かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

新安の旅[201712_03] - 2年越しの念願のあの場所へ、そして島特産のホンオフェに舌鼓を打つ黒山島の夜

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)12月の全羅南道(チョルラナムド)を巡る旅の1日目(2017年12月1日(金))、新安(シナン)郡の黒山島(フクサンド)訪問記の続きです。

午後6時。この日の宿である「黒山ビーチホテル」の夕食の時間です。
ホテル1階の食堂にはこの日の全宿泊客が集合。私のほかは島内一周観光でご一緒した夫婦らしき男女、そして50代前後とみられる男女7人ほどのグループ。ホテルの近くには飲食店がないので、みんな待ちかねていたのでしょう。

 

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運ばれてきた料理。美しい菱形に並べられます。
ここで初めて従業員と思しき方が登場しますが、私を港まで迎えに来て島内一周観光タクシーを手配してくださった男性も配膳を手伝います。やはりこの方がサジャンニム(直訳は「社長様」。ここでは「主人、オーナー」の意)なのでしょうか。

 

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料理は総じておいしかったのですが、中でも特によかったのは写真2枚目、近隣の多島海名産のウロク(우럭:クロソイ)と思しき焼き魚、そして3枚目のヘムルポックム(シーフードの炒め物)。
しかし、この日はこの後にも食事を予定していました。黒山島に来たからには、どうしても口にしたいあの特産品です。そのため焼き魚やヘムルポックムなどメインの料理は完食しつつも、パンチャン(おかず)については少しだけ残さざるを得ませんでした(すみません……)。

旅客船ターミナルがあるため飲食店が集中する曳里(イェリ。里は日本でいう「大字」に相当)までは徒歩で20分近くかかります。タクシーを呼んでもらうようお願いしたところ、なんとホテルの車に乗せて無料で連れて行ってくださることに。承諾したのも運転も、やはりあのサジャンニムらしき男性。ホテルと名のつく施設で一人の方がここまで何役もこなすのは初めての経験です。

 

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曳里に到着。すでにあたりは真っ暗です。
この日2度目の夕食の前に、黒山島に来たらどうしても行きたかった場所へ向かうため裏路地を進みます。

2015年11月、ある方のツイートに添えられた韓国のどこかの街角の写真がたまたま目に入りました。夕暮れどき、狭い裏路地を挟んだ2軒の酒場を撮ったその写真は、私の旅情をかき立てるのに十分すぎるほどでした。写っていた店の屋号などからそれが黒山島の曳里であると知って以来、どうしてもその場所を訪れたいとの願いは募る一方。

 

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それから2年、やっと念願かなってあの場所に立つことができました。
情感あふれる島の酒場のたたずまい、狭い裏路地の向こうにはどこか寂しげに灯る街灯、そして遠くには曳里港の海。夢にまで見たあの光景を目の当たりにし、しばし感慨にふけっていました。写真は同じ位置で私が撮影したもの。私が見たあの写真とは比較自体が申し訳ないほどつたない写真ではありますが、それでも私があの日感じた旅情がその断片でもみなさまに伝わることを願っています。

 

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電気が灯っていた両側のお店に入りたい思いもありましたが、今回はすでにチェック済みである別のお店へ向かいます。あの場所の2つの酒場の玄関が面する裏路地沿いにある「ソヒャンジョン」。距離は東側にわずか20mほどです。

 

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ソヒャンジョンのメニュー表。注文するのはもちろん、その名を全国に轟かせる黒山島特産のホンオ(홍어:ガンギエイ)の刺身、ホンオフェです。ホンオの旬は11月から4月までとされていますので、12月のこの日はまさに旬真っただ中。「싯가(時価)」とあるメニューを頼むのは28回目の渡韓にして初めて。確認すると45,000ウォン(約4,730円:当時)とのこと。

 

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やって来たホンオフェ。とてもいい色です。こちらのお店では、酢コチュジャンまたはゴマ油に塩を溶いたものにつけて食べます。
まずはひと口。ああ、うんまい。ホンオ特有のコク深さがたまりません。
軟骨魚類であるホンオは血液中に尿素を含むため、時間が経てば経つほど身が発酵し、それに伴う加水分解により発生するアンモニアの強烈な臭いを放つことになります。ホンオを口にした経験がなくとも、「ホンオフェ」という名前とその臭いをワンセットでご存じの方は少なくないことでしょう。しかしこちらのホンオフェ、アンモニア臭はあるとはいえ、過去にマート(大型スーパー)で購入したものに比べるとずっと控えめです。それもそのはず、輸入品はもとより国内産ホンオでも「陸地」(ユクチ。韓国では「本土」をこう呼ぶ)で食べるものに比べると、ホンオの水揚げ地である黒山島は食卓に供されるまでの経過時間がはるかに短いため、発酵もさほど進んでいないというわけです。これが本場・黒山島でのホンオフェの特徴とされています。
加えて黒山島近海のホンオには、その表皮に生息するある種のバクテリアが他地域産のものよりも多く、それらが発酵を促進するため、他地域産にはない黒山島ホンオ特有の味があるのだそうです。

 

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ホンオフェとくれば、お酒はもちろん相性抜群のマッコリ。アルカリ性アンモニアとマッコリに含まれる有機酸との中和作用により、お腹にやさしい組み合わせだとされています。こちらのお店で出て来たのは、全羅南道木浦(モッポ)市に本社を構える「宝海(ポへ)醸造」の「純喜(スニ)マッコリ(순희막걸리)」。こうした酒場では珍しく、生ではない熱処理されたマッコリです。要冷蔵の生マッコリは離島だと輸送上の問題があるのかもしれません。

 

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私の正面、店奥側の座卓では若い男性のグループがサムギョプサルを焼いていました。彼らと親しげに話していた、やはり若い男性店員さんの友達だと思われます。その店員さんが気を利かせて、サムギョプサルを少しだけ分けてくださいました。
ホンオに豚肉といえば、やるべきことは決まっています。パンチャン(おかず)のキムチをあわせて、ぱくり。
なにこれ、超うんまい。
ホンオフェと豚肉、そしてキムチを重ねて食べるものを韓国では「三合(삼합:サマッ)」と呼び、ホンオの最もぜいたくな食べ方のひとつとされています。三合に用いる食材は、正式には「スユク(수육)」とも呼ばれる茄で豚に「ムクンジ(묵은지)」とも呼ばれる酸っぱい熟成キムチですが、焼いたサムギョプサルに普通のキムチでもそのうまさは十分すぎるほど感じられます。この組み合わせを考えた人、一体何者なのでしょうか。尊敬に値します。
ちなみに、ホンオ(漢字で「洪魚」とも書く)と相性抜群の濁酒(탁주:タクチュ。マッコリなどの濁り酒)を飲みつつこの三合を食べることを、その頭文字を取って「洪濁(홍탁:ホンタク)」といいます。

 

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こちらのお店「ソヒャンジョン」の営業時間は不明です(確認してきませんでした……すみません)。黒山港旅客船ターミナルからは徒歩約6分(約480m)で到達できます。おいしい料理に加えホスピタリティの高さ、次回の黒山島訪問時にもまた寄りたいと思うお店です。

ソヒャンジョン(소향정:全羅南道 新安部 黒山面 曳里2キル 70 (曳里 194-20))

 

そうしてホンオフェを食べている間、下手っぴな韓国語で店員さんたちと歓談していると、なんと店員さんの車でホテルまで送っていただけることに。結局、この夜の曳里への移動は往復ともご厚意に甘える格好となりました。
韓国の地方旅ではときどき、このような不意の親切に遭遇することがあります。それを期待してはいけないと思いつつも、ついつい甘えてしまうのが正直なところです。私も今後もし日本を訪れた旅行者との出会いがあったならば、韓国からの旅行者に限らず、同じように温かく接しなければと強く思います。

 

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部屋に戻り、ベランダから眺めた夜の曳里港。空にはぽっかりお月様。

 

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明けて旅の2日目、2017年12月2日(土)の朝です。この日も黒山島はいい天気。

 

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黒山ビーチホテルの朝食は、写真のチョンボッチュッ(アワビ粥)。飲食店ならば15,000ウォン(約1,500円)前後はするメニューです。これがまたうんまい。しかも、おかわり自由という。他の宿泊客の方々に配慮しつつ、2回もおかわりしてしまいました。付け合わせのパンチャンはまたも美しい配列。

チェックアウト。受付はもちろんあのサジャンニムです。ホテルの送迎バスで他の宿泊客と一緒に旅客船ターミナルまで送ってくださるとのことでしたが、朝の黒山島散策を兼ねて一度くらいは曳里まで歩いてみたかったので今回は遠慮し、徒歩でホテルを発ちます。
サジャンニムはじめ黒山ビーチホテルのみなさま、大変お世話になりました。おかげで充実した旅となりました。

 

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ホテルのある鎮里(チルリ)から旅客船ターミナルのある曳里まで、キャリーバッグを引きつつ海岸沿いを歩きます。

 

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写真はその途中、漁船の帰りを待ちわびる漁港の人々。絵になります。

 

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黒山港旅客船ターミナルに到着。とはいえまだ1時間ほど余裕があるので、早朝の曳里の街を散策します。

 

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旅客船ターミナルがある曳里は島最大の漁港がある港町であり、また島の玄関でもあるため多くの飲食店や民宿が軒を連ねています。飲食店は特産のホンオをはじめ近海の海の幸を扱う店が大半で、ほとんどの屋号が「○○수산(水産)」となっています。店先にはそれら海産物たちの生け簀が。黒山島に限らず韓国あちこちの市場などでよく見る光景です。

 

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干物にするために吊るされた魚。一見してホンオかと思いましたが、どうやらアグ(アンコウ)のようです。

 

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昨夜も訪問したあの場所へ。日中はこんな感じです。

 

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昨夜ホンオフェを食べた「ソヒャンジョン」がある曳里の裏路地。

 

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曳里の裏路地。人はなぜ裏路地に惹かれるのか。

 

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旅客船ターミナルの近くには、私のような観光客目当てとみられる露店がいくつか出ていました。
せっかく黒山島へ来たのですから、ひとつくらいはホンオの土産物を買って帰りたいところです。まあ自分用だけどな!

 

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購入したのは写真の干しホンオ(パッケージの電話番号は隠しています)。おいしかったです。軟骨のコリコリした食感がまたたまりません。ジップロックで二重に包んでも同じバッグの布製品に移るほどには臭いが強いのが玉にキズですが。

 

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黒山港旅客船ターミナルのそばには、旅客機の形のバルーンが置かれていました。「空港建設で雄飛する黒山島」と書かれています。
黒山島では現在、2020年の開港を目指して「黒山空港」が建設中です。滑走路の長さは1,200m弱と短いためプロペラ機しか発着できませんが、それでも完成後にはソウル・金浦空港から1時間以内で結ばれるようになるとのこと。木浦港から1時間50分、ソウル駅からだとKTX乗車時間&乗船時間だけでも計4時間半を要する現状と比べると劇的な時間短縮となります。写真2枚目は本年(2018年)6月に金浦空港にて撮影した宣伝パネル。

 

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f:id:gashin_shoutan:20180807225457j:plainそろそろ乗船時間。黒山港旅客船ターミナルに戻ります。
写真2枚目はターミナル内にあった「海洋安全体験館」というスペース。同様のスペースは木浦港沿岸旅客船ターミナルにも、黒山島の次に訪問した島の旅客船ターミナルにもありました。韓国ではこのようなスペースを通じ、海難事故への啓発を行なっています。
こうした啓発活動は以前からあったとは思いますが、やはり2014年4月16日のセウォル号沈没事故が少なからぬ影響を与えているのでしょう。あの当時「いかに韓国がダメか」に終始した日本メディアの報道とその消費者たちとのスタンスの違いが如実に示されています。洞爺丸や紫雲丸の沈没事故などで海難事故の悲惨さとその対策の難しさを幾度となく体験しているはずなのですが、対象が韓国だとこうまで認知が歪むという現実。

 

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木浦港発のこの日最初の高速船が黒山港にやって来ました。正面から見ると双胴船であることがよく分かります。黒山港を午前9時50分に発つこの船で、次の目的地の島へと向かいます。
本音を言えばもう少しじっくりと黒山島内を見物したかったのですが、スケジュールの都合に加え、海が荒れやすい冬期は欠航のリスクも高まるため、乗船できるときに乗っておかなければなりません。
さらば黒山島。いつか必ず再訪することを誓い、島を後にします。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

【おまけ】
以下、私の経験をもとに、黒山島の旅のTips的なものを簡単に紹介いたします。お役に立てるようであれば幸いです。

 

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●黒山島へのアクセスについて
黒山島へのアクセス手段は全羅南道木浦市KTX湖南線(ホナムソン)の終点「木浦」駅からタクシーで約5分の距離にある「木浦沿岸旅客船ターミナル」発の高速船に限られています。
木浦と黒山島とを結ぶ高速船は1日4往復。うち2往復は黒山島のさらに西に浮かぶ天然記念物の島・紅島(ホンド)発着であり、1往復は黒山島発着、そしてもう1往復は黒山島のはるか南西沖、韓国最南西端の島でもある可居島(カゴド)発着の便です(以上、2018年8月現在)。運行会社は「東洋高速フェリー」(동양고속훼리:トンヤクコソクフェリー。以下「東洋高速」といいます)と「南海高速」(남해고속:ナメコソク)の2社であり、奇数日と偶数日とで各便交互に入れ替わります。
写真1枚目は前回も紹介した木浦沿岸旅客船ターミナルのチケットカウンター。人が並んでいる向かって左側はこの日私が利用した東洋高速の窓口で、南海高速の窓口(写真中央の「15:30」と表記がある場所)とは別になっています。写真2枚目は前述の黒山港旅客船ターミナル。こちらは手前側が南海高速、向こう側が東洋高速とチケットカウンター自体が分かれているのでので要注意です。
なお高速船は悪天候に弱いため、海が荒れた場合には欠航となります。黒山島が位置する西海(黄海)の外海はただでさえ海が荒いうえ、特に海が荒れやすい高い冬には欠航率も高まるようです。不意の欠航に伴う旅程変更を考慮し、余裕を持たせたスケジュールでのご訪問を強くおすすめいたします。
黒山島を含む西海南部海域の天気・波高予報は、韓国気象庁のこちらのページで確認できます。

 

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●黒山島行き高速船の予約方法について
今回の旅で乗船した高速船全3便のうち、前回エントリーの冒頭にて紹介した木浦発黒山島行きの便は、韓国海運組合の提供する無料アプリ『가보고싶은섬』(カボゴシップンソム:「行ってみたい島」の意)を通じて予約購入しました。画像左上はアプリの初期表示画面、続いて右上は目的地の選択画面、そして下段は木浦発黒山島行きの便の一覧画面です(いずれも日本語表記は説明のため挿入したものです)。「等級」の欄が船室の1階と2階とで分かれていますが、黒山島行きについては通常は同料金です。このアプリ上では黒山島が「大黒山島」(대흑산도:テフクサンド)と表記されており、「ㅎ」ではなく「ㄷ」の項目にあるので注意が必要です。
このアプリの利点は、韓国の「信用力ード」(신용카드:シニョンカードゥ。一般名詞としては「クレジットカード」の意ですが、狭義では韓国国内で発行されたカードに限定されます)でなくとも支払いに使用できること。この障壁のため、いままで何度泣かされてきたことか。
反面、このアプリは日本(韓国国外)ではダウンロード不可という難点があります(前述のリンク先へ直接飛んでも不可)。そのため私は前回の釜山訪問中に入手しました。韓国の島旅をご検討の方は、別の韓旅の際に前もってのダウンロードをおすすめします。
それと、妙なことに2017年12月の運航分は南海高速の便が表示されず、同月2日(旅の2日目)に乗船を予定していた同社の2便については前日の木浦入りまで予約ができませんでした。ちなみに本エントリー更新直前の2018年8月20日時点で同年10月の運行分を検索したところ、今度は逆に東洋高速の便が表示されない現象が発生したものの、8月28日時点では正常に表示されるようになりました。このアプリではタイミングによりたまにこうしたことがあるようですが、一方の会社が運休するわけではないのでその点はご安心願います。 

 

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●黒山島の公共交通について
今回の旅では利用しませんでしたが、黒山島内には路線バスが運行されています。
いずれの路線も、起点は黒山港旅客船ターミナルから近い「曳里(예리:イェリ)」バス停(写真1枚目)。黒山ビーチホテルなどがある「鎮里(질리:チルリ)」方面へ向かう「서면방면(西面方面)」と、島東岸の「沙里(사리:サリ)」方面へ向かい島を時計回りに一周する「동면방면(東面方面)」の2系統に大別され、前者については「鎮里」の次の「邑洞(읍동:ウプトン)」止まりの便と、さらに島西岸の「比里(비리:ピリ)」方面へ向かい島を反時計回りに一周する便の2種類があります。島を一周する便は西面・東面とも1日4便で、それぞれ最終便は夏期と冬期とで時刻が若干異なります。2枚目の図は前回も紹介した黒山島の地図(バス停を緑色で示しています)、そして3枚目の写真は「曳里」バス停の時刻表(2017年12月時点:日本語表記を一部補足)。

 

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●黒山島の島内観光について
前述したように黒山島内の路線バスは便数が限られているため、島内の観光には前回エントリーにて紹介したタクシー貸切での島内一周観光をおすすめいたします。
私が利用したときの所要時間は約1時間半で、料金は1人あたり15,000ウォン(約1,580円:2017年12月当時)。3人で利用したので単純計算だと計45,000ウォンとなりますが、これが各業者均一の1台あたり料金かどうかは分かりません。どこかのサイトで1台60,000ウォン(約6,000円:2018年8月現在)という情報を目にしたこともありますので、まずは金額を確認のうえご利用いただくことをおすすめいたします。

 

f:id:gashin_shoutan:20180807222147j:plain●黒山島の宿泊について
黒山島には前述した島唯一のホテル「黒山ビーチホテル」(写真)のほか、いくつかの民宿が営業していますが、私が調べた限り大手ホテル予約サイトではいずれも検索結果に表示されませんでした。
設備もきれいで料理もおいしく、なにより前述したようにサジャンニムらしき男性が親切でしたので、個人的には黒山ビーチホテルのご利用をおすすめいたします。ネット予約はなく電話受付オンリーですが、私のつたない韓国語でもご理解いただけたうえ、宿泊料も現地払い(前金不要)ですのでさほどハードルは高くないと思います。私が利用したときは1人1部屋、1泊2食付きで84,000ウォン(約8,820円:2017年12月当時)でした。繁忙期には若干高くなるようです。

黒山ビーチホテル(흑산비치호텔:全羅南道 新安部 黒山面 黒山一周路 180-19 (鎮里 31-1) 電話予約:061-246-0090) [HP]

新安の旅[201712_02] - 高速船で約2時間の離島「黒山島(フクサンド)」念願の初上陸、そして島内一周の旅

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)12月の全羅南道(チョルラナムド)を巡る旅、1日目(2017年12月1日(金))です。

 

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私が乗船した高速船(韓国では「快速船」と呼ぶ)「ニューゴールドスター」は、午後1時に木浦(モッポ)沿岸旅客船ターミナルを出航。写真はその船内。小さいですが売店も設置されています。

 

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客室全体が妙な緑色に染まっているのは、防眩のためか窓ガラスが緑色になっているため。

 

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木浦港を出てから50分ほどで、最初の寄港地である都草島(トチョド)の都草旅客船ターミナルに到着。
都草島は全羅南道新安(シナン)郡都草面(ミョン:日本でいう「村」に相当)に属する島で、新羅時代に寄港地であったこの島を訪れた唐(中国)の人が自国の首都の形に似ていると語ったこと、また一方で島内に雑草が繁茂していたことにその名が由来するとされています。
ちなみに写真があの妙な緑色に染まっていないのは、外のデッキから撮影したため。高速巡航中でない寄港の前後に限り、デッキが開放されていました。

 

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都草島を出航。写真は1996年に開通した「西南門大橋(ソナンムンデキョ)」。この橋で対面する都草島と結ばれているのは、島の形が猛禽類のような大きな鳥の飛ぶ姿に似ているとしてその名がついたとされる飛禽島(ピグムド。写真左側の陸地)です。
全島が新安郡飛禽面に属するこの飛禽島は、2016年のコンピュータ囲碁プログラム「AlphaGO」との対戦でその名を馳せた棋士李世ドル(이세돌:イ・セドル、1983-)九段の出身地としても知られ、島内には「李世ドルパドゥク記念館」(パドゥクとは「囲碁」の意)も所在しています。1日4往復ある高速船は都草旅客船ターミナルと飛禽島の水大(スデ)船着場のいずれかに交互に寄港します。

 

新安郡地図1

新安郡地図2
都草島や飛禽島を含む新安郡はその全域が島嶼で構成されており、これらの島と「陸地」(ユクチ。韓国では「本土」をこう呼ぶ)、あるいは先の西南門大橋のように島同士を結ぶ橋が続々と建設されています。この飛禽島からは東側に浮かぶ岩泰島(アムテド)との間に架橋計画があるほか、岩泰島とさらにその東側、新安郡庁の所在地である押海島(アッぺド)との間には、長さ世界第2位の斜長橋を含む全長約10.8kmもの長大橋「セ千年大橋」(セチョンニョンデキョ。セとは「新」の意)が建設中です(2018年12月開通予定)。押海島は架橋済みのため、これらがすべて完成すれば都草島も飛禽島も木浦から陸続きとなるわけです。

都草島と飛禽島の海峡を抜けると、穏やかな多島海の内海から一転して波が荒い外海の西海(黄海)へ。そのため、この区間で船酔いする人も多いようです。船が縦揺れする度に、客席からは歓声みたいな声が上がります。ただでさえ荒い外海、特に冬はその傾向が高まるため他の季節よりも欠航率が高いとのこと。今回の旅も12月ということで、乗船するまで気が気ではありませんでした。それにしてもこんな外海でもWi-Fiが普通に入るのですから全く恐れ入ります。

 

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木浦港を発ってから2時間あまり、ようやく目的地の島がその姿を現しました。

 

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定刻より25分遅れの午後3時15分、ついに目的地に上陸。
とうとうやって来ました。私にとってずっと憧れだった島、黒山島(흑산도:フクサンド)

 

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黒山島は西海海上に浮かぶ、面積19.7平方km、海岸線の長さ約41.8kmの島です。木浦港からの直線距離は約85km、近隣の小島を除けば最も近い飛禽島からでも40km近く離れており、絶海の孤島と言っても過言ではない場所です。島全域が「多島海海上国立公園」に属しています。
黒山島の名は、自生する樹木がほとんど常緑樹であるため年間を通じて島全体が黒(に近い濃緑色)に見えることに由来するとされています。島内の人口は約2,100人。紅島(ホンド)可居島(カゴド)など他の島を含めた新安郡黒山面全体だと約4,500人です(2016年現在)。
上の画像は、黒山島全体の地図です。以下、この地図を「上図」と呼びます。

 

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黒山島の歴史は先史時代にさかのぼります。島内では新石器時代のものとみられる貝塚が発見されており、また紀元3~4世紀に建造されたとみられる支石墓(ドルメン。韓国では「コインドル」と呼ぶ)が残されています。下って統一新羅時代の827年、豪族であり唐や日本との海上交通を支配した「海上王」張保皐(장보고:チャン・ボゴ、787-846)が莞島(ワンド)に清海鎮を設置して唐との交易を始めた際、一帯に出没する海賊から貿易船を守るための前哨基地として山城を築いたのが、黒山島に関する有史以降最初の記録です。この山城建設と前後して、黒山島に最初の住民が定着したとされています。その後朝鮮時代には流配(流刑)の地とされ、後述するように多くの人士がこの島での流刑生活を余儀なくされています。
日帝強占期と光復(日本の敗戦による解放)を経て、1960年代から70年代半ばには近海で獲れるホンオ(홍어:ガンギエイ)やチョギ(조기:キグチ)などの漁の盛況で発展を遂げます。当時、島最大の漁港がある曳里(イェリ。里は日本でいう「大字」に相当)では「波市(パシ)」と呼ばれた水産市場が各魚種の漁期ごとに開かれ、活気にあふれていました。最盛期には曳里港から隣接する鎮里(チルリ)まで船上を伝って歩けるほどだったといいます。
しかし、その後は漁業の不振などで衰退の一途をたどり、いつしか波市は思い出の中へ。とはいえ現在も島特産のホンオは最高級品としてその名を全国に知らしめており、また漁船の避難港となる台風シーズンには一時的に活気を取り戻すこともあるようです。

 

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高速船が着いた桟橋には、黒山島の北側に浮かぶ多物島(タムルド)への渡船が。この多物島をはじめ黒山島周辺にはいくつかの小島が点在しており、黒山港はこれら近隣の島々へのハブとなっています。

桟橋そばの黒山港旅客船ターミナルには、予約したホテルの方が出迎えにいらっしゃっていました。その手には私の名前が書かれた紙が。こうしたお出迎えは韓国では初めての経験です。なんだか照れますね。

 

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ホテルの車に乗り、5分ほどで到着したのは写真の「黒山ビーチホテル」(上図①)。鎮里の高台に建つ、島内唯一のホテルです。ネット予約不可、予約受付は電話のみというややハードル高めの施設ですが、私のつたない韓国語でも親切に受け入れてもらえました。ロビーにはKBS2の人気番組『1泊2日』ロケの記念パネルも。

 

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宿泊した黒山ビーチホテルの客室。程よく広くて清潔な部屋でした。

 

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最上階(5階)からの見事なオーシャンビューです。

 

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客室のバスルームにあった案内。「黒山島の水道水は鉄分含有量が多く多少濁ることがありますが、人体には何ら害を及ぼさないので安心してご使用ください」とあります。これまで見たことのない案内です。

 

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黒山島にはタクシーによる島内一周観光があります。これを呼んでもらうため再びロビーへ行ったところ、フロントの方(先ほど港まで迎えに来た方です)が気を利かせて、たまたま居合わせた宿泊客のご夫婦らしき男女と相乗りで利用することに。私にとっては一人あたりの料金が安くなるのでありがたいです。写真はそのとき乗車したタクシー。ドアには黒山島特産、ホンオさんの愛らしいキャラクターも。

 

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島内一周観光は、その名もずばり「黒山島一周道路」を反時計回りに巡ります。最初に訪れたのは「サンナリコゲ」(상나리고개:コゲは「峠」の意)を登った先にある「黒山島アガシ歌碑」(上図②)。李美子(이미자:イ・ミジャ、1941-)さんの1965年のヒット曲「黒山島アガシ」(흑산도 아가씨:アガシは「お嬢さん」の意)を記念して1997年に建てられたものです。手形は2012年に李美子さんが公演のため黒山島を訪れたとき追加されたもの。

 

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「黒山島アガシ歌碑」のそばには、前述した張保皐が9世紀に築いた山城「上羅山城」(サンナサンソン。別名「半月城(パノルソン)」)跡が残る「上羅山」(サンナサン、230m。上図③)があります。ご一緒した二人と一緒に、登山道と思しき坂道を少しだけ登ってみました。
上羅山の山頂には当時の烽燵台(ポンスデ。のろしを上げる台)と祭祀の遺跡が残っているそうですが、どこまで登ればよいのか分からないうえ、運転手さんをひとり残していたので途中で断念。写真2枚目はそのとき撮影した鎮里の街と曳里港。遠くには多物島(中央)と大屯島(テドゥンド。右側の防波堤の向こうの島)が見えます。

写真2枚目にわずかに写っていますが、「黒山島アガシ歌碑」のあるサンナリコゲには峠を上りきるまで12回も屈曲を繰り返す「ヨルトゥコゲッキル」(열두고갯길:「十二の峠の道」の意)と呼ばれるつづら折りの坂道があり、黒山島でも有数の名所となっています。

 

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黒山ビーチホテルからサンナリコゲのあたりまでは鎮里にあたりますが、峠を下った先からは島の西海岸にあたる「比里(ピリ)」に入ります。その海岸沿いに出てまもなく、写真の案内板が車窓に現れます。

 

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道路から見下ろした海岸にあるこちらの岩は「地図(チド)バウィ」(バウィは「岩」の意。上図④)といい、波の浸食作用で生じた穴が偶然にも朝鮮半島韓半島)の姿にそっくりだとして名付けられたものです。写真2枚目は穴を拡大したものですが、本当によく似ています。

 

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地図バウィの背後に写っていた島は長島(チャンド)。島の形が長いことからその名がついたとされるこの島には、約400種の植物に30種の蝶など多様な生物が生息し、ラムサール条約の登録湿地にもなっている「長島湿地」があります。写真2枚目は先ほどの上羅山への登山道で撮影した長島の全景。

 

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比里の海岸沿いの一周道路には数百mほど壁画が続く場所があり、よく見るとその上に柵に囲まれた歩道らしきものが張り出しています。
こちらは「ハヌル道路」(ハヌルとは「空」の意。上図⑤)といい、長島が眺められる西海岸沿いの崖に観光歩道として設けられたものです。写真からも分かるように、この一帯は黒山島の最高峰である門岩山(ムナムサン、400m)山頂から海辺まで続く断崖上であるため橋脚が立てられず、H型鋼を水平に打ち込むことで設置が実現できました。こうして生まれた橋脚のない橋が、あたかも空中に浮かんでいるかのようだとしてその名が付けられたとのことです。

 

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比里を過ぎると、島南部の「深里(シムニ)」に入ります。
この深里と、島南東部の「沙里(サリ)」との里境上にある峠「恨多嶺」(한다령:ハンダリョン)を登りきった場所には、写真の「黒山島一周道路完工碑」(上図⑥)が建てられています。
今回の一周観光のルートでもある黒山島一周道路は、1984年の着工から実に26年もの工事期間を経て、2010年3月にようやく全線開通を見ました。これを記念した碑に立つ天使の像は、黒山島と一周道路を守る守護神を象ったものです。碑の下にある数字「1004」は、新安郡を構成する多島海の島々の数を表わしています。

 

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恨多嶺からの景色。つづら折りの峠道「コブランコゲ」(꼬부랑고개。「曲がりくねった峠(道)」の意)が見下ろせます。先ほどのヨルトゥコゲッキルが12の屈曲ならば、こちらのコブランコゲは恨多嶺を挟んで15もの屈曲で構成されています。黒山島一周道路が26年もの難工事となった理由が伝わってくる光景です。遠くに見えるのは深里港の防波堤。

 

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恨多嶺を越えて、沙里の集落に到着。
前述したように、ここ黒山島は朝鮮時代には流刑の地とされ、罪を犯した人々が数多く送られてきました。それら流刑者の中でも特に知名度が高いのが、実学思想の集大成者とされる丁若鏞(정약용:チョン・ヤギョン、1762-1836。号は茶山(タサン))の次兄であった朝鮮時代後期の文人、丁若銓(정약전:チョン・ヤクチョン、1758-1816。号は巽菴(ソナム))です。

 

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若銓と若鏞の兄弟はともにカトリック教徒でしたが、若鏞を重用していた朝鮮の第22代国王、正祖(정조:チョンジョ、1752-1800)の死後まもなく激化したカトリック弾圧のため、若銓は全羅南道莞島(ワンド)郡の新智島(シンジド)に、また若鏞は現在の慶尚北道キョンサンブット)浦項(ポハン)市にそれぞれ流刑させられました。
さらに1801年、同じくカトリック教徒だった長兄の娘婿の黄嗣永(황사영:ファン・サヨン、1775-1801)が、カトリック弾圧への抵抗のためフランスの軍隊を引き入れての国家転覆を企図した罪で処刑されると、若銓・若鏞兄弟も事件との関連を問われ、若銓は絶海の黒山島、また若鏞は全羅南道の南端に近い康津(カンジン)と、一層過酷な場所へ流刑させられます。
丁若銓は黒山島にて書堂(日本の寺子屋に相当)を開き後学を育てつつ、1814年には島の近海に棲息する魚類や貝類、海藻類などの生態に習性、さらには調理法までも記録した『茲山魚譜(자산어보:チャサンオボ)』を執筆。この『茲山魚譜』は朝鮮初の海洋生物学専門書として、今日も高い評価を得ています。しかし生涯流刑を解かれることはなく、1816年に黒山島と同じ新安郡の牛耳島(우이도:ウイド)にて亡くなっています。なお若銓と若鏞は、それはもう仲睦まじい兄弟だったそうで、ともに流刑の身である互いの境遇を案じつつやり取りした手紙も今日まで残されています。

 

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「沙村書堂(サチョンソダン)」、またの名を「復性斎(ポクソンジェ)」と呼んだ丁若銓の書堂があったのがここ沙里であり、集落内には書堂が復元されているほか(一周道路からは外れているため今回は寄れませんでした)、一周道路沿いには案内板や碑石に加え公衆トイレが書堂建立当時の住宅のような藁葺き屋根風で仕上げられた「流配文化公園」(上図⑦)があります。写真3枚目は丁若銓の遺した五言律詩「漁火拈杜韻(オファニョムドゥウン)」を刻んだ碑石。
このほか、朝鮮時代末期から大韓帝国期にかけての政治家であった崔益鉉(최익현:チェ・イッキョン、1834-1907。号は勉庵(ミョナム))もまた、1876年の「江華島条約」に反対した罪で黒山島での2年間の流刑生活を余儀なくされました。黒山島では丁若銓と同様、鎮里に「一心堂(イルシムダン)」という書堂を建て、後学の養成に携わっています。

 

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沙里の観光スポットとしてはもうひとつ、路地沿いに並ぶ写真の石積みの塀(韓国では「タム牆(ジャン)」という)が挙げられます(写真中央の石垣)。これらは海風の強い島の環境に合わせて築かれたもので、「新安黒山島沙里マウル旧タム牆」として国家指定登録文化財第282号にもなっています。

 

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沙里にある小さな漁港には大小7つの岩が取り囲むように配置され、天然の防波堤を形成しており、これらの岩は兄弟に見立てて「七兄弟(チリョンジェ)バウィ」(上図⑧)と呼ばれています。

この七兄弟バウィには、ひとつの伝説があります。
昔、ここ沙里にある母親と7人の息子が暮らしていました。父親はすでに亡く、母は海女の仕事をして7人の息子たちを養っていました。ある年のこと、大きな台風が襲来したため母親が漁に出られないでいると、7人の息子は次々と海に入り、両手を広げて波を防いでくれたといいます。そして息子たちはそのまま石化してしまい、今日も沙里の港を守る七兄弟バウィになったということです。

 

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沙里からは東海岸沿いに北上し、ホテルヘ。約1時間半の島内一周の旅でした。このときの1人あたりの料金は15,000ウォン(約1,580円:当時)。かなりお得感があります。
写真は沙里からの帰り道、東海岸の沖に浮かぶ永山島(ヨンサンド)

 

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黒山ビーチホテルの宿泊には夕食と朝食が付きます。夕食の午後6時までもう少し時間があるので、ホテルのある鎮里の街をちょっとだけ散策することしました。
鎮里の名は朝鮮時代中期の1678年、この地に黒山鎮営(チニョン。地方に設置された軍事拠点)が設置されたことに由来します。日本でいう村役場に相当する面事務所もある黒山島の中心地ですが、旅客船が発着し飲食店や民宿も多い曳里に比べると閑散としている感があります。

 

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鎮里の船着場。曳里港(漁港)からは直線距離で700mあまり離れているこの一帯も、波市が盛んだった頃は漁船や仲買船などで埋め尽くされていたのかもしれません。

 

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旅客船が発着する黒山港、漁港である曳里港、そして鎮里の船着場。これらが面する湾は内栄山島(ネヨンサンド。写真左)と外栄山島(ウェヨンサンド。写真右)という2つの小島が取り囲むように位置し、これまた天然の防波堤を形成しています。
そんな湾の真ん中に、一隻のイカ釣り漁船と思しき船が停泊していました。そのまばゆい光がどことなく情感を漂わせています。水面に反射する漁火、もうすぐ黒山島に夜が訪れます。

いよいよお待ちかねの夕食ですが、構成上の都合により今回はここまでといたします。
次回のエントリーでは今回の続きのほか、高速船の予約方法を含む黒山島の旅のTipsも紹介する予定です。ご期待ください。

 

2021/11/22付記
『茲山魚譜』の作者である丁若銓(정약전:チョン・ヤクチョン)が1816年に亡くなった場所につき、公開当初の黒山島から同じ新安郡の牛耳島(우이도:ウイド)に修正いたしました。

木浦の旅[201712_01] - 木浦駅前の超うんまいピョヘジャンクッ、徒歩約1時間半の近代建築巡り

今回からは、昨年(2017年)12月1日(金)から同月4日(月)にかけての全羅南道(チョルラナムド)などの旅をお届けします。

 

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今回の往路はいつも以上に所要時間がかかるため、久々に深夜2時発のピーチの羽田-仁川便を利用(写真がピンぼけですみません……)。
経由地である全羅南道の木浦(モッポ)までは湖南線(ホナムソン)KTXを利用するため、空港鉄道の始発でソウル駅へ移動します。

 

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ソウル駅に到着。本来ならばそのまま列車を待つところですが、少し時間に余裕があったうえ、予約した列車がたまたま「幸信(ヘンシン)」駅始発であったため、Korail京義・中央線(キョンウィ・チュンアンソン)で同駅まで移動することにしました。
それにしても12月初旬の早朝のソウル、予想していたとはいえかなり寒いです。コーヒー飲みたい。

 

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ソウル駅、京義中央線ホーム。この路線はもともと京義線と中央線とに分かれていたものを2014年に地下線で連結し、現在は直通運転がなされていますが、京義線の本来の起点はここソウル駅であり、地下線開業後も細々と運行が続けられていました。
写真のホームはちょうどこの3日前(2017年11月28日)、KTX京江線キョンガンソン)乗り入れ工事に伴い、駅西側にあったものを東側の旧駅舎脇に移設したばかり。みなさまもよくご存じの日帝強占期に建てられた旧駅舎が、2004年のKTX開業に際しその役割を新駅舎にバトンタッチして以来、13年ぶりに駅舎として復活したわけです。
もっとも地下線の龍山(ヨンサン)駅だと日中の閑散時間帯でも1時間に4本は電車が走る地下線に対し、こちらはラッシュ時以外だと1時間に1本しかないという……。

 

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幸信駅に到着。何の変哲もない通勤駅です。

 

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しかし、構内には屋根付きの長い通路が伸びています。
実はこの幸信駅、KTX車両基地と隣接しており、住民への見返りのために同駅発着の列車が回送がてら設定されているというわけです。

 

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今回乗車するのは写真のKTX-山川(サンチョン)。当然ながら利用客も少なく、ほぼガラガラの状態で幸信駅を出発します。まあ次のソウル駅では乗客がどっと乗ってくるわけですが。

 

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幸信駅を発ったKTXは次のソウル駅までの間、並走する京義中央線の各停に追い抜かれるほどゆっくり走ります。その途中の新村(シンチョン)駅付近、車窓左手に現れるのが写真の延世(ヨンセ)大学校正門。1987年6月9日、同大生の李韓烈(이한열:イ・ハニョル/イ・ハンニョル、1966-1987)烈士が頭部に催涙弾の直撃を受けたまさにその現場です。

 

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忠清南道(チュンチョンナムド)清州(チョンジュ)市、「五松(オソン)」駅の少し手前にある「韓国鉄道公社五松高速鉄道施設事務所」には、待機中の高速試験車両「HEMU-430X」が。こちらは動力集中方式(プッシュプル方式)のKTXとは異なり、動力分散方式の電車です。
KTX-山川をも凌ぐ精悍な流線型の先頭車、上下2段の窓配置が特徴的な「スナックカー」も遠目ではありますが写真に収めることができました(写真は拡大したもの)。

 

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幸信駅を出て2時間半ほどで光州(クァンジュ)広域市の「光州松汀(ソンジョン)」駅に到着。向こうのホームには光州駅へ行くムグンファ号シャトル列車が。
この駅で下車せずに通り過ぎるのは今回が初めて。新鮮な気分です。

 

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幸信駅から2時間59分、ソウル駅からだと2時間36分で終点の木浦駅に到着。木浦へやって来たのは初めてです。日が昇ったからでしょうが、ソウルよりはずいぶん暖かかったです(でも東京よりは寒かったですが)。行き止まりの線路に面したホームの先には「湖南線終着駅」の石碑が。

KTX専用線は光州松汀駅までですので、そこから木浦駅まではこの年の5月に訪問した羅州(ナジュ)駅経由の在来線を通ってきました。
光州松汀駅から羅州駅の少し先までこの在来線と並行した後、現在は鉄道のない務安(ムアン)国際空港へ寄るため大きく迂回して木浦へと至るKTX専用線の建設が決定しており、まもなく着工予定です。現状よりも遠回りになるとはいえ最高時速300kmで走れるようになりますので、完成後にはもう少し時間短縮されるようです。

 

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木浦駅にはちゃんとコインロッカーもあります。
韓国の地方を旅するにあたって私が最初にする作業は、その訪問予定地の駅やバスターミナルなどにコインロッカーがあるかどうかの確認です。木浦くらい大きな街だとさすがにありますが、以前の全羅南道高興(コフン)郡の旅がそうであったように郡部だとコインロッカーがないことが普通です。今後も本ブログでは新たな地方を訪問する度に、その街のコインロッカーの情報を伝えてまいります。

 

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駅前広場には、見慣れた石碑が建っていました。
光州広域市内における「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡であることを示す、あの「光」の字を象った碑石と全く同じデザインのそれには、よく見ると「5.18民衆抗争 木浦史跡地1号」とあります。

 

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5.18民主化運動が発生した1980年5月18日以降、光州広域市(当時は全羅南道光州市)近隣の市郡では光州市民の抗争に呼応したデモが展開されました。それらの中でも特に激しかったのが、当時は光州に次ぐ全羅南道第2の都市だった木浦です。抗争4日目、錦南路(クムナムノ)での集団発砲があった5月21日には光州の市民軍が木浦に到着、光州での惨状を木浦市民に伝えたことにより、全羅南道の他市郡では最大規模となるデモが同月28日未明まで進行されました。期間中は数万人もの木浦市民がここ木浦駅広場に集結、何度かの決起大会やフェップル(トーチ)デモが開催されています。
この「木浦駅広場」をはじめ、木浦市内には5.18民主化運動の史跡が点在しています。いずれ必ず巡ることを決意します。

木浦駅広場(목포역광장:全羅南道 木浦市 連山路 98 (湖南洞 1-1)。5.18民衆抗争木浦史跡地1号)

 

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そういえばこの日はまだちゃんとした食事をとっていませんでした。まずは腹ごしらえから。やってきたのは事前にチェックしていた、木浦駅前の「海南(へナム)へジャンクッ」。

「へジャンクッ(해장국)」とは、二日酔いを和らげるため(これを韓国語で「解酲(ヘジャン)」という)、お酒を飲んだ直後またはその翌朝に食べるスープ料理一般をいいます。ご存じの方、あるいは実際にお世話になった方も多いことでしょう。
その具や味については、たぶん韓国で一番有名なヘジャンクッであるソウル・鍾路(チョンノ)の名店「清進屋(チョンジノク)」のそれのような、ソンジ(선지:牛の血を固めたもの)がたくさん入ったものを想像する方が多いかと思います。しかし実は前述したように「二日酔いを和らげるためのスープ」以上の定義はない一般名詞であるため、一口にヘジャンクッと言っても材料やスープの味は地域によって、さらにはお店によってまちまちです。

 

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こちらのお店の名物「テジピョヘジャンクッ」(돼지뼈해장국:テジは「豚」、ピョは「骨」の意)は、またの名を「ピョダギへジャンクッ」(뼈다귀해장국:ピョダギとは「個々の骨」の意)ともいい、カンジャン(醤油)あるいはテンジャン(味噌)ベースのスープに豚の背肉が背骨ごと入っている豪快な料理です。ちなみにこのピョダギへジャンクッにカムジャ(ジャガイモ)を投入したものが、日本でもお好きな方が多い「カムジャタン」です。もっともカムジャタンの名の語源にはスープに入っていた「カムジャピョ」と呼ばれる部位の骨に由来するいう説があり、その通りならばカムジャの有無にかかわらずカムジャタンと読んでもかまわないのかもしれません(語源の由来は諸説あります)。

 

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そしてやって来たテジピョヘジャンクッ。背骨のみならず大腿骨(たぶん)まで入っており、予想以上に豪快な盛り付けです。
ひと口。ああ、カンジャンベースのスープがうんまい。これは大好きな味。
柔らかく煮込まれた肉や腱を骨からこそぎ落としつつ食べ進めます。そのままかぶりついてもよいですが、スープに溶かしご飯を混ぜて食べると、これがもう猛烈にうんまい。ご飯との相性がこれほどまでに絶妙なスープはそうそうありません。あっという間に完食。

 

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こちらのお店「海南へジャンクッ」の営業時間は午前4時~午前0時、第1・第3日曜日休業。前述したようにKorail「木浦」駅のそば、まさに駅前にあり、徒歩約5分(約310m)で到達できます。
今回は12,000ウォンの「大」を頼んだつもりでしたが、伝票は普通サイズの9,000ウォンとなっていました。このボリュームで普通なのですから、大だと一体どれだけのものが出てくるのでしょう。こちらのお店は再訪するつもりなのでいまから楽しみです。

海南ヘジャンクッ(해남해장국:全羅南道 木浦市 三鶴路18番キル 2-2 (常楽洞1街 2-5))

 

木浦市の人口は約24万人。朝鮮半島の西南端、この一帯の中心都市である港町であり、近隣の多島海の島々とを結ぶフェリーの一大拠点となっています。
木浦の歴史は三国時代にまでさかのぼりますが、朝鮮時代末期の1897年の開港により急発展を遂げ、「日韓併合」直後の1910年10月には木浦府(市に相当)に改称。1932年には務安郡の一部を合併して人口約6万人となり、当時の朝鮮でも上位6位以内に入る都市であったそうです。こうした背景からここ木浦には、同じく朝鮮時代末期に開港された仁川港、また日本が収奪した米などを積みだした全羅北道(チョルラブット)の群山(クンサン)港などと同様に日本人あるいは朝鮮人資本の近代建築が市内中心部の随所に建てられ、かつ今日まで保存されています。
今回この木浦へ来たのは、ここからある島へ行く船に搭乗するため。したがって駅から少し離れた木浦沿岸旅客船ターミナルヘ移動しなければなりません。旅客船ターミナルへはタクシーで行けばすぐの距離ですが、この日は幸いにして出航まで少し余裕があったため、これら近代建築を巡りつつ旅客船ターミナルまで歩くことにしました。

 

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「旧湖南銀行木浦支店」。
1929年築。レンガの表面を赤い色のタイルで仕上げたこちらの建物は、実業家の玄俊縞(현준호:ヒョン・ジュンホ、1889-1950)氏が1920年に創業した湖南銀行の支店として建設されました。日帝強占期当時、朝鮮にあった銀行はほとんどが日本人資本である中、湖南銀行は朝鮮人資本の銀行として貴重な存在でしたが、1942年には朝鮮総督府の強要により東一(トンイル)銀行による吸収合併を受けています。近代金融建築としては木浦で唯一現存するものだそうです。国家指定登録文化財第29号。

旧湖南銀行木浦支店(木浦文化院)(구 호남은행 목포지점(목포문화원):全羅南道 木浦市 海岸路249番キル 34 (常楽洞1街 10-2)。国家指定登録文化財第29号)

 

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「旧木浦和信百貨店」。
1935年築。優美な曲線とアーチ型の窓が印象的なモダニズム建築のこちらの建物は、かつてソウル・鍾路に本店を構えていた「和信(ファシン)百貨店」の支店で、現在は「キム・ヨンジャアートホール」という看板が掲げられています。「旧朝鮮運輸木浦支店」として紹介されている事例も多く見られますが、今回訪れた近代建築の中では唯一文化財に指定されておらず、そのためか詳しい情報がほとんど見つかりませんでした。

旧木浦和信百貨店(旧朝鮮運輸木浦支店/キム・ヨンジャアートホール)(구 목포 화신백화점(구 조선운유목포지점 / 김영자 아트홀):全羅南道 木浦市 繁華路 75 (常楽洞1街 11-8))

 

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旧木浦和信百貨店(右端)の横から旧湖南銀行木浦支店の側を眺めた景色。この一帯はいまでこそ閑散としていますが、日帝強占期当時は「本町」と呼ばれ、前述のように百貨店も立地する一大繁華街だったそうです。2つの近代建築に挟まれて、日本家屋とみられる建物が残っています。

 

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「旧東本願寺木浦別院」。
1930年代築。日本式の木造の仏堂をコンクリートで再現した建物で、木浦では初の日本式寺院だとのことです。光復後の1957年から最近まで木浦中央教会として使用されていたそうで、仏閣の姿をした教会という韓国でも異色の施設だったようです。現在は「オゴリ文化センター」として使用されています。国家指定登録文化財第340号。

旧東本願寺木浦別院(オゴリ文化センター)(구 동본원사 목포별원 (오거리문화센터):全羅南道 木浦市 連山路75番キル 5 (務安洞 2-4)。国家指定登録文化財第340号)

 

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東本願寺木浦別院の近くには、木浦を代表するパン屋さん「コロムバン製菓」の本店があります。韓国5大ベーカリーに数えられることもあるというこちらのお店、立ち寄らないわけにはいきません。

 

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今回購入したのは、名物の「セウバゲット(새우바게트)」。セウとは「エビ」の意。写真では分かりづらいですが、パン生地にエビが練り込まれています。黄色いのはマスタードソース。1個4,500ウォン(約470円:当時)とパンにしてはなかなかの値段ですが、生地と酸味のあるマスタードソースが絶妙にマッチしてうんまかったです。

こちらのお店「コロムバン製菓」の営業時間は午前8時~午後10時、毎月第2火曜日休業。紹介したセウバゲット以外にも「クリームチーズバゲット(크림치즈바게트)」などが名物として知られています。次回の木浦訪問の際にもまた立ち寄りたいお店です。

コロムバン製菓(코롬방제과:全羅南道 木浦市 栄山路75番キル 7 (務安洞 1-3))

 

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「旧木浦日本領事館」。
1900年築。儒達山(ユダルサン)の麓に建つレンガ造り、ルネサンス様式のこちらの建物は、1907年まで在木浦日本領事館として使用され、「日韓併合」後の1914年からは木浦市の前身である木浦府の庁舎として使用されました。その後は木浦市庁舎、木浦市立図書館、木浦文化院を経て2014年からは「木浦近代歴史館」の1館として使用されており、領事館当時の大理石の暖炉などが現在も公開されているようです。史跡第289号。

 

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木浦近代歴史館には、1897年の木浦開港以降、日本の植民地支配と収奪に関する貴重な資料が数多く展示されていると聞きます。今回は時間の都合で入館しませんでしたが、次回はぜひ訪問したいと思います。

旧木浦日本領事館(木浦近代歴史館1館)(구 목포 일본영사관(목포근대역사관 1관):全羅南道 木浦市 栄山路29番キル 9-4 (大義洞2街 1-5)。史跡第289号)

 

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旧木浦日本領事館の下には、「平和の少女像」が静かにたたずんでいました。
前回、釜山で会ってからたった2週間。そのわずかな間にも日本では大阪市長により、あろうことか「慰安婦像」を理由とした米サンフランシスコ市との姉妹都市解消の判断がなされ、しかも広く世論の支持を得ている状況下にありました。こんなことが許されてよいのか。自らの非力さをただ詫びるしかありませんでした。

 

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「旧木浦府庁書庫」。
1932年築。旧木浦日本領事館の裏手にあるこちらの建物は、その名の通り旧木浦日本領事館が木浦府庁だった時期に書庫として建てられたもので、その建設には木浦刑務所の受刑者が動員されたとのことです。普段は内部に入れるようですが、この日はあいにく補修工事中のため立ち入ることはできず、周囲に組まれた足場のため外見も見づらい状況でした。

 

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旧木浦府庁書庫のすぐそばには、防空壕が口を開けていました。
こちらは第二次大戦中、日本軍が朝鮮半島への米軍侵攻に備えて建設したものです。調べた限りはっきりとはしませんでしたが、済州島(チェジュド)に無数にある防空壕と同じく、強制徴用された朝鮮人が多数動員されたものとみられます。こちらの防空壕は旧木浦府庁書庫とともに「旧木浦府庁書庫と防空壕」として、国家指定登録文化財第588号に指定されています。

 

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防空壕は無料開放されているため、少しだけ中に入ってみました。
内部には防空壕を掘る人々、そして監視役の日本の官憲とみられる再現人形が配置されています。
こちらも時間の都合で一部を撮影するだけにとどめましたが、次回訪問時には全通路を巡ることにします。

旧木浦府庁書庫と防空壕(구 목포부청 서고 및 방공호:全羅南道 木浦市 栄山路29番キル 9-4 (大義洞2街 1-5)。国家指定登録文化財第588号)

 

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かつてここ木浦は光州広域市ソウル特別市などを経て京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市へと(さらには朝鮮民主主義人民共和国平安北道(ピョンアンブット)新義州(シニジュ)市にまで)至る国道1号線、および全羅南道順天(スンチョン)市や慶尚南道キョンサンナムド)晋州(チンジュ)市などを経て釜山広域市へと至る国道2号線の起点であり、旧木浦日本領事館の下にはそのことを記念する「国道1.2号線起点紀念碑」が建てられていました。なお国道2号線については、その後の延長により現在は同じ全羅南道の新安(シナン)郡に起点が変更されています。

 

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「旧東洋拓殖株式会社木浦支店」。
1923年築。朝鮮総督府が「土地調査事業」を通じて安値で買い叩いたり文字通り奪ったりした土地の払い下げを受けて朝鮮最大の地主となり、朝鮮人小作農に貸し付けるなどして朝鮮の支配と収奪に積極加担した、悪名高き植民地経営企業「東洋拓殖株式会社」。その木浦支店として建てられたのが、こちらのルネサンス様式の建物です。
一時は老朽化に伴い解体が決定、撤去作業の着手にまで至ったそうですが、市民運動などにより一転して保存対象となり、現在は先に紹介した「木浦近代歴史館」の2館として使用されています。全羅南道記念物第174号。

旧東洋拓殖株式会社木浦支店(木浦近代歴史館2館)(구동양척식주식회사목포지점(목포근대역사관 2관):全羅南道 木浦市 繁華路 18 (中央洞2街 6)。全羅南道記念物第174号)

 

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そして目的地である「木浦沿岸旅客船ターミナル」に到着。木浦駅前の海南ヘジャンクッを出て、5つの近代建築に立ち寄って写真を撮ったりパンを買ったりしながらでもわずか1時間半に満たない行程でした。

 

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写真1枚目のチケット売場で乗船券を購入、2枚目の改札口からのりばの埠頭に進入します。実は事前に予約していたため、こんなにのんびり落ち着いた気分で街歩きができたわけです(当日でも空席はありましたが)。予約方法については次回のエントリーにて紹介します。

 

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精悍なデザインの高速船。午後1時発のこちらの高速船に乗船し、いよいよ目的の島へと向かいます。
続きは次回のエントリーにて。

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