かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

統営の旅[201812_04] - 欲知島(ヨクチド)訪問②猫の島で名物のサバ刺身とサツマイモマッコリを堪能する

前回のエントリーの続きです。

一昨年(2018年) 11~12月の慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市、欲知島(욕지도:ヨクチド)などを巡る旅の2日目、2018年12月1日(土)です。

 

 

欲知港一帯

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前回エントリーにて紹介した「近代漁村発祥地座富良ゲ」のある自富(チャブ)マウル(マウルは「村、集落」の意)から、欲知港やこの日の宿「ミジンジャン旅館」のある東村(トンチョン)マウルに戻り、今度は山側に向かって歩きます。

 

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到着したのは、慶尚南道記念物第27号に指定されている「統営欲知島貝塚」(통영욕지도패총:トンヨン・ヨクチド・ペチョン)です。
写真の場所を含め欲知島内、および上老大島(サンノテド)に点在する貝塚では、中石器時代から新石器時代にかけての石器など遺物が多数出土したほか、ある貝塚で発見された2体の人骨のうち1体からは長らく潜水活動をしていたことを示す外耳道外骨腫、いわゆるサーファーズイヤーの痕跡が確認されたとのことです(人骨発見地が写真の場所かどうかは不明)
貝塚ということで大量に積まれた貝殻の山を想像していましたが、私が見た限り案内板付近にそうしたものは見当たりませんでした。すでに全量回収されてしまったか、あるいは広範に渡り散らばっているのかもしれません。

 

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貝塚のある一帯の集落は済岩(チェアム)マウルといい、峠の麓にある集落の地名であった済谷(チェゴク)と、裏山の形が座った馬の姿に似ており、しかも頭にあたる部分が岩になっていたことに由来するマルバウ(「馬の岩」の意)という地名を漢字に転じた馬岩(マアム)の頭文字を取った地名だとのことです。

 

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この済岩マウル一帯は、島の名産であり、韓国ではブランド化しているサツマイモ「欲知島コグマ」(コグマは「サツマイモ」の意)の主産地のひとつだそうで、ビニールハウスには「고구마 팝니다(サツマイモ売ります)」の看板が。道沿いには欲知島コグマの案内板もありました。

 

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今回は訪問しませんでしたが、この道の先には、島の最高峰である天王山(천왕산:チョナンサン、392m)の頂上があります。
この天王山、少し前までは天皇山(천황산:チョナンサン)と呼ばれていました。読んで字のごとく日本の天皇に由来するものであり、近年になって本来の天王山の名を取り戻したものです。
前回紹介した自富マウルもそうでしたが、韓国ではこのように地名を通じて日本の植民地支配の爪あとを垣間見ることが多々あります。また欲知島の天王山以外にも、たとえば本年(2020年)に旧名の芍薬島(チャギャクト)から改名された仁川広域市東区(トング)の勿淄島(ムルチド)のように、日帝強占期に付けられた地名が近年になって韓国語固有の名称を取り戻したケースもあります。
地名の収奪ともいうべきこれら日本式地名への変更を含め、日帝強占期に日本人がしてきた支配を考えると当然のことですし、その名前を変えるかどうかは韓国の人が決めるべきことです。日本人の立場でありながらこうした動きを嘆いたり批判したりすることは、植民地主義目線での韓国文化の消費の表われであり、厳に慎むべきことだと私は思います。

 

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東村マウル、昼に私がフェリーから降り立った欲知島フェリー船着場に戻ります。
欲知港に2つあるフェリー船着場のうち東側に位置するこちらの埠頭から発着する、写真の路線バスに乗車するためです。
このバス路線は欲知島の海沿いの道路(欲知一周路)を一周し、およそ50分で東村マウルに戻ってくるもので、観光客が多い時期には運転手さんが観光ガイドをしたり、一部観光スポットでは撮影のため一時停止したりすることもあるそうです(今回は私以外に観光客がいなかったからかガイドなどはありませんでしたが)

 

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16時30分に東側のフェリー船着場を出発し、最初に停まったのは欲知港西側のフェリー船着場そばのバス停。
ここでしはらく停車し、まもなく到着するフェリーの利用客を待ってから出発します。

 

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バスはまず、一部路線の終点でもある冶浦(ヤポ)マウル方面へ向かい、そこから元来た道を引き返し、途中で曲がって島を時計回りに一周する道路に入ります。ここから終点まではずっと左に海を見ることになるため、時計回りの便をご利用の際には左側の席を強くおすすめします。

 

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バスは島の西岸にある、柳洞(ユドン)マウルという集落にさしかかります。
この柳洞マウルの特徴は、海上にたくさんの輪っかのようなものが浮かんでいること。これらは日本でいう網いけす養殖場の施設(網いけす)であり、主に島名産のコドゥンオ(サバ)やチョンゲンイ(アジ)の養殖がなされているそうです。また、最近ではチャムダランオ(クロマグロ)の養殖も始められているとのこと。一般にこうした網いけすは四角形ですが、柳洞マウルのそれは内部で魚が回遊しやすいように円形をしているのが特色です。

 

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こじんまりとした徳洞(トクトン) 海水浴場。コンパクトさがかえってよい雰囲気です。

 

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多島海に沈みゆく夕陽。きれいな夕焼けです。明日も天気になりますように。

 

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東村マウルの少し手前、木果(モックァ)マウルを通過。右端に半分写っているのが木果バス停です。
このあたりまで来ると、海に浮かぶ養殖場は四角形に戻ります。魚種が違うのでしょう。

 

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欲知島一周バス路線図
そして終点の東村マウルの船着場に到着。島一周およそ50分もの旅なのに、料金はたったの1,000ウォン(約100円:2020年12月現在)。ただしT-moneyなどの交通カードは使えません(2018年当時)。途中にあるバス停で乗り降りすることもできますが(料金は均一)、一周バスは一日6便しかなく、時間帯によっては2時間以上も間が空くため要注意です。
前述したように、東村マウルから発着する路線バスは欲知島を一周する6便(時計回りとその逆の便がある)のほか、冶浦マウル止まりのものが5便あり、これらは冶浦マウルから折り返しで東村マウル行きとなり戻って来るもののようです。
写真2枚目は私の訪問(2018年12月)当時、バスのフロントガラスに貼られていた一周バスの東村マウル発時刻表です(1~2便は反時計回り、その他は時計回り)。2020年時点では少し変更となっているようですが、正確な情報は得ることができませんでした。なお、フェリーが遅れた場合にはその到着まで待ったり、反対に早く着いた場合には時刻表よりも早く出発することもあるようですので、注意が必要です。
ちなみに、2019年12月に開業した「統営欲知ソムモノレール」の麓側のりばのそばには「昏谷(혼곡:ホンゴク)」というバス停があるそうですが、欲知港東側のフェリー船着場(大一海運・慶南海運)から徒歩約22分(約1.5km)同西側のフェリー船着場(嶺東海運)から徒歩約17分(約1.1km)で到達できるため、日に6便しかない一周バスを待つよりは歩いて行った方が早そうです。

 

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まだ明るいので、もう少し街歩きをすることにします。
写真は欲知港近くの公園にあった「祝生誕」のイルミネーション。クリスマスはもうすぐです。

 

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同じ公園にあった、2人の漁師の像。

 

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東西にあるフェリー船着場のちょうど中間地点にあたるこの一帯には、飲食店などの商業施設が集中しています。中でも漢陽食堂(ハニャン・シクタン)という中華料理店は、あるタレントさんがお店のチャンポンを紹介したことがきっかけで、離島にもかかわらず週末には行列が形成されるとか。

 

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路地に面する店舗や民家の壁面には、現在の10倍以上もの人口を擁し、前進漁業基地として賑わっていた当時のものとみられる往年の欲知島の写真が飾られていました。

 

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初めて来たのに懐かしい、胸がきゅっとなる街並みを歩きます。

 

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一部には壁画で彩られた建物も。私の大好きな、黄昏どきの壁画マウルの風景です。

 

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ところで、欲知島では実にたくさんの猫さんと遭遇しました。写真だけだとそれほどでもないようですが、すばしっこいから撮れなかっただけで、実際には滞在中10匹くらいは遭遇したでしょうか。過去に訪問してきた韓国の一地域で、これほど多くの猫さんを見たことはありません。これらは1970~80年代にネズミ駆除のため多数導入されたものの子孫で、あまりの数の多さからTV番組でも度々紹介されたことにより、欲知島は「猫の島」としても知られているようです。

 

さて、いよいよ夕闇が迫ってまいりました。お待ちかねの夕食の時間です。
そこでまずは、欲知港から徒歩で約20分ほどの場所にある「欲知島地中海(チジュンヘ)ペンション」へと向かいます。
予約しているわけでもないペンションに一体何の用があるのかといいますと、こちらのペンションのオリジナルであり、欲知島名産のコグマ(サツマイモ)ともち米で仕込んだ「コグマトンドン酒」(고구마동동주:サツマイモの濁酒)を入手するためです。人工甘味料ゼロのほどよい甘み、しかも熟成したものはワインのような風味が楽しめると聞き、どうしても味わってみたくなったという次第です。

 

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暗くなり始めた欲知港一帯を後にして、欲知一周路を徒歩で東方向へ向かいます。

 

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セマウル運動のマークの刻まれたこちらの石碑(これを「マウル標識石」という)には「仏谷(プルゴク)マウル」とあります。かつてある村人が当地にて仏像を発掘したことに由来する地名、プチョコル(「仏様の谷」の意)が漢字に転じたものだそうです。
ちなみに仏谷マウルを過ぎたあたりの海岸沿いには韓国海軍の基地があり、対岸の自富マウルからは停泊中の軍艦もよく見えました。撮影禁止ですので写真はありません。

 

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仏谷マウルの教会、そして先ほど利用した赤い欲知島バスの車庫。

 

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途中の三叉路にあった「海軍アパート」(すごい名前だ)や島内観光スポットなどの案内板。先ほどバスでも通った場所です。ここをまっすぐ進むと、欲知島地中海ペンションや一部路線バスの終点である冶浦マウル方面へ向かい行き止まりとなる道、また右に曲がると観光名所の岩礁「サミョ島」やいくつかの集落を経て島を一周し、再び欲知港へと戻って来る道です。ちなみにこの三叉路、直進・右折・後退(元来た道)のいずれも「欲知一周路」です。

 

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バス通りは海岸方面に大回りしているので、ショートカットのため路地に入ります。私の好きな韓国の離島の裏路地、それも情感漂う夕暮れの姿です。

 

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再びバス通りへ。天然石を用いた写真のマウル標識石には「立石(イプソク)マウル」とあります。北東側に大きな岩が立っていたこと由来する地名、ソンドルベギ(「立った石のあるところ」の意)が漢字に転じたものだそうです。

 

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立石マウル、漁船の停泊する海岸べりの道路(欲知一周路)を進みます。左上の山の斜面で光を放っている建物が欲知島地中海ペンションです。

 

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欲知一周路から分かれてペンションへ向かう坂道。この坂がとんでもない急斜面で、息を切らしてひーひー言いながら登るしかありませんでした。

 

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そうしてやっと到着した欲知島地中海ペンション。立派な建物です。敷地内にはプールまで(冬なので空でしたが)
しかし従業員の方に聞いたところ、なんと今年の分のコグマトンドン酒は終わってしまったとのこと。
なんでもコグマトンドン酒のシーズンは毎年4月からだそうで、例年10月頃までには完売してしまうそうです。ショック。甘かったのはコグマトンドン酒ではなく私の下調べでした……

 

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トンドン酒は空振りでしたが、せっかくがんばって登ってきたので、記念にペンションの庭から欲知港や欲知一周路の夜景を撮影。すばらしい眺望です。
欲知島地中海ペンションは安い部屋でも1万円以上するようですが、この景色が堪能できてしかもシーズンにはコグマトンドン酒が味わえるのであれば、利用してみたいとも思います。なおコグマトンドン酒は1本1万ウォン(約1,000円:2020年12月現在)。宿泊客でなくともカフェで味わったり持ち帰ったりすることもできます。このほか、やはりオリジナルだというコグマアイスクリームも気になるところです。

欲知島地中海ペンション(욕지도 지중해펜션:慶尚南道 統営市 欲知面 官庁キル63 (東港里 259-1)) [HP]

 

目当てのコグマトンドン酒をゲットできず、これからまた手ぶらで20分あまり歩いて欲知港へ戻らなければなりません。
しかし、私はあまり気落ちしてはいませんでした。なぜならば、オリジナルのコグママッコリを扱う店がまだ他にもあるとの情報をつかんでいたからです。この日の夕食の場と目していたそのお店に向かうため、再び欲知港方面へと歩いてゆきます。
今度は欲知港を通過し、所要時間30分ほどで日中にも訪れた「近代漁村発祥地座富浪ゲ」のある自富マウルに到着。

 

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前回エントリーでも紹介した「欲知島ハルメバリスタ」のすぐそばに、目当てのお店「ポンイ布張馬車(ポジャンマチャ)」があります。布張馬車、あるいは略語の布車(ポチャ)とは日本でいう「屋台」のことですが、屋台でなくとも飲食店の屋号に用いているケースが多々あります。
期待に胸を膨らませつつご主人に話を聞いたところ、現在はコグママッコリを来客には出していないとのこと。造ってこそいるようですが、どうやら自家用としてのみ消費しているのでしょう。そうした状況で無理にお願いすることはできません。今回も空振りに終わってしまうのでしょうか。
意気消沈していた私の表情を察したのか、続けてご主人が言うには欲知港近くに別のコグママッコリの醸造所があり、そこで買ったものを店に持ち込んでもよいとのこと。
今度は確実性の高い情報です。ご主人に感謝しつつ、再訪することを告げいったんお店を後にします。

 

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そして三たび訪れた欲知港。写真のお店が醸造所だという「ホスアビ」(「かかし」の意)です。
実はこちらのお店でもコグママッコリを造っていることはチェック済みであり、コグママッコリの壁画のあるお店の写真は夕方の街歩きの際に撮っておいたものです。ただ料理が欲知島特産というわけではなかったので、島特産の海産物を扱うポンイ布張馬車よりは優先度を下げていたところです。
ご主人に話を聞くと、コグママッコリは販売中とのこと。自分へのお土産用を含め、1リットルのボトル3本を購入することに。3軒目にしてやっと巡り合うことができました。

 

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ご主人により冷蔵タンクから直接汲み取られるコグママッコリ。前々回のエントリーにて紹介した蓮花島(ヨナド)の「チャンモニム酒幕(ジュマク)」もそうでしたが、この光景がまた好きなのです。

こちらのお店「ホスアビ」はその後、同じ路地の港寄りに移転し、「ホスアビ食堂」および「欲知島醸造場」の看板を掲げて2020年現在も営業中のようです。営業時間は不明ですが、私が訪問した当時は土曜日の午後7時台も営業していました。現在地は欲知港東側のフェリー船着場(大一海運・慶南海運)から徒歩約5分(約310m)同西側のフェリー船着場(嶺東海運)から徒歩約2分(約160m)で到達できます。
コグママッコリはテイクアウトでき、ペットボトル1本5,000ウォン(写真の2018年当時も同価格でしたが2020年現在ではボトルの形状が大きく異なっており、容量は当時の1リットルから減ったかもしれません)。要冷蔵ですが後述するようにおいしかったので、保冷剤を添えてでもぜひお持ち帰りいただきたい味です。

ホスアビ食堂(欲知島醸造場)(허수아비식당(욕지도양조장)):慶尚南道 統営市 欲知面 西村アレッキル 110-5  (東港里 824-21))

 

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道すがらにある宿の冷蔵庫にコグママッコリ2本を置き、残る1本を携えて再びポンイ布張馬車へ。そういえばこの日から12月。すでに日のとっぷり暮れた外は寒さを増しつつあります。同店には締め切られた屋内の席(写真左側)もありますが、それでもあえて情感漂う屋外テーブル(屋根付き。写真奥側)に席を取ります。
ポンイ布張馬車のメイン食材は欲知島名産の養殖コドゥンオ(サバ)をはじめとする海産物の数々。もちろん、名物のコドゥンオフェ(サバ刺し)を注文します。
回遊魚であるサバ専用の円筒形の水槽から取り出した2尾のサバは、傷まないよう直ちに血抜きをします。さすが手際がよいです。

 

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その間、まずはコグママッコリの味見から。ビールコップしかなかったのが唯一惜しいですが、マッコリの味には関係ありません。
少しクセのある匂いはあるものの、しっかり付いたサツマイモの甘みと香り。うんまい。買って正解でした。

 

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そしてやって来た2尾分のコドゥンオフェ。皮の青みがかった銀色が、血合いの赤褐色や身の薄ピンク色とのコントラストとあいまって、あまりにも美しい。見とれてしまいます。焼き、あるいは煮物のサバはこれまで数えきれないほど口にしてきましたが、思えばサバを生で食べるのは初めて。
ぱくり。脂が乗ってめちゃくちゃうんまいです。煮物でさえその脂の風味が強烈なサバ、刺身で食べたらどれほどだろうと想像していましたが、その想像をはるかに超えるおいしさです。

 

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みなさまもご承知のように、サバは数ある寄生虫の中でも人体に及ぼす害が大きいアニサキスがその身に取り付いているケースが多いため、日本ではほとんどの地域で生食は禁忌とされています。ではどうして欲知島のサバは生食できるのかというと、豊後水道など九州産のサバと同様、寄生するアニサキスの種が異なるため人体に害が及びにくいことが理由のようです。
同じく欲知島名産のサツマイモで造ったコグママッコリとともに味わうコドゥンオフェ。幸せな欲知島の夜が流れます。ちょっと無理してでも一泊に変更して、本当によかった。

 

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2尾だけでは物足りず、コドゥンオフェをもう1尾分と、さらにモンゲフェ(マボヤ刺し)を追加。
モンゲフェは前夜に統営市内のタチで初めて食べてから、そのうまさにすっかりハマってしまいました。

 

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気が付くと、私の座っていた椅子の後ろにまた猫さんが。欲知島に入ってから何匹目でしょうか。私のコドゥンオフェを虎視眈々と狙っています。

 

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こちらのお店「ポンイ布張馬車」の営業時間は確認しませんでしたが(すみません)、私が訪問した午後8時時点では営業していました。欲知港東側のフェリー船着場(大一海運・慶南海運)から徒歩約6分(約430m)同西側のフェリー船着場(嶺東海運)から徒歩約12分(約860m)で到達できます。写真は日中に撮ったお店の全景です。

ポンイ布張馬車(봉이포장마차:慶尚南道 統営市欲知面 自富浦キル38-16 (東港里 574-34))

 

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夜の欲知島ハルメバリスタ

 

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ポンイ布張馬車を出て、旅館のある東村マウルへ戻ります。
この自富マウルと東村マウルの間の欲知一周路を歩くのは今日で6回目(3往復)です。

 

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夜の欲知港。
撮影した9時過ぎの時点ではすでに閉店していましたが、欲知港一帯には刺身などの海産物を出してくれる屋台がいくつか点在しています。

 

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前回のエントリーでも書いたように、この日の欲知島訪問は当初計画だと日帰りだったものを、港の様子を見て衝動的に一泊に変更したものです。そのため下着などは一切持ってきていませんでした。
そんな問題を解決してくれたのが、旅館の近くにある写真のスーパー「トップマート」。大手コンビニのないこの島で、お酒を含む食品はもちろん下着などの衣料や日用雑貨の扱いがあるうえ営業時間は午後10時まで。おかげでたいへん重宝しました。

 

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この日の宿、ミジンジャン旅館の部屋の窓から眺めた深夜の欲知港。この眺めだけでも、こちらの旅館を選んでよかったと思います。

 

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そして夜が明けた旅の3日目、2018年12月2日(日)の朝。
この日は午前中から統営市の原都心(ウォンドシム。旧来の市街地)を街歩きをし、午後には別の目的地へと向かうため、朝一番の船で欲知島を発つ計画です。

 

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早朝の欲知港。すでにフェリーがその口を開けています。
後述するように、欲知島からは前日に私が蓮花島へ行く際に乗船した統営港旅客船ターミナルへ行くフェリー(大一海運)のほか、同市の弥勒島(ミルクト)の西岸にある三徳(サムドク)港へ行くフェリー(慶南海運、嶺東海運)が発着しています。三徳港は統営の原都心から少し離れているのですが、朝一番の三徳港行きに乗ればバスの時間を考慮しても統営港行きの初便より早く原都心に到達できるため、こちらを利用します。
加えて冬の海は荒れやすく、黒山島(フクサンド)のような外海ほどではないとはいえ、欲知島のような沿岸航路であっても休航となるリスクが高まります。なので、船には乗れるときに乗っておかなければなりません。

 

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そして午前7時30分、三徳港行きの慶南海運フェリー「統営ヌリ」号は欲知港を出航します。
さらば欲知島。再訪を誓いつつ島を後にするのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

                                      

【付記】欲知島へのアクセスについて

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今回と前回のエントリーで紹介した慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市の欲知島(ヨクチド)、および前々回のエントリーで紹介した同市の蓮花島(ヨナド)は本土から遠く離れた離島であり、フェリーでしか渡ることができません。
欲知島へ行くフェリーは4つの会社が運営しており、統営市内の3つの港(統営港・三徳 (サムドク))港・中和 (チュンファ)港)から発着しています。
うち弥勒島(ミルクト)西岸にある三徳港へは、統営港旅客船ターミナルの最寄りである「西湖市場(서호시장)」バス停から市内バスに乗って最短約27分(約7.1km)で到達できます。

 

大一海運時刻表
●統営港旅客船ターミナル⇔蓮花島⇔欲知島(大一海運(テイル・ヘウン)

・中心部(原都心)の統営港から発着する唯一の路線
・すべての便が蓮花島に寄港する
・4路線で唯一、一部の便が牛島(ウド)にも寄港する
・欲知港は東側の船着場から発着

嶺東海運時刻表
●三徳港旅客船ターミナル⇔欲知島(嶺東海運(ヨンドン・ヘウン)

・最も便数が多い(一日7便)
・全便が直行便なので最も所要時間が短い(約50分)
・欲知港は西側の船着場から発着

慶南海運時刻表

●三徳港旅客船ターミナル⇔蓮花島⇔欲知島(慶南海運(キョンナム・ヘウン)

・一部の便を除き蓮花島に寄港する
・欲知港は東側の船着場から発着

欲知海運時刻表

●中和港旅客船ターミナル→蓮花島⇔欲知島(欲知海運(ヨクチ・ヘウン)

・2019年夏に就航した新路線
・1往復のみ蓮花島に寄港する
・欲知港は西側の船着場から発着

 

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なお、欲知港に東西2つあるフェリー船着場については便宜的に「東」「西」と表記しているものであり、そうした正式名称はないようですのでご注意願います(たぶん地元の方や運航会社にそう言っても伝わらない)。また、西側の欲知海運のターミナル(チケット売り場)は嶺東海運のもの(写真1枚目)と別の建物の可能性があります(船着場は少し離れているようです)。東側の大一海運と慶南海運のターミナル(写真2枚目)および船着場(写真3枚目)は共通です。

統営の旅[201812_03] - 欲知島(ヨクチド)訪問①植民地支配下の漁民の生活を記憶する「近代漁村発祥地座富浪ゲ」

前回のエントリーの続きです。

一昨年(2018年)11~12月の慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市を巡る旅の2日目、2018年12月1日(土)です。

 

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蓮花島(ヨナド)を正午ごろに発ち、隣の牛島(ウド)を経由したフェリーが、いよいよこの日の主目的地である欲知島(욕지도:ヨクチド)の港に入ります。

 

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そして牛島を発ってから約20分で、欲知港に到着。

  

統営市欲知面全図

欲知島全図
欲知島は統営市欲知面(ミョン。日本の村に相当する地方自治体)に属する面積約12.6平方km、海岸線の長さ約31kmの離島で、人口は約1,500人と統営の40あまりの有人島の中でも有数の規模を誇ります。大小合わせて約570ある統営市の離島は、山陽(サニャン)圏・蛇梁(サリャン)圏・閑山(ハンサン)圏・欲知圏の4圏域に大別されますが、欲知島はそれらのうち欲知圏の主島という位置づけとなっています。
欲知島の歴史は先史時代にさかのぼり、島内からは貝塚が発掘されています。同様に三国時代から高麗時代にかけての遺物も出土していることから、一貫して居住者がいたものと推定されます。
朝鮮時代には王朝の空島政策倭寇対策で離島の全住民を本土に強制移住させた政策)の一環で長らく無人島となりますが、朝鮮末期の1887年に再び入植が許可されます。かつて欲知島が属していた三道水軍統制営では、朝廷への進上品である鹿茸(シカの角)を得るため島内で狩りをしていたほどシカが多く、再入植の際にも何頭ものシカが島内を走り回っていたことから「鹿島(ノクト)」とも呼ばれていたそうです。
その後19世紀末には、黄金漁場と呼ばれたほど海産資源の豊富な周辺海域に目を付けた日本人たちが欲知島に入植するようになります。これに伴い朝鮮人も数多く移入したため人口が急増し、日帝強占期の1915年頃には現在の約15倍である約2万3千人に達したといいます。光復(日本の敗戦による解放)や朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)を経た1950~60年代にも欲知島は漁業前進基地として繁栄を続けますが、それまでの乱獲に伴う漁業資源の枯渇などにより徐々に衰退し、島の人口も激減します。そうして他の離島と同様に過疎化が進む中、かつての特産品であったサバの養殖に韓国で初めて成功。またもうひとつの特産品であったサツマイモのブランド化にも成功し、既存の観光資源とあわせて欲知島は統営を代表する観光スポットとしての地位を確立しています。
ちなみに私が訪問した1年あまり後の昨年(2019年)12月には、観光用モノレール「統営欲知ソムモノレール」(ソムは「島」の意)が開業、新たな観光需要を呼び起こしているとのことです。

なお「欲知島」の名の由来としては、港が面する湾の中にある島が水浴びする亀に似ているのでヨク(浴)チとなった、あるいは罪人がこの島への流刑により辱めを受けたのでヨクチ(辱地)となった(ただし欲知島が流刑地となった根拠はない)、またあるいは「欲知蓮華蔵頭尾問於世尊」(蓮華(極楽) 世界を知りたければすべてを世尊(仏様) に尋ねよ、の意)という華厳経の一節に由来するなど諸説があるそうです。中でも最後の説については、それを裏付けるかのように、直前に寄った「蓮花(蓮華)島」をはじめ「頭尾島(トゥミド)」「世尊島(セジョンド)」といった島々が欲知島の周辺海域に点在します。

 

さて、私が欲知島に上陸してから最初にしたことといえば、この日の宿探しでした。当初、欲知島訪問は日帰りのつもりでしたが、船上から港一帯を眺めた瞬間「あっ、この島に泊まりたい」という衝動に駆られてしまったためです。昨夜泊まった本土のホテルは連泊で予約しており、結果的に無駄になってしまいますが、まあ荷物置き代だと割り切ることにしました。

 

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欲知港付近には数件の宿泊施設があり、その中で今回選んだのが写真の「ミジンジャン旅館」。1部屋40,000ウォン(約4,000円:当時)とほどよい値段だったので、特に値切ることもせずそのまま宿泊することに。

 

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ミジンジャン旅館の部屋の窓からは欲知港が見渡せます。

 

欲知港周辺

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部屋で少しだけ休憩してから、欲知島の踏査に出かけます。
向かったのは欲知港の東方面。島を一周する道路、その名もずばり「欲知一周路(ヨクチイルジュロ)」に沿って歩きます。

 

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まず訪れたのは、欲知港のある「東村(トンチョン) マウル」 (マウルは「村、集落」の意)と隣接する「自富(チャブ)マウル」。写真はマウル名を示す石碑(これを「マウル標識石」という)で、韓国の「○○マウル」ではごく一般的に見られるものです。私はこのマウル標識石が好きで、いつも写真に収めています。

 

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マウル標識石を過ぎて少し進むと、道沿いに写真のパネルが立っています。
こちらは韓国の西洋画家、李仲燮(이중섭:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏と、その作品「欲知島風景」に関する案内パネルです。よく見ると見出しには日本語表記も。
李仲燮氏については、前年(2017年)秋に釜山の「李仲燮通り」を訪れたこちらのエントリーでも紹介したことがあります。わずか40年の不遇の生涯の中にも数多くの作品を残し、中でもここ統営でのおよそ2年間の滞在中に描いた「牛」を題材とする連作が高い評価を受け、現在では韓国で最も人気の高い画家の一人となっている人物です。
氏は螺鈿漆器伝習所の講師として統営に滞在していた1953年にここ欲知島を友人と訪れ、2泊3日の旅程の中で多くの作品を描いたといいます。しかし、それら作品のうち現在公開されているものはパネルにある「欲知島風景」ただひとつしかないとのことです。

 

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こちらは別の場所にあった、李仲燮氏と「欲知島風景」に関する案内パネル。

 

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少し戻って、自富マウルのマウル標識石の手前には、山へ登る階段があります。
この階段があるトンメという小山一帯には、常緑樹であるモミルジャッパンナム(모밀잣밤나무:ツブラジイ。学名:Castanopsis cuspidataの林が形成されており、天然記念物第343号に指定されています。

 

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ツブラジイ(円椎)はブナ科の常緑樹で、韓国南部と日本に分布しています。開花期は5~6月で、秋にはその和名の元となった丸いどんぐり様の実を付け、これは加熱しても生でも食べられるそうです。

 

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モミルジャッパンナムの林の中には木製デッキの散策路が設けられ、誰でも自由に立ち入って森林浴ができるようになっています。

 

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トンメを越えてゆくと、自富マウルの家並みが目前に広がります。

 

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現在でこそその地位を欲知港のある東村マウルに譲っていますが、ここ自富マウルはかつて、欲知島で最大の集落でした。
記録によると朝鮮王朝の空島政策が解かれてまもなくの1889年頃、日本の漁民たちが欲知島近海で沈没船の引き揚げに用いた機械潜水器を貝の採取に転用し、効果を上げたといいます。その後1895年頃から、徳島県人の富浦覺太郎(とみうら・かくたろう)らが欲知島を毎年訪れるようになります。富浦らは後に黄金漁場とまで呼ばれた欲知島近海の水産資源を安値で買い入れて日本で販売したり、あるいは自ら魚獲することで次第に富を蓄積するようになります。そして富浦は1901年、当時は座富浪浦(チャブランポ)と呼ばれていた自富マウルに定着。財力にものを言わせて漁業資金を島の漁民たちに貸し付け、漁獲高の1~2割を自分の分け前として徴収するようにし、さらに富を蓄積してゆきます。
こうして財産に加え権力を得た富浦は、ついに座富浪浦の地名までも我が物にしようとします。「座」の字を当地では同じ発音の「自」に替え、さらに「浪」の字を抜くことで「自富浦(チャブポ)」とし、自分の名字を含む名前に変えてしまいます。当時は文字の読めない漁民も少なくなく、発音上は従来とほぼ同じで不便はなかったとはいえ、知らず知らずのうちに故郷の地名をも日本人に奪われてしまっていたわけです。「自富浦」のうち「浦」は「~港」を意味する語ですので、これが取れた「自富」の地名がその後現在まで存続するようになります。
一方、こうして漁業基地となった欲知島は、その経営のため入植した日本人に加え、職を求めた外部の朝鮮人も多く流入したことで人口が急増、前述したように日帝強占期の1915年には約2万3千人に達します。とりわけその中心地であった座富浪浦(自富浦)は急発展を遂げ、最盛期には旅館や銭湯、喫茶店やビリヤード場などに加え、約40軒ものアンバンスルチッ(안방술집:接待する女性が客と向き合わずに酒を売っていた飲み屋)が軒を連ねる一大繁華街となりました。日本人による支配と収奪の下ではありましたが、そこには朝鮮の人々による繁栄があったわけです。

 

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自富マウルの栄華は光復や朝鮮戦争を経た1960年代初頭まで続きますが、その後は漁業資源の枯渇に伴い人口の激減、加えて島の中心部が欲知港周辺の東村マウルに移ったことで自富マウルは急速に衰退し、ひなびた漁村に転落します。
しかし近年になって、現在も残るその痕跡とあわせてかつての栄華を、そして本来の地名「座富浪浦」を記憶すべく、同じ意味である「座富浪ゲ」(좌부랑개:チャブランゲ。ゲは「浦、港」の意)の名を冠した「近代漁村発祥地座富浪ゲ」として案内板などの整備が進められています。さらにマウル内には後述する特徴的なカフェも誕生、現在では欲知島を代表する観光地のひとつになっています。 

 

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日帝時代のほとんどの建物は老朽化により解体されましたが、その跡地を示す案内板が自富マウルの随所に設けられています。写真の住宅は富浦覺太郎の邸宅跡。

 

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「義勇消防隊」があった場所。日帝強占期に日本人住民たちが財産を守るために結成したもので、光復により日本人が去った後は、島の住民たちがそのまま施設を受け継いで維持したそうです。

 

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最盛期には40軒あまりあった「アンバンスルチッ」のひとつ、「明月館」の跡地。この一帯には明月館のほかにも「釜山屋」「馬山館」「楽園屋」などいくつものアンバンスルチッが立ち並んでいたといい、それぞれ4~5人ほどの若い女性が接待をしていたそうですが、この明月館には日本人の芸者がいたとのことです。日本語表記の「さかは小路」とは「さかば小路」のことでしょうか。

 

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海岸沿いに立つ「欲知島波市」の案内板。波市(パシ)とは漁港一帯、あるいは係留された漁船上にて開かれた海産物の市をいいます。ちょうどこの日の1年前に訪問した全羅南道(チョルラナムド)新安(シナン)郡黒山島(フクサンド)と同様、かつてはこの欲知島でも頻繁に波市が開かれていました。欲知島の近海では冬から春には地域名産のメイタガレイクロダイ、マダイなど、夏から秋にはサバやイワシ、サワラなどが主に獲れたそうで、韓国でもダシ取りに広く用いられるミョルチ(カタクチイワシ)に至っては年中群れをなしていたとのことです。当時は季節になるとあまりにも魚が獲れすぎて船で運べず、やむなく一部を海に捨てるほどだったといいます。こうした波市は光復後の1960年代まで催されましたが、漁業資源の枯渇に伴い1970年代のサワラ波市を最後に幕を閉じたそうです。

 

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欲知島、座富浪ゲ(自富マウル)の歴史を年代別に写真で振り返るパネルが張られた家屋。 

 

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この家屋には、撞球(タングジャン:ビリヤード場)跡との案内がありました。日帝強占期の1940年代にヤマモト・ハスヒラという日本人が開業、5台ほどのビリヤード台を備え漁夫や船員たちで繁盛したといい、光復後も島の住民が受け継いで営業を続けたそうです。1950~60年代、欲知島が漁業前進基地と呼ばれた頃には盛況をなしたというこの撞球場も、60年代以降の人口減に伴い来客も減少し、廃業したとのこと。

 

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沐浴湯(モギョッタン:銭湯)跡。1912年頃に日本人によって営業が始められ、1945年の解放後に廃業したとあります。

 

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茶房(タバン:喫茶店跡。大韓帝国時代の1905年頃から存在した茶房は日本人の経営によるもので、住民や船乗りたちの出会いの場として頻繁に人の出入りがあったといいます。その後、日帝強占期には現位置に移転。1945年の開放後はアポロ茶房から珊瑚(サノ) 茶房と屋号を変えて営業を継続したものの、船乗りたちの足が途絶えると店を閉じ、民家となったとのことです。

 

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欲知旅館(ヨクチ・ヨグァン)跡。日帝強占期の1910年頃、自富マウル内の別の場所に開業。光復後には島の住民が日本人から経営を引き継ぎ、1959年の台風で建物が破損したため当地(現建物)に移転したとのことです。欲知島での漁業が活況であり、島の人口も現在の約10倍の1万5千人いた1960年代までは盛況をなしたようですが、その後の人口減に伴い廃業、現在は民家として用いられています。

 

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自富マウルの高台にある、欲知尋常高等小学校の跡地。1931年に設立されたこちらの学校は日本人の子どもの教育を目的としたものでしたが、欲知島には中学校が設置されなかったため、朝鮮人の子どもたちも通っていたとのことです。1945年の解放に伴い廃校となった後は遠梁(ウォンリャン)国民学校(現在の初等学校。日本の小学校に相当)の欲知島分教場として認可、翌年には欲知公民高等普通学校も併設されます。その後は私立欲知中学校を経て道立欲知中学校となりますが1969年に別の場所へ移転。馬山税関統営出張所の欲知監視所として利用された後、その跡地は民泊「トラガヌンベ」(「帰りゆく船」の意)の敷地となっています。

 

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欲知尋常高等小学校の跡地、現在の民泊「トラガヌンベ」から眺めた海。欲知港や自富マウルの面する欲知島の湾入部は、島本体と半島部に囲まれた天恵の良港となっています。穏やかな海と対岸に見える半島、とてもよい雰囲気です。

 

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かつての欲知島近海における主な水産資源はサバであり、枯渇するまではサバの波市も活発に開かれていました。
ご承知のようにサバは水揚げしてから傷むのが早く、冷凍設備の整っていなかった近代期には、獲れたサバは直ちに内臓を取り除いて塩蔵加工をする必要がありました。そのため自富マウルの住宅には家ごとに「カンドク(간독)」と呼ばれる巨大な四角い穴が掘られており、ここに大量のサバを積み重ね、これまた大量の塩に漬け込んでから出荷したとのことです。こうして日本や朝鮮全土に運ばれたサバが、たとえば慶尚北道キョンサンブット)安東(アンドン)の名物料理「カンコドゥンオグイ(塩サバ焼き)」などに用いられたといいます。

 

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写真は当時のカンドクを再現したスペース。日本語表記で「サバ塩蔵かめ」とあります。自富マウルにはかつてのカンドクだった穴が現在もいくつか残っているそうです。
前述したように欲知島近海の天然物のサバは枯渇してしまいましたが、現在は網いけす養殖の発達により欲知島はサバ養殖の一大産地となり、サバの本場の地位を取り戻しています。

 

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自富マウルの路地はちょっとした壁画村になっています。私の好きな島の裏路地、そして壁画マウルの風景です。

 

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そんな自富マウルの路地に、山の斜面へ向かう木製デッキの階段がありました。
階段脇の案内板を見ると「欲知島郵便局」とあります。郵便業務を扱う事業所のことを韓国では「郵逓局(ウチェグッ)」というので、この表記だけでも日帝時代のものであることが分かります。
案内板によると、1912年に朝鮮総督府逓信局が日本人の便宜のためこの場所に統営郵便局の欲知島郵便所を設置、その後1934年に本局である統営郵便局との間で無線通信を開始、1941年に郵便所から郵便局に昇格したとあります。そして1945年の光復を迎え、郵逓局に改称された後もこの場所で郵便業務を継続し、1977年に東村マウルへ移転したことで廃局となったとのこと。

 

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階段を登り切った場所。当時の郵便局建物は現存せず、プレートの貼られた当時のコンクリート柱だけが往時の面影を残しています。

 

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「近代漁村発祥地座富良ゲ」東側のゲート。

 

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座富浪ゲの東側出入口のすぐ近くには、一般に「水協(スヒョプ)」と略される水産業共同組合(日本の漁協に相当)の保冷庫らしき建物があり、この建物の前にも「欲知漁業組合」の案内板があります。
1924年に欲知島の朝鮮人と日本人により東港里(トンハンニ)漁業組合が設立、翌年に欲知漁業組合に改称。組合のセリを経て販売された海産物は現在の慶尚南道昌原(チャンウォン)市にある馬山(マサン)駅に運ばれ、朝鮮の内陸部や満州(現・中国東北部まで輸送されたといい、当時の朝鮮で最も生産高の大きい組合だったそうです。1928年には現位置に移転。

 

この「近代漁村発祥地座富浪ゲ」のように日帝強占期の施設を保存、あるいはその跡地を紹介する韓国での取り組みはこれまで何度も本ブログにて紹介してまいりましたが、私がその都度添えるようにしているのは、これらは決して日本による統治を美化し、あるいは称えるための取り組みではない、ということです。
足かけ36年間に渡り日本がしてきたことは、植民地としての朝鮮の支配であり、かつその市民の使役による生産物の収奪に他ならず、たとえごく一握りの良心的な日本人の事例を挙げたところでその本質は決して否定することはできません。
日本人がこうした取り組みを見て「日本は朝鮮に良いことをした」だの「韓国人は日本統治時代を懐かしがっている」だのと一方的に解釈し、あまつさえそう発言することは、表層だけを見て自己満足に浸りたがる意識の表出であり、厳に慎むべきことです。

  

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自富マウルには、「近代漁村発祥地座富浪ゲ」と並ぶもうひとつの名所があります。
それが写真のカフェ、その名も「欲知島ハルメバリスタ」です。

 

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ハルメ(할매)とは「おばあさん」を意味するハルモニ(할머니)の慶尚方言。その名の通り、島出身の70~80代のおばあさんたちがバリスタとなりコーヒーを出してくださるということで、メディアなどで紹介され有名になったお店だそうです。確かに、この日カウンター内にいらっしゃったのも年配の女性でした。
店内には往年の自富マウルの写真の数々に加え、訪問者による記念の落書きがびっしりと。

 

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こちらのお店の名物メニューのひとつが、写真の「コグマラテ(고구마라떼)」。コグマとは「サツマイモ」のことで、サバと並ぶ欲知島の名産品、欲知コグマで作った飲料なのだとか。しっかりとサツマイモの香りがしてうんまかったです。

 

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こちらのお店「欲知島ハルメバリスタ」の営業時間は午前8時30分~午後5時(週末は午後7時まで)、たぶん年中無休。欲知港東側のフェリー船着場(大一海運・慶南海運)から徒歩約6分(約400m)同西側のフェリー船着場(嶺東海運)から徒歩約12分(約800m)で到達できます。
今回は注文しませんでしたが(夕食が控えていたため)、コグマラテと並ぶこちらのお店のもうひとつの名物が「ペッテギチュッ(빼떼기죽)」という欲知島の郷土料理です。ペッテギとは欲知島の言葉でサツマイモを細かく切って干したものをいい、これを小豆や米、砂糖などと一緒に煮込んでチュッ(お粥、またはそのようなペースト状の料理の総称)にしたものがペッテギチュッで、子どもたちのおやつとして、また春窮期や凶作のときには飢えを満たしてくれる食事代わりとなったそうです。次にこちらのお店を訪問できる機会があるならば、その際にはぜひとも口にしたいものです。

欲知島ハルメバリスタ(욕지도 할매 바리스타:慶尚南道 統営市 欲知一周路 155 (東港里 574-16))

 

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そろそろ日が西に傾いてきましたが、まだまだ欲知島の踏査は続きます。
続きは次回のエントリーにて。

 

統営の旅[201812_02] - 仏心の島、蓮花島(ヨナド)でおばあちゃんの手作りトンドン酒を味わう

前回のエントリーの続きです。

一昨年(2018年)11~12月の慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市を巡る旅の2日目、2018年12月1日(土)です。

 

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前年(2017年)の全羅南道(チョルラナムド)新安(シナン)郡、黒山島(흑산도:フクサンド)および紅島(홍도:ホンド)の旅からちょうど1年ぶりとなる韓国の島旅。
前回も紹介したように統営市には大小合わせて570もの島々があり、その数は全羅南道新安郡に次いで韓国第2位と言われています。うち有人島は40以上にものぼり、そのほとんどが架橋されておらず、船でしか行くことのできない離島です。私がやって来た統営港旅客船ターミナルをはじめ、市内に点在する港から毎日数十往復も発着するこれら離島行きの船便は、まさに島の生命線といっても過言ではないでしょう。
これら統営の離島の中でも特に有名なものとしては、16世紀末の壬辰倭乱(イムジンウェラン。狭義では「文禄の役」を指しますが「慶長の役」を含む豊臣秀吉の2度の朝鮮侵略の総称としても用いられます)の際に三道水軍統制使の李舜臣(이순신:イ・スンシン、1545-1598)将軍が本陣の統制営を設置、 現在も将軍ゆかりの史跡が残る閑山島(한산도:ハンサンド)、韓国百名山にも選ばれた智異山(チリサン、399.3m。韓国本土最高峰の智異山(1915.4m) とは別の山)を擁する蛇梁島(사량도:サリャンド)、そして奇岩絶壁と灯台が調和した美しさで人気の高い小毎勿島(소매물도:ソメムルド)などが挙げられます。

 

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その中で私が今回の目的地に選んだのは、欲知島(욕지도:ヨクチド)です。
欲知島を選択したのは、人口約1,500人とそこそこ大きな規模の島であるため船便も多いうえアクセス時間も1時間前後と短く、しかも各種商業施設に島内一周バスのような公共交通機関も整っており、加えて近代における特別な歴史を抱いていること、さらに特産のコドゥンオ(サバ)をはじめとする多島海の海の幸、そして島特産のある野菜を材料に醸したマッコリの存在のためでした。もちろん欲知島もまた観光資源の豊富さから、統営を代表する観光地のひとつに挙げられます。

 

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統営港旅客船ターミナルを午前9時半(当時)に出港する大一海運(テイルヘウン)の欲知島行きフェリー、その名もずばり「欲知号(ヨクチホ)」に乗って、一年ぶりの多島海へ踏み出します。
なお韓国では、遊覧船を含め乗船券の購入には身分証明書(外国人訪問者はパスポート)の提示が必要です。

 

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しかし、この日は欲知島に上陸する前に、どうしても寄りたい別の島がありました。
ターミナルからおよそ1時間、欲知島行きのフェリーが最初に寄港する島、蓮花島(연화도:ヨナド)です。
統営港から直線距離でおよそ22km離れた南西の海上に位置する蓮花島は、欲知島の付属島嶼として数えられる離島で、行政上も統営市欲知面(ヨクチミョン。面は日本の村に相当する地方自治体)に属しています。面積3.41平方km、人口約170人の小さな島です。

この蓮花島には、その島名にまつわるひとつの伝説があります。
いまをさかのぼること500年あまりの朝鮮時代初期。王朝の崇儒抑仏(既存勢力であった仏教を弾圧すること)政策により都を追われたある僧が、3人の弟子を伴い蓮花島へやって来ます。失意の中にも僧は、大きな丸い石を仏像の代わりとし、厳しい修行の末ついに悟りを得ます。そして月日は流れ、僧は弟子たちに「私が死んだら水葬せよ」と言い残してこの世を去ります。弟子たちはその遺言に従い僧の亡骸を海に沈めたところ、その場所に一輪の大きな蓮の花が浮かび上がったといいます。後に「蓮花道人(ヨナドイン)」と呼ばれるこの僧の伝説から蓮花島の名前が付いた、というものです。

この伝説には続きがあります。
壬辰倭乱では僧兵を率いて倭軍(日本軍)と戦い、また1604年には来日して徳川家康と会見、講和交渉の末に約3,500人もの朝鮮人捕虜を生きて連れ帰ったことでも知られる僧侶、惟政(유정:ユジョン、1544-1610)。韓国では四溟大師(サミョンデサ)の名でも知られる彼もまた蓮花島で修行したことがあるといい、蓮花道人と同様にこの島で悟りを得たというものです。このとき惟政を追って来た姉の宝雲(ポウン)、惟政の婚約者だった宝蓮(ポリョン)、そして惟政に恋愛感情を抱いていた宝月(ポウォル)は、惟政が去った後も修行を続けて得度したといいます。後に「紫雲仙師(チャウンソンサ)」と総称されるこの3人の尼僧は、当時は全羅左水使(現在の全羅南道および全羅北道の東部一帯にあった全羅左道の水軍の司令官)であった李舜臣将軍と面会して壬辰倭乱の勃発を予言し、将軍にコブク船(亀甲船)の建造方法や海戦法などを伝授したうえ自身たちも壬辰倭乱に参戦したという伝説が残されています。

 

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話を戻して、フェリーの船室はこんな感じでした。

 

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フェリーは統営近海の多島海をほどよいスピードで航行してゆきます。

 

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蓮花港への到着直前、私たち来訪者を出迎えるかのように架けられた大きな白い吊り橋をくぐります。

 

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フェリーは港にある斜面の船着場に先頭部を着け、自動車や乗客を降ろします。私も蓮花島に上陸。橋で本土と連結していない韓国の純然たる離島に船で上陸したのは今回が3度目です。

 

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船着場のそばにある蓮花島の観光案内図、そして「幻想の島蓮花島」と刻まれた碑石。港のある本村(ポンチョン)マウル(マウルは村、集落の意)は島の西端近くに位置しています。

 

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蓮花島の観光スポットとしては、島の東端にあり統営八景のひとつにも数えられる絶壁海岸のヨンモリ(용머리:「龍の頭」の意)、その少し手前の東頭(トンドゥ)マウルにある吊り橋(韓国では「チュルロンタリ」と呼ぶ。先ほどくぐった白い吊り橋とは別物)、 島最高峰の蓮花峰(ヨナボン、212m)、そしてその麓に位置する仏教寺院、蓮華寺(ヨナサ)などが挙げられます。中でも蓮華寺については、前述した蓮花道人や惟政の伝説ともあいまって島の仏教的神秘性を高めており、蓮花島が「仏心の島」あるいは「仏縁の島」と呼ばれる所以となっています。この蓮華寺を巡礼する人々のため、週末には蓮花島行きの船が増便されるほどです。

 

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ただし、今回私が蓮花島にやってきた目的はこれらではなく、港からほど近いある飲食店の訪問にあります。そのためまずは船着場から移動。

 

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船着場のそばに立っていた手書きの道しるべ。

 

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船着場から徒歩で2分とかからない場所に、目的のお店「チャンモニム酒幕(ジュマク)」があります。看板が出ていなかったら普通の民家と区別がつきません。ちなみに屋号のチャンモニムとは、チャンモ (「妻の母」の意)に敬称のニムを付けたもので、「お義母様」という意味のようです。
こちらのお店の名物は、サジャンニム(直訳すると「社長様」。ここでは「店主」の意)であるおばあさんが醸したトンドン酒(濁酒 (タクチュ)の一種。同じ濁酒のマッコリが原酒の下に沈んだ粕を渡したものであるのに対し、トンドン酒は原酒の上側のやや濁った部分をすくい取ったもの)。当初計画では統営港から直接欲知島へ向かう予定だったところ、調査している間にこちらのお店の存在を知り、急きょ蓮花島への立ち寄りを決めたという次第です。

 

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店内。韓屋の縁側沿いの庭に天幕を張り、その下にテーブルと椅子を置いただけの簡素な造りです。こういう雰囲気がまたたまらないのです。

 

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注文はもちろんトンドン酒、そして相性抜群のパジョン(日本でいうネギチヂミ)。

 

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おばあさんの手により貯蔵庫からすくい取られるトンドン酒。「家醸酒(가양주:カヤンジュ)」と呼ばれる自家製のお酒ならではの光景です。

 

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こちらのお店のトンドン酒、店内で飲む場合にはなんと市販のコーラの1.5リットルのペットボトルに注がれて出されます(テイクアウトの場合は不明)。これは初めての体験。

 

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待望の自家製トンドン酒を口に含みます。舌を包み込むようなほどよい甘みとかすかな酸味。これ、かなりうんまい。昼間、それも午前中から1.5リットルも飲み切れるか少し心配でしたが、このうまさなら余裕です。

 

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ほどなくしてやって来た熱々のパジョン。イカのゲソがたくさん乗っています。こちらもうんまい。来てよかったという思いでいっぱいです。
このトンドン酒を日本に持ち帰りたいという欲求に駆られますが、この時点では次の欲知島訪問中に冷蔵保管できるあてがなかったので断念。突然現れた異国の訪問者をうんまいお酒と料理で温かくもてなしてくださったサジャンニムのおばあさん、本当にありがとうございました。蓮花島の再訪がかなうならば必ずやまた訪問し、トンドン酒の持ち帰りにもチャレンジしたいと思います。どうかいつまでもお元気で。

 

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こちらのお店「チャンモニム酒幕」 、営業時間も定休日も不明です(確認しませんでした。すみません……)が、私が訪問した土曜日の午前中には営業していました。検索すると本年(2020年)6月の蓮花島訪問記を綴った韓国語のブログに、お店の看板が出ている写真と料理の値段の記述があったので、幸いなことに営業を続けていらっしゃるものと思われます。ぜひとも再訪したい、そして訪れていただきたいお店です。なお、お店を含む蓮花島へのアクセスについては、欲知島とあわせて次回以降のエントリーにて紹介する予定です。

チャンモニム酒幕(장모님주막:慶尚南道 統営市 欲知面 十里コルキル 23 (蓮花里 179-7))

 

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チャンモニム酒幕の面する路地。先に触れた本年6月の蓮花島訪問記によると、写真にある白い塀は現在、美しい壁画の数々で彩られているようです。

 

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近くには、島唯一の教育機関である遠梁(ウォンリャン)初等学校(日本の小学校に相当) 蓮花分教場(分校)があります。遠梁とは現在の欲知面一帯を含むかつての地名。学校の公式サイトによると現在の児童数はわずか1ケタだそうですが、その割には立派な建物です。昔はもっと児童が在校していたのでしょうか。

 

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こうした島の裏路地が好きです。

 

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チャンモニム酒幕や蓮花分教場の面する路地を写真の南東方向へしばらく進むと、ヨンモリや吊り橋、蓮華寺など蓮花島を代表する観光スポットに到達できるとのこと。しかし今回の蓮花島滞在時間はわずか1時間半、すでに到着から1時間近くが経過しています。ヨンモリや吊り橋は徒歩で片道30分以上、蓮華寺は片道約5分とはいえ伽藍を巡る時間はなさそうです。そのうえ今回どうしても訪れておきたい場所があとひとつだけ残っていました。これら観光スポットの訪問は次回に任せることにし、いったん港へ戻ります。

 

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写真の建物は「休憩室」と書かれていますが、蓮花島の旅客・遊覧船ターミナルです。まずは後からあわてずに済むよう、建物内のチケット売り場にて欲知島までの乗船券を購入します。

 

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蓮花島旅客・遊覧船ターミナルにあったパネル。上側、フェリーの蓮花島到着直前にくぐったこの白い橋は「蓮牛橋(ヨヌギョ)」といい、蓮花島と隣接する無人島、パナ島(반화도:パナド)との間に架けられた全長約230mもの吊り橋です。私の訪問の6ヵ月前(2018年6月)に開通したばかりもので、当時は歩行者専用吊り橋としては韓国最長だったそうです。パナ島を挟んだ反対側には有人島の牛島(우도:ウド)があり、こちらには全長約79mのトラス橋(写真のパネル下側)が架けられているため、誰もが無料で蓮花島と牛島との間を歩いて往来できるようになっています。

 

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次の船まであまり時間はありませんが、どうしてもこの吊り橋だけは渡っておきたいと思い、急いで渡ることにします。まずは船着場のそばにある木製デッキの階段を登ります。なかなかの急斜面です。

 

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木製デッキから眺めた蓮花港(本村マウル)の全景。

 

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蓮牛橋の全容が見えてきました。実に優美なデザインの吊り橋です。

 

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いよいよ橋を渡ります。吊り橋とはいえ作りがしっかりしており、人一人が歩いた程度ではびくともしません。

 

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パナ島に到着。ここからさらにパナ島を横断して牛島へ入りたいところですが、船の時間が心配なのでここで折り返すことにします。横たわった牛の姿に似ていることからその名が付いたという牛島には、天然記念物第344号に指定されているセンダルナム(ヤブニッケイ)とフバンナム(タブノキ)の群落があります。いつか蓮花島の再訪がかなった際には余裕をもって訪問したいものです。

 

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そして再び吊り橋を渡り階段を下りる途中、遠くにはフェリーの姿が(写真にはありませんが)。あわてて階段を駆け下ります。しかし幸いなことに、この船は欲知島から戻ってきた統営港行きの船便(先ほど乗ってきたばかりの欲知号)。あわてて損した気もしますが、おかげでもう少しだけ時間に余裕ができました。

 

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蓮花港には刺身などを出す食堂がいくつか並び、島の訪問者を待っています。

 

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蓮花島や欲知島を含む一帯の海域の名産といえば、何といってもやはりコドゥンオ(サバ)。すぐに傷んでしまうコドゥンオを新鮮なうちに提供できるよう、生け簀が設置されています。サバさんたちが泳げるよう円筒形になっている生け簀も。余談ですが、韓国ではこうした刺身店の店頭にいくつも置かれている生け簀のことを、俗に「水族館(スジョックァン)」と呼ぶそうです。

 

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欲知号の15分くらい後にやって来た「欲知アイランド号」フェリー。この船に乗って欲知島へ向かいます。わずか1時間30分ほどの滞在でしたが、チャンモニム酒幕を含め、また訪れたいと思う島でした。次こそは観光スポットや牛島を訪問できるよう余裕を持ったスケジュールを設定しなければ。さらば蓮花島、また来る日まで。

 

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先ほど渡った吊り橋の蓮牛橋と、牛島側のトラス橋の全景。

 

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蓮花島を発ってわずか数分で、先ほど渡れなかった牛島の港に到着。牛島の人口は約30人と蓮花島よりずっと少なく、船着場の周辺も閑散としています。そのためか、便によっては牛島に寄港しないので注意が必要です。

 

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牛島を発って十数分、いよいよこの日最大の目的地、欲知島の港が眼前に広がります。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

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