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新安の旅[201712_02] - 高速船で約2時間の離島「黒山島(フクサンド)」念願の初上陸、そして島内一周の旅

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)12月の全羅南道(チョルラナムド)を巡る旅、1日目(2017年12月1日(金))です。

 

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私が乗船した高速船(韓国では「快速船」と呼ぶ)「ニューゴールドスター」は、午後1時に木浦(モッポ)沿岸旅客船ターミナルを出航。写真はその船内。小さいですが売店も設置されています。

 

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客室全体が妙な緑色に染まっているのは、防眩のためか窓ガラスが緑色になっているため。

 

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木浦港を出てから50分ほどで、最初の寄港地である都草島(トチョド)の都草旅客船ターミナルに到着。
都草島は全羅南道新安(シナン)郡都草面(ミョン:日本でいう「村」に相当)に属する島で、新羅時代に寄港地であったこの島を訪れた唐(中国)の人が自国の首都の形に似ていると語ったこと、また一方で島内に雑草が繁茂していたことにその名が由来するとされています。
ちなみに写真があの妙な緑色に染まっていないのは、外のデッキから撮影したため。高速巡航中でない寄港の前後に限り、デッキが開放されていました。

 

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都草島を出航。写真は1996年に開通した「西南門大橋(ソナンムンデキョ)」。この橋で対面する都草島と結ばれているのは、島の形が猛禽類のような大きな鳥の飛ぶ姿に似ているとしてその名がついたとされる飛禽島(ピグムド。写真左側の陸地)です。
全島が新安郡飛禽面に属するこの飛禽島は、2016年のコンピュータ囲碁プログラム「AlphaGO」との対戦でその名を馳せた棋士李世ドル(이세돌:イ・セドル、1983-)九段の出身地としても知られ、島内には「李世ドルパドゥク記念館」(パドゥクとは「囲碁」の意)も所在しています。1日4往復ある高速船は都草旅客船ターミナルと飛禽島の水大(スデ)船着場のいずれかに交互に寄港します。

 

新安郡地図1

新安郡地図2
都草島や飛禽島を含む新安郡はその全域が島嶼で構成されており、これらの島と「陸地」(ユクチ。韓国では「本土」をこう呼ぶ)、あるいは先の西南門大橋のように島同士を結ぶ橋が続々と建設されています。この飛禽島からは東側に浮かぶ岩泰島(アムテド)との間に架橋計画があるほか、岩泰島とさらにその東側、新安郡庁の所在地である押海島(アッぺド)との間には、長さ世界第2位の斜長橋を含む全長約10.8kmもの長大橋「セ千年大橋」(セチョンニョンデキョ。セとは「新」の意)が建設中です(2018年12月開通予定)。押海島は架橋済みのため、これらがすべて完成すれば都草島も飛禽島も木浦から陸続きとなるわけです。

都草島と飛禽島の海峡を抜けると、穏やかな多島海の内海から一転して波が荒い外海の西海(黄海)へ。そのため、この区間で船酔いする人も多いようです。船が縦揺れする度に、客席からは歓声みたいな声が上がります。ただでさえ荒い外海、特に冬はその傾向が高まるため他の季節よりも欠航率が高いとのこと。今回の旅も12月ということで、乗船するまで気が気ではありませんでした。それにしてもこんな外海でもWi-Fiが普通に入るのですから全く恐れ入ります。

 

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木浦港を発ってから2時間あまり、ようやく目的地の島がその姿を現しました。

 

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定刻より25分遅れの午後3時15分、ついに目的地に上陸。
とうとうやって来ました。私にとってずっと憧れだった島、黒山島(흑산도:フクサンド)

 

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黒山島は西海海上に浮かぶ、面積19.7平方km、海岸線の長さ約41.8kmの島です。木浦港からの直線距離は約85km、近隣の小島を除けば最も近い飛禽島からでも40km近く離れており、絶海の孤島と言っても過言ではない場所です。島全域が「多島海海上国立公園」に属しています。
黒山島の名は、自生する樹木がほとんど常緑樹であるため年間を通じて島全体が黒(に近い濃緑色)に見えることに由来するとされています。島内の人口は約2,100人。紅島(ホンド)可居島(カゴド)など他の島を含めた新安郡黒山面全体だと約4,500人です(2016年現在)。
上の画像は、黒山島全体の地図です。以下、この地図を「上図」と呼びます。

 

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黒山島の歴史は先史時代にさかのぼります。島内では新石器時代のものとみられる貝塚が発見されており、また紀元3~4世紀に建造されたとみられる支石墓(ドルメン。韓国では「コインドル」と呼ぶ)が残されています。下って統一新羅時代の827年、豪族であり唐や日本との海上交通を支配した「海上王」張保皐(장보고:チャン・ボゴ、787-846)が莞島(ワンド)に清海鎮を設置して唐との交易を始めた際、一帯に出没する海賊から貿易船を守るための前哨基地として山城を築いたのが、黒山島に関する有史以降最初の記録です。この山城建設と前後して、黒山島に最初の住民が定着したとされています。その後朝鮮時代には流配(流刑)の地とされ、後述するように多くの人士がこの島での流刑生活を余儀なくされています。
日帝強占期と光復(日本の敗戦による解放)を経て、1960年代から70年代半ばには近海で獲れるホンオ(홍어:ガンギエイ)やチョギ(조기:キグチ)などの漁の盛況で発展を遂げます。当時、島最大の漁港がある曳里(イェリ。里は日本でいう「大字」に相当)では「波市(パシ)」と呼ばれた水産市場が各魚種の漁期ごとに開かれ、活気にあふれていました。最盛期には曳里港から隣接する鎮里(チルリ)まで船上を伝って歩けるほどだったといいます。
しかし、その後は漁業の不振などで衰退の一途をたどり、いつしか波市は思い出の中へ。とはいえ現在も島特産のホンオは最高級品としてその名を全国に知らしめており、また漁船の避難港となる台風シーズンには一時的に活気を取り戻すこともあるようです。

 

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高速船が着いた桟橋には、黒山島の北側に浮かぶ多物島(タムルド)への渡船が。この多物島をはじめ黒山島周辺にはいくつかの小島が点在しており、黒山港はこれら近隣の島々へのハブとなっています。

桟橋そばの黒山港旅客船ターミナルには、予約したホテルの方が出迎えにいらっしゃっていました。その手には私の名前が書かれた紙が。こうしたお出迎えは韓国では初めての経験です。なんだか照れますね。

 

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ホテルの車に乗り、5分ほどで到着したのは写真の「黒山ビーチホテル」(上図①)。鎮里の高台に建つ、島内唯一のホテルです。ネット予約不可、予約受付は電話のみというややハードル高めの施設ですが、私のつたない韓国語でも親切に受け入れてもらえました。ロビーにはKBS2の人気番組『1泊2日』ロケの記念パネルも。

 

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宿泊した黒山ビーチホテルの客室。程よく広くて清潔な部屋でした。

 

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最上階(5階)からの見事なオーシャンビューです。

 

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客室のバスルームにあった案内。「黒山島の水道水は鉄分含有量が多く多少濁ることがありますが、人体には何ら害を及ぼさないので安心してご使用ください」とあります。これまで見たことのない案内です。

 

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黒山島にはタクシーによる島内一周観光があります。これを呼んでもらうため再びロビーへ行ったところ、フロントの方(先ほど港まで迎えに来た方です)が気を利かせて、たまたま居合わせた宿泊客のご夫婦らしき男女と相乗りで利用することに。私にとっては一人あたりの料金が安くなるのでありがたいです。写真はそのとき乗車したタクシー。ドアには黒山島特産、ホンオさんの愛らしいキャラクターも。

 

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島内一周観光は、その名もずばり「黒山島一周道路」を反時計回りに巡ります。最初に訪れたのは「サンナリコゲ」(상나리고개:コゲは「峠」の意)を登った先にある「黒山島アガシ歌碑」(上図②)。李美子(이미자:イ・ミジャ、1941-)さんの1965年のヒット曲「黒山島アガシ」(흑산도 아가씨:アガシは「お嬢さん」の意)を記念して1997年に建てられたものです。手形は2012年に李美子さんが公演のため黒山島を訪れたとき追加されたもの。

 

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「黒山島アガシ歌碑」のそばには、前述した張保皐が9世紀に築いた山城「上羅山城」(サンナサンソン。別名「半月城(パノルソン)」)跡が残る「上羅山」(サンナサン、230m。上図③)があります。ご一緒した二人と一緒に、登山道と思しき坂道を少しだけ登ってみました。
上羅山の山頂には当時の烽燵台(ポンスデ。のろしを上げる台)と祭祀の遺跡が残っているそうですが、どこまで登ればよいのか分からないうえ、運転手さんをひとり残していたので途中で断念。写真2枚目はそのとき撮影した鎮里の街と曳里港。遠くには多物島(中央)と大屯島(テドゥンド。右側の防波堤の向こうの島)が見えます。

写真2枚目にわずかに写っていますが、「黒山島アガシ歌碑」のあるサンナリコゲには峠を上りきるまで12回も屈曲を繰り返す「ヨルトゥコゲッキル」(열두고갯길:「十二の峠の道」の意)と呼ばれるつづら折りの坂道があり、黒山島でも有数の名所となっています。

 

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黒山ビーチホテルからサンナリコゲのあたりまでは鎮里にあたりますが、峠を下った先からは島の西海岸にあたる「比里(ピリ)」に入ります。その海岸沿いに出てまもなく、写真の案内板が車窓に現れます。

 

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道路から見下ろした海岸にあるこちらの岩は「地図(チド)バウィ」(バウィは「岩」の意。上図④)といい、波の浸食作用で生じた穴が偶然にも朝鮮半島韓半島)の姿にそっくりだとして名付けられたものです。写真2枚目は穴を拡大したものですが、本当によく似ています。

 

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地図バウィの背後に写っていた島は長島(チャンド)。島の形が長いことからその名がついたとされるこの島には、約400種の植物に30種の蝶など多様な生物が生息し、ラムサール条約の登録湿地にもなっている「長島湿地」があります。写真2枚目は先ほどの上羅山への登山道で撮影した長島の全景。

 

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比里の海岸沿いの一周道路には数百mほど壁画が続く場所があり、よく見るとその上に柵に囲まれた歩道らしきものが張り出しています。
こちらは「ハヌル道路」(ハヌルとは「空」の意。上図⑤)といい、長島が眺められる西海岸沿いの崖に観光歩道として設けられたものです。写真からも分かるように、この一帯は黒山島の最高峰である門岩山(ムナムサン、400m)山頂から海辺まで続く断崖上であるため橋脚が立てられず、H型鋼を水平に打ち込むことで設置が実現できました。こうして生まれた橋脚のない橋が、あたかも空中に浮かんでいるかのようだとしてその名が付けられたとのことです。

 

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比里を過ぎると、島南部の「深里(シムニ)」に入ります。
この深里と、島南東部の「沙里(サリ)」との里境上にある峠「恨多嶺」(한다령:ハンダリョン)を登りきった場所には、写真の「黒山島一周道路完工碑」(上図⑥)が建てられています。
今回の一周観光のルートでもある黒山島一周道路は、1984年の着工から実に26年もの工事期間を経て、2010年3月にようやく全線開通を見ました。これを記念した碑に立つ天使の像は、黒山島と一周道路を守る守護神を象ったものです。碑の下にある数字「1004」は、新安郡を構成する多島海の島々の数を表わしています。

 

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恨多嶺からの景色。つづら折りの峠道「コブランコゲ」(꼬부랑고개。「曲がりくねった峠(道)」の意)が見下ろせます。先ほどのヨルトゥコゲッキルが12の屈曲ならば、こちらのコブランコゲは恨多嶺を挟んで15もの屈曲で構成されています。黒山島一周道路が26年もの難工事となった理由が伝わってくる光景です。遠くに見えるのは深里港の防波堤。

 

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恨多嶺を越えて、沙里の集落に到着。
前述したように、ここ黒山島は朝鮮時代には流刑の地とされ、罪を犯した人々が数多く送られてきました。それら流刑者の中でも特に知名度が高いのが、実学思想の集大成者とされる丁若鏞(정약용:チョン・ヤギョン、1762-1836。号は茶山(タサン))の次兄であった朝鮮時代後期の文人、丁若銓(정약전:チョン・ヤクチョン、1758-1816。号は巽菴(ソナム))です。

 

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若銓と若鏞の兄弟はともにカトリック教徒でしたが、若鏞を重用していた朝鮮の第22代国王、正祖(정조:チョンジョ、1752-1800)の死後まもなく激化したカトリック弾圧のため、若銓は全羅南道莞島(ワンド)郡の新智島(シンジド)に、また若鏞は現在の慶尚北道キョンサンブット)浦項(ポハン)市にそれぞれ流刑させられました。
さらに1801年、同じくカトリック教徒だった長兄の娘婿の黄嗣永(황사영:ファン・シヨン、1775-1801)が、カトリック弾圧への抵抗のためフランスの軍隊を引き入れての国家転覆を企図した罪で処刑されると、若銓・若鏞兄弟も事件との関連を問われ、若銓は絶海の黒山島、また若鏞は全羅南道の南端に近い康津(カンジン)と、一層過酷な場所へ流刑させられます。
丁若銓は黒山島にて書堂(日本の寺子屋に相当)を開き後学を育てつつ、1814年には島の近海に棲息する魚類や貝類、海藻類などの生態に習性、さらには調理法までも記録した『茲山魚譜(チャサノポ)』を執筆。この『茲山魚譜』は朝鮮初の海洋生物学専門書として、今日も高い評価を得ています。しかし生涯流刑を解かれることはなく、1816年に黒山島にて亡くなっています。なお若銓と若鏞は、それはもう仲睦まじい兄弟だったそうで、ともに流刑の身である互いの境遇を案じつつやり取りした手紙も今日まで残されています。

 

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「沙村書堂(サチョンソダン)」、またの名を「復性斎(ポクソンジェ)」と呼んだ丁若銓の書堂があったのがここ沙里であり、集落内には書堂が復元されているほか(一周道路からは外れているため今回は寄れませんでした)、一周道路沿いには案内板や碑石に加え公衆トイレが書堂建立当時の住宅のような藁葺き屋根風で仕上げられた「流配文化公園」(上図⑦)があります。写真3枚目は丁若銓の遺した五言律詩「漁火拈杜韻(オファニョムドゥウン)」を刻んだ碑石。
このほか、朝鮮時代末期から大韓帝国期にかけての政治家であった崔益鉉(최익현:チェ・イッキョン、1834-1907。号は勉庵(ミョナム))もまた、1876年の「江華島条約」に反対した罪で黒山島での2年間の流刑生活を余儀なくされました。黒山島では丁若銓と同様、鎮里に「一心堂(イルシムダン)」という書堂を建て、後学の養成に携わっています。

 

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沙里の観光スポットとしてはもうひとつ、路地沿いに並ぶ写真の石積みの塀(韓国では「タム牆(ジャン)」という)が挙げられます(写真中央の石垣)。これらは海風の強い島の環境に合わせて築かれたもので、「新安黒山島沙里マウル旧タム牆」として国家指定登録文化財第282号にもなっています。

 

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沙里にある小さな漁港には大小7つの岩が取り囲むように配置され、天然の防波堤を形成しており、これらの岩は兄弟に見立てて「七兄弟(チリョンジェ)バウィ」(上図⑧)と呼ばれています。

この七兄弟バウィには、ひとつの伝説があります。
昔、ここ沙里にある母親と7人の息子が暮らしていました。父親はすでに亡く、母は海女の仕事をして7人の息子たちを養っていました。ある年のこと、大きな台風が襲来したため母親が漁に出られないでいると、7人の息子は次々と海に入り、両手を広げて波を防いでくれたといいます。そして息子たちはそのまま石化してしまい、今日も沙里の港を守る七兄弟バウィになったということです。

 

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沙里からは東海岸沿いに北上し、ホテルヘ。約1時間半の島内一周の旅でした。このときの1人あたりの料金は15,000ウォン(約1,580円:当時)。かなりお得感があります。
写真は沙里からの帰り道、東海岸の沖に浮かぶ永山島(ヨンサンド)

 

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黒山ビーチホテルの宿泊には夕食と朝食が付きます。夕食の午後6時までもう少し時間があるので、ホテルのある鎮里の街をちょっとだけ散策することしました。
鎮里の名は朝鮮時代中期の1678年、この地に黒山鎮営(チニョン。地方に設置された軍事拠点)が設置されたことに由来します。日本でいう村役場に相当する面事務所もある黒山島の中心地ですが、旅客船が発着し飲食店や民宿も多い曳里に比べると閑散としている感があります。

 

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鎮里の船着場。曳里港(漁港)からは直線距離で700mあまり離れているこの一帯も、波市が盛んだった頃は漁船や仲買船などで埋め尽くされていたのかもしれません。

 

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旅客船が発着する黒山港、漁港である曳里港、そして鎮里の船着場。これらが面する湾は内栄山島(ネヨンサンド。写真左)と外栄山島(ウェヨンサンド。写真右)という2つの小島が取り囲むように位置し、これまた天然の防波堤を形成しています。
そんな湾の真ん中に、一隻のイカ釣り漁船と思しき船が停泊していました。そのまばゆい光がどことなく情感を漂わせています。水面に反射する漁火、もうすぐ黒山島に夜が訪れます。

いよいよお待ちかねの夕食ですが、構成上の都合により今回はここまでといたします。
次回のエントリーでは今回の続きのほか、高速船の予約方法を含む黒山島の旅のTipsも紹介する予定です。ご期待ください。

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