かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

光州の旅[201705_11] - 2大在来市場の名物飲食をはしご、そしてさらば光州、また来る日まで

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com


韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅の3日目(2017年5月22日(月))です。

 

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南区(ナムグ)楊林洞(ヤンニムドン)にある「ペンギンマウル」の近くでタクシーをつかまえて、やって来たのは北区(プック)にある在来市場、マルバウ市場(シジャン)。
西区(ソグ)の良洞(ヤンドン)市場、東区(トング)の大仁(テイン)市場や南光州市場、そして光山区(クァンサング)の1913松汀駅(ソンジョンニョク)市場と並ぶ光州の代表的な在来市場のひとつです。
「マルバウ」の名は、「馬」を意味するマル(말)と、「岩」を意味するバウィ(바위)が変化したバウ(바우)が合わさったものが由来とされています。その理由として、1592年の壬辰倭乱豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)で活躍した金徳齢(김덕령:キム・ドンニョン、1567-1596)将軍の乗った馬の蹄の跡がついた岩があったから(アーケード入口の蹄鉄の絵はたぶんこれに由来)、あるいは馬のように大きい岩があり子どもたちが馬乗りごっこをして遊んでいたから、などの伝説が残されているそうです。

マルバウ市場(말바우시장:光州広域市 北区 瑞坊路81番ギル 27 (牛山洞 190-1))

 

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5日ごと、日付の末尾がnとn+5の日に市が開かれる五日市は韓国でも珍しくありませんが、ここマルバウ市場では倍の頻度となる末尾2・4・7・9の日に市が開催されます。この日(5月22日)もちょうど市の日であり、買い物客でにぎわっていました。この市で扱われるのは近隣の郡部で収穫された農産物が主で、小規模栽培のため他ではあまり見ない作物も販売されるとか。ゆっくり見て回りたいところですが、今回は時間に余裕がないうえ、目的の店の位置を調べて来なかったので急ぎ足にならざるを得ません。

 

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しばらく市場内をうろうろすると、マルバウ市場名物のひとつ、パッチュッ(팥죽:小豆粥)の店が並ぶ一角が。その中に目指すお店「草原(チョウォン)パッチュッ」がありました。

 

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注文したのは「パンバニ」(반반이)。「半々」を意味するこのメニューは、うどん玉に似たカルグクス麺入りの「パッカルグクス」に白玉入りの「冬至(トンジ)チュッ」という、パッチュッの中でも人気を二分するメニューをいっぺんに味わえるよう、白玉とカルグクスがパンバニ(半々)ずつ入ったものです。

 

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やって来たパンバニ。上に緑豆がふりかけられ、ところどころカルグクスが覗いている点を除けば見た目はまさしく日本のぜんざいそのもの。猛烈に甘そうな印象を受けますが、出てきた時点では砂糖を含む調味料が入っておらず一切甘くありません。
各テーブル上には砂糖と塩の瓶があり、好みで適宜混ぜて食べます。ぜんざいに長年慣れ親しんだ身としては塩少々と大量の砂糖を投入したい衝動に駆られますが、ここで砂糖を入れたら負けだと自分に言い聞かせつつ、まずは塩を振り掛けます。小豆に風味がついておいしくなりました。
そして小豆のスープが1/3程度になったところで満を持して砂糖を投入。うんまい。まさしくぜんざいです。ただし、うどん入りの。
こちらのお店「草原パッチュッ」の営業時間は午前9時(市の日は午前7時)~午後7時、公休日は休業とのこと。

草原パッチュッ(초원팥죽:光州広域市 北区 瑞坊路73番ギル 21 (牛山洞 185-9))

 

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マルバウ市場からは再びタクシーに乗って、今度はKTX光州松汀(ソンジョン)駅前の「1913松汀駅市場」へ。
こちらはその名の通り1913年、当時の「松汀里」(ソンジョンニ)駅の開業後まもなく駅前市場として誕生したものです。近年は他の在来市場がそうであるように衰退傾向にありましたが、昨年(2016年)にはこれを打破すべく市場全体をレトロ調に改装するプロジェクトを敢行。これを期して市場の名前にも開業年の「1913」を冠しました。遅い時間まで開く小洒落た飲食店も開業したこともあり、賑わいを取り戻しつつあるようです。

 

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「駅市場」を標榜するだけあって、市場内にはコインロッカーに加え光州松汀駅発の列車の電光掲示板まで。
こちらの市場、以前には夜間に訪れたこともありますが、よさそうな雰囲気の飲食店がいくつかありました。いつか2次会で飲んでみたいものです。まあぼっちだけどな!

1913松汀駅市場は第2月曜日が共通の休業日、第4月曜日は各店舗任意の休業日とのこと。この日(5月22日)はまさに第4月曜日でしたが、後述する「トア食パン」を含め割と営業していたように記憶しています。KTX光州松汀駅を出てから市場の入口まではわずか約200mという、まさしく駅前市場です。

1913松汀駅市場(1913송정역시장:光州広域市 光山区 松汀路8番ギル 13 (松汀洞 990-18))

 

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1913松汀駅市場を通り抜けた先に、こちらのお店があります。
昨年8月の光州初訪問を紹介した、記念すべき本ブログのファーストエントリーにも登場したこちらのお店、その名も「にっこにっこにー」(니코니코니)。言うまでもなく、映画が連日満員御礼となるなど韓国でも大人気のあのアニメのキャラクターの決めゼリフ(?)です。前回は営業時間外の訪問でしたので、本日2度目の昼食としてリベンジすることにしました。

 

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表の看板には「寿司専門店」とありましたが、メニューを見るとトンカスにステーキにチーズタッカルビと何でもあり。一瞬経営状況が心配になりましたが、こちらのパネルを見ると飲食デリバリーサイトの評価が「4.7」で「優秀業者」シールも貼られているので評判はよさそうです。

 

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店名からアニメのポスターやフィギュアが並べられたインテリアを想像していましたが、店内は至って普通でした。

 

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注文したのはモドゥムチョパッ(모듬초밥:寿司盛り合わせ)。お吸い物とデザートも付いてきました。普通においしかったです。
珍しくクラフトビールもあったのであわせてオーダー。写真2枚目の「g」のラベルのこのビールは韓国のオリジナルブランド「グァルネリ」(과르네리)IPAで、水と空気が発酵に適しているという全羅北道(チョルラブット)淳昌(スンチャン)郡のブルワリーで醸造されているとのこと。そういえば淳昌はコチュジャンの産地で有名ですよね。こちらのビールもおいしかったので、今後どこかで見かけたら注文しようと思います。
こちらのお店「にっこにっこにー」の営業時間は午前11時半~午後10時。列車待ちの間の軽食にいいかもしれません。

にっこにっこにー(니코니코니:光州広域市 光山区 桃山新松ギル 31 (松汀洞965-1))

 

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そろそろ列車の発車時刻ですが、あと1か所だけ寄り道します
1913松汀駅市場内にあるこちらのパン屋さん「トア食パン」。1913松汀駅市場でも有数の人気店であり、パンが焼きあがる時間には行列が形成されるとか。KTXの車内でもこの店の袋を持った人を複数見かけました。もっともこの日の訪問(午後2時50分くらい)ではすんなり入れましたが。

 

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人気商品の「ガーリッククランベリー食パン」というちょっと想像のつかない味のパンが目当てでしたが、あいにく見当たらなかったので「ブルーベリー食パン」を購入、光州土産となりました。写真2枚目はこの翌日、仁川国際空港で食べたブルーベリー食パン。おいしかったです。
トア食パンの営業時間は午前11時~午後10時、年中無休。1913松汀駅市場の光州松汀駅側入口から50mくらい進んだ左側にあるので分かりやすいです。

トア食パン(또아식빵:光州広域市 光山区 松汀路8番ギル 11 (松汀洞 990-10))

 

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そしてとうとう出発の時間。乗るのは15時07分発、列車番号「518」のソウル・龍山(ヨンサン)行きKTX。1980年の「5.18民主化運動」(光州事件)をメインテーマとした今回の旅の締めくくりに、これ以上ふさわしい列車はありません。

 

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通算50時間ほどの滞在となった今回の光州の旅では幸いにして、5.18民主化運動の史跡や関連施設をはじめ、当初予定の目的地のほぼすべてに足を運ぶ機会が得られました。また37年前の5.18の抗争期間と重なる日程を選んだことで、その犠牲となった人々を悼み記憶するとともに、暴虐に立ち向かった市民たちを称え後世に継承しようとする光州の人々の姿を目の当たリにする機会も得られました。そして最初のエントリーの冒頭にも書いたように、過去にないほどさまざまな人々との出会いを経験し、それら人々の親切に触れる機会までも得ることができました。これらひとつひとつの出来事への思いが強すぎて、気づいたらエントリー11回分に渡ってしまったのには我ながら驚いていますが。

 

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とはいえ未だ訪問できていない光州の名所・旧跡はまだまだ無数にありますし、一方で再び訪れたい場所もあります。大統領交代によりさらなる真相究明と被害者の名誉回復の機運が高まりつつある5.18への関心も日々強まるばかりです。
それに、南道の豊富な山の幸と海の幸に恵まれた光州のうんまい名物料理も食べ尽くせていませんし。
これからも私は光州を訪問し、拙いながらも本ブログにてその魅力を伝えてゆきたいと思っています。ご期待いただけますと幸いです。

2017年5月の光州の旅はこれで終わりですが、このときの旅レポは舞台を移してあと1回だけ続きます。
それでは、次回のエントリーへ。

光州の旅[201705_10] - 近代建築から「ペンギン村」まで見どころの宝庫、楊林洞(ヤンニムドン)を歩く

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅の3日目(2017年5月22日(月))です。

羅州(ナジュ)から帰ってきて、光州松汀(ソンジョン)駅から再び都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、着いたのは南光州(ナムグァンジュ)駅。ここから一昨日(20日)の夕方と同様、徒歩で南区(ナムグ)の楊林洞(ヤンニムドン)を目指します。

  

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楊林洞は、かつてこの一帯に楊(ヤナギ)の木が数多く生えていたことからその名がついたとされています。また19世紀末から20世紀初頭にかけてここ光州で布教活動をした宣教師の拠点となった地域であり、それら宣教師が建てた建築が現在も複数保存されていることから「楊林洞歴史文化マウル」あるいは「楊林洞近代文化遺跡」などと呼ばれています。
これら以外にも伝統韓屋や各種文化財、美術館などが点在し、そして近年では縁のある音楽家を記念する街路、さらには他に類を見ない異色の街づくりがなされている楊林洞。そうした情報を見聞きして、以前からずっと行ってみたい、ついにはその思いが高じて「仮に韓国へ転居するならばいちばん住んでみたい街」とまで思うほどでしたが、今回ようやく念願の訪問がかなうことになりました。

 

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楊林洞へ向かう途中にあった「南光州プルンギル公園」。
国鉄(現・Korail)慶全(キョンジョン)線のルート変更に伴い2000年に廃止された南光州駅の跡地を公園に転用したもので、ここからKorail光州駅までの線路跡を全長4.5kmにも及ぶ散策路に整備した「廃線プルンギル」(푸른길:「青い道」の意)の起点です。
こうした廃線跡を散策路に転用した例としてはソウルの「京義線スッキル」(경의선 숲길:スッキルとは「森の道」の意)、釜山の「海雲台東海南部線廃線敷地」(해운대 동해 남부선 폐선 부지)などがあり、また別の活用例としては江原道(カンウォンド)旌善(チョンソン)郡などにある、廃線のレール上を2~4人乗りの足漕ぎ4輪車で走る「レールバイク」が挙げられます。韓国の人々は鉄道廃線の再利用に長けているな、とつくづく思います。

 

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当時のホームと思しき場所には、廃車となったムグンファ号の客車が。集会室などに使用されているようです。

南光州プルンギル公園(남광주푸른길공원:光州広域市 東区 霽峰路 7(鶴洞 55))

 

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公園と隣接する光州川(クァンジュチョン)にかかる南光橋(ナムグァンギョ)の北側には、かつての慶全線の鉄橋がそのまま残されていました。さらにその上には、鉄橋の橋脚を転用した歩道橋が。

光州川を渡ると、いよいよ楊林洞です。

 

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大通りである台南大路(テナムデロ)沿いにしばらく歩くと、大きな漢字、それも簡体字が書かれたこちらの道が見えてまいります。
ここから始まる全長233mの道路は「鄭律成通り展示館」といい、ここ楊林洞に生家の残る音楽家、鄭律成(정율성 / 정률성:チョン・ユルソン/チョン・リュルソン、1914-1976)氏を記念して、その生家そばの街路全体を展示館としたものです。

 

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鄭律成氏は1914年、現在の光州広域市東区不老洞(プルロドン)生まれ、1917年に和順(ファスン)郡綾州(ヌンジュ)へ転居、翌年には再び光州へ戻り、1928年に楊林洞の崇一小学校を卒業。1933年、抗日運動のため兄とともに中国南京へ渡り義烈団の朝鮮革命幹部学校に入学、その一方でピアノやバイオリン、声楽などを学びます。1936年に「五月の歌」で音楽家としてデビュ一、延安(イェンアン)の魯迅芸術学校に在学中の1938年から翌年にかけて代表作「延安頌」「延水謡」「八路軍大合唱」などを発表します。
光復後はいったん平壌へ渡ったものの、米軍政支配下となった全羅南道への帰郷はかなわず、1950年には再び中国に呼び戻されます。その後は中央楽団の専門作曲家として活動し、後に中国国籍を取得。しかし文化大革命を批判したために活動停止を余儀なくされ、不遇の晩年を送ることになります。
鄭律成氏の生涯作曲数は実に360曲以上、中でも「八路軍大合唱」を構成する「八路軍行進曲」は、1988年に中国人民解放軍軍歌として正式認定されたこともあり、中国では絶大な知名度を誇るそうです。

 

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中国から贈られた鄭律成像。あふれる才能がみごとに表現されています。上半身だけなのにこんな勇ましいポーズの像は見たことがありません。

鄭律成通り展示館(정율성 거리전시관:光州広域市 南区 鄭律成路 (楊林洞 507)一帯。リンクは入口にある鄭律成像の位置)

 

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鄭律成通り展示館を北へ向かって通り抜け、その先で左に折れると、写真の「楊林教会」が現れます。
実はここ楊林洞には3つの「楊林教会」がありますが、大韓イエス教長老会に属するこちらの教会は最も創立が古く、1904年に米国の宣教師ユージン・ベル(Eugene Bell、1868-1925。韓国名:裵裕祉(ペ・ユジ))氏が自身の私宅で礼拝を捧げたものが発祥とされます。現在の建物は1954年築。

 

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この楊林教会と隣接する建物が、写真の「オーウェン紀念閣」です。
ここ光州にて宣教師として活動、殉教したクレメント・C・オーウェン(Clement C. Owen、1867-1909。韓国名:呉元(オ・ウォン))を記念するため1914年に建てられた建物で、当時の儒教的慣習に基づいて出入口が男女別になっている点が特徴です。
ちなみに2017年10月現在、ここオーウェン紀念閣では南区観光局などが主催する音楽歌劇(入場無料!)が毎月第3週土曜日に上演されています。

オーウェン紀念閣(오웬기념각:光州広域市 南区 白瑞路70番ギル 6 (楊林洞 67-1)。光州広域市有形文化財第26号)

 

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オーウェン紀念閣から西へ向かって歩くと、写真の門が見えてまいります。
こちらはスピア女子中学校・高等学校といい、前述したユージン・ベル宣教師が1908年に創立したスピア女学校がその前身です。日帝強占期の1937年には神社参拝の拒否により廃校処分となったものの、1945年の光復(日本の敗戦による解放)後まもなく再開。1951年の教育法改正により中・高併設となって現在に至ります。こうした歴史もあり、校内には築100年前後になる文化財的価値の高い西洋建築が複数残されています。
詰所にいた管理人さんに見学の許可をいただいたうえで、門を入ります。立派な門ですが実は裏門だそうで、正門は別に存在します。

 

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門のすぐそばの高台にある「カーティスメモリアルホール」。
1925年に亡くなった創立者ユージン・ベル(裵裕祉)宣教師を追悼するため同年に建てられたもので、別名を「裵裕祉記念礼拝堂」といい、宣教師とその家族の礼拝堂に利用された建物です。
円形窓と尖頭アーチ形状の窓が特徴的なこちらの建物は、「光州旧スピア女学校カーティスメモリアルホール」として国指定登録文化財第159号になっています。

光州旧スピア女学校カーティスメモリアルホール(광주 구 수피아여학교 커티스 메모리얼 홀:光州広域市 南区 白瑞路13 (楊林洞 238-1)。国指定登録文化財第159号)

 

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裏門を入った正面にある「光州3・1万歳運動記念像」。
1919年3月1日、ソウル・タプコル公園での独立宣言朗読より始まった史上最大の抗日独立運動「3.1運動」。たちまち朝鮮全土に拡大したこの運動にはスピア女学校の全校生徒も参加、教師2人と生徒21人が投獄されました。これを記念して1995年に建てられたのがこちらの像です。

光州3・1万歳運動記念像(광주 3‧1만세운동기념동상:光州広域市 南区 白瑞路 13 (楊林洞 246))

 

光州3・1万歳運動記念像を撮っていると、門の詰所にいた管理人さんが近づいてきて、次の場所まで案内してくださるとのこと。感謝しつつ後に続きます。

 

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管理人さんが案内してくださったのが、学校でも奥側の高台の上にある「スピアホール」。
若くしてこの世を去ったジェニー・スピア(Jennie Speer)氏を記念するため、その姉が5,000ドルを献金して1911年に竣工した3階建ての建物で、この竣工とあわせて校名が「スピア女学校」となりました。当時一般的であった赤レンガではなく灰色のレンガが用いられているのが特徴です。「光州旧スピア女学校スピアホール」として国指定登録文化財第158号になっています。あいにくこの日は補修工事のため覆いがかけられていました。

光州旧スピア女学校スピアホール(광주 구 수피아여학교 수피아 홀:光州広域市 南区 白瑞路 13 (楊林洞 251)。国指定登録文化財第158号)

 

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スピアホールのそばには「スピア女学校3・1運動万歳示威準備地」との案内板が。示威とはデモのこと。

ここで管理人さんはお仕事のため別の場所へ。ご案内いただきありがとうございました。あとひとつ残る校内の近代建築へ向かいます。

 

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「ウィンスブロウホール」。
宣教師の妻であったウィンスブロウ氏の寄付金5万ドルをもとに、スウィンハート宣教師により1927年築。玄関の上の三角形の屋根を支えるトスカーナ式の円柱は、同時期の西洋建築では珍しいものだそうです。「光州旧スピア女学校ウィンスブロウホール」として国指定登録文化財第370号になっています。

光州旧スピア女学校ウィンスブロウホール(광주 구 수피아여학교 윈스브로우 홀:光州広域市 南区 白瑞路 13 (楊林洞 242)。国指定登録文化財第370号)

 

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スピア女子中・高等学校の裏門を出て西へ少し進み、左に折れて坂道を登った突き当たり、学校と隣接する丘の中腹に、やや低めの1本の木が立っています。
この木はホランカシナムといい、和名はヤバネヒイラギモチ(学名:Ilex cornuta)。高さは6メートル程度ですが樹齢は400年にもなるといい、ホランカシナムとしては相当大きいものだそうです。元々は2本の木だったものが成長につれ合体し、1本の木のようになったと推定されています。このように珍しいものであるため、「楊林洞ホランカシナム」として光州広域市指定記念物第17号に指定されています。

 

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ホランカシナムは同じモチノキ属であるセイヨウヒイラギと同様、晩秋から初冬にかけて熟するその赤い実が十字架にかけられたキリストの血を象徴するとして、クリスマスの飾り付けに用いられたりします。かつてここ楊林洞に居を構えた宣教師たちも、この木の葉や実を用いた飾りでクリスマスを迎えたのかもしれません。

楊林洞ホランカシナム(양림동호랑가시나무:光州広域市 南区 済衆路47番ギル 20 (楊林洞 230-1)。光州広域市指定記念物第17号)

 

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ホランカシナムの近くから撮った楊林洞の風景。向かって左側には先ほど立ち寄った楊林教会(大韓イエス教長老会楊林教会)が、中央やや右寄りには別の楊林教会(韓国基督教長老会光州楊林教会)の尖塔が見えます。

 

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ホランカシナムのある一帯はちょっとした林になっています。写真はそこに置かれていた、茶兄・金顕承詩人(後述します)の肖像が刻まれたベンチ。

 

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ホランカシナムの立つ林の間の道を登ったところにある「ウイルソン宣教師私宅」。
1905年、ノーラン(J. W. Noran)宣教師によりここ楊林洞に開業した医療施設、光州済衆(チェジュン)院。その二代目院長として1908年に赴任してきた、ロバート・M・ウイルソン(Robert M. Willson。韓国名:禹一善(ウ・イルソン)または禹越淳(ウ・ウォルスン))宣教師の私宅として1920年代に建てられたものです。
ウイルソン宣教師は貧困者や孤児、そしてハンセン病患者の救済に尽力した人物で、1912年には宣教師の献金や英国からの支援などにより本格的なハンセン病診療を開始。後に済衆院から改称した済衆病院の病棟を西洋建築で建て替えるなど、その発展に功績を残しました。しかし当時はハンセン病患者への偏見が根強く近隣住民の反発が大きかったうえ、1926年に下された朝鮮総督府からの強制移転命令を受け、同じ全羅南道の麗水(ヨス)に移転先となる愛養院(エヤンウォン)を設立、ハンセン病患者たちとともに光州を去りました。
その後、済衆病院は朝鮮初の結核専用病棟を設置しつつも1940年には日本により強制閉鎖、光復後の再開を経て今日の光州基督病院(こちらのエントリーにて紹介)へと至ります。
ウイルソン宣教師私宅のすぐ脇には、ユージン・ベル宣教師やオーウェン宣教師たちが眠る宣教師墓地への階段がありました。次回訪問時には登ってみようと思います。

ウイルソン宣教師私宅(우일선 선교사 사택:光州広域市 南区 済衆路47番ギル 20(楊林洞 226-25)。光州広域市指定記念物第15号)

  

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ウイルソン宣教師私宅の近くにあった建物。外壁などがよく似ていますが、これらは文化財ではなく近年建てられた住宅です。景観の調和を図っているようです。

 

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ウイルソン宣教師私宅の北側一帯の丘の上には、1955年に開校した湖南(ホナム)神学大学校が建っています。

 

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この湖南神学大学校のキャンパスに、写真1枚目の碑が建っています。
「茶兄金顕承詩碑」というこちらの碑は、「茶兄」(다형:タヒョン)の号を持つ詩人・金顕承(김현승:キム・ヒョンスン、1913-1975)氏を記念し、その詩「가을의 기도」(秋の祈り)を刻んだものです。
金顕承詩人は平壌生まれですが、楊林教会の牧師として赴任した父とともに光州へやって来ました。当時は宣教師の私宅街であった湖南神学大キャンパス一帯の思索が好きだった縁で、ここに詩碑が設置されています。

湖南神学大学校 茶兄金顕承詩碑(호남신학대학교 다형김현승시비:光州広域市 南区 済衆路 77 (楊林洞 226-5))

 

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湖南神学大キャンパスから坂道を下ると、写真の建物があります。
こちらは「茶兄茶房」(タヒョンタバン)といい、コーヒーをこよなく愛するあまり金顕承詩人自らつけた号「茶兄」を冠して2012年にオープンした無人カフェです。

 

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店内には、宣教師たちが移り住み始めた20世紀初頭ごろの楊林洞の写真が所狭しと(天井にまで!)並べられています。壁際には金顕承詩人の等身大パネルも。

 

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料金箱に1,000ウォン(約100円)以上の任意のお金を料金箱に入れることで、誰でも自由にお湯を沸かしてインスタントコーヒーなどを飲むことができます。そんなわけで私もほっとひと息。

 

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実はこちらの茶兄茶房、5年間続いたプロジェクトの終了に伴い、この日の9日後(5月31日)をもってクローズすることが決定しており、「グッバイ茶兄茶房」で始まるその旨の案内が張られていました。壁面や金顕承詩人のパネルに貼られた付箋紙は、訪問者が愛惜のメッセージを残したものです。
住民の方々にとっては歓談の場所として、また私のような旅行者にとってはマイルストーン&休憩所として、そしてすべての人々にとって楊林洞の歴史を振り返ることのできる展示施設として、長らく愛されてきた茶兄茶房。幸い建物は残されているようですので、できれば光州広域市が支援するなどして再びドアを開くことを願うばかりです。

茶兄茶房(다형다방:光州広域市 南区 済衆路47番ギル 2 (楊林洞 105-28))

 

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茶兄茶房のすぐ近くにある「素心堂曺亜羅記念館」。女性の地位向上のために生涯を捧げ光州YWCA名誉会長などの要職を歴任した「光州の母」であり、5.18民主化運動の際には市民収拾委員を務め、後に6ヵ月もの獄中生活を強いられた曺亜羅(조아라:チョ・アラ、1912-2003)氏を記念する施設です。次回は立ち寄ってみたいと思います。

 

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楊林洞の東端、光州川に近い住宅街の一角に、「ペンギンマウル」と呼ばれるエリアがあります。「マウル」とは村、集落という意味がありますので、日本でいうならば「ペンギン村」といったところでしょうか。

 

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「ペンギンマウル」の名にふさわしく、ペンギンさんが描かれた壁画がいたるところにあります。「ペンギン創作所」というお店も。なごみます。

 

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しかし、こちらのマウルの真骨頂は、写真1枚目にある無数の掛時計をはじめ、壁面や空き地を埋め尽くす無数のがらくたにあります。
楊林洞の住宅地の片隅にあるこの地域は、2013年頃から住民たちにより掛時計やその他がらくたで飾られるようになり、韓国のあちこちで見かける壁画村とは一線を画した異色の街づくりがなされるようになりました。それがいつしか話題となり、いまでは楊林洞の観光スポットのひとつに数えられるまでになっています。

 

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このマウル一帯の住民はご年配の方が多く、その歩く姿がよちよち歩きのペンギンを彷彿とさせるとして自ら名付けたものだそうです。自宅のがらくたを持ち寄ってペンギンマウルを手作りしたのも、そうしたご老人の方々が中心だとのこと。

 

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「ペンギン酒幕」と書かれたお店。壁面にはマッコリ用と思しきやかんとアルマイトの鍋がたくさん掛けられています。夕方あたり、こういうところでマッコリを飲みつつぼんやりしてみたいですね。

 

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こちらのペンギンさんの看板には「楊林洞歴史文化マウル 定期ツアー集合場所」とあります。どれも気になりますが中でも水・土曜日19:30スタートの「夜間ツアー」とか楽しそうですね。いずれも事前予約が必要です。

ペンギンマウル(펭귄마을:光州広域市 南区 川辺左路446番ギル 7 (楊林洞 24-93))

 

予約していたKTXは15時発、時刻はまもなく13時。名残惜しいですが、この後予定していた昼食や買物を考慮するとそろそろ楊林洞を発つべき時間です。
今回の楊林洞での散策時間は3時間弱。駆け足気味とはいえこの日だけで10か所あまりのスポットを巡りましたが、これら以外にも光州広域市民俗資料第1号の「李章雨(イ・ジャンウ)家屋」や同第2号の「崔昇孝(チェ・スンヒョ)家屋」のような伝統韓屋、また「楊林美術館」や展望台のある「社稷(サジク)公園」など巡るべきみどころはまだまだたくさん控えています。
わずかな滞在時間とはいえ、宣教師たちの遺した近代建築など数々の文化財とと緑が調和した静かなたたずまいは居心地のよいものであり、実際に訪れてみて「韓国でいちばん住んでみたい街」との思いをさらに強くしました。
必ずやまたここ楊林洞を訪問し、じっくり時間をかけて巡ることといたします。

楊林洞へのアクセスですが、都市鉄道(地下鉄)1号線は通っていないので私のように南光州駅から歩くのが手っ取り早いです。南光州駅2番出口から先に紹介した「鄭律成通り展示館」の入口まで徒歩約9分(約590m)。ちなみに来年(2018年)着工予定という都市鉄道2号線は楊林洞付近に駅(213番)が設置され、南光州駅と尚武(サンム)駅で1号線と接続する予定ですが、開業は2022年以降とまだまだ気の長い話です。


それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

羅州の旅[201705_09] - 1000年の古都で100年の伝統のコムタンを味わう

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅、明けて3日目(2017年5月22日(月))です。

前日をもって「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の全史跡とほぼすべての関連施設を巡ってしまったので、この日は光州および周辺地域の観光スポットとグルメ巡りに徹することにしました。

 

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そんなわけでまずは都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、KTXの停車駅であるKorail光州松汀(ソンジョン)駅へ。この駅の2階、跨線橋の手前にある写真2枚目のコインロッカーに荷物を預けます。光州松汀駅はこちらに加え地下鉄の駅構内にもコインロッカーがあるので、荷物を置いておくには便利です。
光州松汀訳からは木浦(モクポ)駅行きのムグンファ号に乗車、一時的とはいえ2日ぶりに光州広域市を離れます。

 

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およそ11分ほどで、この日最初の目的地である全羅南道(チョルラナムド)羅州(ナジュ)市の「羅州」駅に到着。初めての訪問です。

羅州平野に位置する羅州の歴史は三韓時代にさかのぼることができ、馬韓を構成する54か国のうち不彌(プルミ)国があったとされています。下って高麗時代の西暦1000年ごろ、ここ羅州には全羅北道(チョルラブット)の全州(チョンジュ)などと同じく、全国を分割した地方行政単位「牧」(モク)が設置されます。「全羅道」の名前はこの全州と羅州の頭文字から命名されたものです。この羅州牧の地位はその後形を変えつつも、朝鮮時代末期の1895年まで900年も存続することになります。
1895年の甲午改革により羅州には観察府が置かれましたが、その翌年には13道制施行とあわせて光州へ移転、そのまま光州が道庁所在地となったために南道の代表都市の地位から陥落することなりました。朝鮮戦争以後は隣接する光州の発展と反比例するように長らく衰退が続き、約30年前の1986年には17万人近くいた人口が一時は9万人を割り込みましたが、2010年代に市内に誕生した光州全南共同革新都市、通称「ピッカラム革新都市」の発展に伴い近年は再び人口増に転じ、2015年には10万人台を回復しています。

 

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市内を貫流する栄山江(ヨンサンガン)には栄山浦(ヨンサンポ)という港があり、かつては西海(黄海)で捕れたホンオ(ガンギエイ)の水揚げで栄えましたがその後衰退、1970年代には河川工事に伴い港としての機能が消滅。それでも栄山浦は現在もなおホンオの街として広く知られ、多くのホンオ専門料理店が並んでいます。
このほか羅州は日帝強占期に始まった梨の生産でも有名であり、同じく梨の生産地であり羅州市とほぼ同緯度上に位置する鳥取県倉吉市姉妹都市縁組を締結しています。写真は羅州駅近くにあった、市の標語らしきものが書かれた塔で、てっぺんには名産の梨を持ったキャラクターが立っています。

とはいえ、韓国を知る日本人にとって羅州といえば真っ先に思い浮かべるのはあの料理ではないでしょうか。かくいう私も今回いちばんの訪問目的はそれですが、せっかく来たのでまずは徒歩で回れる範囲のスポットを訪問することにしました。羅州駅を出て市街地方面へ進みます。

 

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羅州駅を出て少し歩いたところにあったミニストップ。韓国のコンビニで最も店舗数が多いのはCUの12,000店弱(2017年7月末時点。以下同じ)で、続いて僅差でGS25。ミニストップセブン-イレブン(9,000店弱)に大きく水をあけられての業界4位(2,400店強。CUやGS25の約1/5)のはずですが、光州広域市やここ羅州市ではあちこちでよく見かけます。そういえば昨年(2016年)10月に行った同じ全羅南道の宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)では、中心部にあるコンビニの3件中2件がミニストップでした。

 

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羅州駅から市中心部へ向かって2kmほど歩くと、写真の立派な門が見えてまいります。
ロータリーの中心に建つこちらの門は「南顧門」(ナムゴムン)といい、かつて羅州の街を楕円形に取り囲んでいた羅州邑城(읍성:ウプソン。都市や集落を城壁で囲んだもの)の南門で、東漸門(トンジョムムン)、西城門(ソソンムン)、北望門(プンマンムン)とともに東西南北に配置されていた門のひとつです。
羅州邑城は、元々は高麗時代に倭寇から羅州牧を防衛するために築かれた土城で、これを1404年に石垣積みに改築、さらに1457年には拡張されています。また1592年の壬辰倭乱豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)以後には大規模な補修工事が加えられ、その後大韓帝国時代まで維持されてきたものの、日帝強占期の1920年前後には南顧門を含むほぼすべての城壁が破壊されます。光復後も都市化による毀損が進む中、1980年代頃には復元作業がスタートし、1993年には写真の南顧門が、また2006年には東漸門が復元されました。
現在こちらの南門址は、現在もわずかに残る城壁の遺構とともに「羅州邑城」として国の史跡第337号に指定され、復元された南顧門は羅州のランドマーク的存在となっています。

南顧門(羅州邑城南門)(남고문(나주읍성 남문):全羅南道 羅州市 南内洞 2-20。史跡第337号)

 

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南顧門の正面の歩道脇には、「南顧門広場」と題された写真の小さな碑がひっそりと建っていました。1980年、5.18民主化運動当時は広場だったここ南顧門は5月21日(抗争4日目)から市民軍の拠点となり、集まったデモ隊や車両などにキムパッやチュモッパッ(おにぎり)、飲料水などを無料提供するとともに、戒厳軍の進入を防ぐため市民軍が昼夜警戒任務に当たったとあります。

5.18の抗争期間中には光州市民による車両デモ隊がここ羅州を含む近隣の郡部に出動し、暴虐の限りを尽くす戒厳軍への対抗のための協カを呼びかけました。これを聞いた地域住民は食糧や消耗品を惜しまず提供し、また各地域の警察署や軍倉庫からの銃器奪取にも協力しています。中でも産炭地であった和順(ファスン)では戒厳軍の蛮行に激怒した炭鉱労働者が発破用のダイナマイトを進んで提供、市民軍の拠点となった全南道庁に運ばれました。戒厳軍が侵攻してきた場合に道庁もろとも爆破する計画もありましたが、最終的に使用されることはありませんでした。

このように街中、それも光州市内ですらない場所を意図せず歩いていても、5.18民主化運動に深い縁のある場所に遭遇するということ。5.18が光州やその周辺地域に生きる人々に与えた爪痕の深さを改めて思い知らされます。

 

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南顧門を過ぎ、さらに東へ向かって突き当たりを右へ曲がると、写真の建物が現れます。こちらは2001年に現位置へ移転するまで使用されていた、国鉄(現・Korail)湖南(ホナム)線の旧羅州駅舎です。1913年開業、正確な築年は不明ですが遅くとも1923年までにはこの駅舎が存在していました。

1929年10月30日、ここ羅州駅で光州中学校(現在の高校に相当。日本人学校)の男子生徒が光州女子高等普通学校(朝鮮人学校)の女子生徒の髪を引っ張る嫌がらせをし、これに抗議した光州高等普通学校(光州高普。朝鮮人学校)の男子生徒との間で口論となります。このときは日本の警察官によって制止させられたものの、その後も光州高普と光州中学の両校生徒の小競り合いが連日で発生し、そして11月3日にはついに両校生徒のグループ同士による乱闘が発生します。その後いったん学校に戻った光州高普生はまもなくデモ隊を形成、これに合流した光州農業学校の生徒とともに「植民地奴隷教育撤廃」等のスローガンを掲げ光州市内を行進したところ(1次デモ)、うち40名がその翌日以降に警察により拘束されてしまいます。これに抗議した同月12日の2次デモもまた光州高普・光州農業合わせて250名もの検束者を出し、デモに呼応した光州女子高等普通学校や光州高等師範学校の生徒を含め、無期停学処分あるいは退学処分者が続出しました。
これら学生たちの抗日運動は同年末には京城(現・ソウル)に飛び火し、そして翌1930年には朝鮮全土に拡大、1919年の「3.1運動」以来とされる規模にまで発展。現在ではこれら一連の学生運動を総称して「学生独立運動」、その発端となった羅州および光州における運動を「光州学生独立運動」あるいは「光州学生抗日運動」などと呼びます。
こうした背景には従前の独立運動弾圧への抵抗に加え、朝鮮人への高等教育制限や日本人教師による差別など日本の植民地主義的教育政策に対する朝鮮人学生や独立運動家たちの鬱積した怒りを挙げることができます。また羅州特有の要因として、前述した栄山浦がその当時は羅州平野一帯で収穫された米を日本へ運ぶための港であり、まさしく植民地支配の収奪の現場であったことも挙げられるでしょう。

 

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こちらの旧羅州駅舎は、その文化財的価値に加え、以上に述べた通り一連の学生独立運動の「震源地」であることから、「光州学生独立運動震源地羅州駅舎」として全羅南道記念物第183号に指定されています。

 

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こちらの旧駅舎、日中は内部が開放されますが、このときは午前8時台ということもありまだ閉まっていました。写真は窓から撮った旧駅舎の内部。駅員の再現人形が設置されています。2001年の移転直前まで使用されていた時刻表や料金表もそのままです。

光州学生独立運動震源地羅州駅舎(광주학생독립운동진원지나주역사:全羅南道 羅州市 竹林ギル 20 (竹林洞 60-172)。全羅南道記念物第183号)

 

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1919年の「3.1運動」、1926年の「6.10万歳運動」と並んで日帝強占期の3大独立運動のひとつに数えられる1929年の学生独立運動。その全容を学ぶことのできる「羅州学生独立運動記念館」が、旧羅州駅舎のすぐ北側に隣接して建っています。ただし、この日(5月22日)は月曜日であったため休館。いずれ改めて訪問することを誓います。

 

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旧羅州駅から南顧門へと戻る道の途中。なんでもない路地ですが、こんな風景に惹かれます。

 

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再び南顧門に戻り、今度は北へ向かいます。
その途中にある錦城橋(クムソンギョ)から眺めた栄山江の支流、羅州川(ナジュチョン)。情感あふれる風景です。

 

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錦城橋を渡ってさらに北へ進むと、高麗・朝鮮時代を通じてここ羅州の客舎(官吏や外国使節などをもてなす宿舎)であった「錦城館」(금성관:クムソングァン)の正門、「望華楼」(망화루:マンファル)が見えてまいります。

 

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そしてその望華楼の向かいにあるのが、写真のお店「羅州コ厶タンハヤンチッ」。ハヤンチッとは「白い家」の意。1910年創業、店名にもある羅州いちばんの名物料理「羅州コムタン」の草分けとして広く全国に知られるお店であり、私にとっては今回の羅州訪問の最大の目的です。

 

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店内に入るやいなや、ぐつぐつ煮え立つ大きな釜が出迎えるとともに食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐり、にわかにテンションが上がります。
注文したのは当然、看板メニューの羅州コムタン。

 

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そしてやって来たコムタン、スープが澄んでいます。日本でコムタンといえば白濁したスープの印象が強いですが、これぞ羅州コムタンの特徴です。
スープを口に含むとたちまち、牛肉ダシ独特のうまみがじわっと舌を包み込みます。ああ、これは超うんまい。100年の伝統は伊達ではありません。

 

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コムタンと一緒に出てきた、牛皮らしきものを煮込んだパンチャン(おかず)もおいしかったです。来てよかった。

 

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こちらのお店「羅州コムタンハヤンチッ」の営業時間は午前8時~午後9時、年中無休。羅州駅からはバスであれば「羅州駅」(나주역)バス停から160番バス(配車間隔約20分)に乗車し、約13分で到着する「中央路」(중앙로)バス停で下車、徒歩約4分。タクシーであれば同駅から約7分、料金は4,200ウォン(約420円)前後のようです(交通状況によって変化)。はっきり言って、このお店のコムタンを食べるだけであっても羅州を訪問する価値は十分にあります。

羅州コムタンハヤンチッ(나주곰탕 하얀집:全羅南道 羅州市 錦城館ギル 6-1 (中央洞 48-17))

 

せっかく来たのでもう少しゆっくりしたいところですが、この日は光州にも行きたい場所があったため、コムタンを食べたところで羅州を発つことに。とはいえ前述したように「羅州学生独立運動記念館」はいずれ必ず再訪するつもりですし、ホンオ通りと往時の町並みが同居する栄山浦(実は羅州駅からだと南顧門よりも近い)も訪れたい場所です。日帝強占期の収奪の歴史と向き合うためにも。それらについては次回の羅州訪問時に預けたいと思います。

今度はタクシーで羅州駅へ移動、最初にやって来たKTX-山川で羅州を後にします。
来たときのムグンファ号は2,600ウォン(約260円)でしたが、KTXだと3倍以上の8,400ウォンもするので要注意です(しかも所要時間は変わらないという)。

光州松汀駅からは再び都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、次の目的地へと向かうのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

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