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統営の旅[201812_03] - 欲知島(ヨクチド)訪問①植民地支配下の漁民の生活を記憶する「近代漁村発祥地座富浪ゲ」

前回のエントリーの続きです。

一昨年(2018年)11~12月の慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市を巡る旅の2日目、2018年12月1日(土)です。

 

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蓮花島(ヨナド)を正午ごろに発ち、隣の牛島(ウド)を経由したフェリーが、いよいよこの日の主目的地である欲知島(욕지도:ヨクチド)の港に入ります。

 

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そして牛島を発ってから約20分で、欲知港に到着。

  

統営市欲知面全図

欲知島全図
欲知島は統営市欲知面(ミョン。日本の村に相当する地方自治体)に属する面積約12.6平方km、海岸線の長さ約31kmの離島で、人口は約1,500人と統営の40あまりの有人島の中でも有数の規模を誇ります。大小合わせて約570ある統営市の離島は、山陽(サニャン)圏・蛇梁(サリャン)圏・閑山(ハンサン)圏・欲知圏の4圏域に大別されますが、欲知島はそれらのうち欲知圏の主島という位置づけとなっています。
欲知島の歴史は先史時代にさかのぼり、島内からは貝塚が発掘されています。同様に三国時代から高麗時代にかけての遺物も出土していることから、一貫して居住者がいたものと推定されます。
朝鮮時代には王朝の空島政策倭寇対策で離島の全住民を本土に強制移住させた政策)の一環で長らく無人島となりますが、朝鮮末期の1887年に再び入植が許可されます。かつて欲知島が属していた三道水軍統制営では、朝廷への進上品である鹿茸(シカの角)を得るため島内で狩りをしていたほどシカが多く、再入植の際にも何頭ものシカが島内を走り回っていたことから「鹿島(ノクト)」とも呼ばれていたそうです。
その後19世紀末には、黄金漁場と呼ばれたほど海産資源の豊富な周辺海域に目を付けた日本人たちが欲知島に入植するようになります。これに伴い朝鮮人も数多く移入したため人口が急増し、日帝強占期の1915年頃には現在の約15倍である約2万3千人に達したといいます。光復(日本の敗戦による解放)や朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)を経た1950~60年代にも欲知島は漁業前進基地として繁栄を続けますが、それまでの乱獲に伴う漁業資源の枯渇などにより徐々に衰退し、島の人口も激減します。そうして他の離島と同様に過疎化が進む中、かつての特産品であったサバの養殖に韓国で初めて成功。またもうひとつの特産品であったサツマイモのブランド化にも成功し、既存の観光資源とあわせて欲知島は統営を代表する観光スポットとしての地位を確立しています。
ちなみに私が訪問した1年あまり後の昨年(2019年)12月には、観光用モノレール「統営欲知ソムモノレール」(ソムは「島」の意)が開業、新たな観光需要を呼び起こしているとのことです。

なお「欲知島」の名の由来としては、港が面する湾の中にある島が水浴びする亀に似ているのでヨク(浴)チとなった、あるいは罪人がこの島への流刑により辱めを受けたのでヨクチ(辱地)となった(ただし欲知島が流刑地となった根拠はない)、またあるいは「欲知蓮華蔵頭尾問於世尊」(蓮華(極楽) 世界を知りたければすべてを世尊(仏様) に尋ねよ、の意)という華厳経の一節に由来するなど諸説があるそうです。中でも最後の説については、それを裏付けるかのように、直前に寄った「蓮花(蓮華)島」をはじめ「頭尾島(トゥミド)」「世尊島(セジョンド)」といった島々が欲知島の周辺海域に点在します。

 

さて、私が欲知島に上陸してから最初にしたことといえば、この日の宿探しでした。当初、欲知島訪問は日帰りのつもりでしたが、船上から港一帯を眺めた瞬間「あっ、この島に泊まりたい」という衝動に駆られてしまったためです。昨夜泊まった本土のホテルは連泊で予約しており、結果的に無駄になってしまいますが、まあ荷物置き代だと割り切ることにしました。

 

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欲知港付近には数件の宿泊施設があり、その中で今回選んだのが写真の「ミジンジャン旅館」。1部屋40,000ウォン(約4,000円:当時)とほどよい値段だったので、特に値切ることもせずそのまま宿泊することに。

 

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ミジンジャン旅館の部屋の窓からは欲知港が見渡せます。

 

欲知港周辺

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部屋で少しだけ休憩してから、欲知島の踏査に出かけます。
向かったのは欲知港の東方面。島を一周する道路、その名もずばり「欲知一周路(ヨクチイルジュロ)」に沿って歩きます。

 

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まず訪れたのは、欲知港のある「東村(トンチョン) マウル」 (マウルは「村、集落」の意)と隣接する「自富(チャブ)マウル」。写真はマウル名を示す石碑(これを「マウル標識石」という)で、韓国の「○○マウル」ではごく一般的に見られるものです。私はこのマウル標識石が好きで、いつも写真に収めています。

 

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マウル標識石を過ぎて少し進むと、道沿いに写真のパネルが立っています。
こちらは韓国の西洋画家、李仲燮(이중섭:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏と、その作品「欲知島風景」に関する案内パネルです。よく見ると見出しには日本語表記も。
李仲燮氏については、前年(2017年)秋に釜山の「李仲燮通り」を訪れたこちらのエントリーでも紹介したことがあります。わずか40年の不遇の生涯の中にも数多くの作品を残し、中でもここ統営でのおよそ2年間の滞在中に描いた「牛」を題材とする連作が高い評価を受け、現在では韓国で最も人気の高い画家の一人となっている人物です。
氏は螺鈿漆器伝習所の講師として統営に滞在していた1953年にここ欲知島を友人と訪れ、2泊3日の旅程の中で多くの作品を描いたといいます。しかし、それら作品のうち現在公開されているものはパネルにある「欲知島風景」ただひとつしかないとのことです。

 

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こちらは別の場所にあった、李仲燮氏と「欲知島風景」に関する案内パネル。

 

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少し戻って、自富マウルのマウル標識石の手前には、山へ登る階段があります。
この階段があるトンメという小山一帯には、常緑樹であるモミルジャッパンナム(모밀잣밤나무:ツブラジイ。学名:Castanopsis cuspidataの林が形成されており、天然記念物第343号に指定されています。

 

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ツブラジイ(円椎)はブナ科の常緑樹で、韓国南部と日本に分布しています。開花期は5~6月で、秋にはその和名の元となった丸いどんぐり様の実を付け、これは加熱しても生でも食べられるそうです。

 

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モミルジャッパンナムの林の中には木製デッキの散策路が設けられ、誰でも自由に立ち入って森林浴ができるようになっています。

 

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トンメを越えてゆくと、自富マウルの家並みが目前に広がります。

 

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現在でこそその地位を欲知港のある東村マウルに譲っていますが、ここ自富マウルはかつて、欲知島で最大の集落でした。
記録によると朝鮮王朝の空島政策が解かれてまもなくの1889年頃、日本の漁民たちが欲知島近海で沈没船の引き揚げに用いた機械潜水器を貝の採取に転用し、効果を上げたといいます。その後1895年頃から、徳島県人の富浦覺太郎(とみうら・かくたろう)らが欲知島を毎年訪れるようになります。富浦らは後に黄金漁場とまで呼ばれた欲知島近海の水産資源を安値で買い入れて日本で販売したり、あるいは自ら魚獲することで次第に富を蓄積するようになります。そして富浦は1901年、当時は座富浪浦(チャブランポ)と呼ばれていた自富マウルに定着。財力にものを言わせて漁業資金を島の漁民たちに貸し付け、漁獲高の1~2割を自分の分け前として徴収するようにし、さらに富を蓄積してゆきます。
こうして財産に加え権力を得た富浦は、ついに座富浪浦の地名までも我が物にしようとします。「座」の字を当地では同じ発音の「自」に替え、さらに「浪」の字を抜くことで「自富浦(チャブポ)」とし、自分の名字を含む名前に変えてしまいます。当時は文字の読めない漁民も少なくなく、発音上は従来とほぼ同じで不便はなかったとはいえ、知らず知らずのうちに故郷の地名をも日本人に奪われてしまっていたわけです。「自富浦」のうち「浦」は「~港」を意味する語ですので、これが取れた「自富」の地名がその後現在まで存続するようになります。
一方、こうして漁業基地となった欲知島は、その経営のため入植した日本人に加え、職を求めた外部の朝鮮人も多く流入したことで人口が急増、前述したように日帝強占期の1915年には約2万3千人に達します。とりわけその中心地であった座富浪浦(自富浦)は急発展を遂げ、最盛期には旅館や銭湯、喫茶店やビリヤード場などに加え、約40軒ものアンバンスルチッ(안방술집:接待する女性が客と向き合わずに酒を売っていた飲み屋)が軒を連ねる一大繁華街となりました。日本人による支配と収奪の下ではありましたが、そこには朝鮮の人々による繁栄があったわけです。

 

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自富マウルの栄華は光復や朝鮮戦争を経た1960年代初頭まで続きますが、その後は漁業資源の枯渇に伴い人口の激減、加えて島の中心部が欲知港周辺の東村マウルに移ったことで自富マウルは急速に衰退し、ひなびた漁村に転落します。
しかし近年になって、現在も残るその痕跡とあわせてかつての栄華を、そして本来の地名「座富浪浦」を記憶すべく、同じ意味である「座富浪ゲ」(좌부랑개:チャブランゲ。ゲは「浦、港」の意)の名を冠した「近代漁村発祥地座富浪ゲ」として案内板などの整備が進められています。さらにマウル内には後述する特徴的なカフェも誕生、現在では欲知島を代表する観光地のひとつになっています。 

 

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日帝時代のほとんどの建物は老朽化により解体されましたが、その跡地を示す案内板が自富マウルの随所に設けられています。写真の住宅は富浦覺太郎の邸宅跡。

 

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「義勇消防隊」があった場所。日帝強占期に日本人住民たちが財産を守るために結成したもので、光復により日本人が去った後は、島の住民たちがそのまま施設を受け継いで維持したそうです。

 

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最盛期には40軒あまりあった「アンバンスルチッ」のひとつ、「明月館」の跡地。この一帯には明月館のほかにも「釜山屋」「馬山館」「楽園屋」などいくつものアンバンスルチッが立ち並んでいたといい、それぞれ4~5人ほどの若い女性が接待をしていたそうですが、この明月館には日本人の芸者がいたとのことです。日本語表記の「さかは小路」とは「さかば小路」のことでしょうか。

 

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海岸沿いに立つ「欲知島波市」の案内板。波市(パシ)とは漁港一帯、あるいは係留された漁船上にて開かれた海産物の市をいいます。ちょうどこの日の1年前に訪問した全羅南道(チョルラナムド)新安(シナン)郡黒山島(フクサンド)と同様、かつてはこの欲知島でも頻繁に波市が開かれていました。欲知島の近海では冬から春には地域名産のメイタガレイクロダイ、マダイなど、夏から秋にはサバやイワシ、サワラなどが主に獲れたそうで、韓国でもダシ取りに広く用いられるミョルチ(カタクチイワシ)に至っては年中群れをなしていたとのことです。当時は季節になるとあまりにも魚が獲れすぎて船で運べず、やむなく一部を海に捨てるほどだったといいます。こうした波市は光復後の1960年代まで催されましたが、漁業資源の枯渇に伴い1970年代のサワラ波市を最後に幕を閉じたそうです。

 

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欲知島、座富浪ゲ(自富マウル)の歴史を年代別に写真で振り返るパネルが張られた家屋。 

 

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この家屋には、撞球(タングジャン:ビリヤード場)跡との案内がありました。日帝強占期の1940年代にヤマモト・ハスヒラという日本人が開業、5台ほどのビリヤード台を備え漁夫や船員たちで繁盛したといい、光復後も島の住民が受け継いで営業を続けたそうです。1950~60年代、欲知島が漁業前進基地と呼ばれた頃には盛況をなしたというこの撞球場も、60年代以降の人口減に伴い来客も減少し、廃業したとのこと。

 

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沐浴湯(モギョッタン:銭湯)跡。1912年頃に日本人によって営業が始められ、1945年の解放後に廃業したとあります。

 

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茶房(タバン:喫茶店跡。大韓帝国時代の1905年頃から存在した茶房は日本人の経営によるもので、住民や船乗りたちの出会いの場として頻繁に人の出入りがあったといいます。その後、日帝強占期には現位置に移転。1945年の開放後はアポロ茶房から珊瑚(サノ) 茶房と屋号を変えて営業を継続したものの、船乗りたちの足が途絶えると店を閉じ、民家となったとのことです。

 

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欲知旅館(ヨクチ・ヨグァン)跡。日帝強占期の1910年頃、自富マウル内の別の場所に開業。光復後には島の住民が日本人から経営を引き継ぎ、1959年の台風で建物が破損したため当地(現建物)に移転したとのことです。欲知島での漁業が活況であり、島の人口も現在の約10倍の1万5千人いた1960年代までは盛況をなしたようですが、その後の人口減に伴い廃業、現在は民家として用いられています。

 

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自富マウルの高台にある、欲知尋常高等小学校の跡地。1931年に設立されたこちらの学校は日本人の子どもの教育を目的としたものでしたが、欲知島には中学校が設置されなかったため、朝鮮人の子どもたちも通っていたとのことです。1945年の解放に伴い廃校となった後は遠梁(ウォンリャン)国民学校(現在の初等学校。日本の小学校に相当)の欲知島分教場として認可、翌年には欲知公民高等普通学校も併設されます。その後は私立欲知中学校を経て道立欲知中学校となりますが1969年に別の場所へ移転。馬山税関統営出張所の欲知監視所として利用された後、その跡地は民泊「トラガヌンベ」(「帰りゆく船」の意)の敷地となっています。

 

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欲知尋常高等小学校の跡地、現在の民泊「トラガヌンベ」から眺めた海。欲知港や自富マウルの面する欲知島の湾入部は、島本体と半島部に囲まれた天恵の良港となっています。穏やかな海と対岸に見える半島、とてもよい雰囲気です。

 

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かつての欲知島近海における主な水産資源はサバであり、枯渇するまではサバの波市も活発に開かれていました。
ご承知のようにサバは水揚げしてから傷むのが早く、冷凍設備の整っていなかった近代期には、獲れたサバは直ちに内臓を取り除いて塩蔵加工をする必要がありました。そのため自富マウルの住宅には家ごとに「カンドク(간독)」と呼ばれる巨大な四角い穴が掘られており、ここに大量のサバを積み重ね、これまた大量の塩に漬け込んでから出荷したとのことです。こうして日本や朝鮮全土に運ばれたサバが、たとえば慶尚北道キョンサンブット)安東(アンドン)の名物料理「カンコドゥンオグイ(塩サバ焼き)」などに用いられたといいます。

 

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写真は当時のカンドクを再現したスペース。日本語表記で「サバ塩蔵かめ」とあります。自富マウルにはかつてのカンドクだった穴が現在もいくつか残っているそうです。
前述したように欲知島近海の天然物のサバは枯渇してしまいましたが、現在は網いけす養殖の発達により欲知島はサバ養殖の一大産地となり、サバの本場の地位を取り戻しています。

 

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自富マウルの路地はちょっとした壁画村になっています。私の好きな島の裏路地、そして壁画マウルの風景です。

 

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そんな自富マウルの路地に、山の斜面へ向かう木製デッキの階段がありました。
階段脇の案内板を見ると「欲知島郵便局」とあります。郵便業務を扱う事業所のことを韓国では「郵逓局(ウチェグッ)」というので、この表記だけでも日帝時代のものであることが分かります。
案内板によると、1912年に朝鮮総督府逓信局が日本人の便宜のためこの場所に統営郵便局の欲知島郵便所を設置、その後1934年に本局である統営郵便局との間で無線通信を開始、1941年に郵便所から郵便局に昇格したとあります。そして1945年の光復を迎え、郵逓局に改称された後もこの場所で郵便業務を継続し、1977年に東村マウルへ移転したことで廃局となったとのこと。

 

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階段を登り切った場所。当時の郵便局建物は現存せず、プレートの貼られた当時のコンクリート柱だけが往時の面影を残しています。

 

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「近代漁村発祥地座富良ゲ」東側のゲート。

 

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座富浪ゲの東側出入口のすぐ近くには、一般に「水協(スヒョプ)」と略される水産業共同組合(日本の漁協に相当)の保冷庫らしき建物があり、この建物の前にも「欲知漁業組合」の案内板があります。
1924年に欲知島の朝鮮人と日本人により東港里(トンハンニ)漁業組合が設立、翌年に欲知漁業組合に改称。組合のセリを経て販売された海産物は現在の慶尚南道昌原(チャンウォン)市にある馬山(マサン)駅に運ばれ、朝鮮の内陸部や満州(現・中国東北部まで輸送されたといい、当時の朝鮮で最も生産高の大きい組合だったそうです。1928年には現位置に移転。

 

この「近代漁村発祥地座富浪ゲ」のように日帝強占期の施設を保存、あるいはその跡地を紹介する韓国での取り組みはこれまで何度も本ブログにて紹介してまいりましたが、私がその都度添えるようにしているのは、これらは決して日本による統治を美化し、あるいは称えるための取り組みではない、ということです。
足かけ36年間に渡り日本がしてきたことは、植民地としての朝鮮の支配であり、かつその市民の使役による生産物の収奪に他ならず、たとえごく一握りの良心的な日本人の事例を挙げたところでその本質は決して否定することはできません。
日本人がこうした取り組みを見て「日本は朝鮮に良いことをした」だの「韓国人は日本統治時代を懐かしがっている」だのと一方的に解釈し、あまつさえそう発言することは、表層だけを見て自己満足に浸りたがる意識の表出であり、厳に慎むべきことです。

  

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自富マウルには、「近代漁村発祥地座富浪ゲ」と並ぶもうひとつの名所があります。
それが写真のカフェ、その名も「欲知島ハルメバリスタ」です。

 

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ハルメ(할매)とは「おばあさん」を意味するハルモニ(할머니)の慶尚方言。その名の通り、島出身の70~80代のおばあさんたちがバリスタとなりコーヒーを出してくださるということで、メディアなどで紹介され有名になったお店だそうです。確かに、この日カウンター内にいらっしゃったのも年配の女性でした。
店内には往年の自富マウルの写真の数々に加え、訪問者による記念の落書きがびっしりと。

 

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こちらのお店の名物メニューのひとつが、写真の「コグマラテ(고구마라떼)」。コグマとは「サツマイモ」のことで、サバと並ぶ欲知島の名産品、欲知コグマで作った飲料なのだとか。しっかりとサツマイモの香りがしてうんまかったです。

 

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こちらのお店「欲知島ハルメバリスタ」の営業時間は午前8時30分~午後5時(週末は午後7時まで)、たぶん年中無休。欲知港東側のフェリー船着場(大一海運・慶南海運)から徒歩約6分(約400m)同西側のフェリー船着場(嶺東海運)から徒歩約12分(約800m)で到達できます。
今回は注文しませんでしたが(夕食が控えていたため)、コグマラテと並ぶこちらのお店のもうひとつの名物が「ペッテギチュッ(빼떼기죽)」という欲知島の郷土料理です。ペッテギとは欲知島の言葉でサツマイモを細かく切って干したものをいい、これを小豆や米、砂糖などと一緒に煮込んでチュッ(お粥、またはそのようなペースト状の料理の総称)にしたものがペッテギチュッで、子どもたちのおやつとして、また春窮期や凶作のときには飢えを満たしてくれる食事代わりとなったそうです。次にこちらのお店を訪問できる機会があるならば、その際にはぜひとも口にしたいものです。

欲知島ハルメバリスタ(욕지도 할매 바리스타:慶尚南道 統営市 欲知一周路 155 (東港里 574-16))

 

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そろそろ日が西に傾いてきましたが、まだまだ欲知島の踏査は続きます。
続きは次回のエントリーにて。

 

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