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主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

群山の旅[201801_03] - 日本の収奪の痕跡を歩く②-韓国唯一の日本式木造寺院「東国寺」、そして「懺謝文」碑

前回のエントリーの続きです。
昨年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の2日目、2018年1月20日(土)です。

 

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群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)からバスでホテルへ戻りチェックアウト、今度はタクシーでKorail(韓国鉄道公社)群山駅へ。前日の約束通り、同駅にはないコインロッカーに代わって駅務室で私のキャリーバッグを預かっていただき、再びタクシーで市街地に戻ります。街歩きに先立ち、まずは腹ごしらえのためです。

ところで群山には、チャンポン(짬뽕)やチャジャン麺(짜장면)などを扱う中華料理店がいくつも存在しています。これらは1899年、当時の大韓帝国により群山港が開港場(国外との貿易港)に指定された前後から、貿易商や近代建築の技師などとして移住した数多くの中国人が飲食店を開いたのが始まりとされています。
そしてそれらの中には、毎日ランチタイムになると長蛇の列が形成されるずば抜けた人気店がいくつか存在します。有名どころとしては店舗が国家指定登録文化財(第723号)に指定されている蔵米洞(チャンミドン)の「浜海園(빈해원:ピネウォン)」、米原洞(ミウォンドン)の「福城楼(복성루:ポクソンヌー)」、そして同じく米原洞の「吉林省(지린성:チリンソン)」などが挙げられます。
今回は、それらの中から吉林省を選択。他に類を見ない人気料理「コチュチャジャン(고추짜장)」がその目的です。コチュ(唐辛子)の名の通り、かなりの辛さだと聞いていますが、果たして……

 

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群山駅から乗ったタクシーの運転手さんに行き先を告げると「もう並んでいるらしいよ」とのこと。確かにこの吉林省というお店、韓国語のブログでは浜海園や福城楼などと同様にものすごい列の写真が多くアップされています。列の具合によっては別の店にしようと思いつつも、まだ開店直後の午前10時台だったからか少し待っただけで入店できました(それでも待たされたわけですが)

 

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そしてやって来たコチュチャジャン。以前に仁川広域市中区のチャイナタウンで食べた「ユニチャジャン」と同様、麺とチャジャンソースがセパレートで出てきます。これらを適宜混ぜ混ぜして食べるのですが、チャジャンソースの中には肉やタマネギなどの具に加え、猛烈な辛さで知られる「青陽(チョンヤン)コチュ」らしき青唐辛子がごろごろ。にわかに緊張感が走ります。
勇気を出して、ぱくり。最初のひと口、とてもうんまいです。しかし、まもなく猛烈な辛さが口内を襲います。激辛なんてレベルじゃない、汗どころか涙まで吹き出てくる辛さ。ポットの水も気休めにしかなりません。私よりもずっと辛い料理に慣れているはずの隣の韓国人男性グループの1人も、あまりの辛さに半分以上残して立ち去ったほどです。これほどまでだと知っていれば普通のチャジャン麺を頼むべきでした。しかし辛さの中にも味自体はおいしいので箸は止めたくありません。というか負けたくありません。
そうしてなんとか青唐辛子以外は完食。汗拭き用のミニタオルはぐっしょりです。

 

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こちらのお店「吉林省」の営業時間は午前9時30分~午後5時、毎週火曜日定休。
メニューには今回食べたコチュチャジャンのほか、コチュチャンポン(고추짬뽕)という料理もあります。韓国のチャンポン自体が相当な辛さだと聞いている(実はまだ食べたことがない)のに、こちらもコチュチャジャン並みの辛さなのでしょうか。いずれにせよ我こそは激辛マニアだという方にのみおすすめしたい料理です。値段はコチュチャジャン・コチュチャンポンともに9,000ウォン(約900円:2019年1月現在。写真のメニュー表では8,000ウォンとなっていますがその後値上げされた模様)
正直、個人的にはコチュチャジャンはもう遠慮したいです。しかしチャジャン麺自体の味はおいしいので、次に訪問するならば普通のを注文したいと思います。

吉林省(지린성:全羅北道 群山市 米原路 87 (米原洞 78))

 

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吉林省を出て、口内が依然ひりひりする中を次の目的地へ歩いて向かいます。
まず訪れたのは、「屯栗洞聖堂(トゥニュルドン・ソンダン)」。
その名の通り屯栗洞に位置するこちらの教会は、群山初の天主教(カトリック)教会として1929年に設立された群山本堂がその母体です。その後光復(日本の敗戦による解放)を経て、朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)の休戦後には戦争孤児をはじめとする幼児たちの世話に注力します。そうして活動範囲を拡大する中、信者たちの寄進などにより1955年に竣工したのが、国家指定登録文化財第677号にもなっている写真1枚目の聖堂建物です。

 

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玄関の脇には、韓服を着た聖者の像が。
ちなみに韓国では、一般的には「聖堂(성당:ソンダン)」といえば天主教(カトリック)の施設を、また「教会(교회:キョフェ)」といえば改新教(プロテスタント)の施設を指します(あくまで一般的な呼び名であって正式な区分ではない)

群山屯栗洞聖堂(군산둔율동성당:全羅北道 群山市 トゥンベミキル 24 (屯栗洞 156-2)。国家指定登録文化財第677号)

  

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続いて訪問したのは、錦光洞(クムグァンドン)にある寺院「東国寺(トングクサ)」。

 

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この東国寺はかつて「錦江禅寺(クムガンソンサ)」あるいは「錦江寺(クムガンサ)」と呼ばれ、1909年に日本人の内田仏観(うちだ・ぶっかん、1832-1916)僧侶が曹洞宗の布教所として創建したものに端を発します。1913年には群山屈指の大地主であり信徒でもあった宮崎佳太郎(みやざき・けいたろう)から土地の寄進を受け、現在地へ移転。
この間の1910年には「日韓併合」が、またその翌年には大日本帝国の植民地統治機関である朝鮮総督府が制令第7号「寺刹令」を公布、施行しています。「寺刹令」とは、寺院の合併・移転・廃止や名称変更、財産の処分などを朝鮮総督による認可制、布教行為などを道長官(知事に相当)の認可制とすることなどを定めたものであり、続いて公布された実施規則とあわせて、住持(주지:チュジ。日本でいう住職)の人事権を含む韓国(朝鮮)寺院の自主権を奪い統制するためのものでした。錦江禅寺もまた例外ではなく、1916年に朝鮮総督府による寺院としての認可対象となっています。
光復後は米軍政の接収を経て韓国政府に移管された後、1955年に全羅北道宗務院(宗教事務を管掌する部署)が購入。その後1970年には当時の住持であった南谷(남곡:ナムゴク、1913-1983)スニム(스님:僧侶の敬称)により「海東大韓民国」(海東(ヘドン)とは「渤海の東」の意であり韓国の別称)を縮めた意味の東国寺と改名され、韓国最大の仏教宗門である曹渓宗(조계종:チョゲジョン)に寄贈。そして現在へと至ります。

 

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境内の中央に建つ写真の建物は、日本の寺院でいう本堂に相当する大雄殿(대웅전:テウンジョン)。国家指定登録文化財第64号でもあるこちらの建物は、1913年の移転に際し日本から搬入した資材によって建てられたもので、現役の寺院としては韓国唯一の日本式木造寺院建築です。ちなみに日本式の寺院建築といえば、以前にこちらのエントリーにて紹介した全羅南道(チョルラナムド)木浦(モッポ)市の「旧東本願寺木浦別院」もまたそうでしたが、木浦のものは木造ではなく石材を用いた点で大きく異なります。

 

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こちらの写真は東国寺ではなく、その属する曹渓宗の総本山、ソウル・鍾路(チョンノ)の曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿です。韓国の寺院建築といえば、こちらの曹渓寺のように外壁が丹青(단청:タンチョン。青・赤・自・黒・黄を中心とする極彩色の文様)で彩られた施設を想像する方も多いことでしょう。

 

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一方、東国寺の大雄殿は彩色のない外壁に加え、ミソギ門(미서기문:互いに重なる引き戸。日本語の「みそぎ」とはおそらく無関係)の出入口、75度もの急傾斜の瓦屋根に水平一直線の棟(一般に韓屋の屋根の棟は中央部が窪んだ曲線を描いている)、そして大雄殿と寮舎チェ(요사채:ヨサチェ。僧侶たちの居所。チェとは建物全体を指す「屋」「棟」の意。写真2枚目)が接続するなど、日本ではおなじみですが韓国では珍しい日本風の寺院建築様式が随所に見られます。

 

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東国寺の境内に建つ鐘閣(종각:チョンガク)。
こちらは1919年築で、やはり現存する韓国唯一の日本伝統様式による鐘楼だそうです。内部には京都で建造された梵鐘が吊り下げられており、その胴には天皇を称賛する詩句が刻まれているとのことです。
鐘閣の土台の周囲を取り囲むように配置された石仏群は三十二面観音菩薩像と十二支守本尊石仏像で、写真はありませんが鐘閣の前には子を抱いた意匠の子安観世音寺本尊仏像が建っています。

 

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鐘楼のそば、境内の片隅には大きな石碑が、またその前方には女性の立像が建てられていました。

 

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まず、石碑から。
基壇の上には2つの黒い石がはめ込まれており、よく見ると向かって右側のそれには日本語が、左側にはハングルの文章が見て取れます。
こちらの文章は「懺謝文」(さんじゃもん。韓国語の発音ではチャムサムン)といい、東国寺の前身の錦江禅寺も属していた日本の曹洞宗が、その最高責任者である宗務総長名義で1992年に公式発表したもので、石碑にはその日本語原文と韓国語訳文(ともに抜粋)がそれぞれ刻まれています。
そしてこの石碑は、青森県在住の曹洞宗の僧侶が代表を務める日本の支援団体により2012年9月に建立、東国寺に寄贈されたものです。僧侶は曹洞宗による朝鮮人強制徴用者の遺骨返還運動にも携わってきた方で、何度も渡韓を繰り返す中で東国寺との縁を結び、碑の寄贈へと至ったとのことです。

東国寺「懺謝文」碑の除幕式は関係者の臨席の下、2012年9月16日に挙行されました。
その直前の9月10日、碑の建立とその除幕式に曹洞宗の財務部長が出席するという報道が韓国の聯合ニュースの日本語版にて配信され【該当記事】、その直後から曹洞宗への抗議が殺到。ある報道では電話だけでも80件以上に達したとあります。
そして除幕式の前日、支援団体会長の僧侶宛てに「懺謝文」碑の撤去を要求する曹洞宗からの内容証明郵便が届きます。撤去要求は「懺謝文」の無断での抜粋、および翻訳による著作権侵害を理由とするものでした。しかし支援団体会長によると「懺謝文」碑の建立は、同年初に宗団内部機構の検討を経て、特別な結論なく経過した事項だったとのことです【参考記事】。そして結局、財務部長が除幕式に出席することはありませんでした。

 

碑の建立以前から曹洞宗ホームページにて公開されていた「懺謝文」は、前述した除幕式関連の報道直後から曹洞宗の判断により一時的に公開が休止されていましたが、現在はその顛末とあわせて再び公開されています。そのタイトルの通り、「日韓併合」による国家・民族の抹殺の先兵としての皇民化政策推進、また中国での宣撫工作をはじめ日本の戦争遂行とアジア侵略に宗門として加担したことなどを懺悔し謝罪する内容であり、その観点で大いに共感し支持することのできる優れた文章だと私は思います。

2012年秋の「懺謝文」碑を巡る対立以降、私が調べた限り曹洞宗側での大きな動きはないようてす。当初求めていた碑の撤去も、効力が及ばない国外のため事実上放置せざるを得ない、という結論で落ち着いているようです。
前述したように曹洞宗は「懺謝文」の発表以後、朝鮮人強制徴用者の遺骨返還運動などを通じて「懺謝文」に込めた精神を自ら体現してきました。一方で「懺謝文」碑の撤去要求はその精神に背くばかりか、韓国(人)への差別・憎悪扇動を期して過去の植民地支配や戦争犯罪の否認を推し進める勢力に迎合したことを意味します。

2015年末の当事者無視の日韓「合意」に象徴される「慰安婦」問題や昨年(2018年)秋の徴用工裁判などへの日本政府の態度、さらには著名人が公然とヘイトを口にし、しかもいかなる社会的制裁も受けないことが「お墨付き」となり、日本では「韓国(人)ならばどんなに侮辱的に扱ってもかまわない」という社会的合意が形成されつつあります。昨年末の「レーダー照射」問題では日本側が一貫して不誠実な態度に終始したにもかかわらず、大手メディアがこぞって韓国人の「異常性」を強調した報道に血道を上げている現状こそが、それを端的に示しているといえるでしょう。
このような社会において、「懺謝文」とその精神は残された数限りある良心のひとつであり、財産であります。決して遅すぎることはありません。曹洞宗が再びその精神に立ち返り、「懺謝文」碑に肯定的なアクションを起こすことを切に願っています。

 

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続いて、女性の像。
こちらは「平和少女の像(평화소녀의 상)」といい、日本軍性奴隷制度とその被害者である「慰安婦」たちを記憶するためのモニュメントとして、「懺謝文」碑と同じ日本の支援団体などの募金により2015年8月に建てられたものです。みなさまもよくご存じの、夫婦作家であるキム・ウンソンとキム・ソギョンの両氏による「平和の少女像」が椅子に腰掛けているのに対し、こちらは立像です。
訪問当日(2018年1月20日)はまさに真冬。この時期にしては温暖な日でしたが、それでも10℃は優に下回っていました。像には暖かそうなフードとショールが着せられ、足には靴下が添えられていました。

 

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こちらの写真に少しだけ写っていますが、像の正面には小さな池があります。これは韓国と日本とを隔てる海峡を象徴するものだそうです。

日本軍性奴隷制度とその被害者を記憶する像とは、前月(2017年12月)に木浦で出会って以来です。そのわずか1ヵ月あまりの間も、そしてこの日から1年を経過した今日に至るまでの間にも、日本における状況はひたすら悪化の一途をたどっています。
本エントリー公開直前の2019年1月28日、元「慰安婦」の一人である金福童(김복동:キム・ボクトン、1926-2019)ハルモニ(할머니:年配の女性の敬称)が逝去されました。ハルモニは日本人や韓国保守派による中傷にも屈せずに自身の戦時性暴力被害を証言されてきただけでなく、日本の差別政策により無償化対象から不当に除外されている朝鮮学校関係者への支援を含め、人権活動家としても幅広く活躍されていた方です。日本語Twitter上では心ある人々の追悼メッセージを嘲笑うかのように、故人を含む元「慰安婦」やその支援者を侮辱するツイートで覆い尽くされています。
さらに翌29日には、成田国際空港で韓国の航空会社の業務を受託する日本企業に対し、その職員が元「慰安婦」の方々を支援するファッションブランド「マリーモンド」製品を所持していたことを外部の者が通報、その企業があろうことか当事者を含む職員に同ブランドの所持禁止を命じた旨の報道がなされています【該当記事】。
こんな不正義が、日本という社会では公然とまかり通るのか。日本社会への、そして正義実現への助力が何ひとつできていない無力な自分自身への怒りと苛立ちが募るばかりです。

 

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東国寺の境内は解放されており、誰でも無料で立ち入ることができます。ここ錦光洞を含め群山旧市街に点在する近代文化遺産の数々(次回エントリー以降に紹介予定)とあわせて観光コースに組み入れられているため、訪問当日も多くの観光客が訪れていました。国家指定登録文化財である大雄殿に加え、その内部には宝物(日本の重要文化財に相当)第1718号の「群山東国寺塑造釈迦如来三尊像および腹蔵遺物(군산 동국사 소조석가여래삼존상 및 복장유물)」が安置されています(信徒以外の観覧の可否は不明です)

東国寺へのアクセスは、Korail「群山」駅からであれば徒歩約5分(約360m)の「アンジョンマウル(群山駅)(안정마을(군산역입구))」バス停から<71>番市内バスに乗車、約33分で到着する「明山サゴリ・東国寺(명산사거리.동국사)」バス停から徒歩約4分(約250m)タクシーであれば約13分、6,200ウォン(約620円)前後で到達できるようです。
また「群山高速バスターミナル」または「群山市外バスターミナル」(隣接しています)からであれば、徒歩約4分(約230m)の「パルマ広場・ターミナル(팔마광장.터미널)」バス停から<21><22><23><24><25><27><28><31><32><33><36><37><52><53><54><61><62><63><64><65><66><81>番市内バスのいずれかに乗車、<52><53><54>ならば約7分(その他は約12分)で到着する「明山サゴリ・東国寺(명산사거리.동국사)」バス停から徒歩約4分(約250m)。タクシーであれば約7分、3,000ウォン(約300円)前後で到達できるようです。
以上のいずれも2019年1月現在、所要時間と料金は交通条件によって異なります。

日本による収奪の現場である群山に建立された在留日本人のための日本式寺院建築、そしてその境内に建つ、植民地支配と侵略、戦争犯罪を記憶し継承するための2つのモニュメント。願わくば群山を訪れるすべての日本人が訪問し、戦後責任と向き合っていただきたい場所です。

東国寺(동국사:全羅北道 群山市 東国寺キル 16 (錦光洞 135-1)。大雄殿は国家指定登録文化財第64号)  [HP]

  

それでは、次回のエントリーへ続きます。

今年もありがとうございました。

こんばんは、ぽこぽこです。
今年(2018年)も残すところあとわずか。今年も拙ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。

今年は昨年よりも渡韓回数が減るかなと思っていたのですが、ふたを開けてみたら全9回と、同じ回数という結果となりました。
しかも今年は、単なる乗り換え等ではなく目的をもって訪問した市・道(日本の都道府県に相当)の数が17。つまり韓国のすべての市・道を訪問する機会を得られました。
そんなわけで、今年訪れた市郡は以下の通りです。

これらのうち現時点でエントリーを投下できたのは、10月の順天(スンチョン)の旅のプレビューを除けば1月の群山(クンサン)の旅のみ、それもまだ途中だという。今年の秋にいろいろあって更新が滞ってしまい、気づいたらとうとう11ヵ月遅れ(一時は1年遅れ)となってしまいました。とはいえどの旅も私にとっては思い出深くかつ有意義なものであり、その訪問地については多くの方に紹介したいと強く願っておりますので、いずれ必ずや紹介してまいります。 

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2018年6月16日、済州特別自治道西帰浦市城山邑「済州4.3城山邑犠牲者慰霊碑」にて撮影。遠くに見えるのは「城山日出峰」。

 

拙ブログにて今年公開したエントリーは今回を含め全31、うち今回のような「ごあいさつ」を除けば29エントリー。昨年は「ごあいさつ」以外でも37エントリーでしたのでペースが若干下がっていますね。前述したように今年の秋に更新が滞ってしまったことが主要因ですが、来年はもっと頻度を上げ、できる限りタイムラグを縮めることを目標といたします。

今年公開したエントリーについてはいずれも強い思い入れがあり、できればどれもお読みいただきたいものですが、その中でどうしてもひとつだけを選べと言われたならば、下記のエントリーを挙げたいと思います。
ここ数日の報道に接し、下記エントリーの終盤にて述べたことの緊急性を改めて痛感するとともに、抗うことの誓いを新たにするばかりです。

 

来たる2019年は現時点でまだ3月の釜山の旅しか確定してはおりませんが、これまで同様にできる限り韓国に足を運び、全国各地の文化財や展示施設、そしてうんまい料理を紹介してまいりたいと思います。現時点では未定ですが、5月には必ずや光州(クァンジュ)を再訪し、強く関心のある5.18民主化運動関連の展示や行事を拙ブログやTwitterにて紹介するつもりです。
これからも拙ブログでは、強く共感するある方の言葉を借りると「モヤモヤしない」韓国の旅をお伝えしたいと存じております。そして私のつたない旅レポや写真を通じて、韓国の歴史や文化に関心を持っていただき、ひいては韓旅の参考としていただけるようであれば、これ以上の喜びはありません。

それでは、よいお年を。
みなさまにとって2019年がとって輝かしい1年となりますように。 

 

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2018年12月1日、慶尚南道統営市、欲知島「近代漁村発祥地座富浪ケ」にて撮影。

群山の旅[201801_02] - 日本の収奪の痕跡を歩く①-群山線臨陂駅と沃溝農民抗日抗争、そして嶋谷金庫

前回のエントリーの続きです。 

本年(2018年)1月の全羅北道(チョルラブット)群山(クンサン)市を巡る旅の2日目、20181月20日(土)です。

 

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午前7時、夜明け前の寒い中をバスに乗り込みます。

 

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まずやって来たのは、同じ群山市内とはいえ市街地から遠く離れた臨陂面(イムピミョン。面は日本の「●●郡●●村」に相当)にあるKorail韓国鉄道公社)長項線の休止駅、臨陂(イムピ)駅。1936年頃に建てられた木造駅舎(写真)を見学するためです。
臨陂駅は日帝強占期の1924年開業。当時の臨陂面は群山市ではなく、その前身のひとつである沃溝(オック)郡に属していました。写真の駅舎は2代目で、現存する駅舎では隣の益山(イクサン)市内にある全羅線(チョルラソン)の旧春浦(チュンポ)駅舎の次に古いものとされています。当時の農村地域における小型駅舎の典型的様式をほぼ原型のまま留める物件だとして、国家指定登録文化財第208号にも指定されています。

 

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総延長約154kmの長項線のうち、臨陂駅を含む益山(イクサン)駅~群山駅の約20kmの区間は、かつて群山線(クンサンソン)と呼ばれていました。
群山線は1912年、当時は群山港近くにあった旧群山駅と、湖南線(ホナムソン)に接続する裡里(イリ)駅(現・益山駅)とを結ぶ湖南線の支線として開業。全長約23.1kmのこの路線は、朝鮮最大の穀倉地帯であった湖南平野一帯で収穫した米を群山港を介して日本へ搬出するために建設されたものであり、まさしく収奪の手段たるインフラでした。
開業当初は配置簡易駅(駅長がおらず、隣接する駅の管理下にある駅)であった同駅は、利用者増により1936年には普通駅(駅長がいる駅)に昇格、これと前後して現存する2代目駅舎が建てられています。しかしその後は徐々に利用客が減少し、1995年には再び配置簡易駅に格下げされ、2005年には貨物取扱が中止、そして2006年には無配置簡易駅無人駅)に格下げ。そうした中で2008年には群山市が北側で面する大河、錦江(クムガン)を渡る橋梁の完成により長項線と連結、群山線は同線に編入されます。このとき舒川(ソチョン)~益山間に新設されたセマウル号が停車するようになったため、臨陂駅はKorail史上初のセマウル号が停車する無人駅として注目を浴びたといいます。しかしこの列車はわずか4ヵ月で廃止され、同時に臨陂駅の旅客取扱も停止。その後今日に至るまで実質的な廃駅となっています。

 

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まだ午前7時台ということもあり駅舎の玄関は閉じられていましたが、日中は開放されているそうです。写真は窓ガラス越しに撮った駅舎内。

 

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駅舎の内外には、ブロンズ色をした等身大の再現人形がいくつも立てられています。これらは群山出身の小説家、蔡萬植(채만식:チェ・マンシク、1902-1950)氏の短編小説『レディメイド人生(레디메이드 인생)』などの作品世界を題材にしたものです。
蔡萬植氏は1902年、現在の群山市臨陂面生まれ。日本の早稲田大学付属第一早稲田高等学院に在学したこともありますが、関東大震災の影響により学業半ばで朝鮮への帰郷を余儀なくされ、まもなく退学抜いとなっています。
その後は短期間の新聞記者生活を経て小説家デビュー。当初の社会告発的な作風からまもなく風刺的な作風に転向、前述した『レディメイド人生』などで風刺作家としての地位を確固たるものとします。
蔡萬植氏は1940年代以降、その著作などで日本の戦争進行に積極加担したため「親日反民族行為者」と認定されています。1948年には自身のそうした過去と向き合い、それらを告白した自伝的短編小説『民族の罪人(민족의 죄인)』を発表。本作により蔡萬植氏は韓国で初めて親日行為を自ら認めた作家とされ、その点については評価する向きもあるとのことです。
生涯で200本もの作品を執筆した蔡萬植氏は1950年6月11日、肺結核により死去。朝鮮戦争(韓国戦争、6.25戦争)勃発のわずか2週間前でした。

 

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国家指定登録文化財の指定対象は臨陂駅舎本体のほか、その向かって右側にある別棟のトイレ(写真)も含まれます。韓国でも珍しい登録文化財のトイレ。トイレ建物そのものが文化財に指定されている事例では、全羅南道(チョルラナムド)順天(スンチョン)市の仙岩寺(ソナムサ)にある「順天仙岩寺厠間」(全羅南道文化財資料第214号)などがありますが、こうした近代的なトイレ、それも独立した建物が文化財に指定されているものはあまり類例がないようです。
現在は使用が禁止されており、ここで用を足さないようにとの注意書きが内部のいたるところに貼られています(しかし臭いは現役のトイレのそれでしたが……)

 

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トイレの前にあった「午砲台(オポデ)」。本来はその名の通り、正午を知らせるための空砲である「午砲」を撃つ施設をいいますが、ここでは空砲ではなくスピーカーからサイレンを流していたようです。

 

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臨陂駅は休止駅ですが、構内を走る長項線の線路は現役であり、たまに列車が通過します。
なお現在、同駅を含む長項線の大野(テヤ)~益山間は複線電化工事が進められており、遠くにはそれらしき高架線も見えました。完成時には臨陂駅舎も移設されるとのことです。

前述したように臨陂駅は休止駅であり、どの列車も停車しないため、アクセスは必然的に市内バスのみとなります。
Korail「群山」駅からは直通のバスがないので、まず長項線下り(益山方面)のムグンファ号に乗車し隣の「大野(テヤ)」駅で下車(約9分:約260円)、徒歩約6分(約370m)の「大野ターミナルサゴリ(대야터미널사거리)」バス停から<21><22><23>番市内バスのいずれかに乗車、約12分で到着する「臨陂駅(임피역)」バス停から徒歩約2分(約150m)。ただし大野駅に停車するムグンファ号は下りが1日5本、上りは1日4本しかありません。なおタクシーであれば群山駅から約19分、13,200ウォン(約1,320円)前後で到達できるようです(交通条件によって異なる)。
群山高速バスターミナル」または隣接する「群山市外バスターミナル」からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<21><22><23>番市内バスのいずれかに乗車、約36分で到着する「臨陂駅(임피역)」バス停から徒歩約2分(約150m)
以上のいずれも2018年12月時点の情報です。

群山旧臨陂駅(군산 구 임피역:全羅北道 群山市 臨陂面 書院石谷路 37 (戌山里 226-1)。国家指定登録文化財第208号)

 

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臨陂駅前には「時失里」(시실리:シシリ。「時間を失った里」の意)と名付けられた広場があり、ここにも蔡萬植氏の作品世界を再現した人形が随所に設置されています。その名前の通り、まるで時間が止まってしまったかのように物語の中の日常を切り取られ、広場のあちこちで静止する人形たち。異空間に放り込まれたような感覚です。
とはいえ季節は真冬。全身に霜が降りてしまった人形さんたち、ちょっと寒そう。

 

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駅前広場には、かつてのセマウル号の客車が。
「汽車展示館」と名付けられた2両の客車内には、案内板によると「群山線と日帝の収奪」「小説『濁流』・『セキルロ』」(いずれも蔡萬植氏の作品。セキルロとは「3つの道へ」の意)などの展示スペースが設けられているとのこと。ただし早朝でしたので入ることはできませんでした。

 

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そんな駅前広場の一角に、「沃溝農民抗日抗争」と記された写真の石碑がありました。
「沃溝二葉社農場小作争議」とも呼ばれるこの抗争は、1927年11月に群山市(当時は沃溝郡)臨陂面一帯にて発生した、日本人大地主に対する朝鮮人小作農たちの抗争をいいます。
当時この一帯の農地は、日本人大地主が経営する「二葉社農場」が所有し、朝鮮人小作農たちは多額の小作料の納付を強いられていました。これは群山(沃溝)のみならず、当時は朝鮮全土で同じような図式が展開されていました。
大日本帝国の植民地統治機関である朝鮮総督府は朝鮮全土の農産物を効率的に収奪するため、「土地調査事業」と称して朝鮮人の土地を安値で買い叩き、あるいは文字通り奪い取って、それら土地を日本人入植者に払い下げます。そして大地主となった日本人たちは、元々それらの土地で耕作していた朝鮮人から多額の小作料を得て富を蓄積し、経済力と権力をますます強めてゆきました。二葉社農場もまた、そうした日本人大地主により当時の朝鮮に点在していた典型的な植民地型農業経営会社のひとつです。

 

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沃溝農民抗日抗争の発端は、その3ヵ月前の1927年8月9日にさかのぼります。
この日、瑞穂(ソス。近隣の地名)青年会による農民啓発目的の講演会の内容が不穏だという理由で講師3人が警察に連行され、これに怒った農民数百名が駐在所を取り囲み、3人の釈放を要求して万歳運動を繰り広げる事件が発生しています。
地域農民たちの不満が日々高まる中、二葉社農場は同年11月、朝鮮人小作農たちに対し収穫の75%という法外な小作料引き上げを通告します。当時の小作料は全国平均で48%、群山を含む全羅北道地域では42%~46%でした【参考記事】。これらの数字でさえもあまりに過酷であるというのに、75%という数字がいかに人の道に反するものであったかが理解できるかと思います。

 

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小作農たちの組織であった瑞穂農民組合はこれに激しく反発、小作料を45%に引き下げるべく二葉社農場との交渉を模索しますが、農場側はこれを黙殺したため、ついに小作料の不納による小作争議に突入します。
そして11月25日、組合幹部の張台成(장태성:チャン・テソン、1909-1987)氏が交渉委員として二葉社農場へ出向いたところ、農場側の通報により駆けつけた群山警察署員により脅迫の疑いで拘束される事件が発生。これに激怒した組合員500名あまりがその日の夜に臨陂駅駐在所を襲撃し、拘留中の張台成氏を救出します。
群山警察署は消防署や近隣の警察署に応援を要請してこれを鎮圧。最終的に組合員80名以上が逮捕され、懲役6ヵ月の張台成氏を含む34名が実刑判決を受け収監されています。
この一連の抗日抗争を記憶し、抗争をした小作農たちを称えるために建てられたのが、こちらの石碑です。

 

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臨陂駅前からは再びバスに乗り、今度は群山市開井面(ケジョンミョン)の「鉢山(パルサン)」というバス停で下車。そこから7分ほど歩くと、鉢山初等学校(日本の小学校に相当。写真)の正門前に到着します。

 

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鉢山初等学校の正門前にあった、次の目的地を示す案内板(上段)。300mとあります。

 

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正門前を右折し、学校の敷地を回り込むようにして校舎の裏手へ進むと、そこには日本の蔵のような形をした写真の建物があります。
1920年頃築のこちらの建物は「群山鉢山里旧日本人農場倉庫」といい、かつて当地に入植していた日本人農場主、嶋谷八十八(しまたに・やそや)が金庫として用いるために建てたことから「嶋谷金庫」とも呼ばれているものです。
日本で酒造業などにより財を成した嶋谷は朝鮮へ渡り、群山に入植。1909年には486町歩(約145万坪)もの農場を所有する大地主となります。
一方で朝鮮の文化財に強い関心を抱いていた嶋谷は、莫大な財産を元手に書画や陶磁器など朝鮮の古美術品を収集していました。現金や重要書類に加え、そうしたコレクションを保管するのに並の金庫では到底間に合わないため、代わりに建てたものがこちらの建物です。

 

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当時では珍しい鉄筋コンクリート製で、出入口には米国から取り寄せた鍵付きの分厚い鉄の扉を設置。窓にも鉄格子がはめられています。加えて当時は建物の周囲に鉄柵と鉄門があったそうです。これほどまでに頑丈な造りのため、朝鮮戦争当時には群山に駐留した人民軍が地域の右翼人士を監禁するために用いたといいます。

 

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建物は開放されており、私が訪問した午前8時台の時点では自由に入ることができました。
出入口は2階と通じています。この階では農場の重要書類や現金などを保管していたそうです。

 

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急角度の木製階段を登った先にある3階。古美術品コレクションはこの階で保管されていたとのことです。

 

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f:id:gashin_shoutan:20180930190842j:plain2階の床には大きな穴が空いており、ここからさらに急角度の木製階段を下ると半地下室の1階です。薄暗くかつコンクリートむき出しの殺風景なこの階では、布地や食料品などを保管していたといいます。

 

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嶋谷金庫から歩いて1分ほど、鉢山初等学校の校舎のちょうど裏側には、いくつもの石塔や石像が立つ空間があります。

 

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これらもまた嶋谷八十八が収集したコレクションであり、言うまでもなく本来は別の場所にあったものです。

 

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これら石塔の中には、文化財的価値が極めて高いものも存在します。写真は順に「群山鉢山里五層石塔」(군산 발산리 오층석탑:宝物第276号)「群山鉢山里石灯」(군산 발산리 석등:宝物第234号)「鉢山里六角浮屠」(발산리육각부도:全羅北道文化財資料第185号)。中でも宝物は文化財の序列でいうと国宝の次、日本でいえば「重要文化財」に相当します。

嶋谷八十八は土地に対する執着が強かったといい、光復(日本の敗戦による解放)後に他の日本人が去った後も自分の農場を守るために帰国を拒否、ついには米軍政庁に帰化を申請するほどでしたが、結局は米軍政庁による強制的措置によりカバン2つだけを提げて帰国したといいます【参考記事】。
収奪を通じて得た富による我欲のための文化財収集、さらには本来あるべき場所からの移動をも厭わなかった嶋谷ですが、それでも朝鮮の文化財を日本に持ち出さなかった点だけでいえば、まだ良心的であったと言えるのかもしれません。
現在の大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の領域からは、古くは高麗・朝鮮時代の倭寇により、また近年では植民地支配下の収奪の一環で無数の文化財が日本に持ち出され、その総数は数万点にのぼると推計されています。中でも日帝強占期におけるそれらは、日本人たちが朝鮮での人的・物的収奪を通じて得た資金を元手に安く買い叩き、あるいは不法に取得したものであり、まさしく二重の収奪の産物というべきものです。

 

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群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)、および嶋谷が収集した石塔・石像群は開放されており、誰でも24時間(たぶん)無料で立ち入ることができます。
Korail「群山」駅からは直通のバスがなく、また前述した長項線「大野」駅経由だと逆戻りになるので、割り切ってタクシーを利用することをおすすめします(バス乗り継ぎは不確定要素が大きいですよね……)。行き先は「鉢山初等学校(パルサン・チョドゥンハッキョ)」を指定するとよいでしょう。約9分、6,800ウォン(約680円)前後で到達できるようです(交通条件によって異なる)
「群山高速バスターミナル」または隣接する「群山市外バスターミナル」からであれば、「市外バスターミナル(시외버스터미널)」バス停から<21><22><23><24><25><27><28><31><32><33><36><37>番市内バスのいずれかに乗車、約20分で到着する「鉢山(발산)」バス停から徒歩約10分(約640m)
以上のいずれも2018年12月時点の情報です。

群山鉢山里旧日本人農場倉庫(嶋谷金庫)(군산 발산리 구 일본인 농장 창고 (시마타니금고):全羅北道 群山市 開井面 パルメキル 43 (鉢山里 45-1)。国家指定登録文化財第182号)

 

鉢山バス停からは三たび市内バスに乗り、今度は群山中心部へ戻ります。
続きは次回のエントリーにて。

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