かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

羅州の旅[201705_09] - 1000年の古都で100年の伝統のコムタンを味わう

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市を中心に巡る旅、明けて3日目(2017年5月22日(月))です。

前日をもって「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の全史跡とほぼすべての関連施設を巡ってしまったので、この日は光州および周辺地域の観光スポットとグルメ巡りに徹することにしました。

 

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そんなわけでまずは都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、KTXの停車駅であるKorail光州松汀(ソンジョン)駅へ。この駅の2階、跨線橋の手前にある写真2枚目のコインロッカーに荷物を預けます。光州松汀駅はこちらに加え地下鉄の駅構内にもコインロッカーがあるので、荷物を置いておくには便利です。
光州松汀訳からは木浦(モクポ)駅行きのムグンファ号に乗車、一時的とはいえ2日ぶりに光州広域市を離れます。

 

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およそ11分ほどで、この日最初の目的地である全羅南道(チョルラナムド)羅州(ナジュ)市の「羅州」駅に到着。初めての訪問です。

羅州平野に位置する羅州の歴史は三韓時代にさかのぼることができ、馬韓を構成する54か国のうち不彌(プルミ)国があったとされています。下って高麗時代の西暦1000年ごろ、ここ羅州には全羅北道(チョルラブット)の全州(チョンジュ)などと同じく、全国を分割した地方行政単位「牧」(モク)が設置されます。「全羅道」の名前はこの全州と羅州の頭文字から命名されたものです。この羅州牧の地位はその後形を変えつつも、朝鮮時代末期の1895年まで900年も存続することになります。
1895年の甲午改革により羅州には観察府が置かれましたが、その翌年には13道制施行とあわせて光州へ移転、そのまま光州が道庁所在地となったために南道の代表都市の地位から陥落することなりました。朝鮮戦争以後は隣接する光州の発展と反比例するように長らく衰退が続き、約30年前の1986年には17万人近くいた人口が一時は9万人を割り込みましたが、2010年代に市内に誕生した光州全南共同革新都市、通称「ピッカラム革新都市」の発展に伴い近年は再び人口増に転じ、2015年には10万人台を回復しています。

 

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市内を貫流する栄山江(ヨンサンガン)には栄山浦(ヨンサンポ)という港があり、かつては西海(黄海)で捕れたホンオ(ガンギエイ)の水揚げで栄えましたがその後衰退、1970年代には河川工事に伴い港としての機能が消滅。それでも栄山浦は現在もなおホンオの街として広く知られ、多くのホンオ専門料理店が並んでいます。
このほか羅州は日帝強占期に始まった梨の生産でも有名であり、同じく梨の生産地であり羅州市とほぼ同緯度上に位置する鳥取県倉吉市姉妹都市縁組を締結しています。写真は羅州駅近くにあった、市の標語らしきものが書かれた塔で、てっぺんには名産の梨を持ったキャラクターが立っています。

とはいえ、韓国を知る日本人にとって羅州といえば真っ先に思い浮かべるのはあの料理ではないでしょうか。かくいう私も今回いちばんの訪問目的はそれですが、せっかく来たのでまずは徒歩で回れる範囲のスポットを訪問することにしました。羅州駅を出て市街地方面へ進みます。

 

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羅州駅を出て少し歩いたところにあったミニストップ。韓国のコンビニで最も店舗数が多いのはCUの12,000店弱(2017年7月末時点。以下同じ)で、続いて僅差でGS25。ミニストップセブン-イレブン(9,000店弱)に大きく水をあけられての業界4位(2,400店強。CUやGS25の約1/5)のはずですが、光州広域市やここ羅州市ではあちこちでよく見かけます。そういえば昨年(2016年)10月に行った同じ全羅南道の宝城(ポソン)郡筏橋邑(ポルギョウプ)では、中心部にあるコンビニの3件中2件がミニストップでした。

 

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羅州駅から市中心部へ向かって2kmほど歩くと、写真の立派な門が見えてまいります。
ロータリーの中心に建つこちらの門は「南顧門」(ナムゴムン)といい、かつて羅州の街を楕円形に取り囲んでいた羅州邑城(읍성:ウプソン。都市や集落を城壁で囲んだもの)の南門で、東漸門(トンジョムムン)、西城門(ソソンムン)、北望門(プンマンムン)とともに東西南北に配置されていた門のひとつです。
羅州邑城は、元々は高麗時代に倭寇から羅州牧を防衛するために築かれた土城で、これを1404年に石垣積みに改築、さらに1457年には拡張されています。また1592年の壬辰倭乱豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)以後には大規模な補修工事が加えられ、その後大韓帝国時代まで維持されてきたものの、日帝強占期の1920年前後には南顧門を含むほぼすべての城壁が破壊されます。光復後も都市化による毀損が進む中、1980年代頃には復元作業がスタートし、1993年には写真の南顧門が、また2006年には東漸門が復元されました。
現在こちらの南門址は、現在もわずかに残る城壁の遺構とともに「羅州邑城」として国の史跡第337号に指定され、復元された南顧門は羅州のランドマーク的存在となっています。

南顧門(羅州邑城南門)(남고문(나주읍성 남문):全羅南道 羅州市 南内洞 2-20。史跡第337号)

 

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南顧門の正面の歩道脇には、「南顧門広場」と題された写真の小さな碑がひっそりと建っていました。1980年、5.18民主化運動当時は広場だったここ南顧門は5月21日(抗争4日目)から市民軍の拠点となり、集まったデモ隊や車両などにキムパッやチュモッパッ(おにぎり)、飲料水などを無料提供するとともに、戒厳軍の進入を防ぐため市民軍が昼夜警戒任務に当たったとあります。

5.18の抗争期間中には光州市民による車両デモ隊がここ羅州を含む近隣の郡部に出動し、暴虐の限りを尽くす戒厳軍への対抗のための協カを呼びかけました。これを聞いた地域住民は食糧や消耗品を惜しまず提供し、また各地域の警察署や軍倉庫からの銃器奪取にも協力しています。中でも産炭地であった和順(ファスン)では戒厳軍の蛮行に激怒した炭鉱労働者が発破用のダイナマイトを進んで提供、市民軍の拠点となった全南道庁に運ばれました。戒厳軍が侵攻してきた場合に道庁もろとも爆破する計画もありましたが、最終的に使用されることはありませんでした。

このように街中、それも光州市内ですらない場所を意図せず歩いていても、5.18民主化運動に深い縁のある場所に遭遇するということ。5.18が光州やその周辺地域に生きる人々に与えた爪痕の深さを改めて思い知らされます。

 

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南顧門を過ぎ、さらに東へ向かって突き当たりを右へ曲がると、写真の建物が現れます。こちらは2001年に現位置へ移転するまで使用されていた、国鉄(現・Korail)湖南(ホナム)線の旧羅州駅舎です。1913年開業、正確な築年は不明ですが遅くとも1923年までにはこの駅舎が存在していました。

1929年10月30日、ここ羅州駅で光州中学校(現在の高校に相当。日本人学校)の男子生徒が光州女子高等普通学校(朝鮮人学校)の女子生徒の髪を引っ張る嫌がらせをし、これに抗議した光州高等普通学校(光州高普。朝鮮人学校)の男子生徒との間で口論となります。このときは日本の警察官によって制止させられたものの、その後も光州高普と光州中学の両校生徒の小競り合いが連日で発生し、そして11月3日にはついに両校生徒のグループ同士による乱闘が発生します。その後いったん学校に戻った光州高普生はまもなくデモ隊を形成、これに合流した光州農業学校の生徒とともに「植民地奴隷教育撤廃」等のスローガンを掲げ光州市内を行進したところ(1次デモ)、うち40名がその翌日以降に警察により拘束されてしまいます。これに抗議した同月12日の2次デモもまた光州高普・光州農業合わせて250名もの検束者を出し、デモに呼応した光州女子高等普通学校や光州高等師範学校の生徒を含め、無期停学処分あるいは退学処分者が続出しました。
これら学生たちの抗日運動は同年末には京城(現・ソウル)に飛び火し、そして翌1930年には朝鮮全土に拡大、1919年の「3.1運動」以来とされる規模にまで発展。現在ではこれら一連の学生運動を総称して「学生独立運動」、その発端となった羅州および光州における運動を「光州学生独立運動」あるいは「光州学生抗日運動」などと呼びます。
こうした背景には従前の独立運動弾圧への抵抗に加え、朝鮮人への高等教育制限や日本人教師による差別など日本の植民地主義的教育政策に対する朝鮮人学生や独立運動家たちの鬱積した怒りを挙げることができます。また羅州特有の要因として、前述した栄山浦がその当時は羅州平野一帯で収穫された米を日本へ運ぶための港であり、まさしく植民地支配の収奪の現場であったことも挙げられるでしょう。

 

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こちらの旧羅州駅舎は、その文化財的価値に加え、以上に述べた通り一連の学生独立運動の「震源地」であることから、「光州学生独立運動震源地羅州駅舎」として全羅南道記念物第183号に指定されています。

 

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こちらの旧駅舎、日中は内部が開放されますが、このときは午前8時台ということもありまだ閉まっていました。写真は窓から撮った旧駅舎の内部。駅員の再現人形が設置されています。2001年の移転直前まで使用されていた時刻表や料金表もそのままです。

光州学生独立運動震源地羅州駅舎(광주학생독립운동진원지나주역사:全羅南道 羅州市 竹林ギル 20 (竹林洞 60-172)。全羅南道記念物第183号)

 

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1919年の「3.1運動」、1926年の「6.10万歳運動」と並んで日帝強占期の3大独立運動のひとつに数えられる1929年の学生独立運動。その全容を学ぶことのできる「羅州学生独立運動記念館」が、旧羅州駅舎のすぐ北側に隣接して建っています。ただし、この日(5月22日)は月曜日であったため休館。いずれ改めて訪問することを誓います。

 

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旧羅州駅から南顧門へと戻る道の途中。なんでもない路地ですが、こんな風景に惹かれます。

 

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再び南顧門に戻り、今度は北へ向かいます。
その途中にある錦城橋(クムソンギョ)から眺めた栄山江の支流、羅州川(ナジュチョン)。情感あふれる風景です。

 

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錦城橋を渡ってさらに北へ進むと、高麗・朝鮮時代を通じてここ羅州の客舎(官吏や外国使節などをもてなす宿舎)であった「錦城館」(금성관:クムソングァン)の正門、「望華楼」(망화루:マンファル)が見えてまいります。

 

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そしてその望華楼の向かいにあるのが、写真のお店「羅州コ厶タンハヤンチッ」。ハヤンチッとは「白い家」の意。1910年創業、店名にもある羅州いちばんの名物料理「羅州コムタン」の草分けとして広く全国に知られるお店であり、私にとっては今回の羅州訪問の最大の目的です。

 

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店内に入るやいなや、ぐつぐつ煮え立つ大きな釜が出迎えるとともに食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐり、にわかにテンションが上がります。
注文したのは当然、看板メニューの羅州コムタン。

 

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そしてやって来たコムタン、スープが澄んでいます。日本でコムタンといえば白濁したスープの印象が強いですが、これぞ羅州コムタンの特徴です。
スープを口に含むとたちまち、牛肉ダシ独特のうまみがじわっと舌を包み込みます。ああ、これは超うんまい。100年の伝統は伊達ではありません。

 

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コムタンと一緒に出てきた、牛皮らしきものを煮込んだパンチャン(おかず)もおいしかったです。来てよかった。

 

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こちらのお店「羅州コムタンハヤンチッ」の営業時間は午前8時~午後9時、年中無休。羅州駅からはバスであれば「羅州駅」(나주역)バス停から160番バス(配車間隔約20分)に乗車し、約13分で到着する「中央路」(중앙로)バス停で下車、徒歩約4分。タクシーであれば同駅から約7分、料金は4,200ウォン(約420円)前後のようです(交通状況によって変化)。はっきり言って、このお店のコムタンを食べるだけであっても羅州を訪問する価値は十分にあります。

羅州コムタンハヤンチッ(나주곰탕 하얀집:全羅南道 羅州市 錦城館ギル 6-1 (中央洞 48-17))

 

せっかく来たのでもう少しゆっくりしたいところですが、この日は光州にも行きたい場所があったため、コムタンを食べたところで羅州を発つことに。とはいえ前述したように「羅州学生独立運動記念館」はいずれ必ず再訪するつもりですし、ホンオ通りと往時の町並みが同居する栄山浦(実は羅州駅からだと南顧門よりも近い)も訪れたい場所です。日帝強占期の収奪の歴史と向き合うためにも。それらについては次回の羅州訪問時に預けたいと思います。

今度はタクシーで羅州駅へ移動、最初にやって来たKTX-山川で羅州を後にします。
来たときのムグンファ号は2,600ウォン(約260円)でしたが、KTXだと3倍以上の8,400ウォンもするので要注意です(しかも所要時間は変わらないという)。

光州松汀駅からは再び都市鉄道(地下鉄)1号線に乗り、次の目的地へと向かうのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。

光州の旅[201705_08] - 5.18民主化運動の出発点「全南大学校」、そして全史跡踏破へ

前回のエントリーの続きです。

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韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の2日目(2017年5月21日(日))です。

 

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5.18の史跡15号「光木間市民虐殺地(真月洞、松岩洞)」を示す碑石と隣接するバス停からは次の目的地行きの便が出ていないため、600mほど離れた「東成高」バス停まで歩き、そこから急行<수완(水莞)03>バスに乗車。25分ほどで到着する「全南大サゴリ(東)」バス停(サゴリとは交差点の意)で下車し、550mほど歩いた場所にあるのが写真の「全南(チョンナム)大学校」正門です(この写真に限り2016年8月撮影)


抗争1日目、1980年5月18日未明。
保安司令官の全斗煥をはじめとする新軍部の策謀により同日午前0時をもって適用された非常戒厳措置の全国拡大を受け、市内の朝鮮(チョソン)大学校とともに戒厳軍が最初に進駐してきた場所が、まさにこの全南大です。全国の中でも特に反政府デモが激しかった光州における市民鎮圧の拠点とすること、また前日夜の全国拡大決定と前後して始また学生運動家や学生会委員などを拘束するためでした。
進駐してきた戒厳軍は図書館に進入し、徹夜勉強中の学生たちを「鎮圧棒」で無差別に殴打します。これが以後10日間にわたる抗争期間での最初の暴力でした。
夜が明けて午前10時、この事件を受けた全南大の学生による抗争期間中最初のデモが正門で展開されますが、数と力で勝る戒厳軍にたちまち制圧され、難を逃れた学生たちは錦南路(クムナムノ)へ移動。ここから戒厳軍の暴虐は光州市内の各所へと展開してゆきました。
このように全南大はまさしく5.18民主化運動の出発点であり、その意味からトップナンバーの史跡1号に指定されています。

 

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その史跡であることを示す例の丸い碑石は、正門の向かって右側に建っています。1号だけあってか、他の史跡のふた回りはあろうかという大きなものであるのが特徴です。この場所は昨年(2016年)8月にも訪問しましたが、同年末の「5.18民主公園」(後述します)の整備とあわせて若干移動していました。

光州市内の5.18史跡や関連施設を結ぶように走る518番バスこちらのエントリーにて紹介)は、国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「全南大」(전남대)バス停で下車、碑石までは徒歩約5分(約330m)です。
全南大学校正門(전남대학교 정문:光州広域市 北区 龍鳳路 77 (龍鳳洞 300)。史跡1号)

この正門のそばで、待ち合わせしていた方と面会します。その方はここ全南大にて教授を務められている方で、今回の旅での一連のツイートをご覧になり、親切にもキャンパスの案内をご提案いただいたものです。
全南大には、キャンパス内に点在する民主化運動関連の碑や造形物などを結んだ1周およそ1.4kmの散策コース、通称「全南大民主ギル」(전남대 민주길:ギルとは「道」の意)があり、今回の旅で最も参考にしている「5.18記念財団」のガイドブック『光州の五月を歩こう』(광주의 오월을 걷자)でもマップ・写真入りで紹介されています。今回は先生と一緒に、時計回りにコースをたどることにしました。

 

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「5.18民主公園」。
5.18抗争期間中には在学生・OBともにデモ隊や市民軍へ積極参加するなど、韓国の民主化運動史において大きな役割を果たしてきた全南大のアイデンティティを称えるため、光州広域市と同窓会の支援により昨年(2016年)12月、正門の西側一帯に造成された公園です。中央にある造形物は民主・人権・平和の3弁の花びらで構成された花が咲く瞬間を形象化したパク・ジョンヨン氏の作品「ピオナダ」(피어나다:「咲き始める」の意)です。

 

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「朴寛賢烈士革命精神継承碑」。
法科大学(韓国でいう「大学」とは日本の学部に相当し、これらの集合体である「大学校」と明確に区分されています)の建物前にあるこちらの碑は5.18当時の全南大総学生会長であり、その後収監中に40日間もの断食闘争の果てに亡くなった朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)烈士を称えその精神を受け継ぐためのものです。

 

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「トゥルブル7烈士」の一人でもある朴寛賢烈士(写真は5.18自由公園「トゥルブル夜学7烈士記念碑」にある烈士の肖像レリーフについては補足が必要かと思いますので、少しだけ「全南大民主ギル」からそれたいと思います。
朴寛賢烈士の名は、ドラマ『第5共和国』の登場人物としてご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。この訪問の4日前(5月17日)、5.18犠牲者追悼式典での文在寅(문재인:ムン・ジェイン、1953-)大統領の演説でもその名が挙げられています。
全羅南道(チョルラナムド)霊光(ヨングァン)郡生まれ。全南大法科大学に入学後、光川工業団地の劣悪な労働環境を告発した『光川工団労働者実態調査報告書』の編纂への協力が縁で、全南大の先輩でもある尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士と知り合います。その調査力に加え、卓越した演説力などの才能を見出した尹祥源烈士によりスカウトされた朴寛賢烈士は、英語担当講学(講師)としてトゥルブル夜学に合流。その後も尹祥源烈士は全南大総学生会長に立候補した朴寛賢烈士にスーツと靴を貸すなど、両烈士の友情と信頼はより深まってゆきました。
1980年、朴寛賢烈士は全南大総学生会長に選出。そして抗争開始2日前の5月16日に全南道庁前で挙行されたデモ「民族民主大聖会」ではその主管に加え名演説を披露し、光州を代表する学生運動家としての地位を固めてゆきます。しかし翌17日深夜、非常戒厳措置の全国拡大決定と前後して全国の大学の学生会長や学生運動家などが続々と予備検束されたとの情報が入り、朴寛賢烈士は悩んだ末、先輩たちの勧めもあって潜伏を決意。翌18日朝には夜学のある光川洞(クァンチョンドン)の尹祥源烈士を訪れてその旨を伝え、まもなく光州を脱出します。これが両烈士にとって今生の別れとなりました。
抗争期間中は全羅南道麗水(ヨス)市の突山島(トルサンド)に身を隠しますが、その後潜伏先のソウルにて逮捕。苛烈な拷問の果てに、内乱重要任務従事の罪で懲役5年の判決を下されます。
獄中ではトゥルブル夜学の講学仲間であり、同じく死後「トゥルブル7烈士」に列せられた申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)烈士とともに、待遇改善と5.18の真相究明を求めた断食闘争を繰り返します。そして3度目の断食闘争の40日を経過した1982年10月12日、急性心筋梗塞と急性肺水腫の併発によりついに帰らぬ人となりました。辛うじて一命を取りとめた申栄日烈士は、朴寛賢烈士の死を知るやその名を叫び慟哭したといいます。
こうした経緯から朴寛賢烈士は「トゥルブル7烈士」に列せられ、そして5.18当時の学生運動の象徴的存在として記憶され続けています。

 

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「尹祥源烈士公園」。
社会科学大学の建物の前にある小公園は、政治外交学科の卒業生である尹祥源烈士を記念する公園であり、その中には尹祥源烈士の胸像、そして最終抗戦直前・5月27日の早朝、全南道庁での烈士による最後の演説文が刻まれた碑があります。

여러분!

우리는 저들과 맞서 끝까지 싸워야 합니다. 그냥 도청을 비워주게 되면 우리가 싸워온 그동안의 투쟁은 헛수고가 되고, 수없이 죽어간 영령들과 역사 앞에 죄인이 됩니다.

죽음을 두려워 말고 투쟁에 임합시다. 우리가 비록 저들의 총탄에 죽는다고 할지라도 그것이 우리가 영원히 사는 길입니다.

이 나라의 민주주의를 위해 끝가지 뭉쳐 싸워야 합니다. 그리하여 우리 모두가 불의에 대항하여 끝까지 싸웠다는 자랑스러운 기록을 남깁시다.

이 새벽을 넘기면 기필코 아침이 옵니다. 

みなさん!

我々は彼らに立ち向かい最後まで戦わねばなりません。そのまま道庁を明け渡せば、我々が戦ってきたこれまでの闘争は無駄となり、無数の死んだ英霊たちと歴史の前に罪人となります。

死を恐れず闘争に臨みましょう。我々がたとえ彼らの銃弾で死ぬとしても、それは我々が永遠に生きる道です。

この国の民主主義のため、最後まで団結して戦わねばなりません。そして我々すべてが不義に対抗し、最後まで戦った誇らしい記録を残しましょう。

この夜明けを過ぎれば、必ず朝がやって来ます。

 尹祥源烈士については、下記のエントリーでも紹介しております。あわせてお読みいただけますと辛いです。

 

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こちらは民主化運動関連の造形物ではありませんが、「人文大学1号館」という建物です。チョン・オクチン(정옥진)氏の設計により1955年築。全南大でも創立期から残る数少ない建物で、「光州全南大学校人文大学1号館」として国指定登録文化財第96号にもなっています。

 

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「教育指標事件記念碑」。
人文大学1号館の道路を挟んだ向かい側にある、積まれた書物を象ったこちらの碑は、1978年6月の同大における「民主教育指標事件」を記念して2007年に建てられたものです。この「民主教育指標事件」とは、小説家であり後の5.18では市民収拾委員も務めた宋基淑(송기숙:ソン・ギスク、1935-)氏など全南大の教授11名が、当時の朴正煕軍事政権による「国民教育憲章」を連名で批判、「私たちの教育指標宣言」を発表したことにより拘束、解職された事件をいいます。また当時の全南大生であり、死後には「トゥルブル7烈士」にも列せられた申栄日、朴琪順(박기순:パク・キスン:1958-1978)の両烈士もこの事件に関連して無期停学処分となり、同じ年にトゥルブル夜学(こちらのエントリーにて紹介)を創立しています。

 

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「師範大1号館光州民衆抗争図壁画」。
師範大学(教育学部)1号館という建物の壁面いっぱいに描かれたこちらの壁画は、5.18民主化運動10周年を記念して、芸術大学や美術教育科の学生を含む全南大の絵画愛好者たちが中心となって制作したものです。

 

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「ポンジ5.18広場」。
全南大中央図書館前にある広場で、「ポンジ」とは池のこと。真ん丸の池を「5」(韓国語で「オー」と発音。アルファベットの「O」とかけている?)、その外周の1本の道を「1」、そこから放射状に伸びる8本の道を「8」にそれぞれ見立て、合わせて「518」を表現しています。

 

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「造形芸術作品『君のための行進』」。
全南大の金大吉(김대길:キム・デギル)教授による造形作品で、ポンジのほぼ中央に建っています。民主化の発展を導いた全南大学校の4つの構成員の誇りを高めることを目的に制作され、大学の構成員である「学生」「教授」「教職員」「市民」を象徴する4つの形状がひとつの方向へと向かってゆく様を表現しています。

 

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「朴勝熙烈士焚身址」。
1991年4月29日、「姜慶大他殺事件」の真相解明、そして他の学生が呼応することを求めてポンジの前で焚身(焼身)した全南大食品栄養学科の朴勝熙(박승희:パク・スンヒ、1971-1991)烈士を称え記憶するため、その現場に設置された碑です。「姜慶大他殺事件」とはその3日前(4月26日)にソウルの明知(ミョンジ)大学校にて発生した、同大生の姜慶大(강경대:カン・ギョンデ、1972-1991)烈士に対する、当時その白いヘルメットから「白骨団」(백골단:ペッコルダン)と呼ばれ恐れられた警察機動隊の暴力鎮圧による殺害事件を指します。

 

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「5.18記念館」。
5.18民主化運動にて大きな役割を果たした全南大の教授や在学生、そしてOBたち。これらの活躍の背景には1960年代から一貫して民主主義を希求してきた同大の校風がありました。こちらの施設は5.18関連を中心に、そうした全南大の民主化運動史に関する資料を集め展示されているとのことです。今回は訪問した時間が遅かったため残念ながら閉館していましたが、いずれ必ずや訪問し、本ブログにて紹介したいと思います。

これで「全南大民主ギル」は終わりですが、先生のご厚意により、私がまだ訪れていない5.18の史跡や関連施設へ連れて行ってくださることとなりました。感謝しつつも先生の車に乗り込みます。

 

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最初に到着したのは西区(ソグ)にある「5.18記念公園」。
かつて「尚武台」(韓国陸軍の軍事教育施設。後述します)が置かれていた土地を、光州市民に対する補償支援の意味で政府が無償譲渡したもので、現在は20万平米あまりもの広大な市民公園が造成されています。5.18関連のスポットとしてはチェックしていたものの、情報が少ないうえにスケジュールの都合もあり訪れていなかった場所です。
写真2枚目は公園の敷地内に建つ「5.18記念文化センター」。「5.18記念財団」の事務局もこちらの建物に入居しているそうです。

 

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「5.18記念文化センター」1階には、抗争期間2日目・5月19日午後の錦南路(クムナムノ)・観光ホテル前一帯における戒厳軍の無差別暴力の様子を再現した精巧なジオラマが展示されていました。

 

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こちらは前回も紹介した、抗争期間4日目・5月21日の正午ごろ、道庁前の錦南路で戒厳軍と対峙する市民デモ隊の姿。やはり精巧に再現されています。

 

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5.18記念公園は全体的に小高い丘になっており、階段を登った先の頂上に公園広場があります。

 

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こちらの公園広場には、傷ついた仲間を2人で支え合う市民軍兵士の姿を造形化した巨大な像が。あの日を切り取ったかのような姿に、ただただ圧倒されます。

 

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像の地下には入れるようになっており、その坂道を下ると写真の半円形の空間が現れます。こちらは「追慕昇華空間」といい、中央には息絶えた子どもを抱き天を仰ぐ女性の像、その正面には5.18を象徴する絵画、そして背面の曲線を描く壁面には5.18の犠牲者の名前が刻まれています。

 

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こちらの「5.18記念公園」は、518番バスであれば国立5.18民主墓地方面行き・尚武地区方面行きともに「5.18記念文化センター」(5.18기념문화센터)バス停にて下車、目の前です。

5.18記念公園(5.18기념공원:光州広域市 西区 尚武民主路 61 (双村洞 1268))

 

ここからは再び先生の車に乗り、残り3か所となった未踏の5.18史跡を巡ることに。
いずれも「5.18記念公園」と同じ西区、それも地下鉄が直下を走る尚武大路(サンムデロ)周辺にあるので長距離移動はありませんが、日が沈みいよいよ闇が迫ってきたのであまり余裕はありません。

 

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「505保安部隊旧跡」。
全南地域軍の情報機関であり、5.18当時は戒厳軍による鎮圧作戦とその隠蔽操作の実質的な指揮本部であった「505保安部隊」の本拠地が置かれていた場所です。
ここの地下室では、逮捕された民主人士や学生運動指導者、市民軍に対し激しい拷問、殴打が加えられました。中でも女性に対してはこれらに加え、あろうことか性的な暴行までも加えられたといいます。こうした経緯から5.18民主化運動の史跡26号に指定されています。

 

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正門が施錠されており、内部への立ち入りはできません。写真は門の上に腕を伸ばして撮影したものです。
本施設は事実上放置されており、ほぼ5.18当時の原形をとどめる一方、経年劣化に加え侵入者のいたずら、2009年に発生した火災などにより徐々に崩壊が進行しているようです。一日も早く保全されることを願うばかりです。 

518番バスは「505保安部隊旧跡」の近くを通りません。都市鉄道(地下鉄)1号線「双村」(サンチョン)駅から2番出口を出て尚武大路沿いに西へ進み、ガソリンスタンドを左に曲がって少し進んだ場所にあります。全体で徒歩約6分(約400m)

505保安部隊旧跡(505보안부대 옛터:光州広域市 西区 尚武大路956番ギル 16 (双村洞 1011)。史跡26号)

 

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次の史跡は、「505保安部隊旧跡」から道のりでも1kmに満たない至近距離にあります。
「国軍光州病院」。その名の通り軍の付属病院で、戒厳軍により尚武台営倉や505保安部隊などへ連行され、取調べ中の拷問や殴打により負傷した市民が厳重な監視の下に治療を受けさせられた場所です。しかしそうした中でも心ある医療スタッフたちは、患者たちが再び取調べの場へ戻されることを防ごうとその傷の状態を深刻に偽って報告、患者たちを守ったといいます。こうした経緯から5.18民主化運動の史跡23号に指定されています。
国軍病院は2007年に全羅南道咸平(ハムピョン)郡へ移転。しかし施設はほぼそのまま残されています。

 

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地下鉄も走る尚武大路沿いの碑石から100mあまり入ると、かつての病院本館が。敷地内は立入禁止なので、フェンスの外から撮影します。

 

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近くの林の中を探索されていた先生が、当時の病院の付帯施設と思われる教会を発見。廃墟となって闇の中に建つ教会、さすがに怖いです。なんだか別の企画みたいになってきました。そそくさと後にします。 

518番バスは「国軍光州病院」の近くを通りません。都市鉄道(地下鉄)1号線「花亭」(ファジョン)駅から2番出口を出て尚武大路沿いに西へ進み、徒歩約3分(約190m)の場所に碑石があります。前述の「505保安部隊旧跡」からだと徒歩約14分(約910m)。以上のように完全に廃墟と化しており、夜間の訪問はちょっと怖いので日中のご訪問をおすすめします。

国軍光州病院(국군광주병원:光州広域市 西区 尚武大路 1026 (花亭洞 324-20)。史跡23号)

 

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そしていよいよ最後の目的地へ。こちらの史跡は先の「国軍光州病院」とはうって変わって、商業ビルに囲まれた華やかな街中にありました。
「尚武台旧跡」。
尚武台(サンムデ)とは韓国陸軍の軍事教育施設の総称であり、朝鮮戦争(1950-1953)の休戦前の1952年、それまで別々の機関であった各種軍事学校を統合し、「武を崇める学びの場」との意味で李承晩(이승만:イ・スンマン、1875-1965)初代大統領が「尚武台」と命名したことにより正式発足しました。5.18を経た1994年には全羅南道長城(チャンソン)郡へ移転、その跡地は市庁(市役所)や商業施設などが建ち並ぶ現在の光州の新都心「尚武地区」となり、また一部には前述の通り「5.18記念公園」が造成されています。

5.18当時は戒厳司令部の全羅南道全羅北道戒厳分署がここ尚武台に設置され、抗争期間中には市民収拾委員が戒厳軍首脳部との交渉のため数回訪れています。また抗争後には3千名もの市民がこの敷地内にあった営倉(法を犯した兵士の収監施設)にて自白強要のための苛烈な拷問を受け、軍事法廷ではこれらの自白をもとに死刑を含む判決が下されました(後の特赦により死刑執行事例はなし)。これら営倉や軍事法廷などの建物は、尚武台移転後の再開発に伴い近隣の場所に移設され、現在は「5.18自由公園」として公開されています(こちらのエントリーにて紹介)。こうした経緯から、「尚武台旧跡」として5.18民主化運動の史跡17号に指定されています。

 

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当時の正門の位置、現在は「尚武中央路」(サンムジュンアンノ)という道路の中央分離帯となっている場所には、尚武台の命名者・李承晩大統領の揮毫による「尚武臺」碑が残されています。
5.18の史跡を示す例の丸い碑石は最近までこの正面に建っていましたが、中央分離帯という接近しづらい場所であるため移転されることになり、この日(5月21日)の時点では無くなっていました。

518番バスは、国立5.18民主墓地方面行きは「尚武双龍錦湖アパート」(상무쌍용금호아파트)バス停で下車し徒歩約7分(約490m)、尚武地区方面行きは「農協雲泉支店」(농협운천지점)バス停で下車し徒歩約7分(約440m)。都市鉄道(地下鉄)1号線「尚武」駅からは6番出口を出て徒歩約6分(約430m)です。

尚武台旧跡(상무대 옛터:光州広域市 西区 治平洞1248。史跡17号)

 

昨年8月に初めて5.18旧墓地(史跡24号)を訪れてから9ヵ月弱。この尚武台旧跡をもって、ようやく5.18民主化運動の史跡全30か所(当時)を踏破することができました。
これらの場所は、37年前のあの10日間における戒厳軍の暴虐、あるいは市民たちの抗争に関する何らかの重要な出来事があった現場であるからこそ、5.18の史跡に認定されているものです。そうした現場を実際に訪れ、当時の犠牲者や抗争に携わった光州市民たちに思いを馳せる機会を幸運にして得られたことは、5.18を学び継承してゆくにあたり大きな財産となりうると考えています。

ここまで私を連れて行ってくださった先生と固い握手を交わして、その車を見送ります。先生、お忙しい中を本当にありがとうございました。

 

その後、用事をこなしていたら時刻はあっという間に午後10時過ぎ。夕食用にチェックしてきたお店はほぼすべて閉店またはラストオーダーの時刻を過ぎています。あわてて市内の飲食店を検索していると、チェックしていた光州名物・オリタンの名店「ヨンミオリタン」の支店がホテルから徒歩10分程度の距離にあることを発見。しかも光州駅近くの本店の営業時間が午後10時までなのに対し、こちらは午前1時まで。早速向かいます。

 

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お店に到着。注文したのはもちろん看板メニューのオリタン。オリタンとは、滋養強壮効果があるとして韓国の人が鶏肉同様に好むオリ(鴨肉)を煮込んだスープのこと。前回訪問時(2016年8月)も別の店で食べ、とても気に入っている料理です。メニューにはハンマリ(1羽)もありますが、前回の経験からパンマリ(半羽)でもなかなかの量と分かっているので今回もこちらを注文。

 

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そしてやって来たオリタン。辛みのないどろっとしたオレンジ色のスープ、山盛りのミナリ(セリ)を自分で適時継ぎ足す点、そして酢コチュジャンにトゥルケ(すりエゴマ)を混ぜたヤンニョムをつけて食べるというすべてが他の韓国料理に類を見ないポイントです。

 

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韓国のオリは日本の鴨肉のような歯ごたえがなく鶏肉のそれに近いですが、味にはより深いコクがあります。そのうえスープとヤンニョムの相性が絶妙。うんまい。今回は完食しましたがミナリを残す前提であればハンマリでもよかったかもしれません。

こちらのお店「ヨンミオリタ光州尚武店」の営業時間は正午~午前1時。定休日は不明ですが、日曜日(この日)は営業していました。都市鉄道(地下鉄)1号線「尚武」駅5番出口からは徒歩15分(約1km)ほどで到達できます。

ヨンミオリタン光州尚武店(영미오리탕 광주상무점:光州広域市 西区 尚武中央路104番ギル 10 (治平洞 1211-11))

 

5.18民主化運動の史跡や関連施設を巡る旅はこれでいったんひと区切りですが、今年(2017年)5月の光州の旅はあと少しだけ続きます。
それでは次回のエントリーへ。

光州の旅[201705_07] - 5.18の最終抗戦地を舞台とした特別展示、3つの虐殺現場を歩く

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

韓国・光州(クァンジュ)広域市、1980年5月にこの街で発生した10日間の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の史跡や関連施設を巡る旅の2日目(2017年5月21日(日))です。

 

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5.18旧墓地から乗ってきた518番バスこちらのエントリーにて紹介)を降りて、次の目的地へ向かいます。
この日開催されていた「光州市民の日」の会場として、5.18当時から光州のメインストリートである錦南路(クムナムノ)一帯は歩行者天国となり、イベントステージと数多くのテントが設営されていました。本来であれば518番バスは錦南路を含め道庁の脇をひと回りするように走るのですが、以上の理由からこの日は迂回コースとなり、少し遠いバス停での下車となりました。
歩行者天国を歩く人々の中を縫うように抜け、たどりついたのは旧全羅南道(チョルラナムド)庁舎(全南道庁。現・国立アジア文化殿堂)の正面一帯、前日にも訪れた「5.18民主広場」。錦南路が始まる地点でもあります。広場に立つ「5.18時計塔」(こちらのエントリーにて紹介)は12時55分を指しています。どうにか予定の時刻に間に合いました。

 

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5.18当時、道庁前の噴水広場(現・5.18民主広場)を含む錦南路一帯はかねてより市民たちの集会の場であったこともあり、抗争2日目の5月19日以降は戒厳軍の蛮行に怒った10万名以上もの市民たちが連日押し寄せて抗議のデモ隊を形成し、全南道庁を拠点としていた戒厳軍兵士と対峙していました。さらにこの日からちょうど37年前の5月21日午前には、前日夜に国鉄光州駅前広場で戒厳軍に殺害された市民2名の遺体がリヤカーでここ錦南路に運ばれてきたことで、市民たちの怒りはますます白熱します。
写真は錦南路の「光州広域市5・18民主化運動記録館」(こちらのエントリーにて紹介)にあった、遺体を運んだリヤカー(おそらく現物ではない)の展示です。

 

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こちらの写真は同市内の「5.18記念文化センター」(次回エントリーにて紹介予定)にあった、5月21日正午ごろの道庁前を再現したジオラマです。錦南路のあちこちに止まっている黒焦げのバスは、前日(20日)夕方の民主技師たちによる車両デモ(こちらのエントリーにて紹介)に用いられたもの。

 

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そして21日午後1時。スピーカーから大韓民国国歌である「愛国歌」(애국가:エグッカ)が流れる中、この直前に起きたデモ隊の装甲車突進を契機に、戒厳軍がデモ隊へ向けて集団発砲を開始。
戒厳軍の凶弾により、次々と錦南路の路上に倒れゆく人々。これらを助けようと果敢に駆け寄った人もまた、近隣のビル屋上からの正照準射撃の餌食となりました。
この集団発砲によるデモ隊側の死者は54名、負傷者は500名あまり。その惨劇の様子は、5.18民主化運動を描いた2007年の映画『光州5・18』(原題『화려한 휴가』:華麗なる休暇)でも身震いするほどありありと再現されています。
写真は前述の「光州広域市5・18民主化運動記録館」にあった、この集団発砲の直後、市民たちの靴が散乱した錦南路の路上を再現した展示です。

 

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5.18における戒厳軍の一連の暴虐を象徴する5月21日午後1時の道庁前での集団発砲。ちょうど37年前の同じ時刻に発生したその現場に、どうしても立ちたかったのです。
あの日、悲鳴を上げて逃げまどう人々の靴が散乱し、血痕があちこちに染み付き、そして老若男女を問わず銃撃の犠牲となった人々が横たわった錦南路の路上。犠牲となった方々の無念、遺された方々の悲しみは、想像にあまりあります。
任務遂行のためであれば、非武装の市民であろうと躊躇なく照準を向け銃弾を放つ。守るべきものは市民ではなく国家権力、これこそが軍隊の本質です。

 

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旧全南道庁本館。
1930年竣工。日帝強占期である当時の建築では珍しい、朝鮮人建築家の金舜河(김순하:キム・スナ、1901-1966)氏の設計によるもので、国指定登録文化財第16号にもなっており、現在は「国立アジア文化殿堂」を構成する「民主平和交流院」の4館となっています。
37年前の5月、抗争期間最初の4日間においては国家権力の象徴かつ戒厳軍の暴虐の拠点であり光州市民のデモの目標地として、続く5日間の「解放光州」においては屋上に掲げられた弔旗の下に市民たちによる自治の拠点として、そして最終日には多くの血が流された最終抗戦地として、5.18を最も象徴する建物です。これらの理由から、5.18民主化運動の史跡5-1号に指定されています。

 

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昨年(2016年)8月の訪問時には閉ざされていたその道庁本館の扉が、この日は開放されていました。
この道庁本館を含め「民主平和交流院」を構成する複数建物の内部に設置された、5.18民主化運動を題材とする映像・造形コンテンツ展示『十日間のナビテ』(열흘간의 나비떼:ナビテとは「蝶の時」の意)の公開が、37年前の抗争期間を含む5月12日~6月11日の1ヵ月間に渡り開催されていたためです。これら建物群が一般公開されるのは、2015年11月の「国立アジア文化殿堂」開館以来初めてのことです(理由は後述します)。

 

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道庁本館の正面玄関を入り、同建物を通り抜けた先の「民主平和交流院」1館(旧全南地方警察庁本館)が一連の展示のスタート地点です。

 

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外壁は補強を除きできる限りそのままに、内部に展示コンテンツが設置されています。写真3枚目は「光州」という地名の由来について。

 

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1979年10月26日の朴正煕大統領暗殺事件や同年12月12日の全斗煥ら新軍部による「12.12クーデター」など、「5.18前夜」に関する映像コンテンツ。

 

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周囲360度に映像が映し出される空間。写真1枚目は抗争開始の2日前、道庁前噴水広場(現・5.18民主広場)での総勢2万名もの学生・市民による反政府デモ「民族民主大聖会」で掲げられた、燃えさかるフェップル(횃불:トーチ)のイメージ映像です。当時の韓国のデモではこうしたフェップルが掲げられ、それ自体が反権力の象徴となっていました。その系譜は今日の韓国での市民デモにおけるチョップル(촛불:ろうそく)へと連なります。
この日の時点ではまだ警察も市民に協力的であり、まさかその2日後にはあのような惨劇が繰り広げられるとは市民の誰も予想だにしていませんでした。

 

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抗争期間最初の4日間、市民の有志たちは戒厳軍への抵抗のため、道庁前噴水広場でのデモ参加をさかんに呼びかけました。写真はそうした行動を象徴する拡声器。

 

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f:id:gashin_shoutan:20170922115708j:plain1980年5月20日夕方、民主技師たちにより挙行された200台ものバス・タクシーによる車両デモをモチーフとした造形作品。この車両デモは戒厳軍と対峙しつつもなす術のなかった光州市民たちを大いに勇気づけ、後の武装市民による組織的抵抗を触発したとされています。

 

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5月21日午後1時、道庁前の錦南路における戒厳軍の集団発砲を題材とした造形作品。無数の人々が光へ向かって歩いています。

 

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1館を抜けて、2館(旧全南地方警察庁民願室)へ。
戒厳軍の一時撤退後、5月22日から26日にかけての市民たちによる自治下の「解放光州」をテーマとした空間展示がありました。壁面の開設の見出しは「歓喜:22日-26日」とあります。天井からぶら下がるのは無数の靴。道路を模した床といい、前日・21日の錦南路での集団発砲をイメージしているのかもしれません。
『十日間のナビテ』のコンテンツ展示はここまでで終了。

 

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2館を抜けて、今度は3館の「旧全南道庁会議室」へ。ここからは5.18の現場たる建物自体の展示となります。
こちらの会議室もまた、道庁本館と同じく金舜河氏の設計によるものです。印象的な正面のガラス窓は1932年の竣工当時からあるもので、もちろん当時の設計図にも描かれています。初めて見たときはあまりの斬新さに、後から増築したのではと疑ったほどです。
1980年の5.18民主化運動当時は「民願室」とも呼ばれていたこちらの建物もまた、5月27日早朝の最終抗戦の舞台となり、多くの市民軍兵士が殺害された現場です。

 

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2階は舞台と客席のある大きなホール。その一角に立てられたパネルには、抗争指導部のスポークスマンであった尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士の姿が。
この部屋こそが、最終抗戦において尹祥源烈士が亡くなったまさにその現場であり、パネルはそのことを示すものです。

 

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1980年5月27日午前5時過ぎ、この部屋に立てこもっていた尹祥源烈士は、抗争指導部の企画室長であり同じトゥルブル(野火)夜学の仲間であった金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)烈士たちの目前で戒厳軍の銃弾を腹部に受け、まもなく死亡。尹祥源烈士や『闘士会報』の専門筆耕士であった朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956-1980)烈士ほか最終抗戦で亡くなった人々の遺体は、あろうことか清掃車に載せられて郊外の望月洞(マンウォルドン)の市民墓地(5.18旧墓地)へ運ばれてゆきました。また金永哲烈士たち生き残った人々にも、拷問による自白の強要、そして収監という地獄が待ち構えていました。
尹祥源烈士については、下記のエントリーにて紹介しております。あわせてお読みいただけますと幸いです。

 

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再び4館の旧全南道庁本館へ。今度は建物内を散策します。37年前の抗争期間、尹祥源烈士をはじめ抗争指導部メンバーや地元の名士たちによる収拾委員、そして幾多もの無名の市民が、その主張こそ違えど、たったひとつの目標へと向かってこの建物内を行き来していた姿に思いを馳せます。

 

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道庁本館の各部屋にも展示コンテンツがありましたが、これらは部屋の入口が締め切られており、近づくことはできませんでした。写真1枚目は、5.18において亡くなった人々と思しき名前の刻まれた造形物。

この道庁本館や会議室を含む「民主平和交流院」は、2015年11月の国立アジア文化殿堂オープンから1年半あまり非公開の状態が続いていました。そのオープンに際し、道庁本館の外壁などに残っていた弾痕を埋めたり、本館内にあった当時の市民軍状況室と放送室を一方的に撤去したことなどに対する、5.18被害者や犠牲者遺族など市民団体からの抗議がその主な理由です。両者間の協議が長らく平行線をたどる中、今年に入って抗争期間を含むこの1ヵ月間に限り公開することでどうにか合意に達し、今回の開放へと至ったものです。
この訪問の4日前(2017年5月17日)、文在寅(문재인:ムン・ジェイン、1953-)大統領は5.18犧牲者追悼式典での演説において「全南道庁復元問題は光州市と協議し協力する」と言及。これを機にできる限り市民団体側の要望に沿った形での解決、そして一連の展示の無期限公開へと至ることを願うばかりです。 

旧全羅南道庁(구 전라남도청:光州広域市 東区 文化殿堂路38 (光山洞 13)。史跡5-1号)

 

ふと時計を見ると、時刻は午後2時50分。
週末は約10分おきとただでさえ本数の少ない光州の都市鉄道(地下鉄)1号線、さらにそのうち1時間に1本しか来ない電車の発車時刻が迫っています。あわてて道庁本館前の階段を降りて「文化殿堂」駅へ。なんとか間に合った電車に飛び乗ります。

 

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光州都市鉄道(地下鉄)1号線の電車はこんな感じ。後に乗ることになる大田(テジョン)の都市鉄道1号線の電車もこれとよく似ていました(ラインカラーもともに緑)。

 

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着いたのは西側の終点である、鹿洞(ノクトン)駅。
隣接する龍山車両基地の見返りに設けられた駅だそうで、ほとんどの電車はこのひとつ手前の所台(ソテ)駅止まりとなっており、発着する電車は1時間に1本程度しかありません。そのためか1日あたりの利用者数は100人にも満たないようです。少し手前からは単線となりホームも1本のみ、さらに駅直前にはまさかの踏切(車両基地の構内道路なので一般通行不可)まであるという色々な意味ですさまじい駅です。
タクシーの運転手さんに「ここからいちばん近い光州の地下鉄の駅まで」と指示したら(最も近い鹿洞駅ではなく)ひとつ先の所台駅まで連れて行かれた、というエピソードをある方から聞きましたが、運転手さんの判断は間違いではなかったと思います。

 

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地下鉄の駅とは思えないちっちゃな駅舎。どうやら遠隔監視による無人駅のようです。なんと自動改札がたったの3台。他の駅にはあるコインロッカーもなし。とはいえ日本語を含む多国語表記はしっかりと。

さて、いいかげんお腹がすいてきました。思えばこの日は朝にコンビニの三角キムパッ(おにぎり)2個を食べただけ。チェックしてきた光州市内の人気飲食店の大半はこの日(日曜日)が定休日。今後のスケジュールを考えると営業中の店へ足を運ぶ余裕はありません。

 

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そんな中、またに渡りに船という感じで目前に現れたのがこちらのお店。見ると今回の旅での「食べるリスト」に入れていた光州名物料理のひとつ「エホバクチゲ」の名も。吸い込まれるように入った私でした。

 

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そしてやって来たエホバクチゲ。その名の通りチゲの上にどっさり乗ったエホバク(ズッキーニ)がスープの辛さを適度にマイルドにしてくれます。うんまい。適当に選んで入った店なのに料理が当たりだと、うれしくなりますね。
こちらのお店「鹿洞スップルカルビ」は営業時間も定休日も不明ですが(控えてきませんでした……すみません)、日曜日のランチタイム、それも飲食店がほぼ皆無の鹿洞駅付近で営業しているという貴重な存在です。

鹿洞スップルカルビ(녹동숯불갈비:光州広域市 東区 鹿洞ギル 80 (月南洞 335))

 

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腹ごしらえが済んだところで、再び次の目的地を目指します
駅を出て15分ほど南方向へ歩くと、片側4車線もの大通り「南門路」(ナムムルロ)沿いに、こちらの「주남마을」(周南(チュナム)マウル。マウルとは村、集落の意)と書かれた大きな石碑が迎えます。

 

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そこから30mほど先には、5.18の史跡であることを示す例の丸い碑石が。
この一帯は「周南マウル」と呼ばれる集落であり、抗争4日目の1980年5月21日に全南道庁から一時撤退した戒厳軍が市外へ通じる道路を封鎖して光州を孤立させるために一時駐留した場所です。その2日後の23日には、隣接する和順(ファスン)郡へ行くため付近を通過しようとしたミニバス(マイクロバス)に対し戒厳軍の兵士が銃撃を加え、乗車していた全18名中15名がまもなく死亡。さらに負傷者2名を山中へ連行して銃殺、埋めるという凶行を働きました。その遺体は後に近隣住民の申告により発掘されています。生存者はわずか1名のみ。こうした経緯から当地は「周南マウル隣近市民虐殺地」として5.18民主化運動の史跡14号に指定されています。
518番バスはこの近くを通りませんが、前述したように都市鉄道(地下鉄)1号線「鹿洞」駅から徒歩約15分(約970m)で到達できます。

周南マウル隣近市民虐殺地(주남마을 인근 시민 학살지:光州広域市 東区 月南洞 157。史跡14号)

 

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碑石のそばには、ここから700m先に「5.18慰霊碑」があるのと案内板が。
いま初めて知ったばかりですが、これをスルーすることはできません。訪れることにしました。

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壁画のある小さな集落を抜けると、すぐにのどかな山道が。37年前の惨劇がとても想像できない風景です。当時、戒厳軍はこのあたりを駐屯地としていたそうです。

 

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最初の案内板から10分程度歩くと、その慰霊碑がありました。
「周南マウル5.18慰霊碑」。事件発生30周年の2010年。虐殺された17名の慰霊のため、山中で殺害された2名が埋められた場所に建立されたもので、2つの碑石はこの両名を意味するとのこと。
碑を囲むようにたくさんのソッテ(솟대:上端に鳥の像がついた長い木の棒。民俗信仰で新年の豊作祈願や村の守護神の象徴とされる)が立っています。

周南マウル5.18慰霊碑(주남마을 5.18위령비:光州広域市 東区 月南洞 山 49)

 

次の目的地も市街地からは離れた場所にあるものの、直線距離では周南マウルからさほど遠くないので、タクシーで移動します。

 

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やって来たのは、羅州(ナジュ)や木浦(モクポ)方面へ抜ける片側3車線の大通り「西門大路」(ソムンデロ)沿いにある「松岩三益アパート」バス停(羅州方面側)。このすぐそばに、5.18の史跡を示す例の碑石が建っています。こちらは「光木間市民虐殺地(真月洞、松岩洞)」といい、先ほどの周南マウルと同じく5.18の抗争期間中に発生した住民虐殺事件を記憶する場として、史跡15号に登録されているものです。
「光木間」とは地名ではなく「光州と木浦の間」の意。正面を走る西門大路は京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)市からソウルや光州、羅州を経て全羅南道木浦市へと至る国道1号線の一部でもあり、5.18当時も光州と木浦を結ぶメインルートでした。
抗争7日目の5月24日午後1時半ごろ、駐屯地の周南マウルから光州飛行場へ移動中の11空輸部隊(戒厳軍を構成する1部隊)が、前述の碑石からも近い真月洞(チノルドン)を通過中に発見した数名の武装市民に対し射撃。このとき近隣の貯水池で水浴びしていた中学生1名、学校近くで遊んでいた小学生1名に銃弾が命中し、ともに死亡しました。
さらに午後2時過ぎ、同部隊が真月洞の隣の松岩洞(ソンアムドン)、現在の碑石付近まで進んだ際、付近に潜伏していた同じ戒厳軍の歩兵学校教導隊がこれを市民軍と誤認、奇襲を仕掛けます。同じように市民軍の攻撃と誤認した11空輸部隊はこれに応戦、双方に死者が発生しました。うち9名もの死者を出しつつもまもなく同士討ちであることを知った11空輸部隊は、まもなく無関係の近隣住民3名を捕らえ銃殺するなど八つ当たりとしか言いようのない報復を働いています。これら一連の出来事は「松岩洞虐殺事件」と呼ばれています。

 

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518番バスはこの近くを通りませんが、都市鉄道(地下鉄)1号線「南光州」駅そばの「南光州駅」(남광주역)バス停からであれば、<진월(真月)17>番バスに乗って約19分で碑石のある「松荷三益アパート」(송하삼익아파트)バス停に到着します。
光木間市民虐殺地(真月洞、松岩洞)(광목간 시민 학살지(진월동,송암동):光州広域市 南区 松荷洞 538。史跡15号)

 

以上、周南マウルと光木間の両史跡についてはともに「市民虐殺地」と紹介しましたが、5.18の史跡を示す碑石の写真のハングル表記と異なることにお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
本来、両史跡の名称は碑石にもあるように「市民」(시민)の箇所が「良民」(양민:善良な市民の意)となっていますが、近年はこれを「市民」と読み替えつつあります。これは「良民かどうかを問わず虐殺の犠牲者は悼むべきであり、事件を記憶し継承しなければならない」との考えに基づくもので、「5.18記念財団」のガイドブック『光州の五月を歩こう』(광주의 오월을 걷자)でもすでに「市民」の表記を採用しています。私もこの考えに賛同するため、本エントリーにて碑石とは異なる「市民」の表記を用いております。

 

これで未踏の5.18史跡は残り3か所。次の目的地はそれら未踏の史跡でこそありませんが、5.18民主化運動において重要な意味を持つ場所であり、またそこでもある方との約束をしていました。

それでは、次回のエントリーへ続きます。
今回(2017年5月)の光州5.18民主化運動の史跡・関連施設巡りのエントリーは次回が最終回となる予定です。

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