かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

統営の旅[201812_06] - 西ピランで統営の魅力を知り、国宝の洗兵館に上がってくつろぐ

また長いこと間が開いてしまいましたが、千夜誕であり、本ブログの誕生5周年でもある本日・9月19日より更新を再開します。
いつか、誰かの道しるべとなるために。

 

さて今回は、前々回のエントリーの続きです。

2018年11~12月の慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市の離島などを巡る旅の3日目、2018年12月2日(日)です。

 

f:id:gashin_shoutan:20210919162711j:plain
映画『1987、ある闘いの真実』の撮影地となった忠武教会(チュンム・キョフェ)を出て、さらに北へ向かって歩みを進めます。
突き当たりには後述する国宝「洗兵館」の入口がありますが、こちらは後に訪問することとし、いったん通過します。

 

f:id:gashin_shoutan:20210127173955p:plain
統営の原都心(ウォンドシム。旧来の市街地)には、「東(トン) ピラン (동피랑)」と「西(ソ)ピラン(서피랑)」の2つの丘が立ち並んでいます。「ピラン」とは当地の言葉で「崖」の意。この2つのピランが、統営原都心の風景を象徴するものとなっています。
今回まず向かったのは、これらのうち西ピラン。一方の東ピランは丘全体が壁画マウルになっていることで知られており、私もかねてより行きたかった場所ですが、時間にあまり余裕がないため今回の旅での訪問は難しそうです。じっくり時間をかけて探訪したい東ピランは次の機会に預けて、今回はまず西ピランを訪問することにした次第です。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124432j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227124446j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227124457j:plain
忠武教会から西ピランへ向かう途中にあるこちらの建物は「旧統営青年団会館」といい、日帝強占期の1923年に建てられたものです。
「統営青年団」とは、統営での「3.1運動」(1919年)を主導したクリスチャン、朴奉杉(박봉삼:パク・ポンサム、1875-1936)氏を初代団長とし、独立へ向けての民族意識の鼓吹と自生的な社会啓発運動のために結成された団体であり、その本拠建物がこちらです。そうした歴史的背景から、国家登録文化財第36号にも指定されています。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124613j:plain
西ピランの麓にある入口。案内板には「西ピラン文学トンネ」(トンネは「村」「隣近所」の意)とあります。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124713j:plain
西ピランの麓にはいくつかの住宅が密集しており、その中に写真の家屋があります。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124742j:plain
こちらは統営出身の小説家、朴景利(박경리:パク・キョンニ、1926-2008)氏の生家があった場所で、その案内プレートが外壁に掲げられています。
朴景利氏は、奇しくも訪問日のちょうど92年前である1926年12月2日(陰暦10月28日)、現在の統営市生まれ。黄海道で中学校教師に在職していたさなかの1950年、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)が勃発。このとき夫が西大門刑務所にて獄死し、息子にも先立たれるという悲劇もありました。
休戦後の1956年、文壇デビュー。1957年には『불신시대(不信時代)』、また1962年には長編小説『김약국의 딸들 (金薬局の娘たち)』などの代表作を次々と発表します。そして1969年から1994年までの四半世紀にかけて執筆された、全5部構成もの大河小説『토지(土地)』は、氏を最も代表する作品であり、巨匠としての地位を確固たるものとした作品として広く知られています。この『土地』は現在、日本でも翻訳版の発刊が進んでいるとのことで、個人的にいつか読破したい作品でもあります。
なお、抵抗詩人として知られる金芝河(김지하:キム・ジハ、1941-)氏は朴景利氏の娘婿にあたります。
朴景利氏は2008年5月5日、肺がんにて死去。現在は故郷の統営市内の墓所で永遠の眠りについています。また同じ統営市内の弥勒島(ミルクト)には、氏の生涯と作品の数々を展示する「朴景利記念館」がオープンしています。次の統営訪問に際してはぜひとも訪問したい場所です。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124841j:plain
西ピランの斜面には、写真の石垣やフェンスに囲まれた施設があります。こちらは「統営文化洞配水施設」といい、1933年に日本が一帯への水供給の名目で、かつての統制営の祠堂を破壊した跡地に建設したものです。現在も配水施設として稼働しており、内部に立ち入ることはできません。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124830j:plain
写真中央、六角形にドーム屋根という象徴的なコンクリート建物は配水池の出入口だそうで、かつてドアの上部には天皇賛美の意図で「天祿永昌」という文字が刻まれていましたが、光復以降に市民によりセメントで埋められたとのことです。日本が明治以来してきた虐殺や植民地支配、収奪の歴史を考えれば当然ともいえる行動ですし、当時の国家元首であり主権者、最高指揮官であったにもかかわらず植民地支配や侵略戦争にいかなる責任も負うことのなかった天皇を賛美する文言であるならばなおさらでしょう。
このように「統営文化洞配水施設」は日本による植民地支配の一環で造られた施設でこそありますが、過去の痛ましい歴史の記憶継承とそれ自体の建築学的な価値などから、韓国の国家登録文化財第150号に指定されています。ただ、こうした施設を後世に残すべきかどうかは、あくまで韓国の人々が決めるべきことです。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124820j:plain
文化洞配水施設のあたりから、やや傾斜が強くなります。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227124901j:plain
そうして、ようやく西ピランの頂上地点へ。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125002j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227124907j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227124914j:plain
西ピランの頂上一帯は公園になっており、その最高地点には写真の「西鋪楼(ソポルー)」という亭子(あずまや)が建っています。

 

f:id:gashin_shoutan:20210919163513j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227124934j:plain
西ピランの頂上から眺めた統営の街。西側には江口岸、そして南側には統営運河に、韓国百名山のひとつにも挙げられた弥勒山(ミルクサン)が。とても美しい眺めです。ここからの眺めだけでも、統営という街に魅せられるリピーターが多くいらっしゃることがうなずけます。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125026j:plain
西ピランを下り、おそらくは今回の統営の旅最後の目的地へと向かいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20210919164101j:plain
西ピランから先ほど通ってきた忠武教会方面へ戻ると、そこには朝鮮時代中期に建てられた巨大な木造建築「洗兵館」(세병관:セビョングァン)を中心とする、かつての統制営(トンジェヨン)跡に造られた歴史公園があります。
洗兵館は1604年、第6代の三道水軍統制使(サムドスグン・トンジェサ:慶尚・全羅・忠清の3つの道の水軍を束ねた朝鮮水軍の実質的な最高指揮官)であった李慶濬(이경준:イ・ギョンジュン、1561-?)が、水軍の本陣である統制営を当時は頭龍浦(トゥリョンポ)と呼ばれていた統営に移転してきた、その翌年(1605年)に統制営の敷地内に建てられたものです。
数ある関連施設の中でも最上級の存在である客舎(ケクサ。国外などから来た賓客の宿舎)として用いられたこちらの建物は、その後約290年間も存続した統制営を代表する建物であり、そして日帝強占期に破壊された統制営の施設の中で唯一現存する建物です。

 

f:id:gashin_shoutan:20210919170626j:plain
洗兵館は、ソウル特別市鍾路区(チョンノグ)の景福宮キョンボックン)にある慶会楼(キョンフェルー:国宝第224号)、全羅南道(チョルラナムド)麗水(ヨス)市の鎮南館(チンナムグァン:国宝第304号)と並んで、現存する中でも韓国最大級の規模を誇る木造古建築のひとつであり、その歴史性や芸術性などから韓国の国宝第305号に指定されています。これらの意味で、統営という街を最も象徴する建物だといえるでしょう。
こちらの洗兵館、前々から統営訪問の際にはどうしても訪れたかった建物で、先ほども西ピランに上る途中でその姿を見て(写真)、うずうずしていたばかりでした。ようやく念願かないます。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125048j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125057j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125111j:plain
洗兵館の入口の脇では、「ポクス」と呼ばれる石造りの像が訪問者を出迎えてくれます。ポクスとは集落の守護神であるチャンスンの方言で、男女一対の一般的なチャンスンとは異なりこちらのポクスは一人でぽつんと立っています。四方を山に囲まれたこの一帯の気を補強し、平安を祈願する目的で1906年に造られたもので、国家民俗文化財第7号に指定されています。
そういえば、この1ヵ月ちょっと前に訪れた麗水にも、同じようにポクスと呼ばれる石造りのチャンスンがあったことを思い出しました(麗水のものは男女一対でしたが)。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125204j:plain
3,000ウォン(約285円:2021年9月現在)の入場券を購入し、場内に入ります。
まず最初に現れるのは、洗兵館の正門である望日楼(マンイルルー)。その名の「日」とは太陽であり、王を象徴するとのこと。造営当時から存在するという直下の階段は24段あり、これは24節気を象徴するそうです。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125256j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125304j:plain
望日楼をくぐってまた少し石段を上ると、洗兵館の第二の門である止戈門(チグァムン)が現れます。その名にある「戈」とは先端が二股に分かれた韓国の長槍のことで、「槍(武力)を止める」、すなわち平和を願うという意味が込められているとのこと。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125323j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125355j:plain
止戈門を通り抜けると、いよいよ洗兵館との対面です。
木造平屋建てでありながら、正面112尺(約34m)、側面56尺(約17m)もの巨大な建物。正面からだとカメラのフレームに収まりきれません。そして建物に壁がないためむき出しとなった、重厚な屋根を支えるべく林立する太い柱の数々が力強さを感じさせます。その威容にただただ圧倒されるばかりです。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125333j:plain
これまた巨大な、 「洗兵舘」と記された扁額。高さだけでも人の背丈以上あるとのこと。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125433j:plain
洗兵館の屋根瓦、そして栱包(공포:コンポ。ひさしの重さを支えるため柱頭に組み並べる木片)

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125413j:plain
洗兵館の特徴は、国宝でありながら来場者の誰もが靴を脱いで自由に上がれ、しかも床に座って休めること。この翌年(2019年)夏に訪問した京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市の「水原華城(ファソン)」もそうでしたが、韓国ではこのように自由に上がって休息の取れる文化財に遭遇することがしばしばあります。文化財をより身近に感じられる瞬間です。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125549j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125445j:plain
ただし中央の奥、床から約45cmほど高くなった場所は、かつて闕牌(クォルペ:朝鮮時代に国王の象徴として「闕」の字を刻んだ木牌)を祀っていた空間「闕牌壇」であり、こちらへ上がることや着座は禁止されています(これがまた適度な高さなのでうっかり座りそうになってしまいましたが……)

 

f:id:gashin_shoutan:20210919164822j:plain
洗兵館には壁がないため、ときおり風が通り抜けます。さすがにこの時期(12月)は寒いですが、夏などはさぞ心地よい風が吹き抜けることでしょう。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125513j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125537j:plain
ふと上を見ると、梁の上には何枚もの武人画が掲げられています。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125650j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125706j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125725j:plain
洗兵館の庭には、何体かの石人(ソギン)が旗(のぼり)を抱えています。これらは日本でいう厄払いのために造られたと推定されており、現在までに5体が発掘されたとのこと。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125152j:plain
止戈門の横にあるこちらの建物は「受降楼(スハンヌー)」といい、壬辰倭乱(イムジンウェラン:文禄の役、または文禄・慶長の役の総称。豊臣秀吉による2回の朝鮮侵略のときに日本の大将から降伏文書を受け取った建物で、元々は統営市内の別の場所にあったものを移築してきたものだそうです。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125945j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227130041j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227130010j:plain
その受降楼のそばには碑閣(ピガク:石碑を雨風から保護する建物)があり、その中に立つ写真の碑は、第6代統制使の李慶濬が統制営を当時の頭龍浦に移したことなどを称える「統営頭龍浦記事碑」(トンヨン・トゥリョンポ・キサビ。慶尚南道有形文化財第112号)です。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125923j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125929j:plain
「統営頭龍浦記事碑」のほかにも、歴代の統制使の功績を称える碑石がいくつも建てられています。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125753j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125805j:plain
旧統制営の敷地内、洗兵館の西側には、写真のような小さな木造建築が密集した一角があります。こちらの建物群は、かつて統制営内にあった「十二工房(シビーゴンバン)」を再現したものです。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125817j:plain
工房とは、朝鮮時代に軍旗や武器などの軍需品、朝廷へ進上する工芸品などを生産していた職人たちによる生産組織のことで、統制営には12もの工房が密集していたことから「十二工房」の名が付いたとされます。

 

f:id:gashin_shoutan:20210919170345j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125838j:plain

f:id:gashin_shoutan:20201227125847j:plain
それらのうち代表的なものとしては、今日も統営の名産品として人気の高いプチェ(扇子)を生産した「扇子房(ソンジャバン)」のほか、タンスなどの家具を造った「小木房(ソモッパン)」、各種工芸品に漆を塗った「漆房(チルバン)」、貝殻を薄く切った螺鈿(ナジョン:らでん)細工を施した「貝付房(ペブバン)」などが挙げられます。そして、これら複数工房の分業体制による職人芸の集大成こそが、プチェ同様に統営名産の工芸品として名高い螺鈿漆器家具の数々だといえるでしょう。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227125738j:plain
こうして洗兵館一帯の踏査は終わり、もうひとつの念願だった「東ピラン壁画マウル」の訪問が頭をよぎります。
しかし、時計を見ると11時40分。バスの出発時刻までは残り50分ほどありますが、洗兵館のある原都心から統営総合バスターミナルまではただでさえ距離があるうえ、荷物を置いてきたホテルを経由することを考慮すると、東ピラン壁画マウルを訪問する時間はありません。残念ながらここでタイムアップです。あわてて洗兵館を出てタクシーに飛び乗り、ホテルで荷物をピックアップしたうえでバスターミナルへ。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227130103j:plain
統営総合バスターミナル着。以前にも書きましたが、統営には鉄道が通っていません。ソウルや仁川国際空港へ行く高速バスこそあるものの、帰国当日の朝までの滞在は渋滞等による遅延リスクが伴います。そのため私はいつも、仁川国際空港からの帰国前夜にはソウルへ戻るか、または中継地点となる鉄道駅のある街へ移動するようにしています。本音を言えばもう少し統営をゆっくり堪能したいところですが……。
加えて、これから向かう街にもまた、個人的に訪れたいスポットが数多く残っています。

 

f:id:gashin_shoutan:20201227130123j:plain
そして12時30分発の写真の高速バスで、中継地点でもあるその街へと向かうのでした。

 

f:id:gashin_shoutan:20210919172030j:plain

f:id:gashin_shoutan:20210919174228j:plain

f:id:gashin_shoutan:20210919174308j:plain
このように「東ピラン壁画マウル」訪問を断念した私でしたが、どうしてもあきらめきれず、この旅のわずか3ヵ月後の2019年3月には釜山の旅とあわせて統営を再訪、ついに念願の壁画マウル訪問を果たすことができました。また、これとあわせて統営の春の風物詩である名物料理「トダリスックッ」メイタガレイヨモギのスープ。写真3枚目)を口にすることもかなっています。このときの旅については、いずれ機会があれば詳しく紹介したいと思います。
コロナ禍が明けて再び韓国の旅ができるようになったなら、そのときはまた統営を訪れて、うんまい海の幸や魅力あふれる島旅を堪能したいものです。

 

それでは、次回のエントリーへ続きます。

(c) 2016-2021 ぽこぽこ( @gashin_shoutan )本ブログの無断転載を禁止します。