かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

光州の旅[201705_06] - 5.18民主化運動の犠牲者や烈士たちが眠る墓地、そしてまさかの再会

前回のエントリーの続きです。 

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅、明けて2日目(2017年5月21日(日))です。

この日最初の目的地は、市街地から北側のかなり離れた場所にある「5.18旧墓地」。その所在地から「望月洞(マンウォルドン)墓地」と呼ばれることもあります。隣接する「国立5.18民主墓地」とあわせて昨年(2016年)8月の旅でも訪問した場所ですが、今回どちらにも行きたい場所があるので再訪することにしました。
往復に時間がかかるので、展示施設が開館しておらず時間のロスの少ない朝方を狙って移動します。

 

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5.18旧墓地への交通手段は、光州市内のあちこちにある518の史跡や関連スポットなどを巡るように走る路線バス、518番バスこちらのエントリーにて紹介)の出番です。今回の旅では初めての利用。
しかし、ホテルのある尚武(サンム)駅近くから最寄りの「尚武双龍錦湖アパート」バス停へ行ったところ、どうやら518番バスは数分前に出たばかりの様子。週末だと30~36分おきにしか来ないため、待っているとかなりのタイムロスとなります。
そこでまずはバス停近くからタクシーに乗り、Korail光州駅へ移動。図のように518番バスは尚武地区を出た後、道路自体が5.18の史跡である錦南路(クムナムノ)を走り、旧全羅南道(チョルラナムド)庁舎(全南道庁。現・国立アジア文化殿堂)を回り込むような路線を描くため、尚武地区から距離的に近い(路線上は旧全南道庁よりも先の)光州駅まで行けばどうにか先回りできるというわけです。
どうせタクシーに乗るならそのまま5.18旧墓地まで行きたいところですが、料金が2万ウォン(約2,000円)程度かかるのでここは思いとどまります(ちなみに尚武地区→光州駅は7,600ウォンでした)。

 

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そして光州駅からは追いついた518番バスに乗り、30分ほどで5.18旧墓地に到着。
この日(5月21日)は今年のカレンダーだと10日間の抗争期間(5月18~27日)中で唯一の日曜日であり、朝から多くの人々が旧墓地を訪れていました。その中には5.18民主化運動や光州精神を象徴する歌「ニムのための行進曲」(こちらのエントリーにて紹介)を歌う青少年たちの姿も。
10日間の民衆抗争において戒厳軍に殺害された市民のほとんどは、市民墓地であったここ望月洞に埋葬されました。その中には後述する尹祥源烈士ほか5月27日の全南道庁での最終抗戦で殺害された人々のように、あろうことか清掃車で遺体が運ばれた事例もありました。そうした埋葬された方の大半がまずは腐敗を防ぐための仮埋葬であり、遺体を包むビニールをはがす間もなく、また名前すら分からないまま埋葬された事例も少なくなかったようです。
その後1997年に「国立5.18民主墓地」が落成し、5.18民主化運動での死亡者と認定された方はそちらに改葬されましたが、諸事情により引き続き旧墓地に眠っている方もいらっしゃいます。

 

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こうした経緯から5.18旧墓地は518民主化運動の史跡24号に指定されており、そのことを示す例の丸い碑石が敷地内に建てられています。
この碑石がある「第3墓域」と呼ばれる区画には、5.18の犠牲者に加え、民主化運動や労働運動の最中に散っていった烈士たちの墓が複数存在します。

 

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まず最初に訪れたのは、1987年に亡くなったソウル・延世(ヨンセ)大学校経営学科2年、李韓烈(이한열:イ・ハニョル/イ・ハンニョル、1966-1987)烈士の墓です。
李韓烈烈士は1987年6月9日の母校・延世大での学生デモに参加中、戦闘警察の撃った催涙弾がその後頭部を直撃し、意識不明の重体となりました。この事件は翌10日に本格始動した全国的反政府デモをさらに白熱させ、同月29日にはついに軍事政権から時局収拾案を引き出し、念願の大統領直接選挙制を勝ち取りました。その間も生死の境をさまよっていた李韓烈烈士は、抗争の過程を見届けたかのように同年7月5日死去。同月9日に挙行された烈士の葬儀では、ソウルで100万人、故郷のここ光州でも50万人もの人々が葬列を見送りました。
李韓烈烈士、そして1987年6月の20日間に及ぶ一連の反政府運動「6月民主抗争」については下記のエントリーにて紹介しております。ご一読いただけますと幸いです。

 

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魯秀碩(노수석:ノ・スソク、1976-1996)烈士。
光州広域市とも接している全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)郡生まれ。延世大学校法学科の2年生であった1996年3月29日、参加したソウル・鍾路(チョンノ)での大学授業料値上げ反対、金泳三大統領選挙資金公開要求デモにおいて、警察の暴力鎮圧により亡くなった方です。この日の1ヵ月前に訪問した烈士の母校、延世大学校のキャンパス内にも、魯秀碩烈士を追悼するモニュメント「故魯秀碩烈士追慕空間」がありました(こちらのエントリーにて紹介)。

 

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表正斗(표정두:ピョ・ジョンドゥ、1963-1987)烈士。
光州市内の大東(テドン)高等学校在学中に5.18を迎え、抗争参加を理由に停学処分を受けた経験があり、その後も大学入学、中退後の社会人生活を通じて5.18の事実を知らしめる運動に取り組みます。その中で全斗煥ら5.18の責任者の処罰要求、および韓国での軍事作戦指揮権を握る立場として5.18での新軍部の策謀を容認した米国に対する抗議のため、焚身(焼身)を企図します。そして1987年3月6日、ソウル・光化門(クァンファムン)の世宗文化会館付近にて自ら灯油を浴びて火に包まれたまま米国大使館前まで走り、そこで力尽きました。2日後の3月8日死去。
この訪問の4日前(5月17日)、隣接する「国立5.18民主墓地」にて挙行された5.18犠牲者追悼式典での文在寅(문재인:ムン・ジェイン、1953-)大統領の演説の中でも、表正斗烈士の名が挙げられました。

 

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李載虎(이재호:イ・ジェホ、1964-1986)烈士。
光州出身であり、高校入学の頃に5.18を体験。猛勉強の末にソウル大学校政治学科に入学した後は学生運動にも参加、その中で5.18を容認した米国への激しい怒りを抱くようになり、この当時大学生に義務付けられていた「前方入所義務軍事教育」を米軍の傭兵教育だとして反対闘争を展開します。そして1986年4月28日、ソウル・新林(シルリム)の籠城デモにて仲間である金世鎮(김세진:キム・セジン、1965-1986)烈士とともに焚身。金世鎮烈士は同年5月3日、李載虎烈士は5月26日死去。
5.18旧墓地の入口から墓地へと通じる道には、ちょうどこの日(5月21日)、李載虎烈士の31周忌追慕式が挙行される旨の懸垂幕がかけられていました。

 

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崔美愛(최미애:チェ・ミエ、1957-1980)烈士。
抗争4日目、私が訪問したこの日からちょうど37年前の1980年5月21日。デモに参加した生徒たちを見回りに行った高校教師の夫を自宅前で待っていたところ、戒厳軍の凶弾によりその場に倒れた方です。8ヵ月になるお腹の赤ちゃんと一緒に。
墓碑の裏側には、次のメッセージが刻まれていました。

여보
당신은 천사였오
천국에서 다시 만납시다.

ねえ
あなたは天使でした。
天国でまた会いましょう。

ただ道端に立っていただけの身重の女性。
なぜこのような人が殺されなければならなかったのか。

「5.18記念財団」のガイドブック『光州の五月を歩こう』(광주의 오월을 걷자)によると、こちらのお墓にはウェディングドレス姿の遺影が飾られており、毎年この命日前後になると年老いたお母様が写真交換のため参拝されているとのことでしたが、この日は遺影自体がありませんでした。何事もないことを願うばかりです。

 

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第3墓域に掲げられていた絵。
手を取り合う金大中(김대중:キム・デジュン、1924-2009)元大統領と金正日(김정일:キム・ジョンイル、1941-2011)総書記が乗る列車の方向幕には「光州-平壌-ベルリン」とあります。その右上には独立運動家の白凡・金九(김구:キム・グ、1876-1949)氏、左上には尹祥源烈士(中央下)や民主運動家の文益煥(문익환:ムン・イクファン、1918-1994。右端の白髪の人物)牧師などの姿も。こうした絵を見ると目頭が熱くなるのを感じるとともに、日本による植民地支配の罪、そしてそのために生じた南北分断についての責任を改めて痛感させられます。

 

烈士たちの墓を参拝しつつ巡っていると、不意に私の肩を叩く人が。
振り返ると、なんと前日に訪問した「尹祥源生家」(こちらのエントリーにて紹介)にてお会いし、車で光州松汀(ソンジョン)駅まで送ってくださった尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士の弟さんの姿が。まさかの再会にびっくりしつつも大感激。
これからご自宅のある街へ帰るところで、その前に隣の「国立5.18民主墓地」にある兄・尹祥源烈士のお墓に参拝しようと立ち寄ったところだとのこと。
隣接するとは言っても広大な墓地同士、徒歩だと優に20分はかかります。親切にもまた私を車に乗せて、連れて行ってくださることになりました。

 

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そしてやって来た国立5.18民主墓地。高さ約40mの「5.18民衆抗争追慕塔」(5.18민중항쟁추모탑)がそびえ立ちます。頂点近くの球状のオブジェは「復活」を象徴する卵と、それを包み込む両手を表わしています(塔全体の写真に限り2016年8月撮影。すみません、あまりの感激のため当日は撮り忘れました……)

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追慕塔下の通路をくぐり、一段高い墓域に登ってすぐ右へ曲がった「第2墓域」に目指す場所があります。

 

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尹祥源烈士の墓。
死後「霊魂結婚式」によりその妻となった朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)烈士がともに眠ります。今回どうしても来たかった場所ですが、まさか烈士の肉親の方と一緒に訪れることになるとは夢にも思いませんでした。
日曜日、それも37年前の抗争期間中ということもあって、烈士の墓周辺はガイドの方に引率された子どもたちなどで大にぎわい。その移動を待って、烈士の弟さん、同行の奥様と思しき女性にならい「クンジョル」(큰절:韓国の祭礼における拝礼。男性は両手を合わせて床につき腰を曲げつつ頭を下げ、女性は両手を額に当てて膝をゆっくり折り曲げつつ座り頭を下げる)をします。これまで墓や追慕碑の写真を撮る際には一礼を欠かしませんでしたが、クンジョルは初めての体験でした。

尹祥源烈士の生涯については、下記のエントリーにて紹介しております。あわせてお読みいただけますと幸いです。


訪れたい場所がまだ残っていたので、再び車で5.18旧墓地へ戻り、そこで弟さんたちとお別れです。
これまで韓国の旅では「さようなら」「いってらっしゃい」に相当する「안녕히 가세요」(アンニョイガセヨ)と言われて見送られたことは数え切れないほどありますが(飲食店では必ず言われます)、私自身がそう言って誰かを見送ったのは、23回目の渡韓にして初の体験でした。
偶然にも2度にわたる出会いは、忘れられない思い出となりました。本当にありがとうございました。

 

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旧墓地、5.18の史跡を示す碑石のすく近くには、写真の空間があります。
こちらは、1980年5月の抗争下の光州に潜入しその惨状を映像に収め、全世界に配信したドイツ第1公営放送の記者、ユルゲン・ヒンツペーター(Jürgen Hinzpeter:1937-2016)氏を追悼する空間です。

 

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1980年5月、東京支局の特派員であったヒンツペーター氏は戒厳令下の光州に関する報道を耳にし、直感的に現地取材の必要性を感じて急きょソウルへ渡ります。そこからタクシーをチャーターし、抗争3日目の5月20日には他の外信記者たちに先んじて封鎖中の光州潜入に成功、滞在中は危険を顧みず市内の随所を撮影し、撮影フィルムを荷物などに隠して日本へ持ち出します。これらのフィルムはほどなく本国ドイツへ送られ、戒厳軍の暴虐による光州の惨状を全世界に知らしめました。さらに抗争6日目の23日には再び光州入りし、今度は戒厳軍一時撤退後の市民たちによる自治の様子を撮影、その映像は戒厳軍が流した「光州は暴徒に占拠された」とのデマを否定する証拠となりました。
ヒンツペーター氏は2016年1月25日に死去。その遺志に基づき、こちらの空間には氏の頭髪と爪が納められています。
今年(2017年)8月公開、韓国で記録的な興行成績を叩き出し話題となっているソン・ガンホさん主演の映画『택시운전사』(タクシー運転手)には、トーマス・クレッチマンさん演じるヒンツペーター氏が実名で登場します。一日も早く観たいものです。

 

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5.18旧墓地、および国立5.18民主墓地へのアクセスは、私がそうであったように518番バスのご利用がおすすめです。2017年9月現在、平日は25~27分間隔、土日は30~36分間隔で配車。国立5.18民主墓地は「国立5.18民主墓地」(국립5.18민주묘지)バス停、5.18旧墓地は2つ先の「市立公園墓地」(시립공원묘지)バス停で下車。「国立5.18民主墓地」バス停までの所要時間は、都市鉄道(地下鉄)1号線「文化殿堂」駅からも近い「国立アジア文化殿堂(旧・道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停からだと約49分、Korail光州駅前の「光州駅」(광주역)バス停からだと約37分です(交通状況によって変化します。「市立公園墓地」はそれぞれ3分プラス)。
光州広域市の市内バスの運賃は、均一料金で現金1,400ウォン(約140円)、交通カード(T-moneyなど)1,250ウォン(約125円)。交通カードの場合、市内バス同士(同番号路線除く)または市内バス&都市鉄道(地下鉄)間の30分以内の乗換であれば、2路線目以降の料金はかかりません。

 

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なお国立5.18民主墓地については、こちらのエントリーでも紹介しています。数ある施設の中でも資料館としての役割を持つ「5.18追慕館」(写真1枚目)、そして「遺影奉安所」(2枚目)は特に足を運んでいただきたい場所です。あわせてお読みいただけますと幸いです。

5.18旧墓地(5.18구묘지:光州広域市 北区 水谷洞 14-1。史跡24号)

国立5.18民主墓地(국립5.18민주묘지:光州広域市 北区 民主路 200 (雲亭洞 山35))

 

ところでこの日(5月21日)もまた、ある時刻までにどうしても行きたい場所がありました。
気づけばまもなく正午。急ぎ「市立公園墓地」バス停から再び518番バスに乗り、光州の市街地へと戻るのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

光州の旅[201705_05] - 5.18の負傷者を手厚く看護した2病院、往年の駅前市場の雰囲気漂う夜市場

前回のエントリーの続きです。

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韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の1日目(2017年5月20日(土))です。

 

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朝鮮大学校正門から歩いておよそ13分の場所にあるのが、こちらの施設「全南大学校病院」です。
同じく5.18史跡に指定されている光州赤十字病院(こちらのエントリーにて紹介)や光州基督病院(後述します)と同じく、5.18当時には戒厳軍の蛮行により負傷した市民、また市民軍が発足してからは銃創を負った武装市民たちが担ぎ込まれ、全南大の医学生を含む医療スタッフによる献身的な看護がなされた場所です。特に抗争4日目、5月21日の錦南路(クムナムノ)での戒厳軍による集団発砲により銃創患者が急増し血液不足が報じられるや、他の2病院と同様に市民たちによる自発的な献血の列が長蛇をなした場所でもあります。
他の2病院と大きく異なる点として、5月21日には市民たちが近隣の郡部の軍倉庫から奪ってきたLMG(軽機関銃)がここ全南大学校病院の屋上に据えられ、このとき戒厳軍が立てこもっていた全南道庁に対し銃撃が加えられた点が挙げられます。これらの経緯から、こちらは5.18の史跡9号に指定されています。
5.18の史跡や関連施設などを巡る518番バスこちらのエントリーにて紹介)は全南大学校病院のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「文化殿堂駅」(문화전당역)バス停から徒歩10分前後(約670m)で到着できるようです。
全南大学校病院(전남대학교병원:光州広域市 東区 霽峰路 42 (鶴洞 8)。史跡9号)

 

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全南大学校病院の道路を挟んだ向かい側には、「5・18ナクチ専門店」(5·18낙지전문점)というお店が。ナクチとはテナガダコのこと。こちらのお店のご主人がまさに5.18民主化運動の体験者であり、当時負傷した経験などから「5・18」の名前をつけたとのことです。その名の通りナクチ料理全般、中でもヨンポタン(연포탕:生きたナクチを丸ごと煮込むスープ)が名物だそうで、この日も来客でにぎわっていました。

 

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「5.18ナクチ専門店」から少し南東へ進むと、在来市場「南光州市場」(ナムグァンジュシジャン)があります。
この南光州市場は1960年初頭、当時すぐ近くにあった国鉄慶全(キョンジョン)線の南光州駅の駅前市場として発足。南海(ナメ)に沿って走る慶全線沿線の海産物をはじめ、南道の山の幸と海の幸が集まるマーケットとして列車本数の増加とともに発展してきたものの、慶全線のルート変更に伴い2000年に南光州駅が廃止されてからは衰退の一途へ。
これを打破しようと、釜山の「富平カントン市場」(こちらのエントリーにて紹介)が火付け役となり全国各地の在来市場も後を追う「夜市場」(ヤンジャン)を、それも往年の駅前市場を彷彿とさせるテイストを加えたうえで昨年(2016年)11月にスタートしたのが、ちょうどこの日開催中だった「南光州夜汽車夜市場」です。

 

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「夜汽車夜巿場」の名にふさわしく、市場の入口には電飾で飾られた蒸気機関車が、そして市場のメイン通りの中央には鉄道車両を模した飲食屋台が一列に並び、まさに夜汽車のようです。
大好きな在来市場、それも夜市場とあればゆっくり見物して屋台のグルメも味わいたいところですが、いよいよ夕闇が迫る中、本日中に行っておきたい場所があとひとつ。しかもその後には食事の予定もあります。うずうずする気持ちを抑えつつ、次の目的地へと向かうのでした。
南光州夜汽車夜市場は、毎週金・土曜日限定で午後6:30~午後11:00開催。市場は地下鉄1号線「南光州」駅3番出口を出てすぐの場所にあります。いつかゆっくり巡ってみたいものです。 

南光州夜汽車夜市場(남광주밤기차야시장:光州広域市 東区 楊林路 117 (鶴洞 74-24))

 

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再び光州川(クァンジュチョン)を渡って、南区(ナムグ)に入ります。
光州川にかかるハッカン橋、空にはきれいな夕焼けが。どうか明日もいい天気でありますように。

 

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南光州市場から15分近く歩いて、ようやくこの日最後の目的地、南区楊林洞(ヤンニムドン)に到着。この時点で午後8時を回っており、辺りはすっかり暗くなっていました。
写真1枚目の大きな建物は「光州基督病院」といい、前述した全南大病院や光州赤十字病院と同じく、5.18当時には負傷した市民や市民軍の兵士たちを昼夜を問わず看護し、また世代を問わず市民たちによる自発的な献血の列が形成されるなど「大同(テドン)精神」が発揮された場所です。そして現在も全南大病院と並び、光州市民の医療と看護を担っています。そうした経緯から「光州基督病院」として5.18の史跡10号に指定され、写真2枚目右手の碑石も建てられています。

 

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当日はあまりにも暗く、ちゃんと写真が撮れているか確信がなかったので、この翌々日(5月22日)に楊林洞巡りをした際にもこちらを再訪しました。写真はそのとき撮影したものです。
518番バス
は光州基督病院を含む楊林洞一帯を通りません。

光州基督病院(광주기독병원:光州広域市 南区 楊林路 37 (楊林洞 264)。史跡10号)

 

余談ですが、この光州基督病院がある楊林洞は、19世紀末から20世紀初頭にかけて光州を拠点としたキリスト教宣教師たちが建てた近代建築群など数々の文化財が多数立地し、光州でも特に魅カにあふれたエリアとなっています。旅の3日目、5月22日に訪問したこれら楊林洞のスポットについては追って紹介する予定です。ご期待ください。

今回の旅1日目となるこの日の5.18関連スポット巡りはこれで終了。
この日巡った5.18の史跡は、全30か所(当時)のうち13か所(再訪含む)。未踏の史跡は5か所を残すばかりとなりました。
さてこの日はある方との会食のお約束があり、その場所である西区の尚武(サンム)地区へ移動します。

 

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待ち合わせのため訪れたのは、地下鉄1号線「尚武」駅そばにある「ウォンドゥマッ」。注文を受けてから出てくるまで約20分かかるという「タットリタン」(닭도리탕:鶏と野菜の煮込み)が絶品とのことで、今回お会いする方におすすめいただいたお店です。

 

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そしてお約束していた方と面会し、ともに趣味とする韓国の旅の話が弾む中、お待ちかねのタットリタン登場。タットリタンといえば以前に食べたものがそうであったように猛烈な辛さを想像していたのですが、こちらはほどよい辛さに抑えられていました。色からもわかるように濃いめの味付けが実によくビールに合います。そして肝心の鶏肉も脂が抜け落ちない絶妙な加減で柔らかく煮込まれています。鶏肉も、ヤンニョムが染みたジャガイモもうんまい。

 

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同じくおすすめいただいたケランチム(계란찜:韓国風茶碗蒸し)。こちらもおいしかったです。

 

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こちらのお店「ウォンドゥマッ」の営業時間は午前10時30分~午前2時、日曜休。地下鉄1号線「尚武」駅5番出口を出てからはわずか徒歩2分の距離にあります。こちらの食レポも参考になりますのでぜひ見てみてください。
タットリタン、おいしかったです。楽しい夜をありがとうございました。

ウォンドゥマッ(원두막:光州広域市 西区 尚武中央路 6-28 (治平洞 264-3))

 

こうして光州の旅1日目は終了。翌日も続く5.18の旅のためゆっくり休むのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

光州の旅[201705_04] - 毎日午後5時18分にあの音楽が流れる時計塔、全南道庁周辺の史跡巡り

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com 

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の1日目(2017年5月20日(土))です。

 

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史跡11号の「旧光州赤十字病院」から徒歩数分で「5.18民主広場」に到着。
全羅南道(チョルラナムド)庁舎(全南道庁。現・アジア文化殿堂。写真2枚目の奥にある白い建物)の正面に広がるこの広場は、1980年5月当時の抗争期間において反・全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)、反・新軍部全斗煥をはじめとする軍上層部の非公式グループ。1979年の「12.12クーデター」で実権を掌握し、全斗煥の大統領就任後は「第5共和国」軍事政権の要職を担当)を掲げた市民決起大会が何度も開催された現場です。

 

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5.18当時には写真のように演台代わりの噴水台を囲んで数多くの市民がここに集結し、暴虐の限りを尽くした戒厳軍、そして実質的な最高権力者であった保安司令官の全斗煥打倒を誓った現場です。そうした経緯からこの噴水広場は「5.18民主広場」と名付けられ、5.18民主化運動の史跡5-2号に登録されています。
またここを起点とするメインストリート「錦南路」(クムナムノ)では5月18日から21日にかけて戒厳軍の無差別暴力が展開され、さらに21日には広場のすぐそばで戒厳軍による集団発砲が発生、そして最終日の27日には全南道庁での市民軍による最終抗戦と、いずれも数多くの死傷者を出すなど、民衆抗争の最前線にあった場所でもあります。 

 

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そんな5.18民主広場の一角にそびえ立ち、戒厳軍の蛮行と市民たちの抗戦、流血を見つめてきた歴史の証人というべき存在がこちらの時計塔です(こちらの写真2枚に限り2016年8月撮影)。こちらの時計塔は5.18以後、一時は同市西区の農城広場(ノンソンクァンジャン)へ移されましたが、2013年に再び5.18民主広場へ戻され、現在は「5.18時計塔」と呼ばれています。
この時計塔は毎日午後5時18分になると、5.18を、そして光州精神を最も象徴する歌である「ニムのための行進曲」(こちらのエントリーにて紹介)のチャイムが流れます。それがどうしても聴きたくて、この時刻に間に合うよう急いでやって来たというわけです。 

 

youtu.be午後5時18分、チャイムの動画を撮ってきました。
途中から歌声が聞こえるのは、たまたまそばにいた20人ほどの団体がこのメロディにあわせて歌い出したからです。かくいう私も気づいたら口ずさんでいました。
5.18の史跡や関連施設などを巡る518番バスこちらのエントリーにて紹介)で行く場合は、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停にて下車、すぐです。 

5.18時計塔(5.18시계탑:光州広域市 東区 錦南路1街 12-7)

 

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5.18民主広場を挟むようにして全南道庁と向かい合うのが、こちらの建物「尚武館」(サンムグァン)です。
元々は柔道場などに使用されていた施設でしたが、5.18当時は戒厳軍に殺害された市民たちの遺体安置所となり、行方不明となった親族を探しに多数の人々がここを訪問、幾多もの涙が流された場所です。その当時の凄惨極まりない様子は、自身もまた小学生の頃に5.18を体験した小説家、韓江(한강:ハン・ガン、1970-)氏の小説『少年が来る』でも詳細に描写されています。そうした経緯から、こちらの建物は5.18の史跡5-3号に指定されています。
前回来たときは閉鎖されており、5.18の史跡を示す丸い碑石にもカバーがかけられていましたが、5.18民主化運動37周年を記念して開催された展示企画の一環で旧全南道庁とともに開放され、碑石もその姿を見せていました。

 

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尚武館の内部。犠牲者たちの無数の棺が並べられた場所です。
そのことを示す案内パネルと、ろうそく(を模したLEDランプ)が立てられていました。
尚武館へは、518番バスは国立5.18民主墓地方面行き、尚武地区方面行きともに「国立アジア文化殿堂(旧.道庁)」(국립아시아문화전당(구.도청))バス停にて下車、徒歩約2分です。

尚武館(상무관:光州広域市 東区 文化殿堂路 381 (錦南路1街 12-1)。史跡5-3号)

 

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尚武館を出て、全南道庁周辺の史跡巡りをスタートします。
尚武館や5.18民主広場、旧全南道庁を含む「国立アジア文化殿堂」敷地内にある「プラザブリッジ」。この日はフリーマーケットが開催されていました。

 

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プラザブリッジを渡って少し歩くと、道路沿いの歩道に写真の碑石が現れます(こちらの写真に限り2016年8月撮影)。こちらは「緑豆書店旧跡」といい、1980年の5.18民主化運動当時は「緑豆書店」(ノクトゥソジョム)という名の古書店がこの場所にありました。
書店の店主であった金相允(김상윤:キム・サンユン)氏は、かつて「民青学連事件」で収監された経験のある民主運動家であり、その後1977年に緑豆書店を開業。軍事政権下では公然と販売することの難しかった民主化関連の書籍を扱っていたことから、民主化を願う学生や青年たちが出入りし、ときには討論が繰り広げられる場所となりました。
そうした来客の中には、労働問題に身を投じる決意で1978年にソウルから戻ってきた尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士(こちらのエントリーにて紹介)の姿もありました。トゥルブル夜学(こちらのエントリーにて紹介)の講学(講師)となったことで民主化運動への関心を強めた尹祥源烈士は金相允氏との親交を深め、いつしか金相允氏から書店の共同経営の誘いを受けるほど親密な関係となりました。
そうした中で迎えた5.18。前日・17日深夜に拘束された金相允氏に代わって妻の鄭賢愛(정현애:チョン・ヒョネ)氏が店を守る中、緑豆書店は尹祥源烈士たち光州の民主人士と全国の学生・民主化運動家とをつなぐ状況室としての役割を果たします。戒厳軍の電話回線切断により市外通話ができなくなってからは、戒厳軍を威嚇するための火炎瓶や、集団射撃により殺害された人々を悼むための喪章などを製作する場となりました。

 

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ちなみに店名にある「緑豆」とは、1894年に発生した東学農民戦争(甲午農民戦争東学党の乱)で東学軍を率いて日本軍と戦い、その翌年に処刑された全琫準(전봉준:チョン・ボンジュン、1854-1895)将軍のニックネームにちなんで付けられたものです。身長が約152cmと当時の男性の中でも小柄だったことからこの名がついたとされ、現在も「緑豆将軍」の愛称で韓国の人々に敬愛されています。
東学農民戦争の史跡や関連施設を巡る旅は、いつかしなければなりません。
518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、徒歩約2分です。 

緑豆書店旧跡(녹두서점 옛터:光州広域市 東区 霽峰路134 (壮洞 55-13)。史跡8号)

 

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緑豆書店旧跡の道路向かいから200mほど離れた場所に、また例の碑石があります(写真1枚目に限り2016年8月撮影)。こちらは「光州MBC旧跡」といい、1980年当時は国営放送局のひとつである文化放送MBC)の光州放送局があった場所です。
5.18当時、同じく国営放送局であるKBSとともに全斗煥たち新軍部寄りの報道に徹し、戒厳軍の蛮行に対する光州市民の抵抗を暴動かのごとく報道し続けたMBCに市民の怒りが爆発。市民による乱入を経た後、抗争3日目・5月20日の午後9時過ぎにはついに放火され、一夜にして全焼。こうした経緯からその跡地は5.18民主化運動の史跡7号に指定されています。
他の史跡とは異なり、こちらの碑石は「瑞元門の提灯」というアート作品と一体になっているのが特徴的です。
518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、目の前です。 

光州MBC旧跡(광주MBC 옛터:光州広域市 東区 霽峰路 145 (弓洞18-1)。史跡7号)

 

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緑豆書店旧跡からおよそ3分ほど歩くと、こちらの建物が見えてまいります。こちらは5.18民主化運動の史跡でこそありませんが、大きなかかわりのある場所です。

 

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この2階に入居しているのは「ミンドゥレ(민들레:タンポポ)小劇場」といい、劇団「トバギ」(토박이:「生え抜き」の意)の本拠地です。

 

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朴暁善(박효선:パク・ヒョソン、1954-1998)烈士(写真は5.18自由公園「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフ。今回の光州の旅における一連のエントリーでも度々登場する、尹祥源烈士など「トゥルブル(野火)7烈士」(こちらのエントリーにて紹介)の一人に列せられた人物ですが、朴暁善烈士にはもうひとつ「劇作家」としての顔があります。

朴暁善烈士は1979年、ここ光州にて複数の劇仲間とともに劇団「クァンデ」を旗上げしました。5.18直前の1980年4月には劇団創立からわずか1年にして、当時の社会問題をテーマにした劇『テジブリマダンクッ』の共同演出で高い評価を得ています。尹祥源烈士たちトゥルブル夜学と関わったのも、文化担当特別講学(講師)として参加したのがきっかけでした。
こうした縁もあり、朴暁善烈士は5.18においてクァンデの仲間たちとともに民衆抗争に飛び込みます。メディアに代わり光州市民の目となり耳となった『闘士会報』の制作に携わったほか、全南道庁前の噴水広場(現・5.18民主広場)で全7回開催された市民決起大会ではクァンデの劇団員とともに主管を担当、そして抗争指導部の発足後には広報部長を務めます。
その後20ヵ月に及ぶ手配生活と3ヵ月の獄中生活を経た後、1984年2月に立ち上げたのが現在も活動を続ける「トバギ」です。朴暁善烈士は拷問の後遺症に苦しみつつも「トバギ」の劇作家として活動を続け、1987年の「6月民主抗争」(こちらのエントリーにて紹介)を経た翌88年には5.18民主化運動を描いた演劇『クミの五月』(금희의 오월)を上演、高い評価を受けます。
朴暁善烈士は1998年9月、肝臓がんのため死去。その後も「トバギ」の劇団員たちは烈士の遺志を引き継ぎ、現在に至るまでここミンドゥレ小劇場を舞台に、5.18民主化運動を題材とした作品を中心に演劇活動を続けています。

 

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この日(5月20日)、同劇場にて公演されていた劇『チョンシルホンシル』(청실홍실:「青い糸と赤い糸」の意)のポスター。こちらも5.18をテーマにした作品で、よく見ると「原作:朴暁善」のクレジットがあります。
韓国の演劇には若干の興味がありつつも、ヒアリング能力の問題でずっと二の足を踏んでいましたが、「トバギ」の演劇は近いうちに観るつもりです。

ミンドゥレ小劇場(민들레소극장:光州広域市 東区 東渓川路 111 (東明洞200-12))

 

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ミンドゥレ小劇場から今度は南へ下って12分ほど歩いた場所に、写真の教会があります。
こちらの教会は「南洞聖堂」といい、抗争5日目、前日の戒厳軍の一時撤退による「解放光州」1日目の1980年5月22日、地元の名士12名が集まって収拾対策を協議した場所です。こうした経緯から、南洞聖堂は史跡25号に指定されています。
また1982年には、40日間あまりにも渡る獄中での断食闘争の末に亡くなった、元・全南大学生会長の朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)烈士の遺体を安置した場所でもあります。

 

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碑石の近くには、5.18当時の写真がいくつか展示されていました。
南洞聖堂へは、518番バスは国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「東区庁」(동구청)バス停にて下車、徒歩約5分で到着します。

南洞聖堂(남동성당:光州広域市 東区 霽峰路 67 (南洞 55)。史跡25号)

 

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南洞聖堂から東へ向かって9分程度歩くと、遠くからでも目立つ写真1枚目の巨大なオブジェが見えてきます。こちらは「朝鮮大学校」の正門で、その向かって右側奥の脚の根元付近に5.18の史跡を示すあの碑石が建っています。

1980年5月。学生運動家たちを中心とした全国各地での民主化デモが拡大する中、当時の保安司令官であった全斗煥をはじめとする「新軍部」のメンバーは政権掌握を期して17日の午後9時、憲法に定められた国会通過手続きを経ることなく、同日の24時(翌18日午前0時)をもって非常戒厳の全国拡大措置を決定。地図上での新たな対象地域は済州島のみでしたが、「全国」拡大はすなわち戒厳司令部への権限集中を意味するものでした。またその対象には深夜の通行禁止だけではなく、政党・政治活動の禁止、大学休校令、集会・デモの禁止なども含まれていました。これを受け新軍部は17日深夜に全国の大学への戒厳軍投入を命令。
さらに非常戒厳の全国拡大に先立ち新軍部は、金大中(김대중:キム・デジュン、1924-2009。後の大統領)氏や金鍾泌(김종필:キム・ジョンピル、1926-)氏など政治家や在野人士、各大学の学生会長や学生運動家たちを相次ぎ拘束します。5月17日深夜から翌18日未明にかけて発生したこれら一連の動きを、韓国では「5.17クーデター」「5.17内乱」などと呼びます。

 

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こうして全国の大学に投入された戒厳軍が光州にてまず進駐したのが全南大学校であり、この朝鮮大学校でした。進駐後まもなく、戒厳軍兵士たちによる学生たちへの暴行が始まります。これこそが5.18民主化運動における一連の戒厳軍による暴虐、そして市民たちの10日間に及ぶ抗争の発端となりました。
以後、5月21日に戒厳軍が光州市中心部から戦略的撤退をするまで朝鮮大学校は戒厳軍の拠点のひとつとなり、数多くの同大生たちが筆舌尽くしがたい暴力を受けて拘束され、あるいは殺害され極秘裏に埋められています。こうした経緯から、朝鮮大学校は史跡12号に指定されています。
518番バス朝鮮大学校のそばを通りませんが、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「東区庁」(동구청)バス停から徒歩10分程度(約690m)で碑石のある正門に到着できるようです。

朝鮮大学校(조선대학교:光州広域市 東区 畢門大路 303 (瑞石洞 421)。史跡12号)

 

日が落ちて、いよいよあたりが暗くなってまいりました。
この日のうちに訪れておきたい5.18の史跡は残り2か所。夕闇に追われるかのように足を速めるのでした。

 

それでは、次回のエントリーへ続きます。
次回は久々に料理が紹介できそうです。

 

【付記】
本年(2017年)5月の光州訪問後、新たに次の2か所が5.18民主化運動の史跡に指定されたとのことです。

●史跡28号(2017年8月15日指定)
全日ビルディング(전일빌딩:光州広域市 東区 錦南路 245 ((錦南路1街 1-1))

1965年築。5.18当時を含め、かつてここは「全南日報社」という新聞社(現存する同名新聞社とは別)が入居しており、この名前がついています。本エントリーにて紹介した「5.18時計塔」動画の後方に見える白いビルがまさにこの建物です。
錦南路沿い、抗争4日目(5月21日)の戒厳軍による集団発砲現場の真横に位置することから外壁の弾痕は以前から知られていましたが、最近になって10階フロア内の弾痕がその角度から空中発射されたものである可能性が濃厚となり、複数目撃談があるヘリコプターからの無差別射撃を裏づけるものとして注目が高まっています。10階フロアは弾痕を含め原型保存のうえ、近日中に公開される予定とのことです。

●史跡29号(2017年9月10日指定)
故洪南淳弁護士家屋(고 홍남순 변호사 가옥:光州広域市 東区 霽峰路 153 (弓洞15-1))
5.18当時は市民収拾委員となり、戒厳軍の市内進入を防ぐため衣服を脱いで地面に寝そべる「死の行進」など犠牲者抑制のために尽くした洪南淳(홍남순:ホン・ナムスン、1912-2006)弁護士の旧宅です。抗争終了後には内乱首魁容疑との濡れ衣を着せられて無期懲役の判決を受け、1年7ヵ月の獄中生活を余儀なくされました。釈放後も光州拘束協会長、5.18光州民衆革命記念事業および慰霊塔建立推進委員長などを務めるなど、5.18の真相究明と被害者の名誉回復のために生涯を捧げた人物です。

前回の指定(2013年の「トゥルブル夜学旧跡」史跡27号)から4年の空白を経て立て続けに2件の追加登録がなされたのは、何より37年を経た現在もなお真相究明や犠牲者・被害者たちの名誉回復に関わる人々の努力の賜物でありますが、5.18民主化運動を舞台に描き、本年8月の公開からわずか1ヵ月あまりで歴代興行ランキングトップ10に入る大ヒットとなったソン・ガンホさん主演の映画『택시운전사』(タクシー運転手)の影響も少なくないとみています。今後も注目してゆきたいと思います。

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