かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

順天の旅[201812_07] - 韓国南海沿いの旅最強の中継都市・順天、そして旅の締めはあの酒場とソルロンタン

前回のエントリーの続きです。

2018年11~12月の慶尚南道(キョンサンナムド)統営(トンヨン)市の離島などを巡る旅の3日目、2018年12月2日 (日)です。

 

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高速バスで統営総合バスターミナルを発ち、約2時間20分で到着したのは全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の順天総合バスターミナル。

 

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順天は、他の都市ではかなり離れていることの多いバスターミナルと鉄道駅が比較的近くにあるうえ、両者を結ぶ市内バスの便数もやたら多く(しかも順天駅前のバス停からだと全便がバスターミナルを通る)、加えてその中間に定宿を含むホテル街、そして大好きな酒場(後述します)を擁する在来市場があることから、韓国南部、南海(ナメ。朝鮮海峡など韓国が南岸で接している海の総称)沿いの旅の中継都市として好んで立ち寄っています。他に類を見ない順天という街の優位性がここにあります。
統営からより近い釜山を中継地点にすることも検討したのですが、釜山西部バスターミナルのある沙上(ササン)とKTX釜山駅は相当な距離があり、このロスタイムを考慮すると順天と大差ないことも今回の選択の理由のひとつです。

 

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ホテルに荷物を置き、まずはすぐ近くにある在来市場「アレッチャン」へ。
「下の市」を意味するアレッチャンでは、末尾が2または7の日に五日市(韓国では五日場(オーイルジャン)という)が開催されます。この日(12月2日)はまさに五日市の日。アレッチャンの五日市は韓国に無数にあるそれらの中でも最大級のひとつだといい、広い市場の敷地が露店でぎっしりと埋まるほか、場内に入りきれなかった露店が近隣の路上にまであふれるほどです。大好きな韓国の市場の雰囲気をしばし味わいます。

 

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続いて市内バスに乗り、市南西部の別良面(ピョルリャンミョン)へ移動。面(ミョン)とは日本でいう「村」に相当する地方自治体ですが、韓国では市に属するケースも多々あります。写真は別良面事務所(日本の「村役場」に相当)の建物。

 

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別良面事務所の真向かいにある飲食店。年配の女性が何故か体育座りをした写真入りのインパクトある看板、しかも屋号が「욕보할매집」(ヨッポハルメチッ。「悪口おばあさんの店」の意)とこれまたすごい。
こちらのお店、調べたところどうやらチュックミポックム(쭈꾸미볶음:イイダコ炒め)などで有名な店らしく、屋号で検索するとおいしそうな料理の数々、そして髪を真っ赤に染めたご主人(たぶん看板写真の女性)の登場する食レポがたくさん引っ掛かります。機会があれば訪れてみたいですが、「悪口おばあさん」はちょっと怖い気もします.....。

 

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別良面を訪れたのは、同面内にある2つの国家登録文化財を訪問したかったから。
ひとつめの文化財は、別良面事務所のある別良面の中心部から少し離れています。なので、徒歩でそこまで移動。単線非電化のKorail慶全線(キョンジョンソン)に沿って、あるいは踏切を渡ったりしつつ歩きます。

 

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そうして到着したのは、Korail元倉(ウォンチャン)駅。1933年築というその駅舎が国家登録文化財第128号に指定されています。
元倉駅は、慶全線の順天駅と筏橋(ポルギョ)駅の間にある休止駅です。1930年に南朝鮮鉄道光麗線(現・慶全線)とあわせて開業しましたが、その後の利用客減少に伴い2007年に旅客扱いを中止したため、現在はすべての列車が通過します。もっとも駅構内には線路が2本あることから単線である慶全線の列車交換の場として現在も使用されているとのことです。

 

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当時の駅務室エリアを含め、駅舎内には自由に立ち入ることができます。内部にあったはずの物品はすべて撤去されており、がらんどうになっています。

 

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かつての券売所のガラス板には、2002年韓日ワールドカップのステッカーが。当時はまだ旅客扱いをしていました。

 

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構内には作業用?の車両も。

 

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韓国には、この元倉駅のように国家登録文化財に指定された木造建築の駅舎が全国に12件存在します(2021年10月現在)。その中には蔚山(ウルサン)広域市蔚州(ウルジュ)郡、Korail東海南部線(トンヘナンブソン)の南倉(ナムチャン)駅(写真1枚目)のように現役の駅(ただし現在の駅舎は別途新築)もあれば、元倉駅のような休止駅もあり、そして全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市Korail長項線(チャンハンソン)の臨陂(イムピ)駅(写真2枚目)のような廃駅(2018年1月の訪問当時は休止駅)もあります。また、忠清南道(チュンチョンナムド) 保寧(ポリョン)市、Korail長項線の青所(チョンソ)駅(写真3枚目)のように、現役ながらも複線電鉄化により近日中の廃止が決定している駅も存在します。
個人的にはこうした韓国の木造駅舎に関心があり、これからも訪問してゆく予定です。

 

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元倉駅からは再び歩いて別良面事務所方面へ戻り、その途中にふたつめの文化財があります。
それが写真の建物「順天別良農協倉庫」で、国家登録文化財第224号に指定されています。現在はその名の通り別良農協の倉庫として用いられているこちらの建物は、日帝強占期に別良支所金融組合の倉庫として建てられたものです。当時、順天地域で生産された米を搬出に先立ち保管していた場所であり、すなわち収奪の現場のひとつです。
こうした一見何の変哲もない倉庫であっても、その歴史性をみて国の登録文化財として保存するところに、韓国の文化財保存への姿勢をうかがい知ることができます。

別良面事務所方面の先の国道2号線のバス停から88番バスに乗ります。余談ですがこの88番バスは順天中心部と別良面、そして宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウブ。邑は日本の町に相当する地方自治体)を結ぶもので、日に4往復しかないムグンファ号に代わり順天市と筏橋邑を結ぶ公共交通機関として働いています。

 

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順天総合バスターミナル前のバス停でバスを乗り換え、到着したのは順天市の原都心(ウォンドシム、旧来の市街地)。
かつてこの原都心一帯には、「順天府邑城」(순천부읍성:スンチョンブ・ウプソン)が存在していました。邑城とは倭寇などの侵入を防ぐため、客舎(객사:ケクサ。官衙では最上級の施設)など主要施設を含む市街地を城壁で囲んだものをいいます。朝鮮半島の随所に築かれていたこれら邑城も、日帝強占期に市街地拡大や道路拡幅などの名目でことごとく破壊されてしまい、現存するものはこちらのエントリーで紹介した「楽安邑城」(낙안입성:ナガン・ウプソン)などごくわずかです。
順天府邑城もその例に漏れず日帝強占期に破壊され、現在は跡形もありませんが、その城壁址は道路として、また法定洞(日本でいう「●●市●●町」に相当)の区画として残っています(地図)。また、そのうち西門(ソムン)址付近は一部が記念庭園となっており、記念庭園の建物は屋上が通路になっています。その一部には灯籠のようなものがつるされたスペースが。幻想的です(2018年10月撮影)。

 

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記念庭園そばの民家の屋上に立つ、ナゾの像。目がらんらんと輝いています。これは一体何者なのでしょうか。

 

奇しくもこの日、かつての順天府邑城跡、およびその北側にある「梅谷洞(メゴットン)」一帯では、「梅山洞(メサンドン) キョウリヤギ」(매산동 겨울이야기:キョウリヤギとは「冬物語」の意)というイベントが開催されていました。
梅山洞キョウリヤギとは、2016年に始まった「順天文化財タルビッイヤギ」(순천문화재달빛이야기:タルビッとは「月の光」の意)の一環で開催されていたもので、梅谷洞の中でも南端近くの梅山中学校一帯(ここを特に「梅山洞」とも呼ぶ)に点在する、20世紀初頭に海外宣教師により建てられた近代建築をはじめとする順天の歴史を紹介し、その夜の姿を巡ることを目的としたイベントです。
全羅南道での海外宣教師の活動拠点としては、こちらのエントリーでも紹介した光州(クァンジュ)広域市南区(ナムグ)の楊林洞(ヤンニムドン)が有名ですが、実は順天の梅谷洞もそれに続く宣教の拠点となった場所であり、楊林洞と同様に近代建築が今日も残っているのです。全羅道におけるキリスト教宣教活動は、米国南長老会という宗派がその主力となりました。米国南長老会の宣教師たちは全羅北道の群山に始まり、同道の全州(チョンジュ)、全羅南道木浦(モッポ)光州の順に宣教活動を進行、これらを経た1910年頃に新たな活動拠点として全羅南道東部の都市である順天に進出します。順天では他の都市と同様に近代的な建築様式による学校や病院を次々と建設し、地域住民への教育や医療活動に従事します。
この頃に並行して進められていた日本による植民地支配下での投資や開発が、あくまで進出した日本人たちの生活、または鉱産資源や農産物などの収奪のための便宜に徹底していたのに対し、米国南長老会の宣教師たちの活動はキリスト教布教が第一の目的であったとはいえ、地域住民すなわち朝鮮人たちにとっても便益を得られるものでした。
また、順天の梅山洞(梅谷洞)における宣教拠点の建設は、先行した4都市での経験に基づき計画的に進行されたことに加え、日本による開発に先立ち近代都市づくりがなされた点で特筆に値するものであるといえます。これらの建物の一部が現在にまで残り、文化財として保護されているのです。
その近代建築が建ち並ぶ梅山洞(梅谷洞)へ向かうべく、まずは順天府邑城の城壁址に沿って北へ向かいます。

 

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その途中、地面の御影石に順天府邑城の古地図が描かれた広場に、それを取り囲むかのごとく大量の焼き芋マシンが設置されていました。こんなに多くの焼き芋マシンを一度に見たのは人生で初めてです。よく見ると片隅には焼き栗のスペースが。少し離れた場所には長蛇の列が形成されていましたが、この焼き芋や焼き栗が目当てだったのでしょうか。

 

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広場近くでは順天の歴史に関する展示パネルが陳列されていました。2枚目は順天府邑城の客舎に関するもので、3枚目は「順天歌(スンチョンガ)」に関するものです。「順天歌」は順天市上沙面(サンサミョン)出身の李栄珉(이영민:イ・ヨンミン、1882-1964。号は碧笑(벽소:ピョクソ))氏が1930年頃に書いた、順天の山川や名勝、遺跡など40か所を紹介した歌唱歌詞のことで、後年に曲が付けられ、韓国の伝統芸能であるパンソリとして編曲されています。

 

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いよいよ梅山洞(梅谷洞)に到着。入り口に順天中央教会のあるこの「梅山キル」という道沿いに近代建築が立ち並んでいます。
梅山キルには写真のように光るオブジェがいくつも配置されており、幻想的な雰囲気を漂わせていました。

 

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梅山キルに入ってすぐに現れるのは、国家登録文化財第127号の「順天旧南長老教会ジョージ・ワッツ記念館」。
1925年頃築のこの建物は、米国南長老教会のジョン・F・プレストン(John Fairman Preston、1875-1975)宣教師により設立された教会指導者の養成施設であり、現在は2階が当時の財政後援者であった米国人、ジョージ・ワッツ(George Watts)氏の記念館となっているため、この名が付けられています。

 

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今度は大量の雪だるまが並べられたエリアが。

 

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ジョージ・ワッツ記念館から少し北へ進んだところにある「順天梅山中学校梅山館」。国家登録文化財第123号。
かつての米国南長老教会の教育施設「ワッツ記念男学校」であり、1930年にそれまでのレンガ造りの建物から改築されたものです。順天市内を流れる玉川(オクチョン) 地域一帯で生産された花崗岩を外壁に使用しているとのこと。現在は梅山中学校の施設として使用されています。

 

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梅山中学校の梅山キル沿いの外壁には光るウサギさんのオブジェが一列に並んでいます。

 

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梅山中学校梅山館からさらに北側、梅山女子高等学校の敷地内にあるこちらの建物は、国家登録文化財第126号の「順天旧宣教師プレストン家屋」です。
前述したプレストン宣教師の私宅として1913年頃に建てられたもので、花崗岩の外壁に韓式の瓦を乗せた韓洋折衷式の特徴ある建物です。また、建物の幅と高さがほぼ1:1というサイズバランスは、順天や光州の宣教師住宅建築の特徴のひとつだとのこと。そういえば以前に訪れた光州・楊林洞の「ウイルソン宣教師私宅」(1920年代築)も同じようなサイズ比になっていました。現在は梅山女子高等学校の語学堂として用いられているとのこと。

 

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梅山クンキルという道との交差点のあたりから、梅山キルを振り返って見たところ。緩やかな坂道であることが見て取れると思います。

ところで、この交差点から脇に入る道(写真とは反対側)の先に、国家登録文化財第124号の「旧順天宣教部外国人オリニ学校」 (1910年代築)と、全羅南道文化財資料第259号の「順天コイット宣教師家屋」(1913年築)という2棟の近代建築があるのですが、門が閉ざされており立ち入ることはできませんでした。

 

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梅山キルをさらに進むと、「順天市基督教歴史博物館」が現れます(写真は2018年10月撮影)。宣教の拠点たる梅谷洞はこの博物館にとって最もふさわしい立地だといえるでしょう。以前から気になっている施設ですが、月曜休館が一般的な韓国の博物館では珍しく日曜休館であり、この日は入館できませんでした(もっともこの時間だと他の曜日でも閉館していると思いますが)。

 

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博物館の敷地内には、20世紀半ばの宣教活動で使用された自動車「ランドローバー」が保存展示されていました。

 

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さて、順天府邑城に着いた頃はまだほの明るかった空はすっかり真っ暗に。そろそろ夕食の時間です。この日のディナーは日本を発つ前から決めていました。
そして再びアレッチャンへ。昼間の五日場の片付けもほぼ終わり、静寂を取り戻しつつある場内のテント広場へ。

 

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毎週金・土曜日には恒例の夜市場(ヤシジャン)で賑わうこのテント広場も、開催のない日曜日は閑散としています。

 

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そんな薄暗いテント広場の中で唯一、灯りがともる店舗が。
その名は「61号(ユクシビロ)ミョンテジョン」。本ブログやTwitterでは何回も紹介してきたので、順天という街とともにその名をご記憶の方もいらっしゃることでしょう。
実はこちら、同じ年の10月の順天と麗水の旅のときに初めて訪問し、料理のあまりのうまさ、そして何種類ものマッコリの在庫に感激し、どうしても再訪したかったお店なのです。この日の順天訪問の最大の目的と言っても過言ではありません。わずか1ヵ月とちょっとで念願かないました。
前回は夜市場の賑わいの中でしたが、打って変わって今回は独特の静けさの中での訪問です。

 

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まずやって来たのは、前回も注文した「チルルッケティギム(찔룩게튀김)」と「順天湾マッコリ」。
チルルッケとは、順天湾の干潟名産の小ガニ「チルゲ(칠게)」の全南方言です。和名は「ヤマトオサガニ」(学名:Macrophthalmus japonicus)。その名の通り日本にも棲息しているカニですが、日本ではほとんど食用にされずなじみのない一方、韓国ではこちらのティギム(揚げ物)をはじめ、カンジャンケジャンのようにカンジャン(韓国醤油)につけたもの、あるいはすりつぶしたものをチョッカル(韓国式の塩辛)にしたりして、主に全羅南道において広く食されています。

 

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ご主人の手により揚げられている真っ最中のチルルッケティギム。

 

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そういえば同じ年の10月にここアレッチャンの五日市を訪れた際にも、ずいぶん活きのいい大量のチルルッケがバケツに入って販売されていました。

 

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あつあつ揚げたてのチルルッケティギムを、1匹まるごと口に放り込みます。
ああ、うんまい。
小ガニなのにしっかり身が詰まっており、強いカニらしい風味がします。しかも同程度のサイズのサワガニよりもずっと殻が柔らかく、サクサクと気持ちよい歯ごたえです。前回の訪問でこの味にすっかり惚れこんでしまった私でした。そのうえマッコリとの相性も抜群で、結構な量なのにあっという間に一皿平らげてしまいます。
光陽(クァンヤン)プルコギで知られる東の光陽市、ハモにカンジャンケジャンなど海の幸や突山島(トルサンド) カッキムチ(カラシナのキムチ)で知られる南の麗水市、そしてコマク(ハイガイ)料理で知られる西の筏橋邑。順天市は三方を著名な料理を擁する自治体に囲まれながらも、特段そうした名物料理がないと揶揄されることもあります。しかし私はこのチルルッケティギムこそが、全国に誇るべき順天の名物料理のひとつだと思っています。

 

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続いて注文したのは、今回が初めての「クルジョン」。マッコリも2本目の「チングサイ」(친구사이:「友達同士」の意)に突入。
クルとはカキ(牡蠣)のこと。ジョンは日本でいうチヂミのことですが、その中でも食材の形を保ったものを指すともされています。それを証明するかのように、カキが一枚の大きな平たいチヂミに入っているのではなく、一粒一粒に衣が付けられ丁寧に焼かれています。旬のカキと衣のハーモニーがこれまたうんまい。
そういえば、この日の昼まで滞在していた統営は、韓国最大のカキの産地でもあります。その統営での旅の思い出を反芻しつつ、クルジョンに舌鼓を打つ私でした。

 

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そして締めは、屋号にもなっている「ミョンテジョン」。こちらは「麗水生マッコリ」がお供に。
ミョンテとは漢字で書くと「明太」、つまり明太子の親たるスケトウダラの身のチヂミです。たっぷりのスケトウダラ白身とジョンのガワが絶妙なバランスで焼かれていて、めちゃめちゃうんまいのです。
前回の訪問で初めて口にして、あまりのおいしさにまたも注文してしまいました。ミョンテジョンの屋号は伊達ではありません。
ちなみに屋号の前半の「61号」とは、アレッチャンにおけるテナントの通し番号をそのまま用いたものだそうです。
こちらのお店「61号ミョンテジョン」を含むアレッチャンへのアクセスについては、下記エントリーの序盤で、この次の訪問時(2019年2月)の食レポと一緒に紹介しております。こちらもあわせてお読みいただけますと幸いです。

 

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そうしてお腹も心も幸せいっぱいになり、夜も更けつつある順天の街を歩いてホテルへと戻るのでした。

 

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明けて、2018年12月3日 (月)の朝。順天はあいにくの雨天です。前回(同年10月)と同じ、午前7時42分発の全羅線KTXで順天駅を後にします。

3時間弱でソウル駅に到着。まずは地下のソウル駅都心ターミナルで搭乗手続きと出国審査をし、荷物を預けて身軽になった状態で地下鉄1号線の電車に乗り込みます。

 

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やって来たのは鍾路(チョンノ)の名店、里門(イムン)ソルロンタン。1904年創業、現存する韓国最古の飲食店としても知られる老舗です。

 

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1997年の人生初の韓国訪問からずっと通っているお店で、私にとっては最も長く、そして最も多く訪問した韓国の飲食店でもあります。惜しくも21世紀の再開発に伴い解体された、当時の木造2階建て韓屋(写真)の店舗をご記憶の方も少なからずいらっしゃることでしょう。

 

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注文したのはもちろん看板メニューのソルロンタン。鋳鉄釜で17時間かけて煮出した牛骨スープは白濁しつつも余分な脂分がなく、すっきりしています。塩気は全くないので卓上の塩を慎重に(ここ重要)投入し、まずはひと口。
おなじみの、舌を包み込むようなうまみ。ああ、うんまい。
おいしさと一緒に、ほっとする感覚、そして懐かしさを感じます。韓国ではさまざまな料理を口にしてきましたが、「どこか」ではなく懐かしいと思う味は、いまのところ里門ソルロンタンソルロンタンが唯一です。

 

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里門ソルロンタンでもうひとつ特筆すべき名物は、卓上に置かれている取り放題のキムチのうちペチュ(白菜)キムチ。白菜の葉っぱがほぼ丸ごと入っているので、ハサミで適宜食べやすい大きさに切って取り分けます。この白菜キムチがもう、うんまいのなんの。ソウルキムチらしい甘みの中にしっかりとした辛さが。個人的に、これまで食べて来たあらゆる白菜キムチの中で最も好きな味です。ご飯が何杯でもいけるやつだ。そのため毎回食べ過ぎて汗をかいてしまうほどですが……。

 

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「里門ソルロンタン」の営業時間は午前8時~午後9時、日曜のみ午前8時~午後8時。名節(旧正月・秋夕)は休業。首都圏電鉄(地下鉄)1号線「鍾閣」駅3-1番出口から徒歩約4分(約250m)です。誘導路入口にバルーンの看板(写真2枚目)が立っているのですぐ分かると思います。
なお、2021年10月現在でのソルロンタンの値段は10,000ウォン。このときの9,000ウォンより少し値上がりしています。思えば1997年の初訪問のときは確か6,000ウォンだったような。日本のように政府与党の政策により実質賃金が年々低下し続けている不健全な社会とは違うのだなということを改めて思い知らされます。

里門ソルロンタン(이문설농탕:ソウル特別市 鍾路区 郵征局路38-13 (堅志洞 88)) [HP]

 

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空港鉄道の発車時刻まではもう少し余裕があるので、もうひとつの目当ての店へ向かいます。その途中にある、ソウルYMCAビル。併設されているホテルを利用された方も数多いことでしょう。
その玄関の脇には「3.1独立運動紀念址」の石碑が。当時の民族運動の本拠地であり、3.1独立運動を準備した場所だと刻まれています。

 

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大通りの鍾路を渡った向こう側(南側)には、この少し前に開店したばかりのスイーツ店「ミルクホール1937種路店」があります。

 

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韓国の乳製品大手であり、国内牛乳市場シェアNo.1(29.1%、2020年)の「ソウル牛乳(ウユ)協同組合」の直営であるこちらのお店では、同社の製品を用いた各種スイーツやドリンク類を味わうことができます。

 

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注文したのはミントチョコシェイクと抹茶牛乳。どちらも期待を裏切らないおいしさ。うち抹茶牛乳はお店のロゴが入った懐かしの牛乳瓶で出され、瓶はお土産として持ち帰ることもできます。

ミルクホール1937 鍾路店(ソウル特別市 鍾路区 鍾路2街 71-5 (鍾路 86-1))

 

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そして仁川国際空港に移動し、いつものジンエアーLJ203便で日本へと帰るのでした。

2018年11~12月の慶尚南道統営市と全羅南道順天市の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回は、2019年10月の仁川広域市富平区(プピョング)の旅をお送りする予定です。

統営の旅[201812_06] - 西ピランで統営の魅力を知り、国宝の洗兵館に上がってくつろぐ

また長いこと間が開いてしまいましたが、千夜誕であり、本ブログの誕生5周年でもある本日・9月19日より更新を再開します。
いつか、誰かの道しるべとなるために。

 

さて今回は、前々回のエントリーの続きです。

2018年11~12月の慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市の離島などを巡る旅の3日目、2018年12月2日(日)です。

 

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映画『1987、ある闘いの真実』の撮影地となった忠武教会(チュンム・キョフェ)を出て、さらに北へ向かって歩みを進めます。
突き当たりには後述する国宝「洗兵館」の入口がありますが、こちらは後に訪問することとし、いったん通過します。

 

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統営の原都心(ウォンドシム。旧来の市街地)には、「東(トン) ピラン (동피랑)」と「西(ソ)ピラン(서피랑)」の2つの丘が立ち並んでいます。「ピラン」とは当地の言葉で「崖」の意。この2つのピランが、統営原都心の風景を象徴するものとなっています。
今回まず向かったのは、これらのうち西ピラン。一方の東ピランは丘全体が壁画マウルになっていることで知られており、私もかねてより行きたかった場所ですが、時間にあまり余裕がないため今回の旅での訪問は難しそうです。じっくり時間をかけて探訪したい東ピランは次の機会に預けて、今回はまず西ピランを訪問することにした次第です。

 

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忠武教会から西ピランへ向かう途中にあるこちらの建物は「旧統営青年団会館」といい、日帝強占期の1923年に建てられたものです。
「統営青年団」とは、統営での「3.1運動」(1919年)を主導したクリスチャン、朴奉杉(박봉삼:パク・ポンサム、1875-1936)氏を初代団長とし、独立へ向けての民族意識の鼓吹と自生的な社会啓発運動のために結成された団体であり、その本拠建物がこちらです。そうした歴史的背景から、国家登録文化財第36号にも指定されています。

 

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西ピランの麓にある入口。案内板には「西ピラン文学トンネ」(トンネは「村」「隣近所」の意)とあります。

 

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西ピランの麓にはいくつかの住宅が密集しており、その中に写真の家屋があります。

 

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こちらは統営出身の小説家、朴景利(박경리:パク・キョンニ、1926-2008)氏の生家があった場所で、その案内プレートが外壁に掲げられています。
朴景利氏は、奇しくも訪問日のちょうど92年前である1926年12月2日(陰暦10月28日)、現在の統営市生まれ。黄海道で中学校教師に在職していたさなかの1950年、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)が勃発。このとき夫が西大門刑務所にて獄死し、息子にも先立たれるという悲劇もありました。
休戦後の1956年、文壇デビュー。1957年には『불신시대(不信時代)』、また1962年には長編小説『김약국의 딸들 (金薬局の娘たち)』などの代表作を次々と発表します。そして1969年から1994年までの四半世紀にかけて執筆された、全5部構成もの大河小説『토지(土地)』は、氏を最も代表する作品であり、巨匠としての地位を確固たるものとした作品として広く知られています。この『土地』は現在、日本でも翻訳版の発刊が進んでいるとのことで、個人的にいつか読破したい作品でもあります。
なお、抵抗詩人として知られる金芝河(김지하:キム・ジハ、1941-)氏は朴景利氏の娘婿にあたります。
朴景利氏は2008年5月5日、肺がんにて死去。現在は故郷の統営市内の墓所で永遠の眠りについています。また同じ統営市内の弥勒島(ミルクト)には、氏の生涯と作品の数々を展示する「朴景利記念館」がオープンしています。次の統営訪問に際してはぜひとも訪問したい場所です。

 

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西ピランの斜面には、写真の石垣やフェンスに囲まれた施設があります。こちらは「統営文化洞配水施設」といい、1933年に日本が一帯への水供給の名目で、かつての統制営の祠堂を破壊した跡地に建設したものです。現在も配水施設として稼働しており、内部に立ち入ることはできません。

 

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写真中央、六角形にドーム屋根という象徴的なコンクリート建物は配水池の出入口だそうで、かつてドアの上部には天皇賛美の意図で「天祿永昌」という文字が刻まれていましたが、光復以降に市民によりセメントで埋められたとのことです。日本が明治以来してきた虐殺や植民地支配、収奪の歴史を考えれば当然ともいえる行動ですし、当時の国家元首であり主権者、最高指揮官であったにもかかわらず植民地支配や侵略戦争にいかなる責任も負うことのなかった天皇を賛美する文言であるならばなおさらでしょう。
このように「統営文化洞配水施設」は日本による植民地支配の一環で造られた施設でこそありますが、過去の痛ましい歴史の記憶継承とそれ自体の建築学的な価値などから、韓国の国家登録文化財第150号に指定されています。ただ、こうした施設を後世に残すべきかどうかは、あくまで韓国の人々が決めるべきことです。

 

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文化洞配水施設のあたりから、やや傾斜が強くなります。

 

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そうして、ようやく西ピランの頂上地点へ。

 

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西ピランの頂上一帯は公園になっており、その最高地点には写真の「西鋪楼(ソポルー)」という亭子(あずまや)が建っています。

 

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西ピランの頂上から眺めた統営の街。西側には江口岸、そして南側には統営運河に、韓国百名山のひとつにも挙げられた弥勒山(ミルクサン)が。とても美しい眺めです。ここからの眺めだけでも、統営という街に魅せられるリピーターが多くいらっしゃることがうなずけます。

 

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西ピランを下り、おそらくは今回の統営の旅最後の目的地へと向かいます。

 

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西ピランから先ほど通ってきた忠武教会方面へ戻ると、そこには朝鮮時代中期に建てられた巨大な木造建築「洗兵館」(세병관:セビョングァン)を中心とする、かつての統制営(トンジェヨン)跡に造られた歴史公園があります。
洗兵館は1604年、第6代の三道水軍統制使(サムドスグン・トンジェサ:慶尚・全羅・忠清の3つの道の水軍を束ねた朝鮮水軍の実質的な最高指揮官)であった李慶濬(이경준:イ・ギョンジュン、1561-?)が、水軍の本陣である統制営を当時は頭龍浦(トゥリョンポ)と呼ばれていた統営に移転してきた、その翌年(1605年)に統制営の敷地内に建てられたものです。
数ある関連施設の中でも最上級の存在である客舎(ケクサ。国外などから来た賓客の宿舎)として用いられたこちらの建物は、その後約290年間も存続した統制営を代表する建物であり、そして日帝強占期に破壊された統制営の施設の中で唯一現存する建物です。

 

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洗兵館は、ソウル特別市鍾路区(チョンノグ)の景福宮キョンボックン)にある慶会楼(キョンフェルー:国宝第224号)、全羅南道(チョルラナムド)麗水(ヨス)市の鎮南館(チンナムグァン:国宝第304号)と並んで、現存する中でも韓国最大級の規模を誇る木造古建築のひとつであり、その歴史性や芸術性などから韓国の国宝第305号に指定されています。これらの意味で、統営という街を最も象徴する建物だといえるでしょう。
こちらの洗兵館、前々から統営訪問の際にはどうしても訪れたかった建物で、先ほども西ピランに上る途中でその姿を見て(写真)、うずうずしていたばかりでした。ようやく念願かないます。

 

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洗兵館の入口の脇では、「ポクス」と呼ばれる石造りの像が訪問者を出迎えてくれます。ポクスとは集落の守護神であるチャンスンの方言で、男女一対の一般的なチャンスンとは異なりこちらのポクスは一人でぽつんと立っています。四方を山に囲まれたこの一帯の気を補強し、平安を祈願する目的で1906年に造られたもので、国家民俗文化財第7号に指定されています。
そういえば、この1ヵ月ちょっと前に訪れた麗水にも、同じようにポクスと呼ばれる石造りのチャンスンがあったことを思い出しました(麗水のものは男女一対でしたが)。

 

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3,000ウォン(約285円:2021年9月現在)の入場券を購入し、場内に入ります。
まず最初に現れるのは、洗兵館の正門である望日楼(マンイルルー)。その名の「日」とは太陽であり、王を象徴するとのこと。造営当時から存在するという直下の階段は24段あり、これは24節気を象徴するそうです。

 

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望日楼をくぐってまた少し石段を上ると、洗兵館の第二の門である止戈門(チグァムン)が現れます。その名にある「戈」とは先端が二股に分かれた韓国の長槍のことで、「槍(武力)を止める」、すなわち平和を願うという意味が込められているとのこと。

 

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止戈門を通り抜けると、いよいよ洗兵館との対面です。
木造平屋建てでありながら、正面112尺(約34m)、側面56尺(約17m)もの巨大な建物。正面からだとカメラのフレームに収まりきれません。そして建物に壁がないためむき出しとなった、重厚な屋根を支えるべく林立する太い柱の数々が力強さを感じさせます。その威容にただただ圧倒されるばかりです。

 

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これまた巨大な、 「洗兵舘」と記された扁額。高さだけでも人の背丈以上あるとのこと。

 

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洗兵館の屋根瓦、そして栱包(공포:コンポ。ひさしの重さを支えるため柱頭に組み並べる木片)

 

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洗兵館の特徴は、国宝でありながら来場者の誰もが靴を脱いで自由に上がれ、しかも床に座って休めること。この翌年(2019年)夏に訪問した京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市の「水原華城(ファソン)」もそうでしたが、韓国ではこのように自由に上がって休息の取れる文化財に遭遇することがしばしばあります。文化財をより身近に感じられる瞬間です。

 

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ただし中央の奥、床から約45cmほど高くなった場所は、かつて闕牌(クォルペ:朝鮮時代に国王の象徴として「闕」の字を刻んだ木牌)を祀っていた空間「闕牌壇」であり、こちらへ上がることや着座は禁止されています(これがまた適度な高さなのでうっかり座りそうになってしまいましたが……)

 

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洗兵館には壁がないため、ときおり風が通り抜けます。さすがにこの時期(12月)は寒いですが、夏などはさぞ心地よい風が吹き抜けることでしょう。

 

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ふと上を見ると、梁の上には何枚もの武人画が掲げられています。

 

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洗兵館の庭には、何体かの石人(ソギン)が旗(のぼり)を抱えています。これらは日本でいう厄払いのために造られたと推定されており、現在までに5体が発掘されたとのこと。

 

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止戈門の横にあるこちらの建物は「受降楼(スハンヌー)」といい、壬辰倭乱(イムジンウェラン:文禄の役、または文禄・慶長の役の総称。豊臣秀吉による2回の朝鮮侵略のときに日本の大将から降伏文書を受け取った建物で、元々は統営市内の別の場所にあったものを移築してきたものだそうです。

 

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その受降楼のそばには碑閣(ピガク:石碑を雨風から保護する建物)があり、その中に立つ写真の碑は、第6代統制使の李慶濬が統制営を当時の頭龍浦に移したことなどを称える「統営頭龍浦記事碑」(トンヨン・トゥリョンポ・キサビ。慶尚南道有形文化財第112号)です。

 

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「統営頭龍浦記事碑」のほかにも、歴代の統制使の功績を称える碑石がいくつも建てられています。

 

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旧統制営の敷地内、洗兵館の西側には、写真のような小さな木造建築が密集した一角があります。こちらの建物群は、かつて統制営内にあった「十二工房(シビーゴンバン)」を再現したものです。

 

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工房とは、朝鮮時代に軍旗や武器などの軍需品、朝廷へ進上する工芸品などを生産していた職人たちによる生産組織のことで、統制営には12もの工房が密集していたことから「十二工房」の名が付いたとされます。

 

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それらのうち代表的なものとしては、今日も統営の名産品として人気の高いプチェ(扇子)を生産した「扇子房(ソンジャバン)」のほか、タンスなどの家具を造った「小木房(ソモッパン)」、各種工芸品に漆を塗った「漆房(チルバン)」、貝殻を薄く切った螺鈿(ナジョン:らでん)細工を施した「貝付房(ペブバン)」などが挙げられます。そして、これら複数工房の分業体制による職人芸の集大成こそが、プチェ同様に統営名産の工芸品として名高い螺鈿漆器家具の数々だといえるでしょう。

 

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こうして洗兵館一帯の踏査は終わり、もうひとつの念願だった「東ピラン壁画マウル」の訪問が頭をよぎります。
しかし、時計を見ると11時40分。バスの出発時刻までは残り50分ほどありますが、洗兵館のある原都心から統営総合バスターミナルまではただでさえ距離があるうえ、荷物を置いてきたホテルを経由することを考慮すると、東ピラン壁画マウルを訪問する時間はありません。残念ながらここでタイムアップです。あわてて洗兵館を出てタクシーに飛び乗り、ホテルで荷物をピックアップしたうえでバスターミナルへ。

 

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統営総合バスターミナル着。以前にも書きましたが、統営には鉄道が通っていません。ソウルや仁川国際空港へ行く高速バスこそあるものの、帰国当日の朝までの滞在は渋滞等による遅延リスクが伴います。そのため私はいつも、仁川国際空港からの帰国前夜にはソウルへ戻るか、または中継地点となる鉄道駅のある街へ移動するようにしています。本音を言えばもう少し統営をゆっくり堪能したいところですが……。
加えて、これから向かう街にもまた、個人的に訪れたいスポットが数多く残っています。

 

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そして12時30分発の写真の高速バスで、中継地点でもあるその街へと向かうのでした。

 

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このように「東ピラン壁画マウル」訪問を断念した私でしたが、どうしてもあきらめきれず、この旅のわずか3ヵ月後の2019年3月には釜山の旅とあわせて統営を再訪、ついに念願の壁画マウル訪問を果たすことができました。また、これとあわせて統営の春の風物詩である名物料理「トダリスックッ」メイタガレイヨモギのスープ。写真3枚目)を口にすることもかなっています。このときの旅については、いずれ機会があれば詳しく紹介したいと思います。
コロナ禍が明けて再び韓国の旅ができるようになったなら、そのときはまた統営を訪れて、うんまい海の幸や魅力あふれる島旅を堪能したいものです。

 

それでは、次回のエントリーへ続きます。

束草の旅[202002_01] - 一生涯忘れられない、忘れたくない酒場「番地オンヌン酒幕(番地のない酒幕)」へ

慶尚南道キョンサンナムド)統営(トンヨン)市の旅を紹介するエントリーの途中ですが、今回は訳あって特別に、昨年(2020年)2月に訪問した江原道(カンウォンド) 束草(ソクチョ)市の旅を紹介したいと思います。なお、統営の旅は次回以降に引き続き紹介する予定です。

 

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束草市は江原道の北東部、東海(トンへ。日本海)沿いにある人口約8万人の港湾都市です。北緯38度線よりも北にあることから、1945年の光復(日本の敗戦による解放)以降はソ連軍政下となり、1948年の南北両政権樹立より1950年の朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)までは朝鮮民主主義人民共和国に属していました。その後韓国軍と国連軍の勢力下に入り、休戦ラインの確定により正式に韓国領となって現在へと至ります。
戦争中には江原道と北で接する咸鏡道(ハムギョンド)の住民を中心とした「失郷民(シリャンミン)」と呼ばれる避難民が押し寄せ、一部がそのまま束草に定着しました。これら失郷民の中には、いったん釜山などに逃れつつも戦後の帰郷を夢見てわずかでも故郷に近い束草に移動、しかし願いかなわず束草に留まった人々も含まれます。
休戦後、避難民たちの滞在に加え東海上における漁業の盛況などにより束草は着実に人口増を遂げ、1963年には襄陽(ヤンヤン)郡より独立して市制施行、現在に至ります。

 

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市内には国立公園にも指定されている雪岳山(ソラクサン、1,708m)をはじめとする自然景観に加え、咸鏡道からの失郷民たちが集まって形成された「アバイマウル」(アバイとは咸鏡方言で「お年寄り」、マウルは「村、集落」の意)などの観光スポットが点在し、そして東海の海の幸が味わえるとあって、南側の襄陽郡を挟んだ江陵(カンヌン)市とともに江原道北東部の2大観光都市としての地位を確立しています。
写真は、運河で隔てられた束草市街地とアバイマウルを結ぶ人力のイカダ「ケッペ」で、このケッペ自体もまた束草の観光資源のひとつとなっています。
そして私にとっては、今回が初めての束草訪問となります。

 

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2020年2月15日(土)、いつものようにセールでチケットを押さえたジンエアー「LJ202」便で成田空港第1ターミナルを発ち、2時間40分後に仁川国際空港第1ターミナルに到着。しかし、この「いつも」が当面これっきりになるとは……。
この日の時点ですでに、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う海外旅行者の減少の影響が如実に表われていました。成田空港はいつもの40分前後もの離陸渋滞もなく、出発時刻15分後に離陸。また仁川国際空港では、普段から長蛇の列が形成される入国審査ゲートに誰も先客がいないという。この日の時点で中国では自国民の海外旅行を全面禁止しており、主にその影響だと思われます。そのため、どの観光スポットを訪れてもほとんど観光客を見かけないという過去にない旅となりました。

 

束草行きのバスは仁川国際空港からも出ていますがたまたま接続が悪く、束草には午後8時とかなり遅い時間の到着となるため、今回はソウルを経由することに。まずは空港バス<6020>番に乗り、ソウルの高速ターミナルへ移動。そこから2~30分おきに発車する束草直行の高速バスに乗れば、早ければ午後6時台には束草に到着できる見込みです。


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ソウル高速ターミナル。1981年に落成したというこちらの建物、かなり特徴的な三角形をしています。

 

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ソウル高速ターミナルを15時40分に発つ高速バスに乗車。いざ、束草へ。

 

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韓国での中距離バスの旅で秘かに楽しみにしているのが、トイレ休憩のため途中で立ち寄る休憩所(ヒュゲソ:日本でいうサービスエリア)。今回は京畿道(キョンギド)加平(カピョン)郡の「加平休憩所」(写真)に停車。
その後しばらく走っていると、入口付近にやけに派手なイルミネーションのあるトンネルに入ります。こちらのトンネル、韓国の道路トンネルとしては最長の麟蹄襄陽(インジェ・ヤンヤン)トンネルで、全長はなんと10,965mもあるのだとか。私の乗った高速バスはこのトンネルをおよそ6分で駆け抜けて行きました。

 

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そうして約2時間50分後の午後6時半、束草高速バスターミナルに到着。ただし、今回の旅では帰りの便を考慮して同じ束草のバスターミナルでも遠く離れた束草市外バスターミナルの近くに宿を確保したため、ここから市内バスに乗って移動する必要があります。
韓国では高速バスと市外バスは明確に区分されており、たとえば高速バスとは「走行距離が100km以上でその60%以上が高速道路であり、かつ途中(起点や終点の行政区域内などを除く)で乗客の乗降をさせないもの」を指すとされています。
これまで本ブログで紹介してきた地方都市だと、たとえば慶尚南道統営市全羅南道(チョルラナムド) 順天(スンチョン)市木浦(モッポ)市などは高速バスと市外バスの両方が発着する単一の「総合」バスターミナルが設けられていますが、一方で束草市や同じ江原道の春川(チュンチョン)市のように両者のバスターミナルが別々になっているケースも多々あります。春川などは隣接しているからまだよいものの、束草の場合だと市内バス利用で最短約24分かかるほど両者が離れているという……。ちなみに、仁川国際空港発のバスに乗車した場合には束草市外バスターミナルに到着することになります。

 

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束草高速バスターミナルの時刻表。

 

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束草高速バスターミナルのコインロッカー。
韓国では地方のバスターミナルや鉄道駅などにコインロッカーが設置されていないことがままあり、コインロッカーの有無で旅程を左右されるケースも珍しくありません。私の後に韓国の地方旅をされる方のために、本ブログではこうした韓国の地方都市のバスターミナルや駅のコインロッカー情報を積極的に配信してまいります。

 

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今回の宿は「Airbnb」で探した民泊。韓国ではよく見られるオフィステル(キッチンやトイレ、バスなど基本的な生活設備を備えつつも事業所としての使用を前提として造られた部屋)を宿泊施設に転用したものです。しかもオンドル(床暖房)付き。こうした部屋は値段の割に広く、写真のように大きな冷蔵庫に加え洗濯機もあることから中長期滞在に適しているという特長があります(まあ私は2泊だけですが)

 

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民泊のある建物の1階にあったトイレ。「オジンオスンデ」など東海産のイカを用いた名物料理で知られる束草らしく、男女の表示にもまさかのイカさんが。
こうして宿に荷物を降ろし、いよいよ今回の旅最初の目的地である夕食のお店へ。

 

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束草の繁華街から離れた住宅街の片隅に、その店はひっそりと看板を掲げています。

 

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そのお店の名は「番地オンヌン酒幕」(번지없는 주막:ポンジオンヌン・ジュマク)。日本語だと「番地のない居酒屋」くらいの意味になるこちらのお店は、韓国で「テポチッ(대포집)」あるいは「テポッチッ(대폿집)」と呼ばれる往年の大衆酒場の雰囲気を残した飲食店です。「復興鉄物(プフン・チョルムル)」という金物屋さんの敷地の奥に店を構えているため、看板がないと一見してそれとは全く分かりません。

 

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一見入りづらいたたずまいですが、意を決して店内へ。
こちらのお店は年配の男性のご主人が一人で経営されているもので、後述するように自家製マッコリで名高いお店です。ただ、店内はお店というよりも会社の事務所を店舗にしたような様子で、壁面のメニュー表だけがここが飲食店であることを主張しているかのようです。写真1枚目の椅子はご主人の定位置。
来客用のテーブルは、応接用のようなガラステーブルひとつしかありません。しかも椅子も学校の生徒用みたいなもの。ですがこういう雰囲気が個人的にはたまらないのです。

 

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こちらのお店は鄭銀淑(チョン・ウンスク)さんの名著『マッコルリの旅』東洋経済新報社刊、2007年)でも紹介されており、私もまたそれがきっかけで知ったという次第です(お店はその後移転)。写真はこちらのお店にあった『マッコルリの旅』の該当ページ。そのためこちらのお店には日本人が断続的に訪れているそうで、私の6日前に来店したという日本人グループが残したメッセージカードを喜ばしげに見せてくださいました。

 

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こちらのお店の名物は、なんといってもご主人が自ら醸した自家製マッコリ。かつて醸造場に勤務したことがあり、その際に覚えたという手造りマッコリはやかんに注がれて出されます。

 

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手造りマッコリと基本アンジュ(おつまみ)。ご主人は足が不自由なため、盛り付けられたところを私自身でテーブルに運びます。
そしてマッコリをひと口。ああ。コクがあって猛烈にうんまい。長旅で疲れた体の芯から隅々まであっという間に行き渡ります。

 

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基本アンジュにあったパンチャン(おかず)の数々。どれもマッコリに合うやつばかり。うんまかったです。

 

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ご主人はとても親切な方で、足が不自由にもかかわらず料理をおいしいと伝えると、おかわりや新しいおかずを自ら出そうとされます。写真はその中のひとつ、サツマイモや黒豆などを炊き込んだご飯。うんまい。まさかご飯がマッコリのおつまみになる日が来るとは。
この味、そしてご主人の人柄こそが、こちらのお店が愛される理由に違いありません。

 

昨年の夏頃、韓国の方によるものと思しき同店の訪問動画がYouTubeにアップされました。ご主人のお元気そうなお姿に加え、なんとこの日私が残してきたメッセージカードが、直前に訪問した方のものとあわせて店内の壁に貼られていたという。目頭が熱くなるのを感じました。

 

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今回、あえて束草の旅のエントリーを投下したのは、つい先日にある韓国の方のブログで、「番地オンヌン酒幕」のご主人が今年の旧正月(2月)に亡くなったという記述を目にしたからです。その方は韓国国内の酒場を数多く訪問されている方で、こちらのお店は年1回以上訪問されており、互いに連絡先を交換している関係であったそうです。その方がご主人に電話したところ過去にない電源オフというアナウンスが流れ、不吉な予感がして隣接する金物屋さんに電話したところ、ご主人の訃告を知ったとのこと。
足が不自由であったことを除けば一見してお元気そうだったご主人。初めて訪れた私を歓待してくださり、一緒に写真に収まってくださったご主人。そして私が去った後も、メッセージカードを壁に掲示してくださったご主人。コロナ禍が明けたら必ず最初の旅で再訪しようと誓っていたお店。やるせない思いが胸を去来します。

ご主人。あの日の歓待、楽しいひとときは残る一生涯忘れないつもりです。本当にありがとうございました。いつか私がそちらへ行ったときには、どうかまたうんまい手造りマッコリを飲ませてください。

 

次回エントリーはまた統営の旅に戻りますが、このときの束草の旅の続きもいずれ必ず紹介します。気長にお待ちいただけますと幸いです。

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