かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

高興の旅[201710_02] - 居金島自転車の旅、「大木金太郎」の名でも知られる島出身のプロレスラーを称える「金一記念体育館」

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)などを巡る旅、明けて2日目(2017年10月28日(土))の朝です。

 

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まだ夜が明ける前の午前5時過ぎ、都市鉄道(地下鉄)1号線「農城(ノンソン)」駅近くのホテルを出発。向かったのは同ホテルから歩いて行ける距離にある光州総合バスターミナル「U-Square」(유스퀘어)
上空から見るとドーナツを半分に切った形をしているこちらの建物は高速バスと市外バスの両方のターミナルを兼ねており、ここからは全羅南道内の各市郡はもちろん、ソウルや釜山など道外の各都市、遠くははるか江原道(カンウォンド)の江陵(カンヌン)や束草(ソクチョ)、太白(テベク)まで全国津々浦々に路線網が張り巡らされています。これらの中でもソウル・セントラルシティターミナル行きの便は1日なんと138便、午前4時から深夜0時45分まで平均10分足らずの間隔で出発するという市内バスもびっくりの路線です。
このような路線網を持つのは光州が大都市だからだけではなく、同市に拠点を構える路線バス大手、錦湖(クモ)高速の存在が大きいでしょう。

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U-Square、コインロッカーも充実しています。
 

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購入したのは全羅南道の南岸沿い、一部は多島海海上国立公園にも面している高興(コフン)郡のうち、道陽邑(トヤンウプ。邑(ウプ)は日本の「町」に相当する地方自治体)の「鹿洞(ノクトン)バス共用停留場」行きのチケット。料金は15,000ウォン(約1,580円:当時)。
ところで鹿洞といえば、本ブログでも以前に紹介したことのある光州都市鉄道(地下鉄)1号線の東側の終点「鹿洞」駅を思い出す方もいらっしゃるでしょうが、こちらは光州市内であり全く別の場所です(バスは同駅の近くを通過しますが)。
 

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U-Squareを午前6時15分に発つ写真の市外バスに乗り、鹿洞バス共用停留場を目指します。
バスはU-Squareを出ると、南光州(ナムグァンジュ)停留場⇒所台駅(ソテヨク)停留場⇒和順(ファスン)市外バス共用停留場⇒曲川(コクチョン)停留場⇒筏橋(ポルギョ)バス共用ターミナル⇒過駅(クァヨク)バスターミナル⇒高興(コフン)共用バス停留場⇒鹿洞バス共用停留場の順に停車します。これら停留場名に頻繁に出てくる「共用(コンヨン)」とは、韓国では明確に区分されている高速バスと市外バスの「共用」という意味。これら都市間を結ぶバスのうち、高速バスは起点・終点近くや乗換のためのバス停に停車することはできますが、あちこちの停留所に立ち寄って乗客を乗降させられるのは市外バスに限られています。私が乗車したのはまさしく市外バス。
 

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U-Squareを出て1時間20分ほどで、宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)の筏橋バス共用ターミナルに到着。沿線では光州、和順に次いで大きな街であり、何人かがここで乗り降りします。この日の宿泊地はここ筏橋であるため、当日中に再び戻ることになります。
 

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筏橋を出て少し南下すると車窓に現れる山、尖山(첨산:チョムサン、314m)。それはもう見事なとんがり山です。筏橋を舞台とした大河小説『太白山脈』にも登場します。
 

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写真は順に過駅バスターミナル高興共用バス停留場。高興では私以外の全乗客が下車して、とうとう貸切状態かと思ったら、出発間際に10名以上の高校生くらいの集団が乗ってきました。光州を発ってから乗客数が最多の状態に。と思ったらバス停でもなんでもないところで停車し、全員降車。どうやら運転手さんが気を利かせて、目的地(学校?)近くで降ろしてくれたようです。いいなあこういうの。
 

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そして、終点の鹿洞バス共用停留場に到着。光州からおよそ2時間半の旅でした。

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鹿洞バス共用停留場の市外バス時刻表。ソウル行きのバスが5便、釜山行きが3便もあります。
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鹿洞バス共用停留場の内部はこんな感じ。残念ながらコインロッカーはありません。
 

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キャリーバッグを引きつつ、徒歩で鹿洞港方面へ向かいます。
鹿洞とは高興半島の西端近くに位置する港街で、同半島全体を行政区域とする高興郡内でも2番目の人口を誇る道陽邑の中心地です。
市街地にある漁港(旧港)では海産資源に富んだ近隣の多島海海域で獲れた魚介類が水揚げされ、活発に取引されています。また漁港から少し離れた鹿洞新港旅客船ターミナルからは多島海に浮かぶ島々へ、そして遠く巨文島(コムンド)や済州島(チェジュド)へ向かうフェリーが就航しています。この日の目的地である2つの島も、21世紀に入り架橋されるまでは漁港側の埠頭から渡船が出ていました。
 

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しばらく歩くと右手に現れる在来市場、「鹿洞伝統市場」。

 

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「鹿洞伝統市場」、立ち寄らずにはいられません。大好きな韓国の市場の雰囲気です。こちらの市場は末尾3と8の日が五日市の日で、この日(10月28日)がまさにその当日。店頭には旬の柿をはじめとする果物や野菜が山のように積まれていたほか、やたらとタマネギの苗が売られていたのが印象的でした。

 

さて、この日の目的地である2つの島へは、自転車を借りて自力で向かう計画を立てていました。それというのもこれら目的地は橋で結ばれているとはいえ離島であり、鹿洞からのバスの便数が限られていたためです。鹿洞にはレンタサイクル業者があるとの情報を事前につかんでいましたが、場所は分からなかったため、市場近くの鹿洞派出所へ。
派出所にいた3名の警官の方にレンタサイクルの場所を尋ねると、異口同音に「鹿洞にレンタサイクルはない」との答え。当初計画ではレンタサイクルのお店に荷物を預かってもらうつもりでしたので、自転車・荷物ともにここで大きくあてが外れてしまったことになります。
 

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仕方ないので、せめて荷物だけでも派出所で預かってもらおうとお願いしたところ、荷物預かりを引き受けるのみならず、なんとそのうち一人の方の自転車(私有物)を無料で貸していただけることに。提案に驚きつつも、お言葉に甘えることにしました。大感謝。
派出所からパトカーに乗せてもらい、その方のご自宅へ。そこでこの日の相棒となる写真の赤い自転車にまたがり、島めぐりがスタート。愛用のトートバッグをリュックのように背負い、自転車を漕ぎ出します。
 

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はやる気持ちを抑えつつ、まずは大事な腹ごしらえから。まだ慣れない自転車で向かったのは、事前に調べておいた写真のお店「誠実(ソンシル)サンジャンオタン・クイ専門」。
 

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店名のサンジャンオタン・クイとは「活きチャンオのスープ・焼き」の意。チャンオ(장어:長魚)とはウナギまたはアナゴ、あるいはこれら細長い魚の総称のことですが、ここでは鹿洞港の名物のひとつでもあるアナゴ(正確には붕장어:プンジャンオ)を指します。ちなみに韓国では「アナゴ」という日本名でも普通に通じますし、実際にこちらのお店のメニュー表にもわざわざ「아나고(アナゴ)」とカッコ書きされています。
注文したのはメニュー表最上段のチャンオタン、12,000ウォン(約1,250円:当時)。
 

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そしてやって来たチャンオタン。
ぱくり。淡白ながらも濃厚な味のチャンオの身も、スープもうんまい。見た目通り辛いスープですが、ご飯を入れるとマイルドに。アナゴをこうした辛いスープで食べたのは初めてですが、相性の良さに感心してしまいます。

 

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それとチャンオタンと一緒に出てきたパンチャン(おかず)のうち、写真の茄子を炒めたものが、絶妙な加減のニンニク風味で猛烈にうんまかったです。ご飯と一緒に食べると幸せになるやつだ。思わずご飯と一緒におかわりしてしまいました。

こちらのお店「誠実サンジャンオタン・クイ専門」の営業時間は午前9時~午後10時、年中無休。鹿洞バス共用停留場からだと徒歩約16分(約1km)で到達できます。

誠実サンジャンオタン・クイ専門(성실산장어탕·구이전문:全羅南道 高興部 道陽邑 飛鳳路 177 (鳳岩里 2786))
 

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鹿洞港の対岸に広がるのは小鹿島(ソロクト)。遠くには2008年6月に開通した、小鹿島へ渡る道路橋「小鹿大橋(ソロクテキョ)」が見えます。これから自転車でこの橋を渡ります。
 

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小鹿大橋への登り道の手前にあった、セマウル号の廃客車。事務所として活用されていました。
 

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小鹿大橋を渡ります。写真2枚目は小鹿大橋の橋上から眺めた鹿洞港の風景。
 

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小鹿大橋を渡って小鹿島に上陸。しばらく走ると、またもや大きな橋が現れます。こちらは「居金大橋(コグムデキョ)」といい、小鹿島とさらにその南にある居金島(コグムド)との間に架けられた1,116mの斜張橋を含む総延長2,028mもの長大橋で、2011年12月に開通しました。小鹿大橋・居金大橋ともに一応歩道らしきスペースはあるのですが、車道と段差がないうえ、すぐそばを乗用車やトラックが猛スピードで駆け抜けてゆくのでちょっと怖いです(後述するように居金大橋には人道が別にあります)。

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居金島に上陸。小鹿島までは道陽邑ですが、ここからは錦山面(クムサンミョン。面(ミョン)は日本の「村」に相当する地方自治体)に入ります。右手にはかつて鹿洞港からの渡船が着いた錦津(クムジン)船着場が見えます。
 

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居金島は面積約63.57平方km、韓国では10番目に大きな島で、人口は約4,700人(2017年時点)。島全体が高興部錦山面に属しています。
朝鮮時代前期の15世紀、当時は折爾島(チョリド)と呼ばれたこの島には軍馬を育てるための牧場城(モクチャンソン)が設置されていました。またこの島には大規模な金脈があるとされ(採掘はされていない)、朝鮮時代中期の文献には「巨億金島」(コオックムド)の名で記録があり、これが居金島の名の由来となったとされます。島内には金蔵(クムジャン)や益金(イックム)、古羅金(コラグム)など「金」(금:クム)が付いた地名、あるいは錦山や錦津港のように「金」と発音が同じ「錦」の付いた地名が点在しており、金脈との関係を指摘する説もあるようです。
 

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写真1枚目は、居金大橋を渡ってすぐの場所にある巨大なモニュメント。
このモニュメントのそばには広い駐車場に加え飲食店や売店などがある「道の駅」みたいな休憩施設(写真1枚目左に少し写っている建物)があります。
この休憩施設の中には、写真2枚目のレンタサイクル店、そして何台ものレンタサイクルが。私が調べた鹿洞のレンタサイクルとは、実はこちらのことだったのかもしれません。鹿洞にはタクシーが結構いますので、ここまでタクシーで移動して自転車を借りるという手もありそうです(返却後の鹿洞への移動に難儀しそうですが)。
 

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居金島内をしばらく走り、面事務所(日本の村役場に相当)のある錦山の街に到着。写真は「錦山教会」。
 

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ここ錦山地域に建つ写真1枚目の建物は「金一記念体育館」といい、日本では「大木金太郎(おおき・きんたろう)」のリングネームで知られる同島出身のプロレスラー、「頭突き王」金一(김일:キム・イル、1929-2006)氏を記念したスポーツ施設です。その正面には金一氏の石像も。
私もまたそうですが、本ブログをお読みいただいている皆様の中にも、現役当時の「大木金太郎」選手の勇姿をご記憶の方が少なくないことでしょう。
 

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玄関を入った突き当たりには、その名の通り広い体育館が。金一氏の写真が掲げられています。
 

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体育館の玄関ホールの左には、太極旗を背にし、いまにも得意の頭突きを浴びせようとする現役時代の金一選手の勇姿が。この日最初の目的地である「金一遺品展示室」の入口です。
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金一氏は1929年、全羅南道高興郡錦山面於田里(オジョルリ)、現在の金一記念体育館一帯を含む平地(ピョンジ)マウルにて生まれました。
身の丈185cmもの体躯を活かし、朝鮮戦争前後にはシルム(씨름:日本では「韓国相撲」とも呼ばれる格闘技)の選手として活躍。

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その後1956年には、国交樹立前にもかかわらずその名声が韓国にまで届くほど人気絶頂だった力道山(りきどうざん、1924-1963)に弟子入りしようと日本へ密航しますが、到着後に逮捕され収監。翌年になってようやく憧れの力道山と面会し、その第1期門下生となります。収監を解かれたのも、獄中からの手紙を受け取った力道山が政治家に働きかけ、その保証人となったからでした。
入門翌年の1958年、師匠が命名した「大木金太郎」のリングネームでデビュー。相手の頭をつかみ、片脚を上げ全体重をかけて頭突き(ヘッドバット)をする独特のスタイルが人気を博し、遅れてデビューしたジャイアント馬場アントニオ猪木の両選手とともに、力道山率いる日本プロレスで「若手三羽烏」と並び称されるようになります。
この頭突きはデビュー当時、日本での「朝鮮人は石頭」というステレオタイプの偏見から師匠の力道山が着想し、得意技とするため鍛えさせたことに始まったといいます。当時は隠していましたが、力道山もまた咸鏡南道(ハムギョンナムド。現在は朝鮮民主主義人民共和国)出身のコリアンでした。
 

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1963年12月には師匠の力道山が暴漢に刺され、その傷がもとで急逝。折しも金一選手は米国での武者修行中で、葬儀への参列はおろか、保証人である力道山を失ったことで日本への再入国すらままならない状況となりました。その後1965年には韓国へ帰国、活躍の場を日本から移し、得意の頭突きを武器に「パッチギ(頭突き)王」の名をほしいままにします。またこの時期には数々のチャンピオンタイトルを獲得し、ついに1967年にはWWA第23代世界ヘビー級チャンピオンにまで登りつめ、韓国の英雄的存在となります。一方で国交樹立により再び入国可能となった日本でも引き続き古巣である日本プロレスの興行に参加しますが、馬場・猪木の2大スターの退団などにより日本プロレスは衰退、1973年に崩壊した後には彼らの率いる新団体への参戦と離反を繰り返すようになります。
そうした中で持病の悪化などにより1970年代後半あたりから試合の頻度は次第に低下、1980年代半ばには実質的な引退状態となってしまいます。この時期には現役時代の人脈を基に韓国でプロモーターとして活動しますが、韓国でのプロレス人気の凋落に加え手がけた事業はことごとく失敗。さらには長年にわたる頭突きの後遺症などによる疾患に苛まれ、徐々に活動の幅を狭めてゆきます。
日本での療養を経て1994年に帰国、入院。闘病生活の中でも1995年には東京ドームでのプロレスオールスター興行にて引退式が催され、金一選手は6万人ものプロレスファンに見送られました。また韓国でも2001年、かつて幾度となく熱戦を繰り広げたソウル・奨忠(チャンチュン)体育館で引退式が挙行されています。
そして2006年10月26日、慢性腎不全と心血管異常に伴う心臓発作により死去。77歳でした。

 

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「金一遺品展示室」にある金一氏の略歴。
現役当時、ソウル・貞洞(チョンドン)に金一選手専用の体育館を贈るほど熱烈なファンであった朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領から「何か願いはあるか」と尋ねられた際、「故郷の居金島に電気が引かれることです」と答えたことから、同島には他の離島に先んじて電気が通されたという逸話も残されています。

 

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 「金一遺品展示室」の室内。

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現役時代、リングヘの入場時に着用したガウン。
ガウンの脇腹から腰にかけて虎と竹、また背中にはキセルとサッカッ(삿갓:竹などで編んだ笠)がそれぞれ刺繍で描かれています。

 

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別のガウンとリングシューズ、そしてWWA世界ヘビー級チャンピオンのベルト(レプリカ)。1978年、当時のチャンピオンだったアブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher、1941-)選手を破り獲得したとあります。
 

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金一氏のパスポート。日本を含め海外遠征が多かったからか、出入国印やビザとみられるスタンプがいくつも押印されています。
 

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金一選手は、居金島の人々にとっては島の生んだ英雄として、そして韓国の人々にとって「永遠のチャンピオン」として記憶され、今日も敬愛されています。

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ご紹介した「金一遺品展示室」を含む「金一記念体育館」の開館時間は午前10時~午後5時、月曜休館。入場無料。前述した「鹿洞バス共用停留場」からだと最寄りのバス停である「錦山」まで直行するバスが4系統、合計で1日19便ほどあるようです(所要時間は40分前後)

金一記念体育館(金一遺品展示室)(김일기념체육관(김일유품전시실):全羅南道 高興郡 錦山面 居金中央キル 40 (於田里 1413-1)

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体育館のそばには「雲岩金一先生功績碑」、そして金一氏とその妻である朴今礼(パク・クムネ)氏の墓石が。
 

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功績碑と隣接して建つ「金一先生生家」。その割には新しく感じられます。再建されたものか、あるいは晩年に暮らしていた家なのかもしれません。
 

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金一記念体育館を出て、もと来た道を引き返します。
その道すがらの斜面では、居金島の名産のひとつであるフギョムソ(흑염소:黒ヤギ)さんたちが放牧されていました。
 

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再び居金大橋を渡って、小鹿島方面へ戻ります。
実はこの居金大橋、車道の下に歩行者や自転車専用の人道が設置されており、こうした2層式の橋は韓国初とのこと。行きがけにこちらを通らなかったのは、小鹿島側の道路に誘導案内がなかったこともあって、その存在を忘れていたためです(お恥ずかしいです……)。今度はもちろんこちらの人道を利用。脇を駆け抜ける自動車を心配することなく安心して走れますし、小鹿島や周囲の無人島(瀬)も落ち着いて眺められます。
 

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小鹿島側の突き当たりには、居金大橋建設時の写真パネル展示も。

そして小鹿島に再上陸。いよいよ、この日最大の目的地を探訪することになります。
それでは、次回のエントリーヘ続きます。

光州の旅[201710_01] - 日本語表記もふんだんな光州地下鉄に大仁市場の山盛りスンデ、楊林洞の夜散策

今回からは、昨年(2017年)10月27日(金)から同月30日(月)にかけての光州(クァンジュ)広域市、全羅南道(チョルラナムド)などの旅をお届けします。

光州広域市については、本ブログでは地域別だと現時点で最も多く紹介している(今回で17回目)街なのですっかりおなじみかとは思いますが(だといいな)、念のために改めて簡単に紹介したいと思います。
光州広域市とは、韓国(朝鮮半島南部)の南西部、湖南(ホナム)地方とも呼ばれる全羅道全羅北道(チョルラブット)と全羅両道の総称)のうち全羅南道エリアの北寄りに位置する、人口約150万人の大都市です(行政上は全羅南道から独立)。1980年5月に発生した、国軍(戒厳軍)による市民の虐殺とこれに敢然と立ち向かった光州市民たちの10日間にわたる抗争「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の現場としてご存じの方も多いことでしょう。

 

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現在の全羅南道エリアにおける行政の中心は長らく羅州(ナジュ)市(光州広域市の南西に位置する古都。こちらのエントリーにて紹介)が担ってきましたが、朝鮮時代末期の1896年に観察府が羅州から光州へ移転、そのまま光州が道庁所在地となったことで、以後は光州が全羅南道の中心地として発展するようになりました。写真は光州広域市東区(トング)、5.18民主化運動における市民軍の最終抗戦地にもなった1930年築の「旧全羅南道庁本館」(国家指定登録文化財第16号)です。
現在は自国の負の歴史である5.18民主化運動の記憶や史跡の保存など、韓国における民主主義の発信地としての機能を維持するほか、「光州ビエンナーレ」に代表される芸術文化の発信都市としても知られています。

光州は全羅南道における交通の要衝としても発展しており、道内各地への高速バス・市外バスが多数発着していることから、今回の全羅南道の旅における拠点とすることにしました。

 

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今回はチェジュ航空で仁川入り。往路での利用は同年1月の江原道(カンウォンド)・太白(テベク)の旅以来です。

 

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仁川空港にはソウル駅へ行く空港鉄道「A′REX」の駅が併設されていますが、この当時はKTX韓国高速鉄道)の車両が空港鉄道に乗り入れていましたので、仁川空港から乗換なしで全国各地の主要駅へ行くことができました。このとき、ちょうどいい接続で仁川空港駅を発つ木浦(モクポ)行き湖南線(ホナムソン)KTX列車番号523)があったので、今回はこれに乗って仁川空港から光州松汀(ソンジョン)駅へ直行。写真は当時の「仁川空港」駅に停車していたKTX-山川(サンチョン)。
なお、KTXの空港鉄道乗り入れは本エントリー執筆時点(2018年4月)では休止されています。また休止の少し前の本年(2018年)1月には「仁川空港第2ターミナル」駅開業により「仁川空港第1ターミナル」駅と改称されるとともにKTXの起点・終点ではなくなりましたので、今後もし乗り入れを再開したとしても、同駅でこうしてゆっくりと停車中の写真を撮ることはできなくなってしまいました。

 

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KTX-山川の車内にある液晶モニタ。出発前、あるいは停車駅への到着前には写真のような日本語を含む韓英中日の4か国語表記による案内がなされます。

 

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仁川空港駅を出て3時間弱で光州松汀駅に到着。こう書くと時間がかかっているように思えますが、ソウル駅からだと2時間06分、龍山(ヨンサン)駅なら2時間を切る1時間56分。ソウルからだと遠いイメージがある光州も実はすぐ近くなのです。5月の訪問以来、5ヵ月ぶりの光州です。

 

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KORAIL光州松汀駅前のエスカレーターを下ると、すぐに都市鉄道(地下鉄)1号線「光州松汀」駅があります。写真は同駅構内のコインロッカー。キャリーバッグが入る大サイズもあります。

 

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光州松汀駅からは都市鉄道(地下鉄)1号線に乗車。光州の地下鉄は現時点で1路線のみですが、駅や車両内における日本語を含む多国語表記はソウルや釜山に匹敵するレベルで充実しています。写真はそれら多国語表記の数々。

 

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写真は同年(2017年)5月に撮影した光州の市内バス。なんと正面の行先表示にまで日本語表記が。こうした市内バスでの韓英中日のローテーション表示は、光州のほか釜山などでも採用されています。
私は英文もハングルもー応は読むことができますが、やはり母語たる日本語表記の視認性の高さにはかなわないですし、その意味で日本語表記には幾度となく助けられています。昨年(2017年)には過去最高となる年間700万人に達した訪日韓国人の方々もきっと同じ思いでしょう。
その一方で日本ではこうした交通機関のハングル表記の排除を願う人々の主張が支持されており、ごく短時間のローテーション表示を切り取ってハングル表記が日本人への案内を阻害するかのように装い、その排除を主張するツイートも都度数千RTもなされ、「数の力」だけで説得力を増しています。こうした本来一顧だにする価値のない主張が対韓国だとあたかも一意見のような扱いをされるのが日本であり、その意味で日本は未成熟かつ退行を好む社会だという事実を強く強く痛感させられます。私は断固抗います。

 

「農城」(ノンソン)駅で下車し、駅近くのホテルにチェックイン。荷物を置いて再び外へ出ます。
ホテル近くのバス停を見ると、たまたま次の目的地へ向かうバスがやって来たので、すかさず乗車。こういうの好きです。

 

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そしてやって来たのは在来市場、「大仁市場」(대인시장:テインシジャン)。光州最大の在来市場とされる西区(ソグ)の良洞(ヤンドン)市場(こちらのエントリーにて紹介)に次ぐ規模を誇り、1980年の5.18民主化運動では良洞市場などと同じく、商人たちが自ら握ったチュモッパッ(おにぎり)やキムパッ(海苔巻き)をはじめ各種物資を市民軍たちに無償で提供するなど「大同精神」(助け合い、分かち合いの精神)が発揮された場所でもあります。
また近年では市場再活性化のための独自の取り組みとして、空き店舗のスペースをアーティストたちにアトリエとして提供、市場内での創作活動を通じて共生を図ろうというプロジェクトを進行し、その取り組みから「大仁芸術(イェスル)市場」との別名を持っています。さらに最近では釜山の富平(プピョン)カントン市場が火付け役となり全国に拡大した「夜市場(ヤシジャン)」も毎週土曜に開催しています(訪問当日は金曜のため開催なし)。
これまで光州では良洞市場のほか、1913松汀駅(ソンジョンヨク)・南光州(ナムグァンジュ)・マルバウの各在来市場を訪問したことがありますが、大仁市場は今回が初めての訪問となります。

 

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大仁市場の東門(トンムン)タリ入口寄り、フェッチッ(횟집:「刺身店」の意)が集まる一角。

 

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この訪問の少し前、韓国では殺虫剤が混入した鶏卵の流通が社会問題となっており、一時的に鶏卵が店頭から姿を消したことがありました。写真はそのことへの啓発を期した懸垂幕。

 

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この日の夕食目当てのお店はこの大仁市場内、「クッパッコリ」(국밥거리:「クッパ横丁」の意)と呼ばれる一帯にある「羅州食堂(ナジュシクタン)」。市場で働く人々の胃袋を預かる人気店です。

 

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こちらのお店、本ブログにて以前にも紹介したことのあるSBSテレビの人気番組『ぺク・チョンウォンの3大天王』(백종원의 3대천왕)にも登場したことがあり、壁にはその取材の様子を示すパネルがありました。

 

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入店時点では満席だったので少し待ってから席に着きます。目当ての料理をどう注文すればよいのか分からなかったので(理由は後述します)、まずはビールだけを頼んだら、ビールよりも先に写真のボウルに入ったスープとパンチャン(おかず)一式がやって来ました。
こちらのスープは「クッパ(普通)」、7,000ウォン(約730円:当時)。単品メニューにもあるマクチャン(막창:日本でいう「ギアラ」)やセッキボ(새끼보:同「コブクロ」)、モリコギ(머리고기:頭の肉)などの豚ホルモンが、スープの上に顔を出すほど大量にごろごろ入っています。これで「普通」なのですから、1,000ウォンアップの「特」は一体どれだけの量が入っているのでしょう。
まずはスープを口に含みます。おいしい。豚ホルモンも新鮮らしくシコシコしています。ご飯は別添。

 

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これで終わりかと思いきや、続いて出てきたのが写真の「スンデ」(순대:韓国風腸詰め)盛り合わせ。実はこのスンデ、こちらのお店で料理を注文するとついて来るパンチャンであり、無料です。つまり一般的な韓国の飲食店で出てくるサービスのキムチや小鉢などと同じ。それでこの量。もはやクッパとどちらがメインディッシュか分かりません。パンチャンが当たり前の韓国の人にとっても衝撃的なようで、「광주 나주식당」(光州 羅州食堂)で画像検索するとクッパなどのメニューよりもこのスンデの方がたくさん出てきます。
かく言う私も実はこのスンデこそが今回いちばんの目的でしたが、事前に同店の食レポを見てでさえこの量がサービスだとは思えず、しかもメニュー表には「スンデ」単品があったので、入店直後にどう注文すべきか迷った次第です。店員さんが指示なしにクッパを持ってきたのは、私のような来客に慣れているからかもしれません。
こちらのお店のスンデには生のプチュ(부추:ニラ)、そして謎の茶色い粉が振りかけられています。検索すると韓国ではポピュラーな「トゥルケ」(들깨:エゴマの実を摺ったもの)らしいのですが、それにしては色が濃すぎるような。炒りトゥルケなのでしょうか。

 

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クッパに続いて、スンデをばくり。うんまい。ビールによく合います。トゥルケらしき茶色い粉も香ばしくてよいアクセントです。スンデの下に隠れた、クッパの具と同じ豚ホルモンもあわせて食べ進めます。いずれもそのまま食べるほか、酢コチュジャンに付けてもおいしく召し上がれます。

 

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そうしてまずはスンデ盛り合わせを完食。一般的なパンチャンと同じく、おかわり(もちろん無料)の要否を尋ねられます。まだクッパが残っていたので断ったつもりでしたが、払の拙い韓国語のせいか2皿目のスンデが堂々登場。計算外でしたが、こうなると食べずにはいられない性分です。来店直後にビールの登場が遅れたこともあり、結局クッパは完食ならず。注文したメニューは原則完食をモットーとする私にとっては痛恨のダメージです……。
とはいえ量はもちろん味も大満足、そのうえ代金はビール(4,000ウォン)×4本とクッパ(7,000ウォン)で合計23,000ウォン(約2,400円:当時)だったという。なにこの店すごい。クッパのリベンジも含め、絶対また来ます。

 

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こちらのお店「羅州食堂」の営業時間は午前10時~午後10時、日曜定休。都市鉄道(地下鉄)1号線「錦南路4街(クムナムノサーガ)」駅4番出口からだと徒歩約10分(約640m)。同出口を出て中央路(チュンアンノ)を北東に進み、左手にある大仁市場の東門タリ入口(写真)を左折、アーケード内を直進するとまもなく右手に見えてまいります。他の方の食レポによると、食べ切れなかったスンデはポジャン(포장:包装。ここでは「折り詰めによるテイクアウト」の意)してもらえるようです。

羅州食堂(나주식당:光州広域市 東区 東渓川路53番キル 2 (大仁洞 307-38))

 

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中央路を下り、路面のすべてが5.18民主化運動の史跡である大通り、錦南路(クムナムノ)との交差点の脇の公園にあった「長馬跳び」をする子どもたちの人形。韓国では「マルタギノリ」(말타기 놀이:「馬乗り遊び」の意)と呼ぶそうです。

 

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さらに中央路を進むと、光州随一の繁華街である忠壮路(チュンジャンノ)の入口ゲートが左手に現れます。忠壮路にやって来たのは光州訪問3度目にして初めて。

 

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さすがは150万都市の繁華街だけあって、午後10時を過ぎても人足が途絶えません。飲食店以外を含め、道路沿いの店舗も大半が営業中です。それと忠壮路には街中のいたるところにコンビニ「ミニストップ」がありました。交差点のはす向かいにミニストップ同士対面している店舗も。コンビニの全国シェアでは10分の1にも満たないはずなのに、光州と全羅南道でのミニストップ遭遇率は異様に高いです。

 

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忠壮路にあった「lZAKAYA」の数々。日本の「居酒屋」どんだけ愛されてるんですか。

 

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忠壮路を抜けて、地下鉄1号線が地下を走る大通り、霽峰路(チェボンノ)沿いを南東に向かって歩きます。
霽峰路の道すがらにあった「全南(チョンナム)大学校病院」、5.18民主化運動の史跡9号であることを示す丸い碑石。

 

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霽峰路をさらに南東へ進み、この年の5月にも訪れた在来市場「南光州市場」(남광주시장:ナムグァンジュシジャン)の夜市場「南光州夜汽車夜市場」(남광주밤기차야시장:ナムグァンジュ・パムキチャ・ヤシジャン)へ。こちらは大仁市場とは異なり毎週金・土曜開催(午後6時30分~同11時)なので、この日(金曜)も開催されていました。前回は5.18の史跡巡りの途中でゆっくり見物できなかったため、もう一度訪れてみた次第です。

 

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この南光州市場は2000年に廃止された国鉄慶全線(キョンジョンソン)南光州駅の駅前市場として発展した場所であり、2016年秋からスタートした夜市場では「夜汽車」(밤기차)の名を冠し、アーケード入口には華やかな電飾で飾った機関車を、そして夜市場の主役である飲食屋台は車両(客車)を模したものを縦列配置することで、往年の駅前市場の思い出を呼び覚ますことを期しています。アーケードの天井には星空を模した照明も。同じ夜市場でもその元祖たる釜山・富平カントン市場や大邱(テグ)・西門(ソムン)市場ほどの賑わいはないものの、いい雰囲気です。
南光州市場と「南光州夜汽車夜市場」、そして前述した「全南大学校病院」については下記のエントリーでも紹介しています。あわせてお読みいただけますと幸いです。

 

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南光州市場を抜けた先の光州川(クァンジュチョン)には、2000年まで使用されていた慶全線の鉄橋がそのまま残されています。鮮やかな色でライトアップされていました。

 

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光州川を渡った先は南区(ナムグ)、楊林洞(ヤンニムドン)。かつて「楊」(ヤナギ)が茂っていたことからその名が付いたとされるこの一帯は、19世紀末から20世紀初頭にかけて宣教師たちが活動拠点とした場所で、それら宣教師たちが建てた近代建築の宝庫であることから「楊林洞近代文化遺跡」などと呼ばれています。加えて伝統韓屋(ハノク)や著名音楽家を記念する道とその生家、さらには住民たちによる異色の町づくりなど見所に富んだ地域であり、個人的には「仮に韓国へ転居するならばいちばん住んでみたい街」でもあります。
写真は楊林洞を東西に走る大通りの台南大路(テナムデロ)沿いにあるベンチ。ライトアップされていました。

 

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台南大路沿いにしばらく歩くと、以前にも紹介した写真の勇ましいポーズの銅像が現れます。こちらの人物はここ楊林洞に生家の残る音楽家、鄭律成(정율성/정률성:チョン・ユルソン/チョン・ニュルソン、1914-1976)氏。主に中国で活動し、生涯で360曲以上にものぼる作品の中でも「八路軍行進曲」は人民解放軍軍歌として正式認定されたことから、中国では絶大な知名度を誇る人物です。こちらの銅像もそうした緑で中国より贈られたものです。この像付近から始まる全長233mの道路沿いの壁面には氏を記念するモニュメントかいくつも設置されており、道路全体が「鄭律成通り展示館」と呼ばれています。

 

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鄭律成氏の生家。前回の楊林洞訪問の際に立ち寄ることを忘れていたので、今回は寄ってみました。とはいえ真夜中なので門は閉じています。

  

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すてきな雰囲気の夜の楊林洞をずんずん歩きます。

 

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夜の「茶兄茶房」(タヒョンタバン)。
かつて楊林洞に住んだこともある詩人、金顕承(김현승:キム・ヒョンスン、1913-1975)氏の号「茶兄」を冠したこちらの建物は無人カフェであり、住民にとっての歓談の場、また旅行者にとってのマイルストーン&休憩所として愛されてきましたが、惜しくもこの年(2017年)5月末をもって閉店。いずれ何らかの形で再オープンすることを願っています。

 

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楊林洞、「カジュアル食堂」という屋号のお店にあった、長靴を履いたかえるさんのイラスト。なごみます。

 

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f:id:gashin_shoutan:20180404212714j:plain夜の「ペンギンマウル」。
ご老人を中心とした住民の方々が自宅のがらくたなどを持ち寄り、壁面や空き地など住宅街の隅々を飾った街。日本語だと「ペンギン村」の意である「ペンギンマウル」の名は、そうしたご年配の方々が、自らの歩く姿をよちよち歩きのペンギンをにたとえて自ら名付けたものだそうです。

 

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マッコリ用と思しきやかんとアルマイトの鍋が壁面にたくさん掛けられた、その名も「ペンギン酒幕」。こちらのお店でマッコリを飲んでぼんやりしたいなと思いつつ再訪しましたが、さすがに午後11時過ぎでは閉店していました。また訪れることにします。

鄭律成通り展示館や茶兄茶房、ペンギンマウルなど見どころ盛りだくさんの楊林洞の探訪記については、以下のエントリーにて紹介しています。あわせてお読みいただけると幸いです。

 それでは、次回のエントリーへ続きます。

ソウルの旅[201709_07] - 早朝の鍾路散歩(その②)甲申政変の舞台「郵征総局」、現存する韓国最古の飲食店のソルロンタンを味わう

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)9月の江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)市などを巡る旅の4日目(2017年9月4日(月))、ソウル特別市鍾路区(チョンノグ)の早朝散歩の続きです。

 

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「空間(コンガン)社屋」から栗谷路(ユルゴンノ)沿いに西へ向かって歩き、「安国洞(アングットン)サゴリ」を左折すると、まもなく写真の建物が見えてまいります。
こちらの単層(平屋)八作屋根(ひさしを四方に巡らせた屋根)の建物は「郵征総局(우정총국:ウジョンチョングク)」といい、朝鮮半島における近代郵便制度の発祥の地であるとともに、1884年に発生したクーデター「甲申政変」(갑신정변)の舞台でもあり、韓国の史跡第213号に登録されています。

 

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朝鮮時代末期の1884年1月、当時の国王・高宗(고종:コジョン、1852-1919。朝鮮第26代国王、後の大韓帝国初代皇帝)は近代郵便制度を導入すべく、郵征局(ウジョングク)の設置を命じます。これは日本や米国への視察を通じて朝鮮への近代郵便制度導入の必要性を痛感し、うち日本視察においては「日本郵便の父」前島密(まえじま・ひそか、1835-1919)からその知識と資料を直に伝授された朝鮮の官吏、洪英植(홍영식:ホン・ヨンシク、1856-1884)の建議によるものでした。このとき漢城(한성:ハンソン。ソウルの当時の名称)での業務の拠点たる郵征総局に指定されたのが、推定1600年頃築、典医監(薬草を栽培して宮中向けの医薬品を製造する機関)の付属建物として長らく用いられてきた写真の建物です。郵征局のトップである総弁に任命された洪英植は、海外視察で得た知識を基に開局へ向けて尽力します。

 

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一方このとき洪英植には、清(中国)との事大関係※解消を目指す急進開化派のグループ「開化党」の重鎮というもうひとつの顔がありました。
(※大国への依存性向に基づく外交関係。ただし朝鮮と中国との関係においては、歴史的な冊封体制を考慮する必要があります。)
当時の朝鮮はその属国化を目論む清の影響力が増大しており、清の軍隊が常時駐屯している状況にありました。これは、その2年前(1882年)に起きた「壬午軍乱」(高宗の父・興宣大院君が兵士の反乱に乗じて権力奪取を図ろうとし失敗した事件)の際、高宗の妃である閔妃(민비:ミンビ、1851-1895。死後、明成皇后と呼ばれる)の外戚を中心とし、当時政権を掌握していた「事大党」と呼ばれる守旧派(清との事大関係を維持したい保守派グループ)たちが事態収拾のため清に支援を求めた結果もたらされたものでした。こうした清との事大関係解消なくして朝鮮の開化はないと考えた洪英植たち開化党は、かねてよりクーデターによる政権転覆を模索していました。

そうした中の同年(1884年)8月、折りしも清は安南(べトナム)を巡り対立していたフランスと開戦(清仏戦争)、それまで漢城に3,000人いた清軍兵はその半分にまで減少していました。
さらに同年10月、開化党のリーダー格である金玉均(김옥균:キム・オッキュン、1851-1894)らは当時の日本公使であった竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう、1842-1917)と密談し、竹添はクーデターにおける兵力150名の支援と円借款を約束します。2年前の壬午軍乱では朝鮮に対し強硬であった日本が一転して支援に回ったのは、清仏戦争での敗北により弱体化しつつあった清の勢力を追いやり、代わって朝鮮における日本の影響力を強めようとの狙いによるものでした。
こうして機を得たうえに一定の兵力を確保した開化党はついに、同年の12月4日、洪英植も郵征局総弁として参席する郵征総局の落成式祝宴に乗じてクーデターを実行することを決定します。

 

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洪英植らの尽力により同年(1884年)11月18日には郵征総局と仁川の支局が業務を開始。朝鮮における近代郵便制度の始まりとなりました。
そして開局から16日後の12月4日。郵征総局にて開催された落成式祝宴にて洪英植は、金玉均や朴泳孝(박영효:パク・ヨンヒョ、1861-1939)、徐載弼(서재필:ソ・ジェピル、1864-1951)らとともにクーデターを決行します。郵征総局と隣接する建物から火の手が上がり、現存する郵征総局を除き周辺の建物はすべて焼失。また開化党はこの騒ぎに乗じて、当時の王宮であった景福宮キョンボックン)内へ兵士を突入させ、閔氏一族と事大党により占められていた当時の重臣の多くを殺害、政権を掌握しました。
この事件から始まる、開化党による3日間のクーデターを「甲申政変」と呼んでいます。

まもなく開化党は新政府を組織、洪英植は左議政(最高位である領議政に次ぐ官職)となりました。あわせて新政府は事大主義の解消や人民平等の実現など、その改革政治の指針である「革新政綱」を制定、高宗の決裁まで取り付けます。しかしクーデター2日目(12月5日)には事大党の救援要請を受けた清軍が介入、竹添進一郎率いる日本公使館の兵力も形成不利と見るや密約を反故にして早々と撤退するなどしたため、その翌日(12月6日)にはついに鎮圧され、新政府はわずか3日で瓦解。革新政綱が公布されることはありませんでした。
金玉均や朴泳孝、徐載弼などは仁川・済物浦(チェムルポ)港を経て日本に亡命しますが、洪英植は高宗を守るべく朴泳教(박영교:パク・ヨンギョ。朴泳孝の兄)などとその許に残り、やって来た清軍兵によって朴泳教ともども殺害されます(大逆罪で処刑されたとの説あり)

 

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この甲申政変により郵征総局はクーデター初日の12月4日より業務中断を余儀なくされ、その5日後には正式に閉鎖が決定。1895年に新しい郵政官庁である郵逓司が設置されるまでのおよそ10年間は、旧制である駅站制(역참제:ヨクチャムジェ。日本でいう「宿駅制度」に相当)が存続することとなりました。
その後、かつての郵征総局の建物は漢語学校などに使用され、また日帝強占期には京城中央編集局長官舎に用いられた後、光復(日本の敗戦による解放)後に私有財産となったものをソウル市が購入。さらに1956年、その解体直前に逓信部(日本の省に相当)が買い取り、郵票(우표:ユピョ。「切手」の意)の図案をデザインする「郵票図案室」として使用しました。その間の1970年には史跡第213号に指定されています。そして全面改修を経て1972年に「逓信記念館」として開館、現在へと至ります。

 

郵征総局には午前8時40分ごろ到着。逓信記念館の開館時刻である9時まで待っていましたが、玄関は依然閉じたまま。結局5分くらい遅れて管理人の方が登場し、ようやく入館することができました。

 

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逓信記念館の内部と天井。初代郵征局総弁の洪英植、そして朝鮮における草創期の近代郵便制度に関する史料が主に展示されています。

 

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郵征総局が設置され、甲申政変が起きた朝鮮時代末期の年表。

 

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朝鮮における近代郵便制度発足当時の郵便配達員の服装。

 

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額面の単位が「文(ムン)」であるため一般に「文位郵票」(문위우표:ムニウピョ)と呼ばれる、朝鮮最初の切手(おそらくレプリカ)。1884年、日本の大蔵省印刷局(現・国立印刷局)に委託して印刷されたものです。5文(手前右)と10文(手前左)は郵征総局の閉鎖に伴い、発行からわずか20日ほどで使用できなくなりました。写真奥は左から順に100文、50文、25文の高額切手で、これらは郵征総局の閉鎖までに到着せず、結果として未発行のまま終わりました。写真では分かりづらいですが、図案には額面のほか「ㄷᆡ죠션국우초」(「大朝鮮国郵鈔」。「大」にあたる「ㄷᆡ」は実際は1文字ですがフォントがないのでここでは分割しています)、および「COREAN POST」の表記も(英文表記は5文切手を除く)

 

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朝鮮における近代郵便業務の再開以降に発行された切手の数々。

 

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韓国(朝鮮)近代郵便制度の創始者、洪英植の胸像。
洪英植は甲申政変の失敗によりその死後は逆賊とされたため、他の開化党メンバーと同様にその親族もまた連座制により罪を問われました。その結果、父の洪淳穆(ホン・スンモク)をはじめ一族20人が集団自殺に追い込まれており、その中には当時わずか5歳だった洪英植の息子も含まれています。なお洪英植はその死の10年後(1894年)の甲午改革において、生き残った兄の洪万植(ホン・マンシク)とともに復権を果たしています。
洪英植はたいそう人柄がよく、交友関係が広いうえに接したほぼすべての人々から敬愛されていたといいます。在朝清軍の総督であった袁世凱(ユエン・シーカイ、1859-1916。後の中華民国初代大総統)とも面識があり、クーデター失敗後に洪英植が高宗の許に残った際、その関係を知る者たちは「まさか殺されはしまい」と思ったといいます。

 

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写真1枚目は1883年6月、米国へ派遣された報聘使(朝米修好通商条約に基づく来朝使節への答礼使節一行の集合写真。洪英植はこのとき報聘使副使として随行し、ニューヨークの郵便局などを視察しています。写真2枚目は同建物内に展示されている、洪英植による米国郵便制度視察の報告書「洪英植復命問答記」。

 

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1897年に高宗が発行した朝鮮の旅券(パスポート)。

 

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ソウル郵征総局「逓信記念館」の開館時間は平日午前9時~午後6時(冬季は午後5時)、土曜は午前9時~午後1時。うち午前11時50分~午後0時50分までの1時間は昼食休みとなります。元日と名節(旧正月および秋夕)は休館です。入場無料。
首都圏電鉄(地下鉄)3号線「安国(アングク)」駅6番出口からだと徒歩約4分(約270m)同1号線「鍾閣(チョンガク)」駅2番出口からだと徒歩約6分(約410m)で到着できます。

ソウル郵征総局(逓信記念館)(서울 우정총국(우정기념관):ソウル特別市 鍾路区 郵征局路59 (堅志洞 39-7)。史跡第213号)

 

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郵征総局前の広場の地面には、朝鮮時代から近年にかけて発行された切手を描いたタイルがいくつか貼られていました。写真1枚目は1895年、近代郵便制度の再開時に発行された普通切手「太極郵票」1銭(チョン)。写真2枚目は左上から順に、普通切手「大韓帝国郵票」2厘(リ)(1900年:左上)、記念切手「大韓赤十字社創立第10周年記念」(1959年:右上)、同「第1回集配員の日記念」(1968年:左下)、同「人間月着陸記念」(1969年:右下)。前述したように、郵征総局の建物は1956年の逓信部による購入から1972年の「逓信記念館」開館までの間に「郵票図案室」として用いられましたので、これら記念切手の中にはまさにこの場所でデザインされ世に送り出されたものがあるかもしれません。

 

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郵征総局と隣接して、韓国仏教でも最大級の宗派とされる曹渓宗(チョゲジョン)の総本山、曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿が。極彩色の荘厳な建物です。元々は全羅北道(チョルラブット)井邑(チョンウプ)にあった1922年築の建物を1938年に移築したもので、ソウル特別市有形文化財第127号にも登録されています。
写真にはありませんが、数百本ものミネラルウォーターのペットボトルが大雄殿の入口そばに積まれていたのが印象に残っています。参拝者のためでしょうか。

 

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郵征総局から徒歩で5分ほどの距離には、改築工事中の在韓国日本大使館が。
そしてその道路を挟んだ向かいに、韓国で最初に建立された「平和の少女像」があります。
こちらの像は2011年、「慰安婦」問題につきあらゆる誠意ある態度を頑として拒み続ける日本政府への抗議デモであり、その実行日から名付けられた「水曜集会」の開催1,000回目を記念して、日本大使館を見つめるこの位置に建てられたものです。

 

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像と対面したのは3ヵ月前の大邱(テグ)広域市以来、この年(2017年)では釜山、ソウル「戦争と女性人権博物館」、大邱に続いて4度目です。
このときも、またこの日以降に像と対面した釜山、全羅南道(チョルラナムド)・木浦(モクポ)、ソウル漢城大入口(ハンソンデイック)駅、そして全羅北道・群山(クンサン)でもそうでしたが、政府主導による日本社会での加害事実否認と被害者への侮辱行為、韓国(人)への憎悪感情は、その対面の機会ごとに着実に悪化する一方です。
そうした社会の構成員であり、またその状況を憂慮しつつも現実には寸分たりとも貢献できていない自身の無力さを心から詫びるとともに、それでも抗わねばならないことを誓うばかりです。

以前、どこかで「『平和の少女像』を直視できない」といった投稿を目にしたことがあります。以前にも書きましたが、像の眼差しは対面した者の心の奥底をも射抜くような鋭いものであり、私自身も気圧されることがあります。しかし、それで「直視できない」で完結してしまうことは、過去の被害と加害、そして現実から目をそらすことであり、それは結果として日本の歴史修正勢力に与することと同じです。私は直視し、抗います。

平和の少女像(평화의 소녀상:ソウル特別市 鍾路区 栗谷路2ギル 19 (寿松洞 85-7))

 

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平和の少女像から南下して左折し、しばらく歩くと左手に現れる「マクドナルド寛勲(クァヌン)店」。その手前の駐車場誘導路の奥に、この日の朝食目当てのお店「里門(イムン)ソルロンタン」があります。

 

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里門ソルロンタン大韓帝国時代の1904年創業、現存する韓国最古の飲食店としても知られています。2011年に当地へ移転するまで営業していた鍾路タワーそば、伝統を感じる2階建て韓屋(ハノク)の旧店舗(写真2枚目のパネル右上にある写真)をご記憶の方も少なくないことでしょう。旧店舗は再開発で惜しくも解体されましたが、唯一残された入口上の木の看板が往時の記憶を引き継いでいます。
1997年正月の初渡韓のとき、開いているかどうかの確認のため電話した私のたどたどしい韓国語にも親切に対応してくださったこと、そしてなによりソルロンタンの味が恋しくて、2014年からは年1回ペースで訪問しています。そのため私にとってはこれまで韓国で最も多く訪れた飲食店となってしまいました。
農林水産食品部(日本の農林水産省に相当)などが2012年に発表した、国内の伝統ある飲食店リスト『한국인이 사랑하는 오래된 한식당 100선(韓国人が愛する古い韓食堂100選)』ではこちらの店がその筆頭に挙げられるとともに、現存する韓国最古の飲食店として認定されています。

 

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表には「ソウル未来遺産」214号の認定プレートも。近年ではあのミシュランガイドのソウル版にも2017年と2018年の連続で掲載されています。

店内は座敷を含め約200席。この日は朝早くで空いてましたが、2014年春の昼食時間帯の訪問時にはほぼ満席状態となっていました。そのとき久々の訪問で勝手を忘れていた私に、相席の方が丁寧に指南してくださったのもよい思い出です。

 

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毛筆手書きのメニュー表。ハングルも日本語も達筆です。日本語が添えられているものとそうでないものの判別基準が気になりますね。ソルロンタンは、2011年11月の訪問時には7,000ウォンだったものが2015年8月には8,000ウォンになり、そしてその2年後の今回(2017年9月)は9,000ウォンと徐々に値上がりしています。ちなみに12,000ウォンの「特ソルロンタン」はスユクの量が違うそうです(何回も来ているのに頼んだことがない……)

 

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店名にもある看板メニュー「ソルロンタン」とは、牛肉と牛骨をじっくり煮込んで白濁したスープに素麺(ソミョン)やご飯、スユク(茹でた薄切りの牛肉)などを入れた料理です。安価かつ手軽に食べられるファストフードとしてソウルの人々の人気を集め、日帝強占期の1920年代にはここ鍾路や清渓川(チョンゲチョン)、南大門(ナムデムン)界隈を中心にソルロンタン屋がひしめきあっていたといい、こうした経緯からソウルの郷土料理として挙げられたりもします。
ソルロンタンの由来については諸説あり、「先農壇」(선농단:ソンノンダン。朝鮮の人々に農業を伝授したとされる穀物の神「先農」を祀る祭壇)での祭祀(チェサ)において供物の牛肉を煮込んで食べたものが由来だという説、あるいは元(モンゴル)の兵士たちが戦場で食べた牛肉スープ「シュルル」(または「シュル」)が転じてソルロンタンになったという説などが挙げられています。またその表記も一般的な「설렁탕」のほか「설농탕」などがあり(いずれも発音のカナ表記は「ソルロンタン」)、後者についてはその白いスープが雪のようだとして「雪濃湯」の漢字が当てられることがあります。里門ソルロンタンでは創業当初から「설농탕」の表記を採用しているとのこと。
 

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そして運ばれてきたソルロンタン。大きな鋳鉄釜で17時間も煮込まれるというスープは余分な脂も落ち、真っ白ですっきりしています。この時点では塩味は全くないので、卓上の塩を慎重に(ここ重要)注ぎ、ちょうどいい塩梅となったところでネギを乗せて、ひと口。
ああ、うんまい。
スープは淡白でありながら、牛骨・牛肉ならではの力強いコクとうまみが感じられます。ほっとする味。韓国ではたまに懐かしい味に遭遇することがありますが、メニューそのものが懐かしい味となっているのは、いまのところこのソルロンタンが唯一です。

 

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こちらのお店のもうひとつの楽しみは、各席に置かれた食べ放題のぺチュ(白菜)キムチとカットゥギ(大根キムチ)。うちペチュキムチは葉が丸ごと入っているのでハサミで適宜切って食べます。このペチュキムチが辛さの中に甘みがあって、またうんまいのです。これだけでご飯が何杯も進みそう。これらキムチは好みに応じて、ソルロンタンに投入してもよいでしょう。

 

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「里門ソルロンタン」の営業時間は午前8時~午後9時、日曜のみ午前8時~午後8時。名節(旧正月・秋夕)は休業。首都圏電鉄(地下鉄)1号線「鍾閣」駅3-1番出口から徒歩約4分(約250m)です。
コンビニ「GS25」のビルとマクドナルド寛勲(クァヌン)店のビルの間、駐車場誘導路を入った奥という若干分かりづらい場所にありますが、誘導路入口にバルーンの看板(写真)が立っているのですぐ分かると思います。

里門ソルロンタン(이문설농탕:ソウル特別市 鍾路区 郵征局路38-13 (堅志洞 88)) [HP]

 

その後はいつものようにソウル駅そばのロッテマートでマッコリなどの土産物を購入し、来たときと同じジンエアーの便で帰国するのでした。

 

2017年9月の大田・春川・加平・ソウルの旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2017年10月の光州(クァンジュ)広域市・全羅南道の旅をお送りします。

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