かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

順天の旅[201908_07] - 目と舌で堪能する「楽安邑城民俗村」、100年前の3.1運動万歳デモの現場を歩く

前回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅の3日目、2019年8月31日(土)です。

 

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順天市楽安面(ナガンミョン。面は日本でいう「村」に相当する地方自治体)にある「楽安温泉(ナガン・オンチョン)」を出て、この日の主目的地である「楽安邑城民俗村」(낙안읍성민속촌:ナガンウプソン・ミンソクチョン)へ徒歩で向かいます。

 

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その少し手前、「楽安邑城」バス停のそばには写真の塔が建っています(この写真に限り2016年10月撮影)。

 

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こちらは「三・一独立運動紀念塔」といい、1919年4月13日、楽安の市の日に住民約150名の参加により挙行され、その後日本憲兵により鎮圧された万歳運動を記念して、まさにその現場である楽安邑城のそばに建てられたものです。

 

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楽安での万歳運動は、地元の農民であった金鍾胄(김종주:キム・ジョンジュ)と劉興柱(유흥주:ユ・フンジュ)の両志士らの主導によるものです。両志士らは4月13日の正午頃に楽安邑城外で群衆の呼応を誘導、午後2時ごろに150名あまりのデモ隊とともに「独立万歳」を叫びつつ楽安邑城内へ向かいます。デモ隊が楽安邑城に集まるや日帝憲兵が武力制止し、両者間に衝突が起きて負傷者が多数発生、主導者たちが逮捕されました。その後の裁判では金鍾胄と劉興柱の両志士が懲役1年6ヵ月、その他4名も同6ヵ月の実刑判決を宣告されています。

 

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写真は昨年(2019年)12月に訪問した全羅南道莞島(ワンド)郡、所安島(ソアンド)の「所安抗日運動記念館」にあった、1919年に朝鮮全土で展開された万歳運動「3.1運動」の発生地を示した展示物です。
日本においてこうした事実は歴史の教科書でこそ言及されているものの簡潔な説明に留まり、万歳デモが徹底して非暴力であったことも、それを弾圧した日本の憲兵などにより数千人もの犠牲者を出したこともほとんど知られていないのが実情です。また運動100周年であった昨年3月には日本の世論全体がその記念行事を「反日」として敵視し、差別や憎悪の正当化事由としたがったことは記憶に新しいかと思います。私たちはこうした3.1運動の事実も、また自ら構成員である社会での深刻な現状も直視しなければなりません。

 

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楽安の「三・一独立運動紀念塔」、私が訪問した当時は芝生の中に塔だけが建っているものでしたが、この少し前には3.1運動100周年を記念してテーマ公園への改装工事が計画されているとの報道がありました。完工後には独立宣言文を刻んだ造形物やムクゲの花壇などを併設し、周囲も韓屋の塀で囲み、誰でも立ち入ることのできる広場として生まれ変わるとのことです。その後の進捗は分かりませんが、史実を記憶継承する場として維持され発展することを願っています。

 

旧楽安郡地域
ところで、この「三・一独立運動紀年塔」や楽安邑城民俗村の位置する楽安面は、その属する順天市の中心部よりも、隣接する宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ。邑は日本でいう「町」に相当する地方自治体)の方がずっと近い位置にあります。それもそのはずで、実はかつて楽安と筏橋は同じ「楽安郡」に属していました。
「楽安郡」は現在の順天市楽安面と外西面(ウェソミョン)、宝城郡筏橋邑のほぼ全域、および順天市別良面(ピョルリャンミョン)と高興(コフン)郡の一部を領域としていた郡で、遅くとも高麗時代の930年にはその名が記録に残されています。
1908年に楽安郡は突然廃止され、その領域は当時の順天郡(後の昇州(スンジュ)郡。現在は順天市の一部)と宝城郡、高興郡に分割編入されました。当時はまだ「韓国併合」前の大韓帝国時代でしたが、その廃郡はすでに大韓帝国保護国化していた日本の意向だという説が有力です。
旧楽安郡は高麗時代から幾度となく倭寇に襲われたこともあり抗日意識が強いとされた地域で、羅喆(나철:ナ・チョル、1863-1916)氏をはじめとする独立運動家を生んできた土地でもありました。また廃郡の年の1908年には、当地一帯にて安圭洪(안규홍:アン・ギュホン、1879-1910)志士の義兵部隊による武装抗日闘争が激化していました。こうした抗日運動の一大根拠たる楽安郡を廃絶し、楽安と筏橋の両中心地を別々の郡に引き裂いてその弱体化を期するということが、日本による楽安郡廃郡の理由だとみられています。

余談ですが、こうした経緯もあってか筏橋邑は編入先の宝城郡の郡庁所在地である宝城邑に強い対抗心を持つとされ、その様子は筏橋を主舞台とした趙廷来(조정래:チョウ・ジョンネ、1943-)氏の大河小説『太白山脈』でも描かれています(筏橋の警察署が宝城邑のそれより格上であることを自慢する描写など)。また2005年には宝城郡議会のミスで「筏橋コマク祭り」(こちらのエントリーにて紹介)の予算が全額削減されてしまう不手際があり、これに怒った筏橋邑民により宝城郡からの離脱と順天市への編入を求める署名運動が展開されたこともあります。

 

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そしてついに、楽安邑城民俗村に到着。2016年の秋以来、およそ3年ぶりの訪問です。

 

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邑城(ウプソン)とは主に高麗時代から朝鮮時代にかけて建設された施設で、外敵から集落を守るためにその全体を写真のような城郭で囲んだものをいいます。かつては楽安のみならず朝鮮半島全土にこうした邑城が点在していました。順天市だけでも楽安邑城に加え、現在の原都心(ウォンドシム。古くからの中心街)にも「順天府邑城(スンチョンブ・ウプソン)」が存在していましたが、日帝時代に跡形もなく解体されています。
楽安邑城の城郭は角の取れた長方形に形成されており、総延長は約1,410m。総面積はおよそ22万平方mで、うち城郭の内部は13万5千平方m。かなりの規模であることが分かるかと思います。

 

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当地における城郭の記録は百済時代に遡りますが、現在の邑城は高麗時代の1397年、当時この一帯を頻繁に襲撃していた倭寇からの防御のために金贇吉(김빈길:キム・ビンギル)将軍が積んだ土城が基礎となっています。また『世宗実録』には、その後1424年から長年に渡って城郭を石に改装、規模を広げたとの記録があります。
さらに下って1626年、楽安郡守に赴任してきた林慶業(임경업:イム・ギョンオプ、1594-1646)将軍により城郭を強固な石積みに改築されたものが、現在の楽安邑城です。林慶業将軍は当地を去るまでの約2年間に邑城の改築を含め善政を施したといい、また丙子胡乱(1636-37年に発生した朝鮮と清国との戦争)などでも功績を収めたことなどから、当地では地域の守護神として信仰の対象にまでなっているとのことです。写真は楽安邑城内にある、将軍の善政を称えた「林慶業将軍碑閣」(全羅南道文化財資料第47号)です。

 

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順天府邑城とは異なり楽安邑城の城郭や施設は日帝時代以降も残りましたが、朝鮮戦争期にはかつての官衙門であり湖南(ホナム。全羅道の別称)の名楼にも数えられた楽民楼(ナクミンルー)が焼失するなど一部が荒廃状態となり、一方で城郭内には邑城の雰囲気にそぐわない近代的な建物も建つようになりました。そうした中、1983年には邑城全体が韓国の史跡第302号に指定され、これと前後して本来の姿に復元するための政府主導による活動が始まります。そうして80年代後半には楽民楼と東門、南門が復元され、さらに城郭内外には草家(チョガ)と呼ばれるわらぶき屋根の家屋が立ち並ぶ往時の姿を取り戻しました。
こうして現代によみがえった楽安邑城はその全体がテーマパーク「楽安邑城民俗村」となり、年間訪問者数およそ120万人もの一大観光地にまで成長。入場料制度を導入することで、観光客への適度な開放と城郭内の環境維持の両立を図っています。またその歴史的価値が認められ、2011年にはユネスコ世界文化遺産の暫定リストにも登載されています。写真1枚目は楽安邑城の復元作業が始まった1983年の航空写真、2枚目は復元作業完了後の1997年の航空鳥瞰写真で、いずれも楽安邑城民俗村内の「資料展示館」にあった展示パネルです。

 

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この楽安邑城民俗村が韓国国内に点在するその他「民俗村」と大きく異なる点として、古くは朝鮮時代に建てられた築後100年以上もの草家に現在も住民が、それも約100世帯に200人あまりが生活していることが挙げられます。なお、これら民家の一部は民泊を営んでおり、外部の人が宿泊することも可能となっています。

 

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写真は、順天市内バスの側面に大きく描かれた順天市のシンボルマークです。
順天市HPのこちらのページによると、丸い輪郭は昇る太陽(順天市民の一体感を示す)を、上の三角形は伝統瓦屋根(伝統と歴史が息づく街)と「人」の字と天に上昇する方向表示(21世紀の中心都市として羽ばたく姿)を、白い湾曲したラインは同市のイニシャル「S」と順天湾の干潟の水流(力強い気質)を意味しているそうです。
そして中央部を横切る凸凹こそがまさしく楽安邑城の城郭を形象化したもので、3つの凹部は教育・産業・観光都市を、4つの凸部は文化・芸術・交通・伝統をそれぞれ意味しているとのこと。同市内の名所として順天湾とともに、また具体的な建築物としては唯一このシンボルマークに採用されている点に、順天市における楽安邑城の存在感が見て取れます。

 

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少し話がそれましたが、いよいよ3年ぶりの楽安邑城民俗村へ。楽安邑城の東門にあたる「楽豊楼」(낙풍루:ナクプンヌー)から入場します。城郭内へは後述するように南門からも入場できますが、バス停からも駐車場からも近いこの楽豊楼が楽安邑城の玄関の役割を果たしています。 


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すでに朝食から6時間近く経過していたお腹を満たすべく、入場してすぐに向かったのは、楽安邑城を横断するメインストリート「忠愍(チュンミン)キル」沿いにある乱廛(ナンジョン。「露店」の意)の2号店、「名月館(ミョンウォルグァン)」。

 

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一見してよくある観光地の飲食コーナーに見えるこちらのお店へやってきた理由は、名物のトンドン酒(濁酒(タクチュ)の一種。同じ濁酒のマッコリが原酒の下に沈んだ粕を濾したものであるのに対し、トンドン酒は原酒の上側のやや濁った部分をすくい取ったもの)が目当て。
このトンドン酒、なんとお店で醸したオリジナルのお酒なのです。ひと口飲んでみると、過去に味わったことのないフルーティーな酸味が。かなりうんまい。アルコール度数も高めのようで、割とお酒には強いはずの私もたちまち酔いが回ります。

 

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トンドン酒とあわせて注文したのは、隣接する筏橋名産のセコマク(サルボウガイ)をふんだんに入れたコマクジョン(ジョンは日本でいうチヂミ)。こちらもレベルが高いです。

 

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こちらのお店「名月館」の営業時間は午前8時半~午後7時半、年中無休。名物のトンドン酒は7,000ウォン(約670円:2019年8月現在。以下同じ)、コマクジョンは10,000ウォン(約950円)。楽安邑城の観光でのお食事には強くおすすめできるお店です。
なお前述したようにお店は楽安邑城民俗村の内部にあるため、ご利用に際しては民俗村の入場料4,000ウォン(約380円)が別途必要であるほか、外部からの訪問の場合には楽安邑城民俗村の入場時間(お店より短い。後述します)の制約を受けます。

名月館(명월관:全羅南道 順天市 忠愍キル39 (南内里 26-1))

 

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ところで楽安邑城民俗村といえば、上にあるような高台から撮った全景写真を思い出す方も少なくないことでしょう。この写真は楽安邑城の西端にある城郭の最高点から撮ったもので、入場者の誰でも自由に登ることができます。

 

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こちらの高台、直下から見るとかなり急な階段で、登るのが相当しんどいように見えます(この写真に限り2016年10月撮影)。

 

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しかし、実は楽安邑城の西門である楽秋門(낙추문:ナクチュムン)脇にある階段(写真1枚目)を登り、なだらかな傾斜となっている城郭上の遊歩道(2枚目)を南門方面へ進むと、この高台へ簡単に到達することができます。

 

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ちなみに西門(楽秋門)は写真のように簡素なゲートがあるだけで、東門(楽豊楼)や南門(雙清楼)のようにかつての施設は復元されていません。これはたぶん楽安邑城内へ出入りする車両の便宜のためだと思われます。

 

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楽安邑城には、草家のほかにも朝鮮時代の木造建築が残っています。
そのうちのひとつが写真の客舎(객사:ケクサ。国外などから来た賓客の宿舎。地方官衙では最上級の施設)で、「楽安客舎」として全羅南道有形文化財第170号にも指定されています。

 

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客舎の裏手は広い野原になっており、30本あまりの巨大な樹木が立っています。

 

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イチョウやエノキ、ムクノキなどで構成されるこれらの巨木はいずれも樹齢300~600年と推定されるもので、1626年の林慶業将軍による改築完工のときの記念樹も含まれるとみられています。うち15本は「楽安邑城内老巨樹」として全羅南道記念物第133号に指定されています。

 

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楽安邑城の路地。土塀あるいは石垣が道の両脇を彩ります。どこを切り取っても絵になる風景。この塀の向こうに誰かの暮らしがあることが、またたまらないのです。

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いくつかの草家は開放されており、庭や内部を見学することができます。写真の建物は南門のそばにある「酒幕(ジュマク)チッ(주막집)」と呼ばれる家屋で、韓国の国家民俗文化財第98号にも指定されています。楽安邑城民俗村にはこちらのような国家民俗文化財に指定された家屋が9棟も存在しています
 

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楽安邑城の南門にあたる「雙清楼」(쌍청루:サンチョンヌー)。ここにも券売所があり入場可能ですが、東門(楽豊楼)とは大きく異なり外側は田んぼばかりなので、こちら側から出入りする人はほとんどいないようです。

 

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こちらの門を出て少し歩いた場所から振り返って見ると、楽安の「鎮山」(진산:チンサン。都や村を鎮護するとされる大きな山)である金銭山(금전산:クムジョンサン、667.9m)を背景にした姿を見ることができます。いったん外に出る格好となりますが半券があれば再入場可なのでご安心のほど。

 

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この「雙清楼」の2階にあたる場所には板の間があり、誰でも靴を脱いで上がりくつろぐことができます。
涼しい風が駆け抜けてゆくこの板の間で欄干にもたれて休んでいたら、トンドン酒の酔いも残っていたせいか、いつの間にか30分ほどうたた寝してしまっていました。

 

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雙清楼は1980年代に復元されたものですが、韓国には築後100年を優に上回り文化財指定された物件でありながら、こうして上がって休息を取れる建物がいくつもあります。たとえば、この2ヵ月前(2019年6月)に訪問した京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市にある「水原華城(ファソン)」の施設群のひとつ、1794年築の「訪花隨柳亭」(パンファ・スリュジョン。宝物第1709号。写真)などもまたそうでした。
私にとっては、これもまた韓国の文化財を訪問したい理由のひとつです。

  

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以上で紹介した楽安邑城民俗村の営業時間は、5~9月は午前8時半~午後6時半、11~1月は午前9時~午後5時半、その他の月は午前9時~午後6時、年中無休です。入場料は大人4,000ウォン(約380円)。
楽安邑城民俗村へのアクセスは、Korail「順天」駅からだと「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<68>番(7便/日)に乗車するか、または「順天駅西側(순천역서측)」バス停より市内バス<63>番(8便/日)や<61>番(3便/日)に乗車し、約44~56分で到着する「楽安邑城3.1運動記念公園(낙안읍성 3.1운동 기념공원)」で下車。そこから徒歩約2分(約120m)で楽豊楼(東門)前の券売所に到達できます。
順天総合バスターミナルからだと徒歩約4分(約230m)の「バスターミナル(버스터미널)」バス停より市内バス<61><63><68>番に乗車(約39~53分)、以下同じ
前述したように楽安邑城は筏橋邑から近接しているため、筏橋経由という手もあります。順天駅からであれば、まずはムグンファ号(4本/日)でKorail「筏橋」駅へ移動(約23分)、そこから徒歩約7分(約420m)の「税務署アプ(세무소잎)」バス停より農漁村バス<낙안(楽安)20><낙안20-1><낙안20-2><낙안20-3>のいずれかに乗車(約10便/日)、約31分で到着する「楽安邑城(낙안읍성)」で下車、以下同じ。ムグンファ号は本数が少ないので、代わりに「順天駅(순천역)」バス停より市内バス<88>番(35便/日)に乗車し、約45分で到着する「コサマートアプ(코사마트앞)」で下車、同じバス停から農漁村バス<낙안20><낙안20-1><낙안20-2><낙안20-3>のいずれかに乗車(約10便/日)、約33分で到着する「楽安邑城3.1運動記念公園(낙안읍성 3.1운동 기념공원)」で下車してもOKです。

正直なところ、楽安邑城民俗村の内部にある物件や展示物については、以上の写真でもまだ10分の1も紹介できていないと思います。まともに紹介しようとしたならばブログエントリーが何回あっても足りません。その魅力については実際に訪れて直接ご堪能いただきたいと願っています。

楽安邑城民俗村(낙안읍성민속촌:全羅南道 順天市 忠愍キル 30 (東内里 437-1)) [HP]

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なお前述したように、楽安邑城内には現在も多くの方が草家を住居として生活されています。そのため現役の住宅には写真のような看板が掲げられ、訪問客に注意を促しています。大声で騒ぐなどの行為はもちろん、門の閉まっている住宅、特に写真の看板がある場所への許可なき立ち入りは厳に慎むようお願いいたします。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

今年もありがとうございました。

こんばんは、ぽこぽこです。
今年(2019年)も残すところあとわずか。今年も拙ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。


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昨日(2019年12月30日)、全羅南道順天市「龍山展望台」にて撮影した順天湾湿地。

 

さて、本日は2019年の大晦日。私はいま、全羅南道(チョルラナムド)の順天(スンチョン)市に滞在しています。同じ全羅南道の木浦(モッポ)市などを訪問した後、年越しのために立ち寄ったものです。生まれて初めて韓国の土を踏んだのは忘れもしない約23年前の1997年の元日、日中でも気温は0℃を下回る極寒のソウルでしたが、思えば韓国で年を越すのは初めての経験です。今年最初の韓旅で真っ先に訪れた街であるうえ、その後今日まで4度も訪問し、また個人的に思い入れも強い順天を、人生初の韓国での年越しの場に選択しました。
順天といえばちょうど現在、本年8~9月に訪問した際のエントリーシリーズの更新真っ最中です。できれば年内に完結させたかったのですが、この年末いろいろと立て込んだ関係で越年することとなりました。残るはたぶんあと2回。がんばって更新いたします。


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本日(2019年12月31日)、全羅南道順天市「順天ドラマ撮影場」にて撮影。

 

ところで私の2019年の韓旅は、10~11月のフランスの旅のトランジットで立ち寄ったものを含め全11回と、1年間での史上最多となりました。これらの旅には数えきれないほどの出会いと発見があり、そのいずれも思い出に強く残っています。
2017年がそうであったように、これらの旅のすべてを本ブログにて紹介したいところですが、うち更新中の順天の旅(8~9月)が3ヵ月あまりを要している現状では、今後いつ紹介できるか見当もつきません。なので、今回のエントリーで写真とあわせてごく簡単に触れておきたいと思います。

 

●2月:全羅南道順天市全羅南道木浦市

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今年最初の旅です。うち全羅南道木浦市にある児童福祉施設「木浦共生園」については、訪問当日のツイートでも、そして3月に更新したこちらのエントリーでも大きな反響が得られました。1泊2日の木浦の旅ではこのほか市内に点在する国家登録文化財のすべて(当時)を訪問、また木浦新港ではセウォル号と対面することができました。
旅の後半で体調を崩したため、帰国前夜には釜山にいながら何もできずホテルでじっとせざるを得なかったのも、いまとなっては懐かしい思い出です。


●3月:慶尚南道統営市釜山広域市

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慶尚南道キョンサンナムド)南部の港町、統営(トンヨン)市はこの3ヵ月前に初めて訪問したばかりでしたが、あまりに雰囲気がよく、また時間の都合により主目的地のひとつ「東(トン)ピラン壁画マウル」(写真1枚目)の訪問がかなわなかったための再訪でした。
韓国の街に「旬」があるならば、韓国産の80%を占める名産のカキやムルメギ(和名「ビクニン」)がおいしい冬こそがまさに統営の旬だといえるでしょう。私が訪問したこの時期の風物詩、トダリ(メイタガレイ)とヨモギのスープ「トダリスックッ」(写真2枚目)が季節のメニューに登場する初春もまた統営の旬だといえるかもしれません。これらの時期を狙って再訪したいものです。

 

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ところで統営といえば、昨年12月に訪問した同市の離島、欲知島(ヨクチド)もまた大変印象に残っています。こちらもできれば紹介したいと思っています(余談ですが本年12月14日に欲知島モノレールが開業したと知り驚いています。知らなかった……)


●4月:光州広域市忠清南道天安市、ソウル特別市、京畿道坡州市、忠清南道舒川郡、全羅南道木浦市

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本年3月に就航したチェジュ航空の成田-務安(ムアン)線を初めて利用した旅であるため、務安国際空港への直行バスがある光州(クァンジュ)広域市と木浦市がそれぞれ旅の始まりと終わりになりました。このときは務安午後6時台着、午前11時発とまあまあ利用しやすい時間帯であったものの夏には午後9時台着、午前8時発と利用しづらくなり、秋には利用者低迷によりついに休航となってしまいました。
忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)市では柳寛順(유관순:ユ・グァンスン)烈士の出身地であり、また名物のスンデでも知られる並川(ピョンチョン)マウルを訪問(写真1枚目)。また京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市では臨津閣(イムジンガク)の敷地内に建立された「平和の少女像」の序幕式に参加(写真2枚目)。その過程で、かつてないほど多くの方々との出会いに恵まれた旅となりました。


●5月:光州広域市

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本年で3年連続となった、1980年の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)関連の行事や特別展示、史跡などを巡る旅です。この旅でも39年前の史実を記憶し継承しようとする心ある方々と出会い、お世話になる機会を得ることができました。
写真1枚目は5月27日早朝、全南道庁での最終抗戦にて戒厳軍に射殺された市民軍のスポークスマン、尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン)烈士銅像であり、母校のサレシオ高等学校の校庭に建てられているものです。ここへは烈士の2人の弟さん(次男・三男)と一緒に訪問する機会を得られました。その際に撮らせていただいた「3兄弟」の写真は私にとって新たな宝物となりました。
今回の旅では5.18民主化運動関連にとどまらず、光州高等学校の敷地内にある「4.19民主革命歴史館」(写真2枚目)を訪問。1960年4月19日のデモに始まり、その結果として時の李承晩(이승만:イ・スンマン)大統領を退陣に追い込んだ「4.19革命」の一連のデモが韓国で初めて展開されたのが、まさしくここ光州高等学校であることを学びました。


●6月:江原道春川市ソウル特別市、京畿道水原市仁川広域市

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江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)市にて毎年開催されており、今回が6回連続での訪問となる「春川マッククスタッカルビ祭り」。例年は8月未に開催されているこのお祭りが本年から6月開催に変更となったため、このタイミングでの春川訪問となりました。
初訪問の京畿道水原(スウォン)市は、韓国を代表する観光名所のひとつ「水原華城(ファソン)」の城壁を徒歩で一周。現存する施設群、とりわけ写真の龍淵(ヨンヨン)越しに眺めた「訪花隨柳亭(パンファ・スリュジョン)」(写真2枚目)の美しさには心を奪われました。来年・2020年1月日本公開の映画『エクストリーム・ジョブ』にも登場する、水原の新名物グルメ「水原王(ワン)カルビチキン」は時間の都合で口にできなかったため、次回訪問時の宿題です。


●7月:大邱広域市慶尚北道星州郡、慶尚南道陜川郡

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慶尚北道キョンサンブット)星州(ソンジュ)郡では、バスターミナル「星州バス停留場」を訪問。こちらは映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』劇中で「順天バスターミナル」として登場し、ソン・ガンホさん演じる主人公マンソプがククスをむさぼるようにすすったあの食堂が実在する場所です。3度目の訪問にしてようやく、あのククスを再現した名物の「ソン・ガンホククス」(写真1枚目)を味わうことがかないました。
続いて訪問した慶尚南道陜川(ハプチョン)郡は、主に広島で被爆した韓国人被爆者が現在も多く居住することから「韓国のヒロシマ」とも呼ばれることもあります。今回はそうした被爆者の方々が治療を受けつつ生活する「陜川原爆被害者福祉会館」の敷地内にある「陜川原爆資料館」(写真2枚目)を訪問。職員の方の計らいにより、今年で89歳になる男性被爆者の方とお話をする機会を得られました。その方には小学3年生当時の広島での被爆体験を伺うのみならず、なんと同郡内の「陜川映像テーマパーク」まで車で送ってくださるなど、不意の親切に触れた旅となりました。


●8月:光州広域市忠清南道保寧市、忠清南道舒川郡、全羅北道群山市全羅南道木浦市

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「マッドフェスティバル」で知られる忠清南道保寧(ポリョン)市では、1970~80年代のたたずまいを残していることから、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』にも1980年の光州市内として登場した、Korail長項線(チャンハンソン)の青所(チョンソ)駅前通り(写真1枚目)を訪問。なお青所駅は長項線の複線電化に伴い、早ければ来年・2020年にも廃駅となる予定です登録文化財の駅舎は保存される見込み)
続く忠清南道舒川(ソチョン)郡では、本年4月に続いて2度めとなる、日帝時代の日本式家屋など古い建物が残る板橋(パンギョ)マウルヘ。敵産家屋でありながら韓国の人々によって大事にされてきたこれら建物のある風景を再び目にしたいという思いに加え、同マウル内にある名店「スジョン冷麺」(写真2枚目)の冷麺の味があまりに恋しく、また前回訪問時に親切にしていただいたご主人の男性へのお礼のためでもありました。来年も機会を見つけて訪問するつもりです。
こちらも2回目の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市では、本年6月に開館したばかりの「日帝強占期群山歴史館」を見学。隣接する東国寺(トングクサ)とあわせて、強く訪問をおすすめする施設です。こちらもいずれ本ブログにて紹介いたします。


●8~9月:全羅南道順天市

3泊4日の日程のほぼすべてを順天市内の踏査に費やしたこの旅では、そのすべての移動で事前に調べておいた路線バスを利用するなど、個人的に「史上最も計画通りに進んだ韓旅」となりました。現在もエントリーシリーズを更新中ですので、本エントリーでの詳しい紹介は控えます。


●10月:仁川広域市

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フランスの旅に先立つ仁川国際空港でのトランジットの合間を利用した、個人的に史上最短(9時間)となるこの旅では、仁川市内の富平(プピョン)にある「三菱チュル住宅」と「富平公園」、「富平歴史博物館」を訪問。三菱チュル住宅(写真1枚目)とは、かつて当地にあった三菱製鋼の工場に強制徴用されていた朝鮮人たちの宿舎であった長屋のことです。その多くはすでに解体され、現在は3棟のみが残されていますが、来年にはさらに2棟が解体予定だとのことです。富平公園はその三菱製鋼の跡地に造られたもので、ともに戦時中、そして戦後74年を経て今日も日本人に蹂躙され続けている人々を象った「仁川平和の少女像」と「仁川日帝強占期徴用労働者像『解放の予感』」(写真2枚目)が並び立ちます。そして富平歴史博物館には、そうした史実が数々の収蔵品とともに展示されているほか、当時の三菱チュル住宅の再現展示も設置されています。こちらもご訪問をおすすめする場所です。


●11~12月:全羅南道莞島郡、全羅南道順天市

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1年ぶりとなる韓国の島旅の行き先に選んだのは、今回が初訪問となる全羅南道莞島(ワンド)郡の2つの島。まず所安島(ソアンド)日帝強占期当時、咸鏡南道(ハムギョンナムド)の北青(プクチョン)、釜山の東莱(トンネ)と並んで特に独立運動の激しかった地域とされ、独立運動家89人、建国勲章受章者20人を輩出したことから「抗日の島」と呼ばれます(写真1枚目)。導かれるような思いで訪問した「所安抗日運動記念館」では、お会いした館長様から直々に展示物の解説を聞いたり、さらには車で独立志士の墓所まで送って行かれたりと、またも不意の親切に触れる機会となりました。
続いて訪れた青山島(チョンサンド)ではアワビなど地域の海産物に舌鼓を打ち、韓国映画史に残る名作『風の丘を越えて/西便制』の撮影地(写真2枚目)などを訪問、さらには徒歩で島を横断したりと終始楽しい旅となりました。

 

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帰りがけに立ち寄った順天では、在来市場アレッチャンにある大好きな酒場「61号ミョンテジョン」を訪問。8月の訪問時には膝の手術のため臨時休業していた店主さんの元気なお姿を目にしてほっとするとともに、うんまい料理の数々を久々に口にでき満足しています。


●12月~1月:全羅南道木浦市全羅南道新安郡全羅南道順天市

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現在進行中の旅です。今回の旅では木浦港から高速船に乗り、新安(シナン)郡にある韓国最南西端の離島、可居島(カゴド)を訪問する計画でした。しかし天候不良により海が大荒れとなってしまい、目前の下苔島(ハテド。写真)で引き返す羽目となってしまいました。念願の可居島訪問は新年に預けることといたします。


前述したようにこれらの旅では多くの人々と出会い、また会話をする機会がありましたが、特に7月以降のそれにおいては日本の安倍政権による対韓国での不誠実極まりない態度について話す機会が増えました。またこの頃から訪問先のあちこちで、日本製品不買運動に関する意思表示の横断幕などを頻繁に目にするようになります。
日本における韓国憎悪は安倍政権だけが暴走しているのではなく、悪意的なニュースの取捨選択に留まらず日本政府におもねった事実歪曲すら厭わない日本の報道各社、そしてそれらを消費して溜飲を下げ醜い憎悪感情をそのまま韓国(人)に投影したがる日本の市民たちの共犯関係によるものです。加えて対韓国ではなくとも、朝鮮学校限定での無償化除外という露骨な差別政策に追従し、あろうことか「合法」だと判断した司法もまたその同一線上にあるものです。
まことに恥ずべきことですが、こうした官民一体の韓国憎悪は、程度の差こそあれど老若男女や思想の左右を問わず、この社会であまねく共有されているほぼ唯一レベルのテーマだといえます。事実、本年は日本社会が一丸となり韓国への敵意と憎悪、侮蔑心をあらわにしたさまざまな出来事がありました。昨年末から越年しつつも結局は問題を一方的に拡大した日本側が証拠を示せずうやむやにして終わった「レーダー照射」問題に始まり、韓国政府に民事訴訟である韓国徴用工裁判の判決への介入を迫り、拒否されるや今度は「ホワイト国」除外という筋違いの経済報復、その対抗として韓国市民により展開された日本製品不買運動への嘲笑的態度、さらには東京五輪の観客席における植民地支配と侵略のシンボル、旭日旗の許容。そんな本年は日本人にとって、まさに「2019韓国憎悪の年」といっても過言ではないでしょう。

また、本年8月に曺国(조국:チョ・グク)氏が法務部長官候補に指名され、韓国内で政争となった際には、日本とはほとんど関係ないニュースであるにもかかわらずワイドショー番組がここぞとばかりに取り上げ、同氏やその任命権者である文在寅(문재인:ムン・ジェイン)大統領の人間性、ひいては韓国の「国民性」云々までこぞって娯楽として消費したのは記憶に新しいところです。大方の日本人は事あるごとに韓国人を差別し見下さないと自我が保てない、という事実を改めて示された格好となりました。
そして日本では、安倍政権がこのように政策的に韓国憎悪を扇動をすればするほど支持率が上昇するという実態があるわけです。これはもはや日本政府単独の暴走ではなく、日本人「みんな」の「総意」による憎悪ですよね。私はこれに断固反対する立場ですが、いかなる影響力を及ぼすことのできない一点でその共犯者でしかないわけです。これまでそうしたことは一度もありませんでしたが、今後もし韓国訪問時にそのことで現地の方から責めを受けたとしても、私にはいかなる弁解も許されません。

私が圧倒的少数派に属しているのは重々承知しています。しかし、私たちがここで抗うことをやめれば、想像すらしたくない破局的な結末が訪れるかもしれないのです。
私が、そしてこの文をお読みいただいているあなたが、いままさしく「順天のマンソプ」なのです。

 

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本エントリーの最後に、どうしても紹介しておきたい一文があります。
ソウル・東大門「平和(ピョンファ)市場」における女子被服工への搾取と劣悪な労働環境の改善のため一労働者として立ち上がり、奔走の末に勤労基準法の火刑式の炎にその身をくべた、「美しき青年」全泰壱(전태일:チョン・テイル)烈士(写真)。私の敬愛する烈士がちょうど50年前の今日、1969年12月31日に記した日記の一節です。

 

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올해와 같은 내년을 남기지 않기 위하여
나는 결코 투쟁하련다. 역사는 증명한다.

今年のような来年を残さないよう、
僕は断固闘うつもりだ。歴史は証明する。

この言葉を胸に刻み、来たる2020年もこの社会における「みんな」の「総意」に生きて抗うことを誓います。

 

ごく個人的には仕事が慌ただしかったりと、以前に比べブログ更新が難しい毎日が続いていますが、本ブログが心ある誰かの韓旅の参考となることを願い、今後も更新を続けてまいります。

それでは、よいお年を。
みなさまにとって2020年がとって輝かしい1年となりますように。


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本日(2019年12月31日)、全羅南道順天市「臥温海辺(ワオン・ヘビョン)」にて撮影。

順天の旅[201908_06] - 「秋夕のない村」70年前の虐殺の現場、楽安・新田マウル

前回のエントリーの続きです。

本年(2019年)8~9月の全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市を巡る旅、明けて3日目の2019年8月31日(土)です。

 

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この日メインの目的地は、順天市、いや韓国を代表する観光スポットのひとつといっても過言ではない「楽安邑城民俗村」(낙안읍성민속촌:ナガンウプソン・ミンソクチョン。写真)の位置する順天市楽安面(ナガンミョン)です。
楽安面はかつて全羅南道昇州(スンジュ)郡に属していましたが、同郡は1995年に吸収合併されたため現在は順天市に属しています。地方自治体である「面(ミョン)」とは日本でいう「●●郡●●村」に相当しますが、韓国ではこうした経緯で市に属するケースがままあり、これは前日に訪問した仙岩寺(ソナムサ)のある同市昇州邑(スンジュウプ)のような「邑(ウプ)」(日本でいう「●●郡●●町」に相当)も同様です。

  

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楽安面は同じ市内でもホテルのある順天市街地からかなり西側に離れた場所にあり、それだけ往復に時間もかかります。楽安面には民俗村の他にも行きたい場所が複数あるので、たぶん戻りは夕方過ぎになることでしょう。明るいうちに市街地で行っておきたい場所が少しあったため、まずは散策を兼ねてホテル近くを流れる川、東川(トンチョン)の河川敷を歩きます。

 

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東川べりを走る車道はその直下が通路になっており、いくつもの壁画が描かれています。

 

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東川を横断するKorail慶全線(キョンジョンソン)の鉄橋。最下部は歩道からわずか2.5mの高さしかなく、ジャンプしたら手が届きそうな距離です。

 

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ここで撮ったならばさぞ迫力ある鉄道写真となりそうですが、こちらは順天駅から見て西隣の駅である筏橋(ポルギョ)駅側の単線非電化のローカル線であり、この鉄橋を通過する定期旅客列車はたったの一日5往復しかありません(観光列車含む)。同じ慶全線でも東隣の光陽(クァンヤン)駅側、あるいはこれと直交する全羅線(チョルラソン)がともに複線電化され、特に後者などKTXを含む定期旅客列車が一日30往復以上も走るのとは対照的です。

 

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そんな東川をまたぐ道路橋「順天橋(スンチョンギョ)」のたもとに、この日の朝食目当てのお店「将台(チャンデ)コングクス」があります。
屋号の「将台」とはお店のある一帯の旧地名で、朝鮮時代中期の1743年に兵士らが陣を張って兵を指揮する場所を石で築き、指揮したことに由来するものだそうです。すぐそばの順天橋も「将台タリ」(タリは「橋」の固有語)という別名で呼ばれています。

 

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屋号にもある看板メニューの「コングクス(콩국수)」とは、茹でた大豆(콩:コン)をすりつぶしたスープに麺(국수:ククス)を浸した冷たい麺料理で、韓国では夏の風物詩として広く愛されています(日本の「冷やし中華」のポジション?)。この後紹介するように、食べる過程で3度もびっくりさせられる料理です。
メニューは7,000ウォン(約640円:2019年8月時点。以下同じ)の「冷(ネン)コングクス」と、5,000ウォンの「冷コンムル」(たぶんコングクスのスープのみ)の2種類だけですので、もちろん前者を注文。思えば5年前にソウル・汝矣島(ヨイド)の名店「晋州(チンジュ)チッ」で初めて食べて以来のコングクスです。


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やってきたコングクス。見ての通り真っ白、いやほのかにクリーム色がかった液体が器を覆いつくすインパクトあるビジュアルです。これがコングクス最初のびっくり。こちらのお店では最初から塩が乗っているので、その部分だけが若干遣って見えます。

 

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大豆スープはかなりどろっとしており、そのためか普通の冷麺よりも冷涼感が強いです。甘くもしょっぱくもない、濃厚な豆乳だけの味。2度目のびっくりです。塩を適宜混ぜて食べます。そして麺をすすると、香ばしい匂いとともに大豆ペースト特有のざらっとした食感がたちまち口の中を覆います。これこそがコングクス3度目のびっくり、だけど心地よい舌触りです。うんまい。

 

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写真は各テーブルにあった大きな調味料入れ。これ、なんと砂糖なのだそうです。当日は使わなかったので、てっきり塩だと思い込んでいました。順天を含む全羅道地方ではコングクスに塩のみならず砂糖をも投入し混ぜて食べる食文化があり、他の地方の人がそうとは知らずに投入して驚くことがあるそうです。私も危うく4度目のびっくりを体験するところでしたが、どんな味なのかは興味があります。次は砂糖入りコングクスにチャレンジしたいと思います。 

 

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こちらのお店「将台コングクス」の営業時間は午前7時~午後9時、年中無休。Korail「順天」駅からは徒歩約4分(約290m)の「順天駅西側(순천역서측)」バス停より市内バス<60><61><62><63><64><81><82><84><85><86>のいずれかに乗って3つ先の「将台公園(장대공원)」バス停(所要約3分)で下車、徒歩約3分(約170m)全行程徒歩でも約20分(約1.2km)です。順天総合バスターミナルからは徒歩約8分(約450m)。このように駅・バスターミナルのいずれからも近く、しかも早朝から開いているので朝食としても利用できるお店です。
ところで、こちらのお店では看板メニューのコングクスを通年で提供しているそうですが、 前述したようにコングクスのシーズンは夏です。ではシーズンオフの冬はどうしているのかというと、小豆をすりつぶした熱々のスープ(要は砂糖の入っていないぜんざい)に太めの麺を入れた「パッカルグクス(팥칼국수)」が人気なのだそうです。味わってみたいものです。

将台コングクス(장대콩국수:全羅南道 順天市 二水路 51 (長泉洞 355))

 

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将台コングクスを出て、さらに東川沿いを北へ進みます。写真は順天橋のひとつ上流側にある「稠谷橋(チョゴッキョ)」。

 

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この稠谷橋を過ぎて少し先の場所に、この日最初の目的地である「八二八에 가신이의 위령탑」(八二八に逝かれた方の慰霊塔)があります。こちらは57年前の1962年8月28日、東川の氾濫により順天市東外洞(トンウェドン)を中心に発生した大水害の犠牲者224名を慰霊するための石碑です。
前日(8月27日)午後5時頃から降り始めた雨により、翌28日未明には1時間降水量が195mmにまで達する中、市北部のサンジョン貯水池の決壊に伴い洪水が発生。この勢いで東川川下流の堤防もまた決壊し、東外洞をはじめ当時の順天市街地のおよそ2/3が浸水、約14.000人が被災する大水害が発生しました。

 

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57年前ということは、当時の3歳児でももう還暦を迎える計算です。子を失った世代であればいまや80歳代以上。例年8月28日になると碑の前で慰霊祭が挙行されていたようですが、本年(2019年)は報道が全く見当たらないので、もう中断されてしまったのかもしれません。下記の追悼文が記された木製の案内板も割れ、下部が逸失していました。

여기 한 아름 실음을 안고 잠드신 영령 224주의 한이 있다. 비바람 사오납 던 1962년 8월 28일 그날 흙탕물 속에서 꽃들은 지고 열매는 떨어졌다. 못다 살고 가신 임들이여 먹구름 이 걷혔으니 그 얼고이 쉬소서

ここに一抱えの悲しみを抱いて眠られた英霊224柱の恨がある。風雨が荒れ狂った1962年8月28日、その日泥水の中で花たちは散り実は落ちた。生きられなかったあなたたちよ、 黒雲は晴れたからその魂よ休みたまえ

 

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水害発生後には官民一体の救助・復旧活動が展開され、また国内外から救援物資が寄せられたことにより順天市は見事な復興を遂げ、今日の発展を維持しています。
その日の出来事が嘘のように、東川はただ静かに流れていました。

61番市内バスに乗り、次の目的地へ移動します。

 

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1時間近くバスに揺られて到着したのは、楽安面にある「新田(シンジョン)マウル」(신전마을:マウルは村、集落の意)。特に観光名所というわけでもないこの集落へやって来た理由は、ここがちょうど70年前に発生した、ある事件の現場だからです。

マウル入口の路上では、二人の女性が立ち話をしていました。
うち一人が見慣れない私の姿を見るや、開口一番「麗順事件ですか?」。

 

以前に上記のエントリーでも紹介した、1948年10月に隣接する全羅南道麗水(ヨス)市で発生した「麗水・順天事件」。蜂起軍(国軍14連隊)はここ順天にも進出したことから、事件後には多くの市民が蜂起軍との関係を疑われ処刑されています。
蜂起軍の一部将兵たちは事件のさなかに麗水を脱出、光陽(クァンヤン)湾を渡り対岸の白雲山(ペグンサン)方面へ逃れて智異山(チリサン)山中に潜伏し、パルチザンとなって抗戦を続けました。それらパルチザンたちは、ここ楽安面からも近い曹渓山(チョゲサン)など現在の順天市内にも出没していました。

 

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そんなある日、新田マウルに少年を連れたパルチザンたちが現れます。14歳だというその少年は銃創を受けており、パルチザンはその治療と世話を住民たちに命じて去ってゆきます。断った場合には報復すると脅されたためでもありますが、傷を負った少年を放っておくわけにもゆかず、マウルの住民たちはかいがいしく少年の治療と世話をします。
傷の癒えた少年がマウルを去ってからしばらく経った1949年10月、再びその少年が新田マウルを訪れます。ただし今度はパルチザン仲間ではなく、その討伐活動中の国軍15連隊の兵士たちに連れられて。別の場所で捕まった少年を拷問のうえ尋問したところ、新田マウルの住民に世話になったことを自供したためでした。
国軍兵士たちはまず少年に、自分を世話してくれたマウルの人々を指差すように命じます。それが「指の銃」、すなわち自分に指差された者の死を意味することを悟り、ためらう少年。しかし兵士の脅しに負け、ついに自分の世話をしてくれた住民たちを一人一人指差します。傷の治療をしてくれた人、薬を与えてくれた人、衣服を与えあるいは洗濯してくれた人、米を与えてくれた人、そして柿を与えてくれた人。
こうして指を差された22名はひとつの家に閉じ込められ、兵士による一斉射撃の末に火を放たれて家ごと、そして当時32世帯あったというマウルごと焼かれました。殺害された22名の中には幼児3名や身体の不自由な老人も含まれていたといいます。

 

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虐殺事件が起きた1949年10月8日は旧暦だと8月17日、韓国の重要な年中行事である「秋夕」(추석:チュソク。旧暦8月15日)の翌々日にあたる日でした(1949年10月7日:旧暦8月16日に発生したとの説もあり)
秋夕といえば、本来ならば家族が顔を合わせて先祖の墓参りやお供え物をしたりする日です。毎年この時期になると韓国では都市部に暮らす人々がわざわざ郷里へ帰省するため、高速道路が大渋滞するニュースなどをご記憶の方も多いことでしょう。そんな秋夕の直後にマウルの住民の多くが虐殺され、同じ日が命日となったため、この新田マウルは「秋夕のない村」とも呼ばれています。

 

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そして、マウル入口で私に話しかけてきた女性が案内してくださったのが、写真の空き地。新田マウルの中央部にあるこの空き地こそが、住民22名が一斉射撃の末に家ごと焼かれたその現場です。
親切にも少年を世話してあげた、たったそれだけの理由で命を絶たれなければならなかった22名の人々の無念、その遺族たちの悲しみや苦難に思いを馳せます。

70年前のその日に父を失ったというその女性は、現場を丁寧に案内してくださるのみならず、事件当時をよく知る方を呼ばうとあれこれ手配してくださるなど(結果的に面会はできませんでしたが)、とても親切な対応に終始されていました。その案内の中で、あの家もこの家も犠牲者を出した、遺された家族はとても苦労したという話が強く印象に残っています。新田マウルの1949年は、おそらくまだ終わっていません。

 

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新田マウルの入口、私が先ほど降り立った「新田」バス停の隣には写真の案内板があります。この案内板は「麗順事件」、そして1949年10月の新田マウルでの虐殺について言及したものです。
かつて順天駅や順天大学校の構内、本エントリーの冒頭でも紹介した東川(トンチョン)沿いなど、順天市内の「麗水・順天事件」に関連する複数の史跡にこうした案内板が設置されていたといいます。しかし保守団体の抗議により遅くとも2009年までにすべて撤去され、順天市内で現在も案内板が残る史跡はここ新田マウルが唯一となっています。

 

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実は新田マウルの案内板もー度は撤去されたそうで、その後マウル内の片隅に放置されていたものを近年になって現在地に移設した経緯があります。しかし、バス通りに面した表側の記載内容は「麗順事件」に関する一般的な説明でしかありません。新田マウルでの虐殺に関する説明はその裏面にありますが、ただでさえ経年劣化でぼろぼろになっているうえ、案内板のすぐ裏手には急な石垣があるため人が立ち入れるだけのスペースはなく、無理してその石垣に登らない限りまともに読むことはできません。
この状況だけ見ても、事件を巡る見解や理念の対立が今日も依然続いていることを垣間見ることができます。

 

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先のエントリーでも紹介したように、昨年(2018年)訪れた麗水市では葛藤を経ながらも「麗水・順天事件」各史跡の案内板が今日も保全されています。またその麗水市では関係者による長年の努力が実り、事件70周年の昨年になって事件後初の合同慰霊祭の実現へと至っています。
写真は昨年10月に訪問した、順天八馬(パルマ)総合運動場の敷地内にある「麗順事件慰霊塔」です。2006年建立。麗水市に先んじて市内の全犠牲者を追悼するこの碑を建て、また合同慰霊祭を実現した順天市。撤去された案内板の再設置による、その新たな記憶継承の取り組みを期待するばかりです。

  

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新田マウルを含む楽安面は全羅南道宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)と隣接しており、特に筏橋邑の中心部からの距離は同じ順天の市街地よりもずっと近いこともあって、宝城郡の農漁村バス(市を走る「市内バス」に対し、主に郡内を走る路線バスの一般名称)が乗り入れています。筏橋まで行く写真のマイクロバスに乗って、次の目的地へ向かいます。

 

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山道を少し走った後に下車したのは写真のバス停。
このバス停の向かい側から、「金ドゥン寺」(금둔사:クムドゥンサ)という寺院への参道が始まっています。
漢字で書くと「金芚寺」ですが、「芚」(草かんむりの下に屯)の字が環境によっては文字化けする可能性があるため、本エントリーでは「金ドゥン寺」と表記します。

 

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金ドゥン寺は金銭山(금전산:クムジョンサン、667.9m)の麓にある仏教寺院で、その沿革によると西暦583年に曇恵和尚(タメ・ファサン)が創建したとありますが、後述する文化財の製作時期や発掘調査の結果などから統一新羅時代の9世紀頃創建という説が有力です。後の朝鮮時代、15~16世紀に製作された地理書『新増東国輿地勝覧』に「金銭山に金ドゥン寺あり」という記述があり、この寺院を指すものと推定されています。その後、時期は不明ですが完全に廃寺となったものを1980年代に入り仙岩寺(ソナムサ)の僧侶が再建、現在へと至ります。

  

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やや長い参道を抜けて、金ドゥン寺の境内に入ります。

 

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境内の奥、写真1枚目の石段を登った先には韓国の宝物(日本の重要文化財に相当)に指定された2つの文化財があります(写真2枚目)。

 

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まずひとつは「金ドゥン寺址三層石塔」(宝物第945号)。高さ約4mのこの石塔は金ドゥン寺創建時期の9世紀頃に建立されたものと推定され、統一新羅時代の典型的な様式を備えているとのことです。金ドゥン寺が廃寺となった後、盗掘などにより倒壊し部材が散乱していたところを1979年に復元したものです。
基壇上層の四面には八部衆像が各面2体ずつ、またその上段の四面には仏像に対し茶菓を供養する供養像と錠前付きの扉が交互に刻まれています。

 

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もうひとつは三層石塔の奥側の崖寄りに立つ「金ドゥン寺址石造仏碑像」(宝物第946号)。長方形の平らな石の片面に刻まれており、碑石のような形態をしているため「碑像」の名が付いています。こちらも統一新羅時代の9世紀頃建立と推定され、相互の位置関係から三層石塔と関連があるとみられています。時代が下った高麗時代に抽象化される前の、新羅時代の写実的な仏像彫刻手法を残しているとのことです。

 

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三層石塔と石造仏碑像のある高台から見下ろした金ドゥン寺の伽藍。

 

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金ドゥン寺の伽藍。これらは1980年代以降の建築物であり文化財的価値はまだありませんが、韓国の仏教寺院らしい雰囲気を味わうことができます。境内を貫流する小川には、この前日に訪問した仙岩寺の昇仙橋(スンソンギョ)に似た美しいアーチの石橋が。

 

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厠間(チュッカン)。トイレであり、寺院のものは特に「解憂所(ヘウソ)」とも呼びます。こちらも前日に仙岩寺にて訪問した文化財のトイレ「順天仙岩寺厠間」とよく似た伝統様式です。ただ、残念なことにここ金ドゥン寺の厠間は閉鎖されていました。
このように金ドゥン寺の伽藍の各施設が仙岩寺のそれに似ているのは、前述したように再建したのが仙岩寺出身の僧侶であり、また現在の金ドゥン寺が仙岩寺と同じ韓国仏教太古宗(テゴジョン)に属しているからなのかもしれません。

 

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この日は約30分間の訪問中、土曜日にもかかわらず他の訪問者と誰一人遭遇することはありませんでした。バスの本数は少ないとはいえあの楽安邑城民俗村(ナガンウプソン・ミンソクチョン)から近く、千年前の貴重な文化財を2つも擁する金ドゥン寺、もう少し顧みられてもよいように思います。毎年1月、全羅南道で最初に咲くという紅梅「金ドゥン寺臘月梅(ナブォルメ)」もまた美しいことこの上ないそうですので、例年その時期には賑わうのかもしれません。

 

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金ドゥン寺へのアクセスは、Korail「順天」駅からだと駅前の「順天駅西側(순천역서측)」バス停より市内バス<61>番に乗車、約53分で到着する「金ドゥン寺(금둔사)」で下車。そこから伽藍までは徒歩で約5分ほど要します。順天総合バスターミナルからだと徒歩約4分(約230m)の「バスターミナル(버스터미널)」バス停より市内バス<61>番に乗車(約49分)、以下同じ。ただし<61>番市内バスは一日3本しかありませんので要注意です。
順天駅からであれば、Korail「筏橋」駅経由という手もあります。まずはムグンファ号(約23分)で筏橋駅へ移動、そこから徒歩約7分(約420m)の「税務署アプ(세무서앞)」バス停より農漁村バス<낙안(楽安)20-1>に乗車、約40~45分で到着する「金ドゥン寺(금둔사)」で下車、以下同じ。ただしこちらもムグンファ号・<낙안20-1>バス(金ドゥン寺を経由する便)ともに一日4本しかありません。

金ドゥン寺(금둔사:全羅南道 順天市 楽安面 上松里 山2-2) [HP]

  

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金ドゥン寺から楽安邑城へは徒歩でも40分程度(約2.7km)とのことですので、ここからは徒歩に切り替えます。
ちなみに順天市内バスや宝城郡の農漁村バスも走るこの道路は「趙廷来キル」(キルは「道」の意)といい、これまで何度か紹介してきた韓国の大河小説『太白山脈』(태백선맥:テベクサンメク)の著者、趙廷来(조정래:チョウ・ジョンネ、1943-)氏にちなんだものです。『太白山脈』の主舞台である筏橋邑の「筏橋共用バスターミナル」前から始まり、楽安邑城民俗村や金ドゥン寺、新田マウルなどを経て順天市昇州邑(スンジュウプ)、趙廷来氏の出身地である仙岩寺の手前まで続きます。

 

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そんな趙廷来キルの途中、楽安邑城へ向かって右手にあるのが写真の「楽安温泉(ナガン・オンチョン)」。
公式HPによると、楽安温泉は金銭山中腹の地下831mからくみ上げた温泉水を使用しているとのこと。また韓国観光公社のこちらのページによると、高濃度の水素イオンにより滑らかな水質で、硫黄やゲルマニウム、カルシウムなど13種類の成分を含有し、水虫、湿疹、フケ、アトピー性皮膚炎の改善に効果があるそうです。
「沐浴湯」(목욕탕:モギョッタン)と呼ばれる韓国の銭湯は雰囲気が好きで、以前にも釜山や江原道(カンウォンド)太白(テベク)市などで入ったことがありますが天然温泉のそれは初めてです。内部には高温(といってもそんなに熱くない)と低温の湯に定番のサウナ&水風呂、そして隣接する宝城郡と並ぶお茶の産地でもある楽安面らしく「緑茶湯」もありました。やはり温泉は気持ちいいですね。

 

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写真は脱衣所のベンチに置かれていたセルフ販売の鶏卵。日本では見慣れない光景ですが、俗に「麦飯石鶏卵」などと呼ばれ韓国の銭湯では定番のおやつのようです(実はゆで卵ではなく焼き卵)。見えづらいですが3個で1,500ウォン、5個2,000ウォンとあります。

 

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「楽安温泉」の営業時間は午前6時~午後8時、年中無休。入湯料は大人6,500ウォン。1階は男湯、2階は女湯です。アクセス手段は前述した金ドゥン寺とほぼ同じで、<61>番バスの場合は1~2分上乗せ、<낙안20-1>バスの場合は同じだけ差し引いた時間で到達できる「楽安温泉(낙안온천)」バス停より徒歩約1分(約100m)です。また、楽安邑城民俗村の玄関である「東門(楽豊楼)」から徒歩約32分(約2.1km)で到達できます。

楽安温泉(낙안온천:全羅南道 順天市 楽安面 趙廷来キル 933 (上松里 105-3)) [HP]

 

お風呂から上がると時刻は正午過ぎ。午前中の汗を温泉で流し、この日の主目的地である楽安邑城民俗村へと向かうのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

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