かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

順天の旅[201908_05] - 曹渓山登山④美しい石造アーチの「昇仙橋」、仙岩寺門前名物のフギョムソ(黒ヤギ)トッカルビ

前回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅の2日目、2019年8月30日(金)です。 

 

仙岩寺広域図
この日の午前9時過ぎに「松広寺」(송광사:ソングァンサ)を発ち、曹渓山(조계산:チョゲサン、884mまたは887m)の最高点・将軍峰(장군봉:チャングンボン)を経由する登山も、7時間半を経てようやく最終目的地の「仙岩寺」(선암사:ソナムサ)に到着。しかし、この日の行程はまだまだ終わりではありません。

 

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山中の日没は早く、すでに日が落ちた仙岩寺を後にします。
先ほど訪れ、この時間にはすでに閉店していた先覚堂(ソンガクタン。売店)の前を再び通過。
この先覚堂の前には、長い楕円形をした中に島がひとつ浮かぶ小さな池があり、「三印塘」(산인당:サミンダン)と呼ばれています。
三印とは「諸行無常印」「諸法無我印」「涅槃寂静印」の三法印を意味し、仏教の中心思想を塘(池)の形で具現したもので、他の場所では見られないものだそうです。新羅時代の862年に道詵国師が造ったものが原形とも言われていますが、もっと新しいという説もあります。全羅南道記念物第46号。

 

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さらに進むと、仙岩寺でどうしても見たかったもうひとつの物件が現れます。
そう、前回エントリーでも少しだけ言及した、仙岩寺川にかかる宝物第400号の石造アーチ橋「昇仙橋」(승선교:スンソンギョ)。全長約14m、高さ約7m、幅約3.5mと立派な石橋です。
昇仙橋の特徴といえば、何と言ってもその形が虹のようだとして虹霓(ホンイェ、こうげい)と呼ばれる見事なアーチ。沢から見上げたその形があまりにも美しく、順天の観光関連コンテンツでは頻繁に目にします。順天市のランドマークと言っても過言ではない存在です。

 

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昇仙橋は朝鮮時代後期の1713年、一時は廃寺同然となった仙岩寺を再建した護岩(ホアム)大師(テサ)によって築造されました。
昇仙橋には、その建設にまつわるひとつの伝説があります。昇仙橋落成の十数年前、護岩大師はどうしても観音菩薩に会いたいと願い、そのために百日祈祷を捧げましたが願いがかなうことはありませんでした。護岩大師が落胆のあまり崖の上から身を投げたところ、突然現れた女性に命を救われます。すぐに姿を消したその女性こそが顕現した観音菩薩であると悟った護岩大師は、昇仙橋の境内に観音菩薩を祀る円通殿を建て、参道を分断する川に昇仙橋を架けた、というものです。
現在は文化財保護のためルートが変更されて脇道のようになっていますが、かつて昇仙橋は仙岩寺への参道上にあり、参拝者の誰もが渡る橋でした。

 

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写真は以前にこちらのエントリーでも紹介した、順天市と隣接する全羅南道宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)の「虹橋」(홍교:ホンギョ。宝物第304号)です(2017年10月撮影)。巨大な単一アーチの昇仙橋に対し小さめの3連アーチと形態こそ異なるとはいえ同様に美しい虹霓、かつ互いの距離の近さ(現在の道のりで約24km)から類似性も指摘される両者ですが、虹橋は24年後の1737年竣工であり、工法に若干の差異が見られるそうです。

 

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昇仙橋の少し仙岩寺寄りに建つこちらの建物は「降仙楼(カンソンルー)」といい、1929年に建てられたものです。神仙が天に昇る橋が昇仙橋ならば、こちらは神仙が天から降りる楼閣。すてきなネーミングです。その対照的な名称からも分かるように、降仙楼は仙岩寺との調和をなすことを目的に建てられたといい、昇仙橋のアーチ越しに降仙楼が覗き見える風景は一幅の絵画のような美しさを誇ります。「승선교」で画像検索すると大量に出てくるその姿を撮りたかったのですが、この日はすでに日が落ちて久しく、写真で見るよりも辺りは暗くなっており、沢に下りるのは危険でしたので断念しました。再訪した際にはぜひ写真に収めたいと思います。

 

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降仙楼の直下には1939年に造られた写真の小さなセメント橋があります。「仙源橋(ソノンギョ)」と呼ばれるこの橋には竣工年の「昭和十四年」などの銘文が刻まれており、うち年号「昭和」の部分は削られているそうです。日本が35年間の植民地支配でしてきたことを考えると当然の行為でしょう。訪問後に知ったため銘文の写真はありません。

 

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昇仙橋から見て仙岩寺川の下流側、駐車場寄りにも小さめの石造アーチ橋があります。
こちらも小さいとはいえ美しい石橋なのですが、昇仙橋が予想以上に立派すぎるため、こちらが昇仙橋だと間違えそうになるほどです。かつては昇仙橋と同じく、参道上にあったとのことです。

 

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参道沿いにあった浮屠(부도:プト。仏塔の一種)群。

 

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一柱門から20分あまり歩き、ようやくチケット売り場とバス停のある駐車場に到着。この日の朝に訪れた松広寺や、昨年(2018年)8月に訪問した江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)市の清平寺(チョンピョンサ)もそうでしたが、韓国の地方のお寺は駐車場や最寄りのバス停から結構歩かされることが多いようです。
松広寺と同じく、仙岩寺の駐車場にもまた門前の食堂街があります(写真)。ただこちらは松広寺のような堂々とした韓屋ではありません。

 

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駐車場を出てさらに市街地方面へ進むと、バス通り沿いに写真のような壁画が描かれたちょっとした壁画マウルがあります。愛嬌のある小坊主さんたちの姿に目尻が下がります。

 

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さらに進み、仙岩寺バス停の次である「槐木」(괴목:ケモク)バス停のあたりには、仙岩寺門前の名物料理である「フギョムソトッカルビ」の店がいくつかあります。
今回選択したのは、バス通りから仙岩寺川を渡った向こうにある写真のお店「郷土ガーデン」。郷土は「ヒャンド」、ガーデンは韓国語で「ガードゥン」と発音します。

 

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こちらのお店は仙岩寺川を見下ろすテラス席がたくさんあり、風情があります。ディナーバイキングもやっているらしく、多くの来客でにぎわっていました。

 

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食事に先立ち炭火が登場。本格派の店であることをうかがわせます。

フギョムソとは「黒ヤギ」、トッカルビとは固めて焼いた粗挽き肉に甘めのタレをまぶして食べる韓国風ハンバーグのことです。トッカルビには、以前にこちらのエントリーで紹介した光州(クァンジュ)広域市の名物「松汀(ソンジョン)トッカルビ」のように牛肉を用いることが一般的ですが、こちらは韓国で滋養強壮に効果があるとされる黒ヤギの肉を用いて供されます。黒ヤギといえば釜山広域市の観光地「金井山城(クムジョンサンソン)」の金井山城マッコリと並ぶ名物「フギョムソプルコギ」が有名ですが、まだ口にしたことはありません。黒ヤギ肉、そしてその肉で作るトッカルビは一体どんな味なのでしょうか。

 

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そしてやって来たフギョムソトッカルビ。いい肉色です。牛肉並みに高価なものですので、量はそこまで多くはありません。これを炭火でじっくり焼いて食べます。

 

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そして焼きあがったトッカルビ。まずはそのままひと口。ヤギ肉特有の香りは想像していたよりも控えめですがしっかりついています。そんなヤギの肉と独自の甘みのある味付けが絶妙なバランスを醸し出します。これ、かなりうんまい。ご飯と一緒に食べると何杯でもいけそうですが、あっという間にトッカルビがなくなりそうですので少しずつ切って食べ進めます。 

 

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一緒にやって来たパンチャン(付け合わせのおかず)の数々。種類が多いうえ、他のお店ではあまり見かけない山菜らしきものが多いです。写真2枚目下のひょろっとした植物は、トウキ(当帰。韓国語では「タンギ」)。漢方薬の材料でもよく目にするあれです。韓国の飲食店でこれが出てきたのは初めて。独特の香りがあります。これらをフギョムソトッカルビと一緒にサンチュで包んで食べてもうんまいのです。

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こちらのお店の店主らしき女性がとても親切な方で、わざわざトッカルビを焼いてくださるのみならず、どのおかずとトッカルビを一緒にサンチュでくるんで食べるとおいしいかを指南してくださるという。さらにはサービスの追加トッカルビ3個まで登場。下手っぴな韓国語のため来店早々すぐに日本からの訪問者だと見抜かれてしまっても、親切なご対応に終始されていました。できれば再訪して恩義に応えたいところですが、次はいつになるか分からないので、まずは日本で韓国憎悪の言説に抗うことで応えることを誓います。

日本では韓国での日本製品不買運動を歪曲的に取り上げて「いかに韓国人が日本を嫌いか」という自己投影そのものの報道に執心していますが、現実はこの通りです。しかし、日本政府による韓国への敵意むき出しの外交政策、歪曲してまで憎悪を煽る日本のメディア、そして街頭デモや日本語ネット空間にあふれるむき出しのヘイトを言論の自由だと許容してきたのは私たち日本社会の構成員であり、したがって韓国の人々を絶えず裏切ってきたのも私たちです。私はこれらに断固反対の立場とはいえ「自分には関係ない」などと回避する資格はありません。責任はひとえに私たち日本社会の構成員にあります。

 

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締めはすっぱうんまいメシル茶(ホットの梅ジュース)で。梅は順天市の名産品のひとつです。

 

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こちらのお店「郷土ガーデン」の営業時間は正午~午後9時、年中無休。
アクセス手段は前回エントリーで紹介した仙岩寺と同じく<1>番バスを利用し、終点「仙岩寺(선암사)」のひとつ手前の「槐木(괴목)」バス停で下車します。Korail「順天」駅からだと駅前の「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<1>番に乗車、約1時間03分で到着する終点「槐木」で下車、橋を渡って徒歩約2分(約160m)順天総合バスターミナルからだと徒歩約4分(約230m)の「バスターミナル(버스터미널)」バス停より市内バス<1>番に乗車(約58分)、以下同じ。なお「槐木」バス停は連続して2つあるので注意が必要です(仙岩寺方面行きは2番目の「槐木」で下車)。

郷土ガーデン(향토가든:全羅南道 順天市 昇州邑 昇州槐木2キル 3 (竹鶴里 632-1)) [HP]

 

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お店を出ると辺りはすっかり真っ暗に。事前に調べていた仙岩寺を午後8時05分に発つ<1>番バスに乗って、ホテル最寄りの在来市場「アレッチャン」へ戻ります。前述したように1時間以上かかることになっている距離ですが、夜間でしかも途中まで貸切状態だったためか、わずか40分ほどでアレッチャンに到着。

 

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この日(8月30日)は金曜日。毎週金・土曜の夜限定のアレッチャンの新名物「夜市場(ヤシジャン)」が開催中です。アレッチャンのバス停に到着するやいなや、会場から100mは離れているにもかかわらずステージイベントらしきサウンドが。いてもたってもいられず会場内へ直行します。

 

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アレッチャンの夜市場。規模だけを見るならば、夜市場の元祖である釜山の「富平(プピョン)カントン市場」、あるいは韓国でも最大級の夜市場である大邱(テグ)の「西門(ソムン)市場」ほどではないものの、ステージでは観客を巻き込んだショーイベントが開催されており、他にない独特の盛り上がりがあります。

 

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夜市場会場の屋内広場の天井には、なんと回転するミラーボールまで。これまで韓国でいくつもの夜市場会場を巡ってきましたが、さすがにこれは見たことはありません。
ちなみにこちらの屋内広場、末尾2と7の日の日中に開催されるアレッチャン五日市のメイン会場でもあり、開催当日は農産物などの露店で埋め尽くされます。ミラーボールの下で開催される五日市はたぶん韓国でも唯一でしょう。

 

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夜市場の醍醐味といえば、何と言ってもやはり数多く登場するグルメ屋台。韓国料理はほとんどなく、日本を含む海外の料理、あるいは無国籍料理が主流です。これはアレッチャンのみならず、元祖の富平カントン市場をはじめ韓国の夜市場に総じて見られる傾向で、非日常を演出したいという狙いがあるのかもしれません。

 

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数ある屋台の中から選んだのは写真のお店。こちらの屋台にも日本製品不買運動の意思表示である「No! Japan」の張り紙がありますが、日本人そのものが拒絶されているわけではないので利用します。

 

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f:id:gashin_shoutan:20190930232345j:plainこちらの代表メニューは、たっぷりのホワイトソースを乗せたキチョゲ(タイラギ)を殻ごと焼き、その上にトマトっぽいソースをかけたもの。これまた夜市場の醍醐味である、炎を用いた派手なパフォーマンスの後に渡されます。値段は5,000ウォン(約450円:2019年8月現在)とタイラギ入りにしては安いです。
熱々のホワイトソースの中には心地よい弾力のあるタイラギ貝柱に加え、パインになんとナタデココまで。びっくりしましたが、これが意外と合うのです。この発想はなかった。
お酒はカース(CASS)のブランドで知られる韓国のビール大手、OB麦酒の新製品「FiLGOOD(ピルグッ)」。こちらは厳密にはビールではなく日本でいう発泡酒に相当するもので、缶のふちにはローマ字で「HAPPOSHU」とあります。日本の発泡酒へのリスペクトなのかもしれません。

 

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9時を過ぎ、ステージイベントが終わっても盛り上がる来場者、そして屋台。そうした楽しい雰囲気の中にもひとつだけ惜しいのは、こちらのエントリーでも触れたように、会場内に面する常設店舗「61号ミョンテジョン」が臨時休業中であること。再開後の金土には以前のように、うんまいチルルッケティギムや各種ジョン、複数種類のマッコリを味わいつつ夜市場の雰囲気を楽しむことができるでしょう。店主さんの一日も早い快復を祈るばかりです。

 

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アレッチャンの夜市場は毎週金・土曜日の午後6時~午後11時開催。冬期はそれぞれ1時間ずつ繰り上がります。また前述したように末尾2と7の日に開催される五日市は、全羅南道はもとより韓国でも最大級のひとつとされ、それ自体が順天市の観光名所となっています(こちらの五日市の写真に限り2018年12月撮影)

 

「順天駅」バス停
アレッチャンへのアクセスは、Korail「順天」駅からであれば駅正面の「順天駅(순천역)」バス停より市内バス(写真のバス停であればどの路線でもOK)に乗って2つ先の「アレッチャン(아랫장)」バス停(所要約3分)で下車、徒歩約4分(約250m)全行程徒歩でも約17分(約1km)です。順天総合バスターミナルからは徒歩約10分(約600m)

アレッチャン(아랫장:全羅南道 順天市 昇州邑 長坪路 60 (豊徳洞 1264)) [HP]

 

こうしてお腹いっぱいになったところでホテルヘ戻り、4万歩超、約20kmの登山道を踏破した両足をなだめつつゆっくりと休むのでした。

それでは、次回のエントリーヘ続きます。

順天の旅[201908_04] - 曹渓山登山③文化財のトイレもあるユネスコ世界文化遺産「仙岩寺」の伽藍を歩く

前々回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅の2日目、2019年8月30日(金)です。

 

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この日の午前9時過ぎに「松広寺」(송광사:ソングァンサ)を発ち、曹渓山(조계산:チョゲサン、884mまたは887m)の最高点・将軍峰(장군봉:チャングンボン)を経由する登山も、7時間半を経てようやく最終目的地の「仙岩寺」(선암사:ソナムサ)に到着しました。
門前の売店「先覚堂(ソンガクタン)」から短い坂道を登ると、仙岩寺の正門であり、全羅南道有形文化財第96号にも指定されている「一柱門」(일주문:イルジュムン)が現れます。松広寺のエントリーでも書きましたが、4本以上の柱に支えられた一般的な楼門とは異なり、横一列に立った2本の柱でのみ支えられているため「一柱門」の名がついたといいます。

 

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この日の朝に立ち寄った松広寺のそれにも寺名や山名を示す扁額がありましたが、こちらのものは松広寺とは異なり宗門の記載はなく、ただシンプルに「曹渓山仙巌寺」とだけあります。改行の仕方を含めインパクトのある扁額です。 

 

仙岩寺伽藍図
仙岩寺は韓国に27ある仏教宗派のひとつ、韓国仏教太古宗(テゴジョン)に属し、ソウルの奉元寺(ポンウォンサ)とともに同宗の総本山となっています。
その名の由来には諸説あり、一説には遠い昔、神仙たちが曹渓山山頂近くの「ペバウィ」(배바위:「船の岩」の意。こちらのエントリーにて紹介)の上で囲碁を打っていたという伝説にちなんでその名がついたとされています。
仙岩寺はその創建についてもまた諸説があります。三国時代の529年に高句麗(コグリョ)の僧の阿道(アド)和尚(ファサン)が海川寺(へチョンサ)として創建したという説がありますがこれは疑問視されており、新羅時代末期の875年に道詵(トソン)国師(ククサ)が創建したのが始まりだというのが有力なようです。その後、高麗時代前期の1088年に大覚(テガク)国師義天(ウィチョン)が重創(再建)したとされています。

 

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1597年の丁酉再乱(慶長の役豊臣秀吉による2度目の朝鮮侵略)では大半の建物が焼失。その後17世紀半ばに再建の動きがありつつも再び大火に遭い一時は廃寺同然となりますが、同世紀末には護岩(ホアム)大師(テサ)が複数の殿閣を建てて再建。仙岩寺、いや順天市のランドマークというべき宝物第400号の石造アーチ橋「昇仙橋」(승선교:スンソンギョ。写真)もこのとき護岩大師によって築造されています。しかしその後また大火に遭ったことで再び廃寺状態となってしまいます。
このように仙岩寺が度重なる火災に見舞われるのは風水的見地による曹渓山の山強水弱の地勢のためだとして、1761年には曹渓山が清凉山(チョンニャンサン)、仙岩寺が海泉寺(へチョンサ)とそれぞれ水を連想させる名前に変えられたこともあります。それでも1823年にはまたもや大火に遭い、その後再建がなった時点で再び元の名前に戻されています。

 

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こうした歴史ある寺院であることから仙岩寺はそれ自体が史跡第507号に指定されているほか、曹渓山や松広寺とあわせて名勝第65号「曹渓山松広寺・仙岩寺一円」にも指定されています。さらに昨年(2018年)には「山寺、韓国の山地僧院」を構成する8つの寺院のひとつとしてユネスコ世界文化遺産にも登載されました。

 

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仙岩寺には松広寺のような国宝こそなく、文化財に指定された物件の総数も松広寺よりは少ないですが、それでも敷地内には宝物14点に全羅南道の各種文化財有形文化財・記念物・文化財資料)計11点、天然記念物1点などを擁し、うち建物や石塔など不動産の数では松広寺のそれを上回ります。また後述するように仙岩寺は韓国有数の梅の名所でもあり、加えて僧侶たちが栽培・収穫するお茶も名物として知られています。
余談ですが、順天市や隣接する全羅南道宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)などを舞台とする、本ブログでも度々紹介してきた韓国の大河小説『太白山脈』(태백산맥:テベクサンメク)の著者、趙廷来(조정래:チョウ・ジョンネ、1943-)氏がまさにここ仙岩寺の出身です(父が仙岩寺の僧侶)。
こうした理由に加え、前述した昇仙橋、そして韓国でも極めて珍しいある特殊な文化財(後述します)の存在もあって、私にとっては以前からどうしても訪れたい存在でした。

 

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話を戻して、一柱門を抜けて通り仙岩寺の境内に入ります。
売店もある「梵鐘楼(ポムジョンヌー)」の下を通り抜け、目の前にある「万歳楼(マンセルー)」という建物の脇を通り抜けると、仙岩寺の本堂であり宝物第1311号に指定されている1824年築の「大雄殿」(대웅전:テウンジョン)が現れます。

 

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大雄殿前の広場には、こちらも宝物第395号に指定されている、9世紀頃(統一新羅時代)建立の「仙岩寺東塔・西塔」の2基の石塔が建っています。広場は松広寺のそれよりも狭いですが、歴史ある大雄殿と2基の石塔が風景を引き締めています。

  

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八相殿(팔상전:パルサンジョン。全羅南道有形文化財第60号)。釈迦如来の生涯を8つの場面に分けて描いた「八相図(パルサンド)」を祀っている法堂です。

 

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仏祖殿(불조전:プルジョジョン。全羅南道有形文化財第295号)。仏祖殿とは、一般的にはその寺院を建てた僧侶や歴代の僧侶などの肖像画を祀るところですが、仙岩寺の場合は過去の7体と未来の53体の計60体の仏像を祀っているそうです。

 

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円通殿(원통전:ウォントンジョン。全羅南道有形文化財第169号)。初代の建物は1660年に建てられ、その後護岩大師によって1698年に建て直されましたが1759年の火災で焼失しており、現在の建物は1824年に再建されたものです。護岩大師の命を救ったという伝説のある観音菩薩が祀られています。

 

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仙岩寺の境内にあるこちらの木は、天然記念物第488号に指定されている「仙岩梅」(선암매:ソナンメ)であり、推定樹齢はなんと650年にもなるそうです。

 

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この「仙岩梅」のほかにも仙岩寺には、若いものでも樹齢300年以上という梅の木が無憂殿(무우전:ムウジョン。写真右側の建物)沿いに30本ほど植えられており、毎年3月頃になると満開になるというその姿は、それはもう美しいことこの上ないといいます。

 

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梅の並木道をさらに奥へ進むと、「覚皇殿」(각황전:カッカンジョン。全羅南道文化財資料第177号)があります。現建物は韓国文化財庁のページでは1760年築となっている一方、仙岩寺のHPではその後1823年に焼失し1835年に再建されたとなっています。覚皇殿は無憂殿ともども関係者以外立入禁止エリアにありますが、無憂殿の裏手に回るとこうして全体像を見ることができます。

 

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松広寺と同じく、仙岩寺にもまた仏教関連の文化財の数々を展示した「聖宝博物館(ソンボ・パンムルグァン)」があります。ただし訪問当日は工事中とのことで観覧はできませんでした。

さて、前述したように仙岩寺にはどうしても訪問したかった物件が2つありました。
ひとつは石造アーチ橋の「昇仙橋」で、これは境内の外、少し離れた場所にあるため帰りがけに寄ることにします(次回エントリーにて紹介予定)。

 

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そしてもうひとつが、写真の建物「順天仙岩寺厠間」。
「厠間」(측간:チュッカン)とはトイレのことで、それらの中でも寺院のものは特に「解憂所」(해우소:へウソ)と呼びます。憂いを解く所と書いて解憂所。すてきな名前だなと思います。

 

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さてこちらの厠間、なんと現役のトイレ建物そのものが文化財全羅南道文化財資料第214号)に指定されているという韓国でも稀有の物件です。単体で文化財指定されているトイレは、韓国ではこちら仙岩寺の厠間と、江原道(カンウォンド)寧越(ヨンウォル)郡の「報徳寺」(보덕사:ポドクサ)の解憂所の2件だけしかありません。
はっきりした築年は不明ですが、遅くとも1920年頃には存在したという歴史ある仙岩寺の厠間、どうしてもこの目で見てみたかったのです。

 

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厠間の建物は木造で、平面は丁字型をしています。これは韓国の解憂所の伝統様式で、この日の朝に訪問した松広寺の解憂所も同じ形態をしていました。

 

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厠間の出入口の上、特徴的な風板の下には「뒷간(ティッカン)」と右から書かれた木の札が掲げられています。뒷간とは直訳すると「後ろの所」の意味で、「便所」を婉曲的に表現した単語です。ここでは何故か「뒷(ティッ)」のパッチム(ハングルの下部につく子音字母)である「ㅅ」(サイシオッ)が、続く「간(カン)」の左上にくっついています。ある方にご教示いただいたところこれは誤りではなく、かつての文法に従った表記だとのことです。

 

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厠間の内部。向かって左側が男子用、右側が女子用となっています。松広寺にはあった男子用の小便器はこちらにはありません。

 

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男子トイレの内部は写真のように低い仕切りだけで扉すらなく、したがって入っている人がいれば頭が見えることになります。現在は扉付きの個室になっている松広寺の解憂所も、1993年に改装されるまではこうした形態だったそうです。
当然ながら水洗ではなく、木の床には四角い穴だけが空いており、穴の周辺にはおがくずらしきものが盛られています(写真はこちら)。穴の数メートル下には落ち葉が積まれており、出されたものはその中に落ちて自然分解されることになります。かつてはこれを畑の堆肥として用いていたようですが現在は衛生上そうもゆかず、廃棄物として処理されているそうです。

 

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ちなみに、松広寺にはなかった現代的な水洗トイレも厠間のすぐ裏手に建っています(写真奥)。しゃがむ姿勢が辛い、あるいは高いところや「穴」そのものが苦手という方はこちらを利用するとよいでしょう。

 

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裏側から見た仙岩寺厠間。実はトイレの空間があるのは2階で、建物自体はずっと低い土地に建っており、その地上部分にも扉があります。落ち葉が積まれたスペースはこの奥にあり、その中で自然分解され堆肥化したもの(現在は廃棄物)をここから取り出すようです。こうした規模の大きさ、また仙岩寺の参拝者がとても多かったことなどから「信徒が仙岩寺で用を足すとソウルに帰り着く頃やっと落ちる音がする」という冗談もあるほどです。

 

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写真は、仙岩寺厠間の手水鉢です。
韓国の著名な詩人、鄭浩承(정호승:チョン・ホスン、1950-)氏の作品に「涙が出るなら汽車に乗って仙岩寺へ行きなさい 仙岩寺の解憂所へ行って思い切り泣きなさい」で始まる詩『仙岩寺』があります。
氏はあるとき仙岩寺厠間を訪れ、その壁にあった言葉「大小便を体の外に捨てるように煩悩と妄想も未練なく捨てましょう」に感激してこの作品を生んだといいます。
私は今回、仙岩寺の厠間を訪問こそすれど「利用」はしませんでした。だからかどうかは分かりませんが、この文を書いている今日もなお煩悩や妄想は人一倍残っているように思います。次回訪問のときこそは、煩悩や妄想をその一部でも未練なしに捨て去ることはできるでしょうか。

 

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仙岩寺(ソナムサ)の入場時間は夏期が午前6時~午後7時、冬期が午前7時~午後6時。入場料は成人2,000ウォン(約180円)、学生1,500ウォン(約140円)。また内部にある「聖宝博物館」の入場時間は午前9時~午後6時(冬期は午後5時まで)、ただし午前11時~正午は昼休み。閉館30分前に入場締め切り。毎週月曜日と旧正月・秋夕の連休は休館、入館料無料(仙岩寺と共通)。
Korail「順天」駅からだと駅前の「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<1>番に乗車、約1時間06分で到着する終点「仙岩寺(선암사)」で下車、券売所や昇仙橋を経て一柱門までは徒歩約26分(約1.7km)順天総合バスターミナルからだと徒歩約4分(約230m)の「バスターミナル(버스터미널)」バス停より市内バス<1>番に乗車(約1時間04分)、以下同じ。このように順天の市街地から結構遠く、しかもバス停からもかなり歩かされるため、ある程度時間に余裕を持ったご訪問をおすすめいたします。写真は「仙岩寺」バス停にあった時刻表。「순천시출발(順天市出発)」とある左側の列は<1>番バスの始発「海龍大安(해룡대안)」バス停の時刻ですので、「順天駅」バス停の到着はこの10分程度後になるようです。

仙岩寺(선암사:全羅南道 順天市 昇州邑 仙岩寺キル 450 (竹鶴里 802)) [HP]

 

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伽藍を巡っていると、いつの間にか時計は午後6時近くに。テンプルステイの利用者と思しき僧衣姿の人々がスマホを手に、訪問時に通ってきた梵鐘楼の周辺に集まっています。そして午後6時。僧侶の方が梵鐘楼に登るや、「法鼓(ポッコ)」と呼ばれる巨大な太鼓をリズミカルに、かつ威勢よく叩きます。集まっていたのはこれを動画撮影するためだったようです。あまりにも小気味よいリズムであったため聞き惚れてしまい、動画に撮るのを失念してしまいました。

 

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次に「雲板(ウンパン)」という雲の形をした鉄の板、続いて「木鐸(モクタク)」と呼ばれる魚の形をした木魚(魚の内臓にあたる場所を内側から叩く)、そして梵鐘の順に奏でられます。法鼓と梵鐘がある梵鐘楼の近くには、もっと大きな梵鐘が吊り下がった梵鐘閣(ポムジョンガク:写真)があり、後半にはこの梵鐘が打ち鳴らされます。夕暮れの曹渓山一帯に鳴り響く梵鐘、かなりの迫力です。最後に梵鐘楼の梵鐘が鳴らされて、一連の儀式が終了します。

 

以上のうち、前半の法鼓以外については動画に収めてきました。 


仙岩寺、四物による夕方の儀式(全羅南道順天市)

 

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これらは毎朝と毎夕に執り行なわれている儀式だそうで、用いられる法鼓・雲板・木鐸(木魚)・梵鐘を総称して「四物(サムル)」というそうです。仙岩寺訪問を計画されている方は、この時間を狙って訪問されることをおすすめいたします。

 

それでは、次回のエントリーへ続きます。

麗水の旅[201810_01] - 1948年10月の「麗水・順天事件」現場踏査の旅

本来ならば今回は本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の旅の続きなのですが、今回は特別編として、約1年前の2018年10月28日(日)に訪問した全羅南道麗水(ヨス)市の旅を紹介したいと思います。
というのも、このとき麗水市内で主に巡った場所が、本エントリー公開日である本日(10月19日)のちょうど71年前に発生した「麗水・順天事件」(여수·순천사건:ヨス・スンチョンサコン)の史跡地であったからです。

 

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麗水半島と島嶼部により構成される麗水市は、その北西部で順天市と接しています。このときの旅では順天に宿をとり、午前中に麗水を訪問する予定を立てていました。宿はここ数回のエントリーにて紹介している順天の旅と同じ、市内最大の在来市場「アレッチャン」近くのホテル。

 

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まずは徒歩でアレッチャンヘ。周囲には韓国の市場商人から愛されているクッパのお店が軒を連ねています。今回はその中から「コンボンクッパ」を選択。
「健康(コンガン)に奉仕(ボンサ)」の略から屋号を取ったというこちらのお店、数あるアレッチャン周辺のクッパ屋の中でも特に人気の高いお店で、昼食どきには長蛇の列が形成されるとのこと。この日は開店直後の6時台の訪問なのでさすがに列はありませんでしたが、すでに3分の1くらいは席が埋まっていました。

 

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新築されたばかりのようで店内もトイレもきれいです。ちなみにこちらのお店、検索すると旧店舗らしき写真も出てきます。どうやら最近になって改築(拡張)されたようです。
韓国ではメニュー表左列のいちばん上の料理がそのお店自慢の料理である、という鉄則にならい8,000ウォン(約800円:2018年10月当時。以下同じ)の「국밥(クッパ)」を注文。

 

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やって来たクッパ。しっかりしたコクのある豚骨ダシのスープ。豚肉がごろごろ入ってお得感があります。うんまい。
そして食べ終わった午前7時頃には早くも広めの店内がほぼ満席。なるほど、人気店である理由が十分納得できました。

 

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こちらのお店「コンボンクッパ」の営業時間は午前6時30分~午後9時。名節(旧正月・秋夕)当日を含む前後3日間は休業。KoraiI「順天」駅からだと駅前の「順天駅(순천역)」バス停(写真)より市内バスに乗車(どの路線でもOK)、約2分で到着する「アレッチャン(아랫장)」バス停で下車、徒歩約3分(約190m)まっすぐ徒歩でも約18分(約1.1km)順天総合バスターミナルからだと徒歩約9分(約550m)
店名で検索すると、クッパの写真に交じって店舗前に長蛇の列が形成されている写真がいくつも出てきます。お時間に余裕のない方は、私のように早い時間帯のご訪問をおすすめいたします。

コンボンクッパ(건봉국밥:全羅南道 順天市 長坪路 65 (麟蹄洞 371-1))

 

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お腹がふくれた後はバスで順天駅へ移動、今度は全羅線(チョルラソンKTXに乗車します。
目的の麗水エキスポ駅への料金はわずか2駅で8,400ウォン(約840円)。ムグンファ号なら2,600ウォン(約260円)のところ3倍強ですが、この午前7時39分発(当時)のKTXが順天駅の麗水方面行き始発であり、次のムグンファ号まで1時間近くあるので仕方ありません。このほか順天~麗水間の移動手段には市外バスや市内バスもあるとはいえ、市外バスの終点である麗水総合バスターミナルは麗水エキスポ駅からかなり遠く、また市内バスだと麗水エキスポ駅付近まで優に1時間はかかるので、ここは料金よりも時間を優先します。

 

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約22分で麗水エキスポ駅に到着。麗水市は後述する『麗順抗争記録展』観覧のためこの前日(10月27日)にも訪問したばかりですが、そのときはひとつ手前の麗川(ヨチョン)駅で下車したので、こちらの駅の利用は初めてです。駅名の「エキスポ」は、2012年にここ麗水市にて開催された「2012麗水世界博覧会」にちなんだもので、その前年に麗水駅から改名されたものです。

 

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駅前南側の一帯には「2012麗水世界博覧会」の会場が。2009年に全羅線が高規格化されるまでは、この一帯に旧麗水駅がありました。

さて、ここからはいよいよ「麗水・順天事件」に関連する史跡地巡りの行程となります。

 

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麗水・順天事件」とは、1948年10月19日に麗水市にて発生した国軍国防軍第14連隊の一部将兵による蜂起、およびその鎮圧過程における一連の事件の総称であり、発生日の日付を入れた「麗水・順天10.19事件」、あるいは短縮した「麗順事件」などとも呼ばれます。
李承晩(이승만:イ・スンマン、1875-1965)初代大統領ほか親日派(日本による植民地支配への協力者。日本語の「親日」とは意味が異なることに注意を主流とする韓国政府の単独樹立、そして当時進行していた「済州4.3事件」への鎮圧出動命令などに反発した同連隊の将兵2千名あまりが蜂起し、同市や隣の順天市をはじめ全羅南道東南部を掌握。しかし、まもなく派遣された鎮圧軍(討伐軍。その他の国軍連隊)の攻勢により、蜂起軍は8日後の10月27日に鎮圧されています。なお蜂起軍の一部は鎮圧直前に光陽(クァンヤン)の白雲山(ペグンサン)を経て智異山(チリサン)方面へ逃走、その後山中に潜伏してパルチザンとなり反政府武装闘争を継続します。蜂起軍の幹部たちは翌1949年までに捕縛または射殺されますが、その兵士たちを含むパルチザンは闘争を継続、朝鮮戦争期には朝鮮人民軍の支援を受けつつ休戦後まで活動を続けました。
写真は訪問の前日(10月27日)に訪問した、麗水市内の「ギャラリーノマド」での企画展示『麗順抗争記録展』での展示物のひとつ、事件前の1948年6月に撮影された14連隊の集合写真です。 

麗水・順天事件」全9日間の概略は大体次の通りです。

  • 10月19日(1日目)
    午後9時、麗水市新月洞の駐屯地にて国軍第14連隊が蜂起
  • 10月20日(2日目)
    早朝までに蜂起軍が麗水市内を掌握。その後列車で順天駅へ移動し、午後3時に順天を占領
    午後3時、麗水市内の中央洞ロータリーにて人民大会開催
  • 10月21日(3日目)
    政府、叛軍討伐戦闘司令部を光州に設置。7連隊10大隊の兵力が投入決定
  • 10月22日(4日目)
    マスコミが大々的に事件報道を開始
    午後3時、現在の順天市内にて鎮圧軍と蜂起軍による最初の戦闘。夕方には蜂起軍が外郭地域から撤退
  • 10月23日(5日目)
    午前11時、鎮圧軍が順天市内全域を奪還
  • 10月24日(6日目)
    鎮圧軍、麗水市内へ第2次攻撃を開始。麗水市蓮灯洞のイングブにて戦闘。麗水にいた蜂起軍と人民委員会メンバーが光陽の白雲山へ逃亡
  • 10月25日(7日目)
    政府の国務会議、麗水・順天地域に戒厳令を宣布(大統領令13号)
  • 10月26日(8日目)
    午後3時、海軍および5連隊による麗水市内への第3次攻撃開始。麗水市内で火災発生。午後には鎮圧軍が麗水市内の重要拠点を掌握
  • 10月27日(9日目)
    午前8時45分、陸海空3軍の合同作戦開始。艦砲射撃などにより麗水市内で火災発生
    午後2時、鎮圧軍が麗水市内を完全掌握。これ以降、麗水市内で蜂起軍協力者の割り出し開始

 

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9日間の「麗水・順天事件」の期間中、および鎮圧後の事後処理の過程では後述するように無数の市民が虐殺されており、一説には1万人以上というその大半が鎮圧軍側によるものとみられています。写真は『麗順抗争記録展』にあった犠牲者数に関する展示パネル。

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14連隊の蜂起は同じ年に発足したばかりの韓国政府を転覆する目的のものであり、その蜂起の立役者となった池昌洙(지창수:チ・チャンス、1906-1950)特務上士(写真は『麗順抗争記録展』での池昌洙に関する展示)ほか、朝鮮半島の共産化を目論んでいた南朝鮮労働党(南労党)メンバーが関与していました。そのため、この「反乱」事件は李承晩政権による反共政策強化のきっかけとなり、同年12月には「国家保安法」が制定されています。日本の「治安維持法」をモデルに共産主義勢力の処罰を定めたこの法律は、李承晩政権に始まり朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)政権を経て全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)政権へと至る強力な反共国家の形成の基礎となりました。
こうした背景により、14連隊は済州島での「暴徒」討伐命令に「抗命」して「反乱」した「反乱軍」であり、「パルゲンイ」(「アカ」の意)と定義されました。また鎮圧軍により虐殺された人々もその一味の「附逆者」(附逆とは「国家への反逆」の意)であるとされ、遺族たちは長年に渡って肩身の狭い思いを強いられてきました。
しかし近年の「済州4.3事件」再照明に関連し、14連隊の行動は国家権力による同事件への不当な鎮圧命令の拒否という観点で、一転して一定の評価を受けるようになりつつあります。またその蜂起が契機とはいえ、14連隊とは別次元で鎮圧軍の暴挙に立ち上がった市民たちの行動はまさに「抗争」そのものであり、後の民主化運動の系譜に連なるものとして評価されるようになっています。こうした見直しの結果、かつては「麗水・順天反乱事件」「麗水14連隊反乱事件」などと呼ばれた事件名称から「反乱」が消え、また近年では「反乱軍」あるいは「叛軍」と呼ばれてきた14連隊を「蜂起軍」と言い換える動きが出ています。以下、本ブログでもこれに準じた用語を用いることとします。

 

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このように「麗水・順天事件」には以前から強い関心があり、その史跡地を巡って直にこの目で現場を見てみたいという思いが募った結果、今回の訪問へと至った次第です。
この日訪問予定であった「麗水・順天事件」の史跡地は、麗水の原都心(원도심:ウォンドシム。近年新たに開発された繁華街(新都心)に対し、旧来の中心地を指す)のあちこちに点在しています。そのためこの日はまずタクシーで郊外の史跡地を巡り、それから中心部の史跡地をバスや徒歩で巡る計画を立てていました。なのでまずはは麗水エキスポ駅でタクシーに乗り込み、事前に用意した韓国語説明入りの地図を見せて各目的地へ向かうことに。

 

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麗水エキスポ駅から最初の史跡地へ向かう道路「望洋路(マンヤンノ)」の途中には、写真の「馬来(マレ)第2トンネル」があります。

 

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馬来山(マレサン)を貫通する全長640mのこのトンネルは1920年代後半頃、韓国を支配していた日本によって軍用道路として建設されたものです。建設記録は発見されていませんが、状況からこれと近い時期(1928年)に着工された全羅線のうち馬来トンネル(旧線)の建設時と同様、中国人や朝鮮人などが過酷な現場で使役されたとみられています。韓国初の道路専用トンネルでもあり、国の登録文化財第116号にも指定されています。
ちなみに、馬来第2トンネルというからには馬来第1トンネルもまた存在します。この第1トンネルは1926年に日本軍の軍糧米の倉庫として建設されたもので、現在は閉鎖されているとのことです。

 

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馬来第2トンネルはわずか1車線分の幅しかなく、危険であるため歩行者や自転車は進入禁止です。自動車は一方通行でこそないものの、両サイドの出入口にて信号により進入が統制されています。かつて信号がなかった頃は南側(麗水エキスポ駅方面)へ向かう車を優先とし、反対方向の車が対向車と出会ったときには約100mおきの退避スペースに入るルールとなっていたそうです。

 

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馬来第2トンネルの内部。コンクリートの内壁は出入口付近のみで、大半は掘りっぱなしのごつごつした岩肌をむき出しにしています。あまりにもインパクトのある光景です。建設当時、中国人や朝鮮人労働者たちは近代的な建設機械や工具ではなく石ノミなど手件業で掘らされたといい、当時の姿をほぼそのまま残しています。天井部の蛍光灯により内部は意外と明るく、退避スペースは簡単なライトアップもなされていました。前述したようにトンネル内は歩行者通行禁止ですので、写真は運転手さんにお願いして短時間だけ停めてもらって撮影したものです。

馬来第2トンネル(마래 제2터널:全羅南道 麗水市 徳忠洞。国家指定登録文化財第116号。リンク先は麗水エキスポ駅側の出入口の位置)

 

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馬来第2トンネルを抜けてすぐの左側に駐車スペースがあり、そこに車を停めてもらいます。そこから少し望洋路を北へ向かって歩き、最初に左に折れる細い坂道を登った先の斜面に、この日最初の史跡地「兄弟墓」(형제묘:ヒョンジェミョ)があります。

 

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麗水・順天事件」当時、この一帯は万聖里(マンソンニ)と呼ばれていました。事件鎮圧後の1949年1月13日、蜂起軍(14連隊)に協力したとの容疑で麗水市内の「鍾山(チョンサン)国民学校」に収容されていた「附逆嫌疑者」の人々のうち有罪とされた125人が万聖里のこの場所に連行され、憲兵たちに銃殺されたうえで油をかけて焼かれた、まさにその現場です。目撃者によると銃殺された人々の遺体は5人ずつ5層に積み重ねられて3日に渡り焼かれたといい、また人々を焼いた鼻を突く臭いはその後1ヵ月以上も現場一帯に残ったといいます。
虐殺後も遺族たちは長らく現場立ち入りを禁じられ、ようやく遺骨を収集できた時点では誰の骨であるか区分できない状態であったため、遺骨をひとつにまとめて埋葬することで来世では兄弟のように仲良く過ごしてほしいとの願いから「兄弟墓」と名づけられたそうです。

兄弟墓(형제묘:全羅南道 麗水市 望洋路 141 (万興洞 162-2))

 

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こちらの写真は「麗水・順天事件」関連ではありませんが、済州(チェジュ)特別自治西帰浦(ソギポ)市、摹瑟浦(モスルポ)地区に建つ「百祖一孫之墓」(백조일손지묘:ぺクチョイルソンジミョ)です。麗水訪問の4ヵ月前、昨年(2018年)6月に訪問したこちらの墓には、1950年6月25日の朝鮮戦争(韓国戦争)勃発直後に敵性があるとして予備検束され、同年8月20日に松岳山(ソンアクサン)ソタルオルム(オルムとは済州島最高峰の火山、漢拏山(ハルラサン、1950m)の寄生火山)にて虐殺された住民132人の遺骨が埋葬されています。こちらもまた長らく遺骨収拾を禁じられたため、犠牲者の遺骨は誰のものか特定できませんでした。132人の異なる祖先が同じ日に1か所で亡くなり遺骨もひとつになったので、その子孫もまたひとつだという意味で「百祖一孫之墓」の名が付けられたとのことです。
時期こそ異なりますが、「兄弟墓」の犠牲者たちと同じような運命をたどることを強いられた人々の追悼施設であり、また先の「兄弟墓」の縦長の案内板にも言及があったことから、今回特別に紹介するものです。

 

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「兄弟墓」から下り、タクシーを停めた駐車スペースに戻ります。実はここにも「麗水・順天事件」関連の碑石があります。
駐車スペースの奥にある写真の碑は「麗順事件犠牲者慰霊碑」といい、万聖里で殺害された人々を悼むため「麗水・順天事件」61周忌の2009年10月に建立されたものです。

 

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ここ万聖里で虐殺された人々は、先の「兄弟墓」で祀られている125人だけではありません。「麗水・順天事件」直後の1948年11月上旬頃、後述する「鍾山国民学校」の校庭にて「附逆者」と一方的に判定された数百名もの人々がこの一帯に連行され、虐殺されています。
この慰霊碑の建立に際し、その碑文に「無辜の罪で虐殺された」と刻むことを要望した遺族たちと、国や保守派に配慮し「犠牲となった」という表現に留めようとした麗水市との間で意見の対立が生じた結果、建立された碑の裏側には次の写真のような一文だけが刻まれました。

 

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この「・・・・・・」という6つの点に、数十年を経てなお残る「麗水・順天事件」を巡っての理念や見解の対立が象徴的に込められています。

麗順事件犠牲者慰霊碑(여순사건희생자위령비:全羅南道 麗水市 万興洞 149-6)

 

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「麗順事件犠牲者慰霊碑」のある駐車スペースの道路を挟んだ向かいは海であり、海岸沿いには高規格化により廃線となった旧全羅線の線路が通っています。「麗水・順天事件」2日目の1948年10月20日朝、蜂起軍(14連隊)の将兵が列車で順天へ向かう際に通ったこの線路は、現在はレールの上を走る足漕ぎ式のアクティビティ「麗水海洋レールバイク」のルートとして再利用されています。70年前の悲惨な出来事が嘘のように穏やかで澄んだ麗水の海、そして楽しげに通り過ぎてゆくレールバイク。 

 

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再びタクシーに乗って次の史跡地へ移動します。
こちらは新月洞(シノルドン)という地域で、「兄弟墓」や「麗順事件犠牲者慰霊碑」と同様に海沿いですが、先ほどは東側で海に面していたのに対し、こちらは南側で面しています。

 

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ここ新月洞の山側、現在はハンファ(韓国火薬)グループの工場がある一帯にはかつて日本軍の駐屯地が、また海側には敗戦により未完となった水上飛行機用滑走路の工事現場があったそうです。光復(日本の敗戦による解放)後、主のいなくなった駐屯地は米軍政に接収され、その後大韓民国の建国により発足した国軍が譲り受けます。ここに駐屯していたのが、まさしく14連隊であったわけです。
そして1948年10月19日の午後9時、ここ新月洞にて14連隊が最初に蜂起することになります。 

 

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海岸沿いの歩道には、写真の「麗水・順天事件」に関する案内板が建てられています。訪問に先立っての下調べでは、以前の案内板が台風で飛ばされて以来そのままだという情報を得ていましたが、新造されたことがわかりひと安心です。

 

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案内板上部のイラストにあるビラらしき紙には、次の文字が書かれています。

愛国人民に呼訴する
・・・・・
2か条の綱領
1. 同族相残決死反対
2. 美軍即時撤収
済州討伐出動拒否兵士委員会

(注:「同族相残」:同族同士で殺し合うこと、「美軍」:米軍)

14連隊駐屯地(14연대 주둔지:全羅南道 麗水市 新月洞 1171-2。リンク先は案内板の場所)

 

この少し前、案内板より市街地寄りにあるハンファのゲート前で工場側にカメラを向けたところ守衛の人に制止されるトラブルがありましたが、同行していたタクシーの運転手さんが取りなしてくださったおかげて事なきを得ることができました。これ以前にも私の要望に都度都度応えてくださるのみならず、坂の上の「兄弟墓」までわざわざ一緒に登ってきてくださったり、「麗水・順天事件」に関する知識もお持ちだと判明した運転手さん。当初はここ新月洞で下車してバスでの踏査に切り替える予定でしたが急きょ変更、残る全史跡地を一緒に巡ることにします。

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再び市街地に戻り、次にやって来たのは「麗水西初等学校(ヨス・ソ・チョドゥンハッキョ)」。初等学校は日本の小学校に相当します。

 

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当時は「西国民学校」と呼ばれていたこちらは、事件9日目(最終日)の10月27日に麗水市内を奪還した鎮圧軍が同日以降に市民たちを校庭に集め、「附逆嫌疑者」の1次判定を実施した場所です。
鎮圧軍はその判定方法として、俗に「指の銃(손가락 총)」と呼ばれる手法を用いました。まずは別の市民たちに対し、蜂起軍への協力者がいた場合にはその者を指で差せと命令します。続いて「附逆嫌疑者」たちを連れてきてその市民たちの列の間を歩かせ、指を差されたものは有罪だとする判定方法です。こうして「附逆者」だと判定された者は「即決処分」、つまり裁判を経ずにその場で処刑されました。指を差されたものはすなわち死、まさしく「指の銃」です。
このような判定方法は当然ながら不正確かつ不公正なものであり、また以前からの怨恨などで事実無根にもかかわらず指差されたケースもあったりと、多くの人々が無実にもかかわらず「附逆者」として処刑されたとみられています。
ここで嫌疑が晴れなかった者は後述する「鍾山国民学校」に連行、2次裁判に付されました。

麗水西初等学校(여수서초등학교:全羅南道 麗水市 西校1キル 29 (西校洞 898))

 

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次の史跡地は原都心の北側、蓮灯洞(ヨンドゥンドン)と呼ばれる地域にあります。
鐘鼓山(チョンゴサン)と将軍山(チャングンサン)という2つの山に挟まれたこの一帯は俗に「イングブ」(인구부/잉구부)と呼ばれています。左に曲がった地形のため本来ならば「ウェングブ」となるべきところ、麗水地域のなまりのために「イングブ」となったとのこと。

 

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「イングブ戦闘地」と呼ばれる史跡地が位置する写真1枚目の狭い道路は、現在でこそその地位をいくつもの幹線道路に明け渡していますが、事件当時この道は麗水と順天とを結ぶ重要な街道でした。
事件5日目の1948年10月24日、前日に順天の蜂起軍を一掃した宋虎声(송호성:ソン・ホソン)総司令官配下の鎮圧軍部隊は、麗水市内の蜂起軍を掃討すべくここイングブに差し掛かったところ、待ち伏せしていた蜂起軍の奇襲を受けます。激戦を経て鎮圧軍部隊は総崩れとなり、宋虎声総司令官も車両から転落して鼓膜損傷の重傷を負います。このあと蜂起軍は鎮圧軍の総攻撃を予想し、麗水を脱出して現在の光陽市方面に逃れ、智異山などの山中に潜伏してパルチザンとなりました。

イングブ戦闘地(인구부 전투지:全羅南道 麗水市 蓮灯1キル 74-2 (蓮灯洞 443-11)。リンク先は案内板の場所)

 

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このイングブの道路は前述したように順天方面への街道であった歴史から、いくつかの文化財が現在も残されています。
写真は「イングブ戦闘地」の少し手前(原都心寄り)にあった「麗水蓮灯洞ポクス」。「ポクス(벅수)」とは、集落の守護神的な役割で村外れなどに立てる、人の顔を彫った男女一対の木像や石像のことです。標準語の「チャンスン(장승)」といえばご存じの方も多いことでしょう。道路を挟んで向かい合わせに立つ蓮灯洞のポクスは、西側(谷側:写真1枚目)が女、東側(鐘鼓山側:2枚目)が男だそうで、一対で国の民俗文化財第224号に指定されています。いかついながらもどこかユーモラスな表情に親しみを感じます。

麗水蓮灯洞ポクス(여수연등동벅수:全羅南道 麗水市 蓮灯洞 370。国家民俗文化財第224号)

 

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こちらの写真は「麗水節度使安潚事蹟碑」という石碑、またそれを格納した碑閣と呼ばれる建物で、朝鮮時代後期の1809年に全羅左道水軍節度使(水軍の司令官)として麗水に赴任してきた安潚(안숙:アン・スク)のいくつかの功績を称えて建てられたものです。全羅南道文化財資料第203号に指定されています。
運転手さんはこうした地元の文化財の知識もあるようで、その前を差し掛かる度に教えてくださったおかげでこれらを観覧し写真に収めることもできました。

麗水節度使安潚事蹟碑(여수연등동벅수:全羅南道 麗水市 蓮灯洞 436-2。全羅南道文化財資料第203号)

 

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次にやって来たのは「麗水中央初等学校(ヨス・チュンアン・チョドゥンハッキョ)」。
1948年10月の「麗水・順天事件」当時、この学校は「鍾山(チョンサン)国民学校」という名前でした。前述したように鎮圧軍(国軍)は、10月27日より市民を麗水市内の学校校庭や空き地などに集結させ、前述した「指の銃」などの方法により蜂起軍への協力者とされた「附逆嫌疑者」の捜査を開始します。ここ鍾山国民学校は、他の集結地で嫌疑が晴れなかった者への2次裁判の場所として用いられ、校庭は裁判あるいは処刑を待つ者たちで埋め尽くされていたといいます。鍾山国民学校での処刑は事件後2ヵ月も続き、麗水で最も多くの犠牲者を出した場所だとされています。

 

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「附逆者」への処刑は校庭の裏で執行され、その遺体は地面に掘った穴に投げ込まれ埋められたそうです。処刑の手段は銃殺のほか、ここ鍾山国民学校では「白頭山の虎」の異名を持つ第5連隊1大隊長、金宗元(기종원:キム・ジョンウォン)により日本刀で斬首されるケースもありました。このように「麗水・順天事件」においては蜂起軍による犠牲者よりも鎮圧軍や警察などによる処刑の犠牲者が圧倒的に多く、本エントリー前半でも紹介した『麗順抗争記録展』のパネルによると、加害者が確認された事例のうち約85%が軍人や警察であるとのことです。

麗水中央初等学校(旧・鍾山国民学校)(여수중앙초등학교 (구 종산국민학교):全羅南道 麗水市 ハメル路 35 (鐘和洞 943))

 

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そして今回訪問の「麗水・順天事件」史跡地では最後の場所となる「中央洞(チュンアンドン)ロータリー」に到着。中央洞ロータリーは麗水の原都心の中心街にあり、その真ん中にはみなさまもよくご存じ、忠武公(チュンムゴン)李舜臣(이순신:イ・スンシン、1545-1598)将軍の巨大な銅像が建っています。
こちらは事件2日目、麗水市内が蜂起軍によって掌握された後の10月20日午後3時に、1千人もの市民が集まった中で人民大会が開かれた場所です。ただし、残念ながらここには「麗水・順天事件」に関する案内板はないようです。 

 

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大会では人民委員会の組織を決定、6項目からなる決議案を採択します。写真は前述した「ギャラリーノマド」での『麗順抗争記録展』にあった決議案に関する展示パネルで、拙訳による内容は以下の通りです。

6か項決議案

  1. 本日より人民委員会がすべての行政機構を接収する。
  2. 我々は唯一の統一された民族政府である朝鮮人民共和国を保衛し忠誠を誓う。
  3. 我々は祖国を米帝国主義に売り渡している李承晩政府を粉砕することを誓う。
  4. 無償没収、無償分配の民主主義土地改革を実施する。
  5. 韓国を植民地化しようとするすべての非民主的な法令を無効とする。
  6. すべての親日民族反逆者と悪質警察官等を徹底的に処断する。

鎮圧軍による市内の奪還後、この人民大会に参加したというそれだけの理由で「附逆者」として拘束、処刑された市民もいるとのことです。

中央洞ロータリー(중앙동로터리:全羅南道 麗水市 中央洞)

 

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この中央洞ロータリーでタクシーを下車、ここまで連れて来てくださった運転手さんとのお別れです。
約1時間40分の同行中ずっと親切な対応に終始し、しかも「麗水・順天事件」や沿線の文化財に関する知識も豊富であった運転手さん。麗水エキスポ駅で偶然にもこの方のタクシーに巡り合ったのは本当に幸運だったと思います。おかげさまで充実した旅となりました。メーター上の料金表示に少しばかりの気持ちを上乗せした4万ウォンを手渡しし、握手して別れを告げます。運転手さん、本当にありがとうございました。

 

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運転手さんと別れたのは午前11時少し前。この後も正午近くまで麗水原都心の街歩きが続くのですが、長くなるうえエントリーの主題からも外れるので今回はここまでとし、これらの紹介は後の機会に譲ることといたします。
写真はこの後1時間くらいで巡った場所で、順に中央洞ロータリーそばにあった「亀甲船(コブク船)」の復元展示(内部入場可)、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(原題『택시운전사』)序盤でドイツ人ジャーナリストのピーターと李記者が密談をした喫茶店の撮影地「カナダ茶室(タシル)」、姑蘇洞(コソドン)という地域の丘の上に広がる壁画村「姑蘇1004壁画マウル」、そして同壁画マウルから見下ろした麗水の原都心です。
わずか1時間、それも徒歩でこれだけの(実際にはまだ他にもある)名所を巡れるのも麗水の魅力だと思います。

 

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これ以外にも麗水には島全体が観光名所となっている「梧桐島」(오동도:オドンド)や、原都心とその向かいの突山島(トルサンド)との間を結ぶロープウェイ(韓国ではケーブルカーと呼ぶ)、そして名物のハモ(鱧。韓国でも一般に「ハモ」と呼ぶ)をはじめ近海の多島海から水揚げされた海の幸によりもたらされる海鮮料理の数々などなど、無数の観光資源が存在します。
それら観光資源の中でも麗水の「顔」というべき場所が、1598年に建てられ国宝第304号にも指定されている「鎮南館」(진남관:チンナムグァン)です。現在は修復工事中のため写真のように建物全体に巨大な覆いがかけられていますが、来年(2020年)には工事が終わり、再びその威容を見られるようになるとのことですので、その時期を見計らってぜひとも再訪したいと思います。

次回からはまた、本年(2019年8~9月)の順天の旅に戻ります。ご期待ください。

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