Twitter https://twitter.com/gashin_shoutan の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

木浦の旅[201902_01] - 孤児のために生涯を捧げた韓日夫婦を称え記憶継承する「木浦共生園 尹致浩尹鶴子記念館」

今回はちょうど1ヵ月前(2019年2月21~24日)に訪問したばかりの全羅南道(チョルラナムド)木浦(モッポ)市などの旅を紹介したいと思います。
というのも、この旅で訪問した木浦市内のある施設に関するツイートヘの反響が大きかったことに加え、旅の途中で体調を崩してしまい現地で満足なツイートができなかったためです。
本来であれば昨年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の続きを紹介すべきところですが、こちらについては次回エントリー以降に引き続き紹介してまいります。

 

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1日目、2019年2月21日(木)。
本年(2019年)初となる渡韓はエアプサンを利用しての釜山・金海(キメ)空港入り。
このまま釜山でうんまい料理を食べ歩きたいところですがぐっとこらえて、今回は金海空港からも近い沙上(ササン)にある釜山西部(ソブ)バスターミナルより高速バスに乗り込みます。

 

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2時間半ほどで到着したのは木浦と同じ全羅南道順天(スンチョン)市の順天総合バスターミナル。時計は午後8時10分を指しています。
ここ順天は韓国南海岸沿いでも随一の交通の要衝であり、直行する高速バスが釜山・木浦ともに多数発着しています。実は釜山西部からも木浦行きの直行バスは出ているのですが、本数が少ないうえ所要時間が順天乗換と大差ないようで(別のターミナルを経由するらしい)、そうした理由から釜山着が午後4時台だと木浦着はどんなに早くとも午後10時過ぎとなってしまうのです。
そんなわけで1日目の木浦入りは断念し、順天で宿泊することに。もっとも、それは順天にまた別の楽しみがあるからでもありますが。


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バスターミナルから徒歩約5分のホテルに荷物を置き、向かったのはこれまたホテルから近い在来市場、アレッチャン。「下の市」を意味する名前のこちらの市場で末尾が2・7の日になると開催される五日市は、全羅南道はもとより韓国でも最大級のもののひとつとされています。

 

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このアレッチャンのほぼ中央にある屋根付き広場に面する、以前にこちらのエントリーでも紹介したジョン(日本でいうチヂミ)専門の酒場「61号(ユクシビロ)ミョンテジョン」がこの日の目当てのお店です。ちなみに屋号の「61号」とは市場内での店舗の通し番号なのだとか。

 

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今回注文したのはクルジョン(굴전:カキのチヂミ)、続いて屋号にもなっている名物のミョンテジョン명태전:スケトウダラのチヂミ)。どちらもうんまい。中でも後者はミョンテの身が衣よりも多いのではという勢いで入っており、今回を含む過去3回の訪問ですべて注文しています。

 

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こちらのお店のもうひとつの楽しみは、扱うマッコリの種類がやたら多いこと。
過去3回の訪問で計7本注文したマッコリのうち、6本は異なる種類だったという(「いま飲んだのと別の種類をください」と頼んでいるからでもありますがそれにしても6種はすごいですよね……)。地元はもちろん近隣の麗水(ヨス)市や高興(コフン)郡のブランド、またフレーバーではプレーンのほかフンマヌル(흑마늘:黒ニンニク)や黄漆(황칠:ファンチル。チョウセンカクレミノ)なども多種多様な取り扱いがあります。

 

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そうした幸せ気分の中にも今回ひとつだけ残念だったのは、順天湾の干潟名産のチルルッケ(찔룩게:ヤマトオサガニ。学名:Macrophthalmus japonicus)をまるごと揚げた「チルルッケティギム」(찔룩게 튀김:お店のメニューには「チルルッケ」とのみ表記。写真は2018年10月、同12月撮影)があいにく品切れだったこと。
こちらの店が元祖だというチルルッケティギム、1匹のサイズこそサワガニ程度なのですが、見た目以上に身が詰まっていて猛烈にうんまいのです。訪問時刻(午後8時半くらい)が遅すぎたのか、それとも季節要因でしょうか。とはいえこれからも訪問するつもりなので、めげずに次回を楽しみにしたいと思います。

 

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こちらのお店「61号ミョンテジョン」の営業時間は午前9時~午後9時、金・土曜日は夜市場の開催時間にあわせて午後10時まで延長されるようです。
お店のあるアレッチャンへは、Korail「順天」駅からであれば駅正面の「順天駅(순천역)」バス停より市内バス(このバス停であればどの路線でもOK!)に乗って2つ先の「アレッチャン(아랫장)」バス停(所要約7分)で下車、徒歩約4分(約250m)全行程徒歩でも約17分(約1km)です。順天総合バスターミナルからは徒歩約10分(約600m)
お店が面するアレッチャン中央の屋根付き広場は、毎週金・土曜日の夜に開催される夜市場(ヤシジャン)ではメイン会場となり、天井でまばゆい光を放つミラーボールの下に多くの飲食屋台と無数の簡易飲食テーブルが並べられる場所です。しかしそのいずれでもないこの日(木曜日)の夜は薄暗いうえ店周辺以外に人気はなく、独特の情感漂う雰囲気が楽しめます。初訪問の夜市場のときも楽しかったですがこういう雰囲気も好きです。
私にとっては、もはや順天を訪れる理由のひとつのお店です。

61号ミョンテジョン(61호 명태전:全羅南道 順天市 長坪路 60 (豊徳洞 1264) アレッチャン内)

 

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61号ミョンテジョンを出てもまだ午後9時台でしたので、少し足を伸ばして順天の中心街、かつての「順天府邑城(スンチョンブ・ウプソン)」一帯へ行ってみました。写真は旧順天府邑城の南側を流れる小川、玉川(オクチョン)。ライトアップされた川べりに立つイルミネーションのツリーには「2019순천방문의해(順天訪問の年)」とありました。順天市の市制施行70周年を迎える本年・2019年は「順天訪問の年」と銘打ち、史上初の年間観光客数1,000万人突破を目指すとのことです。かくして私もその1,000万分の1となりました。

 

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明けて2日目、2019年2月22日(金)の朝。再び順天総合バスターミナルへ。
こちらには写真(2枚目に限り2018年10月撮影)のようにコインロッカーが豊富にあります。ただ後日実際に利用して分かったのですが、こちらのコインロッカーは現金が投入できず、したがって「T-money」のような交通カードがないと利用できないので注意が必要です(クレジットカードもOKですが韓国国内で発行された「信用カード」限定なので日本からの旅行者には実質利用不可です)
韓国の地方旅に際し、コインロッカーの有無は極めて重要な情報です。韓国の地方の駅やバスターミナルにはコインロッカーがないことが多く、その有無が旅程を左右することさえ珍しくないからです。私が韓旅に際し参考としている某ブログでは、その執筆者さんが訪問地の駅やバスターミナルでのコインロッカー情報を積極的に紹介されていたおかげでかなり助けられました。私もできる限り訪問地のコインロッカー情報を提供してまいりたいと思います。

 

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この日はわずかでも長く木浦の街歩きをするため、夜明け前の午前6時50分に順天を発つ木浦行き高速バスの始発便に乗り込みます。

 

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約1時間半で木浦総合バスターミナルに到着。木浦は一昨年(2017年)の12月以来およそ1年3ヵ月ぶりの訪問です。前回は黒山島(フクサンド)行き高速船の時間待ちを兼ねた1時間半程度の街歩きでしたが、今回は1泊2日、約30時間の滞在でじっくりと木浦の街を踏査します。

 

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木浦総合バスターミナルの内部、そしてコインロッカー。
ただこちらのバスターミナルは、今回の主探訪地である旧市街(韓国語では原都心(ウォンドシム)という)から離れた場所にあるため、ここではコインロッカーは利用しませんでした。

 

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さてこの日の午前中は、バスターミナルも位置する木浦市北東部の各種スポットを訪問しました。いつもならば時系列でそれらを紹介するところですが、今回の旅ではあえてテーマ別に紹介することとし、それら午前中の訪問地は後のエントリーに譲ることといたします。
そんなわけで時間はあっという間に正午過ぎ。まずはKorail木浦駅構内のコインロッカー(写真)に、それまで引きずってきたキャリーバッグを預けます。

  

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木浦駅前からは市内バスに乗車。13分ほどで到着したのが、写真の児童福祉施設「木浦共生園(モッポ・コンセンウォン)」です。

 

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日帝強占期の1928年に創設されたこちらの施設を訪問したのは、その創立者である夫・尹致浩(윤치호:ユン・チホ、1909-1951?)、および妻・尹鶴子(윤학차:ユン・ハクチャ、1912-1968)両氏の生涯を紹介し功績を称える展示施設「尹致浩尹鶴子記念館」を見学するためです。

まずは施設の紹介に先立ち、創立者夫婦の生涯を紹介したいと思います。
以下、本エントリーでの説明は木浦共生園のホームページ、「尹致浩尹鶴子記念館」の展示パネルおよび日本語リーフレット、そして園長様をはじめ職員の皆様から直接伺ったご説明を参考としております。また年齢はかつて韓国で一般的であった数え年(生年を1歳とし、新年の毎に1歳ずつ加算する)ではなく、満年齢にて表記します。

 

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夫の尹致浩氏は、1909年6月13日に全羅南道咸平(ハムピョン)郡の玉洞(オクトン)マウル(村、集落の意)にて出生。9歳で迎えた1919年3月1日には咸平市場で「3.1運動」に参加した経験もあります。14歳のとき父の死により否応なく家長となり、母ときょうだい全5人の家計を支えるようになります。

 

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1920年には玉洞礼拝堂にいた米国人のジュリア・マーティン(Jullia Martin、1869-1944。韓国語名マー・ユルリ(마율리))宣教師と出会い、初めてキリスト教の教えに触れることとなります。その後ソウルの皮漁善(ピオソン)記念聖書学院(現・平沢大学校)での3年間の修学を経て、ここ木浦の陽洞(ヤンドン)教会にて伝道師として活動します。写真は現在の「木浦陽洞教会」(1911年築、国家指定登録文化財第114号)。
1928年には身寄りのない7人の子どもたちを家に連れてきて共同生活を始め、これが共生園のスタートとなりました。

 

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一方、妻の尹鶴子氏は日本人であり、元の名前は田内千鶴子(たうち・ちづこ)といいます。

 

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尹鶴子氏は1912年10月31日、現在の高知県高知市生まれ。6歳のときに父が朝鮮総督府への転勤を命ぜられたため、家族とともに木浦へ。これ以降は生涯のほとんどを木浦にて過ごすようになります。1929年に木浦高等女学校を卒業、1932年には木浦貞明女学校の音楽教師に。写真2枚目はこの翌日に訪問した、木浦貞明女学校の後身である木浦貞明女子高等学校校内の「木浦貞明女子中学校旧宣教師私宅」(1912年築、国家指定登録文化財第62号)、3枚目は氏がこの頃通っていたとされる「旧木浦日本基督教会」(1922年築、国家指定登録文化財第718-6号)です。
共生園でのボランティア活動中に尹致浩氏と出会い、1938年に結婚。このときから夫の姓に自分の日本名の一部を合わせた「尹鶴子」の名を用いるようになります。

1945年8月15日、光復(日本の敗戦による解放)。朝鮮を暴力で支配し続けてきた日本人たちは必然的に朝鮮半島韓半島)を追われることになります。日本人と夫婦であるために「親日派」(日本および植民地支配への協力者の総称。日本語の「親日」とは意味が異なるので注意)として近隣住民たちの排撃を受ける夫の身を案じ、尹鶴子氏は翌1946年に帰国。夫婦にも子どもたちにとっても過酷な運命でしたが、それまで官民間わず日本人たちが犯してきた植民地支配や収奪の罪を考えれば、私を含むその末裔、同じ社会構成員の立場で住民たちの行動を非難することは許されません。
しかし、一人で共生園を運営しなければならない夫、そして何より木浦に残さざるを得なかった子どもたちのことがどうしても心配で、1948年には意を決して再び木浦の地を踏みます。夫ともども周囲の厳しい視線にさらされる中、共生園の子どもたちに励まされつつの新しい船出となりました。

 

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それから2年後の1950年6月25日、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)が勃発。不意を突いた朝鮮人民軍による破竹の進撃を目前に多くの市民が避難する中、夫婦は子どもたちを置き去りにできないとの理由で木浦に残ることを決意します。
朝鮮人民軍はまもなく、釜山周辺および済州島など島嶼部を除く韓国全土を占領。その占領下では人民裁判が開かれ、警察官や右翼人士、その他李承晩(이승만:イ・スンマン、1875-1965。大韓民国初代大統領)政権に協力的とされた数多くの市民が死刑判決を受けて銃殺されました。
夫婦もまた人民裁判にかけられますが、このとき助命を嘆願し死の淵から救ったのは、かつて夫婦を排撃しつつもその後の献身的な活動に感銘を受け、再び共同体の一員として受け入れた近隣住民たちでした。写真はその前年、1949年に近隣住民たちによって寄贈された「共生園二十週年紀念碑」です。

 

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まもなく木浦は韓国軍によって奪還されますが、安心したのも束の間、今度はその韓国軍に夫が拘束されます。人民軍占領下で地域の人民委員長に任命されたことがその理由でした。
苦難続きだったのは夫婦だけではありませんでした。戦争に伴う物資不足、とりわけ食糧は極度の窮乏状態に陥ります。餓死の危機に瀕する500名もの共生園の子どもたち。これを救うべく、釈放されたばかりの尹致浩氏は食糧支援申請のため、当時は光州(クァンジュ)にあった全羅南道庁(写真)へ赴きます。
しかしその道中、尹致浩氏の消息は途絶えます。そして、再び共生園へ帰ってくることはありませんでした。

尹鶴子氏は失意の中にも、決して子どもたちを見捨てはしませんでした。夫の帰りを信じつつも自分一人で共生園を運営し、500名の子どもたちを育てることを決意します。とはいえ一人でできる範囲には限界があるため、他のキリスト教団体の手助けを得ながら。園の創立以来ずっと夫が務め、行方不明となった後も名義を変えなかった園長職を外部の人に譲ったのもこの時期でした。

 

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休戦後は各方面からの支援もあって、共生園の運営はようやく軌道に乗りはじめます。この当時は義務教育でなかった中学校に、園のすべての子どもたちを進学させられるほどの余裕も出るようになりました。そうした中で尹鶴子氏は夫が着手し、窓枠まで組み上がっていた建物の工事を受け継ぎます。1961年に落成したその建物こそが、まさに現在の「尹致浩尹鶴子記念館」です。
尹鶴子氏は1963年には大韓民国文化勲章を、その2年後には木浦市より「第1回木浦市民の賞」を受賞。その間の1964年には園長職を引き受けています。創立してから共生園で育った子どもの数は、いつしか累計3,000名を突破していました。

そして1968年10月31日、尹鶴子氏逝去。奇しくも56歳の誕生日である、まさにその日の出来事でした。
その葬儀は木浦市発足以来初めての市民葬として挙行され、会場となった木浦駅前広場には3万人もの市民が弔問に訪れたといいます。
その後は長男の尹基(윤기:ユン・ギ)氏が園長職を継承し、日本を含む国内外の支援を受けつつ規模を拡大。現在は木浦共生園をはじめとする児童福祉事業のほか障害者福祉事業など、そして日本でも関西地区や東京にて在日コリアンを主な対象とした高齢者福祉施設を運営しています。

 

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それでは、「尹致浩尹鶴子記念館」を含む木浦共生園の訪問記に戻ります。
記念館は、尹鶴子氏の生誕100周年にあたる2012年に開館した展示施設です。観覧は予約制であり、事前に電話での日時指定が必要です(方法は後述します)。今回はこの日(2月22日)午後1時に予約を入れていました。
結果的に遅刻してしまったにもかかわらず(園には時間前に到着したのですがまず事務室へ行くべきところを誤って先に記念館へ行ってしまいました……)、男女2名の職員の方は温かく出迎えてくださいました。うち女性の方は日本語が話せるため、男性の方の通訳も兼ねています。
そして記念館では、現在の木浦共生園園長であり、尹致浩・尹鶴子夫婦の孫(長女の娘)である鄭愛羅(정애라:チョン・エラ)園長による日本語でのご解説の下に観覧することができました。

 

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記念館の玄関にあった、1995年制作のキム・スヨン監督による韓日合作映画『愛の黙示録』(韓国語タイトル:사랑의 묵시록)のポスター。
石田えりさんが尹鶴子氏を演じたこの映画は、1998年の韓国における大衆文化開放措置により最初に輸入許可を受けた作品でもあります。
記念館を訪問したすべての観覧者は、まず展示物の観覧に先立ち共生園の歴史に関する20分ほどの映像を観る決まりになっています。その中でも『愛の黙示録』のシーンが多用されていました。

 

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そして館内へ。どうしても現地を訪問して直に観覧いただきたいという思いがあるため、館内展示物の写真については以上で紹介した範囲に留めることといたします。

 

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玄関から見て展示室の反対(右側)にある部屋には、韓日の政治家・著名人などによる色紙が飾られていました。写真2枚目はそれらのうち、訪問当時は全羅南道知事だった李洛淵(이닉영:イ・ナギョン、1952-)現・国務総理(首相に相当)の色紙。余談となりますが、昨年(2018年)5月に光州広域市にて開催された「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の追慕式で、戒厳軍に殺害された市民軍の一人である尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士の発言「今日、我々は敗北するだろう。しかし、明日の歴史は我々を勝利者にするだろう」の引用を含む感動的な演説を披露された方でもあります。
これら色紙の寄贈者には現職を含む歴代の駐韓日本大使も含まれ、退任後にその著書やTVのコメンテーターとして今日も韓国(人)への憎悪を振りまく前駐韓大使の色紙もありました。いたたまれない気持ちになりましたが、同じ社会の構成員でありそうした現状に歯止めをかけられない無力な存在である以上、払もまた消極的加担者に他なりません。

 

f:id:gashin_shoutan:20190226223138j:plain鄭愛羅園長とは記念館にてお別れし、続いて職員のお二方により園内をご案内いただきます。
写真は尹致浩・尹鶴子夫妻の胸像碑。2003年の創立75周年記念式典に際して建立されたものです。

 

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敷地中央に建つ写真の建物は講堂で、海岸に打ち上げられた木造船の船体などを材料に、尹致浩氏が10年を費やして手作りした建物がその前身となっています。現建物はその後改築されたものであり、中央部の石造アーチだけが当時のまま残っています。

  

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講堂の裏手、写真の向かって左側の白い建物は1969年、NHKの番組に出演された尹基園長(当時)の話に感激した日本航空JAL)の会長が寄贈した建物で、その縁で「JALハウス」と呼ばれています。現在は卒園生たちのゲストハウスとして用いられているそうです。 

 

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講堂の奥にある写真の建物は1975年に建てられたもので、大阪の社会福祉法人の会長が共生園を訪問した際、子どもたちが狭い仮設の食堂にて3交替で食事しているのを見かねて、ある社長に頼んで造らせたもので、その社長の姓と名から1字ずつを取った「大一食堂」と呼ばれています。現在は木浦共生園の事務室に用いられています。

 

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園の西端にある写真1枚目の建物は「児童宿舎大阪愛の家」といい、「大一食堂」と同じ1975年、尹基園長(当時)の妻を励ますための大阪市民の募金により建てられたもので、韓国初のマンション型児童宿舎であったそうです。
建物の右手前にある石碑には「사랑이 있는 한 인간의 내일은 걱정이 없다」(愛がある限り人間の明日は大丈夫)という尹致浩氏の座右の銘が刻まれています。

 

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共生園の敷地の中央部には、日韓の政治家や企業などによる記念樹の植えられた庭園があります。
それら記念樹の中には、小渕恵三元首相や日韓議員連盟の常任理事でもある二階俊博氏など自民党の所属議員によるものもありました。職員の方は解説に際し謝意を述べられていましたが、私個人はこうした行為を特に評価しません。園訪問を含むこれらの行為は、数多くの戦災孤児を生んだ朝鮮戦争の間接的原因である植民地支配の加害国の政府関係者として当然なすべきことだからです。
また個々人が園訪問や記念樹贈呈などにより友好の意を示そうと、一方で同じ自民党所属議員たち、そして彼らが政権与党を担う日本政府の閣僚たちはその首班から率先して、事ある毎に韓国(人)を侮辱し憎悪を扇動している現状があるからです。「慰安婦」問題に代表される植民地支配下戦争犯罪について形ばかりの謝罪をしても、閣僚や所属議員がそれを糊塗してあまりあるほどの被害者侮辱発言を繰り返してきたことは、その最たるものだといえるでしょう。

私は個人的な見解として、いかなる日本人も植民地支配の加害者たる「日本人」の末裔だという一点において日本と韓国との間の「かけはし」とは決してなり得ない、少なくとも日本人にそのような考えを抱く資格はないとの考えを抱いています。それは尹鶴子氏に対しても例外ではありません。
私が知る限り、尹鶴子氏は日韓の「かけはし」となろうとしたのではありません。一人の人間として孤児たちを死の淵から救うために夫とともに共生園の運営に奔走し、日本に戻った後も決して歓迎されないと分かっている光復後の木浦へ再び渡り、そして夫の亡き後も命尽きるその日まで共生園とそこに生きる子どもたちを支え、韓国の土となりました。その点で氏は日本人「田内千鶴子」以上に韓国人「尹鶴子」であり、同時に国籍や民族を超越した一人の人間であったと私は考えています(そのため本エントリーでは専ら氏の名前を「尹鶴子」と表記しています)。その意味で私は尹鶴子氏に畏敬の念を抱くともに、共生園を創立し園の発展と子どもたちのために尽力してきた尹致浩氏、そして夫婦が生涯を捧げた活動を記憶しその遺志を継承する木浦共生園の職員の方々に強い敬意を抱き、今回の訪問を決意した次第です。

これとあわせて私は、尹鶴子氏など一握りの事例を挙げて「日本は朝鮮に良いこともした」論の補強材料としようするすべての者を、心底軽蔑します。それは過去の加害を直視せず植民地支配を美化するための暴論でしかなく、その支配下で傷つけられ殺された方を、ひいてはすべてのコリアンを侮辱するものです。

 

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最後に、今回の訪問で最も強く記憶に残った展示物をひとつ紹介いたします。
それは記念館にあった、尹鶴子氏の母である安岡春(やすおか・はる)氏の言葉を紹介した展示パネルです。

結婚は国と国がするものではない。人と人がするものだ。神の国では日本人も朝鮮人もなくみんな兄弟姉妹なんだよ

その言葉が、胸に深く突き刺さります。 

 

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「尹致浩尹鶴子記念館」は入館無料ですが、前述したように事前の電話予約(観覧日時指定)が必要です。とはいえ日本語の話せる職員の方もいらっしゃるので、決してハードルは高くないものと思います。
木浦共生園などを運営する社会福祉法人共生福祉財団のこちらのページによると、観覧できる時間帯は午前9時~午後6時、電話番号は061-242-7501(日本から電話する場合は「+82-61-242-7501」)。

 

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「木浦共生園」へのアクセスは、私も利用した市内バス<1>番(写真1枚目)、または<1A>番のご利用が便利です。
木浦総合バスターミナルからであればすぐ前の「市外バスターミナル(시외버스터미널)バス停から約27分(28番目)、またkorail木浦駅からであれば駅前の「木浦駅(목포역)」バス停から約13分(16番目)で到着する「共生園(공생원)」バス停(写真2枚目)で下車、目の前です。
鄭愛羅園長とご案内いただいたお二方をはじめとする木浦共生園の職員のみなさま、私の観覧に際し懇切丁寧にご対応いただき、本当にありがとうございました。一人でも多くの日本人が木浦共生園を、尹致浩尹鶴子記念館を訪問することを切に願っています。

木浦共生園 尹致浩尹鶴子記念館(목포공생원 윤치호 윤학자 기념관:全羅南道 木浦市 海洋大学路 28 (竹橋洞 473-1)。観覧予約電話番号:061-242-7501) [HP]

それでは、次回のエントリーへ続きます。

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