本憲兵により鎮圧された万歳運動を記念して、まさにその現場である楽安邑城のそばに建てられたものです。

 

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楽安での万歳運動は、地元の農民であった金鍾胄(김종주:キム・ジョンジュ)と劉興柱(유흥주:ユ・フンジュ)の両志士らの主導によるものです。両志士らは4月13日の正午頃に楽安邑城外で群衆の呼応を誘導、午後2時ごろに150名あまりのデモ隊とともに「独立万歳」を叫びつつ楽安邑城内へ向かいます。デモ隊が楽安邑城に集まるや日帝憲兵が武力制止し、両者間に衝突が起きて負傷者が多数発生、主導者たちが逮捕されました。その後の裁判では金鍾胄と劉興柱の両志士が懲役1年6ヵ月、その他4名も同6ヵ月の実刑判決を宣告されています。

 

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写真は昨年(2019年)12月に訪問した全羅南道莞島(ワンド)郡、所安島(ソアンド)の「所安抗日運動記念館」にあった、1919年に朝鮮全土で展開された万歳運動「3.1運動」の発生地を示した展示物です。
日本においてこうした事実は歴史の教科書でこそ言及されているものの簡潔な説明に留まり、万歳デモが徹底して非暴力であったことも、それを弾圧した日本の憲兵などにより数千人もの犠牲者を出したこともほとんど知られていないのが実情です。また運動100周年であった昨年3月には日本の世論全体がその記念行事を「反日」として敵視し、差別や憎悪の正当化事由としたがったことは記憶に新しいかと思います。私たちはこうした3.1運動の事実も、また自ら構成員である社会での深刻な現状も直視しなければなりません。

 

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楽安の「三・一独立運動紀念塔」、私が訪問した当時は芝生の中に塔だけが建っているものでしたが、この少し前には3.1運動100周年を記念してテーマ公園への改装工事が計画されているとの報道がありました。完工後には独立宣言文を刻んだ造形物やムクゲの花壇などを併設し、周囲も韓屋の塀で囲み、誰でも立ち入ることのできる広場として生まれ変わるとのことです。その後の進捗は分かりませんが、史実を記憶継承する場として維持され発展することを願っています。

 

旧楽安郡地域
ところで、この「三・一独立運動紀年塔」や楽安邑城民俗村の位置する楽安面は、その属する順天市の中心部よりも、隣接する宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ。邑は日本でいう「町」に相当する地方自治体)の方がずっと近い位置にあります。それもそのはずで、実はかつて楽安と筏橋は同じ「楽安郡」に属していました。
「楽安郡」は現在の順天市楽安面と外西面(ウェソミョン)、宝城郡筏橋邑のほぼ全域、および順天市別良面(ピョルリャンミョン)と高興(コフン)郡の一部を領域としていた郡で、遅くとも高麗時代の930年にはその名が記録に残されています。
1908年に楽安郡は突然廃止され、その領域は当時の順天郡(後の昇州(スンジュ)郡。現在は順天市の一部)と宝城郡、高興郡に分割編入されました。当時はまだ「韓国併合」前の大韓帝国時代でしたが、その廃郡はすでに大韓帝国保護国化していた日本の意向だという説が有力です。
旧楽安郡は高麗時代から幾度となく倭寇に襲われたこともあり抗日意識が強いとされた地域で、羅喆(나철:ナ・チョル、1863-1916)氏をはじめとする独立運動家を生んできた土地でもありました。また廃郡の年の1908年には、当地一帯にて安圭洪(안규홍:アン・ギュホン、1879-1910)志士の義兵部隊による武装抗日闘争が激化していました。こうした抗日運動の一大根拠たる楽安郡を廃絶し、楽安と筏橋の両中心地を別々の郡に引き裂いてその弱体化を期するということが、日本による楽安郡廃郡の理由だとみられています。

余談ですが、こうした経緯もあってか筏橋邑は編入先の宝城郡の郡庁所在地である宝城邑に強い対抗心を持つとされ、その様子は筏橋を主舞台とした趙廷来(조정래:チョウ・ジョンネ、1943-)氏の大河小説『太白山脈』でも描かれています(筏橋の警察署が宝城邑のそれより格上であることを自慢する描写など)。また2005年には宝城郡議会のミスで「筏橋コマク祭り」(こちらのエントリーにて紹介)の予算が全額削減されてしまう不手際があり、これに怒った筏橋邑民により宝城郡からの離脱と順天市への編入を求める署名運動が展開されたこともあります。

 

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そしてついに、楽安邑城民俗村に到着。2016年の秋以来、およそ3年ぶりの訪問です。

 

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邑城(ウプソン)とは主に高麗時代から朝鮮時代にかけて建設された施設で、外敵から集落を守るためにその全体を写真のような城郭で囲んだものをいいます。かつては楽安のみならず朝鮮半島全土にこうした邑城が点在していました。順天市だけでも楽安邑城に加え、現在の原都心(ウォンドシム。古くからの中心街)にも「順天府邑城(スンチョンブ・ウプソン)」が存在していましたが、日帝時代に跡形もなく解体されています。
楽安邑城の城郭は角の取れた長方形に形成されており、総延長は約1,410m。総面積はおよそ22万平方mで、うち城郭の内部は13万5千平方m。かなりの規模であることが分かるかと思います。

 

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当地における城郭の記録は百済時代に遡りますが、現在の邑城は高麗時代の1397年、当時この一帯を頻繁に襲撃していた倭寇からの防御のために金贇吉(김빈길:キム・ビンギル)将軍が積んだ土城が基礎となっています。また『世宗実録』には、その後1424年から長年に渡って城郭を石に改装、規模を広げたとの記録があります。
さらに下って1626年、楽安郡守に赴任してきた林慶業(임경업:イム・ギョンオプ、1594-1646)将軍により城郭を強固な石積みに改築されたものが、現在の楽安邑城です。林慶業将軍は当地を去るまでの約2年間に邑城の改築を含め善政を施したといい、また丙子胡乱(1636-37年に発生した朝鮮と清国との戦争)などでも功績を収めたことなどから、当地では地域の守護神として信仰の対象にまでなっているとのことです。写真は楽安邑城内にある、将軍の善政を称えた「林慶業将軍碑閣」(全羅南道文化財資料第47号)です。

 

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順天府邑城とは異なり楽安邑城の城郭や施設は日帝時代以降も残りましたが、朝鮮戦争期にはかつての官衙門であり湖南(ホナム。全羅道の別称)の名楼にも数えられた楽民楼(ナクミンルー)が焼失するなど一部が荒廃状態となり、一方で城郭内には邑城の雰囲気にそぐわない近代的な建物も建つようになりました。そうした中、1983年には邑城全体が韓国の史跡第302号に指定され、これと前後して本来の姿に復元するための政府主導による活動が始まります。そうして80年代後半には楽民楼と東門、南門が復元され、さらに城郭内外には草家(チョガ)と呼ばれるわらぶき屋根の家屋が立ち並ぶ往時の姿を取り戻しました。
こうして現代によみがえった楽安邑城はその全体がテーマパーク「楽安邑城民俗村」となり、年間訪問者数およそ120万人もの一大観光地にまで成長。入場料制度を導入することで、観光客への適度な開放と城郭内の環境維持の両立を図っています。またその歴史的価値が認められ、2011年にはユネスコ世界文化遺産の暫定リストにも登載されています。写真1枚目は楽安邑城の復元作業が始まった1983年の航空写真、2枚目は復元作業完了後の1997年の航空鳥瞰写真で、いずれも楽安邑城民俗村内の「資料展示館」にあった展示パネルです。

 

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この楽安邑城民俗村が韓国国内に点在するその他「民俗村」と大きく異なる点として、古くは朝鮮時代に建てられた築後100年以上もの草家に現在も住民が、それも約100世帯に200人あまりが生活していることが挙げられます。なお、これら民家の一部は民泊を営んでおり、外部の人が宿泊することも可能となっています。

 

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写真は、順天市内バスの側面に大きく描かれた順天市のシンボルマークです。
順天市HPのこちらのページによると、丸い輪郭は昇る太陽(順天市民の一体感を示す)を、上の三角形は伝統瓦屋根(伝統と歴史が息づく街)と「人」の字と天に上昇する方向表示(21世紀の中心都市として羽ばたく姿)を、白い湾曲したラインは同市のイニシャル「S」と順天湾の干潟の水流(力強い気質)を意味しているそうです。
そして中央部を横切る凸凹こそがまさしく楽安邑城の城郭を形象化したもので、3つの凹部は教育・産業・観光都市を、4つの凸部は文化・芸術・交通・伝統をそれぞれ意味しているとのこと。同市内の名所として順天湾とともに、また具体的な建築物としては唯一このシンボルマークに採用されている点に、順天市における楽安邑城の存在感が見て取れます。

 

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少し話がそれましたが、いよいよ3年ぶりの楽安邑城民俗村へ。楽安邑城の東門にあたる「楽豊楼」(낙풍루:ナクプンヌー)から入場します。城郭内へは後述するように南門からも入場できますが、バス停からも駐車場からも近いこの楽豊楼が楽安邑城の玄関の役割を果たしています。 


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すでに朝食から6時間近く経過していたお腹を満たすべく、入場してすぐに向かったのは、楽安邑城を横断するメインストリート「忠愍(チュンミン)キル」沿いにある乱廛(ナンジョン。「露店」の意)の2号店、「名月館(ミョンウォルグァン)」。

 

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一見してよくある観光地の飲食コーナーに見えるこちらのお店へやってきた理由は、名物のトンドン酒(濁酒(タクチュ)の一種。同じ濁酒のマッコリが原酒の下に沈んだ粕を濾したものであるのに対し、トンドン酒は原酒の上側のやや濁った部分をすくい取ったもの)が目当て。
このトンドン酒、なんとお店で醸したオリジナルのお酒なのです。ひと口飲んでみると、過去に味わったことのないフルーティーな酸味が。かなりうんまい。アルコール度数も高めのようで、割とお酒には強いはずの私もたちまち酔いが回ります。

 

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トンドン酒とあわせて注文したのは、隣接する筏橋名産のセコマク(サルボウガイ)をふんだんに入れたコマクジョン(ジョンは日本でいうチヂミ)。こちらもレベルが高いです。

 

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こちらのお店「名月館」の営業時間は午前8時半~午後7時半、年中無休。名物のトンドン酒は7,000ウォン(約670円:2019年8月現在。以下同じ)、コマクジョンは10,000ウォン(約950円)。楽安邑城の観光でのお食事には強くおすすめできるお店です。
なお前述したようにお店は楽安邑城民俗村の内部にあるため、ご利用に際しては民俗村の入場料4,000ウォン(約380円)が別途必要であるほか、外部からの訪問の場合には楽安邑城民俗村の入場時間(お店より短い。後述します)の制約を受けます。

名月館(명월관:全羅南道 順天市 忠愍キル39 (南内里 26-1))

 

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ところで楽安邑城民俗村といえば、上にあるような高台から撮った全景写真を思い出す方も少なくないことでしょう。この写真は楽安邑城の西端にある城郭の最高点から撮ったもので、入場者の誰でも自由に登ることができます。

 

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こちらの高台、直下から見るとかなり急な階段で、登るのが相当しんどいように見えます(この写真に限り2016年10月撮影)。

 

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しかし、実は楽安邑城の西門である楽秋門(낙추문:ナクチュムン)脇にある階段(写真1枚目)を登り、なだらかな傾斜となっている城郭上の遊歩道(2枚目)を南門方面へ進むと、この高台へ簡単に到達することができます。

 

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ちなみに西門(楽秋門)は写真のように簡素なゲートがあるだけで、東門(楽豊楼)や南門(雙清楼)のようにかつての施設は復元されていません。これはたぶん楽安邑城内へ出入りする車両の便宜のためだと思われます。

 

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楽安邑城には、草家のほかにも朝鮮時代の木造建築が残っています。
そのうちのひとつが写真の客舎(객사:ケクサ。国外などから来た賓客の宿舎。地方官衙では最上級の施設)で、「楽安客舎」として全羅南道有形文化財第170号にも指定されています。

 

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客舎の裏手は広い野原になっており、30本あまりの巨大な樹木が立っています。

 

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イチョウやエノキ、ムクノキなどで構成されるこれらの巨木はいずれも樹齢300~600年と推定されるもので、1626年の林慶業将軍による改築完工のときの記念樹も含まれるとみられています。うち15本は「楽安邑城内老巨樹」として全羅南道記念物第133号に指定されています。

 

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楽安邑城の路地。土塀あるいは石垣が道の両脇を彩ります。どこを切り取っても絵になる風景。この塀の向こうに誰かの暮らしがあることが、またたまらないのです。

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いくつかの草家は開放されており、庭や内部を見学することができます。写真の建物は南門のそばにある「酒幕(ジュマク)チッ(주막집)」と呼ばれる家屋で、韓国の国家民俗文化財第98号にも指定されています。楽安邑城民俗村にはこちらのような国家民俗文化財に指定された家屋が9棟も存在しています
 

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楽安邑城の南門にあたる「雙清楼」(쌍청루:サンチョンヌー)。ここにも券売所があり入場可能ですが、東門(楽豊楼)とは大きく異なり外側は田んぼばかりなので、こちら側から出入りする人はほとんどいないようです。

 

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こちらの門を出て少し歩いた場所から振り返って見ると、楽安の「鎮山」(진산:チンサン。都や村を鎮護するとされる大きな山)である金銭山(금전산:クムジョンサン、667.9m)を背景にした姿を見ることができます。いったん外に出る格好となりますが半券があれば再入場可なのでご安心のほど。

 

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この「雙清楼」の2階にあたる場所には板の間があり、誰でも靴を脱いで上がりくつろぐことができます。
涼しい風が駆け抜けてゆくこの板の間で欄干にもたれて休んでいたら、トンドン酒の酔いも残っていたせいか、いつの間にか30分ほどうたた寝してしまっていました。

 

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雙清楼は1980年代に復元されたものですが、韓国には築後100年を優に上回り文化財指定された物件でありながら、こうして上がって休息を取れる建物がいくつもあります。たとえば、この2ヵ月前(2019年6月)に訪問した京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市にある「水原華城(ファソン)」の施設群のひとつ、1794年築の「訪花隨柳亭」(パンファ・スリュジョン。宝物第1709号。写真)などもまたそうでした。
私にとっては、これもまた韓国の文化財を訪問したい理由のひとつです。

  

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以上で紹介した楽安邑城民俗村の営業時間は、5~9月は午前8時半~午後6時半、11~1月は午前9時~午後5時半、その他の月は午前9時~午後6時、年中無休です。入場料は大人4,000ウォン(約380円)。
楽安邑城民俗村へのアクセスは、Korail「順天」駅からだと「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<68>番(7便/日)に乗車するか、または「順天駅西側(순천역서측)」バス停より市内バス<63>番(8便/日)や<61>番(3便/日)に乗車し、約44~56分で到着する「楽安邑城3.1運動記念公園(낙안읍성 3.1운동 기념공원)」で下車。そこから徒歩約2分(約120m)で楽豊楼(東門)前の券売所に到達できます。
順天総合バスターミナルからだと徒歩約4分(約230m)の「バスターミナル(버스터미널)」バス停より市内バス<61><63><68>番に乗車(約39~53分)、以下同じ
前述したように楽安邑城は筏橋邑から近接しているため、筏橋経由という手もあります。順天駅からであれば、まずはムグンファ号(4本/日)でKorail「筏橋」駅へ移動(約23分)、そこから徒歩約7分(約420m)の「税務署アプ(세무소잎)」バス停より農漁村バス<낙안(楽安)20><낙안20-1><낙안20-2><낙안20-3>のいずれかに乗車(約10便/日)、約31分で到着する「楽安邑城(낙안읍성)」で下車、以下同じ。ムグンファ号は本数が少ないので、代わりに「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<88>番(35便/日)に乗車し、約45分で到着する「コサマートアプ(코사마트앞)」で下車、同じバス停から農漁村バス<낙안20><낙안20-1><낙안20-2><낙안20-3>のいずれかに乗車(約10便/日)、約33分で到着する「楽安邑城3.1運動記念公園(낙안읍성 3.1운동 기념공원)」で下車してもOKです。

正直なところ、楽安邑城民俗村の内部にある物件や展示物については、以上の写真でもまだ10分の1も紹介できていないと思います。まともに紹介しようとしたならばブログエントリーが何回あっても足りません。その魅力については実際に訪れて直接ご堪能いただきたいと願っています。

楽安邑城民俗村(낙안읍성민속촌:全羅南道 順天市 忠愍キル 30 (東内里 437-1)) [HP]

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なお前述したように、楽安邑城内には現在も多くの方が草家を住居として生活されています。そのため現役の住宅には写真のような看板が掲げられ、訪問客に注意を促しています。大声で騒ぐなどの行為はもちろん、門の閉まっている住宅、特に写真の看板がある場所への許可なき立ち入りは厳に慎むようお願いいたします。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

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