かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

釜山の旅[201711_03] - 避難民たちの住宅となった日帝時代の畜舎が残る「埋築地マウル」と「ソマンマウル」

前回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、2日目(2017年11月18日(土))です。

 

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東区(トング)凡一洞(ポミルドン)、釜山鎮市場(プサンジン・シジャン)ビルの横の飲食店街をしばらく南へ進むと、写真のトンネルが現れます。

 

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出入口に建つ住宅。トンネル内に文字通り食い込んでいます。

 

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高架道路の「子城路(チャソンノ)」をくぐるこちらのトンネルの壁面には、抜けた先にある次の目的地をイメージした壁画や昔の写真などで飾られていました。

 

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私が入ってきた北側(釜山鎮市場側)には出入口がひとつしかなかったはずですが、南側の出入口を抜けて振り返ると、向かって左側にもう1本のトンネルが口を開けています。
こちらはかつて釜山駅と牛岩(ウアム)駅とを結んでいた国鉄の貨物線、門峴線(ムニョンソン)の跡で、1958年の開業から1972年の廃止まで実際に貨車が走っていたトンネルです。

 

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昔の写真やパネル展示などでトンネル内壁を彩り、この年(2017年)2月に「子城路地下道」として改装されたうえで開放されています(ただし写真4枚目の北側は行き止まりです)

 

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子城路地下道を戻り、再び南側へ。写真1~2枚目は道路トンネルと子城路地下道の南側出入口のそばに建つ公衆トイレ。気動車ムグンファ号を模したものです。写真3枚目は2015年秋に撮影したムグンファ号。無駄に再現度高い。

 

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さらに南へ歩くと、次の目的地「埋築地(メチュクチ)マウル」に到達します。
「埋築地」とは韓国語で「埋め立て地」、「マウル」は「村、集落」の意。行政上「凡一5洞(ポミルオードン)」に属するこの一帯は、日帝強占期の1910年代に日本が海岸を埋め立てて造った土地であることから、俗にこの名前で呼ばれています。
かつてこの埋め立て地一帯には、日本軍の軍馬や近隣の埠頭で陸揚げされた荷物を運ぶ馬の厩舎と、荷役に携わる人々の居住空間を兼ねた家屋が多数立地していました。それら家屋は光復(日本の敗戦による開放)後もそのまま残され、一時は日本や旧「満洲国」などから戻った人々の仮住まいとなりましたが、1950年に朝鮮戦争(6.25戦争、韓国戦争)が開戦して以降は釜山に押し寄せた避難民たちの住宅として使用され、現在に至っています。

 

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埋築地マウルを南北に貫く大通り「城南2路(ソンナムイーロ)」沿いには沐浴湯(銭湯)「城南湯」の巨大な煙突が。埋築地マウルの住宅は総じて古く、浴室のない物件が多いため、住民の方々にとって大事な存在となっています。一般に釜山の沐浴湯の煙突は写真のような白と青のストライプ模様であり、それ自体が釜山らしい風景を演出しています。

 

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昔ながらのたたずまいを残す埋築地マウルは、釜山を舞台とした映画のうちいくつかの撮影地として登場します。その中でもとりわけ有名なのが、日本でも公開された2010年の大ヒット映画『アジョシ』(原題『아저씨』)。
写真はウォンビンさん演じる主人公、テシクの質屋が3階に入居していた設定のビル。写真2枚目、階上へ登る急な階段をご記憶の方もいらっしゃることでしょう。私もこの旅の出発前夜、予習を兼ねて『アジョシ』を観てきたばかりでした。

 

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テシクの質屋のビル1階には「スワン洋粉食(ヤンブンシク)」という飲食店が入っていました(当時)。1993年創業、トンカス(돈가스:韓国式とんかつ。主にデミグラスソースをかけて食べる)がかなりの評判のようで、私が撮影していた間にも何組かの来客が訪れていました。
ちなみにこちらのお店、奇しくも本エントリー公開直前の2018年7月に東区草梁洞(チョリャンドン)のKorail釜山駅前へ移転&拡張オープンしたとのこと。早速いくつかのブログで紹介されていました。次回の埋築地マウル訪問時には入ってみようと思っていましたが、今回の移転でもうちょい早まりそうです。

 

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埋築地マウルは『アジョシ』のほか、釜山を舞台とした2001年の大ヒット映画『友へ チング』(原題『친구』)でも撮影地のひとつとなっています。写真1枚目はそのことを示すパネル、2枚目は『アジョシ』と『友へ チング』の名場面、3枚目は『友ヘ チング』主演のチャン・ドンゴンさんを描いた壁画。

 

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壁画といえば、小規模ではありますが埋築地マウルにも壁画マウルがありました。

 

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糧穀商会(ヤンゴク・サンフェ)」。
一般に「クモンカゲ」と呼ばれる雑貨店で、60~80年代の韓国の街のあちこちにあったクモンカゲのたたずまいを残すお店として、埋築地マウルのみどころ&人気撮影スポットのひとつとなっています。もちろん営業中です。

 

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糧穀商会そばの電柱にぶら下げられた写真の鐘は「埋築地の鐘」と呼ばれ、火災などの緊急事態を住民たちに知らせるため、60年ほど前に埋築地マウルを襲った大火の後に設置されたものだそうです。幸いにして今日に至るまで活躍の機会はなく、マウルと人々を見守るかのように静かにたたずんでいます。今後もこの鐘を鳴らさねばならない事態が訪れないことを祈ります。

 

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中央薬局(チュンアン・ヤックッ)」。
先の糧穀商会と同様、60~80年代の街の薬局の雰囲気を残したお店です。糧穀商会とは異なり、こちらはすでに廃業しています。

 

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馬厩間(マグガン)ハウス」。
前述したように、現在の埋築地マウル一帯には厩舎と住居が合わさった家屋がいくつも建てられ、「馬厩間」と呼ばれたそれらは後に避難民たちの生活の場として再利用されました。写真の建物は、たまたま解体に際し馬厩間に由来することが判明した空き家の外壁を取り払い、代わりにアクリル板をはめ込むことで、馬厩間の構造を眺められるようにしたものです。

 

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埋築地マウルには至るところに生活感が漂う裏路地があり、訪れる者の郷愁を惹きつけます。
私にとっては日本人が建てた家屋だからなどではなく、あくまでそれら収奪のための負の遺産たる建物であっても韓国の方々が大事に保全し生活されてきたことに対し、郷愁を感じます。

 

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路地にいくつも置かれている茶色いプラスチックの桶は練炭を収納するケース。埋築地マウルでは現在も練炭が暖を取る手段などに用いられており、街角のあちこちには積まれた練炭が。 

 

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情茶房(チョン・タバン)」。
茶房とは「喫茶店」の意。こちらは住民のご老人たちが運営するカフェで、来客は任意の金額を払ってセルフでインスタントコーヒーなどを飲むことができます。
私のような観光客にはしばしの休息の場であり、また住民の方々には歓談の場である情茶房。私が訪れた際にも住民と思しき2人のお年寄りが楽しそうに話を交わしていました。 

 

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埋築地文化院(ムナウォン)」。
埋築地マウルの歴史を写真などで紹介する施設ですが、あいにくこの日(土曜日)は休館日のため観覧はできませんでした。開館時間は午前9時から午後5時まで(正午~午後1時は中休み)、土日と公休日は休館とのことです。

 

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埋築地マウルへは、都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川(チュァチュン)」駅4番出口から跨線橋を越えて徒歩約5分(約300m)ほどで到達できます。おすすめは本エントリーの最初に紹介した子城路をくぐるトンネル経由でのアクセスで、こちらの場合は同1号線「凡一」駅1番出口から徒歩約14分(約880m)で到達できます。

韓国『国際新聞』サイトのこちらの記事によると、本年(2018年)2月に東区の管理処分認可を得たことでこれまで滞っていた埋築地マウルの再開発計画が本格稼働し、同年5月から住民の転居が始まり下半期中には着工、来年(2019年)3月までには転居および建物の撤去が完了する見通しとあります。この計画通りであれば、以上で紹介した埋築地マウルの風景はまもなく思い出の中に消えることとなります。この街を残してほしいという正直な思いはありますが、私は住民ではなく利害関係もないので身勝手なことを発言できる立場ではありません。願わくばもう一度埋築地マウルを訪れ、この郷愁漂う街並みを目に焼き付けたいと思うばかりです。

埋築地マウル(마축지마을:釜山広域市 東区 凡一洞 一帯。リンク先は上の写真の撮影地である「城南2路」と「城南2路37番キル」との交差点)

 

埋築地マウルからは少し歩いて市内バスに乗り、次の目的地へ向かいます。

 

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到着したのは埋築地マウルのある凡一洞から東川(トンチョン)を渡った先の南区(ナムグ)にある、牛岩洞(ウアムドン)。
ここ牛岩洞には写真のような、かつて日本が建てた木造牛舎を住宅に改造した家屋が立ち並ぶ、通称「ソマンマウル」と呼ばれる一帯があります(青いのは防水のウレタン吹付のため)。

釜山港に面するこの一帯は、かつて入り江に牛の形をした大きな岩があったことから「牛岩」の名が付いたとされています。その後日帝強占期に入りやって来た日本人たちが、山肌が赤かったという理由で「赤崎(チョッキ/あかさき)」という名に変えていますが、現在は「赤崎」の名は消滅しています。
うち現在の「ソマンマウル」、あるいは「牛岩洞189番地」と呼ばれる一角には、収奪の一環で朝鮮牛を日本に移送する際の検疫所である「移出牛検疫所」が1909年に設置されます。その後海岸の埋め立てとともに敷地を拡張、「ソマク」あるいは「ソマクサ」(ソは「牛」、マク(サ)は「幕舎」の意)と呼ばれる木造牛舎が次々と建設されました。

 

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ソマクは切妻屋根(断面が三角形の屋根)に幅約10m×長さ約50mという長屋のような形態の木造建築で、1棟あたリ100頭以上もの牛が収容可能であり、これらは南北に伸びる道路、現在の「牛岩繁栄路(ウアムバンヨンノ)」を挟んで道と直角方向に配置され、最盛期には19棟ほどが建っていました。
光復後に放置されたこれらソマクもまた、埋築地マウルの「馬厩間」と同じく、朝鮮戦争期には避難民たちの収容所として使用されています。釜山の数ある収容所の中でも最大規模だったというこの「赤崎収容所」には、前回のエントリーでも紹介した西洋画家の李仲燮(이중삽:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏とその家族も1950年12月から翌年春まで滞在したとのことです。

 

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こうした収容所となったソマクは、休戦後も帰郷かなわず定着を余儀なくされた避難民により、そのまま住宅として再利用されるようになりました。
ソマク1棟あたり約40世帯が割り当てられたため、1世帯あたりの占有面積はわずか4坪ほど。トイレも共同、しかも当初は内部を合板で仕切っただけという極めて劣悪な環境でしたが、身ひとつで故郷を離れざるを得なかった避難民たちにとっては命をつなぐための貴重な生活の場となりました。

写真はソマクを再利用した住宅の玄関が並ぶ牛岩洞の路地。長い建物にいくつもの世帯が入居し玄関が開いていることから「ナレビチッ」(나래비집。ナレビとは日本語の「並び」に由来)、あるいは「ハモニカチッ(하모니카집)」などと呼ばれました。

 

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やがて生活が安定して暮らし向きがやや豊かになると、一部の住民は市から払い下げられた家屋と土地を購入し、古びた木造牛舎を改装あるいは改築するようになります。自分の占有部分をコンクリート製の家屋に建て替え、あるいは2階を増築した際、狭い敷地をわずかでも有効活用しようと2階の床を1階よりも広く取り、その分だけ通路側に張り出した家屋が現れました。これらは「3/2」のような分子が分母より大きな分数にたとえて「仮分数(カブンス)チッ」(チッは「家」の意)と呼ばれています。写真は2015年秋の訪問時に撮影した仮分数チッ。

 

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最初の写真にもあったように、ソマクを再利用した住宅は、日本式の瓦ぶきの切妻屋根の上に牛舎時代の通気口が残っているのが大きな特徴です。

この一帯は1960年代から70年代にかけて近隣に工場が多数立地し、その労働者が数多く流入した時期があります。当時の住民たちは切妻屋根の内側の空間に中2階を設け、通気口を窓に改造し、それら労働者たちに賃貸するようになりました。当時はそれでも部屋が足りないほど活況だったそうですが、80年代以降の空洞化や不況などで工場が続々と閉鎖され、人口は激減。近年では埋築地マウルと同様、高齢者の人口比が高い地域となっています。

 

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そうしていつしか「ソマンマウル」(「ソマン」とは「ソマク」の音韻変化)と呼ばれるようになったこの牛岩洞189番地一帯の牛舎住宅群は、住民や支援者たちによる保存・活性化活動などの甲斐あって、訪問後の本年(2018年)5月には「釜山牛岩洞ソマンマウル住宅」として国家指定登録文化財第715号に指定されています。写真は住民たちの地域活性化の取り組みとして描かれた壁画。

 

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こちらの木造家屋は牛舎ではなく、当時の官舎だった建物とのこと。

 

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ソマンマウル周辺には旅客を扱う鉄道の駅がないため、バスでのアクセスとなります。
都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一」駅からだと、8番出口から徒歩約2分(約100m)の場所にある「自由市場(자유시장)」バス停から<68>番バス(約6分おき配車)に乗車し、約11分で到着する「南部中央セマウル金庫(남부중앙새마을금고)」バス停にて下車、徒歩約3分(約210m)
また私のように埋築地マウルから向かう場合には、まず「子城台」バス停まで徒歩約11分(約730m)、そこから<26>番バス(約8分おき配車)に乗ると約10分で「南部中央セマウル金庫」バス停に到着します。全区間徒歩でも約40分(約2.63km)ですので散歩がてら歩いて行くのもよいかもしれません。
ソマンマウルは住宅街ですので24時間いつでも立ち入ることができ、また国の登録文化財でもあるうえ、先の壁画にも象徴されるように観光スポットとなることを期して開放されている場所ではありますが、先ほど紹介した埋築地マウルと同じく、お年寄りを中心に住民の方々が現在も生活されている空間でもあります。ご訪問に際してはどうかお静かに観覧いただくようお願いいたします。

釜山牛岩洞ソマンマウル住宅(부산 우암동 소막마을 주택:釜山広域市 南区 牛岩洞 189 一帯。リンク先は上の写真の通気口のある青い建物の位置)

 

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ソマンマウルの坂道を上った先には、またあの青と白のストライプで塗り分けられた沐浴湯の煙突が。こちらは残念ながらすでに廃業していました。

 

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ソマンマウルの道路を挟んだ向かい側には、「牛岩市場」と呼ばれる小さな市場があります。
市場とは言っても、人ひとり通れるのがやっとの細い路地沿いにわずか10軒足らずの店舗が並ぶだけのささやかな規模であり、ソマンマウルを含む住民だけが利用するであろうごく小規模なものです。
ただでさえ狭いうえ、日よけに覆われた路地は日中でも薄暗いですが、それがかえって情感を誘う風景を作り出しています。

 

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牛岩市場を抜けた先にあるのが、ソマンマウルと並ぶ牛岩洞のもうひとつの顔というべき飲食店「内湖冷麺」(ネホネンミョン)。車道から一歩入った裏路地に面するこちらのお店は、釜山を代表する郷土料理のひとつ「ミルミョン」の元祖とされており、来年(2019年)には創業100周年を迎えるという韓国でも屈指の老舗です。鄭銀淑さんの著書『釜山の人情食堂』で知ったお店で、2年ぶりの訪問となります。

 

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2010年には『東亜日報』紙上で連載中だったホ・ヨンマン氏のグルメ漫画食客』135話で紹介され、その知名度を全国区に拡大しました。店先にはそのいくつかのコマが。

 

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釜山での「内湖冷麺」の開業は1952年ですが、その創業は日帝強占期の1919年、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する咸鏡南道(ハムギョンナムド)の興南(フンナム)で営業していた「トンチュン麺屋」という冷麺屋にさかのぼります。
写真は店内にある歴代店主の写真。左はトンチュン麺屋時代の創業者である初代の故イ・ヨンスン(이영순)さん、中央は釜山での創業者である2代目の故チョン・ハングム(정한금)さん、右は現在の店主である3代目です。

1950年6月25日、朝鮮人民軍の「南侵」により朝鮮戦争が勃発。米軍を中心とする国連軍は同年10月の仁川上陸作戦で一時は中国国境の鴨緑江(アムノッカン)と豆満江(トマンガン)流域にまで迫りますが、想定外の中国義勇軍参戦により再び優勢となった人民軍に押し返され、後退を余儀なくされます。
人民軍の再攻勢から逃れるべく、港町である興南には近隣地域からの避難民が殺到。折りしも興南からの大規模撤退作戦を計画していた国連軍は、人道的見地からこの作戦で避難民たちも救出することを決定します。そして同年12月にはわずか11日間で、約9万人の市民と10万人以上の兵員などを興南港から脱出させることに成功。映画『国際市場で逢いましょう』の冒頭でも描かれた、国連軍のいわゆる「興南撤収」作戦です。
チョン・ハングムさん一家も例外ではなく、この「興南撤収」により住み慣れた郷里を離れ、避難民の身となりました。

 

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故郷を発った翌々年には釜山の赤崎収容所そばで、郷里の地名「内湖」を屋号につけた冷麺屋を開業。戦争中は冷麺の麺に欠かせない蕎麦が入手できなかったため、代わりに米軍からの救援物資であり比較的入手しやすかった小麦粉を加えた麺で冷麺を作ったのが、内湖冷麺におけるミルミョンの始まりだとのことです。
柔らかい小麦粉麺は、咸興(ハムン)冷麺に代表される咸鏡地方のジャガイモでんぷん由来の硬い麺に不慣れだった釜山の人たちにも受け入れられ、今日の釜山名物料理の地位を確立したとされています。こうした経緯から、ミルミョンはここ釜山での避難民の辛苦を象徴する料理のひとつにもなっています。

 

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店内にはチョン・ハングムさんの夫、故ユ・ボギョン(유복연)さんが死去直前に描いたという郷里の地図が掛けられていました。図の左下、自宅があったという咸鏡南道興南市水西里(スソリ)とは、現在の咸鏡南道咸興市、興南区域にある徳豊洞(トップンドン)を指すようです。

 

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そしてやって来たミルミョン。
いい感じの歯ごたえの麺も、薄い色の割に味の濃いスープも、そして上に乗ったヤンニョムジャンもうんまい。まだ2度目ですがすっかり恋しい味となりました。
写真右のコップに入った液体は、韓国の冷麺店にはほぼ必ずあるサービスの「ユクス」(육수:肉水。主に牛肉や牛骨を煮込んで取ったスープ)。他のお店に比べワイルドな香りの強いものでしたが、個人的には結構好きです。

 

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こちらのお店「内湖冷麺」の営業時間は午前10時~午後8時、年中無休。先にソマンマウルへのアクセスで紹介した「南部中央セマウル金庫」バス停からは徒歩約4分(約260m)で到達できます。ソマンマウル見学とあわせてご訪問を強くおすすめするお店です。
「決して店を移転してはならない」という2代目チョン・ハングムさんの教えを守り、今日も内湖冷麺は釜山での創業地である牛岩洞の裏路地で営業を続けています。

内湖冷麺(내호냉면:釜山広域市 南区 牛岩繁栄路26番キル 17 (牛岩洞 189-671))

 

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内湖冷麺からおよそ400mあまりの距離にある、Korail「牛岩」駅。
1951年に貨物線である牛岩線の終点として開業した駅で、旅客の取り扱いはありません。訪問の1カ月後(2017年12月)には貨物取り扱いが中止となったのことです。
ここでタクシーを捕まえて、次の目的地へと向かうのでした。

それでは、次回のエントリーへ続きます。

釜山の旅[201711_02] - 絶品のテジクッパと不遇の画家を記念した「李仲燮通り」、釜山・東区の「釜山鎮」を歩く

前々回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)11月の釜山広域市を巡る旅、明けて2日目(2017年11月18日(土))の朝です。

 

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この日最初に向かったのは東区(トング)、前夜に利用した都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一(ポミル)」駅からひとつ南側にある「佐川(チュァチュン)」駅。
5番出口を出て北西方面へ向かうと、写真の建物「鄭公壇(チョンゴンダン)」が現れます。

 

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壬辰倭乱(「文禄・慶長の役」。豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略)が始まった1592年の4月。当時の釜山僉節制使(チョムジョルジェサ。朝鮮時代の武官の官職名)であった鄭撥(정발:チョン・バル、1553-1592)は、朝鮮国の関門ともいうべき釜山を守るため、当時この一帯にあった釜山鎮城(プサンジンソン)を拠点に郡民を率いて日本の先鋒部隊と果敢に戦いますが(釜山鎮の戦い)、その最中に被弾して戦死します。
こうして亡くなった鄭撥とその幕僚、そして郡民たちを追悼するため、1766年に当時の釜山僉節制使であった李光国(이광국:イ・グァングク、?-1779)により釜山鎮城の南門の位置に建てられたのが、この鄭公壇です。
その後は釜山鎮城の陥落日である旧暦4月14日に代々の釜山僉節制使が祭祀を執り行ない、1895年の甲午改革以降は「享祀契(ヒャンサゲ)」と呼ばれる地元有志の団体に受け継がれてきましたが、1942年には民族魂を覚醒させるものとして日本により祭壇は閉鎖され遺品なども没収、享祀契も解散に追い込まれます。そして光復(日本の敗戦による解放)後まもなく享祀契は復活し、現在は鄭公壇保存会が管理と旧暦4月14日の祭祀を実施しているとのことです。

 

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鄭公壇の内部。鄭撥のものをはじめ、いくつもの碑が立ち並んでいます。

鄭公壇(정공단:釜山広域市 東区 鄭公壇路 23 (佐川洞 473))

 

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鄭公壇から路地を挟んだすぐ隣の建物のガレージ上には、写真の石碑が建っています。

 

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こちらは「梅見施紀念碑」といい、ここ釜山でハンセン病患者たちの治療に尽くしたオーストラリア人宣教師のジェームス・N・マッケンジー(James Noble Mackenzie、1865-1956)、韓国名「梅見施(매견시:メ・ギョンシ)」牧師の活動20周年を記念して1930年に建てられ、その後失われた石碑を2001年に復元したものです。

 

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梅見施牧師(写真)が初めて釜山を訪れた1910年当時、ここ釜山では米国人のアーウイン(Charles H. Irvin、1862-1933)、韓国名「魚乙彬(어을빈:オ・ウルビン)」宣教師が現在の南区(ナムグ)戡蛮洞(カンマンドン)にハンセン病の治療施設「相愛園(サンエウォン)」を創設、患者たちの治療に励んでいました。1912年に相愛国の2代園長となった梅見施牧師はハンセン病患者の救済に献身し、その後4,000人以上もの患者たちの治療に携わっています。こうした活動により就任当時は54人だった収容患者数は、牧師が園長職を退いた1937年には600人あまりに増加、その周囲には収容しきれないハンセン病患者たちの村が自然形成されたほどだったといいます。また梅見施牧師は先進治療方法の導入にも積極的で、当時はハンセン病の特効薬とされた大風子油(だいふうしゆ)の注射などにより、患者の死亡率を25%から2%に低減することに成功しています。
梅見施牧師は1938年にオーストラリアヘ帰国、1940年にはビクトリア長老教会の総会長となり、当時の「白豪主義」やアジア人差別を批判するなどの活動をしています。
そして1956年、梅見施牧師はメルボルンにて他界。その遺志は、2人の娘によって受け継がれました。

 

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梅見施牧師の死去4年前、朝鮮戦争さなかの1952年。長女の梅恵蘭(매혜란:メ・ヘラン、1913-2009)、次女の梅恵英(매혜영:メ・へヨン、1915-2005)の両氏は、かつて父が暮らした釜山を訪れます。両氏をはじめとするオーストラリア長老教韓国宣教会は、まもなく釜山に「日新(イルシン)婦人病院」を設立、初代病院長には梅恵蘭氏が就任しました。
その後「日新基督病院」に名を改めたこの病院は、今日もここ釜山・佐川洞にてキリスト教の教えに基づく医療を実践しています。写真は「梅見施紀念碑」のすぐ近くにある病院本棟で、紀念碑もまたその敷地内に位置しています。

 

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日新基督病院から坂道を登った先にある「釜山鎮日新女学校」。
1895年にオーストラリア長老教宣教会のベル・メンジース(Belle Menzies)宣教師らによって設立された、釜山で初めての女性のための近代教育機関「日新女学校」の校舎として1905年に竣工した近代建築であり、釜山広域市の記念物第55号に指定されています。

 

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日新女学校校舎のそばには、「釜山鎮日新女学校3.1運動万歳示威地」を示す案内板が。
1919年3月1日のソウルでの「独立宣言」朗読を皮切りに朝鮮全土で展開された、万歳示威(デモ)などによる抗日独立運動「3.1運動」。ここ釜山で最初となる万歳デモの地が、まさにこの日新女学校なのです。
「独立宣言」朗読から10日後の3月11日夜。日新女学校の教師と生徒たちがこの付近に集結し、前日に手作りした50本の太極旗を手に街を練り歩き、約2時間の万歳デモを挙行。しかし彼らは日本警察によりまもなく逮捕され、主導した2人の教師は懲役1年6ヵ月、また生徒11人も同6ヵ月の刑を受けています。

 

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こちらの建物「釜山鎮日新女学校」は、月~金曜日の午前9時~午後5時に内部が解放されているようです(この日は土曜日だったので閉館)。都市鉄道(地下鉄)1号線「佐川」駅からは徒歩約2分(約140m)で到達できます。

釜山鎮日新女学校(부산진일신여학교:釜山広域市 東区 鄭公壇路17番キル 17 (佐川洞 768-1)。釜山広域市記念物第55号)



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日新女学校の真向かいに建つ「釜山鎮教会」。
日新女学校の創始者でもあるメンジース宣教師らオーストラリア長老教宣教会によリ1891年に設立されたこちらの教会は、その前年に米国北長老教のウィリアム・ベアード(William M.Baird、1862-1931)、韓国名「裵偉良(배위량:ぺ・ウィリャン)」宣教師やその妻たちが当地にて礼拝を捧げたものがその起源とされ、嶺南(ヨンナム。釜山を含む慶尚道地域の総称)では最初の教会とのことです(現建物は1955年築)。

 

さて、思えばこの日はまだ朝食も食べていませんでした。時計を見ると午前9時半。これから歩いて行けばちょうど目的のお店の開店時間です。
お昼には長蛇の列が形成されるほどの人気店というそのお店、開店早々の空いているであろう時間を狙って向かうことにします。

 

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やって来たのは昨夜も訪問した凡一洞(ポミルドン)、釜山の名物料理「テジクッパ」(돼지국밥:テジ(豚肉)のクッパ)の名店として知られる1956年創業のお店「ハルメクッパ」。実はこちらのお店、前回(2017年2月)の釜山の旅でも訪問したのですが、あいにく定休日(日曜日)だったためありつけなかったもので、今回はそのリベンジを兼ねての再訪となります。お店の前には早くもうまそうな匂いが漂います。

 

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店内に入ります。オープン時刻の午前10時からまだ10分くらいしか経過していないのに、ほぼ満席です。もちろん、注文したのは看板メニューの(テジ)クッパ、5,500ウォン(約580円:当時)。安いのもまた魅力です。

 

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そしてやって来たクッパ。スユク(수육:豚肉などを茹でたもの)がごろごろ入っています。豚のダシが効いたコク深い味。かなりうんまい。こりゃあ人気店なわけです。底にはご飯が入っていますので、これを後回しにして食べると最後の一滴までコクのあるスープを無駄なく堪能できます。

 

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こちらのお店「ハルメクッパ」営業時間は午前10時~午後8時、日曜日定休。都市鉄道(地下鉄)1号線「凡一」駅からだと前回のエントリーでも紹介した跨線橋、通称「クルムタリ」(写真)経由で約7分(約440m)で到達できます。開店早々、私が食べている間にもひっきりなしに来客が入ってくるほどの人気店であり、前述した通りランチタイムには毎度のように列が形成されるとか。しかしそれだけ苦労してでも食べたい味です。

ハルメクッパ(할매국밥:釜山広域市 東区 中央大路533番キル 4 (凡一洞 28-5))

 

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ハルメクッパの店舗付近から始まる道路は、かつてこのあたりに居住したこともある西洋画家、李仲燮(이중섭:イ・ジュンソプ、1916-1956)氏の名を冠した「李仲燮通り」(이중섭거리)と呼ばれています。

 

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李仲燮氏は1916年4月10日、現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する平安南道(ピョンアンナムド)平原(ピョンウォン)郡で大地主の次男として誕生。中学卒業後に進学した五山(オサン)高等普通学校では、米エール大学で美術を学びパリでの活動経験もある西洋画家、任用璉(임용련:イム・ヨンニョン、1901-?)氏に師事。このとき西洋芸術に触れたことと民族意識に目覚めたことが、後の作風の基礎となったとされています。

 

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1935年には日本へ渡り、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学しますが、1年後には日本文化学院に移ります。これは文化学院が文部省の干渉を受けない前衛的な雰囲気であったためとされています。このときフォーヴィスム(野獣派)の作風で頭角を現した李仲燮氏は自由美術家協会に加入、1943年の第7回協会展では最高賞である太陽賞を受賞します。
同年に李仲燮氏は作品出展のため元山(ウォンサン。現在は朝鮮民主主義人民共和国)へ戻りますが、戦況悪化に伴い現地に留まります。その李仲燮氏を追いかけてひとり関釜連絡船に乗り、機雷の敷設された玄海灘を渡り会いにきた文化学院の後輩の日本人女性と1945年5月に元山で結婚。最初の子を生後まもなく亡くした後に2人の男児に恵まれますが、まもなく朝鮮戦争(韓国戦争)が開戦、越南(38度線を南へ下ること)を余儀なくされます。

 

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越南後は釜山に続き済州島西帰浦(ソギポ)、慶尚南道キョンサンナムド)の統営(トンヨン)と晋州(チンジュ)、大邱(テグ)などを転々としつつ絵画を描き続けますが、画材が買えずにタバコの箱の銀紙をキャンバス代わりとするほどの貧困のため、1952年7月頃にはやむなく妻と子を日本へ送り出します。翌年7月には友人を介して得た外航船員証で当時国交のなかった日本へ渡り、1週間の滞在中に愛する妻と子との1年ぶりの再会を果たしますが、それが今生の別れとなりました。
1955年1月にはソウルの美都波(ミドパ)ギャラリーで最初の個展を開催。しかし男児の裸を描いた銀紙絵がポルノだという理由で撤去され、そのうえせっかく売れた絵の代金を踏み倒されるなど惨憺たる結果に。貧困下での港湾労働など激務に伴う疲労蓄積に加え、酒量増などに伴う肝臓疾患、さらには心身衰弱に伴う精神疾患発症などが加わり、1956年9月6日にソウル赤十字病院にて死去。その3日後に友人が訪問するまで、誰も遺体の引き取り手のいなかった孤独な死でした。

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通り沿いに飾られていた李仲燮氏の絵画のレプリカ。
李仲燮氏は韓国で最も人気の高い画家の一人であり、その作品がオークションに出品された際には日本円で億単位の値段が付くことも珍しくないそうです。

 

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通りをしばらく進むと現れる階段。一定の場所から見ると李仲燮氏の顔が浮かび上がってきます。

 

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階段の横には李仲燮氏の作品を描いたタイルがいくつも埋め込まれています。その中には李仲燮氏が愛する妻と子に送った手紙に描いたものも。メッセージが日本語で書かれています。
写真2枚目文中の「南徳(ナムドク)」とは日本人の妻の韓国名で、「南からやって来た徳の多い女性」との意味で李仲燮氏自ら名付けたものだそうです。3枚目の「やすかたくん」とは年長の男児の名前。

 

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階段を登った先にある「李仲燮展望台」。李仲燮氏も眺めたであろう、釜山らしい斜面に張り付いた住宅の風景が一望できます。

 

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李仲燮展望台から少し下ったところには、氏の数ある作品の中でも特に知名度の高い数点のタイル画を含む壁画広場がありました。

 

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「黄牛(황소)」(1953年作)。
李仲燮氏の作品の中でも特に知られ、かつ評価が高いのが牛を描いた作品群であり、これらの大半は1952年から翌年にかけての統営在住時に描かれたものです。

 

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「旅立つ家族(길 떠나는 가족)」(1954年作)。
妻と二人の子を乗せた牛車、そしてそれを曳く作者自身の姿を描いた作品です。先に紹介した「やすかたくん」宛ての手紙の絵と同じ構図です。

 

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「鶏と家族(닭과 가족)」(1956年作)。
李仲燮氏自身もそうであったように、南北分断に伴う離散家族の悲哀を代弁するかのように描かれた、氏の最晩年の作品です。 

 

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李仲燮通りから少し歩いて、次にやって来たのは「釜山鎮市場(プサンジン・シジャン)」。
朝鮮時代の五日市「釜山場」に由来するこちらの市場は、1913年9月に常設市場として開設されました。1970年に竣工した4階建ての市場ビルには、2016年現在で1,350店もの店舗が入居しているとのこと。それらのうち半数近い600店が礼服や反物、進上物など「婚需」(혼수:ホンス。婚姻関連用品)の専門店であり、ソウルの東大門市場(トンデムン・シジャン)、大邱の西門市場(ソムン・シジャン)とともに全国3大婚需専門市場と呼ばれているそうです。

 

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釜山鎮市場の内部。

 

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こちらは「幣帛」(폐백:ペベク。新婦が婚礼の後に新郎の両親と対面する儀式で用いる飲食物の進上物)を専門に扱うお店です。

  

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地下1階、釜山鎮市場で働く人々の胃袋を預かる飲食店コーナー。客席の椅子が金色だったのにはちょっとびっくり。そういえば先の写真にもあるように市場ビルの玄関も金色の装飾で彩られていました。婚礼関連のお店が多いということで好んで用いられているのかもしれません。

 

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釜山鎮市場ビルの横の通りもまた飲食店街。その中のある店でぐつぐつ煮込まれていたクッパと思しき大鍋には、直前まで入っていたであろうビニール袋の形がくっきりと残る巨大なソンジ(선지:牛の血を固めたもの)が。こんなの初めてみました。

この飲食店街を南へ進み、次の目的地へと歩くのでした。
それでは、次回のエントリーへ続きます。 

光州の旅[201710_07] - 5.18の真相究明に生涯を捧げた弁護士、そして無等山麓「ムドル酒幕」のうんまいオーギョプサル

前々回のエントリーの続きです。

昨年(2017年)10月の光州(クァンジュ)広域市や全羅南道(チョルラナムド)高興(コフン)郡・宝城(ポソン)郡などを巡る旅、3日目(2017年10月29日(日))です。 

 

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筏橋(ポルギョ)バス共用ターミナルから乗車したのは、光州総合バスターミナル「U-Square」行きの市外バス。ただし次の目的地はU-Squareからだとかえって遠くなるため、ひとつ手前の「南光州(ナムグァンジュ)」停留場で下車します。筏橋からここまで約1時間10分。
南光州とは言っても都市鉄道(地下鉄)1号線「南光州」駅とは離れた場所にあるこちらのバス停、今回乗車した光州⇔筏橋・高興・鹿洞(ノクトン)間の市外バス以外では「鶴洞(ハクトン)」停留場と呼ばれるため注意が必要です。写真2枚目は道路向かい側、光州市外方面にのみある同バス停の待合室(写真中央、向かって右側の建物1階にあるオレンジの看板の場所)。

 

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市内バスに乗り換え、やって来たのは1980年5月の「5.18民主化運動」(5.18民衆抗争、光州事件)の最終抗戦地、旧全羅南道庁の前にある「5.18民主広場」。
以前にも紹介した、広場に建つ「5.18時計塔」の前に、写真の立て看板が。
この年(2017年)8月に公開され、韓国で記録的大ヒットとなった映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(原題『택시운전사』)の主人公マンソプを演じたソン・ガンホさんとその愛車のタクシー、そして作中ではトーマス・クレッチマンさんが演じたユルゲン・ヒンツペーター氏(こちらはご本人)のパネルです。
ソン・ガンホさんの持つボードには「光州広域市訪問を歓迎します」、タクシーの側面には「秋の旅行週間」とあります。 

 

その情報を知ってからおよそ8ヵ月、日本公開を首を長くして待ったこの映画を先日ようやく観る機会が得られました。その直後の思いを、上記のツイートに記しています。
映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』は、これから全国の劇場で随時公開される予定とのことです。ひとりでも多くの方がこの映画を見る機会を得られることを強く願っています。

 

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5.18時計塔から徒歩で8分ほど、以前に紹介した「光州MBC旧跡」からも近い東区(トング)弓洞(クンドン)にある写真の住宅は「故洪南淳弁護士家屋」といい、5.18民主化運動では市民収拾委員として活動、拷問と1年7ヵ月もの収監を経て5.18の真相究明と被害者の名誉回復のために生涯を捧げた弁護士、洪南淳(홍남순:ホン・ナムスン、1912-2006)氏の自宅だった建物です。

 

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洪南淳弁護士(写真左端の椅子に腰かけている男性)は1912年、全羅南道和順(ファスン)郡生まれ。綾州(ヌンジュ)公立普通学校を卒業後、あまりの向学心から1933年には日本へ密航し、4年後に和歌山市立商工学校(現在の同市立和歌山高等学校の前身?)を卒業しています。そうした猛勉強の末、1948年には司法試験に合格。光州高等法院(日本の高等裁判所に相当)などで10年間の判事生活を送った後、1963年には現在の光州広域市東区弓洞の自宅にて弁護士を開業します。
弁護士生活では一貫して反独裁闘争と民主化活動に徹し、朴正煕(박정희:パク・チョンヒ、1917-1979)大統領の軍事独裁政権下では「3.1民主救国宣言事件」※1や「『奴隷手帳』筆禍事件」※2、「民主教育指標事件」※3など30件以上もの「緊急措置法」違反事件ばかりを扱ったため、「緊急措置法専門弁護士」と呼ばれることもあったといいます。

※1 3.1民主救国宣言事件:1976年3月、ソウル・明洞聖堂での3.1節記念ミサにて発表された「民主救国宣言」を理由に、野党指導者と在野の民主人士が政府転覆扇動容疑で大量拘束、18名が訴追された事件。1審では金大中(김대중:キム・デジュン、1924-2009)氏や文益換(문익환:ムン・イクファン、1918-1994)牧師らの懲役8年をはじめ実刑判決が言い渡されたものの、翌年には大法院(日本の最高裁に相当)での上告棄却により全員無罪へ。
※2 『奴隷手帳』筆禍事件:1977年、詩人の梁性佑(양성우:ヤン・ソンウ、1943-)氏が、当時の朴正殿軍事独裁政権を批判する詩『奴隷手帳』を日本の『世界』誌上で発表したことを理由に投獄された事件。
※3 民主教育指標事件:1978年6月、小説家の宋基淑(송기숙:ソン・ギスク、1935-)氏ら全南大の教授11名が朴正熊軍事独裁政権による「国民教育憲章」を連名で批判、「私たちの教育指標宣言」を発表したことにより拘束、解職された事件。こちらのエントリーにて紹介。

 

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そして1980年5月、戒厳軍の暴虐を目の当たりにした洪南淳弁護士は市民収拾委員に参加。抗争9日目の26日には同市西区(ソグ)の農城(ノンソン)広場にて、戒厳軍の市内進入を防ぐため衣服を脱いで地面に寝そべる「死の行進」を他の収拾委員とともに実行、その後逮捕されます。写真は現在の農城広場と、そこに建つ史跡16号「農城広場激戦地」を示す碑石です。
抗争終了後には内乱首魁容疑で無期懲役の判決を受け、70歳近い高齢にもかかわらず刑執行停止まで1年7ヵ月もの獄中生活を余儀なくされました。釈放後は光州拘束協会長、5.18光州民衆革命記念事業および慰霊塔建立推進委員長などを務めるなど5.18の真相究明、そして被害者の名誉回復のため尽力しましたが、2001年秋に脳出血で倒れ、2006年10月14日に死去しています。

 

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こちらの家屋は抗争期間中に収拾対策会議が開かれた場所であり、洪南淳弁護士の功績とあわせて5.18の記憶・継承に大きな意味を持つ場所として、この年(2017年)の9月10日付で5.18の史跡29号に指定されています。この日(2017年10月29日)はまだ指定から2ヵ月弱で、5.18の史跡を示す丸い碑石はありませんでしたが、本エントリー公開直前(2018年5月25日)の再訪時には写真の真新しい碑石が設置されていました。
「故洪南淳弁護士家屋」へのアクセスは、5.18の史跡や関連施設を巡るように走る「518番バス」(こちらのエントリーにて紹介)であれば「全南女高」(전남여고)バス停にて下車、国立5.18民主墓地方面行きは徒歩約2分(約170m)尚武地区方面行きは徒歩約3分(約180m)です。家屋内に立ち入ることはできません。

故洪南淳弁護士家屋(고홍남순변호사가옥:光州広域市 東区 霽峰路 153 (弓洞 15-1)。史跡29号)

 

さて、そろそろ目的地へ行く約束の時間です。タクシーを捕まえ、乗車。車は光州の市街地を離れ、市の東側にそびえる無等山(ムドゥンサン、1187m)への登山道を走ります。

 

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運転手さんが目的地をご存じでなく、また私も道順が分からないため山中の道路をさまよい、約束の午後7時を若干回ってようやく到着したのは、写真の看板のお店「ムドル酒幕(ジュマッ)」。
無等山のふもとにあるこちらの飲食店は、おいしい料理を出すのみならず、敷地内の畑で自家栽培したサンチュなど豊富な葉野菜、そして自家製のトンドン酒(동동주)を出してくれるという魅力的なお店で、コリアンフードコラムニストの八田靖史さんが某イベントで紹介されたのが知ったきっかけです。事前予約必須、しかもなかなか電話がつながらない(出ない)というハードルを乗り越え、今回ようやく訪問することができました。

 

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この日は到着時点で日がとっぷり暮れており、しかも街灯すらない山中のため外観の写真を撮ることができませんでした。こちらの写真は本エントリー公開前日(2018年5月27日)の再訪時、ようやく撮影がかなったものです。

 

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店内。著名人のものらしき色紙が多数飾られています。その中には皆様もよくご存じのこちらの人物も。日付から察するに、追慕式への参列後に立ち寄られたのでしょうか。

 

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オリジナルの自家製酒があるというのに、注文しない手はありません。まずは写真のトンドン酒から。適度な甘さがうんまい。アルコール度数は8%と一般的なマッコリ(6%前後)よりやや高めで、疲れた体にしみ渡ります。

ところで日本では、トンドン酒はマッコリの一種だと思っている方も少なくないように思います(私もそうでした)。いずれも「濁酒(タクチュ)」に分類される酒ですが、厳密には区分されるべきものです。
原料の米をある程度発酵させた後、原酒の上側のやや濁った部分をすくい取ったものをトンドン酒、下に沈んだ粕を濾したものをマッコリと呼びます。うちトンドン酒については、分解される前の米粒がすくい取った原酒の表面にふわふわ浮かぶ様子から、韓国語で「ふわふわ」を意味する「トンドン」の名が付いたとされています。ちなみにトンドン酒をすくい取らずにもっと時間をおき、原酒の上側がより澄んだものを「清酒(チョンジュ)」、あるいは「マルグンスル」(「澄んだ酒」の意)といいます。

 

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トンドン酒、製造年月日がなんと訪問当日。さすがは自家製です。

 

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そしてやって来た今日の主役、オーギョプサル。
ご存じサムギョプサルが三(サム)枚肉ならば、こちらは皮まで含めた五(オー)枚肉。しかもチップル(짚불:藁の火)で軽くあぶられて出てくるため、藁焼きならではの風味がほのかに付いています。八田靖史さんの書かれた記事によると、これは表面をあぶることで肉汁を封じ込めるためだとのこと。

 

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お店の方がかいがいしく焼いてくださるのを待ち、待望の「マシッケトゥセヨ」(맛있게 드세요:「召し上がってください」の意)の号令が。
ぱくり。ああ、うんまい。肉汁たっぷりのお肉にとろける脂のハーモニー、そして藁焼きの香りが絶妙でもうたまりません。来てよかった。

 

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サンチュなどの葉野菜にオーギョプサルとニンニク、そして肉と並行して焼かれたキムチを乗せて食べるようすすめられます。こちらもぱくり。やや酸味の強いホットなキムチとオーギョプサルとの相性が抜群です。

  

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前述したように、こちらのお店では敷地内の畑で自家栽培された何種類もの葉野菜が付け合わせに出され、その組み合わせは季節に応じて変わるそうです。今回は5種類ほどだったでしょうか。中でも特に印象に残ったのは写真の紫色の白菜。初めて見ました。もはや「白」菜ではありません。シャキシャキしておいしかったです。

  

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こちらは本エントリー公開前日(2018年5月27日)訪問時に撮影した敷地内の畑と、出された葉野菜。葉野菜のラインナップはこのとき(2017年10月)と結構異なることがよく分かります。

 

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こちらのお店の自家製酒には、先ほどの濁ったトンドン酒のほか、上澄みをすくった写真のマルグンスルがあります。2本目はこちらをオーダー。透明度の高い、文字通りのマルグン(맑은:澄んだ)スル(술:酒)です。甘さ控えめのすっきりしたおいしさで、料理を引き立てます。こちらも度数は8%。

 

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一緒に出てきたパンチャン(おかず)の数々。特に気になったのは写真2枚目、たぶん青梅の実をヤンニョムに漬けたもので、他の店では見たことがありません。ヤンニョムも甘くて、おかずというよりはおやつ感覚。

 

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この日、ムドル酒幕の店内にいらっしゃったのは2人の女性店員さん。日本からの、それも一人という珍客ゆえかいろいろと親しげに話しかけていただいたのみならず、呼んでいただいたタクシーで去る際にはわざわざお見送りまで。味のレベルの高さのみならず、ホスピタリティすごい。絶対また来ます。
……そして前述したように、そう誓った7ヵ月後の本エントリー公開前日(2018年5月27日)、本当に再訪してしまったのでした。このときの話はまたいずれ。

 

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こちらのお店「ムドル酒幕」の営業時間は、平日午後3時~午後9時、土日は午前11時~午後9時。月曜定休。ただし本年(2018年)3月からは事情により土日と公休日のみの営業となっているようです(写真1枚目)。
前述したように無等山の麓(というより山中)にあるため市街地からはかなり遠いのですが、都市鉄道(地下鉄)1号線の「錦南路4街(クムナムノサーガ)」・「文化殿堂(ムナジョンダン)」の両駅から近い「全南女高」(전남여고)バス停からだと<석곡(石谷)87>バスで約44分、終点「清風学生野営場」(청풍학생야영장)のひとつ手前の「登村」(등촌:トゥンチョン)バス停で下車徒歩約6分(約370m)。写真2枚目は店内にあった、「清風学生野営場」バス停から市街地方面への<석곡87>バスの発車時刻です。
タクシーの場合は、「錦南路4街」駅からだと約20分、8,000ウォン前後光州総合バスターミナル「U-Square」からは約32分、12,000ウォン前後
前述した「予約必須」の件は、空いているときであれば予約なしでも入店可とのことでした(店員さん談)。とはいえ確実性を取るならば予約をおすすめします。電話口では私の下手っぴな韓国語でも十分理解してもらえました。予約に長距離移動の手間をかけてでもご訪問をおすすめするお店です。

ムドル酒幕(무돌주막:光州広域市 北区 新村セッカンキル 120-5(清風洞 856-1) TEL:062-266-6086)

 

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尚武(サンム)地区のホテルヘ戻り、近くのロッテマートヘ。帰りがけにムドル酒幕でちゃっかり購入したトンドン酒1本とあわせて、お土産を買うためです。まあどちらも自分用だけどな!
韓国、いや韓国含め海外に限らず、国内でも他地域のスーパーの生鮮食品売場を巡り、見慣れない食材を眺めたり、持ち帰れる範囲で購入したりするのが大好きなのです。
写真はロッテマートの生鮮食品売場。食材を包んで食べるための葉野菜がたくさん。これ、ブロックごとにほぼ全部違う種類なのですよ。先ほどのムドル酒幕がまさにそうでしたが、いろんな種類の葉野菜で料理をくるんで食べるのはほんっと楽しいですよね。

 

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明けて、帰国日となる4日目(2017年10月30日(月))の朝です。
この日も光州はいい天気。

 

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ホテルから数分ほど歩いた場所に、以前にも紹介したことのある写真の碑があります。
5.18民主化運動の際に抗争した市民たちが監禁・拷問された施設などを移築保存した「5.18自由公園」の前に建つこちらの碑は「トゥルブル夜学7烈士記念碑」。市民軍を統制する抗争指導部のスポークスマンを務め、5月27日の全南道庁での最終抗戦で亡くなった尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980。北斗七星を象った線沿いに左から2番目の男性)烈士など、抗争において重要な役割を果たしたトゥルブル(野火)夜学の主要メンバーであった7烈士を称えるためのものです。どうしてもまた烈士たちに会いたくなって、ここに来てしまいました。身が引き締まる思いです。
「5.18自由公園」についてはこちら、そしてトゥルブル夜学についてはこちらのエントリーにてそれぞれ紹介しています。あわせてお読みいただけますと幸いです。

  

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KTX乗車のため光州松汀(ソンジョン)駅へ移動。少し時間があるので、朝食をとることにします。入ったのは同駅前、「1913松汀駅市場」の入口にある「ヨンミョンクッパ」。短時間で出てきて手軽にお腹を満たせるクッパの専門店という駅前食堂にぴったりのお店です。そのうえ味も評判のようで、人気グルメ番組『水曜美食会』でも紹介されたとのことです。看板の字体がちょっとおしゃれ。

 

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注文したのは写真の「モドゥムクッパ」、8,000ウォン(約840円:当時)。
コク深いスープがうんまい。「モドゥム」(「全部(入り)」の意)の名の通り、豚コプチャン(ホルモン)やスンデなどさまざまな具が入っていて贅沢感があります。元気がつきそうな朝食です。

 

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こちらのお店「ヨンミョンクッパ」は24時間営業、年中無休。Korail光州松汀駅正面出口からだと徒歩約4分(約240m)です。「1913松汀駅市場」の見物とあわせて、ぜひ。

ヨンミョンクッパ(영명국밥:光州広域市 光山区 松汀路8番キル 7-7 (松汀洞 991-5))

 

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5.18民主化運動の記憶・継承を通じて民主主義を希求する姿勢に加え、見どころの多さと料理のおいしさ、そして人のあたたかさ。いろいろな意味で光州は大好きな街です。
再訪を誓い、9時05分発のKTXで光州松汀駅を発つ私でした。

 

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ソウル駅に到着。地下の都心空港ターミナルで荷物預け&出国審査を済ませた後は、かつての高架道路であった「ソウル路7017」をちょっとだけ散策します。5ヵ月前のオープン直後に比べるとさすがに客足は減ったとはいえ、それでも多くの人が往来していました。 

  

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写真はたまたま開催されていた「서울로 떠나는 쉼표」というイベントで、正午からの2時間、空気で膨らませたベッドで昼寝ができるというもの。実際に横になってみたところ想像以上に心地よくて、思わず笑いが出てしまいます。下手すると本当に寝落ちしそう。飛行機に乗り遅れるので睡魔をこらえます。まさかソウル都心のど真ん中で空を見上げて横になるとは思いませんでした。

  

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そして仁川国際空港へ移動、来たときと同じチェジュ航空で帰国するのでした。

2017年10月の光州・高興・宝城の旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは再び、2017年11月の釜山広域市の旅をお送りします。

 

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【おまけ】
この旅最後(2017年10月30日)の昼食は、たまに食べたくなってしまう韓国のコンビニ弁当。
今回は仁川国際空港のコンビニ「CU」にて購入した「牛バラ焼肉定食」(우삼겹정식)。実業家でもある料理人兼料理研究家、ぺク・チョンウォン氏(写真の人物)監修によるこちらのお弁当、結構おいしかったです。それにしても韓国ではコンビニ弁当のラベルにまで日本語表記があるのですから本当に恐れ入ります。

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