かつてのTwitterアカウント(削除済み)の別館です。
主に旅での出来事につき、ツイートでは語り切れなかったことを書いたりしたいと思います。

光州の旅[201705_02] - 「5.18自由公園」、そして民主技師たちの車両デモを再現した行進

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

尹祥源烈士の弟さんに送っていただいた光州松汀(クァンジュソンジョン)駅から再び地下鉄1号線に乗り、「金大中コンベンションセンター」駅で下車。

 

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この駅のそばには、駅名にもなっている「金大中コンベンションセンター」があります。
金大中」とは言うまでもなく、同じ全羅南道(チョルラナムド。現在ここ光州広域市は行政上は全羅南道と分離)の木浦(モクポ)出身の政治家、金大中(김대중:キム・デジュン、1924-2009)元大統領のこと。一度は軍事政権下で死刑判決を受けながらも大統領にまで登りつめ、2000年には南北首脳会談の実現によりノーベル平和賞を受賞した氏を記念して名付けられた施設です。

 

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さらに北側へ向かって歩くと、金大中コンベンションセンターの北側に隣接する、写真の施設「5.18自由公園」が現れます。
かつて軍事法廷や営倉(法を犯した兵士の収監施設)などが設置され、1980年の5.18民主化運動(5.18民衆抗争、光州事件)当時は市民を拘留し自白強要のため拷問を加えた場所でもある「尚武台」(サンムデ)を、かつての所在地(現在の地下鉄1号線「尚武」(サンム)駅前一帯)から移築したもので、光州市民たちの10日間にわたる抗争、そして市民たちが受けた拷問と不当な処罰を記憶する施設となっています。

 

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こちらの施設は大別して、資料館である「自由館」と、営倉・軍事法廷など旧「尚武台」の施設展示に分かれます。まずは写真の「自由館」へ。

 

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玄関を入ると眼前に現れる、全南道庁前の5.18民主広場にある噴水台を舞台代わりとした市民集会の写真。5.18民主化運動当時、ここで幾度となく市民集会が開催され、戒厳軍、全斗煥軍事政権への徹底抗戦が誓われました。

 

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展示室。最初に出迎えてくれるのは、版画家の洪成潭(홍성담:ホン・ソンダム、1955-)氏による5.18民主化運動を描いた作品の数々です。氏の作品、中でも写真2枚目の左上「大同世上」(대동세상)は光州市内のあちこちで目にする機会がありました。

 

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5.18民主化運動当時の戒厳軍の移動状況を示したパネル。

 

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1980年5月21日午後1時、多数の死傷者を出した全南道庁前の錦南路(クムナムノ)路上での戒厳軍による無差別射撃を受け、怒りが頂点に達した光州市民はついに近隣の郡部の軍倉庫や警察署から奪った銃器で武装、武力による抵抗が始まりました。写真はこうして生まれた市民軍について説明したパネル。

 

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前回のエントリーでも紹介した『闘士会報』の第6号。1980年5月23日(金)の日付が記されています。

 

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向かって左側は全南大学校総学生会による1980年5月8日付「民族、民主化盛会」、右側は同大教授協議会による同月13日付「時局宣言」文。

 

f:id:gashin_shoutan:20170823215559j:plain戒厳軍の兵士が着用していた戦闘服、そして光州市民の無差別殴打に用いられた「鎮圧棒」。

以上は「自由館」の展示物のごく一部にすぎません。機会があるようであれば、ぜひ直接訪れてご覧いただくことをおすすめします。

  

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続いて、尚武台を移設・復元した展示スペースへ。写真のように、広大な敷地に当時の「尚武台」の各施設が再現されています。
 

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軍用トラックの荷台でひざまづかせられる市民を再現した人形。「鎮圧棒」による殴打などにより負傷した市民は、このようなトラックの荷台に乗せられて郊外にあった軍施設や矯導所(刑務所)へ移送、そこで死亡した例も少なくないとされています。
この施設では、このように当時の市民や戒厳軍を再現した人形がいたるところに設置されています。

  

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互いに縄で結ばれて連行される市民たちの再現人形。

 

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憲兵隊中隊内務班」の内部。

 

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俗に「元山爆撃」と呼ばれる、頭と足だけで体を支え腰を持ち上げた状態での姿勢維持を強要される市民たちの再現人形。この「元山爆撃」はかつて韓国軍における体罰、しごきの定番であり、その姿が朝鮮戦争当時の国連軍(米軍)による朝鮮半島北部の都市・元山(ウォンサン)への急降下爆撃を髣髴とさせることからその名がついたと言われています。

 

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憲兵隊本部事務室」、尋問を受ける市民たちの再現人形。

 

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憲兵隊食堂の厨房、水拷問(水責め)を受ける市民の再現人形。水拷問は軍のみならず警察でも拷問の常套手段として用いられ、1987年には警察施設内にて当時のソウル大3年であった朴鍾哲(박종철:パク・チョンチョル、1965-1987)烈士がこの水拷問により殺害されています(こちらのエントリーにて紹介)。

 

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営倉のゲート。見張り台には憲兵の人形が立っています。ヘルメットには「헌병」(憲兵)の文字が。板門店(バンムンジョム)へ行ったことのある方であれば、このヘルメットを被った韓国軍警備兵に見覚えがあることでしょう。

 

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ゲートを通り抜けると、写真の営倉建物が現れます。

 

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営倉の内部。監視する憲兵と、拷問、殴打によりうなだれ、あるいは抗議の意思を露に鉄格子にしがみつく市民の再現人形が設置されています。

 

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軍事法廷。建物外壁には「法廷」の文字が。内部には裁判を受ける市民たちの再現人形があります。軍事法廷ですので裁判官たちもまた軍人であり、軍の制服を着用しています。拷問により強要された自白を証拠とした一方的な裁判により、多くの市民たちが実刑判決を受け、収監されてゆきました。その中には実際に執行された例はなかったとはいえ、死刑判決もありました。

 

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5.18自由公園の開館時間は午前9時~午後6時、冬季は閉館が1時間早まります。年中無休、入場無料。以前に紹介した「国立5.18民主墓地」内の「追慕館」や「光州広域市5・18民主化運動記録館」と並ぶ、5.18を記憶し継承するための施設であり、ぜひ訪れていただきたい場所です。
光州市では、5.18の史跡や関連施設などを巡る<518>番路線バスが運行されています(こちらのエントリーにて紹介)。国立5.18民主墓地方面行き、尚武地区方面行きともに「5.18自由公園」(5.18자유공원)バス停で下車、目の前が5.18自由公園です。
以後、5.18民主化運動関連の施設や史跡などの位置の紹介においては、518番バスが近くを通る場合はその停留所を併記することとします。
5.18自由公園(5.18자유공원:光州広域市 西区 尚武平和路13 (治平洞 1161-6))

 

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5.18自由公園の入口からやや東側には、前回のエントリーでも紹介した尹祥源(윤상원:ユン·サンウォン、1950-1980)烈士たちを称えた「トゥルブル夜学7烈士記念碑」があります。
「トゥルブル7烈士」とは、トゥルブル(野火)夜学の創立者である朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)烈士、およびトゥルブル夜学の講学(講師)を務め、5.18民主化運動の際に死亡あるいは逮捕・収監された、尹祥源烈士を含む6名の烈士の総称です。
北斗七星を象ってはめ込まれたレリーフは、左(写真3枚目では左上)から順に朴琪順、尹祥源、朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956-1980)、朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)、申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)、金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)、そして朴暁善(박효선:パク・ヒョソン、1954-1998)の各烈士の肖像です。

ここから地下鉄1号線の「良洞市場」(ヤンドンシジャン)駅にかけて、同路線沿いに未踏の5.18民主化運動の史跡がいくつか点在しているのですが、ある大事なイベントの時間が迫っていたため、タクシーを拾ってその場所へ向かいます。

 

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到着したのは「光州起亜(キア)チャンピオンズフィールド」。起亜自動車がスポンサーである韓国プロ野球リーグの球団「起亜タイガース」の本拠地として2013年12月に落成した野球場であり、その設計にあたっては「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島」(広島市民球場)などがベンチマークとなったとされています。偶然にもどちらもチームのテーマカラーは赤ですね。球場建物の側面には選手たちの巨大な写真が。

かつてこの野球場の場所には、光州市の東部にそびえる「無等山」(ムドゥンサン)から名付けられた「無等競技場」と呼ばれる施設がありました。
5.18民主化運動当時、光州市民たちが戒厳軍の無差別暴力から逃れようとタクシーに乗り込んだ際、その運転技師(運転手)までも暴行を加えられる事件が頻発。抗争3日目、この日からちょうど37年前の1980年5月20日、これに激怒したタクシーやバスの運転技師たちがここ無等競技場に集結し、各自の車両を用いたデモを計画します。

 

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同日午後6時ごろ、高速バスを先頭に、ヘッドランプを点灯しクラクションを鳴らしたおよそ200台ものバス・タクシー車両による隊列が無等競技場正門を出発。そして午後6時40分ごろ、戒厳軍による暴力の激しかった錦南路(クムナムノ)から近い柳洞(ユドン)交差点付近に現れた車両デモ隊は、戒厳軍と対峙しつつもなす術のなかった光州市民たちを大いに勇気づけました。これが契機となり、後の市民軍形成、そして組織的抵抗にもつながったとされています。
これを記念し、当時の運転技師たちの勇気を称えるべく毎年5月20日を「民主技師の日」と定め、当時の車両デモを再現した「民主技師の日大行進」が実施されています。
この当日に開催されていた祭典「第52回光州市民の日」の一環として、午後2時半に行進が無等競技場を出発すると知り、急いでやって来たわけです。

 

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到着は数分遅れたものの、行進はちょうど出発したばかりでした。初めて来た場所ですが、先頭の車両が「ニムのための行進曲」を大音量で流していたので容易に見つけることができました。
ボンネットにそれと分かるカバーをつけ、あの日のようにヘッドランプを点灯したタクシーが隊列を組み、続々と通り過ぎてゆく姿はまさに壮観。今回の参加はタクシーのみ、車両の数は30台前後でしょうか。それでも堂々たるものなのに、あの日の大型バスを含む200台もの隊列、それも戒厳軍を威嚇するかのごとくクラクションを鳴らしながらの行進は、光州市民をどれだけ勇気づけたことでしょう。

 

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こうした理由から、車両デモの出発地となった無等競技場正門は5.18民主化運動の史跡18号として認定されており、そのことを示す碑石が現在の野球場の正門(写真1枚目)近くに建てられています。

 

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光州の「光」の字、および当時の民主化デモにおいて参加者たちが手に持ったトーチ(フェップル)を象ったこの丸い碑石は、光州市内に第27号まで全30か所(第5号のみ4か所)ある5.18民主化運動の史跡地のほとんどに建てられています。前回(2016年8月)の旅と同じく、今回もまたこの碑石を目印に、あの日の光州市民たちの足跡をたどることします。
今回の一連のエントリーでは前回と同様、これら史跡の場所(KONEST地図へのリンク)につき碑石がある場合にはその位置を、ない場合はそれに相当するものの位置を示すこととします。
518番バスは、無等競技場正門の付近は通りません。

無等競技場正門(무등경기장 정문 :光州広域市 北区 西林路 9 (林洞 329)。史跡18号)

それでは、次のエントリーへ続きます。

光州の旅[201705_01] - 「未来の勝利者」尹祥源(ユン・サンウォン)烈士をご存じですか?

今回からは、本年(2017年)5月20日(土)から同月23日(火)にかけての光州(クァンジュ)広域市の旅をお届けします。

今回の旅は、かねてから強い関心がある、1980年にここ光州で発生した「5.18民主化運動」(光州事件)の史跡や資料館などを巡る旅の2回目です。
当時の保安司令官であり、軍事政権において実質的に大統領以上の権力を握っていた全斗煥(전두환:チョン・ドゥファン、1931-)による5月18日午前0時の全国非常戒厳拡大を根拠に、同日未明より光州市内の全南(チョンナム)大学校などへ進駐した戒厳軍による筆舌尽くしがたい暴虐、そしてこれに対する光州市民たちの10日間にわたる一連の抗争の開始日を取って、韓国では「5.18民主化運動」あるいは「5.18民衆抗争」などと呼ばれています。
本ブログ最初のエントリーシリーズがまさに昨年(2016年)8月の光州の訪問記でしたので、個人的にとても縁の深い場所だと思っています。
今回の旅では「5.18民主化運動」というテーマのもと、過去にないほどさまざまな人々との出会いがあり、そしてお世話になりました。この場を借りて、心からお礼申し上げます。またそうした方々のお力添えもあり、限られた時間の中をほぼすべての目的地に足を運ぶ機会が得られました。そうした意味で、過去20回あまりの韓国の旅の集大成となったといえるかもしれません。

前置きが長くなりましたが、本題に入りたいと思います。

 

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光州へは今回もKTXで。前回訪問以降にソウル駅発の湖南線KTXが設定されたので便利になりました。
KTXが到着する光州松汀(ソンジョン)駅から地下鉄1号線に乗り、ホテルから近い尚武(サンム)駅で下車。チェックイン時刻にはまだ早いので、駅構内のコインロッカーに荷物を預けます。光州地下鉄の駅は私が知る限り、東端の終点である鹿洞(ノクトン)駅を除くどこにもコインロッカーがあるので助かります。

 

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尚武駅からタクシーに乗車、北へ向かって約20分ほどで到着したのが、こちらの「尹祥源生家」です。

 

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尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士とは、5.18民主化運動において市民軍を統制する抗争指導部のスポークスマンを務め、抗争の最終日、5月27日早朝の全羅南道(チョルラナムド)庁舎での攻防戦にて戒厳軍の銃弾に倒れた人であり、「五月のために生まれた人物」とも呼ばれています。
その生まれ育った実家が、まさにこちらの場所です。

生家を紹介する前に、まずは尹祥源烈士についてひと通り触れておきたいと思います。

 

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尹祥源烈士は1950年8月19日、全羅南道光山(クァンサン)郡(現在の光州広域市光山区)の林谷面(イムゴンミョン)生まれ。幼年期は本名である開源(ケウォン)を名乗っていました。写真は林谷初等学校(小学校に相当)3年生のときの集合写真で、青い星が当時の開源少年です。
その後、光州広域市(当時は全羅南道光州市)内の北星(プクソン)中学校とサレシオ高等学校を経て、1971年に全南大政治外交学科に入学。その在学中、労働問題に強い関心を抱くようになります。折りしも入学前年の1970年11月、ソウル・平和市場(ピョンファンジャン)の一労働者だった全泰壱(전태일:チョン・テイル、1948-1970)烈士が労働環境改善を訴え焚身(焼身)し死亡する事件が発生し、韓国社会での労働問題に対する関心が高まりつつあった中でした。

 

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大学卒業後は銀行に就職し、ソウル・奉天洞(ポンチョンドン)の店舗に勤務しますが、労働問題への思いは強く、わずか半年で退職し光州へ戻ります。
光州では光川洞(クァンチョンドン)の低所得者向け団地「光川市民アパート」(写真)に居を構え、身分を装って近隣の光川工業団地の期間工として勤務します。これは労働環境の実態を調査するため労働者となり潜入する「偽装労働者」活動のためでした。
烈士はこの潜入活動を通じて光川工業団地の全企業の労働環境を調査、その劣悪さを告発した『光川工団労働者実態調査報告書』をまとめ上げ、労働環境改善を求めて公的機関への提出を試みますが、結果的には顧みられることはありませんでした。

 

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こうした労働運動の中で尹祥源烈士は、光川市民アパートに隣接する教会「光川洞聖堂」(写真。当時の建物は出入口のみ現存)を拠点とする「トゥルブル夜学」(들불야학:トゥルブルとは「野火」の意)の創立者の一人である朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)、同じ光川市民アパートに暮らし住民の生活環境向上のため奔走していた金永哲(김영철:キム・ヨンチョル、1948-1998)の両烈士と出会い、合流します。
そして自らもまた講学となり、浅い学歴のまま労働者とならざるを得なかった若者たちへの教育、労働問題や民主化への啓蒙を行ないました。

しかし、それからまもなく悲劇が発生します。
1978年12月26日、朴琪順烈士が突如この世を去ったのです。当時の韓国で暖を取る手段として一般的だった練炭によるガス中毒。わずか20年の短すぎる、しかしトゥルブル夜学の創立の主導に加え光州で女性初の偽装労働者となるなど、労働者の権利向上のために尽くした生涯でした。
深い親交があった尹祥源烈士は悲しみに暮れる中、その遺志を継ぎトゥルブル夜学の発展に一層注力します。

こうした活動と前後して尹祥源烈士には、さまざまな出会いがありました。その中には、全南大の学生会長であり類まれな演説の才能を持ち、前述した報告書の作成時にも大きな手助けとなった朴寛賢(박관현:パク・クァニョン、1953-1982)、字の上手さから後述する『闘士会報』制作時には筆耕(清書)士として活躍した朴勇準(박용준:パク・ヨンジュン、1956~1980)、全南大での学生運動を経てトゥルブル夜学に創立当初から合流し講学となった申栄日(신영일:シン・ヨンイル、1958-1988)、そして後に5.18でも大きな役割を果たした劇団「クァンデ」の創立者で、文化担当特別講学として夜学にも関わった朴暁善(박효선:パク・ヒョソン、1954-1998)の4烈士も含まれます。

 

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尹祥源烈士とこれら4名、および前述の朴琪順、金永哲の両烈士を加えた全7名はいずれもトゥルブル夜学の講学経験者であり、うち5.18前に亡くなった朴琪順烈士は夜学創立者として、また5.18を迎えた6名のうち尹祥源・朴勇準の両烈士は全南道庁での最終抗戦で死亡、朴寛賢烈士は抗争期間後に逮捕され獄死、残る3名も抗争直後に収監され、解放後も拷問の後遺症に苦しみつつ亡くなったことから、これら7名は「トゥルブル7烈士」と総称されています。
写真は、トゥルブル7烈士を称えるために光州市内の「5.18自由公園」(次回エントリーで紹介予定)に建てられた「トゥルブル夜学7烈士記念碑」です。

 

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朴琪順烈士の死からおよそ1年と5ヵ月後の1980年5月18日、尹祥源烈士たちトゥルブル夜学のメンバーはついにその日を迎えます。
光州市内の大学キャンパスに進駐した戒厳軍の兵士が無抵抗の学生や市民たちに組織的暴力をふるい始めると、まもなく尹祥源烈士たちは全南道庁からほど近い、民主運動家たちの集いと議論の場であった古書店「緑豆書店」(ノクトゥソジョム。写真はその跡地を記す碑石。「緑豆」とは1894年の東学農民戦争で東学軍を率いて処刑された全琫準(チョン・ボンジュン)将軍の愛称)を状況室とし、全国の学生運動家・民主化運動家たちと連絡を取り合いますが、やがて電話回線も切断されてしまいます。

 

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軍事政権の統制下にあった放送局は戒厳軍の蛮行を一貫して市民の暴動だと歪曲、また新聞も戒厳軍の光州封鎖により市内への搬入が停止しつつあった中、尹祥源烈士たちは市民の情報源となるべく、戒厳軍の動向や市民集会の予定などを記した広報紙の発行を決定します。
まず19日には手書きかつ手作業のガリ版刷りによるビラ『光州市民民主闘争会報』を、続いて21日にはほぼ同じ体裁の『闘士会報』(투사회보:トゥサフェボ)を制作し光州市内に配布。この『闘士会報』(第8号からは『民主市民会報』に改題)は10号まで制作され、うち戒厳軍に押収された第10号を除く全9号がそれぞれ数千~数万部ほど市内に配布、実質的に途絶えたメディアに代わって光州市民の目と耳となりました。
写真は同市内錦南路(クムナムノ)の「光州広域市5・18民主化運動記録館」(こちらのエントリーにて紹介)にある、当時の『闘士会報』制作作業の再現展示です。

一方、光州市内で暴虐の限りを尽くした戒厳軍が21日に全南道庁から(戦略的に)撤退して以降、光州市内は一時的に市民たちによる自治都市となりました。
徐々に静けさを取り戻すかのように見えましたが、現実には自然発生的に形成された市民軍の統制、および今後の対応方針を決定すべき機関が存在せず、近日中に想定される戒厳軍の来襲への対策はほとんど整っていない状態でした。さらに、そうした中で地元の名士たちにより発足した収拾委員会の意見の大勢は、市民軍の武装を解除し、戒厳司令部へ返納することで譲歩を引き出そうという根拠に乏しい楽観的なものでした。
尹祥源烈士たちトゥルブル夜学のメンバーはこれに激しく反発、殺害された市民のため、戒厳軍との徹底抗戦を主張します。市民軍のリーダー格の人物の支持などもあって尹祥源烈士は徐々にその地位と発言力を固め、ついに25日にはトゥルブル夜学のメンバーを核とする抗争指導部が発足し、市民軍の組織化が完了します。夜学の代表であった尹祥源烈士はあえてその代表とはならず、抗争状況を外信記者たちに説明するスポークスマンを買って出ました。
明けて26日、戒厳司令部は同日24時を武器返納の期限とし、応じない場合は翌27日の光州市内侵攻、武カでの道庁奪取を発表。これに対し抗争指導部は当初の方針通り道庁を死守すべく徹底抗戦を決断します。

 

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そして翌27日午前4時。ついに戒厳軍が全南道庁を包囲、最終抗戦が始まりました。
他の市民軍メンバー同様に銃を取り戦った尹祥源烈士は午前5時過ぎ、立てこもっていた道庁民願室(現在は(旧)会議室と呼称)2階にて戒厳軍の銃弾を腹部に受け、まもなく絶命。29歳の短い人生を終えました。戒厳軍による道庁鎮圧後に発見された遺体は、身元確認ができないほど上半身がひどく焼けただれていたとのことです。
写真は生家訪問の翌日に訪れた道庁旧会議室の2階、尹祥源烈士がこの場で亡くなったことを示すパネルです。

この最終抗戦では尹祥源烈士や朴勇準烈士を含む十数名の市民軍メンバーが死亡、その中には投降後の殺害事例も報告されています。それらの遺体はあろうことか清掃車に乗せられて、郊外の望月洞(マンウォルドン)の市民墓地に埋められました。生き残った人々も全員が拘束、収監され、その多くが解放後も後遺症に苦しむほど過酷極まりない拷問を受けています。

こうして10日間の民衆抗争は戒厳軍の暴力鎮圧により幕を閉じ、軍事政権下ではその真相はおろか抗争に言及することさえも制限されましたが、その後の「6月民主抗争」(こちらのエントリーにて紹介)に代表される韓国市民たちの抗争により同年には大統領直選制を、また1993年には初の文民大統領を得て、そして抗争から16年後の1996年には戒厳軍による一連の暴虐の最高責任者たる全斗煥と、その片腕であった盧泰愚(노태우:ノ・テウ、1932-)元大統領を被告席へ追いやることに成功しています。

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こうして長年タブーとされてきた5.18民主化運動は、一転して広く知られ記憶されるところとなり、1997年には尹祥源烈士をはじめ5.18の犠牲者が埋葬された望月洞の市民墓地の隣に「国立5.18民主墓地」が造成されます。写真はその後こちらの国立墓地に改葬された尹祥源烈士と、死後に「霊魂結婚式」(後述します)を挙げた朴琪順烈士の墓石です。

それでは、尹祥源生家に戻ります。

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敷地内にあるこちらの碑は、尹祥源烈士と、死後にその妻となったトゥルブル夜学創始者の朴琪順烈士を称える碑です。菊の花で飾られているのは、後で聞いたところたまたまこの日に烈士の祭祀(チェサ)が予定されていたためとのことでした。
5.18民主化運動、そして尹祥源烈士の死から1年半を経た1982年2月20日、有志たちによって尹祥源烈士と朴琪順烈士の「霊魂結婚式」が挙行され、両烈士は夫婦となりました。「霊魂結婚式」とは一方または双方が亡くなった独身の男女の結婚式のことであり、その後は通常の結婚と同じく、その家族(遺族)は親類関係として縁を結ぶことになります。韓国では全国的に行なわれているとのことです。

 

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碑の隣にある、「ニムのための行進曲」(님을 위한 행진곡 / 임을 위한 행진곡)を説明したパネル。
「ニムのための行進曲」とは、両烈士の「霊魂結婚式」に捧げるため、有志たちにより作られた歌です。「ニム」とは「君、あなた」の意。
歌詞は次の通りです。
※訳詞は、『光州 五月の記憶 尹祥源・評伝』(林洛平著・高橋邦輔訳/社会評論社/2010年)より引用。

사랑도 명예도 이름도 남김없이
한 평생 나가자던 뜨거운 맹세
동지는 간 데 없고 깃발만 나부껴
새 날이 올 때 까지 흔들리지 말자
세월은 흘러가도 산천은 안다
깨어나서 외치는 뜨거운 함성
앞서서 나가니 산 자여 따르라
앞서서 나가니 산 자여 따르라

愛も名誉も名も残さずに
生涯貫く熱い誓い
同志は逝って旗翻る
新しい日まで揺らぐまい
歳月の流れは山河が知る
目覚めて叫ぶ熱い喊声
先に行くから生者よ続け
先に行くから生者よ続け 

1979年のYMCA偽装結婚式事件で逮捕され、5.18民主化運動当時は西大門刑務所(ソウル拘置所)に収監されていた白基玩(백기완:ペク・キワン、1932-)氏が同年12月に獄中で執筆した長編詩『メッピナリ』(묏비나리)の一節を借用、小説家の黃晳暎(황석영:ファン・ソギョン、1943-)氏が歌詞として整えたものに、音楽家の金鍾律(김종률:キム・ジョンニュル、1958-)氏が曲を付けたものです。
軍事政権下では禁止歌であり、その後全斗煥などの訴追により一度は市民権を得て、5.18民主墓地で開催される犠牲者慰霊のための記念式での公式斉唱歌となったものの、李明博朴槿恵の両保守政権下では除外されてしまいます。しかし、今年(2017年)就任した文在寅大統領によって、9年ぶりに公式斉唱歌として復活しました。その報道をご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
この歌は現在、5.18民主化運動を、そして光州精神を象徴する歌として位置づけられており、実際この旅でもいたるところでこの歌を耳にする機会がありました。

 

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尹祥源烈士が幼年期を過ごした生家はその後火災で全焼してしまったため、現在はご遺族が暮らす住宅の向かいに、当時の生家を再現した建物が建っています。正面に掲げられた「海波斎」(해파재:ヘパジェ)とは、烈士の号(正確には「海坡」)から付けられたものです。こちらは自由に入室できます。

 

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室内には烈士の机が再現されるとともに、その生涯を説明したパネル、遺品などが展示されています。

 

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「トゥルブルとともに民衆の中へ…」と題されたパネル展示。写真1枚目左下の女性が、トゥルブル夜学の創立者であり、死後に霊魂結婚式によって尹祥源烈士の妻となった朴琪順烈士です。

 

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尹祥源烈士たちが制作し、戒厳軍の封鎖により孤立した光州において市民たちの目や耳となった『闘士会報』。当時の実物と思われます。この情報によって一体どれだけの人々が救われたのでしょう。

 

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尹祥源烈士の像。

 

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トゥルブル夜学の機関誌とみられる冊子の創刊号。

 

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烈士の肉筆による日記帳も展示されていました。

 

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海波斎の正面には、生前に尹祥源烈士が好きだったメシル茶(梅ジュース)のポットが。誰でも自由に飲むことができます。おいしかったです。

生家を見学している間、一人の男性が私に話しかけてきました。話を聞くと、男性はなんと尹祥源烈士の弟さんであるとのこと。現在は光州ではなく別の離れた街に暮らしており、烈士の祭祀のためたまたま帰省していたそうです。私が日本から来たことなどを拙い韓国語で伝えると、ここを訪問した日本人は2人目(1人目は前述した評伝の訳者の方)だとたいそう喜んでくださり、祭祀用のソンピョンをふるまってくださったのみならず、なんと光州松汀駅まで車で送っていただくことに。光州についてわずか3時間足らずで経験した出会いでした。
ソンピョン、おいしかったです。ありがとうございました。

 

1980年5月26日、全南道庁での最終抗戦の前夜。抗戦メンバーとなった大学生以上の男性たちともに道庁に残り、抗戦に加わろうとした女性や高校生以下の生徒たちに対し、尹祥源烈士はこう語り、帰宅させたといいます。

너희들은 이 모든 과정을 지켜보았다. 이제 너희들은 집으로 돌아가라.
우리들이 지금까지 한 항쟁을 잊지 말고, 후세에도 이어가길 바란다.
오늘 우리는 패배할 것이다. 그러나 내일의 역사는 우리를 승리자로 만들 것이다.

君たちは、このすべての過程を見届けた。もう君たちは家へ帰りなさい。
我々がいままでしてきた抗争を忘れず、後世にも継承するように望む。
今日、我々は敗北するだろう。しかし、明日の歴史は我々を勝利者にするだろう。

尹祥源烈士、貴方がそう語ったように、37年の年月を経て貴方は勝利者となりました。
あの日、貴方は自分たちが未来の勝利者となることを心から信じていたのですか?
だからこそ、死ぬと分かっている戦いに臨むことができたのですか?

 

尹祥源生家は光州広域市光山区の北部、市街地からかなり離れた場所にあります。KTX光州松汀駅からの場合、「光州松汀駅」バス停から<송정(松汀)33>バスに乗り「黒石サゴリ(西)」バス停で下車、同バス停(道路向かい側)<임곡(林谷)89>バスに乗り換えて、生家近くの「チョンドン(光山区)」バス停にて下車すれば生家はすぐそばですが、本数が少ないうえ、<임곡89>については時間もはっきりしないため、タクシーでの来訪をおすすめします。私の場合、地下鉄1号線「尚武」駅から16,400ウォン(約1,600円)ほどでした。

尹祥源生家(윤상원생가:光州広域市 光山区 チョンドンキル 46(新龍洞 570-1))

 

それでは、次回へ続きます。

 

【2017/09/30追記】
尹祥源烈士を含む1980年5月27日早朝の全南道庁での死亡者について「約150名」と記載していたのを「十数名」に修正いたしました。

ソウルの旅[201704_06] - 苛烈な日帝支配を記憶する「西大門刑務所歴史館」、そして旅の締めは太白タッカルビ

前回のエントリーの続きです。

gashin-shoutan.hatenablog.com

「戦争と女性人権博物館」を出て、たまたま近くのバス停で次の目的地を通るバスを見かけたので、それに飛び乗ります。

 

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着いた西大門 (ソデムン)区の峴底洞(ヒョンジョドン)にある首都圏電鉄(ソウル地下鉄) 3号線の「独立門」(トンニンムン)駅。この駅のそばに、駅名にもなっている写真の「独立門」があります。

朝鮮国では1894年から1896年にかけて内政改革運動「甲午改革」を推進しましたが、結果として国の自主独立を成し遂げることはできませんでした。これを受けて市民たちは、民族の独立と自由のためいかなる干渉も許容しないことを誓い、中国の使臣を迎える施設であった迎恩門(영은문:ヨンウンムン)を破壊。独立協会の主導の下、国王の同意を得てその跡地にパリの凱旋門を模して1898年に建てられた花崗岩製の石門が、こちらの「独立門」です。「ソウル独立門」として国の史跡第32号に指定。元々はここからおよそ70m離れた場所にありましたが、道路工事に伴い1979年に現在地へ移転させられています。
アーチの頂点部にある要石には朝鮮王朝の象徴であった李花(スモモの花)が、またハングルによる「둑립문」(独立門)の文字の両側には太極旗が刻まれています。

 

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手前にある2本の石柱は「迎恩門柱礎」。16世紀、朝鮮の第11代国王・中宗(중종:チュンジョン、1488-1544)の代に建てられた迎恩門の柱礎、すなわち柱を支えた底石であり、独立門建設に先立ち破壊された迎恩門の遺構の中で唯一残されたものです。こちらも「ソウル迎恩門柱礎」として史跡第33号に指定され、1979年には迎恩門とあわせて現在地へ移されています。

ソウル独立門(서울 독립문:ソウル特別市 西大門区 峴底洞 941。史跡第32号(独立門)、同33号(迎恩門柱礎))

 

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独立門から5分ちょっと歩くと、写真の巨大なレンガ壁が見えてまいります。
この高い壁に囲まれた敷地が、もうひとつの目的地である「西大門刑務所歴史館」(ソデムンヒョンムソヨクサグァン)です。

 

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その名の通り、かつての刑務所の施設を保存し博物館として開放しているもので、大韓帝国末期の1908年、朝鮮半島を実質支配していた日本の韓国統監府がこの場所に設置した「京城監獄」がその始まりです。その後、日帝強占期中には西大門監獄(1912)に西大門刑務所(1923)、光復(日本の敗戦による解放)後はソウル刑務所(1945)にソウル矯導所(1961)、ソウル拘置所(1967)といくつもの名称変更を経て、1987年の京畿道(キョンギド)義王(ウィワン)市(当時は始興郡儀旺邑)への移転まで80年近くもの長きにわたり監獄として使用されてきた施設です。現存する建物のうち、獄舎3棟と死刑場は史跡第324号に指定されています。
1919年3月1日に発生した史上最大規模の抗日独立運動、3.1運動(3.1独立運動)の際には一挙に890名の独立志士たちが収監された場所です。また韓国の軍事独裁政権下においては左翼人士とされた労働運動家や民主運動家が多数収監されました。

 

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旧保安課庁舎。1923年築、その後解体された建物を復元したものであり、現在は展示館として使用されています。
この展示館は、日帝強占期において日本の支配に抵抗し、独立運動の最中に投獄され、そして処刑された人々についての展示が主となっています。

 

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日帝強占期に収監された人々の顔写真を含む「受刑記録票」(수형기록표)が壁一面に貼られた部屋。現存するものだけでも5千名あまりに及ぶとのことです。 

 

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「義烈闘争」を説明したパネル。本ブログでも頻繁に登場する「烈士」、また「義士」と「志士」のそれぞれの意味について書かれた一文がありましたので、紹介しておきます。

의사 : 목숨을 바쳐 무력척인 행동으로 적에 대한 거사를 걸행하신 분
열사 : 목숨을 바쳐 맨몸으로 적과 싸워 투쟁하신 분
지사 : 나라와 민족을 위해 헌신하고 적에게 항거하신 분

義士 : 命をなげうって武力的な行動で敵に対し事を決行した方
烈士 : 命をなげうって体ひとつで敵と戦い闘争した方
志士 : 国と民族のため献身して敵に抗った方

 

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展示館地下にある取調室と「拷問室」。日本の官憲に逮捕された独立志士たちは、ここで体を逆さまにぶら下げられ鼻に唐辛子粉や水を注がれだり、あるいは尖らせた木を爪の間に刺すなどのひどい拷問を受けました。

 

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同じく展示館地下にある「壁棺」。その名の通り棺桶を立てたようなこの狭い箱の中に長時間閉じ込めるという拷問が課せられました。2~3日閉じ込められた後には、全身の感覚がほぼ失われたそうです。観覧者向けに解放されており、私も実際に入ってみましたが苦痛としか言いようがありませんでした。

 

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中央舎。放射状に並んだ10~12獄舎の接点に位置し、すべての獄舎内が見渡せる構造であるため、看守の見張り台が設置されていました。

 

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12獄舎に残る「墨房」(먹방:モッパン)と呼ばれる独房。分厚い扉と狭く暗い室内。写真2枚目、独房の奥にある小さな窓のようなものは、収監者にとって唯一の便宜施設であるトイレ。外壁にその排出口があります。これだけ見てもいかに劣悪極まりない環境であるかがよくわかります。

 

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先ほどの「墨房」を含め、12獄舎と11獄舎にある監房のいくつかは解放されており、内部に立ち入ることができます。

現存する獄舎のうち12獄舎と11獄舎には、かつてここに収監されていた労働運動、民主化運動の人士たちを紹介するパネルが並べられており、うち何人かはその関連物品も展示されています。これらのうち何人かを紹介したいと思います。

 

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金槿泰(김근태:キム・グンテ、1947-2011)氏。
学生運動から民主化運動に身を投じ、後に国会議員となった人物です。民主化運動青年連合の初代議長を務めた後の1985年8月、ソウル大民主化推進委員会の背後操縦容疑で連行され、その翌月に「南営洞対共分室」(こちらのエントリーで紹介)で23日間もの過酷な拷問を受けて自白を強要され(金槿泰民青連前議長拷問事件)、その後1987年までここ西大門刑務所(ソウル拘置所)に収監されています。その後は拷問の後遺症に苦しみながらも新千年民主党やヨルリンウリ党民主党などの要職を歴任しつつ国会議員を3期、そして盧武鉉(노무현:ノ・ムヒョン、1946-2009)政権では保健福祉部(日本の省に相当)の長官を務めています。

 

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李小仙(이소선:イ・ソソン、1929-2011)烈士。
1970年に劣悪な労働環境の改善を訴えて焚身(焼身)した全泰壱(전태일:チョン・テイル、1948-1970。写真1枚目下の男性)烈士の母です。息子を失った後はその遺志を継ぎ清渓被服労働組合の結成を指導、その後も自ら労働運動の最前線に飛び込み、ここ西大門刑務所(ソウル拘置所)にも収監。その傍らで労働運動家や指名手配者たちを世話したことから「労働者の母」とも呼ばれています。また1986年には自身と同様に労働運動や民主化運動に散った烈士の遺族の団体である「全国民族民主遺家族協議会」(遺家協)を設立、初代会長を務めています。現在は京畿道南楊州(ナミャンジュ)市の牡丹(モラン)公園の墓地で、息子と並んで永遠の眠りについています。

 

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白基玩(백기완:ペク・キワン、1932-)氏。
在野の民主運動家として長年にわたり活動し、1987年と1992年には大統領選挙にも出馬した人物です(87年は途中で辞退)。1979年のYMCA偽装結婚式事件で逮捕され収監中だった1980年12月、ここ西大門刑務所(ソウル拘置所)の獄中で長編詩『メッピナリ』(묏비나리)を執筆。その後、この詩の一節を借用した歌詞に曲を付けたものが、光州5.18民主化運動で亡くなった尹祥源(윤상원:ユン・サンウォン、1950-1980)烈士と、その所属したトゥルブル(野火)夜学の創立者である朴琪順(박기순:パク・キスン、1958-1978)烈士の「霊魂結婚式」のために作られ、現在では5.18民主化運動を、そして光州精神を象徴する歌となっている「君のための行進曲」(님을 위한 행진곡 / 임을 위한 행진곡)です。この歌については近いうちに詳しく紹介したいと思います。

 

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ハンセン病舎。
1923年築。ハンセン病患者の受刑者を隔離するため、一般の獄舎から少し離れた小高い丘の上に建てられています。他の獄舎とは異なり、ここには暖房が設置されていました。とはいえこうした隔離を含め、ハンセン病患者たちが受けてきた差別を考えると、この程度では決して厚遇とはいえないでしょう。

 

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追慕碑。
日帝強占期に独立運動に携わり、ここ西大門刑務所で処刑あるいは獄死した先烈たちを称え追悼するための碑です。碑が器の形をしているのは、民族精神と自由、平和を目指した先烈たちの意思をひとつに集め、未来へ羽ばたく原動力とする意味を込めてとのことです。
2015年には日本の鳩山由紀夫元首相がここで死者を悼むための「クンジョル」(큰절:韓国の祭礼における拝礼。男性は両手を合わせて床につき腰を曲げつつ頭を下げ、女性は両手を額に当てて膝をゆっくり折り曲げつつ座り頭を下げる)をし、それが日本では曲解して報道されたことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。日本では政府の要職経験者だと植民地支配の犠牲者を悼むことすら許さない、という事実が改めて示されたのは記憶に新しいところです。

 

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1923年に建てられた死刑場は、この日は改修中のため見ることができませんでした。その近くに立つ写真2枚目の樹木は「慟哭のミルナム」と呼ばれるミルナム(미루나무:ポプラ)の木で、刑執行のため死刑場へ連行される受刑者の悲痛な叫びを見守ってきた存在であることからこの名が付けられました。

 

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「隔壁場」(復元物)。内部が狭く区切られた扇形をしたこちらの施設は、受刑者たちが屋外運動のとき互いに接触できないように設置したものです。

 

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「女獄舎」。
その名の通り女性受刑者専用の獄舎であり、1979年に撤去された建物を2012年に復元、その翌年に女性独立運動家たちの自主独立精神を称える女性独立活動家展示館として開館したものです。

 

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この「女獄舎」には、地下監獄がありました。地下での過酷な収監状況の再現を、ガラスを通じて垣間見ることができます。

 

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この「女獄舎」に収監された女性受刑者の中でもとりわけ知名度が高いのが、写真の柳寛順(유관순 / 류관순:ユ・グァンスン/リュ・グァンスン、1902-1920)烈士です。西大門刑務所に収監された数多くの人物の中で、日本人に最も知られている人物かもしれません。
1919年3月1日に史上最大規模の抗日独立運動である3.1運動(3.1独立運動)が起きると、このとき梨花学堂高等部の1年生だった烈士はソウルでの万歳デモに参加。4月には故郷の忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョナン)アウネでの万歳デモを主導しますが、これを鎮圧した日本の憲兵により両親を殺害され、自身も逮捕されます。その後懲役3年の実刑を受けここ西大門刑務所に収監される中、苛烈な拷問により17歳の若さで獄死。
これらの写真や絵画を柳寛順烈士の顔だとご記憶の方もいらっしゃるかと思いますが、このときは拷問により顔が腫れ上がっており、実際の顔は大きく異なるとされています。

 

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順路の最後、現在はミュージアムショップとなっている建物はかつての炊事場を復元したものであり、当時使用されていた釜が残されています。

以上で紹介した展示物は、ここ「西大門刑務所歴史館」のごく一部にすぎません。
弾圧の最先端の現場たる刑務所という特異な経歴を持つこちらの施設は、日本が足掛け36年にわたる日帝強占期を通じ一貫して行なってきた苛烈な支配の歴史が凝縮されている空間であり、またこれに抵抗し命を落とした独立志士たちの活動を記憶し、追悼する空間でもあります。
日本社会の構成員である以上は決して目を背けることのできない、知っておくべき歴史の展示がここには数限りなくあります。多くの方が、ここを訪れていただくことを切に願います。

  

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西大門刑務所歴史館」の開館時間は、3月~11月は午前9:30~午後6:00(入館は午後5:30まで)、12月~2月は午前9:30~午後5:00(入館は午後4:30まで)。毎週月曜日(公休日の場合はその翌日)、および1月1日・ソルラル(旧正月。旧暦1月1日)・秋夕(チュソク:旧暦8月15日)の当日は休館日です。入館料は大人3,000ウォン(約300円)。施設内は「死刑場」を除き撮影可です。
首都圏電鉄(ソウル地下鉄)3号線「独立門」駅5番出口が最寄りですが、先に紹介した「独立門」を経由する場合は4番出口の方が便利です。とにかく敷地が広いうえ見どころも多いので、時間に余裕を持ってのご訪問(できれば2時間以上)をおすすめします。

西大門刑務所歴史館(서대문형무소역사관:ソウル特別市 西大門区 統一路 251 (?底洞 101)。史跡第324号) [HP]

 

じっくり観覧したため、外に出たのはすでに入館締切時刻の17時半を回っていました。お腹はすっかりペコペコですが、帰りの飛行機が仁川22時半発であることを考えるとあまり余裕はありません。夕食目当ての店へ急がねば。歴史館前の道は大渋滞していたためタクシーは断念し、独立門駅から地下鉄3号線に乗車します。
6号線に乗り継ぎ「望遠」(マンウォン)駅で下車。この駅のそばには人気のタッカンジョン(닭강정:韓国風鶏の唐揚げ)店などがある名物在来市場「望遠市場」(망원시장)がありますが今回は時間がないのでパス。緑のマウルバスに乗って目的のお店へ向かいます。

 

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到着したのは写真のお店「太白クンムルタッカルビ」。その名からも分かる通り、韓国料理の中でも特に大好物のひとつ「太白(テベク)タッカルビ」の専門店です。
日本でも昨今の「チーズタッカルビ」ブームで一躍メジャーとなった春川(チュンチョン)タッカルビが炒め料理であるのに対し、これとは全く異なるクンムル(スープ)ベースの料理である点が太白タッカルビの特徴。ソウル市内で太白式のタッカルビが食べられる店を探し出して2014年春に初めて訪れて以来、今回が4度目となります。とはいうものの1年半ぶりの訪問と間が空いてしまいましたが、男性の店員さんは覚えていてくださいました。うれしい。

 

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注文したのはいつもと同じ、タッカルビの「中」(3人分)、23,000ウォン(約2,300円)。
太白タッカルビの特徴である広い鉄鍋に入った骨付きの鶏モモ肉を、店員さんが目の前でジョキジョキと切ってくださるという。にわかに食欲が高まります。

 

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まずはやわらかく煮込まれたトック(餅)を食べ、続いていよいよメインの鶏肉へ。ああ、久しぶりの味。超うんまい。ほどよい辛さとコクのあるスープと骨付き鶏モモから出たダシが渾然一体となっています。もう箸が止まりません。ビールとの相性も絶妙です。

 

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具材を粗方食べた後は、まずはサリ(麺)を投入。太白タッカルビにはウドンサリと決めています。
本場・太白では注文時にサリの要否と種類を聞かれ、最初から投入された状態で出てきますが(詳しくはこちらのエントリーにて紹介)、こちらでは他の一般的な料理と同様に鍋あとのオプションとなっています。このあたりはソウルの人の好みに合わせたのかもしれません。
鶏のダシが染みたスープで煮込んだウドン、おいしくないわけがありません。

 

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そして締めはやはりポックンパ。韓国海苔とごま油をまぶしたごはんをスープと混ぜて炒めてもらえます。うんまい。底なしに入りそうです。ポックンパを食べるまでかタッカルビです。

 

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こちらのお店「太白クンムルタッカルビ」ですが、実はこの日 (2017年4月15日)の訪問後、同じ望遠洞内の約600m離れた場所へ移転したとのことです。これにより最寄り駅は前述した首都圏電鉄(ソウル地下鉄)6号線「望遠」駅から同「麻浦区庁」(マポグチョン)駅に変わっています。同駅5番出口から徒歩約12分(約770m)
地下鉄6号線に加え同2号線も通る「合井」(ハプチョン)駅からであれば、同駅1番出口を出てすぐの「合井駅」(합정역)バス停より約6分おきにやって来る<마포(麻浦)16>マウルバスに乗って約15分の「弘益幼稚園」(홍익유치원)にて下車、徒歩約2分(約130m)、または同駅6番出口を出てすぐの「合井駅」(합정역)バス停より5~15分おきにやって来る<7011>バスに乗って約12分の「望遠2洞住民センター」 (망원2동주민센터)で下車、徒歩約2分(約150m)。うち<7011>は明洞や市庁などソウルの中心部も通るので、ずいぶん行きやすくなりました。
「太白クンムルタッカルビ」の営業時間は午前11:00~午後11:00、毎月第4火曜日定休。過去4回訪問した私が全力でおすすめしたいお店です。

太白クンムルタッカルビ(태백국물닭갈비:ソウル特別市 麻浦区 パンウルレ路 53 (望遠洞 436-12))


太白タッカルビでお腹いっぱいになった後は仁川国際空港へ行き、来たときと同じビーチで帰国。とはいえこの便の羽田着は終電が出た後ですので、空港内のベンチで夜を明かして自宅へと帰ったのでした。


2017年4月の仁川・ソウルの旅は、今回で終了となります。お読みいただきありがとうございました。
次回からは、2017年5月の光州の旅をお送りします。

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