かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

高興の旅[201710_04] - 患者たちへの差別と人権蹂躙の歴史を記憶する「ハンセン病の島」小鹿島を歩く(後編)

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)高興(コフン)郡などを巡る旅、2日目(2017年10月28日(土))、高興郡道陽邑(トヤンウプ)にある「ハンセン病の島」小鹿島(ソロクト)探訪の後編です。
日帝強占期における小鹿島の歴史や用語については、同島探訪の前編である前回のエントリーでも紹介しておりますので、あわせてお読みいただくとより理解が深まるかと存じます。
※以降、本エントリーでは歴史的用語を説明する場合に限り、ハンセン病の旧称であり主に差別的文脈で用いられてきた「癩(らい)」の語を用いることをご了承願います。

 

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前回のエントリーでも紹介した、小鹿島の地図と主要スポット。以下、本エントリーではこの図を「上図」と呼びます。

 

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写真の建物は、監禁室(上図⑤)と検屍室(上図⑥)の前から坂を登った場所にある「支援奉仕会館」。この建物は関係者以外立入禁止ですが、その手前側には誰でも無料観覧できる2棟の「小鹿島資料館」(上図⑦)があります。

 

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旧小鹿島更生園の文芸室の建物を再利用した小鹿島資料館の第1館「歴史館」は、小鹿島におけるハンセン病治療史のパネル展示のほか、患者たちが使用してきた生活用品が展示されています。
写真2枚目はそれら生活用品のうち配膳用具、3枚目はうちスプーンとフォークを拡大したものです。ハンセン病の進行に伴い手指を切断した患者にも使用しやすいよう改良されています。

 

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かつての鹿山(ノクサン)中学校の校舎を再利用した小鹿島資料館の第2館「ハンセン館」では、ハンセン病克服へ向けた人類の取り組みを紹介しており、医薬品や医療器具が主に展示されていました。

 

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小鹿島資料館を下り少し南へ進むと、写真の広い緑地が見えてまいります。
こちらは「中央公園(チュンアンゴンウォン)」といい、周防正季(すほう・まさすえ、1885-1942)4代園長時代の1936年12月から3年4ヵ月を費やし、延べ6万人もの患者を動員して造成された公園です。

 

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中央公園の案内図。順路(オレンジ色の線)から分かりやすいよう、南が上になっています。以下、本エントリーではこの図を「中央公園案内図」と呼びます。

 

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公園の中央に建ち、そのシンボル的存在となっている「救癩塔(クラタッ)」(上図⑧、中央公園案内図⑬)。
小鹿島を含む高興郡道陽邑と隣接する同郡道徳面(トドンミョン)五馬里(オマリ)、現在は農地となっている一帯は、かつて五馬島(オマド)という無人島が浮かぶ海域でした。1962年に始まった五馬島一帯の大規模な干拓事業には、国立小鹿島病院のハンセン病患者たちが携っています。干拓地の一部を譲り受け、農業で自立するための患者村建設がその目的でした。
しかし地域住民の偏見は根強く、患者村建設への反対運動が激化。時の政権与党であった民主共和党は目前に控えていた総選挙を意識し、事業主体を全羅南道に移管することでハンセン病患者たちを干拓事業から追放してしまいます。そして、この干拓地に患者村が建設されることはありませんでした。
天使(医療)が悪魔(病原体)を踏みつけ制圧する姿を描いたこの「救癩塔」は、五馬島干拓事業に参加した小鹿島のハンセン病患者たちを称えるとともに、いつか人類がハンセン病を克服しその病苦から解放されることを願って、同じく干拓事業に携った国際ワークキャンプ団の寄贈によリ1963年に建てられたものです。土台下部には「한센병은 낫는다」(「ハンセン病は治る」の意)という言葉が刻まれています。

 

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「3M(セマ)功績碑」(中央公園案内図⑭)。
1972年に建てられたこちらの功績碑は、小鹿島でハンセン病患者たちを長年にわたり世話してきたオーストリア人の女性看護師、マリアンヌ・ストガー(Marianne Stoeger)、マーガレット・ピサレック(Margreth Pissarek)、マリア・ディトリッヒ(Marla Dittrich)の3氏を称えたもので、そのいずれも頭文字が「M(マ)」であることからその名が付いています。

 

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「ダミアン功績碑」(中央公園案内図⑲)。
ハワイ・モロカイ島の医療施設でハンセン病患者の救済に取り組み、ついには自身もハンセン病に感染して亡くなったベルギー人男性、ダミアン神父(Father Damien、1840-1889)の功績を称える碑です。ダミアン神父は2009年、カトリック教会の聖人に列せられています。

 

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「開院第40周年記念碑」(上図⑨)。
この碑の場所にはかつて、周防正季4代園長の銅像(写真2枚目右下)が建っていました。
前回のエントリーで紹介した、患者たちの自主的募金で建てられた花井善吉(はない・ぜんきち)2代院長の彰徳碑とは異なり、その費用は園生からの「募金」を名目とした事実上の強制徴収でした。しかも除幕式の1940年8月20日にちなんで毎月20日を「報恩感謝日」と称し、患者たちに像への拝礼を強制します。そして周防園長がこの銅像前の広場で李春相(이춘상:イ・チュンサン)園生に刺されたのも1942年6月20日、まさに「報恩感謝日」の拝礼での出来事でした。
なお、周防園長の銅像はその刺殺の翌年、戦況悪化に伴う金属供出の対象となり撤去されています。

 

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「ポリピリ詩碑」(中央公園案内図⑪)。
開院第40周年記念碑の正面にあるこちらの広い一枚岩には、ハンセン病患者でもあり、その自らの境遇をいくつもの詩に残した詩人、韓何雲(한하운:ハン・ハウン/ハン・ナウン、1919-1975)氏の詩「ポリピリ」(보리피리:「麦笛」の意)が刻まれています。

 

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韓何雲詩人は1919年、地主の長男として咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在の朝鮮民主主義人民共和国)の咸州(ハムジュ)に生まれました。裡里(イリ)農林学校在学中に詩作を始めますが、このとき自身がハンセン病であることを知り、将来を悲観してひどく嘆いたといいます。その後は日本の成蹊高等学校(現在の成蹊大学の前身)などへの留学を経て咸鏡南道庁の畜産課に就職しますが、まもなくハンセン病の発症で退職を余儀なくされます。また光復後には家財一切を失ったうえ2度の逮捕を経験し、1948年には治療を求めて38度線を越え、そのまま放浪の身となります。その日の暮らしのためにソウルで自身の詩集を売っていたところを見出され、1949年に最初の詩集『韓何雲詩抄』、1955年には「ポリピリ」が収録された2番目の詩集が発刊。療養施設の創設や大韓ハンセン連盟委員会長への就任など、創作活動と並行してハンセン病患者の救済活動にも携っています。
「ポリピリ」をはじめ韓何雲詩人が遺した作品の数々は、今日も韓国の人々に広く愛読されています。

 

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中央公園には芝生の敷かれたスペースのほか、形の異なる何本もの木々が林立する一帯があります(中央公園案内図⑮一帯)。こちらは日本や台湾などから珍しい樹木を集めた庭園で、立ち入ることはできません。

 

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中央公園の南東にある「イエス像」(上図⑲、中央公園案内図⑯)。
幾多の苦難の中でも、キリスト教は多くの患者たちにとって心の拠り所となりました。
 

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中央公園のさらに南側はハンセン病患者の方々の居住区域であるため、関係者以外は立ち入ることができません。
この先にも全3次の拡張工事で建てられた施設がいくつかあり、うち海沿いにあるレンガ造りの「高興旧小鹿島更生園食糧倉庫」(1940年築:国家指定登録文化財第70号。上図⑪)は、この直前に訪問した居金島(コグムド。こちらのエントリーにて紹介)との間にかかる居金大橋(コグムデキョ)からも遠くその姿が見えました。
隣接する埠頭に降ろされた食糧を保管するためのこの倉庫は、海中に築かれたレンガのアーチの上に建てられており、潮の干満の差により室内の空気が循環され、食糧の保管に適した環境となるというユニークな構造となっているそうです。

 

前回も紹介した「哀恨(エハン)の追慕碑」(上図③、中央公園案内図①)まで戻り、駐車場とは反対方向の西側へ進みます。

 

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「国立小鹿島病院ハンセン病博物館」(上図⑫)。
国立小鹿島病院の前身である小鹿島慈恵医院の開院100周年を記念して、2016年にオープンした博物館です。
博物館の愛称になっている「SONAMU」とは「SOrokdo NAtional MUseum」(小鹿島国立博物館)の頭文字を2字ずつ取ったもので、病苦に加え差別や人権蹂躙など数限りない苦難を乗り越えてきたハンセン病患者たちの生命力を象徴するものとして、やはり生命力の強い「松の木」を意味する「ソナム」(소나무)になぞらえて名づけられたとのこと。

 

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ハンセン病博物館の内部。徹底したバリアフリーが施されています。

こちらの博物館はぜひともご来場のうえ直に観覧していただきたいので、あえて詳しくは紹介いたしませんが、その中で特に印象に残った展示物をごく一部だけ紹介したいと思います。

 

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ダイフウシノキ(学名:Hydnocarpus wightiana)の種子。
この種子を絞って得た油脂を大風子油(だいふうしゆ)といい、かつてはハンセン病の治療薬として広く用いられましたが、後述する特効薬のプロミンが開発されたため、現在では使用されていません。

 

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プロミン(右)と、日本製のプロトミン(左)のアンプル。
プロミン(グルコスルホンナトリウム)は1943年、ハンセン病に効果があることが発見され、それまでの大風子油に代わりたちまち全世界で使用されるようになりました。プロトミンはプロミンをもとに日本の吉富製薬(現・田辺三菱製薬)が生産したものです。

 

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「知らずに3年、知って3年、侵されて3年」(몰라 3년, 알아 3년, 썩어 3년)。
小鹿島のハンセン病患者たちに用いられてきたこの言葉は、感染から発症までの潜伏期間が3年、感染を知り治療をためらう期間が3年、そして症状の進行により視力が低下し手足を切断されながら生きてゆく期間が3年であることを表現するものだのことです。

 

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「1945年8月15日 しかし彼らには解放は来なかった。」と題された展示エリア。
1945年8月15日の光復により、小鹿島更生園の園生たちに労働や神社参拝などを強要し虐待してきた日本人職員は小鹿島を去りましたが、3年間の米軍政を経て1948年に発足した大韓民国においてもハンセン病患者への差別は根強く残っていました。日本人により導入された「断種」手術(精管切除)も、小鹿島更生園では大韓民国発足後の1950年代末まで継続されています。

 

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「4.6事件」。
1948年、周防園長時代に従事経験のある医師が小鹿島更生園の8代園長に赴任するや、秩序維持を名目に日帝強占期当時の強圧的態度に回帰します。朝鮮戦争期の1951年には園生数が日帝強占期の最高水準であった6千人を回復、また1953年には救援物資の減少によって園生の暮らしは窮乏し、不満が増大してゆきます。
さらにこの時期、治療目的だと思われていた胸骨骨髄穿刺が実はハンセン病の病原菌の検査目的だったという事実が発覚。これらを受けて園生たちは1954年4月6日、園長不信任と拘束者解放を要求する大規模決起行動を起こしますが、要求は受け入れられず主導者は高興警察署に連行されます(4.6事件)。その後、小鹿島更生園では胸骨骨髄穿刺の中止や予算増額など園生の待遇改善を図りましたが、この時期の辛い記憶は引き継がれることとなりました。

 

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「飛兎里(ピトリ)事件」。
1957年8月、現在の慶尚南道キョンサンナムド)泗川(サチョン)市にあったハンセン病施設「永福園(ヨンボグォン)」の患者たちが、現在の同市内にある飛兎島(ピトソム/ピトド)に渡り、所有者に無断で土地の開墾を始めました。これは患者たちが援助だけでは生計を維持できなくなり、食糧確保のためやむにやまれず行なったものでしたが、その影響で島内のアサリ・カキ養殖場が被害を受けたことから島民たちが激怒、ハンセン病患者の入島阻止闘争を開始します。同月28日にはついに100人あまりの島民が竹槍や鎌、鍬などを手に患者たちを無差別に襲撃し、80人以上もの患者が死傷しています。しかしこの事件への処罰は患者たちにとって満足のいかない範囲に留まったといいます。

 

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「共学反対」。
韓国政府は1960年代初頭、小鹿島更生園に代表される従前からのハンセン病患者の隔離政策を転換し、全国各地への「定着村」あるいは「希望村」と呼ばれる患者集落の建設による「定着事業」を積極推進しました。しかし一般市民による患者たちへの偏見は依然として根強く、定着村の近隣においては既存の生徒児童との共学に反対し、患者の子どもたちの学校転入を拒絶する事態が相次ぎました。この過程で患者や子どもたちの精神的被害に加え、物理的な衝突に発展した事例では身体的・経済的被害も発生しています。最終的には一部の事例を除き、定着村内に分校を設置することで消極的決着が図られています。
 

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「カエル少年関連名誉毀損」。
1992年8月、「カエル(韓国語で「ケグリ」)少年」と呼ばれた行方不明の児童5人が慶尚北道キョンサンブット)漆谷(チルゴク)郡のハンセン病患者の集落に埋められているという真偽不明の情報を全国メディアが無検証で報道、住民である患者たちの名誉が毀損された事件です。患者たちは潔白証明のため「現場」を公開しますが、取材に来た各メディアの記者は患者たちの家財を不法捜索するなどして患者たちと対立、そのうえ報道に際しては患者たちの暴力性ばかりを強調したというものです。埋葬の件はデマだと明らかになりましたが、どのメディアも謝罪や記事の訂正をすることはありませんでした。
なお「カエル少年」とは、1991年3月に現在の大邱(テグ)広域市にて失踪した同市の小学生男子児童5人を指すもので、失踪当日の外出目的だったサンショウウオの卵採集がカエルのそれだと誤って伝わったためこの名が付いたものです。事件発生から11年後の2002年、同市内の山中にて児童たちの他殺体とみられる遺骨が発見されましたが、2006年に公訴時効を迎えています。 

 

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「国立小鹿島病院ハンセン病博物館」の開館時間は午前9時30分~午後4時30分。毎週月曜日と元日、名節(旧正月と秋夕)の連休は休館です。入場無料。島唯一のバス停である「小鹿島」バス停(上図①)から博物館までは徒歩約17分(約1.1km)。小鹿島へのアクセスについては本エントリーの最後に紹介いたします。なお開館日の毎日午後3時には、博物館2階の「人権ゾーン」にて「口述史」(구술사:オーラルヒストリー)講演が開催されるとのことです(韓国語のみ)。 

国立小鹿島病院ハンセン病博物館(국립소록도병원 한센병박물관:全羅南道 高興部 道陽邑 小鹿海岸キル 65 (小鹿里 212-4)) [HP]

 

ハンセン病博物館から西側もまた患者の方々の居住区域であるため、関係者以外の立ち入りはできません。
病院駐車場の北側、前回のエントリーにて紹介した「愁嘆場」(上図②)と隣接する売店付近へ戻ります。ここから東側は主に病院関係者の住宅地であり「統制区域」とされていますが、こちらは患者の方々の居住区域とは異なり、許可を得ることで外部の人でも立ち入ることができます。
ハンセン病博物館の事務員の方を通じて許可を得ましたので、統制区域の坂道を登ってゆきます。この一帯にもまた訪問したい史跡があるためです。

 

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「マリアンヌとマーガレット私宅」(上図⑱)。
玄関脇の丸窓が印象的なこちらの建物は、前述したオーストリア人の女性看護師のうち、マリアンヌ・ストガー、マーガレット・ピサレックの両氏が生活していた住宅です。
二人はインスブルック看護学校の同窓生で、ともにハンセン病の救護団体であるダミアン財団を通じて小鹿島へやって来ました。まずマリアンヌさんが1962年に来島して乳幼児関連の業務に携り、その後ハンセン病の勉強のためのインド留学を経て1966年に帰島、同年に小鹿島を訪れたマーガレットさんとともに、以後40年近くにわたってハンセン病患者たちへの介護に取り組んでいます。さらに、募金を通じて得られた資金をもとに島内への嬰児院(乳幼児の養護施設)や結核病棟などの建設にも貢献しています。2005年、老齢により思うように働けなくなったため二人が1通の手紙を残して島を去った際には、小鹿島の人々は別れを悲しむとともに、二人のために祈ったといいます。
こちらの建物は「高興小鹿島マリアンヌとマーガレット私宅」として国家指定登録文化財第660号に登録されていますが、現在も住宅として使用されているようです。

 

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小鹿島での長年にわたる二人の活動は、『マリアンヌとマーガレット』(마리안느와 마가렛)として2017年にドキュメンタリー映画化されています。写真は国立小鹿島病院ハンセン病博物館にあった映画のポスターです。

 

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「旧小鹿島更生園神社」(上図⑭)。
1935年築。天照大神を祀った鉄筋コンクリートとレンガ造りの神社建築です。周防園長時代、小鹿島更生園の園生(ハンセン病患者)たちは月2回の神社参拝を強要されました。島西側の「患者地帯」には木造の分社がありましたが(写真4枚目右下)、光復後まもなく園生たちにより焼き打ちされています。こちらの社殿はコンクリート造りであるため残り、今日に至るまで倉庫などに用いられてきたとのことです。
本建物は、国家指定登緑文化財第71号に登録されています。これまで韓国ではいくつもの文化財を見てきましたが、文化財を見て怒りに襲われたのは初めての経験でした。

 

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長く曲がりくねった急坂を下ると、島の東海岸に出ます。
鹿洞(ノクトン)港と対面するこの一帯には船着場があり、2008年の小鹿大橋開通までは鹿洞港からの渡船が発着していました。

 

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かつて小鹿島と鹿洞港とを結んでいた行政船「全南503号」。よく見ると甲板の後方に乗客用のベンチらしきものが。

 

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「殉鹿塔」(순록탑:スルロクタッ)(上図⑮)。
朝鮮戦争期、進入してきた人民軍からハンセン病患者たちを守る過程で虐殺された、10人の小鹿島更生園職員と1人の牧師を称えるため1978年に建立された高さ約5mの塔で、鹿の島を守るため殉職した人々を称えるとの意味でこの名が付けられています。「殉鹿塔」の揮毫を挟んだ2本の柱は殉職者数「11」を象徴するアラビア数字を、上部のトゲの付いた丸い造形物は戦争を象徴する爆弾を表わしているとのことです。側面には殉職者の名前も刻まれています。

 

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写真は前回のエントリーでも紹介した、対岸の鹿洞港から眺めた小鹿島の姿ですが、中央に白い殉鹿塔がはっきりと見て取れます。

 

これまで紹介してきた以外にも小鹿島には、患者たちの納骨堂である「万霊堂」(1937年築:国家指定登録文化財第69号。上図⑯)、ハンセン病患者の受刑者を収容した「順天矯導所旧小鹿島支所女子棟」(1935年築:同第469号。上図⑰)、患者たちにとって直接無関係にもかかわらずその建設に動員された「旧小鹿島更生園灯台」(1937年築:同第72号。上図⑱)、そして前述した「花井院長彰徳碑」(1930年建立:上図⑲)などの貴重な史跡が、島西部を中心とする居住区域(関係者以外立入禁止)に複数立地しています。
居住区域にて現在も生活されているハンセン病患者の方々の暮らしが妨げられることは決してあってはなりませんが、そうならない限りにおいて何らかの形で私のような来訪者がこれら史跡を観覧できる仕組みが設けられることを切に願っています。

 

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小鹿島へのアクセスは、基本的には対岸の街である鹿洞港からの陸路となります。前々回のエントリーで紹介した「鹿洞バス共用停留場」からだと、島唯一のバス停である「小鹿島」(上図①)を通るバスが2系統、合計で1日9便ほどあるようです(所要時間は23分前後)。写真は鹿洞バス共用停留場の時刻表で、右端の列の「금산(우두)」(居金島の「錦山(牛頭)」行)のうち午前6:30発を除く5便が小鹿島を経由します(もう1系統・4便の発時刻は記載なし)。タクシーであれば同停留場から約10分、10,000ウォン(約1,000円:2018年4月現在)程度。
また光州広域市からであれば、前々回のエントリーにて紹介した光州総合バスターミナル「U-Square」(유스퀘어)から鹿洞へ向かう市外バスのうち、1日1便(午前8:50発)が小鹿島まで延長運行されています。料金は一般15,700ウォン(約1,570円)、所要時間は約2時間55分。

以上のほか、高興郡が週末のみ運行するシティツアーバスも小鹿島をルートに含んでおり、参加することで容易に訪問ができます。
シティツアーバスは毎週土・日、KTXも停車するKorail順天(スンチョン)駅前を午前10時に出発(10分前集合)、午後6時30分に同駅に戻ります。小鹿島のほか、「高興粉青(プンチョン)文化博物館」見学や鹿洞港での昼食、居金島の金塘(クムダン)八景遊覧船などがルートに含まれています。料金は大人10,000ウォン(博物館入館料と遊覧船乗船料は別途)。なおガイドは韓国語のみですのでご注意願います。
こちらのブログでシティツアーバスの参加体験記が紹介されています(2017年5月時点。現在とは若干ルートが異なるようです)

 

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小鹿島を発ち、自転車を返却するため小鹿大橋を渡って鹿洞港へ戻ります。
今回の自転車での走行距離は鹿洞港⇒居金島⇒小鹿島⇒鹿洞港のルートでおよそ60kmほど。小鹿大橋と居金大橋がいずれも高い場所を通っているため意外と起伏がありましたが(海抜0~60m前後)、殉鹿塔からの帰りの急坂を除けばだいたい乗り通すことができました。写真は鹿洞港、全羅南道で頻繁に見かけるミニストップがここにも。

約束の時刻だった午後4時を若干回って、この日の朝に自転車をお借りした高興警察署鹿洞派出所に到着。朝方いらっしゃった警官3人のうち自転車の持ち主を含む2人はすでに退勤後でしたので、もう一人の方に返却します。
鹿洞派出所のみなさま、本当にありがとうございました。おかげで有意義な旅ができました。

 

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そしてタクシーで鹿洞バス共用停留場に戻り、写真の市外バスで次の目的地へと向かうのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

高興の旅[201710_03] - 患者たちへの差別と人権蹂躙の歴史を記憶する「ハンセン病の島」小鹿島を歩く(前編)

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)高興(コフン)郡などを巡る旅、2日目(2017年10月28日(土))です。

 

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自転車で居金大橋(コグムデキョ)を渡り、小鹿島(ソロクト)に再上陸。
小鹿島は、全羅南道高興郡道陽邑(トヤンウプ。邑(ウプ)は日本の「町」に相当する地方自治体)に属する面積約4.42平方kmの小さな島です。その名の由来としては、島の形が小鹿に似ているとして付けられたという説、また対岸の高興半島にある鹿洞(ノクトン)港一帯がかつては「鹿島(ロクト)」という島で、これと比べて小さな島だとしてその名が付いたという説などがあります。
対面する鹿洞港との距離はおよそ500m。長らく渡船でしか往来できない島となっていましたが、前回のエントリーでも紹介した「小鹿大橋(ソロクテキョ)」が2008年に開通してからは乗用車やバス、そしてこの日の私のように自転車でも入島できるようになりました。

 

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この小鹿島はいまから102年前の1916年、当時の朝鮮を支配していた日本の朝鮮総督府により隔離施設「小鹿島慈恵医院」が設置されてから今日の「国立小鹿島病院」に至るまで、一貫して「ハンセン病の島」としての歴史を抱いています。

小鹿島の旅レポに先立ち、日帝強占期における小鹿島の歴史についてある程度説明しておく必要があると思いますので、まずは触れておきたいと思います。
※以降、本エントリーでは歴史的用語を説明する場合に限り、ハンセン病の旧称であり主に差別的文脈で用いられてきた「癩(らい)」の語を用いることをご了承願います。

 

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朝鮮半島の南岸、多島海に浮かぶこの小島にハンセン病診療所としての「小鹿島慈恵医院」が設立されたのは1916年、朝鮮総督府令第7号に基づくものでした(写真は次回エントリーにて紹介予定の「小鹿島資料館」の展示パネル)
この当時、朝鮮には外国人キリスト教宣教師が設立した小規模のハンセン病診療所はありましたが、公的機関によるものは初めてでした。しかしその設置の意図は患者の救済よりもむしろ、差別により流浪の身に置かれあるいは患者同士で集落を形成していたハンセン病患者たちを一か所に隔離し、欧米列強に比肩しうる大規模隔離施設を保有することに重点が置かれていました。この当時のハンセン病への対処は、個々の患者への治療よりも患者の隔離による制圧が主流であったためです。
小鹿島が選定されたのは、同島が朝鮮半島の南端近くに位置し温暖な気候であるうえ、島という患者の隔離に適した地理的条件であり、しかも陸地(鹿洞港)から近く物資を運びやすいためとされています。

 

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小鹿島慈恵医院の初代院長には蟻川亨(ありかわ・とおる)軍医が任命されました。翌年(1917年)5月17日の開庁式を経て医院の業務が本格化しますが、蟻川院長は朝鮮人ハンセン病患者に対し献立や食事作法、和装の入院服や神棚への拝礼など日本の生活様式を強制します。さらには家族との面会を厳しく制限し、規則を犯した患者には鞭打ちなどの体罰を課したため、患者からの評判はすこぶる悪いものでした。蟻川院長のこうした強圧的な態度は、ちょうどこの時期、1910年の「日韓併合」から1919年の「3.1運動」までにおける朝鮮総督府の基本統治姿勢を反映したものでした(写真は次回エントリーにて紹介予定の「ハンセン病博物館」にあった開院当時の写真の展示パネル)

依願免職した蟻川院長に代わり1921年に赴任した花井善吉(はない・ぜんきち)2代院長は、患者たちの生活様式を朝鮮式に改めたうえ、食事については日本式かつ院内1か所のみでの提供をやめ、患者の口に合った食事を病舎ごとに作り提供するようにします。また家族との通信や面会を自由にし、さらには神棚への拝礼義務を廃止してキリスト教を含む信仰の自由を認めるなど患者たちの便宜を図ったことから、歴代の日本人院(園)長5人の中ではただ一人患者たちに慕われました。

 

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花井院長は1929年、小鹿島にて病死。写真はその死後、患者たちが自発的な募金で建てた「花井院長彰徳碑」です(写真は次回エントリーにて紹介予定の「ハンセン病博物館」の展示パネル。碑は現存します)。患者たちは光復(日本の敗戦による解放)後、李承晩(이승만:イ・スンマン)初代大統領政権下で全国各地に残る日本人の顕彰碑が破却された際にも、この彰徳碑を地中に埋めて守ったといいます。
このように花井院長は患者たちに慕われた稀有の日本人とはいえ、他方で慈恵医院の拡張のため島内の測量を強行、古くからの小鹿島の住民に立ち退きを迫るなど日帝植民地支配の尖兵たる役割を果たしたことは、決して見逃してはなりません。「3.1運動」以後のちょうどこの時期、朝鮮人たちの懐柔に方針転換しつつも支配体制のさらなる確立を図った朝鮮総督府の統治姿勢の一面がここに表われているといえます。

花井院長の死後に赴任してきた矢澤俊一郎(やざわ・しゅんいちろう)3代院長は、歴代の日本人院(園)長5人の中では唯一の民間出身の医師でしたが、あまり業務には熱心ではなく、趣味の狩猟に勤しむことが多かったといいます。

 

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職員との不和もあって依願免職した矢澤院長に代わって1933年に赴任したのが、朝鮮総督府の技師であった周防正季(すほう・まさすえ、1885-1942)4代院長です。
その前年の1932年に設立され、自身が理事を務めた「財団法人朝鮮癩予防協会」の支援により全島の土地買収が完了したことから、周防院長はやはり同協会の支援による慈恵医院の拡張を画策。その後、3段階にわたる拡張工事を実行しています。

 

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周防院長は経費節減を期して、これら拡張工事に患者たちを低賃金で動員しました。まずは島内にレンガ工場を建て、患者たち自ら生産したレンガ(写真)を建築材料とする手法を導入。当初は自分たちの生活の場を自身の手で作る喜びにあふれていた患者たちですが、1936年に始まった第2次拡張工事では作業がより過酷化するようになります。また1937年の日中戦争開戦以降は食糧配給も徐々に減らされたことから、患者たちの不満は深まるばかりとなり、赴任当初は評判のよかった周防院長への反感もまた増大の一途となります。規則に反した患者は法令「朝鮮癩予防令」の下に暴力的に監禁され、男性の場合は懲罰として精管切除による「断種」手術を施されるようになったのもこの時期からでした。
そうした中、道立から国立へ移管された直後の1934年10月には、それまでの小鹿島慈恵医院から「小鹿島更生園」と改称され、周防院長は「園長」、そして患者たちも「園生」と呼ばれるようになります。

 

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1939年からの第3次拡張工事では、その前年から園生の動員が強制化されたこともあってその過酷さがより激化し、日本人職員、とりわけ嗜虐的であった看護主任の佐藤三代治による理不尽かつ度重なる横暴によって園生たちは日々虐げられていました。この時期には毎日のように園生の死亡者が発生したほか島外への脱走者も続出し、中には対岸までたどり着けず波に飲まれてしまう悲しい事例もありました。

 

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そしてとうとう1942年6月20日、「報恩感謝日」の拝礼において、園生による周防園長の刺殺事件が発生します。実行した李春相(이춘상:イ・チュンサン)園生は取調べに際し、佐藤ら日本人看守による虐待から6千名の園生を救うには周防園長を殺害する他になかったと供述しますが、日本の司法に顧みられることはありませんでした。李春相園生はほどなく差別に満ちた判決文により死刑判決を受け、翌年には処刑されています。
さらに、後任として同年8月に赴任した西亀(にしき)三圭5代園長は佐藤の更迭以外に目立った改善はせず、むしろ皇民化政策を妨げるものとしてキリスト教の弾圧を強化します。

そして1945年8月の光復(日本の敗戦による解放)を迎え、西亀園長ら日本人職員は小鹿島を去ります。

日帝強占期の「朝鮮癩予防令」に基づくハンセン病患者の差別的隔離政策は、3年間の米軍政を経た1948年の大韓民国発足後もしばらく続き、朝鮮戦争休戦の翌年である1954年に廃止されます。以後、韓国においてハンセン病は一般の伝染病と同等の位置づけとなり、患者の在家治療も可能となりました。日本の「らい予防法」廃止よリ41年も前のことです。

 

小鹿島地図
前置きが長くなりましたが、小鹿島の旅レポに戻ります。
画像は小鹿島の地図と主要スポット。以下、本エントリーではこの図を「上図」と呼びます。

 

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居金大橋の人道(歩行者・自転車専用道)を抜けて細い坂道を下った先には国立小鹿島病院の駐車場があり、島内で唯一のバス停(写真1枚目:上図①)もここにあります。「中央公園」(次回エントリーにて紹介予定)へと続く観覧順路となる木製デッキの散策路(写真2枚目)もここから始まります。

 

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この駐車場の北側には売店があり、そのすぐ西側の一帯は「愁嘆場」(スタンジャン:上図②)と呼ばれています。
日帝強占期当時、小鹿島は患者たちの居住地域である西側の「病舎地帯」と、職員および「未感児」(ハンセン病に罹患していない患者の子)の居住地域である東側の「職員地帯」とに分断されていました。この場所はその境界線上にあり、患者と「未感児」たちが多くとも月に一度、それも距離を取らされたうえで面会できる唯一の場所であり、我が子を抱くことすらかなわない患者たち、そして親から引き離された子どもたちの嘆き悲しむ声に絶えず包まれていたことから、この名が付けられています。

 

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愁嘆場からは海沿いに木製のデッキの散策路が続いており、ところどころに小鹿島の歴史や施設を紹介する案内板が建てられています。デッキ上は自転車に乗っての通行は禁止ですので、自転車を押して歩きます。

 

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全長600mほどのデッキの終点付近には「哀恨(エハン)の追慕碑」(上図③)という石碑があります。
1945年8月の敗戦により日本人職員は小鹿島を退去しますが、これと並行して小鹿島更生園では残された朝鮮人職員の間で主導権争いが発生します。この争いに敗れた側の職員が「勝った側の職員が食料と医薬品を持って島外に逃げる」とのデマを流したため、危機感を抱いた園生(ハンセン病患者)たちが武器代わりの農機具を手に職員地帯へ押しかけると、職員がこれに発砲。園生のうち数名が射殺されました。
さらに8月22日、交渉との名目で呼び出した園生の代表たちが約束の場所に現れるや、武装した職員とその支援に来た高興の治安維持隊員たちはその全員を捕縛し、射殺。その後も代表格の園生を連行しては射殺し、最後にはその死体に松根油をかけて火をつけるという凶行を働いています。この一連の虐殺により、84名もの園生たちが命を奪われました。
虐殺から56年を経た2001年には、このとき殺害された園生たちの遺骨が発掘されています。その犠牲者を追悼し、事件を記憶するためその翌年に建立されたのが、こちらの碑です。

 

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「哀恨の追慕碑」と道路を挟んだ反対側には、国立小鹿島病院の本館が(上図④)。
その向かって左側には、小鹿島の歴史を描いた壁画の道があります。観光客にとってはデッキに続く順路となります。

壁画の道を抜けると、レンガ造りの古びた建物2棟が現れます。
患者たちが生産したレンガを用い、患者たち自身で建てたこれらの建物こそが、日帝強占期の小鹿島におけるハンセン病患者への差別、弾圧の歴史を如実に示すものです。

 

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「監禁室」(上図⑤)。
1935年築。2棟の建物を渡り廊下でつないだHの字型のこちらの建物は、同年に発令された「朝鮮癩予防令」第6条および同令施行規則第8条に基づき設置された施設で、ハンセン病患者のうち規則に反した者をここに監禁し、減食や断食、体罰などの人権蹂躙を行なった場所です。さらに男性の場合、監禁を解かれる際には隣接する「検屍室」などに連行され、問答無用で「断種」手術(精管切除)が施されました。
この建物は「旧小鹿島更生園監禁室」として国家指定登録文化財第67号に指定されています。

 

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監禁室の内部。経年劣化を考慮しても極めて劣悪な環境であったことが分かります。

 

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ハンセン病博物館」に展示されていた監禁室の見取り図。

 

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「検屍室」(上図⑥)。
1935年築。死亡した患者の遺体は本人の意思にかかわらずこの建物で解剖され、簡単な葬儀を経て荼毘に付されたうえで「万霊堂」と呼ばれた島内の納骨堂に納められました。当時、患者たちは自らの置かれた状況を「三度死ぬ」と表現したといいます。第一にハンセン病の発病、第二にこの建物での解剖、そして第三に火葬です。
またこの施設では、女性患者への堕胎、男性患者への断種手術も行なわれていました。
周防園長時代の1936年、小鹿島更生園ではそれまで禁止していたハンセン病患者同士の夫婦の同居を認めましたが、夫の断種手術をその必須条件としました。ハンセン病は遺伝せず、また出産時を含め子への伝染の可能性も著しく低いことは当時から明らかでしたが、当時の日本では患者たちが寿命を迎えることでのハンセン病「根絶」を期して、このような人権蹂躙政策が取られていました。
さらに、その後は院内規則に反した男性患者への懲罰として断種がなされるようになってゆきます。
この建物は「旧小鹿島更生園検屍室」として国家指定登録文化財第66号に指定されています。

 

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検屍室の内部。室内中央に残る台は当時の解剖台とされています。

 

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先ほど訪問した監禁室の渡り廊下に、強制的に断種手術を受けさせられた「李東」(이동:イ・ドン)という患者による詩「断種台」のパネルが掲げられていました。

 

단종대
이동 (李東)

그 옛날 나의 사춘기에 꿈꾸던
사랑의 꿈은 깨어지고
여기 나의 25세 젊음을
파멸해 가는 수술대 위에서
내 청춘을 통곡하며 누워 있노라
장래 손자를 보겠다던 어머니의 모습
내 수술대 위에서 가물거린다.
정관을 차단하는 차가운 메스가
내 국부에 닿을 때

모래알처럼 번성하라던
신의 섭리를 역행하는 메스를 보고
지하의 히포크라테스는
오늘도 통곡한다.

断種台
李東

その昔
私の思春期に夢見た
愛の夢は砕かれて
ここに私の25歳の若さを
破滅してゆく手術台の上で
私の青春を慟哭し横たう
将来
孫に会いたかったという母の姿
私の手術台の上でぼんやり浮かぶ。
精管を遮断する
冷たいメスが私の局部に触れるとき

砂粒のように繁栄したという
神の摂理に逆らうメスを見て
地下のヒポクラテス
今日も慟哭する。

 (日本語訳は拙訳ですので足らない部分もあるかとは思いますがご容赦願います)

パネルの右下には、「彼(注:周防園長)の命に逆らった罰で監禁室に閉じ込められて解放され断種手術を受けた患者の詩」とあります。看護主任の佐藤三代治による「松の木2株を移動しろ」との命令を忘れた、たったそれだけの理由でわが子と出会う機会を永遠に奪われました。

 

2017年10月の小鹿島探訪の旅は、もう少し続きます。
続きは次回のエントリーにて。

 

高興の旅[201710_02] - 居金島自転車の旅、「大木金太郎」の名でも知られる島出身のプロレスラーを称える「金一記念体育館」

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)などを巡る旅、明けて2日目(2017年10月28日(土))の朝です。

 

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まだ夜が明ける前の午前5時過ぎ、都市鉄道(地下鉄)1号線「農城(ノンソン)」駅近くのホテルを出発。向かったのは同ホテルから歩いて行ける距離にある光州総合バスターミナル「U-Square」(유스퀘어)
上空から見るとドーナツを半分に切った形をしているこちらの建物は高速バスと市外バスの両方のターミナルを兼ねており、ここからは全羅南道内の各市郡はもちろん、ソウルや釜山など道外の各都市、遠くははるか江原道(カンウォンド)の江陵(カンヌン)や束草(ソクチョ)、太白(テベク)まで全国津々浦々に路線網が張り巡らされています。これらの中でもソウル・セントラルシティターミナル行きの便は1日なんと138便、午前4時から深夜0時45分まで平均10分足らずの間隔で出発するという市内バスもびっくりの路線です。
このような路線網を持つのは光州が大都市だからだけではなく、同市に拠点を構える路線バス大手、錦湖(クモ)高速の存在が大きいでしょう。

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U-Square、コインロッカーも充実しています。
 

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購入したのは全羅南道の南岸沿い、一部は多島海海上国立公園にも面している高興(コフン)郡のうち、道陽邑(トヤンウプ。邑(ウプ)は日本の「町」に相当する地方自治体)の「鹿洞(ノクトン)バス共用停留場」行きのチケット。料金は15,000ウォン(約1,580円:当時)。
ところで鹿洞といえば、本ブログでも以前に紹介したことのある光州都市鉄道(地下鉄)1号線の東側の終点「鹿洞」駅を思い出す方もいらっしゃるでしょうが、こちらは光州市内であり全く別の場所です(バスは同駅の近くを通過しますが)。
 

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U-Squareを午前6時15分に発つ写真の市外バスに乗り、鹿洞バス共用停留場を目指します。
バスはU-Squareを出ると、南光州(ナムグァンジュ)停留場⇒所台駅(ソテヨク)停留場⇒和順(ファスン)市外バス共用停留場⇒曲川(コクチョン)停留場⇒筏橋(ポルギョ)バス共用ターミナル⇒過駅(クァヨク)バスターミナル⇒高興(コフン)共用バス停留場⇒鹿洞バス共用停留場の順に停車します。これら停留場名に頻繁に出てくる「共用(コンヨン)」とは、韓国では明確に区分されている高速バスと市外バスの「共用」という意味。これら都市間を結ぶバスのうち、高速バスは起点・終点近くや乗換のためのバス停に停車することはできますが、あちこちの停留所に立ち寄って乗客を乗降させられるのは市外バスに限られています。私が乗車したのはまさしく市外バス。
 

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U-Squareを出て1時間20分ほどで、宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)の筏橋バス共用ターミナルに到着。沿線では光州、和順に次いで大きな街であり、何人かがここで乗り降りします。この日の宿泊地はここ筏橋であるため、当日中に再び戻ることになります。
 

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筏橋を出て少し南下すると車窓に現れる山、尖山(첨산:チョムサン、314m)。それはもう見事なとんがり山です。筏橋を舞台とした大河小説『太白山脈』にも登場します。
 

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写真は順に過駅バスターミナル高興共用バス停留場。高興では私以外の全乗客が下車して、とうとう貸切状態かと思ったら、出発間際に10名以上の高校生くらいの集団が乗ってきました。光州を発ってから乗客数が最多の状態に。と思ったらバス停でもなんでもないところで停車し、全員降車。どうやら運転手さんが気を利かせて、目的地(学校?)近くで降ろしてくれたようです。いいなあこういうの。
 

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そして、終点の鹿洞バス共用停留場に到着。光州からおよそ2時間半の旅でした。

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鹿洞バス共用停留場の市外バス時刻表。ソウル行きのバスが5便、釜山行きが3便もあります。
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鹿洞バス共用停留場の内部はこんな感じ。残念ながらコインロッカーはありません。
 

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キャリーバッグを引きつつ、徒歩で鹿洞港方面へ向かいます。
鹿洞とは高興半島の西端近くに位置する港街で、同半島全体を行政区域とする高興郡内でも2番目の人口を誇る道陽邑の中心地です。
市街地にある漁港(旧港)では海産資源に富んだ近隣の多島海海域で獲れた魚介類が水揚げされ、活発に取引されています。また漁港から少し離れた鹿洞新港旅客船ターミナルからは多島海に浮かぶ島々へ、そして遠く巨文島(コムンド)や済州島(チェジュド)へ向かうフェリーが就航しています。この日の目的地である2つの島も、21世紀に入り架橋されるまでは漁港側の埠頭から渡船が出ていました。
 

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しばらく歩くと右手に現れる在来市場、「鹿洞伝統市場」。

 

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「鹿洞伝統市場」、立ち寄らずにはいられません。大好きな韓国の市場の雰囲気です。こちらの市場は末尾3と8の日が五日市の日で、この日(10月28日)がまさにその当日。店頭には旬の柿をはじめとする果物や野菜が山のように積まれていたほか、やたらとタマネギの苗が売られていたのが印象的でした。

 

さて、この日の目的地である2つの島へは、自転車を借りて自力で向かう計画を立てていました。それというのもこれら目的地は橋で結ばれているとはいえ離島であり、鹿洞からのバスの便数が限られていたためです。鹿洞にはレンタサイクル業者があるとの情報を事前につかんでいましたが、場所は分からなかったため、市場近くの鹿洞派出所へ。
派出所にいた3名の警官の方にレンタサイクルの場所を尋ねると、異口同音に「鹿洞にレンタサイクルはない」との答え。当初計画ではレンタサイクルのお店に荷物を預かってもらうつもりでしたので、自転車・荷物ともにここで大きくあてが外れてしまったことになります。
 

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仕方ないので、せめて荷物だけでも派出所で預かってもらおうとお願いしたところ、荷物預かりを引き受けるのみならず、なんとそのうち一人の方の自転車(私有物)を無料で貸していただけることに。提案に驚きつつも、お言葉に甘えることにしました。大感謝。
派出所からパトカーに乗せてもらい、その方のご自宅へ。そこでこの日の相棒となる写真の赤い自転車にまたがり、島めぐりがスタート。愛用のトートバッグをリュックのように背負い、自転車を漕ぎ出します。
 

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はやる気持ちを抑えつつ、まずは大事な腹ごしらえから。まだ慣れない自転車で向かったのは、事前に調べておいた写真のお店「誠実(ソンシル)サンジャンオタン・クイ専門」。
 

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店名のサンジャンオタン・クイとは「活きチャンオのスープ・焼き」の意。チャンオ(장어:長魚)とはウナギまたはアナゴ、あるいはこれら細長い魚の総称のことですが、ここでは鹿洞港の名物のひとつでもあるアナゴ(正確には붕장어:プンジャンオ)を指します。ちなみに韓国では「アナゴ」という日本名でも普通に通じますし、実際にこちらのお店のメニュー表にもわざわざ「아나고(アナゴ)」とカッコ書きされています。
注文したのはメニュー表最上段のチャンオタン、12,000ウォン(約1,250円:当時)。
 

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そしてやって来たチャンオタン。
ぱくり。淡白ながらも濃厚な味のチャンオの身も、スープもうんまい。見た目通り辛いスープですが、ご飯を入れるとマイルドに。アナゴをこうした辛いスープで食べたのは初めてですが、相性の良さに感心してしまいます。

 

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それとチャンオタンと一緒に出てきたパンチャン(おかず)のうち、写真の茄子を炒めたものが、絶妙な加減のニンニク風味で猛烈にうんまかったです。ご飯と一緒に食べると幸せになるやつだ。思わずご飯と一緒におかわりしてしまいました。

こちらのお店「誠実サンジャンオタン・クイ専門」の営業時間は午前9時~午後10時、年中無休。鹿洞バス共用停留場からだと徒歩約16分(約1km)で到達できます。

誠実サンジャンオタン・クイ専門(성실산장어탕·구이전문:全羅南道 高興部 道陽邑 飛鳳路 177 (鳳岩里 2786))
 

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鹿洞港の対岸に広がるのは小鹿島(ソロクト)。遠くには2008年6月に開通した、小鹿島へ渡る道路橋「小鹿大橋(ソロクテキョ)」が見えます。これから自転車でこの橋を渡ります。
 

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小鹿大橋への登り道の手前にあった、セマウル号の廃客車。事務所として活用されていました。
 

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小鹿大橋を渡ります。写真2枚目は小鹿大橋の橋上から眺めた鹿洞港の風景。
 

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小鹿大橋を渡って小鹿島に上陸。しばらく走ると、またもや大きな橋が現れます。こちらは「居金大橋(コグムデキョ)」といい、小鹿島とさらにその南にある居金島(コグムド)との間に架けられた1,116mの斜張橋を含む総延長2,028mもの長大橋で、2011年12月に開通しました。小鹿大橋・居金大橋ともに一応歩道らしきスペースはあるのですが、車道と段差がないうえ、すぐそばを乗用車やトラックが猛スピードで駆け抜けてゆくのでちょっと怖いです(後述するように居金大橋には人道が別にあります)。

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居金島に上陸。小鹿島までは道陽邑ですが、ここからは錦山面(クムサンミョン。面(ミョン)は日本の「村」に相当する地方自治体)に入ります。右手にはかつて鹿洞港からの渡船が着いた錦津(クムジン)船着場が見えます。
 

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居金島は面積約63.57平方km、韓国では10番目に大きな島で、人口は約4,700人(2017年時点)。島全体が高興部錦山面に属しています。
朝鮮時代前期の15世紀、当時は折爾島(チョリド)と呼ばれたこの島には軍馬を育てるための牧場城(モクチャンソン)が設置されていました。またこの島には大規模な金脈があるとされ(採掘はされていない)、朝鮮時代中期の文献には「巨億金島」(コオックムド)の名で記録があり、これが居金島の名の由来となったとされます。島内には金蔵(クムジャン)や益金(イックム)、古羅金(コラグム)など「金」(금:クム)が付いた地名、あるいは錦山や錦津港のように「金」と発音が同じ「錦」の付いた地名が点在しており、金脈との関係を指摘する説もあるようです。
 

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写真1枚目は、居金大橋を渡ってすぐの場所にある巨大なモニュメント。
このモニュメントのそばには広い駐車場に加え飲食店や売店などがある「道の駅」みたいな休憩施設(写真1枚目左に少し写っている建物)があります。
この休憩施設の中には、写真2枚目のレンタサイクル店、そして何台ものレンタサイクルが。私が調べた鹿洞のレンタサイクルとは、実はこちらのことだったのかもしれません。鹿洞にはタクシーが結構いますので、ここまでタクシーで移動して自転車を借りるという手もありそうです(返却後の鹿洞への移動に難儀しそうですが)。
 

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居金島内をしばらく走り、面事務所(日本の村役場に相当)のある錦山の街に到着。写真は「錦山教会」。
 

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ここ錦山地域に建つ写真1枚目の建物は「金一記念体育館」といい、日本では「大木金太郎(おおき・きんたろう)」のリングネームで知られる同島出身のプロレスラー、「頭突き王」金一(김일:キム・イル、1929-2006)氏を記念したスポーツ施設です。その正面には金一氏の石像も。
私もまたそうですが、本ブログをお読みいただいている皆様の中にも、現役当時の「大木金太郎」選手の勇姿をご記憶の方が少なくないことでしょう。
 

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玄関を入った突き当たりには、その名の通り広い体育館が。金一氏の写真が掲げられています。
 

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体育館の玄関ホールの左には、太極旗を背にし、いまにも得意の頭突きを浴びせようとする現役時代の金一選手の勇姿が。この日最初の目的地である「金一遺品展示室」の入口です。
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金一氏は1929年、全羅南道高興郡錦山面於田里(オジョルリ)、現在の金一記念体育館一帯を含む平地(ピョンジ)マウルにて生まれました。
身の丈185cmもの体躯を活かし、朝鮮戦争前後にはシルム(씨름:日本では「韓国相撲」とも呼ばれる格闘技)の選手として活躍。

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その後1956年には、国交樹立前にもかかわらずその名声が韓国にまで届くほど人気絶頂だった力道山(りきどうざん、1924-1963)に弟子入りしようと日本へ密航しますが、到着後に逮捕され収監。翌年になってようやく憧れの力道山と面会し、その第1期門下生となります。収監を解かれたのも、獄中からの手紙を受け取った力道山が政治家に働きかけ、その保証人となったからでした。
入門翌年の1958年、師匠が命名した「大木金太郎」のリングネームでデビュー。相手の頭をつかみ、片脚を上げ全体重をかけて頭突き(ヘッドバット)をする独特のスタイルが人気を博し、遅れてデビューしたジャイアント馬場アントニオ猪木の両選手とともに、力道山率いる日本プロレスで「若手三羽烏」と並び称されるようになります。
この頭突きはデビュー当時、日本での「朝鮮人は石頭」というステレオタイプの偏見から師匠の力道山が着想し、得意技とするため鍛えさせたことに始まったといいます。当時は隠していましたが、力道山もまた咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在は朝鮮民主主義人民共和国)出身のコリアンでした。
 

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1963年12月には師匠の力道山が暴漢に刺され、その傷がもとで急逝。折しも金一選手は米国での武者修行中で、葬儀への参列はおろか、保証人である力道山を失ったことで日本への再入国すらままならない状況となりました。その後1965年には韓国へ帰国、活躍の場を日本から移し、得意の頭突きを武器に「パッチギ(頭突き)王」の名をほしいままにします。またこの時期には数々のチャンピオンタイトルを獲得し、ついに1967年にはWWA第23代世界ヘビー級チャンピオンにまで登りつめ、韓国の英雄的存在となります。一方で国交樹立により再び入国可能となった日本でも引き続き古巣である日本プロレスの興行に参加しますが、馬場・猪木の2大スターの退団などにより日本プロレスは衰退、1973年に崩壊した後には彼らの率いる新団体への参戦と離反を繰り返すようになります。
そうした中で持病の悪化などにより1970年代後半あたりから試合の頻度は次第に低下、1980年代半ばには実質的な引退状態となってしまいます。この時期には現役時代の人脈を基に韓国でプロモーターとして活動しますが、韓国でのプロレス人気の凋落に加え手がけた事業はことごとく失敗。さらには長年にわたる頭突きの後遺症などによる疾患に苛まれ、徐々に活動の幅を狭めてゆきます。
日本での療養を経て1994年に帰国、入院。闘病生活の中でも1995年には東京ドームでのプロレスオールスター興行にて引退式が催され、金一選手は6万人ものプロレスファンに見送られました。また韓国でも2001年、かつて幾度となく熱戦を繰り広げたソウル・奨忠(チャンチュン)体育館で引退式が挙行されています。
そして2006年10月26日、慢性腎不全と心血管異常に伴う心臓発作により死去。77歳でした。

 

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「金一遺品展示室」にある金一氏の略歴。
現役当時、ソウル・貞洞(チョンドン)に金一選手専用の体育館を贈るほど熱烈なファンであった朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領から「何か願いはあるか」と尋ねられた際、「故郷の居金島に電気が引かれることです」と答えたことから、同島には他の離島に先んじて電気が通されたという逸話も残されています。

 

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 「金一遺品展示室」の室内。

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現役時代、リングヘの入場時に着用したガウン。
ガウンの脇腹から腰にかけて虎と竹、また背中にはキセルとサッカッ(삿갓:竹などで編んだ笠)がそれぞれ刺繍で描かれています。

 

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別のガウンとリングシューズ、そしてWWA世界ヘビー級チャンピオンのベルト(レプリカ)。1978年、当時のチャンピオンだったアブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher、1941-)選手を破り獲得したとあります。
 

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金一氏のパスポート。日本を含め海外遠征が多かったからか、出入国印やビザとみられるスタンプがいくつも押印されています。
 

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金一選手は、居金島の人々にとっては島の生んだ英雄として、そして韓国の人々にとって「永遠のチャンピオン」として記憶され、今日も敬愛されています。

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ご紹介した「金一遺品展示室」を含む「金一記念体育館」の開館時間は午前10時~午後5時、月曜休館。入場無料。前述した「鹿洞バス共用停留場」からだと最寄りのバス停である「錦山」まで直行するバスが4系統、合計で1日19便ほどあるようです(所要時間は40分前後)

金一記念体育館(金一遺品展示室)(김일기념체육관(김일유품전시실):全羅南道 高興郡 錦山面 居金中央キル 40 (於田里 1413-1)

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体育館のそばには「雲岩金一先生功績碑」、そして金一氏とその妻である朴今礼(パク・クムネ)氏の墓石が。
 

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功績碑と隣接して建つ「金一先生生家」。その割には新しく感じられます。再建されたものか、あるいは晩年に暮らしていた家なのかもしれません。
 

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金一記念体育館を出て、もと来た道を引き返します。
その道すがらの斜面では、居金島の名産のひとつであるフギョムソ(흑염소:黒ヤギ)さんたちが放牧されていました。
 

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再び居金大橋を渡って、小鹿島方面へ戻ります。
実はこの居金大橋、車道の下に歩行者や自転車専用の人道が設置されており、こうした2層式の橋は韓国初とのこと。行きがけにこちらを通らなかったのは、小鹿島側の道路に誘導案内がなかったこともあって、その存在を忘れていたためです(お恥ずかしいです……)。今度はもちろんこちらの人道を利用。脇を駆け抜ける自動車を心配することなく安心して走れますし、小鹿島や周囲の無人島(瀬)も落ち着いて眺められます。
 

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小鹿島側の突き当たりには、居金大橋建設時の写真パネル展示も。

そして小鹿島に再上陸。いよいよ、この日最大の目的地を探訪することになります。
それでは、次回のエントリーヘ続きます。

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