かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

釜山の旅[201711_04] - 過去の人的収奪を記憶する「国立日帝強制動員歴史館」、そして辛うまナッコプセポックム

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、2日目(2017年11月18日(土))です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213842j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712214049j:plain
南区(ナムグ)牛岩洞(ウアムドン)からタクシーに乗って向かったのは、同区内の大淵洞(テヨンドン)にある「国立日帝強制動員歴史館」。その名の通り、炭鉱や建設現場など危険かつ重労働の現場作業員、あるいは最前線に送り込まれた兵士、そして日本軍「慰安婦」に至るまで、さまざまな形でなされた日本(大日本帝国)による朝鮮人の強制動員、すなわち人的収奪の歴史を伝える展示施設です。
2015年12月に開館、翌年7月に国立となったこちらの展示施設は、強制動員されたすべての人々とその筆舌尽くしがたい体験を記憶、またその実態の究明を通じ、ひいては人権と世界平和のための教育の場となることを目的に建設されたものです。日帝強占期における強制動員の主要出発地であり、また強制動員された方の約22%が釜山を含む慶尚道キョンサンド)出身であった歴史的背景から、ここ釜山に設置されたとのことです。
その存在は以前から存じておりましたが、今回ようやく訪問がかなうことになりました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213920j:plain
4階のエントランスを入ってすぐ、「記憶のトンネル」と題された空間を通り過ぎると、展示スペースが現れます。
こちらの歴史館は史料・解説ともに充実しており、なにより日本によるかつての行状が史実として展示されている施設であるためぜひともご訪問いただきたく、よって詳しい展示物の紹介はあえて避けることとしますが、その中で特に印象に残ったものをいくつか紹介したいと思います。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712214145j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712214155j:plain
入営を祝うのぼりと無数の激励文が書き込まれた日の丸、そして「武運長久」と書かれた千人針。赤いたすきには「陸軍特別志願兵」とあります。
朝鮮での強制的徴兵は「内地」と呼ばれた現在の日本領域よりも遅い1944年からでしたが、陸軍兵士としての朝鮮人の動員は、1938年に勅令として出された「陸軍特別志願兵令」にさかのぼります。その後1943年には「海軍特別志願兵令」により海軍に拡大、また同年に日本人学生を対象に始まった学徒志願兵はその翌年に朝鮮人学生にも適用されます。これらは名称こそ「志願」とありますがあくまで名目上のものであり、ある者は警察など行政機関の働きかけにより実質的に強制され、またある者は困窮した生活から逃れ「食べる」ため、そしてまたある者は天皇に忠誠を誓い率先して戦線へ向かうことで日本人以上に「日本人」であろうとするために、自ら「志願」してゆきました。こうして初年の1938年には3,000人足らずであった「志願」者は、徴兵制開始前年の1943年には実に30万人以上を数えるようになります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712215051j:plain
ポツダム宣言受託直後の1945年8月、当時は日本領「樺太」だったサハリンの「上敷香」(かみしすか、現レオニードヴォ)と「瑞穂」(みずほ、現パジャルスコエ)にて撤収の過程で発生した、日本人による朝鮮人虐殺事件に関する展示。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712214934j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712214945j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712215006j:plain
1945年8月24日に舞鶴湾にて発生した「浮島丸事件」(韓国では「浮島号事件」と表記)に関する展示。
浮島丸(うきしままる)とは日本海軍に徴用されていた貨客船で、北海道や東北地方などで強制徴用させられていた朝鮮人たちの帰還船として、事件の2日前に青森県大湊港を出航しました。目的地の釜山へ向けて日本海沿岸を回航していたところ突如針路を変更し、釜山への航路からは外れた舞鶴湾へ進入。そして同日午後5時頃、舞鶴港を目前にした場所で原因不明の爆発が発生し、まもなく沈没します。日本側はこの事件により乗客乗員4千人弱のうち朝鮮人524人と乗員25人が死亡したと発表しましたが実際にはもっと多く、乗客乗員は7千人あまり、そして犠牲者は少なくとも千人以上とみられています(人数はともに諸説あり)。
謎の爆発の原因については、上部からの突然の命令に従い舞鶴港へ寄港しようとした際に、米軍が戦時中に敷設した機雷に接触したためというのが日本政府の公式見解ですが、生存者の証言などから釜山到着後の報復を恐れた日本海軍の乗員が故意に自爆させたという説も有力視されています。
また1992年には21人の遺族が原告となり、日本政府を相手取って公式謝罪と損害賠償の請求訴訟を提起しています。第1審の京都地裁は2001年、当時の日本政府の安全配慮義務違反を認め、原告のうち15人の損害賠償請求を認める画期的な判決(ただし公式謝罪請求は棄却)を下します。しかし2年後の大阪高裁での控訴審では一転して原告側の主張を退け、最高裁の上告棄却により原告側敗訴が確定しています。日本政府の公式謝罪は今日に至るまでなされていません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220023j:plain
再現展示が中心の5階へ上ります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220059j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220111j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220124j:plain
5階、日本兵の監視の下に使役させられる朝鮮人労働者たちの再現展示。立て札の文字が胸に突き刺さります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220145j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220159j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220211j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220222j:plain
日本軍による組織的性奴隷制度の現場であった「慰安所」の再現展示。これまで見てきた再現展示の中では最大規模です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220240j:plain
慰安所」の再現展示では、被害者たちの証言に基づく『그날의 기억(あの日の記憶)』と題したアニメーション映像が流れていました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712214250j:plain
こちらは4階に展示されていた、日本軍が兵士に配布していたコンドーム「突撃一番」。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220302j:plain
歴史館の内壁を覆い尽くす無数の肖像写真。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213858j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220317j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220525j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220553j:plain
私が訪問した当時(2017年11月)、6階の展示スペースでは特別展の「李在甲招待展 軍艦島(クナムド)-三菱グンカンジマ」が開催されていました。
軍艦島」とは言うまでもなく、長崎港の沖合いに浮かぶかつての炭鉱坑口、当時の鉱員住宅などの廃墟が林立する島であり、それらの建物が細長い小島の上に立ち並ぶ姿が軍艦に似ているとしてその名がついたあの島のことです。行政上の名称は「端島(はしま)」といいます。日帝強占期末期、この島では多くの朝鮮人たちが動員され、その意に反して過酷な炭鉱労働に従事させられていました。
こちらの特別展は、実際に軍艦島を訪問した写真家の李在甲(이재갑:イ・ジェガプ)さんによる写真と解説文により構成されていました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220547j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220618j:plain
ご承知のように軍艦島は去る2015年、「明治日本の産業革命遺産-製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界文化遺産に登載されました。日本はこのとき、軍艦島などにおける朝鮮人などへの強制労働の事実を認め被害者を称える対応を約束していますが、その後今日に至るまで現地案内板でのそれらに関する言及はなされていません。また、2017年に日本がユネスコ世界遺産委員会に提出した措置経過報告書では「forced to work」(強制労働)をあろうことか「support」(支援)と歪曲、さらには設置を約束した強制徴用被害を記憶する「情報センター」を軍艦島でも長崎市でもなくはるか遠く離れた東京に、それもシンクタンクという全く異なる形態で設置すると表明し、国外から大きな非難を浴びたのは記憶に新しいところです。そうした経緯もあって本年(2018年)6月に開催された世界遺産委員会の会合では、日本に対し強制徴用を含む全体の歴史を知らせるよう求める旨の決定文が採択されています。

自国による過去の加害事実を認めて謝罪し犠牲者を悼むこと、そしてそれらの事実を記憶・継承しひいては再発防止に務めることは、決して恥などではありません。しかし前述の軍艦島や日本軍性奴隷問題など、韓国(を含むコリアン全体)が対象ならば歴史修正などの詭弁を弄するばかりか、被害者を侮辱してまでそれらを拒絶する行為が支持ないし容認されるというのが日本という社会の現実です。そんな現実は私たちの代で終わらせなければなりません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180717230822j:plain
「国立日帝強制動員歴史館」の開館時間は午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)。毎週月曜日(公休日の場合は翌日)、および元日と名節(旧正月・秋夕)の各当日は休館です。観覧無料。
バスを利用する場合は、都市鉄道(地下鉄)2号線「モッコル」駅3番出口から徒歩約1分(約30m)の場所にある「モッコル」駅バス停で<남구(南区)9>マウルバス(平日約15分、休日約12分おき配車)バスに乗車し、約12分で到着する「UN平和記念館・日帝強制動員歴史館(유엔평화기념관.일제강제동원역사관)」バス停にて下車すると歴史館が正面の丘の上に見えます。
徒歩の場合は同2号線「大淵(テヨン)」駅から約20分(約1.3km)で到達できますが、歴史館付近では坂道が続くので往路は割り切ってタクシーで行かれることをおすすめします(約3,300ウォン~)。

国立日帝強制動員歴史館(국립일제강제동원역사관:釜山広域市 南区 虹谷路320番キル 100(大淵洞 1156-18)) [HP]

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214011j:plain
午後6時の閉館直後、駐車場から眺めた釜山の夜景。
遠くに青く光っているのは荒嶺山(황령산:ファンニョンサン、427m)という山に建つテレビ塔。この山頂から眺めた釜山の夜景がそれはもう美しいそうです。

写真の通り、あたりはすっかり暗くなっていました。
タクシーも見当たらないので、歩いて大淵駅へ向かうことにします。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712221326j:plain
大淵駅までの途中にあった「UN参戦記念塔」。
UNとは国際連合(United Nations)のこと。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)に国連軍として参戦した米国はじめ16か国の軍隊を記念したもので、隣接する広大な「UN記念公国」のシンボル的存在となっています。ちなみにこの塔がある交差点も「UN交差路」といいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214105j:plain
大淵駅近くにあった居酒屋「やきとり金太郎」。
赤提灯に「やきとり」と書かれた暖簾、壁にはスーパードライのロゴ入りプレート。隣の店の看板がなければ日本と見聞違えそうです。

地下鉄を乗り継いで、やって来たのは前夜に続き1号線のチャガルチ駅。今回は国際市場寄りの7番出口から目的地へ向かいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214126j:plain
そしてこの日の夕食は、新昌洞1街(シンチャンドンイルガ)にある「ケミチッ本店」。ケミチッとは「アリの巣」の意(たぶん「働き者」という意味だと思われます)。ナクチポックム(テナガダコの炒め物)の名店として知られるお店です。
実は同じ「ケミチッ」という屋号、しかも同じタコのキャラクター入りロゴのお店が何系列かあるようですが(ロゴの創業年度が微妙に異なる)、こちらのお店はそれらの中でも特に人気の高い店のようで、この日は10分あまり待たされてからの入店となりました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214249j:plain
注文したのはメニュー表右列最上段の「ナッコプセポックム(낙곱새볶음)」、1人分10,000ウォン(2017年11月当時。2018年7月時点では11,000ウォンに値上げされたようです。2人分から注文可)
「ナッコプセ」とはメインの具材である「ナクチ」と「コプチャン」(豚ホルモン)、「セウ」(エビ)の頭文字を取ったもので、こちらのお店の代表メニューとなっています。海産物と肉類という組み合わせは日本ではあまり見ない(長崎ちゃんぽんの具くらい?)ですが、韓国では割とポピュラーなものです。
このほか、2種ずつの組み合わせの「ナクセ」「ナッコプ」ポックムがあったり(だけどナクチは欠かせない)、コプチャンの代わりにサムギョプサルが入った「ナクサムセポックム」もあるようです。なんだか仮面ライダーオーズみたいですね(よく知らない……)
注目すべきはメニュー表右側の日本語案内。愛らしい字体とともにあたたかい気分になれました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214145j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214154j:plain
そしてやって来たナッコプセポックム(写真は3人分)。テーブルに備え付けられているコンロでじっくりと火を通してから食べます。食欲をそそるたまらない色。
ぱくり。見た目通り結構辛いですが、うんまい。CassやHiteのようなライトタイプ(「薄い」ではない。ここ重要)のビールと相性抜群です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214208j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214219j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214239j:plain
一緒に付いてくる大きなステンレス製のボウルに入ったご飯、そして刻み海苔は、言うまでもなくナッコプセポックムと混ぜてピビンパッを作るためのもの。これがまた格別にうんまいのです。ご飯と混ぜることで辛さもマイルドになります。3人分があっという間にお腹の中へ。

こちらのお店「ケミチッ本店」の営業時間は午前9時30分~午後9時30分、定休日はないようですが名節(旧正月・秋夕)はお休みかもしれません。都市鉄道(地下鉄)1号線「チャガルチ」駅7番出口から徒歩約8分(約530m)同1号線「南浦(ナムポ)」駅1番出口からだと徒歩約9分(約580m)で到達できます。
ナッコプセポックムは味も量も満足ゆくものだったうえ、3人分&ビール3本でも42,000ウォン(約4,400円:当時)とこの分量にしては比較的リーズナブルな値段でした。また機会を見つけて訪問したいと思います。

ケミチッ本店(개미집 본점:釜山広域市 中区 中区路30番キル 22 (新昌洞1街 14-3))

f:id:gashin_shoutan:20180703214408j:plain
次に向かったのは、前回(2017年2月)の釜山の旅でも訪問した「富平(プピョン)カントン市場」の夜市場(ヤシジャン)。
「カントン」とは缶の筒のこと。朝鮮戦争期、米軍の放出品の缶詰などが盛んに販売されたことからこの名が付いたこちらの市場は、いまや韓国全土の在来市場で開催中の夜市場の元祖とされています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214344j:plain
毎日午後6時になるとどこからともなく料理の屋台が登場し、市場のアーケード街に縦列します。
富平カントン市場の狭いアーケード街でも通行の妨げにならないようなスリムな屋台は全国の夜市場のスタンダードとなりましたが、屋台に書かれている「우측통행(右側通行)」の表記は私がこれまで訪問した夜市場の中では唯一です。ただでさえ狭いアーケード街、こう書かないと人通りができないほど観光客たちで混み合うためです。 

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214440j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214504j:plain
富平カントン市場、食欲をそそる料理の数々。じゅるり。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214534j:plain
前回の訪問時は、大量のおかずが出てくるこちらの酒場に行った後だったためお腹いっぱいで何も食べられませんでしたが、今回はまだ余裕があるので富平カントン市場名物のシアッホットク(씨앗호떡:ヒマワリの種入リホットク)を購入。おいしかったです。
富平カントン市場の夜市場の開催時間は毎日午後6時~午前0時。どの料理も概ね3,000ウォン(約300円)前後と安めの設定ですので、夕食・夜食がてらに訪問されることをおすすめします。

富平カントン市場(부평깡통시장:釜山広域市 中区 富平2キル (富平洞2街) 一帯)

 

そうしてホテルヘと戻り、ゆっくりと休むのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

【付記】

f:id:gashin_shoutan:20180712220825j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220859j:plain
先ほど紹介した国立日帝強制動員歴史館の「軍艦島」特別展には、軍艦島と同じ長崎市内にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」が協力していました。
「岡まさはる長崎平和記念館」は、牧師の岡正治(おか・まさはる、1918-1994)さんの提唱により1995年10月に開館した施設であり、長崎への原爆投下における朝鮮人・中国人被爆者や、軍艦島などの現場で過酷な労働を強いられた朝鮮人など強制動員被害者関連の展示を重点的に扱っています。偶然にもこの2ヵ月前(2017年9月)、私も訪問したばかりでした。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220725j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220739j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220803j:plain
戦時中に強制動員させられた朝鮮人たちの「飯場(はんば。土木工事や鉱山労働などに従事する労働者の合宿所、または前近代的な労働管理組織を指す)を再現した展示物は、資料館の紹介コーナーとなっていました。写真3枚目左側の人物は、1995年の開館以来資料館の理事長を務められ、この年の4月に亡くなった高實康稔(たかざね・やすのり、1939-2017)さん。

 

f:id:gashin_shoutan:20180717220259j:plain
「岡まさはる記念長崎平和資料館」には写真左の公式リーフレットのほか、右の無料ガイドブックがあります。以前こちらの資料館を訪問した韓国人グループがその展示内容と運営方針に感激し、韓日英3言語表記のガイドブックを自費で製作して寄贈したものだそうです。スタッフの方から話を聞き、さまざまな思いが交錯して目頭が熱くなったことを記憶しています。

「岡まさはる記念長崎平和資料館」の開館時間は午前9時~午後5時、毎週月曜日と年末年始は休館。入館料は一般250円。JR「長崎」駅から徒歩約7分(約550m)で到達できます。
こちらの資料館も、展示物についてはあえて紹介いたしません。私は実際に訪問したうえで、こうした施設が、そして史実の記憶と継承に取り組むスタッフの方々が被爆地たる長崎に存在することの意義を強く感じました。みなさまもどうか機会を設けてご訪問いただくことを切に願います。

岡まさはる記念長崎平和資料館(長崎県長崎市西坂町9-4) [HP]

 

釜山の旅[201711_03] - 避難民たちの住宅となった日帝時代の畜舎が残る「埋築地マウル」と「ソマンマウル」

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、2日目(2017年11月18日(土))です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703204839j:plain
東区(トング)凡一洞(ポミルドン)、釜山鎮市場(プサンジン・シジャン)ビルの横の飲食店街をしばらく南へ進むと、写真のトンネルが現れます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211218j:plain
出入口に建つ住宅。トンネル内に文字通り食い込んでいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211245j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211303j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211334j:plain
高架道路の「子城路(チャソンノ)」をくぐるこちらのトンネルの壁面には、抜けた先にある次の目的地をイメージした壁画や昔の写真などで飾られていました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211350j:plain
私が入ってきた北側(釜山鎮市場側)には出入口がひとつしかなかったはずですが、南側の出入口を抜けて振り返ると、向かって左側にもう1本のトンネルが口を開けています。
こちらはかつて釜山駅と牛岩(ウアム)駅とを結んでいた国鉄の貨物線、門峴線(ムニョンソン)の跡で、1958年の開業から1972年の廃止まで実際に貨車が走っていたトンネルです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211411j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180710205521j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211426j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211439j:plain
昔の写真やパネル展示などでトンネル内壁を彩り、この年(2017年)2月に「子城路地下道」として改装されたうえで開放されています(ただし写真4枚目の北側は行き止まりです)

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211510j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211530j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211608j:plain
子城路地下道を戻り、再び南側へ。写真1~2枚目は道路トンネルと子城路地下道の南側出入口のそばに建つ公衆トイレ。気動車ムグンファ号を模したものです。写真3枚目は2015年秋に撮影したムグンファ号。無駄に再現度高い。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211835j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211648j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703211731j:plain
さらに南へ歩くと、次の目的地「埋築地(メチュクチ)マウル」に到達します。
「埋築地」とは韓国語で「埋め立て地」、「マウル」は「村、集落」の意。行政上「凡一5洞(ポミルオードン)」に属するこの一帯は、日帝強占期の1910年代に日本が海岸を埋め立てて造った土地であることから、俗にこの名前で呼ばれています。
かつてこの埋め立て地一帯には、日本軍の軍馬や近隣の埠頭で陸揚げされた荷物を運ぶ馬の厩舎と、荷役に携わる人々の居住空間を兼ねた家屋が多数立地していました。それら家屋は光復(日本の敗戦による開放)後もそのまま残され、一時は日本や旧「満洲国」などから戻った人々の仮住まいとなりましたが、1950年に朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)が開戦して以降は釜山に押し寄せた避難民たちの住宅として使用され、現在に至っています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703211657j:plain
埋築地マウルを南北に貫く大通り「城南2路(ソンナムイーロ)」沿いには沐浴湯(銭湯)「城南湯」の巨大な煙突が。埋築地マウルの住宅は総じて古く、浴室のない物件が多いため、住民の方々にとって大事な存在となっています。一般に釜山の沐浴湯の煙突は写真のような白と青のストライプ模様であり、それ自体が釜山らしい風景を演出しています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212007j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212034j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212024j:plain
昔ながらのたたずまいを残す埋築地マウルは、釜山を舞台とした映画のうちいくつかの撮影地として登場します。その中でもとりわけ有名なのが、日本でも公開された2010年の大ヒット映画『アジョシ』(原題『아저씨』)。
写真はウォンビンさん演じる主人公、テシクの質屋が3階に入居していた設定のビル。写真2枚目、階上へ登る急な階段をご記憶の方もいらっしゃることでしょう。私もこの旅の出発前夜、予習を兼ねて『アジョシ』を観てきたばかりでした。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212049j:plain
テシクの質屋のビル1階には「スワン洋粉食(ヤンブンシク)」という飲食店が入っていました(当時)。1993年創業、トンカス(돈가스:韓国式とんかつ。主にデミグラスソースをかけて食べる)がかなりの評判のようで、私が撮影していた間にも何組かの来客が訪れていました。
ちなみにこちらのお店、奇しくも本エントリー公開直前の2018年7月に東区草梁洞(チョリャンドン)のKorail釜山駅前へ移転&拡張オープンしたとのこと。早速いくつかのブログで紹介されていました。次回の埋築地マウル訪問時には入ってみようと思っていましたが、今回の移転でもうちょい早まりそうです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212428j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212410j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212629j:plain
埋築地マウルは『アジョシ』のほか、釜山を舞台とした2001年の大ヒット映画『友へ チング』(原題『친구』)でも撮影地のひとつとなっています。写真1枚目はそのことを示すパネル、2枚目は『アジョシ』と『友へ チング』の名場面、3枚目は『友ヘ チング』主演のチャン・ドンゴンさんを描いた壁画。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212727j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212704j:plain
壁画といえば、小規模ではありますが埋築地マウルにも壁画マウルがありました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212214j:plain
糧穀商会(ヤンゴク・サンフェ)」。
一般に「クモンカゲ」と呼ばれる雑貨店で、60~80年代の韓国の街のあちこちにあったクモンカゲのたたずまいを残すお店として、埋築地マウルのみどころ&人気撮影スポットのひとつとなっています。もちろん営業中です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212127j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212152j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212207j:plain
糧穀商会そばの電柱にぶら下げられた写真の鐘は「埋築地の鐘」と呼ばれ、火災などの緊急事態を住民たちに知らせるため、60年ほど前に埋築地マウルを襲った大火の後に設置されたものだそうです。幸いにして今日に至るまで活躍の機会はなく、マウルと人々を見守るかのように静かにたたずんでいます。今後もこの鐘を鳴らさねばならない事態が訪れないことを祈ります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212648j:plain
中央薬局(チュンアン・ヤックッ)」。
先の糧穀商会と同様、60~80年代の街の薬局の雰囲気を残したお店です。糧穀商会とは異なり、こちらはすでに廃業しています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212308j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212326j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212355j:plain
馬厩間(マグガン)ハウス」。
前述したように、現在の埋築地マウル一帯には厩舎と住居が合わさった家屋がいくつも建てられ、「馬厩間」と呼ばれたそれらは後に避難民たちの生活の場として再利用されました。写真の建物は、たまたま解体に際し馬厩間に由来することが判明した空き家の外壁を取り払い、代わりにアクリル板をはめ込むことで、馬厩間の構造を眺められるようにしたものです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212301j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212233j:plain
埋築地マウルには至るところに生活感が漂う裏路地があり、訪れる者の郷愁を惹きつけます。
私にとっては日本人が建てた家屋だからなどではなく、あくまでそれら収奪のための負の遺産たる建物であっても韓国の方々が大事に保全し生活されてきたことに対し、郷愁を感じます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212454j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212507j:plain
路地にいくつも置かれている茶色いプラスチックの桶は練炭を収納するケース。埋築地マウルでは現在も練炭が暖を取る手段などに用いられており、街角のあちこちには積まれた練炭が。 

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212524j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212559j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212544j:plain
情茶房(チョン・タバン)」。
茶房とは「喫茶店」の意。こちらは住民のご老人たちが運営するカフェで、来客は任意の金額を払ってセルフでインスタントコーヒーなどを飲むことができます。
私のような観光客にはしばしの休息の場であり、また住民の方々には歓談の場である情茶房。私が訪れた際にも住民と思しき2人のお年寄りが楽しそうに話を交わしていました。 

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212753j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703212759j:plain
埋築地文化院(ムナウォン)」。
埋築地マウルの歴史を写真などで紹介する施設ですが、あいにくこの日(土曜日)は休館日のため観覧はできませんでした。開館時間は午前9時から午後5時まで(正午~午後1時は中休み)、土日と公休日は休館とのことです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710001716j:plain
埋築地マウルへは、都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川(チュァチュン)」駅4番出口から跨線橋を越えて徒歩約5分(約300m)ほどで到達できます。おすすめは本エントリーの最初に紹介した子城路をくぐるトンネル経由でのアクセスで、こちらの場合は同1号線「凡一」駅1番出口から徒歩約14分(約880m)で到達できます。

韓国『国際新聞』サイトのこちらの記事によると、本年(2018年)2月に東区の管理処分認可を得たことでこれまで滞っていた埋築地マウルの再開発計画が本格稼働し、同年5月から住民の転居が始まり下半期中には着工、来年(2019年)3月までには転居および建物の撤去が完了する見通しとあります。この計画通りであれば、以上で紹介した埋築地マウルの風景はまもなく思い出の中に消えることとなります。この街を残してほしいという正直な思いはありますが、私は住民ではなく利害関係もないので身勝手なことを発言できる立場ではありません。願わくばもう一度埋築地マウルを訪れ、この郷愁漂う街並みを目に焼き付けたいと思うばかりです。

埋築地マウル(마축지마을:釜山広域市 東区 凡一洞 一帯。リンク先は上の写真の撮影地である「城南2路」と「城南2路37番キル」との交差点)

 

埋築地マウルからは少し歩いて市内バスに乗り、次の目的地へ向かいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703212834j:plain
到着したのは埋築地マウルのある凡一洞から東川(トンチョン)を渡った先の南区(ナムグ)にある、牛岩洞(ウアムドン)。
ここ牛岩洞には写真のような、かつて日本が建てた木造牛舎を住宅に改造した家屋が立ち並ぶ、通称「ソマンマウル」と呼ばれる一帯があります(青いのは防水のウレタン吹付のため)。

釜山港に面するこの一帯は、かつて入り江に牛の形をした大きな岩があったことから「牛岩」の名が付いたとされています。その後日帝強占期に入りやって来た日本人たちが、山肌が赤かったという理由で「赤崎(チョッキ/あかさき)」という名に変えていますが、現在は「赤崎」の名は消滅しています。
うち現在の「ソマンマウル」、あるいは「牛岩洞189番地」と呼ばれる一角には、収奪の一環で朝鮮牛を日本に移送する際の検疫所である「移出牛検疫所」が1909年に設置されます。その後海岸の埋め立てとともに敷地を拡張、「ソマク」あるいは「ソマクサ」(ソは「牛」、マク(サ)は「幕舎」の意)と呼ばれる木造牛舎が次々と建設されました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213153j:plain
ソマクは切妻屋根(断面が三角形の屋根)に幅約10m×長さ約50mという長屋のような形態の木造建築で、1棟あたリ100頭以上もの牛が収容可能であり、これらは南北に伸びる道路、現在の「牛岩繁栄路(ウアムバンヨンノ)」を挟んで道と直角方向に配置され、最盛期には19棟ほどが建っていました。
光復後に放置されたこれらソマクもまた、埋築地マウルの「馬厩間」と同じく、朝鮮戦争期には避難民たちの収容所として使用されています。釜山の数ある収容所の中でも最大規模だったというこの「赤崎収容所」には、前回のエントリーでも紹介した西洋画家の李仲燮(이중삽:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏とその家族も1950年12月から翌年春まで滞在したとのことです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213028j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703213017j:plain
こうした収容所となったソマクは、休戦後も帰郷かなわず定着を余儀なくされた避難民により、そのまま住宅として再利用されるようになりました。
ソマク1棟あたり約40世帯が割り当てられたため、1世帯あたりの占有面積はわずか4坪ほど。トイレも共同、しかも当初は内部を合板で仕切っただけという極めて劣悪な環境でしたが、身ひとつで故郷を離れざるを得なかった避難民たちにとっては命をつなぐための貴重な生活の場となりました。

写真はソマクを再利用した住宅の玄関が並ぶ牛岩洞の路地。長い建物にいくつもの世帯が入居し玄関が開いていることから「ナレビチッ」(나래비집。ナレビとは日本語の「並び」に由来)、あるいは「ハモニカチッ(하모니카집)」などと呼ばれました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213300j:plain
やがて生活が安定して暮らし向きがやや豊かになると、一部の住民は市から払い下げられた家屋と土地を購入し、古びた木造牛舎を改装あるいは改築するようになります。自分の占有部分をコンクリート製の家屋に建て替え、あるいは2階を増築した際、狭い敷地をわずかでも有効活用しようと2階の床を1階よりも広く取り、その分だけ通路側に張り出した家屋が現れました。これらは「3/2」のような分子が分母より大きな分数にたとえて「仮分数(カブンス)チッ」(チッは「家」の意)と呼ばれています。写真は2015年秋の訪問時に撮影した仮分数チッ。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213058j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703213118j:plain
最初の写真にもあったように、ソマクを再利用した住宅は、日本式の瓦ぶきの切妻屋根の上に牛舎時代の通気口が残っているのが大きな特徴です。

この一帯は1960年代から70年代にかけて近隣に工場が多数立地し、その労働者が数多く流入した時期があります。当時の住民たちは切妻屋根の内側の空間に中2階を設け、通気口を窓に改造し、それら労働者たちに賃貸するようになりました。当時はそれでも部屋が足りないほど活況だったそうですが、80年代以降の空洞化や不況などで工場が続々と閉鎖され、人口は激減。近年では埋築地マウルと同様、高齢者の人口比が高い地域となっています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710004706j:plain
そうしていつしか「ソマンマウル」(「ソマン」とは「ソマク」の音韻変化)と呼ばれるようになったこの牛岩洞189番地一帯の牛舎住宅群は、住民や支援者たちによる保存・活性化活動などの甲斐あって、訪問後の本年(2018年)5月には「釜山牛岩洞ソマンマウル住宅」として国家指定登録文化財第715号に指定されています。写真は住民たちの地域活性化の取り組みとして描かれた壁画。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213043j:plain
こちらの木造家屋は牛舎ではなく、当時の官舎だった建物とのこと。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213238j:plain
ソマンマウル周辺には旅客を扱う鉄道の駅がないため、バスでのアクセスとなります。
都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一」駅からだと、8番出口から徒歩約2分(約100m)の場所にある「自由市場(자유시장)」バス停から<68>番バス(約6分おき配車)に乗車し、約11分で到着する「南部中央セマウル金庫(남부중앙새마을금고)」バス停にて下車、徒歩約3分(約210m)
また私のように埋築地マウルから向かう場合には、まず「子城台」バス停まで徒歩約11分(約730m)、そこから<26>番バス(約8分おき配車)に乗ると約10分で「南部中央セマウル金庫」バス停に到着します。全区間徒歩でも約40分(約2.63km)ですので散歩がてら歩いて行くのもよいかもしれません。
ソマンマウルは住宅街ですので24時間いつでも立ち入ることができ、また国の登録文化財でもあるうえ、先の壁画にも象徴されるように観光スポットとなることを期して開放されている場所ではありますが、先ほど紹介した埋築地マウルと同じく、お年寄りを中心に住民の方々が現在も生活されている空間でもあります。ご訪問に際してはどうかお静かに観覧いただくようお願いいたします。

釜山牛岩洞ソマンマウル住宅(부산 우암동 소막마을 주택:釜山広域市 南区 牛岩洞 189 一帯。リンク先は上の写真の通気口のある青い建物の位置)

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213351j:plain
ソマンマウルの坂道を上った先には、またあの青と白のストライプで塗り分けられた沐浴湯の煙突が。こちらは残念ながらすでに廃業していました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213608j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703213622j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703213733j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703213709j:plain
ソマンマウルの道路を挟んだ向かい側には、「牛岩市場」と呼ばれる小さな市場があります。
市場とは言っても、人ひとり通れるのがやっとの細い路地沿いにわずか10軒足らずの店舗が並ぶだけのささやかな規模であり、ソマンマウルを含む住民だけが利用するであろうごく小規模なものです。
ただでさえ狭いうえ、日よけに覆われた路地は日中でも薄暗いですが、それがかえって情感を誘う風景を作り出しています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213413j:plain
牛岩市場を抜けた先にあるのが、ソマンマウルと並ぶ牛岩洞のもうひとつの顔というべき飲食店「内湖冷麺」(ネホネンミョン)。車道から一歩入った裏路地に面するこちらのお店は、釜山を代表する郷土料理のひとつ「ミルミョン」の元祖とされており、来年(2019年)には創業100周年を迎えるという韓国でも屈指の老舗です。鄭銀淑さんの著書『釜山の人情食堂』で知ったお店で、2年ぶりの訪問となります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213435j:plain
2010年には『東亜日報』紙上で連載中だったホ・ヨンマン氏のグルメ漫画食客』135話で紹介され、その知名度を全国区に拡大しました。店先にはそのいくつかのコマが。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213458j:plain
釜山での「内湖冷麺」の開業は1952年ですが、その創業は日帝強占期の1919年、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する咸鏡南道(ハムギョンナムド)の興南(フンナム)で営業していた「トンチュン麺屋」という冷麺屋にさかのぼります。
写真は店内にある歴代店主の写真。左はトンチュン麺屋時代の創業者である初代の故イ・ヨンスン(이영순)さん、中央は釜山での創業者である2代目の故チョン・ハングム(정한금)さん、右は現在の店主である3代目です。

1950年6月25日、朝鮮人民軍の「南侵」により朝鮮戦争が勃発。米軍を中心とする国連軍は同年10月の仁川上陸作戦で一時は中国国境の鴨緑江(アムノッカン)と豆満江(トマンガン)流域にまで迫りますが、想定外の中国義勇軍参戦により再び優勢となった人民軍に押し返され、後退を余儀なくされます。
人民軍の再攻勢から逃れるべく、港町である興南には近隣地域からの避難民が殺到。折りしも興南からの大規模撤退作戦を計画していた国連軍は、人道的見地からこの作戦で避難民たちも救出することを決定します。そして同年12月にはわずか11日間で、約9万人の市民と10万人以上の兵員などを興南港から脱出させることに成功。映画『国際市場で逢いましょう』の冒頭でも描かれた、国連軍のいわゆる「興南撤収」作戦です。
チョン・ハングムさん一家も例外ではなく、この「興南撤収」により住み慣れた郷里を離れ、避難民の身となりました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710011514j:plain
故郷を発った翌々年には釜山の赤崎収容所そばで、郷里の地名「内湖」を屋号につけた冷麺屋を開業。戦争中は冷麺の麺に欠かせない蕎麦が入手できなかったため、代わりに米軍からの救援物資であり比較的入手しやすかった小麦粉を加えた麺で冷麺を作ったのが、内湖冷麺におけるミルミョンの始まりだとのことです。
柔らかい小麦粉麺は、咸興(ハムン)冷麺に代表される咸鏡地方のジャガイモでんぷん由来の硬い麺に不慣れだった釜山の人たちにも受け入れられ、今日の釜山名物料理の地位を確立したとされています。こうした経緯から、ミルミョンはここ釜山での避難民の辛苦を象徴する料理のひとつにもなっています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213539j:plain
店内にはチョン・ハングムさんの夫、故ユ・ボギョン(유복연)さんが死去直前に描いたという郷里の地図が掛けられていました。図の左下、自宅があったという咸鏡南道興南市水西里(スソリ)とは、現在の咸鏡南道咸興市、興南区域にある徳豊洞(トップンドン)を指すようです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213521j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703213528j:plain
そしてやって来たミルミョン。
いい感じの歯ごたえの麺も、薄い色の割に味の濃いスープも、そして上に乗ったヤンニョムジャンもうんまい。まだ2度目ですがすっかり恋しい味となりました。
写真右のコップに入った液体は、韓国の冷麺店にはほぼ必ずあるサービスの「ユクス」(육수:肉水。主に牛肉や牛骨を煮込んで取ったスープ)。他のお店に比べワイルドな香りの強いものでしたが、個人的には結構好きです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213446j:plain
こちらのお店「内湖冷麺」の営業時間は午前10時~午後8時、年中無休。先にソマンマウルへのアクセスで紹介した「南部中央セマウル金庫」バス停からは徒歩約4分(約260m)で到達できます。ソマンマウル見学とあわせてご訪問を強くおすすめするお店です。
「決して店を移転してはならない」という2代目チョン・ハングムさんの教えを守り、今日も内湖冷麺は釜山での創業地である牛岩洞の裏路地で営業を続けています。

内湖冷麺(내호냉면:釜山広域市 南区 牛岩繁栄路26番キル 17 (牛岩洞 189-671))

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213827j:plain
内湖冷麺からおよそ400mあまりの距離にある、Korail「牛岩」駅。
1951年に貨物線である牛岩線の終点として開業した駅で、旅客の取り扱いはありません。訪問の1カ月後(2017年12月)には貨物取り扱いが中止となったのことです。
ここでタクシーを捕まえて、次の目的地へと向かうのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

釜山の旅[201711_02] - 絶品のテジクッパと不遇の画家を記念した「李仲燮通り」、釜山・東区の「釜山鎮」を歩く

前々回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、明けて2日目(2017年11月18日(土))の朝です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230549j:plain
この日最初に向かったのは東区(トング)、前夜に利用した都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一(ポミル)」駅からひとつ南側にある「佐川(チュァチュン)」駅。
5番出口を出て北西方面へ向かうと、写真の建物「鄭公壇(チョンゴンダン)」が現れます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230733j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230600j:plain
壬辰倭乱(「文禄・慶長の役」。豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)が始まった1592年の4月。当時の釜山僉節制使(チョムジョルジェサ。朝鮮時代の武官の官職名)であった鄭撥(정발:チョン・バル、1553-1592)は、朝鮮国の関門ともいうべき釜山を守るため、当時この一帯にあった釜山鎮城(プサンジンソン)を拠点に郡民を率いて日本の先鋒部隊と果敢に戦いますが(釜山鎮の戦い)、その最中に被弾して戦死します。
こうして亡くなった鄭撥とその幕僚、そして郡民たちを追悼するため、1766年に当時の釜山僉節制使であった李光国(이광국:イ・グァングク、?-1779)により釜山鎮城の南門の位置に建てられたのが、この鄭公壇です。
その後は釜山鎮城の陥落日である旧暦4月14日に代々の釜山僉節制使が祭祀を執り行ない、1895年の甲午改革以降は「享祀契(ヒャンサゲ)」と呼ばれる地元有志の団体に受け継がれてきましたが、1942年には民族魂を覚醒させるものとして日本により祭壇は閉鎖され遺品なども没収、享祀契も解散に追い込まれます。そして光復(日本の敗戦による解放)後まもなく享祀契は復活し、現在は鄭公壇保存会が管理と旧暦4月14日の祭祀を実施しているとのことです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230702j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230616j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230722j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230653j:plain
鄭公壇の内部。鄭撥のものをはじめ、いくつもの碑が立ち並んでいます。

鄭公壇(정공단:釜山広域市 東区 鄭公壇路 23 (佐川洞 473))

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230747j:plain
鄭公壇から路地を挟んだすぐ隣の建物のガレージ上には、写真の石碑が建っています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230758j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230808j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230818j:plain
こちらは「梅見施紀念碑」といい、ここ釜山でハンセン病患者たちの治療に尽くしたオーストラリア人宣教師のジェームス・N・マッケンジー(James Noble Mackenzie、1865-1956)、韓国名「梅見施(매견시:メ・ギョンシ)」牧師の活動20周年を記念して1930年に建てられ、その後失われた石碑を2001年に復元したものです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230857j:plain
梅見施牧師(写真)が初めて釜山を訪れた1910年当時、ここ釜山では米国人のアーウイン(Charles H. Irvin、1862-1933)、韓国名「魚乙彬(어을빈:オ・ウルビン)」宣教師が現在の南区(ナムグ)戡蛮洞(カンマンドン)にハンセン病の治療施設「相愛園(サンエウォン)」を創設、患者たちの治療に励んでいました。1912年に相愛国の2代園長となった梅見施牧師はハンセン病患者の救済に献身し、その後4,000人以上もの患者たちの治療に携わっています。こうした活動により就任当時は54人だった収容患者数は、牧師が園長職を退いた1937年には600人あまりに増加、その周囲には収容しきれないハンセン病患者たちの村が自然形成されたほどだったといいます。また梅見施牧師は先進治療方法の導入にも積極的で、当時はハンセン病の特効薬とされた大風子油(だいふうしゆ)の注射などにより、患者の死亡率を25%から2%に低減することに成功しています。
梅見施牧師は1938年にオーストラリアヘ帰国、1940年にはビクトリア長老教会の総会長となり、当時の「白豪主義」やアジア人差別を批判するなどの活動をしています。
そして1956年、梅見施牧師はメルボルンにて他界。その遺志は、2人の娘によって受け継がれました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230530j:plain
梅見施牧師の死去4年前、朝鮮戦争さなかの1952年。長女の梅恵蘭(매혜란:メ・ヘラン、1913-2009)、次女の梅恵英(매혜영:メ・へヨン、1915-2005)の両氏は、かつて父が暮らした釜山を訪れます。両氏をはじめとするオーストラリア長老教韓国宣教会は、まもなく釜山に「日新(イルシン)婦人病院」を設立、初代病院長には梅恵蘭氏が就任しました。
その後「日新基督病院」に名を改めたこの病院は、今日もここ釜山・佐川洞にてキリスト教の教えに基づく医療を実践しています。写真は「梅見施紀念碑」のすぐ近くにある病院本棟で、紀念碑もまたその敷地内に位置しています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230938j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625231026j:plain
日新基督病院から坂道を登った先にある「釜山鎮日新女学校」。
1895年にオーストラリア長老教宣教会のベル・メンジース(Belle Menzies)宣教師らによって設立された、釜山で初めての女性のための近代教育機関「日新女学校」の校舎として1905年に竣工した近代建築であり、釜山広域市の記念物第55号に指定されています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231013j:plain
日新女学校校舎のそばには、「釜山鎮日新女学校3.1運動万歳示威地」を示す案内板が。
1919年3月1日のソウルでの「独立宣言」朗読を皮切りに朝鮮全土で展開された、万歳示威(デモ)などによる抗日独立運動「3.1運動」。ここ釜山で最初となる万歳デモの地が、まさにこの日新女学校なのです。
「独立宣言」朗読から10日後の3月11日夜。日新女学校の教師と生徒たちがこの付近に集結し、前日に手作りした50本の太極旗を手に街を練り歩き、約2時間の万歳デモを挙行。しかし彼らは日本警察によりまもなく逮捕され、主導した2人の教師は懲役1年6ヵ月、また生徒11人も同6ヵ月の刑を受けています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625230957j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230939j:plain
こちらの建物「釜山鎮日新女学校」は、月~金曜日の午前9時~午後5時に内部が解放されているようです(この日は土曜日だったので閉館)。都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川」駅からは徒歩約2分(約140m)で到達できます。

釜山鎮日新女学校(부산진일신여학교:釜山広域市 東区 鄭公壇路17番キル 17 (佐川洞 768-1)。釜山広域市記念物第55号)



f:id:gashin_shoutan:20180625230923j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625230915j:plain
日新女学校の真向かいに建つ「釜山鎮教会」。
日新女学校の創始者でもあるメンジース宣教師らオーストラリア長老教宣教会によリ1891年に設立されたこちらの教会は、その前年に米国北長老教のウィリアム・ベアード(William M.Baird、1862-1931)、韓国名「裵偉良(배위량:ぺ・ウィリャン)」宣教師やその妻たちが当地にて礼拝を捧げたものがその起源とされ、嶺南(ヨンナム。釜山を含む慶尚道地域の総称)では最初の教会とのことです(現建物は1955年築)。

 

さて、思えばこの日はまだ朝食も食べていませんでした。時計を見ると午前9時半。これから歩いて行けばちょうど目的のお店の開店時間です。
お昼には長蛇の列が形成されるほどの人気店というそのお店、開店早々の空いているであろう時間を狙って向かうことにします。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231628j:plain
やって来たのは昨夜も訪問した凡一洞(ポミルドン)、釜山の名物料理「テジクッパ」(돼지국밥:テジ(豚肉)のクッパ)の名店として知られる1956年創業のお店「ハルメクッパ」。実はこちらのお店、前回(2017年2月)の釜山の旅でも訪問したのですが、あいにく定休日(日曜日)だったためありつけなかったもので、今回はそのリベンジを兼ねての再訪となります。お店の前には早くもうまそうな匂いが漂います。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231716j:plain
店内に入ります。オープン時刻の午前10時からまだ10分くらいしか経過していないのに、ほぼ満席です。もちろん、注文したのは看板メニューの(テジ)クッパ、5,500ウォン(約580円:当時)。安いのもまた魅力です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231653j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625231708j:plain
そしてやって来たクッパ。スユク(수육:豚肉などを茹でたもの)がごろごろ入っています。豚のダシが効いたコク深い味。かなりうんまい。こりゃあ人気店なわけです。底にはご飯が入っていますので、これを後回しにして食べると最後の一滴までコクのあるスープを無駄なく堪能できます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180630192228j:plain
こちらのお店「ハルメクッパ」営業時間は午前10時~午後8時、日曜日定休。都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一」駅からだと前回のエントリーでも紹介した跨線橋、通称「クルムタリ」(写真)経由で約7分(約440m)で到達できます。開店早々、私が食べている間にもひっきりなしに来客が入ってくるほどの人気店であり、前述した通りランチタイムには毎度のように列が形成されるとか。しかしそれだけ苦労してでも食べたい味です。

ハルメクッパ(할매국밥:釜山広域市 東区 中央大路533番キル 4 (凡一洞 28-5))

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231728j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625231816j:plain
ハルメクッパの店舗付近から始まる道路は、かつてこのあたりに居住したこともある西洋画家、李仲燮(이중섭:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏の名を冠した「李仲燮通り」(이중섭거리)と呼ばれています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231738j:plain
李仲燮氏は1916年4月10日、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する平安南道(ピョンアンナムド)平原(ピョンウォン)郡で大地主の次男として誕生。中学卒業後に進学した五山(オサン)高等普通学校では、米エール大学で美術を学びパリでの活動経験もある西洋画家、任用璉(임용련:イム・ヨンニョン、1901-?)氏に師事。このとき西洋芸術に触れたことと民族意識に目覚めたことが、後の作風の基礎となったとされています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625232520j:plain
1935年には日本へ渡り、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学しますが、1年後には日本文化学院に移ります。これは文化学院が文部省の干渉を受けない前衛的な雰囲気であったためとされています。このときフォーヴィスム(野獣派)の作風で頭角を現した李仲燮氏は自由美術家協会に加入、1943年の第7回協会展では最高賞である太陽賞を受賞します。
同年に李仲燮氏は作品出展のため元山(ウォンサン。現在は朝鮮民主主義人民共和国)へ戻りますが、戦況悪化に伴い現地に留まります。その李仲燮氏を追いかけてひとり関釜連絡船に乗り、機雷の敷設された玄海灘を渡り会いにきた文化学院の後輩の日本人女性と1945年5月に元山で結婚。最初の子を生後まもなく亡くした後に2人の男児に恵まれますが、まもなく朝鮮戦争(韓国戦争)が開戦、越南(38度線を南へ下ること)を余儀なくされます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180630224201j:plain
越南後は釜山に続き済州島西帰浦(ソギポ)、慶尚南道キョンサンナムド)の統営(トンヨン)と晋州(チンジュ)、大邱(テグ)などを転々としつつ絵画を描き続けますが、画材が買えずにタバコの箱の銀紙をキャンバス代わりとするほどの貧困のため、1952年7月頃にはやむなく妻と子を日本へ送り出します。翌年7月には友人を介して得た外航船員証で当時国交のなかった日本へ渡り、1週間の滞在中に愛する妻と子との1年ぶりの再会を果たしますが、それが今生の別れとなりました。
1955年1月にはソウルの美都波(ミドパ)ギャラリーで最初の個展を開催。しかし男児の裸を描いた銀紙絵がポルノだという理由で撤去され、そのうえせっかく売れた絵の代金を踏み倒されるなど惨憺たる結果に。貧困下での港湾労働など激務に伴う疲労蓄積に加え、酒量増などに伴う肝臓疾患、さらには心身衰弱に伴う精神疾患発症などが加わり、1956年9月6日にソウル赤十字病院にて死去。その3日後に友人が訪問するまで、誰も遺体の引き取り手のいなかった孤独な死でした。

 f:id:gashin_shoutan:20180625232556j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232613j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232626j:plain
通り沿いに飾られていた李仲燮氏の絵画のレプリカ。
李仲燮氏は韓国で最も人気の高い画家の一人であり、その作品がオークションに出品された際には日本円で億単位の値段が付くことも珍しくないそうです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625232642j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232634j:plain
通りをしばらく進むと現れる階段。一定の場所から見ると李仲燮氏の顔が浮かび上がってきます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625232659j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232753j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232800j:plain
階段の横には李仲燮氏の作品を描いたタイルがいくつも埋め込まれています。その中には李仲燮氏が愛する妻と子に送った手紙に描いたものも。メッセージが日本語で書かれています。
写真2枚目文中の「南徳(ナムドク)」とは日本人の妻の韓国名で、「南からやって来た徳の多い女性」との意味で李仲燮氏自ら名付けたものだそうです。3枚目の「やすかたくん」とは年長の男児の名前。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625232918j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232925j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232935j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625232948j:plain
階段を登った先にある「李仲燮展望台」。李仲燮氏も眺めたであろう、釜山らしい斜面に張り付いた住宅の風景が一望できます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625233031j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625233104j:plain
李仲燮展望台から少し下ったところには、氏の数ある作品の中でも特に知名度の高い数点のタイル画を含む壁画広場がありました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625233537j:plain
「黄牛(황소)」(1953年作)。
李仲燮氏の作品の中でも特に知られ、かつ評価が高いのが牛を描いた作品群であり、これらの大半は1952年から翌年にかけての統営在住時に描かれたものです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625233047j:plain
「旅立つ家族(길 떠나는 가족)」(1954年作)。
妻と二人の子を乗せた牛車、そしてそれを曳く作者自身の姿を描いた作品です。先に紹介した「やすかたくん」宛ての手紙の絵と同じ構図です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625233040j:plain
「鶏と家族(닭과 가족)」(1956年作)。
李仲燮氏自身もそうであったように、南北分断に伴う離散家族の悲哀を代弁するかのように描かれた、氏の最晩年の作品です。 

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231135j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625231154j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625231207j:plain
李仲燮通りから少し歩いて、次にやって来たのは「釜山鎮市場(プサンジン・シジャン)」。
朝鮮時代の五日市「釜山場」に由来するこちらの市場は、1913年9月に常設市場として開設されました。1970年に竣工した4階建ての市場ビルには、2016年現在で1,350店もの店舗が入居しているとのこと。それらのうち半数近い600店が礼服や反物、進上物など「婚需」(혼수:ホンス。婚姻関連用品)の専門店であり、ソウルの東大門市場(トンデムン・シジャン)、大邱の西門市場(ソムン・シジャン)とともに全国3大婚需専門市場と呼ばれているそうです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231244j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180625231559j:plain
釜山鎮市場の内部。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625231606j:plain
こちらは「幣帛」(폐백:ペベク。新婦が婚礼の後に新郎の両親と対面する儀式で用いる飲食物の進上物)を専門に扱うお店です。

  

f:id:gashin_shoutan:20180630203701j:plain
地下1階、釜山鎮市場で働く人々の胃袋を預かる飲食店コーナー。客席の椅子が金色だったのにはちょっとびっくり。そういえば先の写真にもあるように市場ビルの玄関も金色の装飾で彩られていました。婚礼関連のお店が多いということで好んで用いられているのかもしれません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180625233808j:plain
釜山鎮市場ビルの横の通りもまた飲食店街。その中のある店でぐつぐつ煮込まれていたクッパと思しき大鍋には、直前まで入っていたであろうビニール袋の形がくっきりと残る巨大なソンジ(선지:牛の血を固めたもの)が。こんなの初めてみました。

この飲食店街を南へ進み、次の目的地へと歩くのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。 

(c) 2016-2021 ぽこぽこ( @gashin_shoutan )本ブログの無断転載を禁止します。