かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

ソウルの旅[201704_05] - 女性たちの戦時性暴力被害を記憶し告発する「戦争と女性人権博物館」

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

明けて4月15日(土)の朝。
前夜は深夜便だったせいか、あるいは飲みすぎたせいかついついお寝坊してしまい、ホテルを出たのは午前9時過ぎ。そんなわけでこの日はいきなり朝食から。

 

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今回入ったのは、明洞の乙支路(ウルチロ)寄りにある1939年創業のコムタンの名店「河東館」(ハドングァン)。2008年に仕事で渡韓した際、すぐ近くにあった訪問先の事務所の人に連れていってもらって以来の訪問です。元々は乙支路の向こう側の水下洞(スハドン)で営業していた店ですが、再開発に伴い2007年に現在地へ移転しています。

 

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注文したのはもちろん、同店名物のコムタン、12,000ウォン(約1,200円)。澄んだスープを口に含んだとたん、牛肉ダシの効いたうまみがじわっと広がります。うんまい。78年の伝統に支えられた味が鼻腔と舌と胃袋を介して食欲を刺激します。

こちらのお店「河東館」は午前7時オープンと朝食にもってこい。昼食時間帯には付近のサラリーマンで混み合うようです。閉店時刻は午後4時となっていますが、スープがなくなり次第閉店するそうなのでご注意のほど。毎月第1・第3日曜日定休。
河東館(하동관:ソウル特別市 中区 明洞ギル 12 (明洞1街 10-4)) [HP]

お腹がふくれたところで、この日最初の目的地の最寄り駅である2号線「弘大入口」(ホンデイック)駅へ。この弘大入口駅、いつ来ても人で混み合っています。ソウルの地下鉄でも改札に行列が形成されているのはこの駅でしか見たことがありません。調べたところ、2015年時点でソウル地下鉄(1~9号線)全駅のうち乗降客数第5位、江北(漢江より北側の地域)では首位だとか。そりゃ多いはずです。

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そんな弘大入口駅の8番出口を出て、弘大コッコシップンゴリ(홍대걷고싶은거리:「弘大歩きたい通り」の意)や弘大ゴリ(홍대거리:弘大通り)と呼ばれる繁華街を南西方面に歩き、途中で右に折れて少し進むと、左手に写真のミントグリーンのお店が見えてまいります。

 

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こちらのお店「ミントハイム」(MINT HEIM)はその名と色が示す通り、チョコミント味のスイーツ専門店。したがってほぼすべてのスイーツメニュー、さらには一部ドリンクにまでチョコミントが用いられているというこだわりのお店です。徹底してミントグリーンで統一された店内のショーケースには、見るからにチョコミント味らしい色のスイーツがたくさん。「チョコミン党」にとっては夢のような空間です。

 

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今回注文したのは、その名の通りチョコミント味のチーズケーキにチョコパウダーとオレオが乗っかったボリューミーなケーキ「ミントオレオチーズ」6,500ウォンと、コーヒーの香りを邪魔しない程度に軽やかなチョコミント風味が漂う「ミントカフェラテ」4,500ウォン。写真では分かりづらいですが、ミントカフェラテの下半分はやはりミントグリーンに染まっていました。いずれもおいしかったです。
「ミントハイム」の営業時間は午前11:30~午後9:00。「チョコミン党」もそうでない方もぜひ。
ミントハイム(민트하임:ソウル特別市 麻浦区 チャンダリ路6ギル 28 (西橋洞 366-28))

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ミントハイムを出て、さらに20分ほど歩いた場所にあるのが、飲食店以外でこの日最初の訪問地となるこちらの建物「戦争と女性人権博物館」です。
実はこちらの施設、今年(2017年)1月にも訪問したのですが、その日は残念なことに臨時休館でした。2度目の訪問で念願かなっての入館となります。

 

こちらの博物館の展示物については、あえて詳しくは紹介しないことにします。
館内のほぼ全域が撮影禁止であることも理由ですが、それ以上に今後この場所を訪れる人、願わくばソウルを訪れるすべての日本人が実際にこの場所を訪れて、直に観覧し、事実と向き合っていただきたいからです。
とはいえ、その中でどうしても2つだけ、紹介しておきたいと思います。

 

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まずひとつは、館内で唯一撮影が認められている、2階の「平和の少女像」。
像と対面するのは、今年(2017年)2月の釜山に次いで2度目。肩に乗った小鳥など像の意匠に込められた意味については、その際の訪問記であるこちらのエントリーにて紹介しておりますので、あわせてご一読いただけますと幸いです。

 

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像と対面する度に、相手の心の奥底を見抜き、射抜くかのような鋭い視線に気圧されてしまいます。正直、直視できないほどです。
あくまで私見ですが、その視線は戦時性暴力被害を否認、あるいは忘却を促し、その被害者たちを踏みにじるすべての人間に対し向けられていると考えています。
私自身は歴史修正や被害者憎悪に強く反対する立場とはいえ、それらを看過してきた結果この国での社会的合意にまで発展することを許してしまった一員である以上、私もまた鋭い視線を向けられるべき存在ですし、そこから逃れることはできません。
しかし、だからこそ、正面から向き合わなければならないと考えています。

 

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もうひとつは、2015年の光復(日本の敗戦による解放)70年を記念した企画展示『解放を待つ女性たち』。韓国軍の将兵による戦時性暴力被害に遭ったベトナムの女性たちをテーマにした展示です。こちらも他の展示物と同様に撮影禁止ですが、日本語版のレジュメ(全4ページ)を入館の際に頂戴したので、ここではそのうち1ページ目の冒頭部を紹介します。

1964年、当時の朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)政権は「自由友邦に対する信義」との名分の下、ベトナム戦争への韓国軍派兵を決定。その後、1973年のパリ協定(ベトナム和平協定)締結による停戦まで参戦し、米軍などとともにベトナム民主共和国(現在のベトナム社会主義共和国)と戦っています。
そうした中で、韓国軍将兵によるベトナム市民の虐殺、女性たちへの性暴力も発生しました。

参戦を是とし、当時派兵された軍人の顕彰を優先する社会が長らく続いた中、歴史の闇に埋もれてきたそれら軍人たちによるベトナムでの蛮行、そして犠牲者たち。これを顧みて自国の軍隊が犯した罪と向き合い、ベトナムの人々に心から謝罪しようという「ミアネヨ、ベトナム」(「미안해요, 베트남」:ミアネヨは「ごめんなさい」の意)運動が心ある人々により1999年に展開されて以降、わずかずつですが流れは変わりつつあります。この『解放を待つ女性たち』もまた、そうした取り組みのひとつといえるでしょう。
そして今年(2017年)4月には、韓国軍将兵に虐殺されたベトナムの人々を慰霊する像「ベトナムピエタ」(베트남 피에타)が、韓ベ平和財団(한베평화재단)により済州島西帰浦(ソギポ)市内に建てられました。この像を制作した夫婦作家のキム・ウンソン(김운성)、キム・ソギョン(김서경)両氏は、先に紹介した「平和の少女像」の作者でもあります。

 

この企画展示、あるいは先に紹介したレジュメを見るだけでも、日本が犯した「慰安婦」制度を告発し、その被害者である元「慰安婦」を支援している人々が、同じように自国の軍隊が他国の女性に対し犯した罪を告発し、その被害者を支援しようとする人々でもあることが分かります。国や民族などの枠にとらわれることなくすべての戦時性暴力被害を記憶し、被害者救済に取り組む立場であれば必然の行動といえるでしょう。「平和の少女像」の理念がそうであるように。

韓国軍将兵ベトナムにおいて市民の虐殺や性暴力など恥ずべき行為を働いたのは事実であり、これらは強く非難されるとともに、韓国政府による謝罪と誠実な対応が求められるべきものです。しかし、それらの加害を持ち出すことで日本軍の「慰安婦」制度という別の加害を相対化し、その被害者たちを踏みにじることもまた、人としてなしうる最も恥ずべき行為のひとつだと考えます。

 

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博物館の建物を囲む塀には、「再生」を意味する蝶を象った、来館者のメッセージ入りの黄色いプラスチック板が無数に貼り付けられています。館内の順路の最後には未記入のプラスチック板が置かれており、来訪者は誰でも元「慰安婦」や博物館などへのメッセージを書いて、自分で貼り付けることができます。

「戦争と女性人権博物館」の開館時間は午後1:00~同6:00、日曜日と月曜日は休館です。入館料は大人3,000ウォン(約300円)。展示物のほとんどは見出しを除き日本語表記はありませんが、受付では日本語音声ガイドを無料で貸し出しているので観覧には不自由しません。前述した通り、「平和の少女像」を除く館内のすべてが撮影禁止です。
最寄り駅である首都圏電鉄(ソウル地下鉄)2号線「弘大入口」駅からであれば、2番出口そばの「弘大入口駅」バス停から約5分おきに出る<마포(麻浦)06>バスに乗って4番目の「景城(キョンソン)高校入口」で下車、徒歩約3分(約220m)ほどで到達します。同駅からであればバスに乗らずとも、1番出口を出て徒歩約18分(約1.2km)ほどですので、歩いてもよいでしょう。いずれの場合も空港鉄道の「弘大入口」駅から行く場合は5分ほど上乗せとなります。
繰り返しますが、願わくばソウルを訪れるすべての日本人が訪れて、直に展示物を観覧し、事実と向き合っていただきたい施設です。
戦争と女性人権博物館(전쟁과여성인권박물관:ソウル特別市 麻浦区 ワールドカップ北路11ギル 20 (城山洞 39-13)) [HP]

それでは、次のエントリーへ続きます。

ソウルの旅[201704_04] - 直撃催涙弾に倒れた烈士と6月民主抗争を記憶する「李韓烈記念館」

前回のエントリーの続きです。

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「朴鍾哲記念展示室」近く、首都圏電鉄(ソウル地下鉄)1号線「南営」(ナミョン)駅前のバス停から7016番バスに乗車、30分ほどで同2号線「新村」(シンチョン)駅の近くにある「新村オゴリ.現代百貨店」バス停に到着。

 

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ここから約3分、およそ200mほど歩いた場所にあるのが、1987年に亡くなった李韓烈(이한열:イ・ハニョル/イ・ハンニョル、1966-1987)烈士を記憶する施設であり、次の目的地である「李韓烈記念館」です。

 

記念館の紹介に先立ち、烈士が亡くなった1987年の韓国の政治状況についてどうしても説明しておく必要があるため、簡単に触れておきたいと思います。
前回のエントリーでも触れたように、この年の1月14日には朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士がソウルの「南営洞対共分室」にて拷問により殺害され(朴鍾哲拷問致死事件)、その発覚により「第5共和国」と呼ばれた軍事独裁政権への不信が急速に高まる中、4月13日には全斗煥(전두환・チョン・ドゥファン、1931-)大統領が「護憲措置」(大統領間接選挙を定めた現行憲法の維持)談話を発表。大統領直選制移行への期待を裏切るこの談話は、民主化を待ち望む韓国の市民を大いに失望させました。

 

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さらに5月18日、この日開催された光州抗争7周年ミサにて、カトリック正義具現司祭団の金勝勲(김승훈:キム・スンフン、1939-2003)神父が警察による朴鍾哲拷問致死事件への縮小・隠蔽工作の事実を暴露。当時、永登浦矯導所(刑務所)に収監中だった民主活動家の李富栄(이부영:イ・ブヨン、1942-)氏が、拷問致死事件の実行犯として偶然にもそばの監房に収監された捜査官2名の悲痛な叫びを耳にし、矯導官(刑務官)を通じ聞き取りをしたところ実は他にも3名の実行犯がいたなどの事実が発覚。これを記したメモ紙が心ある矯導官を通じ外部にもたらされた結果、得られた真実でした。この暴露により軍事独裁政権に対する市民の怒りは一層白熱し、全国各地で反政府デモが頻発します。
写真は前回のエントリーにて紹介した「朴鍾哲記念展示室」の展示品のひとつ、李富栄氏により記されたメモ紙のレプリカです。このメモ紙が1987年における民主化運動の大きな起爆剤となったわけです。

そうした中で全国の在野指導者たちは、拷問致死事件の縮小・隠蔽工作に加え、6月10日に予定されていた与党・民主正義党(民正党)の全国大会と大統領候補指名大会、実質的には全斗煥大統領による盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)候補への権力移譲のための舞台を糾弾するため、これと同日に全国一斉での反政府デモ「6.10国民大会」(朴鍾哲君拷問致死操作、護憲撤廃国民大会)の開催を決定、水面下で準備を進行します。

 

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その「6.10国民大会」を翌日に控えた、1987年6月9日。
この日の午後、ソウル・新村の延世(ヨンセ)大学校キャンパスでは、同大生およそ1千名による「6.10出征のための延世人決意大会」デモが開催。その参加者の中に、同大経営学科2年、当時20歳の李韓烈烈士の姿がありました。
デモ隊は正門付近で、鎮圧のため催涙弾を発射する戦闘警察(デモ鎮圧を主な任務とし、警察とは別組織)との一団と衝突します。このとき戦闘警察は、本来ならば空中へ向けて発射すべき催涙弾を、あろうことかデモ隊へ向けて水平発射。不運にもそのうち1発が、李韓烈烈士の頭部を直撃しました(李韓烈催涙弾被撃事件)。

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催涙弾を受け頭から血を流してくずおれる李韓烈烈士と、それを必死に支えるデモ参加者の延世大生をとらえた一枚。この写真は日本を含む海外にも配信され、ニューヨーク・タイムズ紙の1面にも掲載されたといいます。

翌10日には当初予定通り「6.10国民大会」が全国各地で開催。またこの日には反軍事独裁政権の意思表示の合図として、午後6時になったら自動車を運転する者は停車してクラクションを鳴らし、そうでない者はその場で白いハンカチを振ろうという事前の取り決めの通り、夕方のソウルの街はクラクションの音と揺れる白いハンカチで一杯にあふれました。
こうして10日のデモは成功。これによりついに沸点に達した反政府抗争は、前日に発生した李韓烈催涙弾被撃事件の報に激怒した一般市民を巻き込んで、いよいよ全国的な抗争活動へと発展します。この日から20日間にわたって繰り広げられた、韓国市民による一連の反政府抗争を総称して「6月民主抗争」、または「6月抗争」と呼びます。

 

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左側の大きな写真は、1987年6月26日に全国37か所で同時多発的に開催された「国民平和大行進」デモのうち、釜山・門峴(ムニョン)の現場にて撮影されたもの。警官隊による催涙弾の発砲に激高し、静止を求め道路中央へ飛び出した男性を撮ったもので、「6月民主抗争」を最も象徴する写真となっています。1999年にAP通信が発表した20世紀の100大報道写真のひとつにも選定されています。

そして6月29日、盧泰愚次期大統領候補は大統領直接選挙制への改憲実施を含めた時局収拾案、いわゆる「6.29宣言」を発表。市民たちによる反政府抗争が、ついに念願の大統領直選制への移行を勝ち取ったわけです。

 

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一方、これら一連の反政府抗争の間も生死の境をさまよっていた李韓烈烈士は、勝利を見届けたかのようにその翌月の7月5日午前2時05分、入院先であった延世大隣のセブランス病院にて息を引き取りました。被弾当日、病院へ運ばれる際に口にした「明日、市庁へ行かなくちゃならないのに……」が烈士の最後の言葉となりました。入院中は国家権力による病床襲撃を防ぐため、また亡くなった後は証拠隠滅目的の火葬処理から遺体を守るため、延世大生たちが学部・学科別に当番を決め交替で身張りをしたそうです。

 

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死去から4日後の7月9日、李韓烈烈士の「民主国民葬」が挙行されました。母校の延世大をスタートし、本来ならば被弾翌日に行くはずだったソウル市庁前へ向かった葬列は実に100万名もの人々が見送り、また故郷の光州(クァンジュ)でも50万名の人々が集まるなど、この時点で建国以来最も多くの人数を動員した集会とされています。
このとき弔辞を引き受けたのは、自身も長らく民主化運動に携わり、刑執行停止によりこの前日に釈放されたばかりの文益煥(문익환:ムン・イクファン、1918-1994)牧師。全泰壱(전태일:チョン・テイル、1948-1970)烈士に始まり李韓烈烈士に至るまで、労働運動や民主化運動の最中に散っていった烈士たちの名を連呼したその弔辞は、韓国史に残る名演説として今日まで語り継がれています。

 

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李韓烈烈士の遺骨は、3歳から高校卒業まで暮らした光州の望月洞(マンウォルドン)5.18旧墓地に埋葬されました。写真は今年(2017年)5月の光州訪問の際に撮影した烈士の墓です。1980年、光州東成(トンソン)中学校2年生のとき同じ市内で発生した5.18民主化運動(光州事件)の真相を大学生になって知り、学生運動に身を投じることを決意したという烈士は、いまは5.18の犠牲者たちと同じ墓地で永遠の眠りについています。

 

前置きが長くなりましたが、こうして亡くなった李韓烈烈士の人生と催涙弾被撃事件、そしてこの事件により頂点に達し勝利をつかんだ「6月民主抗争」を記憶する場として、2005年に烈士の母が補償金を基に息子の母校・延世大と同じ新村に開館したのが、今回訪れた「李韓烈記念館」です。

 

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記念館の入口はビル脇の階段を登った3階にあります。
3階はイベントスペースとなっており、主に小・中・高校生を対象とした民主化運動史の教育の場として活用されています。この日も見学に訪れた高校生らしき団体へのガイダンスがなされていました。壁面には先ほど紹介した、1987年7月9日の葬列の写真が。

 

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館内の階段を登った4階は、李韓烈烈士の遺品やパネルなどが設置された展示室となっています。

 

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写真1枚目は1987年6月9日、李韓烈烈士が延世大の正門で催涙弾を被弾したまさにそのとき身に着けていたトレーナーとジーンズ、スニーカーです。トレーナーには血痕が残っています。右足側のみ残るスニーカーは年月を経てぼろぼろになっていた靴底を復元するプロジェクトが去る2015年に進行され、元の姿を取り戻しています。

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2015年夏、延世大工科大学(学部に相当)第1工学館の解体の際に学生会倉庫にて発見された、李韓烈烈士の血痕が残る同大化学工学科(화학공학과)の科旗。この旗を応急の止血に用いたという説もあるそうです。

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館内の階段の上に掛けられている烈士の肖像画。1987年当時の葬儀で遺影として用いられた肖像画をもとに2007年、新たに制作されたものです。

 

피로 얼룩진 땅, 차라리 내가 제물이 되어 최루탄 가스로 얼룩진 저 하늘 위로 날아오르 고 싶다.

血で染みついた地面。いっそ私が生贄になり催涙弾ガスで染みついたあの空の上へ舞い上がりたい。

 こちらの一文は記念館の展示物ではありませんが、李韓烈烈士が催涙弾を被弾した当日、所属するサークルの部室に書き残したメモの一節です。自らの運命を暗示していたかのようです。

「李韓烈記念館」の開館時間は午前10時~午後5時。前回紹介した南営の「朴鍾哲記念展示室」と同じく、こちらも土日は休館ですので注意が必要ですが、ホームページには掲示板または電話で予約すれば開館時間外でも訪問可能とありますので、ひょっとすると土日でも開けていただけるのかもしれません。
お時間に余裕のある方であれば、この日の私の旅と同様に、朴鍾哲・李韓烈両烈士の記念施設をセットにした平日のご訪問をおすすめします。その場合には両記念施設の最寄りのバス停をつなぐ7016番バスのご利用がおすすめです。「朴鍾哲記念展示室→李韓烈記念館」の順の場合は「南営駅」(남영역)バス停で乗車し「新村オゴリ・現代百貨店」(신촌오거리.현대백화점)で下車、逆の場合は「新村駅」(신촌역)バス停で乗車し「南営駅」で下車。所要時間はおよそ30分。平日だと4~10分ごとにやって来るのでほとんど待つ必要がありません。
前回紹介した「朴鍾哲記念展示室」、そして今回の「李韓烈記念館」。1987年の「6月民主抗争」、そして韓国の民主化運動史で決して外すことのできない両烈士を記憶する場であるこれらの施設は、ぜひとも訪問していただきたい場所です。

李韓烈記念館(이한열 기념관:ソウル特別市 麻浦区 新村路12ナギル 26 (老姑山洞 54-38)) [HP]

 

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李韓烈記念館を出て次に向かったのは、烈士の母校である延世大学校。地下鉄「新村」駅のある交差点(新村ロータリー)をまっすぐ北上したところに、写真の正門があります。1987年6月9日、李韓烈烈士が催涙弾の直撃を受けた、まさにその場所です。

 

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正門を入り、だだっ広いキャンパスのメインストリートをさらに北上すると、右手に盛り上がった緑地が見えてまいります。「韓烈ドンサン」(한열동산:「韓烈庭園」の意)と呼ばれるこの緑地には、写真の「李韓烈記念碑」が設置されています。
忠清南道(チュンチョンナムド)保寧(ポリョン)産の黒い石を素材とした高さ約1.4m、長さ約4.5mもの巨大な碑の正面には、「198769757922」という数字が刻まれています。李韓烈烈士が被弾した日付「198769」、命日の「75」、葬儀の日付「79」、そして数え年による享年「22」を意味するものです。

李韓烈記念碑(이한열 기념비:ソウル特別市 麻浦区 延世路 50 (新村洞 134) 延世大学校内)

 

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この「韓烈ドンサン」の脇には、別の碑が設置されています。
「故魯秀碩烈士追慕空間」と呼ばれるこの碑は、1996年3月29日にソウル・鍾路(チョンノ)でのデモにて警察の暴力鎮圧により亡くなった延世大学校法学科の学生、魯秀碩(노수석:ノ・スソク、1976-1996)烈士を追悼するためのものです。李韓烈烈士と同じ延世大の学生が同じようにデモの現場で国家権力による暴力を受け、同じように命を落とすという事件が、残念ながら李韓烈烈士の死から9年を経た後にも繰り返されてしまったわけです。

李韓烈烈士に関連する施設の訪問はこれで終わりですが、延世大にはもう1か所だけ訪問したい場所があるため、「李韓烈ドンサン」をさらに北上します。

 

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延世大正門から伸びるキャンパスのメインストリートの突き当たりには、延世大の前身である延禧(ヨニ)専門学校の創立期に建てられた3棟の近代建築が「П」の字形に配置されています
左から順にスティムソン館(1920年築、史跡第275号)、アンダーウッド館(1925年築、史跡第276号)、ちょっとしか写ってませんがアベンジェラー館(1924年築、史跡第277号)です。

 

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これら近代建築群の手前を左に曲がると、延世大最後の目的地である、写真の「尹東柱詩碑」があります。
尹東柱(윤동주:ユン・ドンジュ、1917-1945)詩人については、詩集『空と風と星と詩』などでご存じの方も多いことでしょう。前身である延禧専門学校を卒業後に日本へ渡り、立教大学を経て同志社大学に在学中の1943年に治安維持法違反の容疑で特高警察に逮捕され、懲役2年の判決を受け収監されていた福岡刑務所にて1945年に獄死。正確な死因は不明ですが、当時の九州帝国大学による海水を用いた代用血液研究の人体実験の犠牲となったという可能性も浮上しています。
この詩碑は寄付により1968年に建てられたもので、代表作のひとつであり遺作でもある「序詩」(서시:ソシ)を刻んだ石板がはめ込まれています。
詩碑の後方に見える建物「ピンスンホール」(핀슨홀)は、2013年に「尹東柱記念館」の名を冠せられています。

余談となりますが、尹東柱詩人と同じ小学校と中学校に通った幼馴染同士であり、深い親交があった友人の一人が、詩人の後輩でもある李韓烈烈士の葬儀で弔辞を述べた文益煥牧師です。歴史はつながっていることを改めて実感させられます。

尹東柱詩碑(윤동주 시비:ソウル特別市 麻浦区 延世路 50 (新村洞 134) 延世大学校内)

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延世大を出て、鍾路3街のホテルへチェックイン。あたりはすっかり暗くなってしまいました。いよいよお待ちかねの夕食です。
今回訪問したのは、地下鉄「鍾路3街」駅6番出口近くにある豚焼肉店「味カルメギサル専門」。昨年(2016年)8月以来の訪問です(上の2枚の写真も昨年8月のものです。この日は撮り忘れてしまいました……)。名物のカルメギサル(豚ハラミ)がおいしいうえ、周囲の路上には露天席も多数用意されているため、酒場らしい情感にあふれたお店となっています。
待たずに座れた前回に対し、今回は激混みですでに10組以上の行列が。なんでもこの日(4月14日)の1ヵ月ほど前に人気グルメ番組『水曜美食会』で紹介されたらしく、元々多かった来客がさらに急増した様子とのこと。それでも30分ほど待ってようやく順番が回ってきたら、今度はなんと予想外の「1人はNG」との答えが(前回はそんなことはなかったのに……)。一人でもたくさん食べられますよというアピールを繰り返して、どうにか屋内の奥の席に案内されました。

 

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露天席でなかったのは残念ですが、味に違いはありません。やって来たカルメギサルとカブリサル(豚トロの一種)を自分で焼いて、ぱくり。ああ、うんまい。ビール(Kloudあり!)はもちろん、ソジュとの相性もばっちりです。
こちらのお店では脇に水タンクのようなケースがついた特殊な焼き網を使用しており、日本の焼肉店でよく見るような席ごとの換気口がなくとも衣服に臭いがほとんどつきません。1月に行った隣の店「コチャンチッ」(こちらのエントリーにて紹介)でも同じものを使用していました。この網ほしい。
味にも雰囲気にも大変満足していますし、また行きたい気持ちは強いですが、前述の経緯もありますので次回はもう少し混雑が落ち着いてからにしようと思います。2人以上のグループならば断然おすすめのお店です。

味カルメギサル専門(미갈매기살전문:ソウル特別市 鍾路区 敦化門11カギル 7 (敦義洞 7-1))

こうして今回の旅の1日目は終了。次の日に備えて眠るのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

ソウルの旅[201704_03] - 拷問のために最適化された建物と「朴鍾哲記念展示室」

前回のエントリーの続きです。

 

gashin-shoutan.hatenablog.com

仁川駅から首都圏電鉄1号線(ソウル地下鉄1号線、Korail京仁線)でおよそ1時間あまり、着いたのはKTXも発着するソウル駅のひとつ手前、南営(ナミョン)駅。ソウル駅と龍山(ヨンサン)駅という2大ターミナルに挟まれた地味な駅ですが、ここに今回のソウルの旅最初の目的地があります。
1時間ちょっと前の仁川はうす曇り、近代建築巡りではときおり晴れ間も覗いていましたが、ここ南営は強い雨。傘を差しつつ駅を東側に出て1号線沿いに南(龍山駅方向)へ3分程度歩くと、こちらの建物が見えてまいります。

 

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警察庁人権保護センター」と呼ばれるこの建物の4階に、ソウルでの今回最初の目的地「朴鍾哲記念展示室」があります。

 

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朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士とは、いまをさかのぼること30年あまり前の1987年1月14日に警察の拷問によって死に至らしめられた、当時21歳、ソウル大学校人文大学言語学科の3年だった人物です。
1987年1月13日の深夜、ソウル市内の下宿にて治安本部対共分室の捜査官6人により拘束。指名手配中となっていた大学の先輩の行方を聞き出すべく「南営洞対共分室」(남영동대공분실:ナミョンドン・テゴンブンシル)へ連行され、捜査員による電気や水などを用いた激しい拷問を受けた結果、死に至らしめられるという事件(朴鍾哲拷問致死事件)の犠牲となりました。

事件発覚後、当時の治安本部長が会見にて「机を『タッ』(탁:強く叩いたときの擬音語)と叩くと『オッ』(억:驚いたり倒れたりするときに出す声)と声を上げて倒れた」という到底納得できない釈明をしたうえ、遺体の解剖で拷問と思しき痕跡がいくつも見受けられたにもかかわらず家族の許可も得ぬまま火葬に付し、さらには拷問に携わった捜査員のうちわずか2名の処分だけで幕引きを図ろうとしたことなどから、この事件をきっかけに市民たちの権力への不信は急速に高まります。

 

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朴鍾哲烈士の死、そして同年4月13日の全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)大統領による「護憲措置」(大統領間接選挙を定めた現行憲法の維持)談話は、学生をはじめとする市民たちにより同年(1987年)6月10日に本格始動する全国的な反政府デモ「6月民主抗争」(6월 민주항쟁)の火種となり、ついに6月29日、盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)次期大統領候補から大統領直接選挙制への改憲実施を含めた時局収拾案(6.29宣言)を引き出させ、勝利を勝ち取ることとなります。

 

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朴鍾哲烈士の人生と壮絶な死、そして6月民主抗争を「記憶」するため、加害者である警察が反省の意をこめて自らの所有施設、それも後述するように重要な意味を持つ建物の中に設けたこちらの展示室には、朴鍾哲烈士の遺品と6月民主抗争を解説するパネルを中心に展示されています。

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朴鍾哲烈士の略歴。1965年4月1日に釜山市西区峨嵋洞(アミドン)で生まれ、釜山恵光高等学校を卒業してソウル大学校に入学、人文大学(学部に相当)言語学科では同学科の学生会長を務めていました。労学連帯闘争に参加していた最中の1986年4月に清渓(チョンゲ)被覆労働組合の合法化要求デモで拘束され、同年7月には懲役10ヵ月、執行猶予2年の判決を受けています。ちなみにこの清渓被覆労働組合とは、劣悪な労働環境の改善を訴え1970年11月13日にソウル東大門の平和市場(ピョンファンジャン)にて焚身(焼身)した労働者、全泰壱(전태일:チョン・ティル、1948-1970)烈士の死をきっかけに設立されたものです。

 

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数ある展示物の中でも特に印象的なギター。朴鍾哲烈士が生前に愛用したものです。よく見ると無電源のクラシックギターエレキギターに改造したものだと分かります。

 

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朴鍾哲烈士が生前身に着けていた腕時計と死亡検案書、葬儀の際の喪章。

朴鍾哲記念展示室はここ「警察庁人権保護センター」4階の一角だけですが、ひとつ上の5階を訪れることで、この施設の見学は完成します。そのため、階段で階上へ登ります。

 

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5階。薄暗い廊下に緑色の鉄の扉が並ぶ、一転して殺風景なフロアです。
ここまでお読みいただいてお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、この「警察庁人権保護センター」の建物こそがかつて「南営洞対共分室」と呼ばれ市民たちに恐れられた施設であり、朴鍾哲烈士が殺害されたその場所です。その意味で「朴鍾哲記念展示室」の設置にふさわしい場所だと言えるでしょう。
そしてこの5階には、「調査」の名目で民主化運動の人士たちに拷問を加え自白を強要した現場である「調査室」が、現在もほぼそのままの姿で残されています。

その名に「対共」とあるように、本来この「南営洞対共分室」は朝鮮民主主義人民共和国の間諜(スパイ)や「パルゲンイ」(빨갱이:「アカ」)を取り締まるための施設でしたが、朴正煕(빅정희:パク・チョンヒ、1917-1979)・全斗煥の両大統領による軍事政権下では、民主化運動に携わる人々など反政府人士とされた人々を拘束・収容し、真偽にかかわらず政権側に好都合な自白を得ることを目的に拷問を加えるための場所として主に用いられました。

 

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朴鍾哲烈士のほか、新千年民主党やヨルリンウリ党民主党などの要職を歴任し、盧武鉉(노무현:ノ・ムヒョン、1946-2009)政権では保健福祉部長官を務めた金槿泰(김근태:キム・グンテ、1947-2011)氏もまた、1985年9月にここで23日間もの過酷な拷問を受けて自白を強要され(金槿泰民青連前議長拷問事件)、その後1987年まで服役させられています。写真はここ「警察庁人権保護センター」1階にあるパネル。

 

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廊下の両側に並ぶ薄暗いかつての調査室の中でただひとつ、煌々と電灯がともる部屋があります。
それがこの9号室。5階の9号室なので「509号室」とも呼ばれます。この部屋こそがまさしく、1987年1月14日に朴鍾哲烈士が拷問によって死に至らしめられた調査室そのものです。
9号室の内部は、朴鍾哲烈士が殺害された当時のまま保存されています。出入口にはアクリル製のパネルが一面に張られており、内部に立ち入ることはできません。
黙祷して、撮影を開始します。

 

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調査室の奥には浴槽があります。調査対象者の便宜のためではありません。水を張ったこの浴槽に無理やり顔を浸けて自白を強要する「水拷問」(水責め)の道具として設置されたものです。朴鍾哲烈士もこの水拷問によって命を落としました。

 

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調査室の壁面は、学校の音楽室でもよく見るような穴の空いた吸音壁となっています。もちろん、拷問を受ける調査対象者の悲鳴やうめき声が外部に漏れないようにするためです。

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この「南営洞対共分室」、現「警察庁人権保護センター」の建物は、拷問のために最適化されたと言っても過言ではないほど特殊な設計が随所に施されています。
この9号室もそうですが、5階の調査室の窓は調査対象者が脱出できないよう、すべて極端に狭く作られています。外観からもその異様さが見て取れるでしょう。

 

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写真は別の部屋で撮影したもの。狭さが実感できるよう、韓国の交通カード(日本のと同サイズ)を添えています。

 

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したがって部屋に入る光も制限され、点灯しない限り昼でも薄暗い状態となります。

 

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調査室の室内灯のスイッチはすべて部屋の外、出入口の横に設けられています。監禁された調査対象者は部屋の点消灯すらままならない状態だったわけです。

 

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廊下の天井はやや高めに作られています。拷問の主体である警察官の足音を響かせて恐怖感を与えるためとされています。

 

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廊下の両側に並ぶ各調査室の出入口は、互い違いに設置されています。そのため各調査室のドアを開けた先には、必ず正面に壁面のみが見えることとなります。これは別の部屋へ移動させられる調査対象者同士が偶然鉢合わせとなった際に合図を取り合うことを抑止するほか、調査対象者に不安を与える効果があるとされています。

 

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各調査室のドアは金属製で、緑色に塗られています。これは他フロアへ続く階段のドアも同じで、これらを含めすべてのドアが等間隔に配置されています。一見してどこが脱出口となるかを分かりにくくするためです。ドアスコープは一般的な住宅玄関のそれとは逆に、部屋の外側から内側に向けてのみ見えるようになっています。

 

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この建物の1階、正面玄関と反対側には勝手口のような扉があります。拘束された人々は人目を避けて、ここから建物内部へ連行されました。扉を入ったすぐ横には、調査室のある5階へ直行するらせん階段が設けられており、外観にもその輪郭が表われています。調査対象者が目隠しをされた状態でこの階段を引きずり登らされることにより、どのフロアに連れて来られたかの感覚を失うことを期したものです。

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1976年に5階建てのビルとして竣工し、1983年には6・7階が増築され現在の姿となったこの建物を設計したのは、韓国を代表する建築家のひとりである金寿根(김수근:キム・スグン、1931-1986)氏。
同氏の設計による建物は、有名どころではソウル蚕室洞(チャムシルドン)の「ソウルオリンピック主競技場」(1977年)や同苑西洞(ウォンソドン)の「空間(コンガン)社屋」(1971年)などがあり、1970年の大阪万博のパビリオンである韓国館も手がけています。鍾路(チョンノ)から退渓路(テゲロ)にかけてソウル旧市街を南北に貫く全長約1kmもの長大建築物「世運商街」(세운상가:セウンサンガ、1968年)も同氏の設計によるものです。
これらの優れた作品を残し世界的にも著名な建築家が時の権力に迎合し、これほどまで拷問のために最適化された建物を設計、形にしたという事実。国家権力による市民への拷問、殺害という許されざる過去とはまた異なる次元での戦慄を感じます。


警察庁人権保護センター(旧南営洞対共分室)4階にある「朴鍾哲記念展示室」、および5階の旧調査室の開放時間帯は午前9時~午後6時、土日は休館ですので注意が必要です。入場無料。最も近い首都圏電鉄(ソウル地下鉄)1号線の「南営」(ナミョン)駅からだと徒歩3分程度で着きますが、同4号線「淑大入口」(スッテイック)駅からでも徒歩8分程度で到着できます。
朴鍾哲記念展示室(警察庁人権保護センター)(박종철 기념 전시실(경찰청 인권보호센터):ソウル特別市 龍山区 漢江大路71ギル 37 (葛月洞 98-8))

1987年1月に国家権力により殺害され、その死が同年6月の民主抗争の火種となった朴鍾哲烈士。その生涯を記憶する施設を訪れたからには、どうしてももう1か所行かなければならない場所があります。
その場所へ行くために、南営駅前のバス停より7016番バスに乗車するのでした。

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