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高興の旅[201710_04] - 患者たちへの差別と人権蹂躙の歴史を記憶する「ハンセン病の島」小鹿島を歩く(後編)

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)高興(コフン)郡などを巡る旅、2日目(2017年10月28日(土))、高興郡道陽邑(トヤンウプ)にある「ハンセン病の島」小鹿島(ソロクト)探訪の後編です。
日帝強占期における小鹿島の歴史や用語については、同島探訪の前編である前回のエントリーでも紹介しておりますので、あわせてお読みいただくとより理解が深まるかと存じます。
※以降、本エントリーでは歴史的用語を説明する場合に限り、ハンセン病の旧称であり主に差別的文脈で用いられてきた「癩(らい)」の語を用いることをご了承願います。

 

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前回のエントリーでも紹介した、小鹿島の地図と主要スポット。以下、本エントリーではこの図を「上図」と呼びます。

 

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写真の建物は、監禁室(上図⑤)と検屍室(上図⑥)の前から坂を登った場所にある「支援奉仕会館」。この建物は関係者以外立入禁止ですが、その手前側には誰でも無料観覧できる2棟の「小鹿島資料館」(上図⑦)があります。

 

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旧小鹿島更生園の文芸室の建物を再利用した小鹿島資料館の第1館「歴史館」は、小鹿島におけるハンセン病治療史のパネル展示のほか、患者たちが使用してきた生活用品が展示されています。
写真2枚目はそれら生活用品のうち配膳用具、3枚目はうちスプーンとフォークを拡大したものです。ハンセン病の進行に伴い手指を切断した患者にも使用しやすいよう改良されています。

 

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かつての鹿山(ノクサン)中学校の校舎を再利用した小鹿島資料館の第2館「ハンセン館」では、ハンセン病克服へ向けた人類の取り組みを紹介しており、医薬品や医療器具が主に展示されていました。

 

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小鹿島資料館を下り少し南へ進むと、写真の広い緑地が見えてまいります。
こちらは「中央公園(チュンアンゴンウォン)」といい、周防正季(すほう・まさすえ、1885-1942)4代園長時代の1936年12月から3年4ヵ月を費やし、延べ6万人もの患者を動員して造成された公園です。

 

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中央公園の案内図。順路(オレンジ色の線)から分かりやすいよう、南が上になっています。以下、本エントリーではこの図を「中央公園案内図」と呼びます。

 

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公園の中央に建ち、そのシンボル的存在となっている「救癩塔(クラタッ)」(上図⑧、中央公園案内図⑬)。
小鹿島を含む高興郡道陽邑と隣接する同郡道徳面(トドンミョン)五馬里(オマリ)、現在は農地となっている一帯は、かつて五馬島(オマド)という無人島が浮かぶ海域でした。1962年に始まった五馬島一帯の大規模な干拓事業には、国立小鹿島病院のハンセン病患者たちが携っています。干拓地の一部を譲り受け、農業で自立するための患者村建設がその目的でした。
しかし地域住民の偏見は根強く、患者村建設への反対運動が激化。時の政権与党であった民主共和党は目前に控えていた総選挙を意識し、事業主体を全羅南道に移管することでハンセン病患者たちを干拓事業から追放してしまいます。そして、この干拓地に患者村が建設されることはありませんでした。
天使(医療)が悪魔(病原体)を踏みつけ制圧する姿を描いたこの「救癩塔」は、五馬島干拓事業に参加した小鹿島のハンセン病患者たちを称えるとともに、いつか人類がハンセン病を克服しその病苦から解放されることを願って、同じく干拓事業に携った国際ワークキャンプ団の寄贈によリ1963年に建てられたものです。土台下部には「한센병은 낫는다」(「ハンセン病は治る」の意)という言葉が刻まれています。

 

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「3M(セマ)功績碑」(中央公園案内図⑭)。
1972年に建てられたこちらの功績碑は、小鹿島でハンセン病患者たちを長年にわたり世話してきたオーストリア人の女性看護師、マリアンヌ・ストガー(Marianne Stoeger)、マーガレット・ピサレック(Margreth Pissarek)、マリア・ディトリッヒ(Marla Dittrich)の3氏を称えたもので、そのいずれも頭文字が「M(マ)」であることからその名が付いています。

 

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「ダミアン功績碑」(中央公園案内図⑲)。
ハワイ・モロカイ島の医療施設でハンセン病患者の救済に取り組み、ついには自身もハンセン病に感染して亡くなったベルギー人男性、ダミアン神父(Father Damien、1840-1889)の功績を称える碑です。ダミアン神父は2009年、カトリック教会の聖人に列せられています。

 

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「開院第40周年記念碑」(上図⑨)。
この碑の場所にはかつて、周防正季4代園長の銅像(写真2枚目右下)が建っていました。
前回のエントリーで紹介した、患者たちの自主的募金で建てられた花井善吉(はない・ぜんきち)2代院長の彰徳碑とは異なり、その費用は園生からの「募金」を名目とした事実上の強制徴収でした。しかも除幕式の1940年8月20日にちなんで毎月20日を「報恩感謝日」と称し、患者たちに像への拝礼を強制します。そして周防園長がこの銅像前の広場で李春相(이춘상:イ・チュンサン)園生に刺されたのも1942年6月20日、まさに「報恩感謝日」の拝礼での出来事でした。
なお、周防園長の銅像はその刺殺の翌年、戦況悪化に伴う金属供出の対象となり撤去されています。

 

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「ポリピリ詩碑」(中央公園案内図⑪)。
開院第40周年記念碑の正面にあるこちらの広い一枚岩には、ハンセン病患者でもあり、その自らの境遇をいくつもの詩に残した詩人、韓何雲(한하운:ハン・ハウン/ハン・ナウン、1919-1975)氏の詩「ポリピリ」(보리피리:「麦笛」の意)が刻まれています。

 

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韓何雲詩人は1919年、地主の長男として咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在の朝鮮民主主義人民共和国)の咸州(ハムジュ)に生まれました。裡里(イリ)農林学校在学中に詩作を始めますが、このとき自身がハンセン病であることを知り、将来を悲観してひどく嘆いたといいます。その後は日本の成蹊高等学校(現在の成蹊大学の前身)などへの留学を経て咸鏡南道庁の畜産課に就職しますが、まもなくハンセン病の発症で退職を余儀なくされます。また光復後には家財一切を失ったうえ2度の逮捕を経験し、1948年には治療を求めて38度線を越え、そのまま放浪の身となります。その日の暮らしのためにソウルで自身の詩集を売っていたところを見出され、1949年に最初の詩集『韓何雲詩抄』、1955年には「ポリピリ」が収録された2番目の詩集が発刊。療養施設の創設や大韓ハンセン連盟委員会長への就任など、創作活動と並行してハンセン病患者の救済活動にも携っています。
「ポリピリ」をはじめ韓何雲詩人が遺した作品の数々は、今日も韓国の人々に広く愛読されています。

 

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中央公園には芝生の敷かれたスペースのほか、形の異なる何本もの木々が林立する一帯があります(中央公園案内図⑮一帯)。こちらは日本や台湾などから珍しい樹木を集めた庭園で、立ち入ることはできません。

 

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中央公園の南東にある「イエス像」(上図⑲、中央公園案内図⑯)。
幾多の苦難の中でも、キリスト教は多くの患者たちにとって心の拠り所となりました。
 

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中央公園のさらに南側はハンセン病患者の方々の居住区域であるため、関係者以外は立ち入ることができません。
この先にも全3次の拡張工事で建てられた施設がいくつかあり、うち海沿いにあるレンガ造りの「高興旧小鹿島更生園食糧倉庫」(1940年築:国家指定登録文化財第70号。上図⑪)は、この直前に訪問した居金島(コグムド。こちらのエントリーにて紹介)との間にかかる居金大橋(コグムデキョ)からも遠くその姿が見えました。
隣接する埠頭に降ろされた食糧を保管するためのこの倉庫は、海中に築かれたレンガのアーチの上に建てられており、潮の干満の差により室内の空気が循環され、食糧の保管に適した環境となるというユニークな構造となっているそうです。

 

前回も紹介した「哀恨(エハン)の追慕碑」(上図③、中央公園案内図①)まで戻り、駐車場とは反対方向の西側へ進みます。

 

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「国立小鹿島病院ハンセン病博物館」(上図⑫)。
国立小鹿島病院の前身である小鹿島慈恵医院の開院100周年を記念して、2016年にオープンした博物館です。
博物館の愛称になっている「SONAMU」とは「SOrokdo NAtional MUseum」(小鹿島国立博物館)の頭文字を2字ずつ取ったもので、病苦に加え差別や人権蹂躙など数限りない苦難を乗り越えてきたハンセン病患者たちの生命力を象徴するものとして、やはり生命力の強い「松の木」を意味する「ソナム」(소나무)になぞらえて名づけられたとのこと。

 

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ハンセン病博物館の内部。徹底したバリアフリーが施されています。

こちらの博物館はぜひともご来場のうえ直に観覧していただきたいので、あえて詳しくは紹介いたしませんが、その中で特に印象に残った展示物をごく一部だけ紹介したいと思います。

 

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ダイフウシノキ(学名:Hydnocarpus wightiana)の種子。
この種子を絞って得た油脂を大風子油(だいふうしゆ)といい、かつてはハンセン病の治療薬として広く用いられましたが、後述する特効薬のプロミンが開発されたため、現在では使用されていません。

 

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プロミン(右)と、日本製のプロトミン(左)のアンプル。
プロミン(グルコスルホンナトリウム)は1943年、ハンセン病に効果があることが発見され、それまでの大風子油に代わりたちまち全世界で使用されるようになりました。プロトミンはプロミンをもとに日本の吉富製薬(現・田辺三菱製薬)が生産したものです。

 

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「知らずに3年、知って3年、侵されて3年」(몰라 3년, 알아 3년, 썩어 3년)。
小鹿島のハンセン病患者たちに用いられてきたこの言葉は、感染から発症までの潜伏期間が3年、感染を知り治療をためらう期間が3年、そして症状の進行により視力が低下し手足を切断されながら生きてゆく期間が3年であることを表現するものだのことです。

 

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「1945年8月15日 しかし彼らには解放は来なかった。」と題された展示エリア。
1945年8月15日の光復により、小鹿島更生園の園生たちに労働や神社参拝などを強要し虐待してきた日本人職員は小鹿島を去りましたが、3年間の米軍政を経て1948年に発足した大韓民国においてもハンセン病患者への差別は根強く残っていました。日本人により導入された「断種」手術(精管切除)も、小鹿島更生園では大韓民国発足後の1950年代末まで継続されています。

 

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「4.6事件」。
1948年、周防園長時代に従事経験のある医師が小鹿島更生園の8代園長に赴任するや、秩序維持を名目に日帝強占期当時の強圧的態度に回帰します。朝鮮戦争期の1951年には園生数が日帝強占期の最高水準であった6千人を回復、また1953年には救援物資の減少によって園生の暮らしは窮乏し、不満が増大してゆきます。
さらにこの時期、治療目的だと思われていた胸骨骨髄穿刺が実はハンセン病の病原菌の検査目的だったという事実が発覚。これらを受けて園生たちは1954年4月6日、園長不信任と拘束者解放を要求する大規模決起行動を起こしますが、要求は受け入れられず主導者は高興警察署に連行されます(4.6事件)。その後、小鹿島更生園では胸骨骨髄穿刺の中止や予算増額など園生の待遇改善を図りましたが、この時期の辛い記憶は引き継がれることとなりました。

 

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「飛兎里(ピトリ)事件」。
1957年8月、現在の慶尚南道キョンサンナムド)泗川(サチョン)市にあったハンセン病施設「永福園(ヨンボグォン)」の患者たちが、現在の同市内にある飛兎島(ピトソム/ピトド)に渡り、所有者に無断で土地の開墾を始めました。これは患者たちが援助だけでは生計を維持できなくなり、食糧確保のためやむにやまれず行なったものでしたが、その影響で島内のアサリ・カキ養殖場が被害を受けたことから島民たちが激怒、ハンセン病患者の入島阻止闘争を開始します。同月28日にはついに100人あまりの島民が竹槍や鎌、鍬などを手に患者たちを無差別に襲撃し、80人以上もの患者が死傷しています。しかしこの事件への処罰は患者たちにとって満足のいかない範囲に留まったといいます。

 

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「共学反対」。
韓国政府は1960年代初頭、小鹿島更生園に代表される従前からのハンセン病患者の隔離政策を転換し、全国各地への「定着村」あるいは「希望村」と呼ばれる患者集落の建設による「定着事業」を積極推進しました。しかし一般市民による患者たちへの偏見は依然として根強く、定着村の近隣においては既存の生徒児童との共学に反対し、患者の子どもたちの学校転入を拒絶する事態が相次ぎました。この過程で患者や子どもたちの精神的被害に加え、物理的な衝突に発展した事例では身体的・経済的被害も発生しています。最終的には一部の事例を除き、定着村内に分校を設置することで消極的決着が図られています。
 

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「カエル少年関連名誉毀損」。
1992年8月、「カエル(韓国語で「ケグリ」)少年」と呼ばれた行方不明の児童5人が慶尚北道キョンサンブット)漆谷(チルゴク)郡のハンセン病患者の集落に埋められているという真偽不明の情報を全国メディアが無検証で報道、住民である患者たちの名誉が毀損された事件です。患者たちは潔白証明のため「現場」を公開しますが、取材に来た各メディアの記者は患者たちの家財を不法捜索するなどして患者たちと対立、そのうえ報道に際しては患者たちの暴力性ばかりを強調したというものです。埋葬の件はデマだと明らかになりましたが、どのメディアも謝罪や記事の訂正をすることはありませんでした。
なお「カエル少年」とは、1991年3月に現在の大邱(テグ)広域市にて失踪した同市の小学生男子児童5人を指すもので、失踪当日の外出目的だったサンショウウオの卵採集がカエルのそれだと誤って伝わったためこの名が付いたものです。事件発生から11年後の2002年、同市内の山中にて児童たちの他殺体とみられる遺骨が発見されましたが、2006年に公訴時効を迎えています。 

 

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「国立小鹿島病院ハンセン病博物館」の開館時間は午前9時30分~午後4時30分。毎週月曜日と元日、名節(旧正月と秋夕)の連休は休館です。入場無料。島唯一のバス停である「小鹿島」バス停(上図①)から博物館までは徒歩約17分(約1.1km)。小鹿島へのアクセスについては本エントリーの最後に紹介いたします。なお開館日の毎日午後3時には、博物館2階の「人権ゾーン」にて「口述史」(구술사:オーラルヒストリー)講演が開催されるとのことです(韓国語のみ)。 

国立小鹿島病院ハンセン病博物館(국립소록도병원 한센병박물관:全羅南道 高興部 道陽邑 小鹿海岸キル 65 (小鹿里 212-4)) [HP]

 

ハンセン病博物館から西側もまた患者の方々の居住区域であるため、関係者以外の立ち入りはできません。
病院駐車場の北側、前回のエントリーにて紹介した「愁嘆場」(上図②)と隣接する売店付近へ戻ります。ここから東側は主に病院関係者の住宅地であり「統制区域」とされていますが、こちらは患者の方々の居住区域とは異なり、許可を得ることで外部の人でも立ち入ることができます。
ハンセン病博物館の事務員の方を通じて許可を得ましたので、統制区域の坂道を登ってゆきます。この一帯にもまた訪問したい史跡があるためです。

 

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「マリアンヌとマーガレット私宅」(上図⑱)。
玄関脇の丸窓が印象的なこちらの建物は、前述したオーストリア人の女性看護師のうち、マリアンヌ・ストガー、マーガレット・ピサレックの両氏が生活していた住宅です。
二人はインスブルック看護学校の同窓生で、ともにハンセン病の救護団体であるダミアン財団を通じて小鹿島へやって来ました。まずマリアンヌさんが1962年に来島して乳幼児関連の業務に携り、その後ハンセン病の勉強のためのインド留学を経て1966年に帰島、同年に小鹿島を訪れたマーガレットさんとともに、以後40年近くにわたってハンセン病患者たちへの介護に取り組んでいます。さらに、募金を通じて得られた資金をもとに島内への嬰児院(乳幼児の養護施設)や結核病棟などの建設にも貢献しています。2005年、老齢により思うように働けなくなったため二人が1通の手紙を残して島を去った際には、小鹿島の人々は別れを悲しむとともに、二人のために祈ったといいます。
こちらの建物は「高興小鹿島マリアンヌとマーガレット私宅」として国家指定登録文化財第660号に登録されていますが、現在も住宅として使用されているようです。

 

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小鹿島での長年にわたる二人の活動は、『マリアンヌとマーガレット』(마리안느와 마가렛)として2017年にドキュメンタリー映画化されています。写真は国立小鹿島病院ハンセン病博物館にあった映画のポスターです。

 

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「旧小鹿島更生園神社」(上図⑭)。
1935年築。天照大神を祀った鉄筋コンクリートとレンガ造りの神社建築です。周防園長時代、小鹿島更生園の園生(ハンセン病患者)たちは月2回の神社参拝を強要されました。島西側の「患者地帯」には木造の分社がありましたが(写真4枚目右下)、光復後まもなく園生たちにより焼き打ちされています。こちらの社殿はコンクリート造りであるため残り、今日に至るまで倉庫などに用いられてきたとのことです。
本建物は、国家指定登緑文化財第71号に登録されています。これまで韓国ではいくつもの文化財を見てきましたが、文化財を見て怒りに襲われたのは初めての経験でした。

 

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長く曲がりくねった急坂を下ると、島の東海岸に出ます。
鹿洞(ノクトン)港と対面するこの一帯には船着場があり、2008年の小鹿大橋開通までは鹿洞港からの渡船が発着していました。

 

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かつて小鹿島と鹿洞港とを結んでいた行政船「全南503号」。よく見ると甲板の後方に乗客用のベンチらしきものが。

 

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「殉鹿塔」(순록탑:スルロクタッ)(上図⑮)。
朝鮮戦争期、進入してきた人民軍からハンセン病患者たちを守る過程で虐殺された、10人の小鹿島更生園職員と1人の牧師を称えるため1978年に建立された高さ約5mの塔で、鹿の島を守るため殉職した人々を称えるとの意味でこの名が付けられています。「殉鹿塔」の揮毫を挟んだ2本の柱は殉職者数「11」を象徴するアラビア数字を、上部のトゲの付いた丸い造形物は戦争を象徴する爆弾を表わしているとのことです。側面には殉職者の名前も刻まれています。

 

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写真は前回のエントリーでも紹介した、対岸の鹿洞港から眺めた小鹿島の姿ですが、中央に白い殉鹿塔がはっきりと見て取れます。

 

これまで紹介してきた以外にも小鹿島には、患者たちの納骨堂である「万霊堂」(1937年築:国家指定登録文化財第69号。上図⑯)、ハンセン病患者の受刑者を収容した「順天矯導所旧小鹿島支所女子棟」(1935年築:同第469号。上図⑰)、患者たちにとって直接無関係にもかかわらずその建設に動員された「旧小鹿島更生園灯台」(1937年築:同第72号。上図⑱)、そして前述した「花井院長彰徳碑」(1930年建立:上図⑲)などの貴重な史跡が、島西部を中心とする居住区域(関係者以外立入禁止)に複数立地しています。
居住区域にて現在も生活されているハンセン病患者の方々の暮らしが妨げられることは決してあってはなりませんが、そうならない限りにおいて何らかの形で私のような来訪者がこれら史跡を観覧できる仕組みが設けられることを切に願っています。

 

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小鹿島へのアクセスは、基本的には対岸の街である鹿洞港からの陸路となります。前々回のエントリーで紹介した「鹿洞バス共用停留場」からだと、島唯一のバス停である「小鹿島」(上図①)を通るバスが2系統、合計で1日9便ほどあるようです(所要時間は23分前後)。写真は鹿洞バス共用停留場の時刻表で、右端の列の「금산(우두)」(居金島の「錦山(牛頭)」行)のうち午前6:30発を除く5便が小鹿島を経由します(もう1系統・4便の発時刻は記載なし)。タクシーであれば同停留場から約10分、10,000ウォン(約1,000円:2018年4月現在)程度。
また光州広域市からであれば、前々回のエントリーにて紹介した光州総合バスターミナル「U-Square」(유스퀘어)から鹿洞へ向かう市外バスのうち、1日1便(午前8:50発)が小鹿島まで延長運行されています。料金は一般15,700ウォン(約1,570円)、所要時間は約2時間55分。

以上のほか、高興郡が週末のみ運行するシティツアーバスも小鹿島をルートに含んでおり、参加することで容易に訪問ができます。
シティツアーバスは毎週土・日、KTXも停車するKorail順天(スンチョン)駅前を午前10時に出発(10分前集合)、午後6時30分に同駅に戻ります。小鹿島のほか、「高興粉青(プンチョン)文化博物館」見学や鹿洞港での昼食、居金島の金塘(クムダン)八景遊覧船などがルートに含まれています。料金は大人10,000ウォン(博物館入館料と遊覧船乗船料は別途)。なおガイドは韓国語のみですのでご注意願います。
こちらのブログでシティツアーバスの参加体験記が紹介されています(2017年5月時点。現在とは若干ルートが異なるようです)

 

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小鹿島を発ち、自転車を返却するため小鹿大橋を渡って鹿洞港へ戻ります。
今回の自転車での走行距離は鹿洞港⇒居金島⇒小鹿島⇒鹿洞港のルートでおよそ60kmほど。小鹿大橋と居金大橋がいずれも高い場所を通っているため意外と起伏がありましたが(海抜0~60m前後)、殉鹿塔からの帰りの急坂を除けばだいたい乗り通すことができました。写真は鹿洞港、全羅南道で頻繁に見かけるミニストップがここにも。

約束の時刻だった午後4時を若干回って、この日の朝に自転車をお借りした高興警察署鹿洞派出所に到着。朝方いらっしゃった警官3人のうち自転車の持ち主を含む2人はすでに退勤後でしたので、もう一人の方に返却します。
鹿洞派出所のみなさま、本当にありがとうございました。おかげで有意義な旅ができました。

 

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そしてタクシーで鹿洞バス共用停留場に戻り、写真の市外バスで次の目的地へと向かうのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

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