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羅州の旅[201705_09] - 1000年の古都で100年の伝統のコムタンを味わう

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅、明けて3日目(2017年5月22日(月))です。

前日をもって「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の全史跡とほぼすべての関連施設を巡ってしまったので、この日は光州および周辺地域の観光スポットとグルメ巡りに徹することにしました。

 

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そんなわけでまずは都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、KTXの停車駅であるKorail光州松汀(ソンジョン)駅へ。この駅の2階、跨線橋の手前にある写真2枚目のコインロッカーに荷物を預けます。光州松汀駅はこちらに加え地下鉄の駅構内にもコインロッカーがあるので、荷物を置いておくには便利です。
光州松汀訳からは木浦(モクポ)駅行きのムグンファ号に乗車、一時的とはいえ2日ぶりに光州広域市を離れます。

 

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およそ11分ほどで、この日最初の目的地である全羅南道(チョルラナムド)羅州(ナジュ)市の「羅州」駅に到着。初めての訪問です。

羅州平野に位置する羅州の歴史は三韓時代にさかのぼることができ、馬韓を構成する54か国のうち不彌(プルミ)国があったとされています。下って高麗時代の西暦1000年ごろ、ここ羅州には全羅北道(チョルラブット)の全州(チョンジュ)などと同じく、全国を分割した地方行政単位「牧」(モク)が設置されます。「全羅道」の名前はこの全州と羅州の頭文字から命名されたものです。この羅州牧の地位はその後形を変えつつも、朝鮮時代末期の1895年まで900年も存続することになります。
1895年の甲午改革により羅州には観察府が置かれましたが、その翌年には13道制施行とあわせて光州へ移転、そのまま光州が道庁所在地となったために南道の代表都市の地位から陥落することなりました。朝鮮戦争以後は隣接する光州の発展と反比例するように長らく衰退が続き、約30年前の1986年には17万人近くいた人口が一時は9万人を割り込みましたが、2010年代に市内に誕生した光州全南共同革新都市、通称「ピッカラム革新都市」の発展に伴い近年は再び人口増に転じ、2015年には10万人台を回復しています。

 

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市内を貫流する栄山江(ヨンサンガン)には栄山浦(ヨンサンポ)という港があり、かつては西海(黄海)で捕れたホンオ(ガンギエイ)の水揚げで栄えましたがその後衰退、1970年代には河川工事に伴い港としての機能が消滅。それでも栄山浦は現在もなおホンオの街として広く知られ、多くのホンオ専門料理店が並んでいます。
このほか羅州は日帝強占期に始まった梨の生産でも有名であり、同じく梨の生産地であり羅州市とほぼ同緯度上に位置する鳥取県倉吉市姉妹都市縁組を締結しています。写真は羅州駅近くにあった、市の標語らしきものが書かれた塔で、てっぺんには名産の梨を持ったキャラクターが立っています。

とはいえ、韓国を知る日本人にとって羅州といえば真っ先に思い浮かべるのはあの料理ではないでしょうか。かくいう私も今回いちばんの訪問目的はそれですが、せっかく来たのでまずは徒歩で回れる範囲のスポットを訪問することにしました。羅州駅を出て市街地方面へ進みます。

 

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羅州駅を出て少し歩いたところにあったミニストップ。韓国のコンビニで最も店舗数が多いのはCUの12,000店弱(2017年7月末時点。以下同じ)で、続いて僅差でGS25。ミニストップセブン-イレブン(9,000店弱)に大きく水をあけられての業界4位(2,400店強。CUやGS25の約1/5)のはずですが、光州広域市やここ羅州市ではあちこちでよく見かけます。そういえば昨年(2016年)10月に行った同じ全羅南道の宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)では、中心部にあるコンビニの3件中2件がミニストップでした。

 

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羅州駅から市中心部へ向かって2kmほど歩くと、写真の立派な門が見えてまいります。
ロータリーの中心に建つこちらの門は「南顧門」(ナムゴムン)といい、かつて羅州の街を楕円形に取り囲んでいた羅州邑城(읍성:ウプソン。都市や集落を城壁で囲んだもの)の南門で、東漸門(トンジョムムン)、西城門(ソソンムン)、北望門(プンマンムン)とともに東西南北に配置されていた門のひとつです。
羅州邑城は、元々は高麗時代に倭寇から羅州牧を防衛するために築かれた土城で、これを1404年に石垣積みに改築、さらに1457年には拡張されています。また1592年の壬辰倭乱豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)以後には大規模な補修工事が加えられ、その後大韓帝国時代まで維持されてきたものの、日帝強占期の1920年前後には南顧門を含むほぼすべての城壁が破壊されます。光復後も都市化による毀損が進む中、1980年代頃には復元作業がスタートし、1993年には写真の南顧門が、また2006年には東漸門が復元されました。
現在こちらの南門址は、現在もわずかに残る城壁の遺構とともに「羅州邑城」として国の史跡第337号に指定され、復元された南顧門は羅州のランドマーク的存在となっています。

南顧門(羅州邑城南門)(남고문(나주읍성 남문):全羅南道 羅州市 南内洞 2-20。史跡第337号)

 

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南顧門の正面の歩道脇には、「南顧門広場」と題された写真の小さな碑がひっそりと建っていました。1980年、5.18民主化運動当時は広場だったここ南顧門は5月21日(抗争4日目)から市民軍の拠点となり、集まったデモ隊や車両などにキムパッやチュモッパッ(おにぎり)、飲料水などを無料提供するとともに、戒厳軍の進入を防ぐため市民軍が昼夜警戒任務に当たったとあります。

5.18の抗争期間中には光州市民による車両デモ隊がここ羅州を含む近隣の郡部に出動し、暴虐の限りを尽くす戒厳軍への対抗のための協カを呼びかけました。これを聞いた地域住民は食糧や消耗品を惜しまず提供し、また各地域の警察署や軍倉庫からの銃器奪取にも協力しています。中でも産炭地であった和順(ファスン)では戒厳軍の蛮行に激怒した炭鉱労働者が発破用のダイナマイトを進んで提供、市民軍の拠点となった全南道庁に運ばれました。戒厳軍が侵攻してきた場合に道庁もろとも爆破する計画もありましたが、最終的に使用されることはありませんでした。

このように街中、それも光州市内ですらない場所を意図せず歩いていても、5.18民主化運動に深い縁のある場所に遭遇するということ。5.18が光州やその周辺地域に生きる人々に与えた爪痕の深さを改めて思い知らされます。

 

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南顧門を過ぎ、さらに東へ向かって突き当たりを右へ曲がると、写真の建物が現れます。こちらは2001年に現位置へ移転するまで使用されていた、国鉄(現・Korail)湖南(ホナム)線の旧羅州駅舎です。1913年開業、正確な築年は不明ですが遅くとも1923年までにはこの駅舎が存在していました。

1929年10月30日、ここ羅州駅で光州中学校(現在の高校に相当。日本人学校)の男子生徒が光州女子高等普通学校(朝鮮人学校)の女子生徒の髪を引っ張る嫌がらせをし、これに抗議した光州高等普通学校(光州高普。朝鮮人学校)の男子生徒との間で口論となります。このときは日本の警察官によって制止させられたものの、その後も光州高普と光州中学の両校生徒の小競り合いが連日で発生し、そして11月3日にはついに両校生徒のグループ同士による乱闘が発生します。その後いったん学校に戻った光州高普生はまもなくデモ隊を形成、これに合流した光州農業学校の生徒とともに「植民地奴隷教育撤廃」等のスローガンを掲げ光州市内を行進したところ(1次デモ)、うち40名がその翌日以降に警察により拘束されてしまいます。これに抗議した同月12日の2次デモもまた光州高普・光州農業合わせて250名もの検束者を出し、デモに呼応した光州女子高等普通学校や光州高等師範学校の生徒を含め、無期停学処分あるいは退学処分者が続出しました。
これら学生たちの抗日運動は同年末には京城(現・ソウル)に飛び火し、そして翌1930年には朝鮮全土に拡大、1919年の「3.1運動」以来とされる規模にまで発展。現在ではこれら一連の学生運動を総称して「学生独立運動」、その発端となった羅州および光州における運動を「光州学生独立運動」あるいは「光州学生抗日運動」などと呼びます。
こうした背景には従前の独立運動弾圧への抵抗に加え、朝鮮人への高等教育制限や日本人教師による差別など日本の植民地主義的教育政策に対する朝鮮人学生や独立運動家たちの鬱積した怒りを挙げることができます。また羅州特有の要因として、前述した栄山浦がその当時は羅州平野一帯で収穫された米を日本へ運ぶための港であり、まさしく植民地支配の収奪の現場であったことも挙げられるでしょう。

 

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こちらの旧羅州駅舎は、その文化財的価値に加え、以上に述べた通り一連の学生独立運動の「震源地」であることから、「光州学生独立運動震源地羅州駅舎」として全羅南道記念物第183号に指定されています。

 

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こちらの旧駅舎、日中は内部が開放されますが、このときは午前8時台ということもありまだ閉まっていました。写真は窓から撮った旧駅舎の内部。駅員の再現人形が設置されています。2001年の移転直前まで使用されていた時刻表や料金表もそのままです。

光州学生独立運動震源地羅州駅舎(광주학생독립운동진원지나주역사:全羅南道 羅州市 竹林ギル 20 (竹林洞 60-172)。全羅南道記念物第183号)

 

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1919年の「3.1運動」、1926年の「6.10万歳運動」と並んで日帝強占期の3大独立運動のひとつに数えられる1929年の学生独立運動。その全容を学ぶことのできる「羅州学生独立運動記念館」が、旧羅州駅舎のすぐ北側に隣接して建っています。ただし、この日(5月22日)は月曜日であったため休館。いずれ改めて訪問することを誓います。

 

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旧羅州駅から南顧門へと戻る道の途中。なんでもない路地ですが、こんな風景に惹かれます。

 

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再び南顧門に戻り、今度は北へ向かいます。
その途中にある錦城橋(クムソンギョ)から眺めた栄山江の支流、羅州川(ナジュチョン)。情感あふれる風景です。

 

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錦城橋を渡ってさらに北へ進むと、高麗・朝鮮時代を通じてここ羅州の客舎(官吏や外国使節などをもてなす宿舎)であった「錦城館」(금성관:クムソングァン)の正門、「望華楼」(망화루:マンファル)が見えてまいります。

 

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そしてその望華楼の向かいにあるのが、写真のお店「羅州コ厶タンハヤンチッ」。ハヤンチッとは「白い家」の意。1910年創業、店名にもある羅州いちばんの名物料理「羅州コムタン」の草分けとして広く全国に知られるお店であり、私にとっては今回の羅州訪問の最大の目的です。

 

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店内に入るやいなや、ぐつぐつ煮え立つ大きな釜が出迎えるとともに食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐり、にわかにテンションが上がります。
注文したのは当然、看板メニューの羅州コムタン。

 

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そしてやって来たコムタン、スープが澄んでいます。日本でコムタンといえば白濁したスープの印象が強いですが、これぞ羅州コムタンの特徴です。
スープを口に含むとたちまち、牛肉ダシ独特のうまみがじわっと舌を包み込みます。ああ、これは超うんまい。100年の伝統は伊達ではありません。

 

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コムタンと一緒に出てきた、牛皮らしきものを煮込んだパンチャン(おかず)もおいしかったです。来てよかった。

 

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こちらのお店「羅州コムタンハヤンチッ」の営業時間は午前8時~午後9時、年中無休。羅州駅からはバスであれば「羅州駅」(나주역)バス停から160番バス(配車間隔約20分)に乗車し、約13分で到着する「中央路」(중앙로)バス停で下車、徒歩約4分。タクシーであれば同駅から約7分、料金は4,200ウォン(約420円)前後のようです(交通状況によって変化)。はっきり言って、このお店のコムタンを食べるだけであっても羅州を訪問する価値は十分にあります。

羅州コムタンハヤンチッ(나주곰탕 하얀집:全羅南道 羅州市 錦城館ギル 6-1 (中央洞 48-17))

 

せっかく来たのでもう少しゆっくりしたいところですが、この日は光州にも行きたい場所があったため、コムタンを食べたところで羅州を発つことに。とはいえ前述したように「羅州学生独立運動記念館」はいずれ必ず再訪するつもりですし、ホンオ通りと往時の町並みが同居する栄山浦(実は羅州駅からだと南顧門よりも近い)も訪れたい場所です。日帝強占期の収奪の歴史と向き合うためにも。それらについては次回の羅州訪問時に預けたいと思います。

今度はタクシーで羅州駅へ移動、最初にやって来たKTX-山川で羅州を後にします。
来たときのムグンファ号は2,600ウォン(約260円)でしたが、KTXだと3倍以上の8,400ウォンもするので要注意です(しかも所要時間は変わらないという)。

光州松汀駅からは再び都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、次の目的地へと向かうのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

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