かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

木浦の旅[201902_01] - 孤児のために生涯を捧げた韓日夫婦を称え記憶継承する「木浦共生園 尹致浩尹鶴子記念館」

今回はちょうど1ヵ月前(2019年2月21~24日)に訪問したばかりの全羅南道(チョルラナムド)木浦(モッポ)市などの旅を紹介したいと思います。
というのも、この旅で訪問した木浦市内のある施設に関するツイートヘの反響が大きかったことに加え、旅の途中で体調を崩してしまい現地で満足なツイートができなかったためです。
本来であれば昨年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の続きを紹介すべきところですが、こちらについては次回エントリー以降に引き続き紹介してまいります。

 

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1日目、2019年2月21日(木)。
本年(2019年)初となる渡韓はエアプサンを利用しての釜山・金海(キメ)空港入り。
このまま釜山でうんまい料理を食べ歩きたいところですがぐっとこらえて、今回は金海空港からも近い沙上(ササン)にある釜山西部(ソブ)バスターミナルより高速バスに乗り込みます。

 

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2時間半ほどで到着したのは木浦と同じ全羅南道順天(スンチョン)市の順天総合バスターミナル。時計は午後8時10分を指しています。
ここ順天は韓国南海岸沿いでも随一の交通の要衝であり、直行する高速バスが釜山・木浦ともに多数発着しています。実は釜山西部からも木浦行きの直行バスは出ているのですが、本数が少ないうえ所要時間が順天乗換と大差ないようで(別のターミナルを経由するらしい)、そうした理由から釜山着が午後4時台だと木浦着はどんなに早くとも午後10時過ぎとなってしまうのです。
そんなわけで1日目の木浦入りは断念し、順天で宿泊することに。もっとも、それは順天にまた別の楽しみがあるからでもありますが。


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バスターミナルから徒歩約5分のホテルに荷物を置き、向かったのはこれまたホテルから近い在来市場、アレッチャン。「下の市」を意味する名前のこちらの市場で末尾が2・7の日になると開催される五日市は、全羅南道はもとより韓国でも最大級のもののひとつとされています。

 

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このアレッチャンのほぼ中央にある屋根付き広場に面する、以前にこちらのエントリーでも紹介したジョン(日本でいうチヂミ)専門の酒場「61号(ユクシビロ)ミョンテジョン」がこの日の目当てのお店です。ちなみに屋号の「61号」とは市場内での店舗の通し番号なのだとか。

 

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今回注文したのはクルジョン(굴전:カキのチヂミ)、続いて屋号にもなっている名物のミョンテジョン명태전:スケトウダラのチヂミ)。どちらもうんまい。中でも後者はミョンテの身が衣よりも多いのではという勢いで入っており、今回を含む過去3回の訪問ですべて注文しています。

 

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こちらのお店のもうひとつの楽しみは、扱うマッコリの種類がやたら多いこと。
過去3回の訪問で計7本注文したマッコリのうち、6本は異なる種類だったという(「いま飲んだのと別の種類をください」と頼んでいるからでもありますがそれにしても6種はすごいですよね……)。地元はもちろん近隣の麗水(ヨス)市や高興(コフン)郡のブランド、またフレーバーではプレーンのほかフンマヌル(흑마늘:黒ニンニク)や黄漆(황칠:ファンチル。チョウセンカクレミノ)なども多種多様な取り扱いがあります。

 

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そうした幸せ気分の中にも今回ひとつだけ残念だったのは、順天湾の干潟名産のチルルッケ(찔룩게:ヤマトオサガニ。学名:Macrophthalmus japonicus)をまるごと揚げた「チルルッケティギム」(찔룩게 튀김:お店のメニューには「チルルッケ」とのみ表記。写真は2018年10月、同12月撮影)があいにく品切れだったこと。
こちらの店が元祖だというチルルッケティギム、1匹のサイズこそサワガニ程度なのですが、見た目以上に身が詰まっていて猛烈にうんまいのです。訪問時刻(午後8時半くらい)が遅すぎたのか、それとも季節要因でしょうか。とはいえこれからも訪問するつもりなので、めげずに次回を楽しみにしたいと思います。

 

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こちらのお店「61号ミョンテジョン」の営業時間は午前9時~午後9時、金・土曜日は夜市場の開催時間にあわせて午後10時まで延長されるようです。
お店のあるアレッチャンへは、Korail「順天」駅からであれば駅正面の「順天駅(순천역)」バス停より市内バス(このバス停であればどの路線でもOK!)に乗って2つ先の「アレッチャン(아랫장)」バス停(所要約7分)で下車、徒歩約4分(約250m)全行程徒歩でも約17分(約1km)です。順天総合バスターミナルからは徒歩約10分(約600m)
お店が面するアレッチャン中央の屋根付き広場は、毎週金・土曜日の夜に開催される夜市場(ヤシジャン)ではメイン会場となり、天井でまばゆい光を放つミラーボールの下に多くの飲食屋台と無数の簡易飲食テーブルが並べられる場所です。しかしそのいずれでもないこの日(木曜日)の夜は薄暗いうえ店周辺以外に人気はなく、独特の情感漂う雰囲気が楽しめます。初訪問の夜市場のときも楽しかったですがこういう雰囲気も好きです。
私にとっては、もはや順天を訪れる理由のひとつのお店です。

61号ミョンテジョン(61호 명태전:全羅南道 順天市 長坪路 60 (豊徳洞 1264) アレッチャン内)

 

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61号ミョンテジョンを出てもまだ午後9時台でしたので、少し足を伸ばして順天の中心街、かつての「順天府邑城(スンチョンブ・ウプソン)」一帯へ行ってみました。写真は旧順天府邑城の南側を流れる小川、玉川(オクチョン)。ライトアップされた川べりに立つイルミネーションのツリーには「2019순천방문의해(順天訪問の年)」とありました。順天市の市制施行70周年を迎える本年・2019年は「順天訪問の年」と銘打ち、史上初の年間観光客数1,000万人突破を目指すとのことです。かくして私もその1,000万分の1となりました。

 

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明けて2日目、2019年2月22日(金)の朝。再び順天総合バスターミナルへ。
こちらには写真(2枚目に限り2018年10月撮影)のようにコインロッカーが豊富にあります。ただ後日実際に利用して分かったのですが、こちらのコインロッカーは現金が投入できず、したがって「T-money」のような交通カードがないと利用できないので注意が必要です(クレジットカードもOKですが韓国国内で発行された「信用カード」限定なので日本からの旅行者には実質利用不可です)
韓国の地方旅に際し、コインロッカーの有無は極めて重要な情報です。韓国の地方の駅やバスターミナルにはコインロッカーがないことが多く、その有無が旅程を左右することさえ珍しくないからです。私が韓旅に際し参考としている某ブログでは、その執筆者さんが訪問地の駅やバスターミナルでのコインロッカー情報を積極的に紹介されていたおかげでかなり助けられました。私もできる限り訪問地のコインロッカー情報を提供してまいりたいと思います。

 

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この日はわずかでも長く木浦の街歩きをするため、夜明け前の午前6時50分に順天を発つ木浦行き高速バスの始発便に乗り込みます。

 

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約1時間半で木浦総合バスターミナルに到着。木浦は一昨年(2017年)の12月以来およそ1年3ヵ月ぶりの訪問です。前回は黒山島(フクサンド)行き高速船の時間待ちを兼ねた1時間半程度の街歩きでしたが、今回は1泊2日、約30時間の滞在でじっくりと木浦の街を踏査します。

 

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木浦総合バスターミナルの内部、そしてコインロッカー。
ただこちらのバスターミナルは、今回の主探訪地である旧市街(韓国語では原都心(ウォンドシム)という)から離れた場所にあるため、ここではコインロッカーは利用しませんでした。

 

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さてこの日の午前中は、バスターミナルも位置する木浦市北東部の各種スポットを訪問しました。いつもならば時系列でそれらを紹介するところですが、今回の旅ではあえてテーマ別に紹介することとし、それら午前中の訪問地は後のエントリーに譲ることといたします。
そんなわけで時間はあっという間に正午過ぎ。まずはKorail木浦駅構内のコインロッカー(写真)に、それまで引きずってきたキャリーバッグを預けます。

  

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木浦駅前からは市内バスに乗車。13分ほどで到着したのが、写真の児童福祉施設「木浦共生園(モッポ・コンセンウォン)」です。

 

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日帝強占期の1928年に創設されたこちらの施設を訪問したのは、その創立者である夫・尹致浩(윤치호:ユン・チホ、1909-1951?)、および妻・尹鶴子(윤학차:ユン・ハクチャ、1912-1968)両氏の生涯を紹介し功績を称える展示施設「尹致浩尹鶴子記念館」を見学するためです。

まずは施設の紹介に先立ち、創立者夫婦の生涯を紹介したいと思います。
以下、本エントリーでの説明は木浦共生園のホームページ、「尹致浩尹鶴子記念館」の展示パネルおよび日本語リーフレット、そして園長様をはじめ職員の皆様から直接伺ったご説明を参考としております。また年齢はかつて韓国で一般的であった数え年(生年を1歳とし、新年の毎に1歳ずつ加算する)ではなく、満年齢にて表記します。

 

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夫の尹致浩氏は、1909年6月13日に全羅南道咸平(ハムピョン)郡の玉洞(オクトン)マウル(村、集落の意)にて出生。9歳で迎えた1919年3月1日には咸平市場で「3.1運動」に参加した経験もあります。14歳のとき父の死により否応なく家長となり、母ときょうだい全5人の家計を支えるようになります。

 

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1920年には玉洞礼拝堂にいた米国人のジュリア・マーティン(Jullia Martin、1869-1944。韓国語名マー・ユルリ(마율리))宣教師と出会い、初めてキリスト教の教えに触れることとなります。その後ソウルの皮漁善(ピオソン)記念聖書学院(現・平沢大学校)での3年間の修学を経て、ここ木浦の陽洞(ヤンドン)教会にて伝道師として活動します。写真は現在の「木浦陽洞教会」(1911年築、国家指定登録文化財第114号)。
1928年には身寄りのない7人の子どもたちを家に連れてきて共同生活を始め、これが共生園のスタートとなりました。

 

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一方、妻の尹鶴子氏は日本人であり、元の名前は田内千鶴子(たうち・ちづこ)といいます。

 

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尹鶴子氏は1912年10月31日、現在の高知県高知市生まれ。6歳のときに父が朝鮮総督府への転勤を命ぜられたため、家族とともに木浦へ。これ以降は生涯のほとんどを木浦にて過ごすようになります。1929年に木浦高等女学校を卒業、1932年には木浦貞明女学校の音楽教師に。写真2枚目はこの翌日に訪問した、木浦貞明女学校の後身である木浦貞明女子高等学校校内の「木浦貞明女子中学校旧宣教師私宅」(1912年築、国家指定登録文化財第62号)、3枚目は氏がこの頃通っていたとされる「旧木浦日本基督教会」(1922年築、国家指定登録文化財第718-6号)です。
共生園でのボランティア活動中に尹致浩氏と出会い、1938年に結婚。このときから夫の姓に自分の日本名の一部を合わせた「尹鶴子」の名を用いるようになります。

1945年8月15日、光復(日本の敗戦による解放)。朝鮮を暴力で支配し続けてきた日本人たちは必然的に朝鮮半島韓半島)を追われることになります。日本人と夫婦であるために「親日派」(日本および植民地支配への協力者の総称。日本語の「親日」とは意味が異なるので注意)として近隣住民たちの排撃を受ける夫の身を案じ、尹鶴子氏は翌1946年に帰国。夫婦にも子どもたちにとっても過酷な運命でしたが、それまで官民間わず日本人たちが犯してきた植民地支配や収奪の罪を考えれば、私を含むその末裔、同じ社会構成員の立場で住民たちの行動を非難することは許されません。
しかし、一人で共生園を運営しなければならない夫、そして何より木浦に残さざるを得なかった子どもたちのことがどうしても心配で、1948年には意を決して再び木浦の地を踏みます。夫ともども周囲の厳しい視線にさらされる中、共生園の子どもたちに励まされつつの新しい船出となりました。

 

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それから2年後の1950年6月25日、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)が勃発。不意を突いた朝鮮人民軍による破竹の進撃を目前に多くの市民が避難する中、夫婦は子どもたちを置き去りにできないとの理由で木浦に残ることを決意します。
朝鮮人民軍はまもなく、釜山周辺および済州島など島嶼部を除く韓国全土を占領。その占領下では人民裁判が開かれ、警察官や右翼人士、その他李承晩(이승만:イ・スンマン、1875-1965。大韓民国初代大統領)政権に協力的とされた数多くの市民が死刑判決を受けて銃殺されました。
夫婦もまた人民裁判にかけられますが、このとき助命を嘆願し死の淵から救ったのは、かつて夫婦を排撃しつつもその後の献身的な活動に感銘を受け、再び共同体の一員として受け入れた近隣住民たちでした。写真はその前年、1949年に近隣住民たちによって寄贈された「共生園二十週年紀念碑」です。

 

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まもなく木浦は韓国軍によって奪還されますが、安心したのも束の間、今度はその韓国軍に夫が拘束されます。人民軍占領下で地域の人民委員長に任命されたことがその理由でした。
苦難続きだったのは夫婦だけではありませんでした。戦争に伴う物資不足、とりわけ食糧は極度の窮乏状態に陥ります。餓死の危機に瀕する500名もの共生園の子どもたち。これを救うべく、釈放されたばかりの尹致浩氏は食糧支援申請のため、当時は光州(クァンジュ)にあった全羅南道庁(写真)へ赴きます。
しかしその道中、尹致浩氏の消息は途絶えます。そして、再び共生園へ帰ってくることはありませんでした。

尹鶴子氏は失意の中にも、決して子どもたちを見捨てはしませんでした。夫の帰りを信じつつも自分一人で共生園を運営し、500名の子どもたちを育てることを決意します。とはいえ一人でできる範囲には限界があるため、他のキリスト教団体の手助けを得ながら。園の創立以来ずっと夫が務め、行方不明となった後も名義を変えなかった園長職を外部の人に譲ったのもこの時期でした。

 

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休戦後は各方面からの支援もあって、共生園の運営はようやく軌道に乗りはじめます。この当時は義務教育でなかった中学校に、園のすべての子どもたちを進学させられるほどの余裕も出るようになりました。そうした中で尹鶴子氏は夫が着手し、窓枠まで組み上がっていた建物の工事を受け継ぎます。1961年に落成したその建物こそが、まさに現在の「尹致浩尹鶴子記念館」です。
尹鶴子氏は1963年には大韓民国文化勲章を、その2年後には木浦市より「第1回木浦市民の賞」を受賞。その間の1964年には園長職を引き受けています。創立してから共生園で育った子どもの数は、いつしか累計3,000名を突破していました。

そして1968年10月31日、尹鶴子氏逝去。奇しくも56歳の誕生日である、まさにその日の出来事でした。
その葬儀は木浦市発足以来初めての市民葬として挙行され、会場となった木浦駅前広場には3万人もの市民が弔問に訪れたといいます。
その後は長男の尹基(윤기:ユン・ギ)氏が園長職を継承し、日本を含む国内外の支援を受けつつ規模を拡大。現在は木浦共生園をはじめとする児童福祉事業のほか障害者福祉事業など、そして日本でも関西地区や東京にて在日コリアンを主な対象とした高齢者福祉施設を運営しています。

 

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それでは、「尹致浩尹鶴子記念館」を含む木浦共生園の訪問記に戻ります。
記念館は、尹鶴子氏の生誕100周年にあたる2012年に開館した展示施設です。観覧は予約制であり、事前に電話での日時指定が必要です(方法は後述します)。今回はこの日(2月22日)午後1時に予約を入れていました。
結果的に遅刻してしまったにもかかわらず(園には時間前に到着したのですがまず事務室へ行くべきところを誤って先に記念館へ行ってしまいました……)、男女2名の職員の方は温かく出迎えてくださいました。うち女性の方は日本語が話せるため、男性の方の通訳も兼ねています。
そして記念館では、現在の木浦共生園園長であり、尹致浩・尹鶴子夫婦の孫(長女の娘)である鄭愛羅(정애라:チョン・エラ)園長による日本語でのご解説の下に観覧することができました。

 

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記念館の玄関にあった、1995年制作のキム・スヨン監督による韓日合作映画『愛の黙示録』(韓国語タイトル:사랑의 묵시록)のポスター。
石田えりさんが尹鶴子氏を演じたこの映画は、1998年の韓国における大衆文化開放措置により最初に輸入許可を受けた作品でもあります。
記念館を訪問したすべての観覧者は、まず展示物の観覧に先立ち共生園の歴史に関する20分ほどの映像を観る決まりになっています。その中でも『愛の黙示録』のシーンが多用されていました。

 

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そして館内へ。どうしても現地を訪問して直に観覧いただきたいという思いがあるため、館内展示物の写真については以上で紹介した範囲に留めることといたします。

 

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玄関から見て展示室の反対(右側)にある部屋には、韓日の政治家・著名人などによる色紙が飾られていました。写真2枚目はそれらのうち、訪問当時は全羅南道知事だった李洛淵(이닉영:イ・ナギョン、1952-)現・国務総理(首相に相当)の色紙。余談となりますが、昨年(2018年)5月に光州広域市にて開催された「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の追慕式で、戒厳軍に殺害された市民軍の一人である尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士の発言「今日、我々は敗北するだろう。しかし、明日の歴史は我々を勝利者にするだろう」の引用を含む感動的な演説を披露された方でもあります。
これら色紙の寄贈者には現職を含む歴代の駐韓日本大使も含まれ、退任後にその著書やTVのコメンテーターとして今日も韓国(人)への憎悪を振りまく前駐韓大使の色紙もありました。いたたまれない気持ちになりましたが、同じ社会の構成員でありそうした現状に歯止めをかけられない無力な存在である以上、払もまた消極的加担者に他なりません。

 

f:id:gashin_shoutan:20190226223138j:plain鄭愛羅園長とは記念館にてお別れし、続いて職員のお二方により園内をご案内いただきます。
写真は尹致浩・尹鶴子夫妻の胸像碑。2003年の創立75周年記念式典に際して建立されたものです。

 

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敷地中央に建つ写真の建物は講堂で、海岸に打ち上げられた木造船の船体などを材料に、尹致浩氏が10年を費やして手作りした建物がその前身となっています。現建物はその後改築されたものであり、中央部の石造アーチだけが当時のまま残っています。

  

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講堂の裏手、写真の向かって左側の白い建物は1969年、NHKの番組に出演された尹基園長(当時)の話に感激した日本航空JAL)の会長が寄贈した建物で、その縁で「JALハウス」と呼ばれています。現在は卒園生たちのゲストハウスとして用いられているそうです。 

 

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講堂の奥にある写真の建物は1975年に建てられたもので、大阪の社会福祉法人の会長が共生園を訪問した際、子どもたちが狭い仮設の食堂にて3交替で食事しているのを見かねて、ある社長に頼んで造らせたもので、その社長の姓と名から1字ずつを取った「大一食堂」と呼ばれています。現在は木浦共生園の事務室に用いられています。

 

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園の西端にある写真1枚目の建物は「児童宿舎大阪愛の家」といい、「大一食堂」と同じ1975年、尹基園長(当時)の妻を励ますための大阪市民の募金により建てられたもので、韓国初のマンション型児童宿舎であったそうです。
建物の右手前にある石碑には「사랑이 있는 한 인간의 내일은 걱정이 없다」(愛がある限り人間の明日は大丈夫)という尹致浩氏の座右の銘が刻まれています。

 

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共生園の敷地の中央部には、日韓の政治家や企業などによる記念樹の植えられた庭園があります。
それら記念樹の中には、小渕恵三元首相や日韓議員連盟の常任理事でもある二階俊博氏など自民党の所属議員によるものもありました。職員の方は解説に際し謝意を述べられていましたが、私個人はこうした行為を特に評価しません。園訪問を含むこれらの行為は、数多くの戦災孤児を生んだ朝鮮戦争の間接的原因である植民地支配の加害国の政府関係者として当然なすべきことだからです。
また個々人が園訪問や記念樹贈呈などにより友好の意を示そうと、一方で同じ自民党所属議員たち、そして彼らが政権与党を担う日本政府の閣僚たちはその首班から率先して、事ある毎に韓国(人)を侮辱し憎悪を扇動している現状があるからです。「慰安婦」問題に代表される植民地支配下戦争犯罪について形ばかりの謝罪をしても、閣僚や所属議員がそれを糊塗してあまりあるほどの被害者侮辱発言を繰り返してきたことは、その最たるものだといえるでしょう。

私は個人的な見解として、いかなる日本人も植民地支配の加害者たる「日本人」の末裔だという一点において日本と韓国との間の「かけはし」とは決してなり得ない、少なくとも日本人にそのような考えを抱く資格はないとの考えを抱いています。それは尹鶴子氏に対しても例外ではありません。
私が知る限り、尹鶴子氏は日韓の「かけはし」となろうとしたのではありません。一人の人間として孤児たちを死の淵から救うために夫とともに共生園の運営に奔走し、日本に戻った後も決して歓迎されないと分かっている光復後の木浦へ再び渡り、そして夫の亡き後も命尽きるその日まで共生園とそこに生きる子どもたちを支え、韓国の土となりました。その点で氏は日本人「田内千鶴子」以上に韓国人「尹鶴子」であり、同時に国籍や民族を超越した一人の人間であったと私は考えています(そのため本エントリーでは専ら氏の名前を「尹鶴子」と表記しています)。その意味で私は尹鶴子氏に畏敬の念を抱くともに、共生園を創立し園の発展と子どもたちのために尽力してきた尹致浩氏、そして夫婦が生涯を捧げた活動を記憶しその遺志を継承する木浦共生園の職員の方々に強い敬意を抱き、今回の訪問を決意した次第です。

これとあわせて私は、尹鶴子氏など一握りの事例を挙げて「日本は朝鮮に良いこともした」論の補強材料としようするすべての者を、心底軽蔑します。それは過去の加害を直視せず植民地支配を美化するための暴論でしかなく、その支配下で傷つけられ殺された方を、ひいてはすべてのコリアンを侮辱するものです。

 

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最後に、今回の訪問で最も強く記憶に残った展示物をひとつ紹介いたします。
それは記念館にあった、尹鶴子氏の母である安岡春(やすおか・はる)氏の言葉を紹介した展示パネルです。

結婚は国と国がするものではない。人と人がするものだ。神の国では日本人も朝鮮人もなくみんな兄弟姉妹なんだよ

その言葉が、胸に深く突き刺さります。 

 

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「尹致浩尹鶴子記念館」は入館無料ですが、前述したように事前の電話予約(観覧日時指定)が必要です。とはいえ日本語の話せる職員の方もいらっしゃるので、決してハードルは高くないものと思います。
木浦共生園などを運営する社会福祉法人共生福祉財団のこちらのページによると、観覧できる時間帯は午前9時~午後6時、電話番号は061-242-7501(日本から電話する場合は「+82-61-242-7501」)。

 

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「木浦共生園」へのアクセスは、私も利用した市内バス<1>番(写真1枚目)、または<1A>番のご利用が便利です。
木浦総合バスターミナルからであればすぐ前の「市外バスターミナル(시외버스터미널)バス停から約27分(28番目)、またkorail木浦駅からであれば駅前の「木浦駅(목포역)」バス停から約13分(16番目)で到着する「共生園(공생원)」バス停(写真2枚目)で下車、目の前です。
鄭愛羅園長とご案内いただいたお二方をはじめとする木浦共生園の職員のみなさま、私の観覧に際し懇切丁寧にご対応いただき、本当にありがとうございました。一人でも多くの日本人が木浦共生園を、尹致浩尹鶴子記念館を訪問することを切に願っています。

木浦共生園 尹致浩尹鶴子記念館(목포공생원 윤치호 윤학자 기념관:全羅南道 木浦市 海洋大学路 28 (竹橋洞 473-1)。観覧予約電話番号:061-242-7501) [HP]

それでは、次回のエントリーへ続きます。

群山の旅[201801_03] - 日本の収奪の痕跡を歩く②-韓国唯一の日本式木造寺院「東国寺」、そして「懺謝文」碑

前回のエントリーの続きです。
昨年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の2日目、2018年1月20日(土)です。

 

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群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)からバスでホテルへ戻りチェックアウト、今度はタクシーでKorail(韓国鉄道公社)群山駅へ。前日の約束通り、同駅にはないコインロッカーに代わって駅務室で私のキャリーバッグを預かっていただき、再びタクシーで市街地に戻ります。街歩きに先立ち、まずは腹ごしらえのためです。

ところで群山には、チャンポン(짬뽕)やチャジャン麺(짜장면)などを扱う中華料理店がいくつも存在しています。これらは1899年、当時の大韓帝国により群山港が開港場(国外との貿易港)に指定された前後から、貿易商や近代建築の技師などとして移住した数多くの中国人が飲食店を開いたのが始まりとされています。
そしてそれらの中には、毎日ランチタイムになると長蛇の列が形成されるずば抜けた人気店がいくつか存在します。有名どころとしては店舗が国家指定登録文化財(第723号)に指定されている蔵米洞(チャンミドン)の「浜海園(빈해원:ピネウォン)」、米原洞(ミウォンドン)の「福城楼(복성루:ポクソンヌー)」、そして同じく米原洞の「吉林省(지린성:チリンソン)」などが挙げられます。
今回は、それらの中から吉林省を選択。他に類を見ない人気料理「コチュチャジャン(고추짜장)」がその目的です。コチュ(唐辛子)の名の通り、かなりの辛さだと聞いていますが、果たして……

 

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群山駅から乗ったタクシーの運転手さんに行き先を告げると「もう並んでいるらしいよ」とのこと。確かにこの吉林省というお店、韓国語のブログでは浜海園や福城楼などと同様にものすごい列の写真が多くアップされています。列の具合によっては別の店にしようと思いつつも、まだ開店直後の午前10時台だったからか少し待っただけで入店できました(それでも待たされたわけですが)

 

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そしてやって来たコチュチャジャン。以前に仁川広域市中区のチャイナタウンで食べた「ユニチャジャン」と同様、麺とチャジャンソースがセパレートで出てきます。これらを適宜混ぜ混ぜして食べるのですが、チャジャンソースの中には肉やタマネギなどの具に加え、猛烈な辛さで知られる「青陽(チョンヤン)コチュ」らしき青唐辛子がごろごろ。にわかに緊張感が走ります。
勇気を出して、ぱくり。最初のひと口、とてもうんまいです。しかし、まもなく猛烈な辛さが口内を襲います。激辛なんてレベルじゃない、汗どころか涙まで吹き出てくる辛さ。ポットの水も気休めにしかなりません。私よりもずっと辛い料理に慣れているはずの隣の韓国人男性グループの1人も、あまりの辛さに半分以上残して立ち去ったほどです。これほどまでだと知っていれば普通のチャジャン麺を頼むべきでした。しかし辛さの中にも味自体はおいしいので箸は止めたくありません。というか負けたくありません。
そうしてなんとか青唐辛子以外は完食。汗拭き用のミニタオルはぐっしょりです。

 

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こちらのお店「吉林省」の営業時間は午前9時30分~午後5時、毎週火曜日定休。
メニューには今回食べたコチュチャジャンのほか、コチュチャンポン(고추짬뽕)という料理もあります。韓国のチャンポン自体が相当な辛さだと聞いている(実はまだ食べたことがない)のに、こちらもコチュチャジャン並みの辛さなのでしょうか。いずれにせよ我こそは激辛マニアだという方にのみおすすめしたい料理です。値段はコチュチャジャン・コチュチャンポンともに9,000ウォン(約900円:2019年1月現在。写真のメニュー表では8,000ウォンとなっていますがその後値上げされた模様)
正直、個人的にはコチュチャジャンはもう遠慮したいです。しかしチャジャン麺自体の味はおいしいので、次に訪問するならば普通のを注文したいと思います。

吉林省(지린성:全羅北道 群山市 米原路 87 (米原洞 78))

 

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吉林省を出て、口内が依然ひりひりする中を次の目的地へ歩いて向かいます。
まず訪れたのは、「屯栗洞聖堂(トゥニュルドン・ソンダン)」。
その名の通り屯栗洞に位置するこちらの教会は、群山初の天主教(カトリック)教会として1929年に設立された群山本堂がその母体です。その後光復(日本の敗戦による解放)を経て、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)の休戦後には戦争孤児をはじめとする幼児たちの世話に注力します。そうして活動範囲を拡大する中、信者たちの寄進などにより1955年に竣工したのが、国家指定登録文化財第677号にもなっている写真1枚目の聖堂建物です。

 

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玄関の脇には、韓服を着た聖者の像が。
ちなみに韓国では、一般的には「聖堂(성당:ソンダン)」といえば天主教(カトリック)の施設を、また「教会(교회:キョフェ)」といえば改新教(プロテスタント)の施設を指します(あくまで一般的な呼び名であって正式な区分ではない)

群山屯栗洞聖堂(군산둔율동성당:全羅北道 群山市 トゥンベミキル 24 (屯栗洞 156-2)。国家指定登録文化財第677号)

  

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続いて訪問したのは、錦光洞(クムグァンドン)にある寺院「東国寺(トングクサ)」。

 

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この東国寺はかつて「錦江禅寺(クムガンソンサ)」あるいは「錦江寺(クムガンサ)」と呼ばれ、1909年に日本人の内田仏観(うちだ・ぶっかん、1832-1916)僧侶が曹洞宗の布教所として創建したものに端を発します。1913年には群山屈指の大地主であり信徒でもあった宮崎佳太郎(みやざき・けいたろう)から土地の寄進を受け、現在地へ移転。
この間の1910年には「日韓併合」が、またその翌年には大日本帝国の植民地統治機関である朝鮮総督府が制令第7号「寺刹令」を公布、施行しています。「寺刹令」とは、寺院の合併・移転・廃止や名称変更、財産の処分などを朝鮮総督による認可制、布教行為などを道長官(知事に相当)の認可制とすることなどを定めたものであり、続いて公布された実施規則とあわせて、住持(주지:チュジ。日本でいう住職)の人事権を含む韓国(朝鮮)寺院の自主権を奪い統制するためのものでした。錦江禅寺もまた例外ではなく、1916年に朝鮮総督府による寺院としての認可対象となっています。
光復後は米軍政の接収を経て韓国政府に移管された後、1955年に全羅北道宗務院(宗教事務を管掌する部署)が購入。その後1970年には当時の住持であった南谷(남곡:ナムゴク、1913-1983)スニム(스님:僧侶の敬称)により「海東大韓民国」(海東(ヘドン)とは「渤海の東」の意であり韓国の別称)を縮めた意味の東国寺と改名され、韓国最大の仏教宗門である曹渓宗(조계종:チョゲジョン)に寄贈。そして現在へと至ります。

 

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境内の中央に建つ写真の建物は、日本の寺院でいう本堂に相当する大雄殿(대웅전:テウンジョン)。国家指定登録文化財第64号でもあるこちらの建物は、1913年の移転に際し日本から搬入した資材によって建てられたもので、現役の寺院としては韓国唯一の日本式木造寺院建築です。ちなみに日本式の寺院建築といえば、以前にこちらのエントリーにて紹介した全羅南道(チョルラナムド)木浦(モッポ)市の「旧東本願寺木浦別院」もまたそうでしたが、木浦のものは木造ではなく石材を用いた点で大きく異なります。

 

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こちらの写真は東国寺ではなく、その属する曹渓宗の総本山、ソウル・鍾路(チョンノ)の曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿です。韓国の寺院建築といえば、こちらの曹渓寺のように外壁が丹青(단청:タンチョン。青・赤・自・黒・黄を中心とする極彩色の文様)で彩られた施設を想像する方も多いことでしょう。

 

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一方、東国寺の大雄殿は彩色のない外壁に加え、ミソギ門(미서기문:互いに重なる引き戸。日本語の「みそぎ」とはおそらく無関係)の出入口、75度もの急傾斜の瓦屋根に水平一直線の棟(一般に韓屋の屋根の棟は中央部が窪んだ曲線を描いている)、そして大雄殿と寮舎チェ(요사채:ヨサチェ。僧侶たちの居所。チェとは建物全体を指す「屋」「棟」の意。写真2枚目)が接続するなど、日本ではおなじみですが韓国では珍しい日本風の寺院建築様式が随所に見られます。

 

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東国寺の境内に建つ鐘閣(종각:チョンガク)。
こちらは1919年築で、やはり現存する韓国唯一の日本伝統様式による鐘楼だそうです。内部には京都で建造された梵鐘が吊り下げられており、その胴には天皇を称賛する詩句が刻まれているとのことです。
鐘閣の土台の周囲を取り囲むように配置された石仏群は三十二面観音菩薩像と十二支守本尊石仏像で、写真はありませんが鐘閣の前には子を抱いた意匠の子安観世音寺本尊仏像が建っています。

 

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鐘楼のそば、境内の片隅には大きな石碑が、またその前方には女性の立像が建てられていました。

 

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まず、石碑から。
基壇の上には2つの黒い石がはめ込まれており、よく見ると向かって右側のそれには日本語が、左側にはハングルの文章が見て取れます。
こちらの文章は「懺謝文」(さんじゃもん。韓国語の発音ではチャムサムン)といい、東国寺の前身の錦江禅寺も属していた日本の曹洞宗が、その最高責任者である宗務総長名義で1992年に公式発表したもので、石碑にはその日本語原文と韓国語訳文(ともに抜粋)がそれぞれ刻まれています。
そしてこの石碑は、青森県在住の曹洞宗の僧侶が代表を務める日本の支援団体により2012年9月に建立、東国寺に寄贈されたものです。僧侶は曹洞宗による朝鮮人強制徴用者の遺骨返還運動にも携わってきた方で、何度も渡韓を繰り返す中で東国寺との縁を結び、碑の寄贈へと至ったとのことです。

東国寺「懺謝文」碑の除幕式は関係者の臨席の下、2012年9月16日に挙行されました。
その直前の9月10日、碑の建立とその除幕式に曹洞宗の財務部長が出席するという報道が韓国の聯合ニュースの日本語版にて配信され【該当記事】、その直後から曹洞宗への抗議が殺到。ある報道では電話だけでも80件以上に達したとあります。
そして除幕式の前日、支援団体会長の僧侶宛てに「懺謝文」碑の撤去を要求する曹洞宗からの内容証明郵便が届きます。撤去要求は「懺謝文」の無断での抜粋、および翻訳による著作権侵害を理由とするものでした。しかし支援団体会長によると「懺謝文」碑の建立は、同年初に宗団内部機構の検討を経て、特別な結論なく経過した事項だったとのことです【参考記事】。そして結局、財務部長が除幕式に出席することはありませんでした。

 

碑の建立以前から曹洞宗ホームページにて公開されていた「懺謝文」は、前述した除幕式関連の報道直後から曹洞宗の判断により一時的に公開が休止されていましたが、現在はその顛末とあわせて再び公開されています。そのタイトルの通り、「日韓併合」による国家・民族の抹殺の先兵としての皇民化政策推進、また中国での宣撫工作をはじめ日本の戦争遂行とアジア侵略に宗門として加担したことなどを懺悔し謝罪する内容であり、その観点で大いに共感し支持することのできる優れた文章だと私は思います。

2012年秋の「懺謝文」碑を巡る対立以降、私が調べた限り曹洞宗側での大きな動きはないようてす。当初求めていた碑の撤去も、効力が及ばない国外のため事実上放置せざるを得ない、という結論で落ち着いているようです。
前述したように曹洞宗は「懺謝文」の発表以後、朝鮮人強制徴用者の遺骨返還運動などを通じて「懺謝文」に込めた精神を自ら体現してきました。一方で「懺謝文」碑の撤去要求はその精神に背くばかりか、韓国(人)への差別・憎悪扇動を期して過去の植民地支配や戦争犯罪の否認を推し進める勢力に迎合したことを意味します。

2015年末の当事者無視の日韓「合意」に象徴される「慰安婦」問題や昨年(2018年)秋の徴用工裁判などへの日本政府の態度、さらには著名人が公然とヘイトを口にし、しかもいかなる社会的制裁も受けないことが「お墨付き」となり、日本では「韓国(人)ならばどんなに侮辱的に扱ってもかまわない」という社会的合意が形成されつつあります。昨年末の「レーダー照射」問題では日本側が一貫して不誠実な態度に終始したにもかかわらず、大手メディアがこぞって韓国人の「異常性」を強調した報道に血道を上げている現状こそが、それを端的に示しているといえるでしょう。
このような社会において、「懺謝文」とその精神は残された数限りある良心のひとつであり、財産であります。決して遅すぎることはありません。曹洞宗が再びその精神に立ち返り、「懺謝文」碑に肯定的なアクションを起こすことを切に願っています。

 

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続いて、女性の像。
こちらは「平和少女の像(평화소녀의 상)」といい、日本軍性奴隷制度とその被害者である「慰安婦」たちを記憶するためのモニュメントとして、「懺謝文」碑と同じ日本の支援団体などの募金により2015年8月に建てられたものです。みなさまもよくご存じの、夫婦作家であるキム・ウンソンとキム・ソギョンの両氏による「平和の少女像」が椅子に腰掛けているのに対し、こちらは立像です。
訪問当日(2018年1月20日)はまさに真冬。この時期にしては温暖な日でしたが、それでも10℃は優に下回っていました。像には暖かそうなフードとショールが着せられ、足には靴下が添えられていました。

 

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こちらの写真に少しだけ写っていますが、像の正面には小さな池があります。これは韓国と日本とを隔てる海峡を象徴するものだそうです。

日本軍性奴隷制度とその被害者を記憶する像とは、前月(2017年12月)に木浦で出会って以来です。そのわずか1ヵ月あまりの間も、そしてこの日から1年を経過した今日に至るまでの間にも、日本における状況はひたすら悪化の一途をたどっています。
本エントリー公開直前の2019年1月28日、元「慰安婦」の一人である金福童(김복동:キム・ボクトン、1926-2019)ハルモニ(할머니:年配の女性の敬称)が逝去されました。ハルモニは日本人や韓国保守派による中傷にも屈せずに自身の戦時性暴力被害を証言されてきただけでなく、日本の差別政策により無償化対象から不当に除外されている朝鮮学校関係者への支援を含め、人権活動家としても幅広く活躍されていた方です。日本語Twitter上では心ある人々の追悼メッセージを嘲笑うかのように、故人を含む元「慰安婦」やその支援者を侮辱するツイートで覆い尽くされています。
さらに翌29日には、成田国際空港で韓国の航空会社の業務を受託する日本企業に対し、その職員が元「慰安婦」の方々を支援するファッションブランド「マリーモンド」製品を所持していたことを外部の者が通報、その企業があろうことか当事者を含む職員に同ブランドの所持禁止を命じた旨の報道がなされています【該当記事】。
こんな不正義が、日本という社会では公然とまかり通るのか。日本社会への、そして正義実現への助力が何ひとつできていない無力な自分自身への怒りと苛立ちが募るばかりです。

 

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東国寺の境内は解放されており、誰でも無料で立ち入ることができます。ここ錦光洞を含め群山旧市街に点在する近代文化遺産の数々(次回エントリー以降に紹介予定)とあわせて観光コースに組み入れられているため、訪問当日も多くの観光客が訪れていました。国家指定登録文化財である大雄殿に加え、その内部には宝物(日本の重要文化財に相当)第1718号の「群山東国寺塑造釈迦如来三尊像および腹蔵遺物(군산 동국사 소조석가여래삼존상 및 복장유물)」が安置されています(信徒以外の観覧の可否は不明です)

東国寺へのアクセスは、Korail「群山」駅からであれば徒歩約5分(約360m)の「アンジョンマウル(群山駅)(안정마을(군산역입구))」バス停から<71>番市内バスに乗車、約33分で到着する「明山サゴリ・東国寺(명산사거리.동국사)」バス停から徒歩約4分(約250m)タクシーであれば約13分、6,200ウォン(約620円)前後で到達できるようです。
また「群山高速バスターミナル」または「群山市外バスターミナル」(隣接しています)からであれば、徒歩約4分(約230m)の「パルマ広場・ターミナル(팔마광장.터미널)」バス停から<21><22><23><24><25><27><28><31><32><33><36><37><52><53><54><61><62><63><64><65><66><81>番市内バスのいずれかに乗車、<52><53><54>ならば約7分(その他は約12分)で到着する「明山サゴリ・東国寺(명산사거리.동국사)」バス停から徒歩約4分(約250m)。タクシーであれば約7分、3,000ウォン(約300円)前後で到達できるようです。
以上のいずれも2019年1月現在、所要時間と料金は交通条件によって異なります。

日本による収奪の現場である群山に建立された在留日本人のための日本式寺院建築、そしてその境内に建つ、植民地支配と侵略、戦争犯罪を記憶し継承するための2つのモニュメント。願わくば群山を訪れるすべての日本人が訪問し、戦後責任と向き合っていただきたい場所です。

東国寺(동국사:全羅北道 群山市 東国寺キル 16 (錦光洞 135-1)。大雄殿は国家指定登録文化財第64号)  [HP]

  

それでは、次回のエントリーへ続きます。

今年もありがとうございました。

こんばんは、ぽこぽこです。
今年(2018年)も残すところあとわずか。今年も拙ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。

今年は昨年よりも渡韓回数が減るかなと思っていたのですが、ふたを開けてみたら全9回と、同じ回数という結果となりました。
しかも今年は、単なる乗り換え等ではなく目的をもって訪問した市・道(日本の都道府県に相当)の数が17。つまり韓国のすべての市・道を訪問する機会を得られました。
そんなわけで、今年訪れた市郡は以下の通りです。

これらのうち現時点でエントリーを投下できたのは、10月の順天(スンチョン)の旅のプレビューを除けば1月の群山(クンサン)の旅のみ、それもまだ途中だという。今年の秋にいろいろあって更新が滞ってしまい、気づいたらとうとう11ヵ月遅れ(一時は1年遅れ)となってしまいました。とはいえどの旅も私にとっては思い出深くかつ有意義なものであり、その訪問地については多くの方に紹介したいと強く願っておりますので、いずれ必ずや紹介してまいります。 

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2018年6月16日、済州特別自治道西帰浦市城山邑「済州4.3城山邑犠牲者慰霊碑」にて撮影。遠くに見えるのは「城山日出峰」。

 

拙ブログにて今年公開したエントリーは今回を含め全31、うち今回のような「ごあいさつ」を除けば29エントリー。昨年は「ごあいさつ」以外でも37エントリーでしたのでペースが若干下がっていますね。前述したように今年の秋に更新が滞ってしまったことが主要因ですが、来年はもっと頻度を上げ、できる限りタイムラグを縮めることを目標といたします。

今年公開したエントリーについてはいずれも強い思い入れがあり、できればどれもお読みいただきたいものですが、その中でどうしてもひとつだけを選べと言われたならば、下記のエントリーを挙げたいと思います。
ここ数日の報道に接し、下記エントリーの終盤にて述べたことの緊急性を改めて痛感するとともに、抗うことの誓いを新たにするばかりです。

 

来たる2019年は現時点でまだ3月の釜山の旅しか確定してはおりませんが、これまで同様にできる限り韓国に足を運び、全国各地の文化財や展示施設、そしてうんまい料理を紹介してまいりたいと思います。現時点では未定ですが、5月には必ずや光州(クァンジュ)を再訪し、強く関心のある5.18民主化運動関連の展示や行事を拙ブログやTwitterにて紹介するつもりです。
これからも拙ブログでは、強く共感するある方の言葉を借りると「モヤモヤしない」韓国の旅をお伝えしたいと存じております。そして私のつたない旅レポや写真を通じて、韓国の歴史や文化に関心を持っていただき、ひいては韓旅の参考としていただけるようであれば、これ以上の喜びはありません。

それでは、よいお年を。
みなさまにとって2019年がとって輝かしい1年となりますように。 

 

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2018年12月1日、慶尚南道統営市、欲知島「近代漁村発祥地座富浪ケ」にて撮影。

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