Twitter https://twitter.com/gashin_shoutan の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

木浦の旅[201712_01] - 木浦駅前の超うんまいピョヘジャンクッ、徒歩約1時間半の近代建築巡り

今回からは、昨年(2017年)12月1日(金)から同月4日(月)にかけての全羅南道(チョルラナムド)などの旅をお届けします。

 

f:id:gashin_shoutan:20180731195503j:plain
今回の往路はいつも以上に所要時間がかかるため、久々に深夜2時発のピーチの羽田-仁川便を利用(写真がピンぼけですみません……)。
経由地である全羅南道の木浦(モッポ)までは湖南線(ホナムソン)KTXを利用するため、空港鉄道の始発でソウル駅へ移動します。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230319j:plain
ソウル駅に到着。本来ならばそのまま列車を待つところですが、少し時間に余裕があったうえ、予約した列車がたまたま「幸信(ヘンシン)」駅始発であったため、Korail京義・中央線(キョンウィ・チュンアンソン)で同駅まで移動することにしました。
それにしても12月初旬の早朝のソウル、予想していたとはいえかなり寒いです。コーヒー飲みたい。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230327j:plain
ソウル駅、京義中央線ホーム。この路線はもともと京義線と中央線とに分かれていたものを2014年に地下線で連結し、現在は直通運転がなされていますが、京義線の本来の起点はここソウル駅であり、地下線開業後も細々と運行が続けられていました。
写真のホームはちょうどこの3日前(2017年11月28日)、KTX京江線キョンガンソン)乗り入れ工事に伴い、駅西側にあったものを東側の旧駅舎脇に移設したばかり。みなさまもよくご存じの日帝強占期に建てられた旧駅舎が、2004年のKTX開業に際しその役割を新駅舎にバトンタッチして以来、13年ぶりに駅舎として復活したわけです。
もっとも地下線の龍山(ヨンサン)駅だと日中の閑散時間帯でも1時間に4本は電車が走る地下線に対し、こちらはラッシュ時以外だと1時間に1本しかないという……。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230357j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230403j:plain
幸信駅に到着。何の変哲もない通勤駅です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230416j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230418j:plain
しかし、構内には屋根付きの長い通路が伸びています。
実はこの幸信駅、KTX車両基地と隣接しており、住民への見返りのために同駅発着の列車が回送がてら設定されているというわけです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230429j:plain
今回乗車するのは写真のKTX-山川(サンチョン)。当然ながら利用客も少なく、ほぼガラガラの状態で幸信駅を出発します。まあ次のソウル駅では乗客がどっと乗ってくるわけですが。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230449j:plain
幸信駅を発ったKTXは次のソウル駅までの間、並走する京義中央線の各停に追い抜かれるほどゆっくり走ります。その途中の新村(シンチョン)駅付近、車窓左手に現れるのが写真の延世(ヨンセ)大学校正門。1987年6月9日、同大生の李韓烈(이한열:イ・ハニョル/イ・ハンニョル、1966-1987)烈士が頭部に催涙弾の直撃を受けたまさにその現場です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180731200734j:plain
忠清南道(チュンチョンナムド)清州(チョンジュ)市、「五松(オソン)」駅の少し手前にある「韓国鉄道公社五松高速鉄道施設事務所」には、待機中の高速試験車両「HEMU-430X」が。こちらは動力集中方式(プッシュプル方式)のKTXとは異なり、動力分散方式の電車です。
KTX-山川をも凌ぐ精悍な流線型の先頭車、上下2段の窓配置が特徴的な「スナックカー」も遠目ではありますが写真に収めることができました(写真は拡大したもの)。

 

f:id:gashin_shoutan:20180731195523j:plain
幸信駅を出て2時間半ほどで光州(クァンジュ)広域市の「光州松汀(ソンジョン)」駅に到着。向こうのホームには光州駅へ行くムグンファ号シャトル列車が。
この駅で下車せずに通り過ぎるのは今回が初めて。新鮮な気分です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230518j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230540j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230554j:plain
幸信駅から2時間59分、ソウル駅からだと2時間36分で終点の木浦駅に到着。木浦へやって来たのは初めてです。日が昇ったからでしょうが、ソウルよりはずいぶん暖かかったです(でも東京よりは寒かったですが)。行き止まりの線路に面したホームの先には「湖南線終着駅」の石碑が。

KTX専用線は光州松汀駅までですので、そこから木浦駅まではこの年の5月に訪問した羅州(ナジュ)駅経由の在来線を通ってきました。
光州松汀駅から羅州駅の少し先までこの在来線と並行した後、現在は鉄道のない務安(ムアン)国際空港へ寄るため大きく迂回して木浦へと至るKTX専用線の建設が決定しており、まもなく着工予定です。現状よりも遠回りになるとはいえ最高時速300kmで走れるようになりますので、完成後にはもう少し時間短縮されるようです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231702j:plain
木浦駅にはちゃんとコインロッカーもあります。
韓国の地方を旅するにあたって私が最初にする作業は、その訪問予定地の駅やバスターミナルなどにコインロッカーがあるかどうかの確認です。木浦くらい大きな街だとさすがにありますが、以前の全羅南道高興(コフン)郡の旅がそうであったように郡部だとコインロッカーがないことが普通です。今後も本ブログでは新たな地方を訪問する度に、その街のコインロッカーの情報を伝えてまいります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230605j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230626j:plain
駅前広場には、見慣れた石碑が建っていました。
光州広域市内における「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡であることを示す、あの「光」の字を象った碑石と全く同じデザインのそれには、よく見ると「5.18民衆抗争 木浦史跡地1号」とあります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230619j:plain
5.18民主化運動が発生した1980年5月18日以降、光州広域市(当時は全羅南道光州市)近隣の市郡では光州市民の抗争に呼応したデモが展開されました。それらの中でも特に激しかったのが、当時は光州に次ぐ全羅南道第2の都市だった木浦です。抗争4日目、錦南路(クムナムノ)での集団発砲があった5月21日には光州の市民軍が木浦に到着、光州での惨状を木浦市民に伝えたことにより、全羅南道の他市郡では最大規模となるデモが同月28日未明まで進行されました。期間中は数万人もの木浦市民がここ木浦駅広場に集結、何度かの決起大会やフェップル(トーチ)デモが開催されています。
この「木浦駅広場」をはじめ、木浦市内には5.18民主化運動の史跡が点在しています。いずれ必ず巡ることを決意します。

木浦駅広場(목포역광장:全羅南道 木浦市 連山路 98 (湖南洞 1-1)。5.18民衆抗争木浦史跡地1号)

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230638j:plain
そういえばこの日はまだちゃんとした食事をとっていませんでした。まずは腹ごしらえから。やってきたのは事前にチェックしていた、木浦駅前の「海南(へナム)へジャンクッ」。

「へジャンクッ(해장국)」とは、二日酔いを和らげるため(これを韓国語で「解酲(ヘジャン)」という)、お酒を飲んだ直後またはその翌朝に食べるスープ料理一般をいいます。ご存じの方、あるいは実際にお世話になった方も多いことでしょう。
その具や味については、たぶん韓国で一番有名なヘジャンクッであるソウル・鍾路(チョンノ)の名店「清進屋(チョンジノク)」のそれのような、ソンジ(선지:牛の血を固めたもの)がたくさん入ったものを想像する方が多いかと思います。しかし実は前述したように「二日酔いを和らげるためのスープ」以上の定義はない一般名詞であるため、一口にヘジャンクッと言っても材料やスープの味は地域によって、さらにはお店によってまちまちです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230717j:plain
こちらのお店の名物「テジピョヘジャンクッ」(돼지뼈해장국:テジは「豚」、ピョは「骨」の意)は、またの名を「ピョダギへジャンクッ」(뼈다귀해장국:ピョダギとは「個々の骨」の意)ともいい、カンジャン(醤油)あるいはテンジャン(味噌)ベースのスープに豚の背肉が背骨ごと入っている豪快な料理です。ちなみにこのピョダギへジャンクッにカムジャ(ジャガイモ)を投入したものが、日本でもお好きな方が多い「カムジャタン」です。もっともカムジャタンの名の語源にはスープに入っていた「カムジャピョ」と呼ばれる部位の骨に由来するいう説があり、その通りならばカムジャの有無にかかわらずカムジャタンと読んでもかまわないのかもしれません(語源の由来は諸説あります)。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230702j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230711j:plain
そしてやって来たテジピョヘジャンクッ。背骨のみならず大腿骨(たぶん)まで入っており、予想以上に豪快な盛り付けです。
ひと口。ああ、カンジャンベースのスープがうんまい。これは大好きな味。
柔らかく煮込まれた肉や腱を骨からこそぎ落としつつ食べ進めます。そのままかぶりついてもよいですが、スープに溶かしご飯を混ぜて食べると、これがもう猛烈にうんまい。ご飯との相性がこれほどまでに絶妙なスープはそうそうありません。あっという間に完食。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230651j:plain
こちらのお店「海南へジャンクッ」の営業時間は午前4時~午前0時、第1・第3日曜日休業。前述したようにKorail「木浦」駅のそば、まさに駅前にあり、徒歩約5分(約310m)で到達できます。
今回は12,000ウォンの「大」を頼んだつもりでしたが、伝票は普通サイズの9,000ウォンとなっていました。このボリュームで普通なのですから、大だと一体どれだけのものが出てくるのでしょう。こちらのお店は再訪するつもりなのでいまから楽しみです。

海南ヘジャンクッ(해남해장국:全羅南道 木浦市 三鶴路18番キル 2-2 (常楽洞1街 2-5))

 

木浦市の人口は約24万人。朝鮮半島の西南端、この一帯の中心都市である港町であり、近隣の多島海の島々とを結ぶフェリーの一大拠点となっています。
木浦の歴史は三国時代にまでさかのぼりますが、朝鮮時代末期の1897年の開港により急発展を遂げ、「日韓併合」直後の1910年10月には木浦府(市に相当)に改称。1932年には務安郡の一部を合併して人口約6万人となり、当時の朝鮮でも上位6位以内に入る都市であったそうです。こうした背景からここ木浦には、同じく朝鮮時代末期に開港された仁川港、また日本が収奪した米などを積みだした全羅北道(チョルラブット)の群山(クンサン)港などと同様に日本人あるいは朝鮮人資本の近代建築が市内中心部の随所に建てられ、かつ今日まで保存されています。
今回この木浦へ来たのは、ここからある島へ行く船に搭乗するため。したがって駅から少し離れた木浦沿岸旅客船ターミナルヘ移動しなければなりません。旅客船ターミナルへはタクシーで行けばすぐの距離ですが、この日は幸いにして出航まで少し余裕があったため、これら近代建築を巡りつつ旅客船ターミナルまで歩くことにしました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230734j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230740j:plain
「旧湖南銀行木浦支店」。
1929年築。レンガの表面を赤い色のタイルで仕上げたこちらの建物は、実業家の玄俊縞(현준호:ヒョン・ジュンホ、1889-1950)氏が1920年に創業した湖南銀行の支店として建設されました。日帝強占期当時、朝鮮にあった銀行はほとんどが日本人資本である中、湖南銀行は朝鮮人資本の銀行として貴重な存在でしたが、1942年には朝鮮総督府の強要により東一(トンイル)銀行による吸収合併を受けています。近代金融建築としては木浦で唯一現存するものだそうです。国家指定登録文化財第29号。

旧湖南銀行木浦支店(木浦文化院)(구 호남은행 목포지점(목포문화원):全羅南道 木浦市 海岸路249番キル 34 (常楽洞1街 10-2)。国家指定登録文化財第29号)

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230749j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230804j:plain
「旧木浦和信百貨店」。
1935年築。優美な曲線とアーチ型の窓が印象的なモダニズム建築のこちらの建物は、かつてソウル・鍾路に本店を構えていた「和信(ファシン)百貨店」の支店で、現在は「キム・ヨンジャアートホール」という看板が掲げられています。「旧朝鮮運輸木浦支店」として紹介されている事例も多く見られますが、今回訪れた近代建築の中では唯一文化財に指定されておらず、そのためか詳しい情報がほとんど見つかりませんでした。

旧木浦和信百貨店(旧朝鮮運輸木浦支店/キム・ヨンジャアートホール)(구 목포 화신백화점(구 조선운유목포지점 / 김영자 아트홀):全羅南道 木浦市 繁華路 75 (常楽洞1街 11-8))

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230816j:plain
旧木浦和信百貨店(右端)の横から旧湖南銀行木浦支店の側を眺めた景色。この一帯はいまでこそ閑散としていますが、日帝強占期当時は「本町」と呼ばれ、前述のように百貨店も立地する一大繁華街だったそうです。2つの近代建築に挟まれて、日本家屋とみられる建物が残っています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230830j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730230847j:plain
「旧東本願寺木浦別院」。
1930年代築。日本式の木造の仏堂をコンクリートで再現した建物で、木浦では初の日本式寺院だとのことです。光復後の1957年から最近まで木浦中央教会として使用されていたそうで、仏閣の姿をした教会という韓国でも異色の施設だったようです。現在は「オゴリ文化センター」として使用されています。国家指定登録文化財第340号。

旧東本願寺木浦別院(オゴリ文化センター)(구 동본원사 목포별원 (오거리문화센터):全羅南道 木浦市 連山路75番キル 5 (務安洞 2-4)。国家指定登録文化財第340号)

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230914j:plain
東本願寺木浦別院の近くには、木浦を代表するパン屋さん「コロムバン製菓」の本店があります。韓国5大ベーカリーに数えられることもあるというこちらのお店、立ち寄らないわけにはいきません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730230928j:plain
今回購入したのは、名物の「セウバゲット(새우바게트)」。セウとは「エビ」の意。写真では分かりづらいですが、パン生地にエビが練り込まれています。黄色いのはマスタードソース。1個4,500ウォン(約470円:当時)とパンにしてはなかなかの値段ですが、生地と酸味のあるマスタードソースが絶妙にマッチしてうんまかったです。

こちらのお店「コロムバン製菓」の営業時間は午前8時~午後10時、毎月第2火曜日休業。紹介したセウバゲット以外にも「クリームチーズバゲット(크림치즈바게트)」などが名物として知られています。次回の木浦訪問の際にもまた立ち寄りたいお店です。

コロムバン製菓(코롬방제과:全羅南道 木浦市 栄山路75番キル 7 (務安洞 1-3))

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231021j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231033j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231044j:plain
「旧木浦日本領事館」。
1900年築。儒達山(ユダルサン)の麓に建つレンガ造り、ルネサンス様式のこちらの建物は、1907年まで在木浦日本領事館として使用され、「日韓併合」後の1914年からは木浦市の前身である木浦府の庁舎として使用されました。その後は木浦市庁舎、木浦市立図書館、木浦文化院を経て2014年からは「木浦近代歴史館」の1館として使用されており、領事館当時の大理石の暖炉などが現在も公開されているようです。史跡第289号。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231057j:plain
木浦近代歴史館には、1897年の木浦開港以降、日本の植民地支配と収奪に関する貴重な資料が数多く展示されていると聞きます。今回は時間の都合で入館しませんでしたが、次回はぜひ訪問したいと思います。

旧木浦日本領事館(木浦近代歴史館1館)(구 목포 일본영사관(목포근대역사관 1관):全羅南道 木浦市 栄山路29番キル 9-4 (大義洞2街 1-5)。史跡第289号)

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231105j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231113j:plain
旧木浦日本領事館の下には、「平和の少女像」が静かにたたずんでいました。
前回、釜山で会ってからたった2週間。そのわずかな間にも日本では大阪市長により、あろうことか「慰安婦像」を理由とした米サンフランシスコ市との姉妹都市解消の判断がなされ、しかも広く世論の支持を得ている状況下にありました。こんなことが許されてよいのか。自らの非力さをただ詫びるしかありませんでした。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231125j:plain
「旧木浦府庁書庫」。
1932年築。旧木浦日本領事館の裏手にあるこちらの建物は、その名の通り旧木浦日本領事館が木浦府庁だった時期に書庫として建てられたもので、その建設には木浦刑務所の受刑者が動員されたとのことです。普段は内部に入れるようですが、この日はあいにく補修工事中のため立ち入ることはできず、周囲に組まれた足場のため外見も見づらい状況でした。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231136j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231209j:plain
旧木浦府庁書庫のすぐそばには、防空壕が口を開けていました。
こちらは第二次大戦中、日本軍が朝鮮半島への米軍侵攻に備えて建設したものです。調べた限りはっきりとはしませんでしたが、済州島(チェジュド)に無数にある防空壕と同じく、強制徴用された朝鮮人が多数動員されたものとみられます。こちらの防空壕は旧木浦府庁書庫とともに「旧木浦府庁書庫と防空壕」として、国家指定登録文化財第588号に指定されています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231218j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231232j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231239j:plain
防空壕は無料開放されているため、少しだけ中に入ってみました。
内部には防空壕を掘る人々、そして監視役の日本の官憲とみられる再現人形が配置されています。
こちらも時間の都合で一部を撮影するだけにとどめましたが、次回訪問時には全通路を巡ることにします。

旧木浦府庁書庫と防空壕(구 목포부청 서고 및 방공호:全羅南道 木浦市 栄山路29番キル 9-4 (大義洞2街 1-5)。国家指定登録文化財第588号)

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231006j:plain
かつてここ木浦は光州広域市ソウル特別市などを経て京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市へと(さらには朝鮮民主主義人民共和国平安北道(ピョンアンブット)新義州(シニジュ)市にまで)至る国道1号線、および全羅南道順天(スンチョン)市や慶尚南道キョンサンナムド)晋州(チンジュ)市などを経て釜山広域市へと至る国道2号線の起点であり、旧木浦日本領事館の下にはそのことを記念する「国道1.2号線起点紀念碑」が建てられていました。なお国道2号線については、その後の延長により現在は同じ全羅南道の新安(シナン)郡に起点が変更されています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231300j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231313j:plain
「旧東洋拓殖株式会社木浦支店」。
1923年築。朝鮮総督府が「土地調査事業」を通じて安値で買い叩いたり文字通り奪ったりした土地の払い下げを受けて朝鮮最大の地主となり、朝鮮人小作農に貸し付けるなどして朝鮮の支配と収奪に積極加担した、悪名高き植民地経営企業「東洋拓殖株式会社」。その木浦支店として建てられたのが、こちらのルネサンス様式の建物です。
一時は老朽化に伴い解体が決定、撤去作業の着手にまで至ったそうですが、市民運動などにより一転して保存対象となり、現在は先に紹介した「木浦近代歴史館」の2館として使用されています。全羅南道記念物第174号。

旧東洋拓殖株式会社木浦支店(木浦近代歴史館2館)(구동양척식주식회사목포지점(목포근대역사관 2관):全羅南道 木浦市 繁華路 18 (中央洞2街 6)。全羅南道記念物第174号)

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231325j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231341j:plain
そして目的地である「木浦沿岸旅客船ターミナル」に到着。木浦駅前の海南ヘジャンクッを出て、5つの近代建築に立ち寄って写真を撮ったりパンを買ったりしながらでもわずか1時間半に満たない行程でした。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231408j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231433j:plain
写真1枚目のチケット売場で乗船券を購入、2枚目の改札口からのりばの埠頭に進入します。実は事前に予約していたため、こんなにのんびり落ち着いた気分で街歩きができたわけです(当日でも空席はありましたが)。予約方法については次回のエントリーにて紹介します。

 

f:id:gashin_shoutan:20180730231450j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231505j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180730231528j:plain
精悍なデザインの高速船。午後1時発のこちらの高速船に乗船し、いよいよ目的の島へと向かいます。
続きは次回のエントリーにて。

釜山の旅[201711_05] - 日帝時代の墓石で命をつないだ避難民の村「碑石文化マウル」、庶民生活の記録に生涯を捧げた写真家

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、明けて3日目(2017年11月19日(日))の朝です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214602j:plain
この日最初に向かったのは、同市西区(ソグ)にある都市鉄道(地下鉄)1号線「土城(トソン)」駅。いまや釜山を代表する観光地のひとつである沙下区(サハグ)の「甘川(カムチョン)文化マウル」の最寄り駅ということで、バス停へ向かう6番出口の階段には同マウルの案内が。しかし、この日の目的地はこちらではありません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220305j:plain
駅近くのバス停からはマイクロバスの「マウルバス」に乗車。細く曲がりくねった急坂をゆっくりと登ります。カーブでマウルバス同士が出会った場合には一方が停止して譲らなければならず、それ以外でもすれ違いするのがやっとという。マイクロバスでこれですから一般的なバスの運行はまず無理でしょう。俗に「山腹道路」と呼ばれるこうした狭い急坂は釜山の市街地の至るところにあり、マウルバスの路線はそれらを毛細血管のように巡っています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214713j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180710214744j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180710214724j:plain
5分ほどで到着した「サンサン教会(碑石文化マウル)」バス停にて下車。このバス停の正面、斜面の上側にある場所には、写真の古びた家屋が建っています。
こちらの家屋は「墓地の上の家(묘지위 집)」と呼ばれ、日本式の墓の外柵(がいさく)を土台にして建てられたものです。そのことを証明するかのように、家屋の横には日本人と思しき名前と大正時代の日付が刻まれた墓石が置かれています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214708j:plain
この「墓地の上の家」を含む西区峨嵋洞(アミドン)山(サン)19番地一帯、現在は「碑石(ピソン)文化マウル」と呼ばれる場所には、かつて日本人の共同墓地が広がっていました。
これらは朝鮮時代の「草梁倭館」(チョリャン・ウェグァン。倭館とは朝鮮における日本の使節や商人の外交・貿易施設のこと。草梁倭館は現在の釜山広域市中区にて1607年から釜山開港期の1876年まで存続)の関係者、および釜山開港から日帝強占期にかけて入植した日本人たちの墓地で、近隣の龍頭山(ヨンドゥサン)や伏兵山(ポクピョンサン)にあった墓地を1907年に移したものです。さらに1929年には火葬場が追加で建設されています(後に移転)。しかし、1945年の光復(日本の敗戦による開放)により日本人が退去した後は放置状態となっていました。
その後1950年には朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)が勃発し、戦線から最も遠い釜山には全国から避難民たちが殺到します。しかし平地はすでに先住者たちであふれていたため、「埋築地(メチュクチ)マウル」や「ソマンマウル」畜舎のような日本人の残した建物を転用した収容所に暮らすか、あるいは「アンチャンマウル(ホレンイマウル)」のように自ら急斜面を切り開いて住む場所を確保するしかありませんでした。
うち後者の一部が、峨嵋洞の急斜面の日本人共同墓地にたどり着きます。文字通り体ひとつで釜山にたどりついた彼らは、命をつなぐ住居の確保のためやむにやまれず日本人の墓を破壊、その墓石を材料に住居や石段などを造り、釜山での避難生活を始めます。そして休戦後も故郷への帰還がかなわなかった避難民たちはそのまま共同墓地の跡に定着、こうして形成されたのが今日の碑石文化マウル一帯の住宅地です。
お気づきかとは思いますが、マウル名にもある「碑石」(ピソク。マウル名では音韻変化により「ピソン」と発音)とは、墓石のことをを指します。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214834j:plain
碑石文化マウルの象徴的存在となっている「墓地の上の家」の脇から、人ひとり通るのがやっとの狭い路地に入ります。マウル内に縦横無尽に張り巡らされたこれらの路地沿いには、日本人墓地の墓石を再利用した物件があちこちに点在しており、その用途や配置場所などからいくつかの俗称で呼ばれています。
写真は「安心(アンシム)シムト碑石」(안심쉼터 비석:シムトとは「休憩所」の意)と呼ばれているもので、墓碑銘や家紋と思しき意匠が刻まれた墓石がいくつも組み合わされています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214901j:plain
墓石。「明治四十二年五月廿七日歿」と読み取れます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214913j:plain
上にあたる左側には「金滿家靈標」とあり、その下の右半分(写真では上側)には納骨された一族とみられる名前が刻まれています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215057j:plain
こちらの石垣は「築台(チュクテ)碑石」(축대비석:築台とは「石垣」の意)と呼ばれているものです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215116j:plain
右側を上に「明治二十三年八月」まで読み取れます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215459j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180710215508j:plain
こちらはまた別の場所の「築台碑石」。
3文字目までは「妙法 賢」と遠目からでもはっきり読み取れます。4番目の字は「堂」でしょうか、それとも「光」でしょうか。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215543j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180728181942p:plain
「ノリト階段(ケダン)碑石」(놀이터계단비석:ノリトとは「遊び場」の意)。
墓石と思しき石材がいくつも積み重ねられており、石段の下から3段目には墓碑銘と思われる文字を読み取ることができます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215621j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180710215634j:plain
こちらは「スドッカ碑石」(수돗가 비석:スドッカとは「水道が出るところ」の意)と呼ばれるものです。
ここでは石段の最下段に墓石が用いられており、「明治三拾五年九月九日 ●●三郎」との墓碑銘が読み取れます(●●の箇所は不明)。

碑石文化マウルについては日本語の旅行記でも複数紹介されており、中には「日本人の墓石を建築資材にし土足で踏みつけるなんてやっぱりあいつらは反日だ、理解できない」といった否定的な感情、さらには差別心をあらわにした感想も少なくありません。そうした感情論に流されそうになったときは、まずはこの碑石文化マウルの前身である日本人共同墓地が一体どこに存在し、誰のために作られたのか、そのことから考えてみましょう。
前述したように碑石文化マウルで資材とされた墓石の数々は、朝鮮戦争中から休戦直後にかけての極度の物資不足、かつ急斜面という劣悪な環境下で避難民たちが命をつなぐため、やむにやまれず再利用されたものです。しかし、仮に一部の(韓国人がみな「反日」であってほしい)日本人が喧伝するように植民地支配への恨みからわざと墓石を踏み石などに用いたとして、過去の行状を考えればそれは当然の帰結であり、日本人に非難する資格はないというのが私の考えです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215036j:plain
碑石文化マウルには、いくつかの壁画も描かれていました。写真は避難民のきょうだいをイメージしたと思われる壁画。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710214813j:plain
こちらの壁画、絵柄といい題材といい、とても好みです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215657j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180710215850j:plain
碑石文化マウルの最上部にある「ハヌル展望台」(ハヌルは「空」の意)から眺めた峨嵋洞、そして釜山の旧市街である西区・中区の市街地の風景。これぞ釜山の旅の醍醐味です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710215944j:plain
碑石文化マウルへのアクセスは、都市鉄道(地下鉄)1号線「土城(トソン)」駅からだと徒歩約12分(約770m)と表示されますが、道中えんえんと急坂が続きますので、マウルバスのご利用をおすすめします。
同駅6番出口を出て徒歩約3分(約180m)の場所にある「釜山大学校病院」(부산대학교병원)バス停から、マウルバス<서구(西区)2>(約7分おき配車)または同<사하구(沙下区)1-1>(約15分おき配車)に乗車し、約4分で到着する4つめの「峨嵋洞公営駐車場」(아미동공영주차장)バス停で下車すると写真の場所「コルモクギャラリー」そばに、また約5分で到着する6つめの「サンサン教会(碑石文化マウル)」(산상교회(비석문화마을))バス停で下車すると冒頭に紹介した「墓地の上の家」の前に到着します。
ちなみに後者「サンサン教会(碑石文化マウル)」バス停から4つめ(「釜山大学校病院」からだと10番目)、<서구2>バスの場合は終点でもある「甘川初等学校.甘川文化マウル」(감정초등학교.감천문화마을)バス停が、その名の通り甘川文化マウルの玄関です。

碑石文化マウル(비석문화마을:釜山広域市 西区 峨嵋洞2街 227-7 一帯)

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220039j:plain
先の「コルモクギャラリー」を東方向(「墓地の上の家」と反対側)へ向かって少し歩くと、写真の「峨嵋文化学習館」という施設があります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220046j:plain
この脇の階段を下ると、釜山を拠点に活動していた写真家、崔敏植(최민식:チェ・ミンシク、1928-2013)氏による写真作品の展示空間「崔敏植ギャラリー」の玄関が現れます。
日本でも有名なあの俳優さんとハングル表記を含め同じ名前の方ですが、もちろん別人です(ちなみに漢字表記は異なります。俳優さんの方は「崔岷植」)。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220102j:plain
崔敏植氏は1928年、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する黄海道(ファンへド)の延白(ヨンベク)郡生まれ。第二次大戦中は平安南道(ピョンアンナムド)にあった三菱技能者養成所の技能工に従事。光復後はソウルへ移り日中はエ場などで労働し、夜間は強い関心のあった絵画の勉強のため夜学通いという生活を続けます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220116j:plain
朝鮮戦争期の軍服務を経て再び工場労働に戻ったものの、美術への思いを捨てきれず、1955年には一念発起して日本へ密航。東京中央美術学院での在学当時、東京の古書店でたまたま手に取った米国人写真家のエドワード・スタイケン(Edward Steichen、1879-1973)氏の写真集『人間家族』(The Family of Man)を読んで深い感銘を受け、一転してドキュメンタリー写真家の道を志すようになります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220126j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723212754j:plain
2年間の課程修了後は釜山へ帰国。独学での写真の勉強と並行しつつ朝鮮戦争の傷跡の残る釜山の街に出て、この街で暮らす庶民たち、中でも社会から疎外され貧困にあえぐ人々を被写体に、写真家としての活動を始めます。これら作品への評価はまず海外から火が付き始め、1962年の台湾国際写真展入賞を皮切りにいくつもの賞を獲得します。写真は氏が残した無数の作品の中でも代表作のひとつに数えられる、子に乳を与える母の写真、そして窓べりで本を読む子どもの写真。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220154j:plain
一方、韓国国内でも写真賞受賞や個展の開催、また1968年の第1巻からその後全14巻が発刊された写真集『인간(人間)』シリーズなどの著作物により、60年代半ばから徐々にその知名度を高めてゆきます。しかしこの当時、開発独裁による韓国の近代化を急いでいた朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領は貧しい人々の写真ばかりを海外で展示する崔敏植氏を快く思わず、パスポートの発給拒絶などさまざまな手段で圧力を加えたため、海外での個展はいつも本人不在の状況だったとのことです。もっとも民主化以降は政府の姿勢も変化し、2001年には大韓民国玉冠文化勲章、2008年には国民褒章を授与されています。
最晩年まで写真家としての活動を続けた崔敏植氏は2013年、釜山の自宅にて死去。その死後も韓国第1世代のドキュメンタリー写真家として高く評価されており、また釜山の人々にとっては親しみのある存在となっています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180710220220j:plain
「崔敏植ギャラリー」の開館時間は午前10時~午後6時、月曜休館。入場無料。ギャラリーが入居する「峨嵋文化学習館」へは、先ほど碑石文化マウルへのアクセスで紹介した「峨嵋洞公営駐車場」バス停から徒歩約2分(約170m)で到達できます。
今回紹介した作品は展示物のごく一部であり、ギャラリー内にはより多くの作品が展示されています。碑石文化マウルとあわせて、ぜひ訪れていただきたい場所です。

崔敏植ギャラリー(최민식갤러리:釜山広域市 西区 峨嵋路128番キル 20-1 (峨嵋洞2街 89-239)峨嵋文化学習館)

 

マウルバスで土城駅へ戻り、今度はタクシーに乗り換えます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723210608j:plain
1935年築の跳ね橋「影島大橋(ヨンドデキョ)」を渡り、やって来たのは影島区(ヨンドグ)にあるオムク(어묵:オデンの具などに用いる魚肉の練り物)の名店「サムジンオムク本店」。

 

f:id:gashin_shoutan:20180726230240j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180726230326j:plain
朝鮮戦争の休戦と同じ1953年創業のこちらのお店は釜山オムクの草分け的存在とされ、釜山広域市からは現存最古のオムク製造加工所に認定されています。そのため数あるオムク生産業者の中でもとりわけ知名度が高く、Korail釜山駅をはじめ全国各地に出店するほか、他企業とのコラボ製品も出しています。写真は2017年2月に金海国際空港セブン-イレブンにて購入した、サムジンオムク監修のおにぎり(2018年現在は販売されていません)

 

f:id:gashin_shoutan:20180723210652j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723210808j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723210737j:plain
まずは本店の2階にある「オムク体験歴史館」から。
こちらは釜山オムクと会社の歴史を紹介するスペースに加え、オムク作りを体験できる厨房スペースが併設されています。私が訪れたときはまだ開催されていませんでしたが、週末になると子どもたちを中心とした体験希望者で賑わうようです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723210631j:plain
階段の途中にあったイラスト。なごみます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211648j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723211700j:plain
続いて1階のサムジンオムク本店。いろんな種類のオムクが並べられています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723213025j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723213054j:plain
購入したのは写真の詰め合わせパック。数種類のオムクが1kg分入って15,000ウォン(約1,575円:当時)。専用のスープも付いてきます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723213209j:plain
日本に帰ってから炊いたもの。スープの味は西日本風おでんのそれに近いですが韓国のオデンらしく若干の辛味があります。また買いたいと思うくらいおいしかったです。同じくお土産に買ってきた、韓国の民俗酒第1号でもある釜山の地マッコリ「金井山城(クムジョンサンソン)マッコリ」で一杯。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723212157j:plain
こちらは詰め合わせパックと別に買ってきた「スサムオムク」(수삼어묵:生高麗人参のオムク)。高麗人参がまるまる1本入っているため、1個で4,500ウォン(約470円:当時)となかなかの値段です。はみ出た根っこがまるでオムクの尻尾のよう。おいしかったですが、オムクに包まれている部分は本当に生だったのでスープで煮込んだほうがよりおいしかったかも。

 

f:id:gashin_shoutan:20180726223841j:plain
こちらのお店「サムジンオムク本店」の営業時間は午前9時~午後8時(体験歴史館は午後6時まで)、名節(旧正月・秋夕)当日は休業です。最寄り駅である都市鉄道(地下鉄)1号線「南浦(ナムポ)」駅からだと、6番出口を出て徒歩約1分(約50m)の場所にある「影島大橋(南浦駅)」(영도대교(남포역))バス停から<82> <85>番バスのいずれか、またはその50mほど先にある「影島大橋」(영도대교)バス停から<8> <30> <88A> <113> <186> <190>番バスのいずれかに乗車。いずれの場合も約7分で到着する2つめの「影島郵逓局」(영도우체국)バス停で下車、徒歩約4分(約260m)で到達できます。6番出口からの徒歩でも約17分(約1.1km)。影島大橋の見物がてら歩いてみるのもよいでしょう。
なお、本店の真向かいには同店のオムクを用いた料理が食べられる「三真週家」(삼진주가:サムジンジュガ)が最近オープンしたそうで、次回訪問時には立ち寄ってみたいと思います。 

サムジンオムク本店(オムク体験歴史館)(삼진어묵본점 (어묵체험역사관):釜山広域市 影島区 太宗路99番キル 36 (蓬莱洞2街 40-2))

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211738j:plain
サムジンオムク本店の近くに、在来市場「蓬莱市場(ポンネ・シジャン)」のアーケード入口があったので立ち寄ってみました。
島の最高峰「蓬莱山」(봉래산:ポンネサン、396m)にその名が由来するこちらの市場は、日帝強占期に自然形成された市場が1970年代に商店街として整えられたものだそうで、現在は約120店ほどが営業しているとのことです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211757j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723211812j:plain
アーケード通りの中央にはいくつかの露店が。写真2枚目はそのひとつにあった謎の黒い物体。これ、何だと思いますか?

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211824j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180726224129j:plain
実はこれ、ウミウシの仲間の「アメフラシ」(写真2枚目)を乾燥させたものです。よく磯にいるブニュブニュした、触ると紫色の汁を放出するあの生き物です。韓国語では「クンソ(군소)」といいます。
アメフラシはその食餌である海藻の種類によって体内に毒素を持つことがあり、食べることのできる産地は限られています。そのため韓国でも決してポピュラーな食材ではありませんが、釜山を含む南海(ナメ。朝鮮半島南岸の海)沿岸では煮込んだりして食されているとのこと。日本でも房総半島や隠岐などでは食べる習慣があるようです。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211836j:plain
時計はすでに午前11時過ぎ。お腹がすいてきました。でも帰りの便は金海空港を午後3時半発ですので、あまり余裕はありません。
タクシーで向かったのは前回(2017年2月)の旅でも訪問した、地下鉄1号線「中央(チュンアン)」駅近くの「トゥンボチッ」。前回あまりにおいしかったことに加えて影島から距離的にも近く、残り時間を考慮すると(チェック済みのお店の中では)これ以上にない場所にあることから再訪したものです。

注文したのはもちろん、お店の名物「チュックミグイ」(쭈꾸미구이:イイダコ焼き)、12,000ウォン(約1,200円)。前回の経験からいきなり2人分を注文したところ、なんと1人分を食べ終わったところを見計らって次の皿を出してくださるとのこと。お心遣いがすごい。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211908j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180723211917j:plain
店先にある炭火コンロでじっくり網焼きされたチュックミグイさん。炭火特有の香りとパンチのある辛さのヤンニョムが絶妙なバランスで鼻腔をくすぐります。うんまい。前回同様、辛さに汗をかきつつ食べ進めます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211932j:plain
チュックミグイに付いてくるコンビジ(콩비지:おからスープ)。これがまたうんまいのですよ。少し粗めのシチューのような舌触りもまた心地よいのです。そうしてあっという間に完食。

 

f:id:gashin_shoutan:20180723211937j:plain
こちらのお店「トゥンボチッ」の営業時間は午前11時~午後10時30分、毎月第4日曜日休業。都市鉄道(地下鉄)1号線「中央」駅1番出口からだと徒歩約2分(約130m)。大通りの「中央大路」(중앙대로:チュンアンデロ)に沿って「南浦」(ナムポ)駅方面へ進み、2番目の角を右折、続いてすぐの角を左に曲がって50mくらい進むと右手に現れます。個人的にかなりおすすめのお店です。

トゥンボチッ(뚱보집:釜山広域市 中区 中央大路41番キル 3 (中央洞1街 21-3))

 

2017年11月の釜山の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2017年12月の全羅南道(チョルラナムド)の旅をお送りします。

釜山の旅[201711_04] - 過去の人的収奪を記憶する「国立日帝強制動員歴史館」、そして辛うまナッコプセポックム

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、2日目(2017年11月18日(土))です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213842j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712214049j:plain
南区(ナムグ)牛岩洞(ウアムドン)からタクシーに乗って向かったのは、同区内の大淵洞(テヨンドン)にある「国立日帝強制動員歴史館」。その名の通り、炭鉱や建設現場など危険かつ重労働の現場作業員、あるいは最前線に送り込まれた兵士、そして日本軍「慰安婦」に至るまで、さまざまな形でなされた日本(大日本帝国)による朝鮮人の強制動員、すなわち人的収奪の歴史を伝える展示施設です。
2015年12月に開館、翌年7月に国立となったこちらの展示施設は、強制動員されたすべての人々とその筆舌尽くしがたい体験を記憶、またその実態の究明を通じ、ひいては人権と世界平和のための教育の場となることを目的に建設されたものです。日帝強占期における強制動員の主要出発地であり、また強制動員された方の約22%が釜山を含む慶尚道キョンサンド)出身であった歴史的背景から、ここ釜山に設置されたとのことです。
その存在は以前から存じておりましたが、今回ようやく訪問がかなうことになりました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213920j:plain
4階のエントランスを入ってすぐ、「記憶のトンネル」と題された空間を通り過ぎると、展示スペースが現れます。
こちらの歴史館は史料・解説ともに充実しており、なにより日本によるかつての行状が史実として展示されている施設であるためぜひともご訪問いただきたく、よって詳しい展示物の紹介はあえて避けることとしますが、その中で特に印象に残ったものをいくつか紹介したいと思います。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712214145j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712214155j:plain
入営を祝うのぼりと無数の激励文が書き込まれた日の丸、そして「武運長久」と書かれた千人針。赤いたすきには「陸軍特別志願兵」とあります。
朝鮮での強制的徴兵は「内地」と呼ばれた現在の日本領域よりも遅い1944年からでしたが、陸軍兵士としての朝鮮人の動員は、1938年に勅令として出された「陸軍特別志願兵令」にさかのぼります。その後1943年には「海軍特別志願兵令」により海軍に拡大、また同年に日本人学生を対象に始まった学徒志願兵はその翌年に朝鮮人学生にも適用されます。これらは名称こそ「志願」とありますがあくまで名目上のものであり、ある者は警察など行政機関の働きかけにより実質的に強制され、またある者は困窮した生活から逃れ「食べる」ため、そしてまたある者は天皇に忠誠を誓い率先して戦線へ向かうことで日本人以上に「日本人」であろうとするために、自ら「志願」してゆきました。こうして初年の1938年には3,000人足らずであった「志願」者は、徴兵制開始前年の1943年には実に30万人以上を数えるようになります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712215051j:plain
ポツダム宣言受託直後の1945年8月、当時は日本領「樺太」だったサハリンの「上敷香」(かみしすか、現レオニードヴォ)と「瑞穂」(みずほ、現パジャルスコエ)にて撤収の過程で発生した、日本人による朝鮮人虐殺事件に関する展示。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712214934j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712214945j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712215006j:plain
1945年8月24日に舞鶴湾にて発生した「浮島丸事件」(韓国では「浮島号事件」と表記)に関する展示。
浮島丸(うきしままる)とは日本海軍に徴用されていた貨客船で、北海道や東北地方などで強制徴用させられていた朝鮮人たちの帰還船として、事件の2日前に青森県大湊港を出航しました。目的地の釜山へ向けて日本海沿岸を回航していたところ突如針路を変更し、釜山への航路からは外れた舞鶴湾へ進入。そして同日午後5時頃、舞鶴港を目前にした場所で原因不明の爆発が発生し、まもなく沈没します。日本側はこの事件により乗客乗員4千人弱のうち朝鮮人524人と乗員25人が死亡したと発表しましたが実際にはもっと多く、乗客乗員は7千人あまり、そして犠牲者は少なくとも千人以上とみられています(人数はともに諸説あり)。
謎の爆発の原因については、上部からの突然の命令に従い舞鶴港へ寄港しようとした際に、米軍が戦時中に敷設した機雷に接触したためというのが日本政府の公式見解ですが、生存者の証言などから釜山到着後の報復を恐れた日本海軍の乗員が故意に自爆させたという説も有力視されています。
また1992年には21人の遺族が原告となり、日本政府を相手取って公式謝罪と損害賠償の請求訴訟を提起しています。第1審の京都地裁は2001年、当時の日本政府の安全配慮義務違反を認め、原告のうち15人の損害賠償請求を認める画期的な判決(ただし公式謝罪請求は棄却)を下します。しかし2年後の大阪高裁での控訴審では一転して原告側の主張を退け、最高裁の上告棄却により原告側敗訴が確定しています。日本政府の公式謝罪は今日に至るまでなされていません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220023j:plain
再現展示が中心の5階へ上ります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220059j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220111j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220124j:plain
5階、日本兵の監視の下に使役させられる朝鮮人労働者たちの再現展示。立て札の文字が胸に突き刺さります。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220145j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220159j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220211j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220222j:plain
日本軍による組織的性奴隷制度の現場であった「慰安所」の再現展示。これまで見てきた再現展示の中では最大規模です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220240j:plain
慰安所」の再現展示では、被害者たちの証言に基づく『그날의 기억(あの日の記憶)』と題したアニメーション映像が流れていました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712214250j:plain
こちらは4階に展示されていた、日本軍が兵士に配布していたコンドーム「突撃一番」。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220302j:plain
歴史館の内壁を覆い尽くす無数の肖像写真。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703213858j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220317j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220525j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220553j:plain
私が訪問した当時(2017年11月)、6階の展示スペースでは特別展の「李在甲招待展 軍艦島(クナムド)-三菱グンカンジマ」が開催されていました。
軍艦島」とは言うまでもなく、長崎港の沖合いに浮かぶかつての炭鉱坑口、当時の鉱員住宅などの廃墟が林立する島であり、それらの建物が細長い小島の上に立ち並ぶ姿が軍艦に似ているとしてその名がついたあの島のことです。行政上の名称は「端島(はしま)」といいます。日帝強占期末期、この島では多くの朝鮮人たちが動員され、その意に反して過酷な炭鉱労働に従事させられていました。
こちらの特別展は、実際に軍艦島を訪問した写真家の李在甲(이재갑:イ・ジェガプ)さんによる写真と解説文により構成されていました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220547j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220618j:plain
ご承知のように軍艦島は去る2015年、「明治日本の産業革命遺産-製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界文化遺産に登載されました。日本はこのとき、軍艦島などにおける朝鮮人などへの強制労働の事実を認め被害者を称える対応を約束していますが、その後今日に至るまで現地案内板でのそれらに関する言及はなされていません。また、2017年に日本がユネスコ世界遺産委員会に提出した措置経過報告書では「forced to work」(強制労働)をあろうことか「support」(支援)と歪曲、さらには設置を約束した強制徴用被害を記憶する「情報センター」を軍艦島でも長崎市でもなくはるか遠く離れた東京に、それもシンクタンクという全く異なる形態で設置すると表明し、国外から大きな非難を浴びたのは記憶に新しいところです。そうした経緯もあって本年(2018年)6月に開催された世界遺産委員会の会合では、日本に対し強制徴用を含む全体の歴史を知らせるよう求める旨の決定文が採択されています。

自国による過去の加害事実を認めて謝罪し犠牲者を悼むこと、そしてそれらの事実を記憶・継承しひいては再発防止に務めることは、決して恥などではありません。しかし前述の軍艦島や日本軍性奴隷問題など、韓国(を含むコリアン全体)が対象ならば歴史修正などの詭弁を弄するばかりか、被害者を侮辱してまでそれらを拒絶する行為が支持ないし容認されるというのが日本という社会の現実です。そんな現実は私たちの代で終わらせなければなりません。

 

f:id:gashin_shoutan:20180717230822j:plain
「国立日帝強制動員歴史館」の開館時間は午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)。毎週月曜日(公休日の場合は翌日)、および元日と名節(旧正月・秋夕)の各当日は休館です。観覧無料。
バスを利用する場合は、都市鉄道(地下鉄)2号線「モッコル」駅3番出口から徒歩約1分(約30m)の場所にある「モッコル」駅バス停で<남구(南区)9>マウルバス(平日約15分、休日約12分おき配車)バスに乗車し、約12分で到着する「UN平和記念館・日帝強制動員歴史館(유엔평화기념관.일제강제동원역사관)」バス停にて下車すると歴史館が正面の丘の上に見えます。
徒歩の場合は同2号線「大淵(テヨン)」駅から約20分(約1.3km)で到達できますが、歴史館付近では坂道が続くので往路は割り切ってタクシーで行かれることをおすすめします(約3,300ウォン~)。

国立日帝強制動員歴史館(국립일제강제동원역사관:釜山広域市 南区 虹谷路320番キル 100(大淵洞 1156-18)) [HP]

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214011j:plain
午後6時の閉館直後、駐車場から眺めた釜山の夜景。
遠くに青く光っているのは荒嶺山(황령산:ファンニョンサン、427m)という山に建つテレビ塔。この山頂から眺めた釜山の夜景がそれはもう美しいそうです。

写真の通り、あたりはすっかり暗くなっていました。
タクシーも見当たらないので、歩いて大淵駅へ向かうことにします。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712221326j:plain
大淵駅までの途中にあった「UN参戦記念塔」。
UNとは国際連合(United Nations)のこと。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)に国連軍として参戦した米国はじめ16か国の軍隊を記念したもので、隣接する広大な「UN記念公国」のシンボル的存在となっています。ちなみにこの塔がある交差点も「UN交差路」といいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214105j:plain
大淵駅近くにあった居酒屋「やきとり金太郎」。
赤提灯に「やきとり」と書かれた暖簾、壁にはスーパードライのロゴ入りプレート。隣の店の看板がなければ日本と見聞違えそうです。

地下鉄を乗り継いで、やって来たのは前夜に続き1号線のチャガルチ駅。今回は国際市場寄りの7番出口から目的地へ向かいます。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214126j:plain
そしてこの日の夕食は、新昌洞1街(シンチャンドンイルガ)にある「ケミチッ本店」。ケミチッとは「アリの巣」の意(たぶん「働き者」という意味だと思われます)。ナクチポックム(テナガダコの炒め物)の名店として知られるお店です。
実は同じ「ケミチッ」という屋号、しかも同じタコのキャラクター入りロゴのお店が何系列かあるようですが(ロゴの創業年度が微妙に異なる)、こちらのお店はそれらの中でも特に人気の高い店のようで、この日は10分あまり待たされてからの入店となりました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214249j:plain
注文したのはメニュー表右列最上段の「ナッコプセポックム(낙곱새볶음)」、1人分10,000ウォン(2017年11月当時。2018年7月時点では11,000ウォンに値上げされたようです。2人分から注文可)
「ナッコプセ」とはメインの具材である「ナクチ」と「コプチャン」(豚ホルモン)、「セウ」(エビ)の頭文字を取ったもので、こちらのお店の代表メニューとなっています。海産物と肉類という組み合わせは日本ではあまり見ない(長崎ちゃんぽんの具くらい?)ですが、韓国では割とポピュラーなものです。
このほか、2種ずつの組み合わせの「ナクセ」「ナッコプ」ポックムがあったり(だけどナクチは欠かせない)、コプチャンの代わりにサムギョプサルが入った「ナクサムセポックム」もあるようです。なんだか仮面ライダーオーズみたいですね(よく知らない……)
注目すべきはメニュー表右側の日本語案内。愛らしい字体とともにあたたかい気分になれました。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214145j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214154j:plain
そしてやって来たナッコプセポックム(写真は3人分)。テーブルに備え付けられているコンロでじっくりと火を通してから食べます。食欲をそそるたまらない色。
ぱくり。見た目通り結構辛いですが、うんまい。CassやHiteのようなライトタイプ(「薄い」ではない。ここ重要)のビールと相性抜群です。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214208j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214219j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214239j:plain
一緒に付いてくる大きなステンレス製のボウルに入ったご飯、そして刻み海苔は、言うまでもなくナッコプセポックムと混ぜてピビンパッを作るためのもの。これがまた格別にうんまいのです。ご飯と混ぜることで辛さもマイルドになります。3人分があっという間にお腹の中へ。

こちらのお店「ケミチッ本店」の営業時間は午前9時30分~午後9時30分、定休日はないようですが名節(旧正月・秋夕)はお休みかもしれません。都市鉄道(地下鉄)1号線「チャガルチ」駅7番出口から徒歩約8分(約530m)同1号線「南浦(ナムポ)」駅1番出口からだと徒歩約9分(約580m)で到達できます。
ナッコプセポックムは味も量も満足ゆくものだったうえ、3人分&ビール3本でも42,000ウォン(約4,400円:当時)とこの分量にしては比較的リーズナブルな値段でした。また機会を見つけて訪問したいと思います。

ケミチッ本店(개미집 본점:釜山広域市 中区 中区路30番キル 22 (新昌洞1街 14-3))

f:id:gashin_shoutan:20180703214408j:plain
次に向かったのは、前回(2017年2月)の釜山の旅でも訪問した「富平(プピョン)カントン市場」の夜市場(ヤシジャン)。
「カントン」とは缶の筒のこと。朝鮮戦争期、米軍の放出品の缶詰などが盛んに販売されたことからこの名が付いたこちらの市場は、いまや韓国全土の在来市場で開催中の夜市場の元祖とされています。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214344j:plain
毎日午後6時になるとどこからともなく料理の屋台が登場し、市場のアーケード街に縦列します。
富平カントン市場の狭いアーケード街でも通行の妨げにならないようなスリムな屋台は全国の夜市場のスタンダードとなりましたが、屋台に書かれている「우측통행(右側通行)」の表記は私がこれまで訪問した夜市場の中では唯一です。ただでさえ狭いアーケード街、こう書かないと人通りができないほど観光客たちで混み合うためです。 

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214440j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180703214504j:plain
富平カントン市場、食欲をそそる料理の数々。じゅるり。

 

f:id:gashin_shoutan:20180703214534j:plain
前回の訪問時は、大量のおかずが出てくるこちらの酒場に行った後だったためお腹いっぱいで何も食べられませんでしたが、今回はまだ余裕があるので富平カントン市場名物のシアッホットク(씨앗호떡:ヒマワリの種入リホットク)を購入。おいしかったです。
富平カントン市場の夜市場の開催時間は毎日午後6時~午前0時。どの料理も概ね3,000ウォン(約300円)前後と安めの設定ですので、夕食・夜食がてらに訪問されることをおすすめします。

富平カントン市場(부평깡통시장:釜山広域市 中区 富平2キル (富平洞2街) 一帯)

 

そうしてホテルヘと戻り、ゆっくりと休むのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

 

【付記】

f:id:gashin_shoutan:20180712220825j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220859j:plain
先ほど紹介した国立日帝強制動員歴史館の「軍艦島」特別展には、軍艦島と同じ長崎市内にある「岡まさはる記念長崎平和資料館」が協力していました。
「岡まさはる長崎平和記念館」は、牧師の岡正治(おか・まさはる、1918-1994)さんの提唱により1995年10月に開館した施設であり、長崎への原爆投下における朝鮮人・中国人被爆者や、軍艦島などの現場で過酷な労働を強いられた朝鮮人など強制動員被害者関連の展示を重点的に扱っています。偶然にもこの2ヵ月前(2017年9月)、私も訪問したばかりでした。

 

f:id:gashin_shoutan:20180712220725j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220739j:plain

f:id:gashin_shoutan:20180712220803j:plain
戦時中に強制動員させられた朝鮮人たちの「飯場(はんば。土木工事や鉱山労働などに従事する労働者の合宿所、または前近代的な労働管理組織を指す)を再現した展示物は、資料館の紹介コーナーとなっていました。写真3枚目左側の人物は、1995年の開館以来資料館の理事長を務められ、この年の4月に亡くなった高實康稔(たかざね・やすのり、1939-2017)さん。

 

f:id:gashin_shoutan:20180717220259j:plain
「岡まさはる記念長崎平和資料館」には写真左の公式リーフレットのほか、右の無料ガイドブックがあります。以前こちらの資料館を訪問した韓国人グループがその展示内容と運営方針に感激し、韓日英3言語表記のガイドブックを自費で製作して寄贈したものだそうです。スタッフの方から話を聞き、さまざまな思いが交錯して目頭が熱くなったことを記憶しています。

「岡まさはる記念長崎平和資料館」の開館時間は午前9時~午後5時、毎週月曜日と年末年始は休館。入館料は一般250円。JR「長崎」駅から徒歩約7分(約550m)で到達できます。
こちらの資料館も、展示物についてはあえて紹介いたしません。私は実際に訪問したうえで、こうした施設が、そして史実の記憶と継承に取り組むスタッフの方々が被爆地たる長崎に存在することの意義を強く感じました。みなさまもどうか機会を設けてご訪問いただくことを切に願います。

岡まさはる記念長崎平和資料館(長崎県長崎市西坂町9-4) [HP]

 

(c) 2016-2018 ぽこぽこ( @gashin_shoutan )本ブログの無断転載を禁止します。